2004年05月30日

高遠さんのボランティア活動の評価

僕は、「山形浩生(評論家)氏の「自己責任論」批判」というものの中で「でも調べた限り、高遠氏のボランティア歴はかなりお粗末だし、イラクでの活動もシンナー遊びの若者支援」という文章を批判した。

批判の方法として、具体的な指摘がないので、どのような基準でこのような評価をしたのかが分からないと言う点を批判した。基準を述べないのであるから、本来はその基準を批判しなければならないのに、批判の材料を提出しないと言うある種の議論におけるルール違反をしていることを批判した。

一つの批判として、そこで終わらせても良かったのだが、もっと積極的な批判として、逆に僕が高遠さんのボランティア活動を高く評価する部分を提出することで、このような見方をしなかった山形氏の評価は、ものの見方として浅はかなのでないかという批判をしようと思う。それは、僕の見方の方こそが浅はかなのであるという反批判を呼ぶかもしれないが、このことで意見表明をするというのは、そういう批判を受け止める覚悟で表明するというのがある意味での「自己責任」だとも思う。

この批判がまともなものであればもちろん真摯に耳を傾けるが、聞くに値するものでなければ、それは無視しておく。これもごく当たり前のことで、僕自身も、これまで批判した野口氏や山形氏が僕を無視しても、それはごく当然のことだと思っている。批判した人間のすべてに応える必要はない。耳を傾けるに値すると思った人間だけに応えればよいことだと思っている。ただ、批判されることを覚悟して意見表明をすべきだと思っている。批判そのものをいやがってはいけないと思う。

さて、ここまでで十分長くなってしまったが、あとは字数制限の許す限りで、高遠さんの「愛しているって、どう言うの?」という著書から、僕が高く評価したいと思う高遠さん自身の言葉を引用しよう。それを同じように評価してくれる人は、僕が持っている評価基準と同じものを持っているのだろうと思う。そうでなければ違うと言うことだろう。違う人からの、正当な批判であれば真摯に耳を傾けたいと思うし、共感したというメッセージであれば、喜んでそれを受け止めたいと思う。それではいくつか引用をしよう。

「子供が愛したいと思うのは親で、愛されたいと願うのも親だとすれば、この子供たちはその存在を失ってしまったのだ。なのに、笑顔。やさしい、笑顔。そして、それは私を癒した。」(まえがき 6ページ)

この感覚は、夜間中学の映画「こんばんは」を撮った森監督の感覚に通じるものとして僕の目にとまった。森監督も、夜間中学を訪れると、仕事のことやプライベートなことで落ち込んでいた気分が癒されると言うことをよく語っていた。自分が何かをしてあげたいと思う対象が、逆に自分のために癒してくれるという「何かをしてくれる」存在でもあると思える感覚は、高遠さんのボランティア活動を「自己満足」という欺瞞から救い出してくれる感覚ではないかと思って、僕は評価したいと思った。僕の好きな弁証法の言葉で言えば、相互浸透が出来る感覚とでも言おうか。これは、相手を人格的には対等であるととらえる感覚でもあると思う。まず基本的な姿勢を評価したい。

「親子で物乞いをし、路上で母親に抱かれながら眠る子供と、食べ物と服と寝床には困らないこの孤児たちと、どっちが幸せなんだ?」(第1章「インド・カルカッタ」60ページ)

この引用は、高遠さんの問題意識の高さ・深さを物語るものとして僕には見えた。物質的な豊かさと、精神的な豊かさは、どちらの方が人間にとって価値があるかという問題に通じるものだと思った。このようなことを全く問題として感じない人は、物質的な豊かさを単純に幸せだと感じていられるかもしれない。しかし、宮台氏的な言い方をすると「超越系」という風に言っていたが、何か存在を越える価値観を求めずにはいられない人々が、このような問題意識を持つのではないかと思う。

このような問題意識を持つ人は、私的なものよりも、公的なものに生きる意味を見いだす人が多いものだ。「自己満足」の要素が全くないとは言わないが、それだけでは行動の原動力にはならないだろうと思う。ボランティアというものに携わる人間は、究極的にはこのような問題意識が絶対に必要だと僕は感じた。物質的に豊かになりさえすれば、自分の善意は伝わったと単純に考えるのは違うのではないかと思う。そういう意味で、この言葉を高く評価したいと思った。

「JICA(国際協力事業団)にも問い合わせてみた。彼らは言ってみればプロだ。情報も確実に入っていることだろう。“二次感染で病気になって、かえって向こうで迷惑をかけるようなら行かない方がいい”と彼らは言った。まさにその通りだ。ミイラ取りがミイラになってしまっては、お話にならない。そして私たちには特別なスキルがない。」(第3章「西インド大地震」103ページ)

この言葉は、地震の援助に行こうと思ったときに考えたことを綴った言葉だ。高遠さんを非難するときに、「自己満足」という言葉が使われたようなので、そのような評価とは全く正反対のことを思わせる言葉として、僕には目にとまった。何かをしたいという自分の思いにとどまることなく、それが客観的に見て、あまり役に立つものでなければ、手を出さないことこそが正しいという判断が出来る人だと言うことで、この言葉を評価したいと思う。

高遠さんの活動は、自分の思いを相手に押しつけるものではなく、相手から得られる「癒し」というものを報酬として、どうしたら相手に本当に感謝してもらえるかを考えたものだと僕は思う。  

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2004年05月23日

「自己責任論」批判 決定版 その4

「サイゾー」6月号において、宮台氏は、本質論からその周辺まであらゆる部分に渡って、「自己責任論」批判の決定版を語ると言っていた。その部分を見ていこう。まずは、人質への救出費用の請求の問題だ。宮台氏は次のように語る。

まずは冬山登山の遭難に関して、遭難者に請求される費用に関して、それが請求されるようになったのは、「自分が拠出した金の使い道をコントロールしようとする意識の高揚という点で、タックスベイヤー意識の向上にもつながる」と評価している。それは、ずさんな計画に対しては、責任を取らせるという意味での、使い道を考えようと言う意識だ。どんな事態であっても、遭難したのだからかわいそうだと言うことにはならないという意味での、「意識の向上」だ。

しかし、それが、今回の人質事件では、すぐに「人質たちにも費用を請求すべきだ」とはならない。それは、使い道を考えた上で出す結論だからだ。そこのあたりの論理を宮台氏は次のように語っている。

「歌舞伎町が危険だと知って出かけて犯罪にあう場合、「危険と知って出かけた以上、自己責任だから費用を払え」という議論は、普通出てこない。寝たばこで失火した場合もそう。なぜか。要は「明日は我が身」の立場可換性が想像されるからだね。アダム・スミスが「道徳感情論」で言う「テオーリア(観照)的態度における同感可能性」や、ロールズの「無知のベール下での態度」に相当する。立場可換性や同感可能性を支えるのがコモンセンス(共通感覚)。
 ヒューマニタリアン的動機に基づく海外活動について、「今回は行けなかったが、自分もいずれは行くだろう」「私も本当なら行きたかった」「周囲に行っている人が多数いる」という共通感覚があれば、「費用を払え」はあり得ない。つまりこの場合の民度とは、共通感覚に基づく同感可能性・立場可換性のことなんだ。」

宮台氏は、「かつては冬山登山の遭難者にずさんな振る舞いがあっても、さして非難されなかった」と、この文章の前に語っている。それは、「遭難してかわいそうだ」という同感可能性があったからだろう。普通の人は登山のことなどあまり知らないから、遭難するのは、やむを得ないことで、危険がいっぱいのことに挑戦しているのだから、それは仕方がないのだと受け取っていたのだろう。

しかし、中には非常にずさんな準備や計画で、無知によって遭難したという例が知らされるようになると、「遭難してかわいそうだ」という同感可能性が薄れてくる。そんな無知なヤツが厳しい山へ行くことが間違いなのだという感覚が生まれ、遭難した人間との立場可換性が生まれてこなくなる。そうなると、自分で責任をとれということになってくるのだろう。

今回の人質の場合は、この同感可能性と立場可換性が生まれなかったことが、人質たちに救出費用を払えという声が挙がったことの原因だと宮台氏は分析している。「共通感覚があれば、「費用を払え」はあり得ない」と語っている。なぜなら、人質たちは、ずさんな計画で冬山登山をしたのと同じではないからだ。

冬山登山なら、専門家はたくさんいるし、どうするのが定石なのかが分かっている。それに比べてずさんかどうかという判断をすることが出来る。しかし、今回のイラクでの拘束に関しては、どういう準備・計画をするのが定石かというのはなかったのだ。しかも、自衛隊の派遣によって危険が増しているのであって、彼らの責任で危険を招いたのではない。

