2012年03月29日

生の自分

岩上安身さんによる安冨歩さんへのインタビューは岩上さんのインタビュアーとしての素晴らしさが見事に出ているものだった。出だしこそ難しい話が語られていたが佳境に入った話では実にわかりやすく面白かった。分かりやすさを引き出したのは岩上さんの力だと思った。

その安冨さんの話で印象に残ったのは、肩書きが重すぎる人間が生の自分の魅力を認めてもらうのは極めて困難だというものだった。東大出の人間が、東大出という肩書きを超える魅力を身につけるのは大変なことであり、評価される事柄の一番に数えられるのが東大出と言うことになる。生の自分が評価されることがない。

生の自分への評価というのは、宮台真司さんが語る尊厳の確立に関係があるように思う。尊厳というのは、自分が自分であることへの誇りを持ち拠り所となるものだ。生の自分が評価できないと尊厳の確立が出来ない。自分に対する自信が基本的なところで持てなくなる。尊厳は、自分だけの思い込みではなく、誰か評価してくれるものがいないと確立できない。尊厳には承認というものが必要だ。そう宮台さんが語っていた。

生の自分というのは、河合隼雄さんのカウンセリング理論でも語られていた。子供の成長においては、丸ごとその存在を認めてくれる人が必要で、そのような存在がいないと子供の成長には何らかの障害が出てくる。子供が尊厳を確立できなくなるからだろう。丸ごと承認してくれる存在は、河合さんによればファンタジーにおいてよく語られるという。祖父母がその存在になることが多い。利害関係を持たず、孫であると言うことだけで愛してくれるものになるからだ。  続きを読む

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2011年07月07日

原発がどんなものか、多くの人は分かりつつある

原発事故の初期の頃

「原発がどんなものか知ってほしい」

という、原発労働者だった平井憲夫さんの文章が話題になった。しかし、これに対しては専門家からの反論もあり、果たしてどのくらいの信用性があるのか、ということが分かりにくかった。だが今では、専門家の多くが「原子力ムラ」と言われる利害集団の人間で、客観的に正しいことをほとんど言っていないと言うことが分かってきたので、専門家が批判していると言うことで、その内容が間違っていると短絡的に判断することは出来ない。むしろ、素人が言っていることを専門家が反論すると言うことは、そこには本質的に「原子力ムラ」にとって都合の悪いことが書かれているのではないか、とも推測される。

原発というものがよく分かってきた今こそ、この文章を読み返す価値があるのではないかと思う。その主張の本質を、その論理に沿って読み取る努力をしてみようと思う。そして、専門家の批判がどの部分を指摘しているのかも、論理的に理解するように努力してみよう。何か新しい発見があるかもしれない。

さて、上の文章は大変長いものであり、そこから短い本質を抜き出すのはかなり難しい。自分が読みたい部分を本質として取り上げてしまうかもしれない。しかし、論理の流れとして、これが結論だろうと思われるものを抜き出せば、そこが本質だと言えるのではないかと考えて、その部分の読み取りを考えてみよう。平井さんは、果たして最終的な結論をどこに置いているのか。

平井さんは技術者であり、現場の人間なので、理論的なことはあまり語っていない。むしろ、現場での事実を多く語っている。その事実の最も中心となるものは、

<原発の設計は理論としては完璧に近いが、その理論を実際に実現している現場では、それを全く理解していない人々によって、いい加減な範囲で運営されている。つまり、どんな優れた理論であろうとその通りに実現されていない。それどころか、一歩間違えば大事故につながるようなミスが見過ごされている。>

というものではないかと感じた。このような前提を確認すると、

「ですから、私はこれ以上原発を増やしてはいけない、原発の増設は絶対に反対だという信念でやっています。そして稼働している原発も、着実に止めなければならないと思っていあす。」

という最後の結論に結びつくのだと思う。論理的な結論は上の引用の通りだが、その結論を導く最も重要な論理の流れは、理論通りに実現されていない原発の現場(建設・運営など)が必ず重要なミスを引き起こし大事故につながるというようなものではないか。  続きを読む
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2011年06月26日

