仕事は志事へ~大学を考えるblog

文科省で高等教育行政を経験後、早稲田大学に移った人のブログ。教育の話(特に大学)。理論も大事だが実践も大事。発言は、所属組織を代表するものではありませんので、御了承下さい。 ※プロフィール詳細; 2003年文部科学省入省。初等中等教育局児童生徒課でのいじめ自殺問題への対応などを経験しつつ、高等教育局大学振興課(大学の質保証)・私学助成課(私立大学振興)・大阪大学出向(SGUなど大学改革の企画立案)・官房人事課(国立大学教員人事制度)など高等教育行政に6年超携わる。2015年10月より早稲田大学職員に転身。

去る12月10日に阪大で開催された、28年度第2回日本高等教育開発協会(JAED)研究会に参加して得た感想に、今日は触れたいと思います。

同研究会は、少子高齢化、グローバル化、IoTや人工知能の普及といった社会の変化に伴い、大学、そして大学教員の役割が大きく変化しつつあります。日本の大学の未来にインパクトを与える取り組みをされている、3名のシンポジストをお迎えし、2030年頃の大学教育、大学教員、FDがどのようになっているのかを予測します。」という触れ込みで開催され、3名のシンポジストとは、九州国際大学から北陸大学に移られ、学長補佐として様々な教学改革を精力的に進めている山本啓一氏、NPO法人NEWVERYの理事長であり、学生の中退問題などから紐解く大学の魅力化・募集戦略などマネジメントの見直しを積極支援する山本繁氏、新時代の大学を牽引する存在であるミネルヴァ大学の日本事務所におられる山本秀樹氏と、まさに山本尽くしの様相でした。ここにJAEDの副会長も務める佐藤浩章氏も加わる形でパネルディスカッションが行われました(司会:川島啓二氏)

 

それに先立って行われた4者の講演で、印象深かった内容をまず記します。

・専門家であればあるほど社会の将来予測を外す。専門性を極めた大学教員であっても気をつけるべき点。

AIと様々なアーカイブ(アナログ・デジタル)をアクティブ・ラーニングや反転授業を介し組み合わせることで、例えば人文科学の将来を救うことができるかもしれない。

・広報は「競合校に合わせるのでなく、競合校と差別化すること」、「教育内容でなく教育成果を伝えること」、

・「広報だけ変えるのでなく、教育と広報を変えること」が必要。教育と募集は別ではない、教育が適正に評価される環境を自ら作り出していくこと。

・ミネルヴァ大学にキャンパスはない、学生寮のみ。すべて反転学習で、PBLを各都市(4年間で世界7つの都市)のそれぞれの環境で進めていく。卒論期間が実質2年存在。1つのクラスは最大18人(事前課題提出必要)で、オンライン上で一斉に顔が見える状態→各学生の発言量をリアルタイムで測れるため、効果的に参加を促せる。学生同士のディスカッションの様子を他の学生が採点(理由も求められる)。授業の様子はすべて記録され、授業での発言が事前に設定した課題に対する解決度により即座に採点される(定期試験がない)→次の授業までに自己改善すべきポイントが即座にわかる(半年後・四半期後のフィードバックでは遅いという前提)。全世界から16,000人が受験し、合格率2〜3%→厳しく質を管理。

・教員が、いわゆる研究メイン・教育メイン以外にも、役割に応じ今後更に多様化していくだろう。処遇・採用がセットで変わっていかないと日本は立ち遅れてしまう。

 

この後のパネルディスカッションは、まさに「大学教育の未来を考える」らしくカオティックな様相となりました。それはそうでしょう、現場で一線張っている人からすればどうしたって現在の自分の取組み・考えの延長線に未来を描いているわけで(そうでないとおかしい)、一方でそれとは関係なく「大学教育の未来の姿は?」という角度からコメントを求められても、なかなか効果的なやりとりは進まない。しかし、私は、それでよかったのだと思いました。頑張れば頑張るほど見えなくなるものってある気がしています。時にふっと我に帰るような感覚をパネリスト・参加者が持てれば、その時点であの企画は一定程度成功だったのではと思います。

私自身が中座してしまったので振り返りとしては中途半端なのですが、パネルディスカッションの前半は、結局教員の人事だよねという話になりました。ミネルヴァ大学ではテニュア制度はないのに、教員の採用率の方が1.4%と学生の合格率より低いという事実が、テニュア以外の要因でこそ高い能力を有する教員を集めることができる可能性をクリアに伝えていました。テニュア制度という優秀な教員を採用する上で不可欠だと一般に受け止められている仕組みが逆に大きな制約要因となりうるというのは、あらゆる大学マネジメントの方向性に対し痛快な皮肉をぶつけています。すとんと落ちたのは、「きれい事をいろいろ言っているが、結局大学に今いる人に合わせて大学の目的を作ってしまっているのではないか。それが本当に理想的な大学なのか。」ということでした。