このようなことに関する同感可能性や立場可換性を感じる気持ちがあれば、「共通感覚があれば、「費用を払え」はあり得ない」と言うことになるのである。結果的には、共通感覚がなかったので、「費用を払え」の大合唱になったわけだ。それでは、なぜ共通感覚がなかったのか?それに対しては、宮崎氏が次のように分析していた。

「そう、結局、ヴォランティアやジャーナリズムが、この国では重視されていないんです。特に個人やフリーでやっていると、趣味以外の何ものでもないと看做される。おカミや会社の「仕事」や「用」だけがパブリックで、いかに公的な動機に駆動されてやっていたとしても、個人でやっている限り私的趣味なんですね。私的趣味で、おカミやお役人様に迷惑をかけ、血税を無駄に浪費させて、まことにケシカランと言うわけですね。欧米とは「公私」の観念が逆になっている。
 ただし、日本的なコンテキストを解説すれば、人質連中は「自分探し」というウルトラ・ブライヴェートな理由でやってる自己満足野郎だろ、と言うふうに見えてしまう。実際、彼らの甘さ、未熟さは覆いようがない。しかし、リベラリズムが可謬性を前提とする価値である以上、少なくとも公的に彼らの「愚かさ」を非難することは出来ないはずです。」

佐高信氏は、会社から自立できない会社人間を「社畜」と呼んだが、そういう人間は、自らの尊厳を保つためにも、「仕事でやる人間の方が偉い」と思わないではいられない。仕事ではなく、個人的な理想で動いたりする人間の方が偉いとなったら、会社のために滅私奉公する人間はいなくなってしまうと恐れを抱いているようだ。会社に人生のすべてを捧げさせるためには、そのような価値観を国民に持たせないとやっていられないだろうと思う。その日本社会の、会社中心主義のような弊害が、見事にこの人質バッシングでは現れていたのではないだろうか。

会社から自立できない人間が多いというのは、日本人の生き方の中に、主体性を育てるという機会が極端に少ないからではないかと僕は思う。自己決定をするという機会をほとんど奪われて成長するような気がする。

まだ能力の低い子供の時代は、いろいろとやってもらうことが多いので、自己決定が出来ない場面があっても仕方がない。しかし、ほとんどすべて親に当たる存在が決めてしまい、それをいつまでも続けるのが日本人の育ち方の中にあるような気がする。

親との関係も、どちらかというと支配されるという感じを受けるが、学校での子供の存在も、自己決定の場面はほとんどなく、判断は指導する側(教員)にほとんどゆだねられている。たとえ疑問を抱いていても、疑問を抱くことがいけないとされることがなんと多いことかと思う。もしも主体性を育てる教育をしようと思うなら、子供の判断がたとえ間違っていようとも、疑問を持ったことを自分の頭で考えて、結論が間違っていることを自らが知るような経験をして成長させなければならないと思う。

学校教育の場面では、子供の疑問の方が正当性があっても、権力によってそれが押さえられて、自分が考えるよりも、権力に従う方が正しいという場面が展開される場合が多い。意味のない校則に従うと言うことはこの最たるものだろう。これでは主体性が育つはずがない。「社畜」を育てるにはまことに都合のいい教育だが、人質たちとの共感可能性は持てなくなる。今回の人質バッシングは、このような日本社会の問題も鋭い形でクローズアップしてくれたのではないだろうか。  
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2004年05月22日

「自己責任論」批判 決定版 その3

「サイゾー」6月号の宮台氏と宮崎氏の対談によるこの「決定版」に、宮台氏の次の発言がある。

「まず、事実関係としての前後問題がある。以前から国会で問題になっていたんだ。ペシャワール会の中村哲氏が、米国のアフガン攻撃を支援するテロ特措法の衆議院審議に参考人として呼ばれて「日本が米国に追従すれば、現地に入ったNGOの人々の命が危険にさらされる」と発言したし、米国のイラク攻撃を支援するイラク特措法の衆議院審議に呼ばれた放射能研究者の藤田祐幸も同意見を述べている。自衛隊が行く前から現地で活動する人間はたくさんいるわけ。人質になった高遠菜穂子さんも、自衛隊派遣のずっと前から現地で活動してたしね。こうしたNGOの人々の命を危険にさらすのが所属国の軍隊派遣だというのは国際常識で、それを知りつつ「あえて」軍隊派遣した国民的決定の自己責任こそが問われるんだよ。」

ここで語られている「こうしたNGOの人々の命を危険にさらすのが所属国の軍隊派遣だというのは国際常識」だと言うことがよく分かっていない人がたくさんいるのを僕は感じた。人質たちを批判する人の中には、人質たちの危機管理の問題と自衛隊の派遣とは違う問題だから一緒に論ずるべきではないと考える人が多いようだが、これは、論理的つながりのない問題ではないのだ。これがつながっているのが「国際常識」なのだと言うことがよく分かっていない人が多い。

この二つは、確かに文字の上では異なっている。別々に切り離して論ずることが出来るだろう。危機管理として、危ないことが分かっていたのにその対処が足りないなどという批判が出来るのは、これを切り離して考えることが出来る場合だ。しかし、自衛隊の派遣によって、より危険が増して、今まで行っていた活動が出来なくなっているとしたら、その危機管理は、自衛隊派遣をした側にも責任が生ずるというのが「国際的常識」なのだ。

この「国際的常識」が理解できない人間は、自衛隊の派遣が危険の増大に結びついてくるという論理的なつながりが理解できないのだろう。それは、「観念論的妄想」というものがあるせいだと僕は感じている。その具体的な中身は、「自衛隊の人道復興支援」という観念の中にしか存在しない「妄想」が、実際に現地で行われていると思い込んでいるから、自衛隊の派遣によって日本人そのものが恨まれたりするはずがないと思うから、自衛隊の派遣によって危険が増大すると言うことが理解できないのだろう。

「観念」というのは客観的に存在するものではない。脳の働きによって生まれた、実体のない存在だ。その観念が描いた「像(実体ではなく、存在を模倣したようなもの)」と結びつく実体が、実際に現実に存在するのは、観念が現実を正しく反映したときだけなのである。反映ではなく、想像で加工したものは、現実には存在しない。それは「観念論的妄想」になるのである。

たとえば、柳の木に引っかかった洗濯物が羽ばたくのを暗がりでみたときに、現実の正しい反映だったら、観念の中に「洗濯物が揺れているな」という象が生まれる。しかし、これを「お化けがそこにいる」という観念が生まれたら、それは「観念論的妄想」なのだ。「お化け」などという存在はそこにはないからだ。

自衛隊の働きが形としては本当に「人道復興支援」で、米英の占領軍のように軍事的な弾圧でなかったら、「観念論的妄想」にならずに、現地の日本人が危険にさらされないかというと、それもまた難しい。現地の日本人が危険になるかどうかは、イラク人がそれをどう受け取るかと言うことがもっとも重大な問題になる。たとえ実際に「人道復興支援」だったとしても、当のイラク人が「アメリカの占領に加担している」と見ていたら、日本人も敵だと言うことになる。

日本人の頭の中に、「自衛隊は人道復興支援をしている」という観念があっても、それをイラク人が、同じように受け取っていなければ、それは「観念論的妄想」になってしまうのである。そして現地の日本人が危険にさらされることになる。

マスコミの宣伝では、サマワでは自衛隊が歓迎されているというニュースばかりが流れてくる。だから、そのニュースしか見ていない人間は、「観念論的妄想」が生まれてきても仕方がない面もある。しかし、今一度自分の無知を自覚して、他の情報を求めて欲しいと思う。昨日の日記でも紹介したとおり、それはサマワ市民の大いなる勘違いだ。サマワ市民にも「観念論的妄想」がある。だから歓迎しているのだ。立花氏が言うように、その勘違いに気づいたときに現実に直面することになる。

立花氏が、高遠さんの仕事を高く評価していたのは、イラクの人々の本当の声を記録していたからこそそれを評価したのだ。これがジャーナリスト・センスというものだ。政府の立場からの発表をそのまま垂れ流すマスコミ記者の感覚では、そのような評価は出来ない。それでは、月刊「現代」6月号から、立花氏の記事からの孫引きの形で、自衛隊の人道復興支援が、いかに日本人の頭の中にある「観念論的妄想」であるのか、その証拠を見てみよう。

