武道空手研究会

伝統的な武道空手の体感と体得。再現性の高い稽古法を追求しています。

稽古会詳細は武道空手研究会のホームページをご覧下さい。


対人関係でも想像力が欠かせない。


よりいい人間関係を作り、維持するためには自分の在り方と言う内向きの思考と、相手の気持ちを想像することができなければならない。


当然、自分の中で行われる思考は、現実と一致するわけではないが、人との関係を継続しながら見て、自分の考えと照らし合わせていけば、想像力もより磨かれていくと言うものだ。



武術でも治療でも、この現実感がもっとも大切なものとなる。

どちらも、自分の力量を評価するのは、自分以外の人間であるからだ。


武術であれば、自分が希望したとおりに相手が参ったしてくれるわけではない。


治療であれば、自分が思ったとおりに治ってくれる患者さんばかりではない。


これは常に実戦に身を置かれていると言うこと。


ただ、武術でも治療でも、意識しなければこうした“現実”からいとも簡単に逃れることができる。


いわゆるごまかしだ。




武術も治療もそれでも続けることができる。


どの様な形であっても。



ごまかしていると言うことは自分自身が一番よく分かるから、ごまかしている内は不安が消えることはない。



技が相手に通用しなかったらどうするか。


患者さんがよくならなかったらどうするか。



そういう状況に陥りたくないから現場に出る。



競技選手に技術を指導しながら、その他の戦闘状況も研究する。


怪我人が出そうな所、痛みを持った者がいそうな所に自らおもむき治療技術を試す。



そうやって、なんとかやれていると言うのが現状だ。


極論すれば、生きている間は不安がゼロになると言うことはない。


ゼロにすると言うより、常に自分が経験したことのない状況に出くわせる様でありたい。



そこで今まで培ったもので試していく。


そうしたことを続けていくことこそ、武術であり、治療であるのかと思う。



そうした作業を続けることで、想像力もまた上がっていくだろう。





武術に関して言えば、自分の都合のいい教え方をしない、と言うことだ。


できるだけ実戦的なもの目指したいのなら、指導している選手らが所属しているジャンルは不完全とも言える。


いずれも競技であるから、当然ルールがある。


実戦と言えば、不意打ち、闇討ち、武器、多人数などは当然となる。

当然、競技にはあり得ない。



前提が違うから武術とは違う、と言って、自分に教えやすい教え方、自分に都合のいい教え方をしてしまうのはどうかと思う。


それは指導者本人の実戦観がそのまま現れるからだ。


実戦的(?)技術のお手本を見せる場合も、その指導者が想定した戦闘状況しか用意できないからだ。



戦いとは、いつも同じ状況で行われるはずがない。


自分のもっている技術でさばきやすい状況で弟子たちに技をしかけさせる。

それを綺麗に受け流し、技を返し、相手を制す。


自分に都合のいい状況でのみの実戦もどき。

何一つ相手のためになっていない、ただの自己満足。


一つのスタイルを持つと言うことの弊害とは、そうしたことなのだ。


自分の貧弱な想像力の中での理想を相手にも押し付けてしまうことになりかねない。


そして、競技選手などは失敗し、現実を見る。


その責任を負えると言うのか。


一つのスタイルを持つことはいい。


いや、持たなければならない。


しかし、それがどれほど応用力のあるものなのか、それを常に問うていかなければならない。


応用力がある、応用させてみせる、その自信がなければ指導する資格はない。

 

稽古を進めていく中で、自分は今、ぶれているのではないか?

と思うことがある。

 

だが、そのことをさして悪いこととは思わなくなってきた。

 

ぶれるとは、今の自分からいったん離れること。

 

こりかたまった状態になっていないかと、自然に起こる危機感から、
自分を見直す時機を促している様に思える。

 

常に大局観を失わない様にするための無意識の反応か。

 

とは言え、ぶれる回数が多ければ、
それもまた安定していないと言うことになる。


そこは注意したい。

 

 

 

悔いると言う感情はめっきり減ってきた。

 

すでに四十六と言う年齢から残された時間を思うと、
悔いる間も惜しい気がするからか。

 


あと十四年もすれば還暦。


そう思うと、たいした時間はない。

 