教員像、教員の働き方も多様になっていかなくてはならないというのは、もともと私が主張している意見でしたが、これも話題にのぼりました。個人のパフォーマンスとモチベーションを向上させる上では、大多数の安定を守るやり方よりも、エフォートを明確に分けながらそれぞれに応じた評価制度と処遇を紐付けていくことになっていくのでしょう。

ICTによる大学教育のイノベーションも話題にのぼりました。間違いなく将来、ICTが人間の脳の外部媒体の役割を担っていく中で、いわゆる記憶力のようなものはほぼ必要なくなり(ないし十分育成することが難しくなる)、考えるより調べた方が早い時代が来る中、「考える力」をどう育成するか。同時に、学びが教育機関の支配下外であっても、本人の気持ちの持ち様次第で多様に成立し、評価可能になってくるので、学び自体がポータブルなものになっていく。そうすると、学位とは、124単位の意味とは何なのか。私は役人時代散々に「質保証」という言葉を使ってきたわけですが、制度論・べき論より学びの多様化の実態の方が先行した時、いちはやくこの流れに乗って様々な提供プログラムを大学はモジュール化・可視化していかないとユニバーサルな新しい教育に対応できなくなる恐れを強く感じました。

大学マネジメントに関しては、「戦略なき実行の横行」という言葉に深く共感しました。ミドルマネジメントの不在が大きく関わっていることは間違いありません。戦術よりも、戦略を、その前に組織のミッション・ビジョン・バリューの再定義が必要なのです。

 

結局、誰かの何かに合わせるような改革は何の得にもならない。かといって動かないことはただの停滞でしかない。それでは新しい大学の姿とは何なのか、大学教育は何を理想とすべきなのか。これを一人一人が柔軟な頭で考え続けるしかないのだと思います。誰かに学ぶ、誰かが作った仕組みを参考にするではなく、まさに未来を切り開くFuture Developmentとして。

※追記:表題及び最後の表現について、FDに対し新たな定義を試みたというつもりはなく、比喩的表現として記載したつもりでしたが、そのような趣旨が十分表現されておらず誤解を招いてしまったため、一部訂正し、お詫びに換えさせていただきます。

http://www.mof.go.jp/about_mof/councils/fiscal_system_council/sub-of_fiscal_system/proceedings/material/zaiseia281104/02.pdf

今回は、義務教育諸学校の教員数削減の方にメディアではフォーカスされていますが、相変わらず大学予算についても触れられています。ただし、近年の傾向と同様に「国立大学法人運営費交付金」と、国立大学の基盤的経費だけ取り上げた形になっていますが。
まあ、ここで敢えて、「私学の自治」を考慮せず、財務省の方で額や予算内容を差配しやすい国立大学だけを取り上げているわけですから、この資料は高等教育財政全体のあり方を論じたものではないのだけども、中身を見るとゴチャ混ぜな面も。
出典となっているOECDのデータのどの部分を活用して作られたものなのか等、元データと照らし合わせて確認していかないといけないので、今日のところは雑駁な感想でお許しください。

・P18
 以前の財政審の資料にもコメントしたことがありますが、グラフの縦軸がゼロから始まっていない、目盛り幅も異なるこの2つのグラフは、意図的に「変動の割合、数」を大きく見せるために印象操作されています。ここでは「運営費交付金は減少しているけど、それ以上に公的支出は増えている」という印象を。
 ただ、ここではそれ以上に、左は予算ベース、右は決算ベースのデータであることがフェアではないと思います。会計のことは残念ながらわからないことも多いのですが、附属病院関係がどのように作用しているのかが気になります。
 人件費にしても、世の中の動きに合わせた定年延長などによる教員の平均年齢上昇分の、いわば当然増分がどの程度考慮されているか。