羽賀研二さんという芸能人のイメージの転換 2

羽賀さんの事件についてさらに考えてみようと思う。参考になるものは、前回紹介した

「110623 緊急シンポジウム「検察・世論・冤罪 」

「110623 緊急シンポジウム「検察・世論・冤罪 」 第2部」

「シンポジウム「検察・世論・冤罪供 羽賀事件を検証する」

というものだ。特に、八木さんのブログから引用して考えてみようと思う。まずは恐喝について

「恐喝が存在したかという点

1和解の席で渡邊氏と暴力団関係者が会社社長A氏を脅して、書面にサインさせた。(羽賀氏は現場に同席せず)。ゆえに、検察は「羽賀氏が暴力団関係者と共謀」と主張。羽賀・渡邊両氏は「共謀」と「現場での恐喝」を否定。(ここだけ聞くと、弁明の余地はないように見えます)

2問題の被害者で告訴人A氏を脅したとされる暴力団員は、もともとA氏が連れてきた、つまりA氏サイドの人間。

3会社社長A氏は弁護士を同席させていない。つまり、和解の席に出たのは、羽賀氏側は「羽賀氏代理人+弁護士」、A氏側が「A氏+暴力団員2名」

4脅して和解させたとされる一ヶ月後に、A氏と暴力団員は組んで、一緒に羽賀氏相手に偽造文書で12億円の取立をやっている。この私文書偽造に関して、A氏自身が公判で認めている。」  続きを読む
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羽賀研二さんという芸能人のイメージの転換 1

岩上安身さんが羽賀研二さんに対して行ったインタビューが素晴らしかった。まだアーカイブが配信されていないので紹介することが出来ないのが残念だ。インタビューの中で実名が出た部分があったので、そこを編集してから配信すると語っていた。ぜひ見て欲しいインタビューだ。

羽賀研二という芸能人に対して多くの人はどのようなイメージを持っているだろうか?インタビューの間にそれを視聴している人たちがツイートをしていたのだが、「自業自得」だとかそれまでの生き方の報いだというような言葉を投げつける者もいた。そのようなイメージで彼は見られていたようだ。

しかし、そのようなイメージを持たずに岩上さんのインタビューを見れば、羽賀研二という人のまじめさや誠実さが伝わってくるのを強く感じた。マスコミが報道するゴシップ記事とのこの違いはいったい何だろうか。この感じは、その前の日のシンポジウム

「110623 緊急シンポジウム「検察・世論・冤罪 」

「110623 緊急シンポジウム「検察・世論・冤罪 」 第2部」

を見ても、そのような感覚が分かってもらえるかもしれない。また、このシンポジウムの内容は、司会を務めた八木啓代さんが「八木啓代のひとりごと」というブログで

「シンポジウム「検察・世論・冤罪供 羽賀事件を検証する」

にまとめている。これを参考にして、羽賀さんの事件についていろいろと考えてみたいと思う。八木さんは、この事件がそもそも詐欺に当たるのか、ということに疑問を呈している。ブログでは次のように書かれている。  続きを読む
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2010年03月22日

足立幸信さんとのやりとり 9  足立さんのコメントへの雑感

足立さんとのやりとりは、僕は論点となるべきものが見いだせなかったので議論ではないと思っている。だから、この一連のエントリーでも、足立さんに理解してもらえなかったであろう僕の主張を、もう一度自分自身で確認する意味で詳しく説明しようと思ってこれまで書いてきた。特に、思わず出てしまった「万引きは犯罪ではない」という主張も、本当に僕はそう思っていたのかを確かめる意味で詳しく考えてみた。

それを最後に、やりとりそのものの確認はすんだと思っているのだが、改めて足立さんのコメントを読み返してみると、いろいろな感想が浮かんでくる。これは、あくまでも感想であって、足立さんはこのような意味で語っているので、僕はこのように反論する、というようなものではなく、雑感としてつぶやくことで締めくくりとしようかと思う。

これは僕の感想なので、僕がこのように思うのは仕方のないことだと思っている。僕は、足立さんが誤解していると思ってはいるが、その誤解は、僕が公開の場に自分の主張を書いてしまったのだから、誤解されること自体は仕方がないと思っている。誤解されたくなければ、公開の場に自分の意見など書かなければいいのだと思う。僕も誤解されるのは仕方がないとあきらめているので、僕がもし足立さんを誤解しているとしても、それは公開された文章が、どのように解釈されるかというのは、公開した以上受け入れなければならないということで、最後の雑感も許されるものだと考えている。  続きを読む
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2010年03月21日