今がこの程度だと、還暦の時にどれほどのものになっているのか。

焦りはしないが、余裕をもってもいられない。

 

そうなると悔いているヒマもない。

 

四十にして惑わず、とは、
自分なりにはそんな解釈か。

 

 

 

選手たちの稽古も着々と進んでいる。

 

週に一度の治療院での稽古、
月に一度は広い会場を借りての稽古会。

 

そんなペースではあるが、選手たちも
各自が所属するジム、道場にて日々磨きをかけている。

 

自分も進化し続けているので、
胸の中には常に伝えたいことがある。

 


常に指導できるわけではないが、
忙しい現代ならではのネット上の掲示板などが役に立っている。

 

疑問や技の伸展などを皆で情報共有できる。

とても助かっている。

 

 


 

体で言葉で、時には文字で技を伝えているわけだが、
一番大事なのは指導者たる自分の精神状態。

 

 

指導者の意識は、無意識の内に弟子たちに伝染すると言うことだ。

 

 

師がおごり高ぶっていれば、弟子たちもおごり高ぶる意識を持つ様になる。

 

師が悟りきった様な状態であれば、弟子たちも悟りきった意識になる。

 

師が現実感を喪失していれば、弟子たちも現実感を持たぬ様になる。

 

 

そんな精神状態で、厳しい現役時代を生き抜けるはずもない。

 

 

そう思うから、自らまだまだと思い、目標を持ち、
それを現実として感じられる状況に置いておかなければならない。


 

武術の上の境地は、人智を超えたものかもしれないが、
それに至る過程は、空想の世界でも夢の世界でもなく、
痛い思いと苦しい思いが存在する現実から始まるもの。

 

 

一つの流派が流派として、
技や稽古体系が整備されて成熟していく内に、
大きな弊害を抱えてしまうことがままある。

 

そして最大の罪は、その流派の代表者が
それに気付かずによしと思ってしまうことである。

 

その大きな弊害とは、
本来自由である戦闘のごく一部の展開のみの
中でしか稽古しなくなることである。

 

武器や多人数は当然だが、最初から求めるのも難しい。


これは段階的でよい。

 


しかし、一対一の勝負とした場合、


離れたところからよーいドンで始まる展開や、


広い場所を跳び回り、先に触る程度でも当たった者が勝利する展開、


禁止技が増え、近い距離で惰性の打ち合いが続く展開、


いずれも武術としては不完全。

 



すべての条件を満たすのは困難ではあるが、
工夫して前向きに取り組んでいかなければならない。

 


特に総合格闘技は現行の競技格闘技の中では、
最も自由な戦いを実践しているので、
その選手たちは非常に目が肥えている。

 


どんなに立派な理屈を言い、
どんなに見栄えのする模範演武を見せたとて、
それが有効であるかどうか、すぐに見分ける能力が高いだろう。

 


そういう選手たちと稽古を進められるのは、
環境としてはとても恵まれている。

 

もちろん、武術のあり方、目指すところは
現状の総合格闘技に収まるものではない。

 

その武術性を多少なりとも示せているためか、
彼らが古典の空手の動きや
各武器術の身体操作に興味を持ち、取り組んでいるのだ。

 


意識は高く、より技術を上げていってほしい。

 