・P19 
 ここでいう「教育経費」「研究経費」が、いわゆる人件費や施設費(研究経費の方では減価償却費は考慮されていて、これはこれで少し変と思いますが)を除いて算出されているのがまず疑問。現場で主に言われているのは教員の雇用や施設の高度化・老朽対策の話であって、それ以外の費用については伸びています!って、何を言いたいのかがちょっと。
 「学生1人当たり…」については、海外派遣・受け入れ、ICT環境整備など教育環境をよくすれば当然に経費は上がるのであって、この増加割合に対し予算の増加割合が追いついていないという話なのだが…要は「日本の国立大学の授業料も引き上げるべき」と言いたいデータと理解します。
 「教員1人当たり…」については、母数となっているのがいわゆる専任教員のみなのか、任期付教員も含んでいるのかわかりませんが、もし前者だとしたら、何をかいわんや。
 ついでに、東日本大震災以降の電力価格高騰、電子ジャーナル高騰など、大学の方では如何ともしがたい要素での増額分がどの程度なのかも知りたいところ。
 この手のデータでよく使われる「1人当たり…」、これってわかるようでわからない指標です。

・P20
 ここでいきなり、私学も含めたデータになります。
 公財政教育負担を比較するのもいいですが、私学が多い日本では私費負担額も相当に上るので、そこを考慮せず国の財布での出し入れの比較だけしても、教育財政論としては不十分ですね。

・P21
 ここのグラフでは伸び率などが一切入っていない(敢えてだと思う)のですが、少なくとも欧米の高等教育向け公財政支出の伸び率が日本のそれを大きく上回っていることは、少し割り算をすればわかります。「財政が苦しい日本はそれでも高等教育の公財政支出は何とか増やしている、一方、欧米先進国は社会保障以外の支出、特に高等教育の公財政支出を増やしている」というのがデータの素直な読み方ではないでしょうか。そのような状況下で日本が高等教育の公財政支出を絞れば、ますます欧米先進国の大学と差が開くことは自明です。ここで出てこない中韓やアジア、中東の高等教育ではさらに費用をかけてきているという事実も。

・P22〜24
 ここまでのデータは、高等教育財政全体が量的に見てどうかということに関する推論の根拠であったと思います。そして、財政審的には「高等教育の公財政支出は増えている(ないし、少ないわけではない)」としています。
 ただ、公財政支援において短期間での成果を求めるプロジェクト的なものの構成割合が高まってきていることに関する批判について、この資料では答えていないと思います。そのことがこの資料において残念ながら最も欠落しているポイントではないでしょうか。

 SD義務化が決まって以降、各大学では「このタイミングで何をすればよいのか」「どうすれば義務を履行することになるか」といった受け止めが、当然ではありますが、広がっているようです。

 昨日は北海道FD・SD協議会でお話しをする機会に恵まれたのですが、少し驚いたのは、「SDとは大学が対象職員に対し義務的に提供する研修(自発的な勉強会の集まりや自己研鑽の場は「勤務時間外で」とされるにとどまらず、そもそもSDという位置付けを与えられていないことが多い)」、「今回の義務化を契機に、そうした義務的な研修について更に何かを加えていくことで対応することが求められている」という受け止めが想像以上に多いことです。

 現行、多くの大学でのSD研修は、従前から存在する階層別研修を軸に構成されており、故にその内容のほとんどが対象職員からみれば義務的なものが多くなることは必然ではあります。一方、以前からも触れている通り、SDは職員研修の話だけをしているのではなく、これからその大学がどうありたいか、そのためにどのような大学運営の仕組みを構築するか、それを支える職員や事務組織の姿はどうあるべきか、というものであり、義務化のタイミングでこれらを再度見直すことが事実上推奨されています。このような中で、職員が闊達に執行部に対し経営戦略上の提案をしていく、そのための専門性を備えていくということが求められている事情を踏まえると、必要な研修が必ずしもすべて「義務的な」もので構成されている必要はありません。

 職員のキャリアを組織内での人事異動をどうしても前提に考えざるを得ず、その一方で組織によって要求される専門性が異なることを踏まえれば、組織が提供する研修よりもむしろ職員が自身のキャリアアップや大学運営の改善に関する内発的な動機をいかに喚起し、持続させ続けられるか、それによって継続的な成長を促すことができるか、という観点が非常に重要と思います。

 SDの義務化は大学に対するものであって、職員に対するものではありません。「職員が育つ機会を大学が提供することが義務付けられている」ことをまずは再確認した方がいいのかもしれません。

 組織全体の力量の向上を図るために、研修の機会にできるだけ多くの職員が関わる方がいいとは思うのですが、義務化することで研修内容の水準はほぼ確実に下がります。大学が組織全体としてどのような資質能力を有する者を抱えているのが最良なのかと考えた場合に、現状との差を埋めるために義務的な研修で補う部分と職員の内発的動機に委ねる部分とのベストミックスを考えてはいかがでしょうか。