足立幸信さんとのやりとり 8  「万引き行為」と「窃盗行為」の「犯罪性」

前回の終わりに少し書いたのだが、僕は河合隼雄さんのカウンセリングの専門家としての意見を印象的に覚えていたので、イメージ的に「万引きは犯罪ではない」という言い方をしてしまった。これを、どう解釈するかということで、僕がこの言葉に込めた意味を説明したいと思う。

河合さんは、「子どもの万引きは、犯罪として受け取るべきではない。それは、言葉として表現できない自分の心の問題を伝えようとするシグナル(記号)として受け取るべきだ」というような内容のことを書いていた。

もし「万引き」が犯罪に過ぎないものであるなら、その指導は、それが道徳にも法律にも違反した行為であり、処罰の対象になる「悪」であるという認識をさせることが必要になるだろう。それがまず第一で、その上でそのことを理解し反省の様子が見られたなら、情状酌量をして、処罰が軽くなるという対応も必要になってくる。また、それを理解しないのであれば、処罰の重さでそれを伝え、その上で教育によって道徳的な資質を育てるような方向を考えていったりするだろう。いずれにしても、犯罪を犯した子どもに対しての対応は、相手の心を理解するために働きかけるよりも、その行為が犯罪であることを理解させることの方が重要になってくる。

それに対して、子どもの「万引き」を犯罪ではないという前提で受け止めれば、その子どもを処罰するよりも先に、その子どもがどのような心の問題を抱えているのかということを分析することの方が先になる。そして、その分析に従ってカウンセリングという医療行為で対処するという方向を考えるべきではないかと思う。  続きを読む
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2010年03月20日

足立幸信さんとのやりとり 7 他者への批判についての考察

きっこのブログを主催しているきっこさんのツイートに印象的なものを見つけた。今回のエントリーは、いよいよ「万引き行為」について書こうと思ったのだが、このツイートが印象的だったので、「他者への批判」というテーマでちょっと考えてみようと思う。印象に残ったきっこさんのツイートは次の3つだ。

「kikko_no_blog あたしのスタンスは「自分のブログに自分の思ったことを書く」というもので、自分と考えの違う他人のブログに反論のコメントは書きません。それは、人の感性は人それぞれだと思っているからです。自分の考えだけが正しいのではなく、自分と違う考えの人も正しいと思っているからです。

 kikko_no_blog たとえば、誰かを殺してやる!だとか人道的にも社会的にも批判されて当然のことをつぶやけば、見ず知らずの人から批判されても仕方ないと思います。でも思想的、政治的なことで「自分とは違う」というだけで見ず知らずの相手に批判のコメントを送りつけてくるのは単なる主観の押し付けです。

 kikko_no_blog 皆さん、ごめんなさい。何が何だか分からなくなってしまいました。ただ、あたしが言いたかったことは、相手を批判するにしても、お互いに顔の見えないネットだからこそ、せめて最低限の礼儀くらいは守って欲しい、ということです。」

きっこさんは、ブログでは公人と呼ばれるさまざまな人への批判を綴っている。最近の鳩山総理に対する批判などは、かなり厳しいものだが的を射た鋭いものだと思う。これは、ブログへ書き込む個人に対する批判とは違う。公人というのは、その発言も行動もすべてが批判の対象に晒される責任の重い地位にいる人間のことをいう。批判を受けて当然の対象だからこそ、自分はこう思うというような意見表明が許されるし、意味があるのだと思う。  続きを読む
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足立幸信さんとのやりとり 6  「犯罪性」をその「行為」から考えてみる

法律に規定されているから「犯罪」である、と判断するのではなく、「行為」の意味から、その「行為」に「犯罪性」があるかどうかを考えてみようと思う。そうすることで、何が「犯罪」の本質的特徴なのか、どのような要素を持っていればその「行為」が犯罪だと判断できるのか、ということの結論が見いだせるかもしれない。さまざまな現象で、これは「犯罪」だと判断していると思われるものを探してみよう。