そして、自分も常にもっともっと先をいくようでなければならないと思う。


つい先日、以前にも指導を行った、

ブラジリアン柔術やMMAを学んでいる

小学生の兄弟に指導をした。



まっすぐ打つ、




ノーモーションで打つ、



強く打つ、




連打でも速く、



組合でも強く、



その様な理想を可能とするためのこと。




それは第一に、


骨格のアライメントを正すこと。



第二に、


武道空手的な身体操作を体感させること。



どちらも他人に伝えるのはとても難しい。



その本人が、その骨格のバランス、

その動きの感覚を体感しなければ理解したことにならないし、

技術の習得にはいたるはずもない。


それを半ば強制的にと言うか、

否応なしに体感させてしまうのが、治療の技術によるものだ。



日々治療をしているおかげで、

相手に加える力の強さ、速さ、リズム、角度などをコントロールできる



自分自身がその身体操作を習得していれば、

相手に対しある程度は再現させることができる。



そして、その身体操作を自得できる様に、

武道空手の原理のエッセンスを単純に体感できるエクササイズをやらせる。




施術的に体感させる。


エクササイズにより自分で体感させる。



この2つの順序はその時、その相手により異なるが、

この両者を使い分けて、ダンサーたちにもボディコントロールを伝えている。


再現率の高さにこだわっているので、

その時できて、しばらくしたら自分ではできない、

などと言うのでは、教えていない、伝えていないのに等しい。



毎週の様に行っている稽古会の他、

最近はネット上の掲示板的なもので、

選手たちと常に情報をやりとりしている。


そのためか、武道空手の技術、原理の理解度も

早くなってきていると感じている。




彼らと付き合って数年、基本的な身体操作のエクササイズや理論は、

だいたいのところは伝えてきた。


その甲斐あってか、基本的な身体能力は上がってきていると思う。

しかし、ある程度出来上がった武道空手の技には、いまだ至っていない。


部分的な理解と習得だと言うことだ。




重力を利用し、可能な限り脱力したまま動くと言う、

一般的な運動法則、普通に生きてきた者が身に付けた運動習慣

とはかなり異質なものであるため、それなりに困難ではある。



基本的なことをだいたい伝えた今後は、

本格的に武道空手ならではの指導が必要と感じている。


とは言え、その域にまできた選手たちの
努力と工夫にも敬意を表したい。



その様な段階にあって、現在指導中なのは、




1、前屈立ち、セイシャン立ち(三戦立ち)、後屈立ちなどによる移動稽古



足腰の重心移動だけでなく、大事なのは腕の操作。


下肢と同時に上肢も同調し、全身が一体となること、

脱力からの全身の各パーツの重さが流れる様に動くこと、


などを学ぶのである。



2、長距離、中・近距離の間合いによる構えの変化と動き方


基本技は大きく伸び伸びやるのがよいが、
実戦においてはいきなり始まる様な場合や、
お互いがすぐに反応できる準備万端の状態で向き合っている場合など、
いつも基本にこだわっていては対応しきれない。


その点、総合格闘技などは、
打撃から組んで投げ、寝技、金網フェンスに押し付けての攻防など、
競技格闘技の中では一番、実戦的に近い形態であるため、
選手たちが課題としているものがとてもよい実験材料になっている。


何の実験材料かと言うと、

武道空手習得のための稽古体系

を組み立てていくためのものだ。




武道空手的動きができる様になると、

現在、総合格闘技で学ばれている技術体系の

セオリーどおりでなくてもよいだろう、

と思われる場面に出くわすことがよくある。



“ここで組みに行くのではなく、まだ打撃でいけるな”


とか、


“この様なガードポジションからでもいきなりパウンドいけるな”


“そんなにステップワークに頼らなくても、

武道空手的動きができれば、まっすぐ打てばいいよな”



など、いろいろある。





そして、それらがすべて平安やナイハンチなどの基本的な型、

移動基本稽古などの何気ない動作の中にある原理の応用なのだ。



それらのシンプルな基本動作に隠された深い理を

分かりやすく表に出してくるのが自分の仕事である。



基本や型を集中して何年やっても、

体得できない者はできない。



仮に体得できても、それに数年費やすには

現役選手には厳しい条件だろう。



しかし、それだけの熱意と時間をかけたものは、

一度身に付けたら決して忘れない、

と思ったこともある。



だが今はそうは思わないのだ。


感覚のすぐれた者が、数年かけて至った境地でも、

しばらく休むといとも簡単に下手に戻ってしまうことも実在するからだ。



現に自分はそういう人たちを見ている。



それらをもっとも根本的な人体の操作、

それらをできるだけシンプルな動作と原理を理解していたら。


結果は自ずと分かるだろう。




スランプに陥ったとしても

長くなく、大きな落ち込みでもなく、



技術は向上し続け、怪我も減る。



中期、長期で稽古ができなかった時でも

復帰するのが早い。


そういったことを実現させていきたい。


さて、今日もこれから選手らと稽古。

彼らが来るのを待つとしようか。

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