大学の卒業式と重なったので、西鶴研究会には参加できなかったので、当日の議論を聞けなかったのはとても残念です。

特に、広島さんの発表に関しては、私自身、明治あるいはそれ以前からの西鶴研究史(だけに限りません。近世小説史というべきか)から洗い直していく必要を感じているので、聞きたかったなあと思っています。

ぜひ早めに活字にして下さいね。

さて、そのことに触れて、飯倉洋一さんの下記ブロクで、私の発言に関して批判がなされています。

http://bokyakusanjin.seesaa.net/article/392983978.html

この件で論争をする気はありませんが、降りかかる火の粉を払うため、当方の真意を説明しておきます。

(以下は引用)
中野先生のいう「近代主義」は50年前のものだとか、今はだれも近代主義的な読みはしていない、というような私に言わせれば「揚げ足取り」のようなことを言って何になるのだろうか? そういうことが中野説の要諦なのではない。
 

私は「揚げ足」を取るつもりで書いたのではありません。今回の中野論文は、私にはちっともおもしろくなかったし、参考になるとも思えなかったので、その原因はどこにあるのかと考えたとき、そういう古い研究モデルを仮想敵にして西鶴研究の現状をあげつらおうとしたところにあるのではないか、と思ったので書いたのです。

また、「文学」に投稿したから開かれている、という言い方もヘンです。開かれていないと感じたのは、今回の論文の内容に関してであり、媒体の問題ではありません。(同じ号の他の論文がコラムに取り上げられていた、というのは、あくまでもひとつの例にすぎません)
それから、我々が、開かれた論文を書いているかどうかは、とりあえず、別の問題です。

中野先生が文系基礎学のときに、八面六臂の活躍をされたことはよく知っています。ブックレットも読みました。頑張ってください、応援します、という気持でずっといました。

「和本リテラシー」に関しても、主張の御趣旨はよく理解できましたので、私のできる範囲で協力してきたと思います。

しかし、そのことと、今回の文学の先生の論文をどう評価するかは別です。
先生が批評を求めておられるとのことでしたから、私の感じたことを率直に書かせていただきました。
失礼な書き方になったのは、私の不徳のいたすところです。が、もとも人間がそういうふうにできているので、こればかりはしようがないと思います。その内容が、たぶん、飯倉さんには、不愉快に感じるであろうことも、予測の範囲内にありました。
それでも、やはり、書いた方がいいと思ったので、書きました。

以上です。

この件について、私は、これ以上コメントするつもりはありません。