「自衛隊が来て、物資の輸送や水や食糧の供給をすれば、我々の得るはずの仕事がなくなる。この国は貧困で困っているわけでも人手が足りないわけでもないのだ。とても裕福な国だけれど、今する仕事がないのだ。我々は我々の手で立て直すことが出来るのだ。またアメリカの要請でくるべきではない。イラク政府(が出来たら)の要請でくるなら分かる。」(産婦人科外科部長の声)

「日本の自衛隊はくるべきではない。まずこれはアメリカによる罠である。なぜなら、日本人がアーミールックでいるならば米軍と一緒と見なすであろう。物資の輸送や水の供給は日本人がやるべきことではない。我々は自分たちでやるべきなのだ。我々は今仕事が必要なのだ。俺たちの仕事を取るようなことになる。日本人はよい人たちなのに、なぜアメリカの見方をするのだ?」(病院付近の住人)

「イラクで一番の戦闘地域でインタビューをしたとき、こういったイラク人がいました。「日本の自衛隊?シロウトだろ?やめとけ。殺されるのがオチだ。」以前にもここに書き込みましたが、軍服を着た者はみな占領軍と見なすと、彼らは言っています。占領軍とは米英軍です。フセインの残党のような言い方をされていますが、ほとんどはそうではありません。普通の人たちです。派閥を越えて、反米という名の下に団結をしているのです。(それを陰であおる外国人グループがいるのも事実ですが、基本的にアメリカ人の強引なやり方にうんざりしているのです)」(高遠さんの言葉)

これらの高遠さんの報告をすぐには信じられない人もいるだろう。批判するのは自由だ。しかし、批判するのなら、その反対の証拠をちゃんと提出しなければならない。高遠さんは、実際にイラクに行って、自分でこれらの声を集めて発信している。だから、それに反対し、批判したいと思うなら、やはり現時の実際の声を集めてくる必要があるのだ。それは自分でやらなくても、誰かがやったものを引用してもいい。しかし、そのような確かな証拠もなしに、上の報告を否定するのなら、それはそのような論理を展開する人間の、論理に対する無知と無教養を語っているだけだ。

イラクの人々は、日本の自衛隊を米英軍と一体化してみている。勘違いしているのは、直接の利益がもたらされるサマワ市民のごく一部だけだ。この観念論的妄想がいかに危険かというのは、アメリカに対するイラク人の見方が次のようなものであることを見れば一目瞭然だ。

「「米軍は解放者」と見るイラク人、7%に急落」

イラク人の多くは、

「米国を解放者と見る国民は半年前の調査で回答者の40%強だったのが、わずか7%。さらに「米軍が今撤退すればより安全になる」と答えた人は4割以上にのぼった。」

と報告されているような状況なのだ。

自衛隊は米英軍と一体化されてイラク人には見られている。米英軍に対する感情が自衛隊にも重ねられている。そして、その感情が日本人自身にも向けられているのだ。だから、自衛隊の派遣が、イラクにいる日本人たちの危険を増大させたのである。だからこそ、いっそうの厳しい危機管理を強いられることが生じてきたのである。それまでの危機管理以上の厳しさを要求する原因を自衛隊の派遣が生み出したのである。危機管理を、自衛隊の派遣と切り離して論じることの詭弁が分かっていただけただろうか。人質たちの危機管理が足りなくなったことの責任は、自衛隊を派遣した政府が負うべき部分があり、その政府を支持した国民が負うべき部分があるのである。

それがどの範囲まで責任を負うのが妥当かというのは議論をしなければならないが、その責任がないと主張することは出来ないのだ。危機管理のすべてを人質たちにかぶせる「自己責任論」は、この意味で、政府の「無責任論」になるのである。  
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2004年05月20日

「自己責任論」批判 決定版 その2

<その1>の紹介では、日本社会の持っている「公私」の概念の狂いが人質バッシングを増加させたという宮崎氏の論評を紹介した。これは、正しくとらえられていたら、人質たちのミスも正しく批判できただろうと思うが、それが狂っていたために、正しく批判するよりも、単にたたいて潰してしまえという力が働いたように僕には感じた。

宮崎氏は、この対談の冒頭でも「国家理性や国家原則を顧慮する姿勢がまるでない」と、人質擁護派も批判派もともにその欠点を指摘している。ということは、宮崎氏自身は擁護派でないはずだ。僕には、中立的な立場で論評しているように見える。しかし、批判の度合いは、政府を始めとする「自己責任論」を言い立てる「批判派」の方をより強く批判している。僕も似たような立場で、人質たちを擁護したいわけではなく、正当に批判するべきだと主張している。つまり、今の批判は全く正当でなく、言いがかりのようなものだと批判しているのだ。ところが、その立場は、なぜか人質擁護派になってしまうようだ。論理というものを理解する人間がなんと少ないものかと思う。

それでは、宮崎氏の言う「国家理性」や「国家原則」というものを、宮崎氏自身の言葉を引用して考えてみよう。

「この場合の国家理性とは何か。言うまでもなく「その人間の属性の如何にかかわらず、日本国籍を有する人間は最大限救出、保護する」です。そしてもう一つ、「脅迫行為によっては、国策を寸毫も変更することはない」です。この当たり前を当たり前として貫く自身がないから、「自己責任」論などというわけの分からない、虚偽の論点について、猿(ましら)のごとくにけたたましく騒ぎ、こづきあい、絶叫しあうことになる。愚の骨頂とはまさにこのこと。」

全く明快な論理で、このことが常識になっていたら、人質事件もまともな論評が出たことだろうと思う。「政府にたてついた人間は助けなくてもいい」などという妄言は、さすがに無教養な人間からしか出てこなかったが、救出・保護するのが当たり前なのに、あたかもたいへんに恩恵を与えたかのように言い立てるのは、この国家原則を知らない無教養をさらけ出しているに等しい。

そして宮崎氏が指摘するもう一つの問題、「脅迫行為によっては、国策を寸毫も変更することはない」ということも、これを当たり前のこととして主張すればいいのであって、人質の責任論と絡める必要は何もなかったのである。これも、宮崎氏が指摘するように、「当たり前を当たり前として貫く自身がないから」、世論の目をそらすために論点のすり替えをしたのだろう。これも無教養の表れだ。

ただ、宮崎氏のあとの指摘については、僕も最初勘違いしていた部分があったので、自己批判をするためにももう一度深く考えてみたい。僕は、「小泉内閣は」自衛隊の撤退など出来ない、というふうに受け取って、今回の事件で撤退はあり得ないだろうと考えていた。つまり「小泉内閣」という条件付きで「撤退があり得ない」と考えていたのだ。しかし、これはかなり一般論として語れる論理だと言うことを宮台氏が明快に指摘している。

「「一私人が人質に取られた」は撤退理由には絶対になり得ない。なぜか。「一私人のどうたらこうたら」のリスクを織り込み済みで派兵決定した「はず」だから。仮に「一私人のどうたらこうたら」で兵を引いたら、「おまえら、そんなことも考えないで出兵したのか」と国際的な恥辱となる。」

小泉政権は、アメリカ追従をしていた政権であるから、その小泉政権だったら、追従の意志を貫くために撤退はあり得ない。これも一つの真理であるとは思うが、この場合の宮台氏が語る撤退があり得ないという論理は、小泉政権のように、アメリカ追従ではなくても、一度派遣を決定したら、その決定の責任として、「この事件(脅迫)」での撤退をしてはいけないという論理だったのだ。もし、形として民主主義的に多数の意見で派遣を決定したのなら、この事件で撤退したら、その決定に対する無責任を批判されなければならないからだ。

上の論理は、人質たちに対してはかなり厳しい論理かもしれない。しかし、論理というのは普遍性を持つものであるから、人質たちの条件の如何にかかわらず、成立せざるを得ないものだと思う。感情的に反発する人はいるかもしれないけれど、政府の側が上のように説明していたら、論理的には間違いはなかったと思う。政府の側に、宮崎氏や宮台氏のように、論理的センスの水準の高い人がいなかったのだろうか。

このほか、まだこの「決定版」は深い内容を語っている。イラクに自衛隊を送ることが、どうしてNGOやNPOを危険にさらすのかという論理についても語っている。人質たちを批判する人間は、危険になったことと自衛隊派遣の関係性を認めないものが多いように僕は感じているけれど、これは時間的な因果関係があるだけでなく、論理的な因果関係のある事柄なのだ。また次回紹介しよう。  
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山形浩生(評論家)氏の「自己責任論」批判

