二つめの畑中さんの発表について。

実は、副題に出ている『諸州奇事談』も『花実御伽硯』も、目下編集をすすめている怪談叢書(仮題、国書刊行会から今年出る予定、全五巻)にいれる予定でいるので、これは、かならず聞いておかないといけない発表だったのです。

畑中さんご自身は、『浮世草子事典』の担当項目だということで調べたもののようです。
そのために、『花実御伽硯』が、写本の怪談本『続向燈吐話』を書き改めたものであり、その一部は、『諸州奇事談』とも重なる、というような調査内容に基づき、その内容の、どういう点が「浮世草子的」であるか、というような観点でまとめることになったようです。

『花実御伽硯』と『諸州奇事談』は、江戸で出た刊本の怪談本で、『向燈吐話』『続向燈吐話』という写本は、そのネタ元らしいのですが、写本については、会場からの発言にもあったように、その素性などについて、なお調査が必要でしょう。

ただ、写本を刊本にするにあたって、工夫をこらしているところに「浮世草子」的な要素を含んでいるというふうまとめてしまうと、「浮世草子」的とはどういうことですか?、という問いが当然出てくるはずです。
そして、その問いは、とても大きな問いになってしまって、大変なことになってしまうような気がします。

畑中さんが引用していた「浮世草子の汽水域」の執筆者篠原進氏からの発言でよくわかったのですが、『花実御伽硯』は、浮世草子年表には登載されています(それで事典の項目になったのでしょうが)。篠原氏の問題意識においては、こういう「怪談本」を浮世草子に入れてもいいのだろうか、というあたりにあったそうです。その疑問が、「汽水域」という言い方になったのでしょう。

以下に、研究会での、私の発言を敷衍しておきます。

私の大学院の時代、近世文学会では、仮名草子の発表がよくありました。そして、そういう発表では、しばしば、ある作品を、仮名草子のどの分類に入れるか、とか、仮名草子とみなしていいのか、というような問題意識で、なされるようなことが多かったと記憶しています。

ただ、その当時から、そういう議論の方向は、あまりおもしろくないなという感じを持っていました。

しかし、いま東京堂から出ている『仮名草子集成』は、西鶴以前の散文ならなんでもいれる、という方針のようです。以前、指導していた院生が、『三綱行実図』について調べているというので、それは実用書で仮名草子ではないでしょう、と言ったら、でも、『仮名草子集成』に入っています、と言われ、調べたらそのとおりだったので、びっくりしたのを覚えています。でも、こういう方針の方が、現実には「仮名草子の時代」をイメージしやすくなっていて、意義のある叢書になっていると思います。

浮世草子にしても読本にしても、同様の問題があるはずです。こういうジャンル呼称とその定義に関しては、厳密にやればやるほど、分類のための分類ということになってしまい、実態に合わないことになってしまいます。だから、西鶴が活躍した時期とか、八文字屋本全盛期のように、実態のイメージがしっかりしていた時代はともかく、そのあとの時代のものについて扱うときは、特定のフィルターをかけずに、ひとつひとつをみていく方が有効だと思います。

『花実御伽硯』に関して言うと、『向燈吐話』『続向燈吐話』という写本や『諸州奇事談』を含め、「怪談」のもとになったグループがあるようで、その点がとてもおもしろいと思います。『向燈吐話』『続向燈吐話』という写本をネタ元と認定していいものであれば、写本にある人名や地名の情報が、刊本であいまいになっている点などに、「怪談」がハナシや噂のレベルから、刊本として公になっていくプロセスが想定できそうです。「怪談」の典拠は、中国種や古典種が多いので、こういう同時代的なものが、「怪談本」としてまとめられ、刊行されていくプロセスを想定できるようになれば、この時期の小説のひとつのあり方を示唆するものとなって、とても有意義だと思います。西鶴とか浮世草子とは、あまり関係ないかもしれませんが、そういうところでまとめる方が生産的になる材料だと思いました。