 また、自主的な学びの場が「本業に余裕があれば」という位置付けになってしまうことがどうしても多いようですが、大学が組織として職員に命じる仕事と、本人が本質的にやりたいことが実は合っていないということは今後も確実に起こりえます。最も意欲をもって取り組みたいことがすべて業務外と整理された場合に、悪いのは「意識高い系」と括られる職員の方なのでしょうか。むしろ旧来の事務組織の業務自体が時代に合っていないのかもしれません。SD義務化は、こうした現状を見直す営みも射程に入れていることも考慮しておくべきだと思います。

昨日、URA(University Research Administrator)を中心に集まるRA協議会の第2回全国大会@福井、に出席し、「大学経営」のこれからについて考えるセッションに参加してきました。

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以下、私がお話ししたことのアウトライン(時間の制約上お話しできなかった部分を加味)を参考まで共有します。

 

大学経営という言葉が、ここ1年の大学行政において急に使われ始めました。端緒は昨年6月の「国立大学経営力戦略」にあるわけですが、謳われているのは学長のリーダーシップとそれに基づくビジョンづくり、ビジョンの下での戦略的資源配分を行いながら、公的資金のみに依らない財源多様化を図る、ということ。

しかし、私には「大学経営」という言葉にはもう1つ意味が潜んでいる気がします。経営は、その組織の持続可能性を保証するものでなければならないのですが、必要な財政の確保とともに、非常に細分化された大学における各運営(教育、研究、部局、講座、産学連携、施設、ハラスメント…)が、全体の方針を踏まえた一種のシナジーをもって自律的に営まれること、そのための仕組みづくりが大変重要に思うのです。

風呂桶に水がたたえられているとして、お風呂を温めるために、現状では学長ら執行部が熱いお湯となって風呂桶に注がれているわけですが、表面近くでバチャバチャやったところで、風呂全体は温まらないわけです。学長がいかに根気強くメッセージを発し、学内を奨励するとしても、限界があります。きちんと対流させる仕組みを作り、ゆっくりではあるけど確実のお湯が温まる方法を採用すること。この仕組みを作って大学を確実に変えていく取り組みを進めないと、そのうち、焼け石を投げ込まれ、熱くはなるかもしれないけど風呂桶自体も壊してしまうような、そんな改革をされてしまいかねません。

今、各大学で行なわれている改革は、大学の行く末に関心や不安があり、執行部と協力をしながら物事を進めていく、一部の教員の献身にかなりの程度負っている面があります。しかし、彼らは得てして教育研究力も高い教員であることが多く、疲弊しています。彼らに更なる努力を課すことを前提にした構想は、もう描くべきではないだろう。大学の人的資源が持つ力を本当の意味でできるだけ発揮できるよう、大学の総合力を下敷きにした構想をベースに組織の持続性を考えるべきではないだろうか。

 

このことを考える上で、それらを支え持続性を高める予算がもっと必要だという指摘があると思います。しかし、かのドラッカーが言うように、予算をベースに動く公的機関では、予算の多寡、前年度比○○というインプット量が組織の目標になってしまい、予算を通じ何を達成するかがどうしても二義的になってしまう。かつ、前年度踏襲をベースに組まれるものですから、古くて効果がないとわかっているものもなかなか破棄できない仕組み。予算に頼る組織は、どうしても既存の方針に沿って何かをやること自体が目的化してしまいがちで、そのことを通じどのような価値創造・転換を行うからが二の次になってしまいます。

予算自体が「金は出すけど口は出さない」性質のものであれば、このような弱点をあるいは乗り越えられるかもしれませんが、財政制約が厳しくなる中で、個別の予算も非常に多くの政府関係者と立法府側との調整を経て、決められます。その過程で「金を出すけど口は出さない」予算案を調整し通すのは至難の技です。予算配分者が配分先に配分後もどう関わるかが、今、非常に注視されています。

こうして配分者の裁量が大きく、もらう額の多寡ばかりが話題になり、古い大学の哲学や取組が捨てられない「予算依存主義」は、新時代の研究大学運営にとってあまり望ましくないと考えます。ファンディングを多様化することでフリーダムな自律性を獲得し、その中で進取的なビジョンと取り組みを検討していく試みが、研究大学の経営において強く求められていると思います。

 

以上のことを前提に、私は3つの仕組みのことを考えます。

(1)学長リーダーシップ云々で言われているように、トップがどのようなビジョンを示していくかは確かに大切であるけど、研究は研究者の内発的動機の下でしか実施できないのだから、研究をどこまでどう進めるかということはもう完全に教員の権限に基づくものだと確認しようよと。ただし、研究目標が桃源郷的で、そこに向かって何をやってもいいとか、歩みが進んでいても方向性が合っていればいいとか、そういうことは許さず、研究者の研究計画の達成目標を定立させ事後検証する教員のセルフマネジメントは求めていきましょうと。もちろん最終的にやりたいことは桃源郷でもいいけど、教員の責任において、当該年度など区切られたスパンにおける研究計画と目標について検証可能なものを的確に示していくべきである。でないと、それぞれのステークホルダーに説明ができないのではないか。