「自由には必ず責任伴う」

と言う「自己責任論」を見た。僕は、山形浩生氏という人がどんな人なのかは全く知らないが、この文章からは、野口健氏の「自己責任論」をさらに上回る強者の論理を感じる。強者の論理は、それを信奉する人たちからは全く正しい論理のように見えるだろう。しかし、これはそれを適用する対象が、強者の論理を適用するにふさわしい対象であるときだけ正しくなる論理なのである。

なぜか今の日本では、自分が強者であるいわゆる「勝ち組」にいると思い込んでいる人が多いようだが、強者の論理は、「負け組」に入る人間は、自助努力が足りないのだから見捨ててもいいのだという論理だ。強者のみが参加する場面でなら、このような論理を使うことにも意味があるが、社会というのは、強者だけが生き残ればいいという弱肉強食の世界ではない。

弱者というのも、ある価値観や基準から見たら弱者に入るというだけに過ぎないのであって、価値観や基準を変えれば、その存在する意義というのを理解することが出来る。いろいろと多様な人々がいて、社会はバランスを保っているのである。「ビリっかす、向きを変えれば一番だ」という格言がある。このような感覚で、他者を受け入れる社会が、多くの人が生きていて幸せを感じる社会だろうと思う。ある基準でビリっかすになった人をたたくのが正しいという強者の論理を社会に適用すれば、それは多くの人にとって生きにくい社会になるに違いない。

このことを前提として、山形氏の文章を逐一批判していこう。まずは次の部分だ。

「ぼくはイラク邦人誘拐事件で、人質たちの自己責任の否定論に驚いた。」

これは山形氏の文章の始まりの部分だが、僕は、山形氏が「人質たちの自己責任の否定論」と断定したことに驚いた。何を根拠にこんなことを言っているのだろうか。僕は、彼らの記者会見を、繰り返し7,8回は聞いている。それなのに、彼らが、「自分たちには責任がなかった」という意味のことを語った部分を思い出せない。

2004/4/30の読売新聞によれば、郡山さんは、「若干、甘さがあったと思う」と語ったという記事が出ている。これは、「自己責任の否定論」だろうか。僕が何回も記者会見を聞いた印象では、彼らが否定していたのは、政府主導によるばかげた「自己責任論」の否定だった。そういう意味での自己責任論は、彼らには当たらないという答として僕は受け取った。だからこそ、彼らは、本当の責任はこういうことだと思う、と言う気持ちを述べたのだと、僕は受け取った。それのどこが「自己責任の否定論」なのだろうか。

山形氏が、実際に、彼らの言動のこの部分がそう受け取れるのだという事実を提出しない限り、僕は、この部分は、山形氏の言葉の受け取りの間違いか、自分に都合のいいように言葉をすり替えたのかのどちらかだと思うだけだ。批判できるような言葉にすり替えておけば、批判は簡単に出来るからである。

山形氏は、自分の印象だけではなく、きちんと事実を提出して批判すべきである。人質たちは、どこで「自己責任の否定論」を語ったのか。一言一句間違いなく、人質自身の言葉を引用して証明すべきである。単なる印象で、このように重大な部分を断定するのは、言論を発する人間として無責任ではないのか。

「それを無視した自己無責任論は、どんな高尚な理論に基づこうと説得力はそもそもまるでない。」

これも具体的な指摘が何もない印象批判にしか過ぎない。この文章の前は一般論を語っているだけで、分かり切った真理を語っているだけだ。では、人質たちのどの行為で、「それを無視した」と判断したのか?これも、事実を正確に指摘して批判すべきである。事実の指摘なしに批判だけを述べても、それは、最初から人質たちに偏見を持っている人間にしか通用しない論理だ。

人質たちは、具体的に何を無視して、自分たちの責任がないことを主張したのか。どこが「自己無責任論」になっているのか。具体的な指摘なしに批判が成立すると山形氏は思っているのだろうか。抽象論さえ正しければ、具体的な批判の正当性を保てると思っているのだろうか。抽象論の正しさは、抽象論を批判するときにしか正当性の根拠にはならない。具体的な行為の批判は、具体的な指摘をしない限り正当な批判にはならないのだ。

「そして社会のプールは有限だから、真に有用な活動のために温存しよう。自己努力をさぼってプールを浪費したがる個人は拒絶するか、プールの目減り分の一部負担を要求するのが正しい社会運営だ。」

この部分は、一つの見解として成り立つかもしれない。しかし、これこそが僕には強者の論理に見える。「自己努力をさぼってプールを浪費したがる個人」というのは、どういう基準で判断するのだろうか。その基準は常に正しいのか。僕にはそうは思えない。一見したら、浪費をしているだけの遊び人に見えるような存在が、社会にとってどれだけ大事かということも、論理的にはあり得るのだ。

たとえば、山形氏が、障害者福祉のことを語ったら、どのような意見を述べるだろうか。それに対しては、強者の論理を使わずに、弱者をいたわるようなことを言うだろうか。論理というのは恐ろしいものである。それは普遍性があるから、すべての場合に渡って、「論理的強制」というものが起こる。強者の論理を使う人間は、その自覚がないと、常に強者の論理でものを考えてしまうことになりかねないのである。だからこそ、僕は強者の論理を批判する。

「今回の場合、責任ってのは十分な情報収集と装備と安全態勢確保、できれば保険でしょう。ところが人質の皆さん、何一つやってなかった。事後のプールの補填(ほてん)も小銭程度。社会制度の乱用もいいとこだ。」

「十分な情報収集と装備と安全態勢確保」を語るなら、まずその基準をどこに置くか、自分の見解を述べるべきだ。基準がなければ、責任を問えるだけのものなのかどうか、どこで判断すればいいのかが分からない。基準を述べずに、山形氏はどこで判断しているのだろうか。「十分な情報収集と装備と安全態勢確保」が出来なかったというのは、自明の事実なのか?どうやって証明できるのか?責任を追及するのなら、その証明が先だ。

保険については、保険をかけなければ外国へ行くことが出来ないと言う規則でもあるのだろうか。保険をかけなかったことが何かの義務違反なのだろうか。責任というのは、何らかの義務違反に対して問わなければならないのではないだろうか。「事後のプールの補填」というのは、救出にかかった費用のことを指しているのだろうが、それを人質たちが負担しなければならない根拠というのを何も提出していない。それは自明のことなのか?

それを自明と思い込むことこそが強者の論理なのだ。山形氏が語ることで自明なことなど何一つない。すべて証明しなければならない事柄なのに、証明をしなくてもいいと思い込んで文章を書いているように見えることが一番の問題だ。これは、最初からこの論理を受け入れる人間にしか説得力を持たない。僕には、何一つ賛成できない論理だ。

「かれらの活動が立派だから非難するな、という人もいる。」

これは、そういう人間は大いに批判した方がいい。立派だから責任がないなどとは全く言えないからだ。責任というのは、立派だろうが立派でなかろうが、その行為によって判断されるもので、人格によって責任が無くなるものではない。しかし、本当に批判すべきこのような人に対しては、言及はこれだけだ。なぜもっと批判しないのか。

「でも調べた限り、高遠氏のボランティア歴はかなりお粗末だし、イラクでの活動もシンナー遊びの若者支援。今井氏の目的は劣化ウラン被害ネタの絵本づくり。でもそんなのイラクでなくても十分取材可能だ。残りの3人も、ジャーナリズムとNGOの特権幻想にあぐらをかいた功名狙いにしか思えない。どれもイラクへの直接的なメリット皆無。これに敬意を示せだの大目に見ろだの主張するのは、あまりに苦しい。」

これは、山形氏が思っているだけならそれは思想・信条の自由だが、公の場で公言するとなると、この言葉には責任を持つ必要がある。「お粗末」というのは、客観的に証明できるかどうか分からないが、それが妥当性を持っていると証明できなければ、誹謗中傷になる。そうなれば、当然言論の責任を取らなければならないということを指摘したい。「シンナー遊びの若者」という言い方は、かなりの差別的な言い方に僕には感じる。「劣化ウラン被害ネタの絵本づくり」というのも、正しい指摘だと自信を持って言えるのだろうか。

「でもそんなのイラクでなくても十分取材可能だ。」と山形氏が思うのは自由だが、それを今井君に押しつける権利は山形氏にはない。山形氏は、こう主張することで何が言いたかったのだろうか。「残りの3人も、ジャーナリズムとNGOの特権幻想にあぐらをかいた功名狙いにしか思えない。」という言葉も、思うのは自由だが、公的な場で発言する言葉だろうか。「思う」という言葉を使って、「事実」として語っていないので、何とか逃げ場を作っているが、この「思い」が間違っていたときは謝罪するのだろうか。「特権幻想にあぐらをかいた功名狙い」というのは、証明できる「事実」なのだろうか。