まず目についたのは、「週刊 上杉隆」というネット上の記事の

「ついに歴代首相・外相を国会召致か? 「核密約」を闇に葬った政・官・メディアの重い責任 2」

という記事の次の記述だ。

「一方で「密約」を隠し続け、最終的に2001年、不都合だと思われる外交文書の大量廃棄を行なった外務官僚の罪は重い。「国民共有の知的資源」(有識者報告書)である外交文書を廃棄したことは、歴史の破壊ともいうべき抱唾棄すべき行為だ。それは犯罪的ですらある。当該、外務官僚はいったいどう責任を取るつもりなのか。」

この文章が書かれているのは、「核密約」に関する岡田外相の記者会見を報告する記事の中でだった。「核密約」そのものは、すでに米国の公開文書の中で語られていて、もはや秘密でも何でもなくなった、公然の事実として暴露されていたものだった。それであるにもかかわらず、日本政府(外務省)は、この密約がなかったものとして隠し続けた。

そして、岡田外相の報告では、なかったことにしていた密約の証拠が出てきては困ると考えた者が、それについての外交文書を大量に廃棄したということがいわれていた。この「密約の証拠となる外交文書の廃棄」という「行為」が「犯罪的」だと上杉さんは判断している。この「犯罪的」だと断じる根拠はいったいどこにあるのだろうか。それを考えてみたい。  続きを読む
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2010年03月19日

足立幸信さんとのやりとり 5  「犯罪行為」の意味とその判断

「犯罪」という言葉の意味を詳しく考えてみたいと思う。この言葉について、我々はある種のイメージ(概念)を持っている。それは、現実の事件を見たとき、そこに「犯罪性」があるかどうかを直観的に判断しているからだ。明らかにわかりやすい判断というのがある。

たとえば人を殺したりする「殺人」という行為や、人のものを盗む「窃盗」という行為に関しては、我々はそれをすぐに「犯罪」だと感じる。しかし、かなり判断が難しい事件に対しては、我々はどのように「犯罪性」を判断するだろうか。

一つの判断として、法律に違反しているということで「犯罪性」を判断する場合がある。殺人や窃盗は刑法に違反しているので「犯罪」だと言うことが出来る。しかし、殺人や窃盗は、法律を参照せずとも、その現象を見ただけで我々は「犯罪」の臭いを感じる。法律とは関係なく「犯罪性」の判断が出来るような気もする。

法律とは独立に「犯罪性」を判断できるかどうか考える材料として「治安維持法」という法律を考えてみようと思う。この法律は、ウィキペディアの

「治安維持法」

に寄れば、昭和16年に制定され昭和20年に廃止されたという。つまり、この法律で禁止されている「行為」は、昭和16年以前には「犯罪」ではなく、昭和16年から昭和20年の間には「犯罪」となり、昭和20年からは再び「犯罪」でなくなったことになる。  続きを読む
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2010年03月18日

足立幸信さんとのやりとり 4  政治資金規正法の「違法行為」

政治資金規正法については、その「違法行為」が「犯罪行為」となるかという判断において、意味の差異から、「違法行為」ではあるけれども「犯罪行為」ではないという「行為」が存在すると僕は思っている。これを思っているだけではなく、論理的に説明するには、「違法行為」と「犯罪行為」の意味を明確にしなければならない。そこでまずは「違法行為」の方の「意味」を詳しく考えてみようと思う。「犯罪行為」に関しては、後のエントリーでまた扱うことにして、まずは「違法行為」の方から考えてみようと思う。

これは、「万引き行為」と「窃盗行為」の差異を考える発想の仕方と通じるもので、僕はこの二つを区別して概念化するので、「万引き行為」は「犯罪行為」ではないという結論を論理的に導こうとしている。「窃盗行為」の方はすべて「犯罪行為」だと考えているので、「万引き行為」と「窃盗行為」の差異を示すことで、論理の前提としたいと思っている。だが、これはもう少し後でエントリーにしたいので、今はとりあえず、政治資金規正法の「違法性」の方を考えてみたい。

さて、これを考えるヒントは、

浅井久仁臣 グラフィティ
「「今日のニュースを読む」 小林議員政治献金問題」(2月17日)」
「「今日のニュースを読む」 北教組の政治資金規正法違反」(3月11日)」

の二つのブログエントリーだ。3月11日の方には、次のように政治資金規正法の21条が書かれている。  続きを読む
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