(2)(1)をベースにしながら、その達成状況を問うミドルマネジメントをこれから作っていきませんか。教員が研究においてどのような目標を定立するかは教員の自主性に委ねるが、その達成状況に関する説明責任をミドルマネジメントにおいて組み込むべきである。教員の活動を評価(evaluation)するのではなく、教員自身が立てた研究計画の検証・プロセス評価をするということ。そのためのミドルマネジメントの組み立てが、日本の大学における「対流」として必要なのに、イマイチ認識されていないのではないでしょうか。

(3)(1)(2)の実効性を確保するためにも、トップは、自らが理想とするビジョンの価値の総合化とステークホルダーとの対話のための戦略に照らしながら、学内コミュニケーションに努めること。それは危機感の共有かもしれないし、ミッションステートメントの共有かもしれませんが、いずれにせよ構成員が何らかのコミットメントを大学に対し感じていないと何をやってもうまくいかないでしょう。


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※他のセッションの写真

これらを肝とした大学経営の姿を作る過程で、URAのような専門職や事務職員は、トップ・ミドル・現場のそれぞれの局面で、学内コミュニケーション上の共通言語(エビデンスだったり、インフォーマルなルールの解説だったり)を提示したり、対話のための環境をつくるという役割が大学経営において重要ではないでしょうか。関係者がそのことを胸に秘めて行動するのも、研究大学におけるSDの姿なのかもしれません。 

SDstaff development)義務化を契機に、今後SDをどう進めていこうかという動きと悩みが全国的に広がっています。過日私も関わったアカデミック・カフェ・キャラバンの様子については、9月の大学行政管理学会などいろんな場でもご報告させていただく予定です。

ただ、以前から存在していたSDをめぐる課題が、義務化というタイミングで何か変わったわけでもなく、解決しやすい環境ができたわけでもありません。義務化前同様、あるべき大学運営とは何なのか、そのための大学職員はどのような役割を果たし、貢献するのかということを考え、各々が各大学の持ち場で努力するべきというだけだと思います。

 

SD義務化をテーマに全国各地・いろんな場面で勉強会や研修が催され、文科省の担当者も各地で大忙しという状況が見受けられます。この際、文科省との担当者がどういうことを考えているのか、国はなぜこのタイミングでこういうことを言い出しているのかを知る機会としてはとてもいいと思いますし、文科省の担当者も、そういった現場の担当の方とのコミュニケーションを介し現場のいろんな事情を把握し、次の政策展開に生かすことができる貴重な機会となります(私もかつてはそうやって育てられたという思いがあります)。

研修を介し確認できることも多々有ります。私自身は例えば、「大学職員の多義性」についてはもっといろんな見方がなされるべきで、事務文書を寸分の狂いなく整え、学内の別組織との関係で正確な事務上のコミュニケーションをとれることは立派な専門性だ、という指摘が印象に残っています。とかく研修では「既存の枠にとらわれず」ということを強調しがちですが、何も組織のはみ出し者を増やすのがSDでなく、SDは組織を多様な側面から支える様々な人材を育てるプロセスであるということを改めて認識しました。

一方、こうした学外の研修に参加するだけでは、参加者のレベルアップにはつながっても、前述のSDが目的としている課題解決自体にはほとんど影響がないことには留意が必要です。先にブログで述べたように、学外でなく学内の研修であっても、それ自体だけではSDとして成立しえず、様々な人材マネジメントの取組と連動しないとSDをやったことにはならない点を、今一度確認すべきかと思います。

 

学内で、SDの有用性を強調し、実践するだけでなく、SDを介して大学のどのような点を課題と捉え、どのような方法で解決を講じるか。そのためには、学内で多くの人を巻き込みつつ、具体的にマネジメントの仕組みを変えていかなければなりません。各職員にはもちろん権限・役割上の限界があり、やれることとやれないことがあるのは事実ですが(SDがよいものとなるかどうかについて、そのかなり部分は、マネジメント層がこの問題をどう捉えているかにかかっています)、それでも、それぞれの持ち場で何ができるか、それ以上に「やるのかやらないのか」が鍵になります。

 

これから多くの大学は夏休みに入っていくと思いますが、私としても十分に英気を養い、今年後半の仕事に弾みをつけていきたいと思います。

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