こういう言葉は、私的な会話の中で漏らされるのなら、その責任を取る必要はない。しかし、たとえ市井の個人であろうとも、インターネットでこのような言葉を表明すれば、その表明した言葉に対する責任が生じる。ましてや、asahi.comというような媒体で語る山形氏の言論人としての責任は非常に重いと僕は感じる。

「そしてもっと大きな問題。自己責任否定論者は、それがその責任の裏返しの自由を否定しかねない議論だとわかってるの?」

山形氏は、政府が主導したばかげた「自己責任論」批判と、自分には責任がないという「自己責任否定論」との違いを分かっているのだろうか。「自己責任否定論」者は大いに批判したらいい。それは、全く非論理的なのだから。しかし、誰を指して、「自己責任否定論」と言っているのだろうか。人質たちを指してそういっているのなら、その判断が正しいことをやはり証明しなければならないのだ。

「自己責任否定論」などという抽象的な対象をいくら批判しても仕方がない。このようなばかげた主張は、抽象的にでさえ否定されるようなものだ。問題は、誰がそれを語っているかと言うことなのだ。山形氏は、誰がそれを語っているというのだろうか。

「この期に及んでイラクに出かけていったトホホな元人間の盾の人がいる。自己無責任論を主張するなら、あの人物を邦人保護の観点から国が責任をもって拘束しろ、という議論は十分に成り立つのだ。」

山形氏は、ここで特定の人物を指して、この人物が「自己責任否定論」を語っていると主張しているのだろうか。この人物が、具体的に何を語って、どの言葉を「自己無責任論」と判断したのだろうか。具体的な指摘がなければならない。それとも、イラクに行ったと言うことが、「自己無責任論」の証拠だというのだろうか。「論」というのは主張しなければならないことではないのか?行動を「論」と、山形氏は呼ぶのだろうか。

「そしてNGOだから大目に、と主張する人々は、それが他のすべてのNGO活動をおとしめ、国民の支持を失わせる主張だと理解しているだろうか?」

これも、そう主張している人間は大いに批判してやればいいのである。しかし、誰がそう言っていたのかと言うことをはっきりさせなければ、批判としては中途半端である。単に抽象的な真理を語っているだけにしか過ぎないのだ。

山形氏は、結局最後まで抽象論しか語っていない。批判をするのなら、具体的に誰のどこを批判しているのかが分かるように書かなければ、これはアンフェアであり、僕は卑怯なやり方だと思う。  
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2004年05月19日

「自己責任論」批判 決定版

昨日発売の「サイゾー」6月号に、宮台真司氏と宮崎哲弥氏の対談が掲載されている。ここでは、「自己責任論」批判の決定版を語ると、宮台氏は予告していたが、予告通りの見事な論理展開をしていると僕は思った。

批判のポイントの決定的な点は、宮崎氏の次の言葉だろうと僕は思った。

「そう、結局、ヴォランティアやジャーナリズムが、この国では重視されていないんです。特に個人やフリーでやっていると、趣味以外の何ものでもないと看做される。おカミや会社の「仕事」や「用」だけがパブリックで、いかに公的な動機に駆動されてやっていたとしても、個人でやっている限り私的趣味なんですね。私的趣味で、おカミやお役人様に迷惑をかけ、血税を無駄に浪費させて、まことにケシカランと言うわけですね。欧米とは「公私」の観念が逆になっている。
 ただし、日本的なコンテキストを解説すれば、人質連中は「自分探し」というウルトラ・ブライヴェートな理由でやってる自己満足野郎だろ、と言うふうに見えてしまう。実際、彼らの甘さ、未熟さは覆いようがない。しかし、リベラリズムが可謬性を前提とする価値である以上、少なくとも公的に彼らの「愚かさ」を非難することは出来ないはずです。」

今回のばかげた「自己責任論」の特徴は、一度としてまともに人質たちの責任が論議されたことがなかったことだ。宮崎氏も指摘しているように、人質たちに甘さがあったことは確かで、それがなければ拘束ということは避けられただろう。しかし、その甘さは、積極的な公的目的(パウエルさんが言うところの「良い目的」であり、自分だけのためにやるのではなく、多くの人の利益につながる目的)を持つもであれば、「可謬性を前提とする価値」で許容される甘さであり失敗だったのではないだろうか。

だから、たとえ甘さがあろうとも、人質の無事を願い、その救出に全力を尽くすというのが、民主主義国家としての民度を表す態度だったはずだ。救出の論議はそっちのけで、甘さだけをたたくなんてことは、先進資本主義の民主主義国家ではあり得なかったことだ。

このようなことが起こった背景には、日本社会における「公私」の考え方と、欧米社会のそれとが全く逆だということが指摘されている。その指摘はまことにもっともなことで、そう考えると、一連の「世論」(僕は、これを必ずしも本当の意味での多数者だとは思っていない。神保哲生氏が語るように、ラウド・マイノリティ(声が大きいだけの少数者)ではないかと思っているので、「」付きの言葉を使っている)が人質バッシングに動いたのが理解できる。

高遠さんがイラクへ向かったのは、イラクで高遠さんを待っている子供たちがいたからである。高遠さんは、子供たちのために働いていた。そこに、自己満足が全くないとはいわない。でも、自己満足があったからと言って、子供たちのために働いたという価値が減るものなんだろうか。子供たちは、心から高遠さんの無事を願っていた。それだけ、高遠さんの活動は彼らに受け入れられていたのだ。たとえ自己満足であろうとも、これだけ感謝される活動が、なぜ批判されなければならないのだろう。

そのような活動をしたいと思いながらも出来ないでいる人間よりも貴い行為ではないか。ましてや、そんな活動をしようとも思わない連中よりも遙かに立派ではないか。そんな連中は、一度も自己満足を得ようとせずに生活しているのだろうか。立派な目的のために自己満足を求めることこそ、パウエルさんが言うような賞讃されるべき行為ではないのか。

今井君の行動も、今井君自身の自己満足にとどまるものではない。たとえ自己満足があったとしても、彼の報告する「劣化ウラン」の問題は、多くの人に役に立つものであるはずだ。ジャーナリストの郡山さんの活動も同じだ。その後拘束された安田さんや渡辺さんにも、すべて共通してこのようなことが言える。

彼らの甘さをたたくのは、他人事として冷たい目で眺めればいくらでも出来るだろう。結果的にミスを犯したのだから。しかし、上のように考えれば、彼らのミスは、積極的な良い目的の過程で起こった、前向きのミスであって、これからの活動の参考にすべきミスなのだ。ただたたくためにそれを分析するようなミスではない。

宮台氏によれば、今井君と郡山さんの記者会見は2回行われたそうだが、その二つにははっきりと違いが見えたということだ。最初の記者会見では、日本のマスコミ記者が中心で、「迷惑をかけやがってこの野郎、おまえらに責任はないのか」という雰囲気だったらしい。それに対して、2回目の記者会見は外国人記者クラブだったらしいが、「危険を逃れて本当に良かった。ご苦労様。君たちの経験を僕らの参考にさせてくれ」という、共感を呼ぶような雰囲気の中で行われたらしい。これが世界の常識だろう。

日本社会の背景を語って、補足するような考えを述べている宮崎氏の次の言葉も印象的だ。

「こういうことを考えてみたらどうでしょう。もし人質が商社や石油会社なんかの社員だったらどうか。日本中から同情が寄せられたんじゃない?彼らがヴォランティアやジャーナリストだったから、こうも非難される。「用もないのに、自分の信念とやらのために危険地帯でのたくってるようなバカを救ってやる必要なんかあんのかよ」というわけ。ところが会社員ならば「仕事中、災難に遭われてお気の毒」となる。
 パウエル発言にも「ル・モンド」紙の記事にも見えるように、「世界の常識」では評価が逆です。会社員ならば詰まるところ私利私欲のため、利潤追求の行為ですから普通以上には評価されないが、ヴォランティア、ジャーナリストの行動は価値あるものとされる。」

全く見事な論評だ。佐高信氏は、日本は会社社会で、サラリーマンのほとんどは、その意識に毒されて社畜になっていると指摘している。社畜になってしまった人間は、自らの価値を低めるようなヴォランティアを持ち上げるなどということが出来なかったのだろう。私利私欲の追求に過ぎないことに人生をかけていることの卑小さが、ヴォランティアに命をかけている人間の姿で、あまりにもはっきりと見えてきてしまったのではないだろうか。

本来なら、社畜意識を脱して、本当に尊敬できる存在への共感という世界の常識を獲得するチャンスだったはずだ。それが出来なかった日本社会と、その非常識を代表する人間たちが今の政府中枢に溢れていることを、今回の人質事件はよく分からせてくれた。だからこそ、人質の批判をするよりも先に、このばかげた「自己責任論」を批判する必要があったのだ。

人質たちのミスは、これから、彼らと同じように良い目的で危険をあえて選ぼうとする人たちの間で、真っ当な議論のもとに正しく評価が出ることを期待している。人質バッシングが、なぜ「バッシング」と呼ばれているかというのは、それがまともな批判ではないからだということを反省しなければならないのである。  
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2004年05月16日

櫻井よしこ氏の「自己責任論」批判

櫻井よしこ氏が次のページで「自己責任論」を語っている。これを考察してみよう。

「 3人の沈黙は何を意味するか はき違えてはならない『自己責任』論の本来の矛先」


櫻井さんは、冒頭でまず次のように語っている。

「世論がこの人質事件をまずなによりも“自己責任”の問題だととらえたのには、明確な理由があった。人質となった3人の、家族の方がたの反応が理由である。」

僕は、このことに論理的に賛成できない。「自己責任」というのは、あくまでも責任の問題である。家族の反応がなぜ人質となった3人の責任に直結してくるのだろうか。家族と人質とは一体の存在なのか。家族が、自らの意志で行ったことでも、家族であればその責任を引き受ける必要があるのだろうか。

そうだという人は、僕は、きわめて日本的メンタリティの持ち主だとは思うが、そういうものを持ち合わせていない僕は、たとえ家族であろうとも、自分の意志で自己決定した事柄なら、その家族本人が責任を負うべきだと考える。家族に問題があるのなら、家族の責任の問題だろう。それがなぜ人質本人の責任としての「自己責任論」になるのか。

次の言葉にも疑問を感じる。

「こうした言動がテレビカメラを通して報道されたときに、世論は烈しく反発し始めた。家族の側の感情論が、家族ゆえのやむにやまれぬ想いであることは多くの人びとも感じ取っていたはずだ。けれども、日本人なら半ば以上期待されている、「ご迷惑をおかけしています」という言葉よりも先に、一方的に要求を突きつける言動は、この国で従来大切にされてきた価値観とは相反していた。そこから世論の批判が起きたのは当然でもあった。自己責任論は、あえていえばイラクに行った3人より先に、国内の家族の言動に向けられたものだったわけだ。」

こうした言動というのは、高遠さんの弟妹が、激しく政府の担当者に迫った場面を指している。テレビで何度も見た光景だ。僕は、これにある種の人々(決して世論とイコールではないと僕は思っている)が感情的に反発するのは感情の問題として仕方がないと思うが、ここから批判(批判はあくまでも論理的なことと僕は考えている)が生じることに対しては論理的に納得できない。批判というのは、論理的にやるものであって、感情的にあいつが気に入らないと言ってやるものではない。ジャーナリストとしての櫻井さんが、そういう俗情に影響されたとしたら、ジャーナリストとしてのセンスに問題があるのではないか。むしろ、感情的に攻撃したことをこそ批判するのがジャーナリストではないのか。この反発には論理的に正当な根拠があるのか。感情的には理解できるが、論理的には、反発する方がおかしいのではないか。

櫻井さんも、「家族の側の感情論が、家族ゆえのやむにやまれぬ想いであることは多くの人びとも感じ取っていた」と語っているくらいだから、論理的な批判は出来ないと言っているのではないだろうか。近所の井戸端会議で感情的に鬱憤を晴らすのならまだしも、公に感情をぶちまけるようなことが許されていいのだろうか。

「「ご迷惑をおかけしています」という言葉よりも先に、一方的に要求を突きつける言動は、この国で従来大切にされてきた価値観とは相反していた。」という部分に関しても僕は批判的だ。このような習慣こそが、弱者の声を押し殺し、正当な批判でさえも声をあげにくくしている雰囲気を作ってきたのではないか。むしろ、このことをきっかけにして、権力批判というものに対する言論の自由を展開すべきだったのではないか。ジャーナリストだったら、そのようなセンスを持つべきだ。

これを「世論」(僕は決して本当の世論とは思っていないので「」付きにしている)の批判の正当性の根拠にしているセンスを僕は信用しない。「世論」がたとえそのように感情的に吹き上げても、ジャーナリストとしては世論(ここでは、本来の意味での世論という言葉を使っているので、「」を取った)をリードするような方向を取るべきで、「世論」に寄りかかるべきではない。自己責任論が、家族のせいで巻き起こったなどと言うのは、全く非論理的だ。「自己」というのはいったい誰のことですか?家族の責任を、人質という「自己」が引き受けるのが「自己責任」ですか?これは、僕が批判した野口氏の「自己責任論」よりももっと非論理的だ。野口氏は、曲がりなりにも人質自身の責任を問題にしていた。ずっと論理的だったと思う。

家族に問題があったのなら家族の責任だし、それを取り巻く団体の問題であればその団体の責任を問わなければならない。それまで人質に責任を負わせるのは全く筋違いだと思う。僕は、家族は、たとえ問題があったとしても、それは許容できる問題だと思っている。あの状況では仕方がないだろうということだ。櫻井さんも、それは語っていると思う。

批判ばかりでは不公平かもしれないので、最後の次の言葉には、僕も90%くらい賛成すると言うことも言っておこう。

「さて、気になることがもう1点。今回の“成果”をもって、小泉政権が国民の生命や安全を、責任を持って守ってくれたと単純には喜べないことだ。自衛隊を派遣した首相にとって、5人の無事解放は政権を賭けた挑戦だった。同時に、政府が国民を救出するのは当然だ。拉致問題のように、これまで政府は必ずしも国民を救出してはこなかったし、反対に、政府が国民を見捨てた事例は少なからずある。無事に解放された今回のケースは喜ばしく、政府も“救出してやった”とでもいうべき雰囲気がある。だが、救出は政府として至極当然の責任だということを強調しておきたい。」

10%の賛成を保留する部分は、「政府も“救出してやった”とでもいうべき雰囲気がある」という、政府に対する評価の部分だ。これが、政府がそう思っているだけで、櫻井さんはそう思っていないと言うことなら、この部分に対しては、僕も100%賛成と言うことになる。  
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2004年05月15日

野口氏の「自己責任論」批判その後

野口氏の「自己責任論」への批判を書いたときに、それが当の野口氏の掲示板で話題にされているのは僕は最初は知らなかった。その話題の過程で、僕の批判が、野口氏に対する人格攻撃のようにとらえられていたので、それを釈明しに野口氏の掲示板への書き込みをした。その議論が一段落したと思ったときに、僕の書き込みとそれに対する返信が掲示板から消えてしまった。

その理由がなぜかは分からないけれど、そこに書いた自分の発言だけを復活させておこうと思う。相手の発言は、著作権の関係からそのまま載せることは出来ないが、引用部分があるのでそこから判断してもらい、僕の発言そのものは野口氏の「自己責任論」批判に付け加えた部分だと受け止めてもらえたらいいのではないかと思う。次のページに記録しておく。

「登山家・野口健氏の「自己責任論」批判」

僕は、「人格攻撃」ではないかという受け取り方に対して釈明をしに行ったので、野口氏の掲示板で「自己責任論」を展開したいと思ったわけではない。そこで、ある人の呼びかけで、

「掲示板」

というところで「自己責任論」そのものの議論を続けることにした。そこでの挨拶には次のような言葉を書いた。

「初めまして。楽天日記で野口氏の批判を書いた秀といいます。僕の批判のポイントは、野口氏の掲示板にも書きましたが次の4点です。

・消費者金融のように犯罪的なものにすら自己責任を要求することの不当性

・不快感を覚えたことや、自分の選択で行ったこと、退避勧告に従わなかったことで責任を追及することの不当性

・人質事件を登山とのアナロジーで責任を論じることの非論理性

・税金を使ったことだけで責任を追及することの不当性(使い方を論じていない)

これは、最初の文章を読んだ限りの批判でしたが、新しい文章でも、上の批判の点を修正するような文は見あたりませんでしたので、この批判は持ち続けています。

僕は、アメリカや日本の政府を批判していますが、個人を批判したことはほとんどありません。小泉さんの批判に関しても、小泉さん個人を批判しているのではなく、あくまでも政府の代表としての小泉さん批判です。

今回なぜ野口氏を批判したかといえば、野口氏が公人に近い立場にいる人で、その「自己責任論」が批判に値する「論」であったというのが理由です。政府がまき散らしているものや、ちまたに溢れている「自己責任論」は全くばかげたもので論評にも値しません。野口氏の「強者の論理」を用いた論の進め方が、まともな「自己責任論」の代表のように見えたので批判の対象にしました。

僕が野口氏の論理を「強者の論理」と呼んだのを気に入らない人もいるようですが、この論理を使えば、人質の「自己責任」を追求する方向へ論理が傾くのは「論理的強制」とも呼ぶべき現象だと僕は思っています。僕は、今の「自己責任論」があまりにも重い責任を被害者にかぶせすぎるという批判を持っています。それだからこそ、この問題を「強者の論理」で展開することに反対しなければならないし、批判しなければならないと思っています。」

「自己責任論」批判に関しては、宮台真司氏が、「サイゾー」という雑誌で宮崎哲弥氏との対談の連載の中で、決定版とも言えるものを語ったと聞いている。「サイゾー」の発売日は18日ということだから、そのあたりにまた「自己責任論」を考えてみようかと思っている。宮台氏なら、現代日本の社会状況との関連で「自己責任論」を語ってくれるだろうと思う。僕は「論理」という面に特定してこれを考えてきたが、社会的・歴史的位置づけをしてくれたら、このばかげた論理がなぜ人質事件の時にあれだけ日本中を席巻したかがよく分かるようになるだろうと思う。  
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2004年05月07日

登山家・野口健氏の「自己責任論」批判 その2

野口健氏の新しい「自己責任論」は、次のページで読むことが出来る。

「自己責任と危機管理」

ここでは、まず冒頭に、イエメン大使だった父親がテロにあったことを述べて、次のように語っている。

「もしあの時に両親に不幸な事が起きても、組織の一員だろうが、最終的には外務省の指示ではなく父自身の判断でイエメンに留まったのだから、「外務省の責任だ!日本政府が国連に資金協力したからだ!」などと口が裂けても言わなかっただろう。「自己責任」を重んじる父に対してそんな失礼なことはできない。」

これは、全く立派な決意であり、ある立場からは尊敬されるような態度だろう。しかし、この態度がある立場からは尊敬されるからといって、その反対の態度を見せたとしても、それは立場が違えば何ら非難されるようなものではないと僕は思う。

野口氏の立場は、外交官という国家の立場から見せる態度であって、その立場であれば当然であろう。しかし、国家に対して批判する立場というのは、憲法が保障する思想・信条の自由からいえば、そのような立場であっても決してそれだけで悪いということは言えないものである。

野口氏がこのような姿勢を持つのは、何ら非難されるべきものではない。それと同じように、立場が違えば、政府の方針を批判しても、それは何ら非難されるものではない。それは、思想・信条の自由である。野口氏は、直接の非難を書いていないが、読む人によっては非難したくなるかもしれないので、このことは注意しておきたい。

このあと野口氏は、自身のエベレスト登山について、いかに危険に対処してきたかを詳しく述べている。これは、専門家として見識ある態度だと思う。しかし、なぜこのようなものを延々と書いたかと言えば、これは、今回の人質たちが、それだけの準備を欠いていたのだと、暗に言いたいからではないかと読みとれる。

しかし、これは専門の分野を語るときには、そのような批判も出来るかもしれないが、そうでない分野でこれほど簡単に相手を批判してもいいものだろうか。

人質になった3人は、武器も持たず、防弾チョッキもつけていなかった。それは、ある立場からは無謀に見えるだろうが、彼らのような立場からは、それこそが危険を避けるための準備といってもいいものだった。彼らの場合は、拘束されたイラク人の「敵ではない」と言うことを知らせなければならなかった。それこそが安全確保のための一番の方法だった。そして、それはおおむね成功していたように見える。危険はあったが、彼らは冷静にその危険に対処していた。

それは、登山家が、自然の驚異に対して正しく対処しているのと同じではないだろうか。これは、専門的に検証しなければ正しい評価は出来ないだろう。全く違うものとのアナロジーにしてしまえば、それは判断を間違えると思う。

野口氏は、どうしても登山とのアナロジーで考えたいのかもしれないが、この点では、僕の最初の批判はそのままこの続編にも同じようにつながってくる。また、この記述のあとに次のような主張も見える。

「あえて自身の判断で危険な活動を行っているわけですから、事件が起こり世間を騒がせれば公人であろうがなかろうが責任問題を問われるのは当然です。」

ここでは、やはり最初に批判したのと同じような、騒がせたことで責任があるという責任論が展開されている。この責任は、

・責任の主体であるものの義務

・責任の主体であるものの言動から生じた結果

のどちらの責任を追及するものであろうか。彼らは、騒がせてはいけないという義務を負っていたのだろうか。それとも、世間が騒いだのは、彼らの行動というものがもっとも重い責任を負わなければならないものだという判断をしているのだろうか。騒がせたことに対して、政府やマスコミには責任がないのだろうか。

野口氏は、自らもイラクでの活動を考えていたと言うことで次のようにも語っている。

「実は私も昨年から「戦争と環境破壊」というテーマでイラクに訪れ、ウラン弾も含めて取材したいと某新聞社に相談していた。実際に私の仲間が今現在ヨルダンのアンマンに滞在しイラクの情報を集めてくれています。2月の時点で陸路でのバクダット入りは「危険すぎる」との連絡を頂いている。イラク入りするならば、空路の確保とその時期、地域の状況収集、ボディガードなどの手配といった安全対策、そして取材体制を整えるなど、慎重に事を進めなければならない。」

野口氏のイラク入りは、やはり強者の立場でのイラク入りであるように僕は感じる。その立場で、今のイラクに入れば、これは限りなく危険であることは確かだろう。そして、強者の立場でのイラク入りだったら、命をかけてまでイラクに入りたいという主体性は生まれてこないだろうと僕は思う。危険だと判断した時点でイラク入りをあきらめて当然だ。

拘束された3人とは、主体性の点での違いがあるというのを僕は感じる。彼らには、たとえ危険があっても、命がけでイラクへ行きたいという理由があったのだ。そして、それは無謀さを非難されるような理由ではなく、パウエルさんが賞讃するように、良い理由であえて危険を選ぶ尊敬されるべき理由だと僕は思う。

「今回の人質事件。例えるならば、ほとんだ登山経験のない人達が集まりエベレストをきれいにしたいと周りの反対を押し切って、さほど準備もせず現地入りして清掃活動を行う前に遭難してしまった、そんな構図に見えてしまうのは私一人だけじゃないでしょう。」

この評価も、野口氏のように、強者の立場で彼らを評価すれば、こうなってしまうのだろう。強者の立場というのは、政府や国家の立場に近いのであるから、その立場からすれば、イラクは限りなく危険にしか見えないであろうから、あえてそこに行くというのは無謀以外の何ものでもないという見え方がするだろう。こんな風に見えるのは野口氏だけではなく、強者の立場に立っていれば誰もがそのように見えてくるに違いないと思う。

「最後に、父に「親父、もし俺が彼らと行動を共にしていて人質になっていたら、親としてなんてコメントしたの?」と聞いてみた。「息子を助けてほしい。ただしテロの要求には応じず毅然と対応してくださいとつけ加えただろうけれどね。」との返事。納得の一言だった。」

野口氏が最後に結んでいるこの言葉も、野口氏がどの立場で語っているかを知らせているだけで、これに共感する人は、野口氏と同じ、すなわち野口氏の父親と同じ国家の立場で物事を見ていると言うことを自覚した方がいいのではないかと思う。

野口氏の言葉に共感する人たちは、野口氏と同じ立場の人たちだと思う。そして、僕はその立場に立っていないので、野口氏には共感しない。僕が最初の「自己責任論」で批判した事柄については、新しいこの文章でも言及がない。やはり、立場が違う人間からは、批判のポイントは変わらずにつながっているんだなという風に見える。

僕の批判に共感してくれる人は、おそらく同じ立場に立つ人だろう。そして、反発を感じる人は、きっと野口氏と同じ立場に立つ人なんだろうと思う。  
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登山家・野口健氏の「自己責任論」批判

野口健氏の「自己責任論」は、「自己責任論」を主張したい人間が共感するところが多かったものだ。どこに共感するのだろうか。もしかしたら、僕が批判するところにもっとも共感するのかもしれない。そうならば、野口氏の「自己責任論」は、ある意味では逆の意味での本質を突いたものになっているかもしれない。以下にその批判を展開したいと思う。

最初に書かれた「自己責任論」はもはや野口氏のホームページには残っていない。僕は、検索したキャッシュを引用してこれを批判している。そして、野口氏は、最初のものを書き換えて新しい「自己責任論」を書いたようなので、これも、この批判の次に見てみよう。そして、僕が批判した部分がどのように書き換えられているのかを見てみたい。もし、書き換えられていないのなら、僕のこの批判は、そのまま新しいものにも引き継がれることになる。

さて、最初の「自己責任論」は「自己責任と危機管理 前編」と題されて書かれている。最初に批判を感じる部分は次のところだ。

「消費者金融がよく社会問題を引き起こす。やくざ的な取立ては確かに問題があり違法であるけれど、そもそも最初から金利を把握しながら、それを承知の上でお金を借りた側が返済しない、その責任はどうなるんでしょうか。私はこれも自己責任だと感じます。」

消費者金融の被害者に対してさえも「自己責任」を求めるとしたら、これはほとんどすべてのことに対して自分で責任を持てと言っているに等しいようなものになるだろう。野口氏は、最初から高利であることを承知しているから、たとえ不当な高利であろうとも、それを知っていて引っかかったのは「自己責任」だというのだろうか。不当な消費者金融に引っかかった人たちを「被害者」と呼ぶのは、それが犯罪的な手口だから「被害者」と呼ぶのではないだろうか。

実際には、消費者金融に引っかかる人たちは、それ以外に万策がつきてそこにしがみついた人たちである。もはや冷静な判断力が残っているとは言い難いほど追いつめられている。その追いつめられている人を食い物にしている消費者金融は、許すべからざる存在ではないのだろうか。そういう相手でも、自分で何とかするだけの力を持たなければならないと野口氏は主張するのだろうか。

野口氏の基本にあるのは、この主張の裏に潜んでいる「強者の論理」だと思う。野口氏は弱者を許すことが出来ないのだ。だから、どんな場合でも自己責任で自らの強さで切り抜けることを主張するのではないだろうか。それは、野口氏が強者の立場にしか立ったことがないからではないかと、僕には思える。

弱者の立場に立つだけの想像力があれば、多くの善良な人々が傷つき困っているというのは、その人たちに大きな責任があるとは思わないだろう。誰もが陥ってしまう罠というのは、社会的に歯止めをかける必要があると考えるのではないだろうか。誰も守ることが出来ない規則があった場合は、守れない人が悪いのではなく、規則の方が間違っているのである。

とにかく、そのように多くの人を追い込むようなものを放って置いて、社会が安定すると考える方がおかしい。社会の安定を望むのなら犯罪的な行為の方を禁止することの方が正しい。野口氏の上の主張は、犯罪を放置し、被害者の方が追い込まれるのを仕方がないとする点で、今回の人質事件の「自己責任論」に似ている。

果たして、この主張は、新しい「自己責任論」ではどうなっているだろうか。間違っているものとして捨てられているのか、それとも同じように主張されているのか、次の批判では気をつけて読んでみようと思う。

「今回のイラクでの人質事件。あの家族たちの会見でのコメントに不快感を覚えたのは私一人だけじゃないだろう。誰が彼らにイラク行きを命じたのか。再三、外務省から退避勧告が出されているにも関わらず、 あえてご自身たちの意思でイラク行きを決断されたわけでしょ。」

家族のコメントに不快感を抱くのは、個人の感情だからそれは自由だ。しかし、それが「責任」追求の根拠になると言うことにつながるのであれば、これは非論理的だ。責任というのは次の二つの要素から生じるものだ。

・責任の主体であるものの義務

・責任の主体であるものの言動から生じた結果

不快感と義務の間には何の関係もないから、不快感を生じた結果を、その原因である人質家族に要求するのだろうか。しかしこれには論理的に無理がある。直接相手を罵倒する言葉を浴びせるとか、不快感を与えたことの責任を追及するのであれば、それがある程度の普遍妥当性を持ったものであることが証明されなければならない。現に、人質家族に対して全く不快感を覚えないどころか、同情したり共感したりするものもいるのだから、不快感を生じさせた結果に責任を追及することは出来ない。

外務省の退避勧告に対しては、それが出されていれば何かの義務が生じるのだろうか。それが生じるのなら責任の追及は出来るが、僕はそのことを確認する文章を見たことがない。また、イラクに行ったということの結果として人質事件が起こったと、単純に結びつけるのも論理的に見ておかしい。その間には、様々の条件が重なり合っているのだから、もっとも重い原因を担うものが、もっとも重い責任を担うべきである。その要素は実にたくさんある。その一つに「自衛隊の派遣」というものもあるのである。短絡的に、彼らが行ったからだというふうに考えるのは、物事の一面しか見ない誤りである。

「イラクでの5人の行動は、例えばヒマラヤが大雪と高温で雪崩の巣となっている状態で、登山の中止を勧められているにも関わらず、「いや俺は何がなんでも登るんだ!」と突っ込んだあげくに遭難したようなもの。リスクを背負うならば情報収集に費用とエネルギーを費やさなければならない。何十もの安全対策を行った上での活動でも時に遭難はおこる。」

この部分は、登山家としての野口氏の論理として、「自己責任論」を提唱したい人が賛同したくなるもっとも大きな部分だと思う。しかし、僕は、登山家であるが故に論理的な誤りを犯していると思っている。野口氏は、確かに登山家としては専門家で、「登山における自己責任」に関しては正しいことを語っているだろう。しかし、彼は戦争状態の国に、NGOあるいはそれに準ずる人間として支援のために入った経験を持った専門家であろうか。その専門家ではない野口氏は、登山の常識を、全く違う場面に押しつけて判断しているのではないか。

イラクがあのような危険な状態であることを、彼らが人質になる前に、何人の人が警告していたか。それがイラクへ入る人たちの常識として共有されていたか。登山との比喩で言えば、正確な気象情報が与えられていたかと言うことだ。また、気象情報が与えられていても、それが予期せぬ原因で急に変化することもあるだろう。イラクの状況というのが、まさにそのようだったということが出来ないだろうか。彼らの無謀さに責任を求めるのなら、いったい誰がどれだけイラクのことをよく知っていたかを問わなければならない。

登山の場合は、金さえかければ、正確な気象情報も得られるだろうし、重装備の万全の準備も出来るだろう。まさに強者だったら何とでもなるというのが登山ではないのか。イラクへ支援に行く人たちは、そういう強者の側から乗り込む人はほとんどいない。むしろ強者の側から乗り込む人々は、イラクの人々を助けるものではなく、侵略するアメリカに加担する人間たちだ。そういった弱者の側の人間が、どれだけの準備と情報で、しかもその条件の上で万全の準備をしていくかというのを野口氏は想像できるだろうか。

僕は、登山とのアナロジーでこの事件をとらえること自体が間違っていると思っているが、そうとらえたい人間は、登山という営みが、強者の論理によって行われているということも思い出した方がいいのではないだろうか。登山という厳しい活動に耐えうる人間でなければ、そもそも登山などをしようと言うことが間違っているとも言える。しかし、誰かを助けたいと願う行動は、強靱な精神と体力を持っていなければやってはいけないことではない。そんなことを言ったら、誰かを助けようなんて人がほとんどいなくなってしまう。ボランティア精神というのは、その人が出来る範囲で主体的にするからこそ尊い活動になるのだ。

最後に次の部分を批判しよう。

「国民の税金もふんだんに使われたのだから、彼らはご自身の言葉で国民に対するお詫びと何が起こったのかを話さなければならない。」

このことに関しては、税金の使われ方に不当性があったと言うことを証明しなければ、彼らがお詫びをする理由がないことになる。いったいどこに不正があったと野口氏は告発するのだろうか。単に税金が使われたと言うことを指して、使ったことに対してお詫びを要求しているのだろうか。それは、使われることが当然のものではないのだろうか。ここのところは、税金の使われ方の明細を表示して、それが税金で使われることが正当なのか不当なのかを、一つずつ検証しなければならないと思う。検証なしに、使われたと言うことだけで非難するのは、非難そのものが不当であると僕は思う。

以上いくつかの点を批判した。まとめておくと次のようになるだろうか。

・消費者金融のように犯罪的なものにすら自己責任を要求することの不当性

・不快感を覚えたことや、自分の選択で行ったこと、退避勧告に従わなかったことで責任を追及することの不当性

・人質事件を登山とのアナロジーで責任を論じることの非論理性

・税金を使ったことだけで責任を追及することの不当性(使い方を論じていない)

以上批判した点を、新しい「自己責任論」ではどのように展開してくれているだろうか。  
Posted by khideaki at 22:13Comments(0)TrackBack(0)