川口国際交流クラブニュース

川口市で活動しているNPO法人川口国際交流クラブの情報

ワッツジャパン(What’s Japan)No.16

“おでん”という食べ物、日本の食文化

日本語、日本文化などを勉強している外国人の皆様へ、これは日本語能力認定N2以上、もしくは同等程度の読解力、またはそこを目指している方々にぜひお読みいただきたい文章です。日本の歴史、文化、自然などを思いつくままシリーズで掲載(けいさい)しています。読み方の難しいと思われる文字にはフリガナを( )書きに、意味の難しいと思われる言葉はアンダーラインを引いて、区切りの良いところで解説しています。解らない漢字や言葉が出て来たら、辞書やインターネットなどで調べるなり、あなたの日本語の先生などにお聞きください。同時にこの文章は日本の方にとっても、普段(ふだん)何気(なにげ)なく理解していた事について“ははあ、なるほど”と思わせるような話題を提供(ていきょう)させていただいているつもりです。

前書き

日本に住んでいる外国人の皆さん、今一番寒い季節ですね。私達日本人は、こんな寒い時期にあったかい“おでん”を食べるのが、とても楽しみです。温かい“おでん”をふうふうハフハフしながら、お酒の好きな人は燗酒(かんざけ)を飲みならが、家族や友人、はたまた会社の同僚(どうりょう)と“おでん”の鍋を囲(かこ)んで食べると、体もそうですが、なんだか心まで温かくなってとても幸せな気分になってしまいます。
『振り向かず 返事もせずに おでん食ふ”』この句は高浜虚子(たかはまきょし 1874-1959)言う俳句の達人の作です。寒い冬に冷たい風を逃(のが)れて、飛び込んだおでん屋で なりふりかまわず、湯気(ゆげ)を浴びながら温かいおでんを黙々と口に運んだのでいるのでしょう。他人のことなど気にしないで、おでんを味わうひと時の幸福感が溢(あふ)れていると思えませんか?
(句は、産経新聞2018/12/13 歳時記より転写、“食ふ”は旧かな使い)。今回はそんな日本の食材として古くから定着している“おでん”を紹介させていただきます。

IMG1-2

前書きのアンダーラインの言葉の説明

ふうふう:オノマトペ(擬音擬態語)口で息を吹きかけて、熱い物をさましながら食べる様子。
ハフハフ:オノマトペ(擬音擬態語)熱い食べ物を口の中に入れてしまい、熱すぎて舌が火傷(やけど)を
しそうになるのを防ぐため、口を開けて外の空気を口腔内に呼び込む様子。
燗酒:かんざけ。温めたお酒(日本酒)のこと。熱燗(あつかん)とも言う。日本酒はお酒の種類や季節により、食事の内容で、温めて飲む場合と冷やして飲む場合(冷酒)、またそのまま常温で飲む場合がある。
なりふりかまわず:他人の目を全く気にしない様子。

1.“おでん”とは

“おでん”は寒い冬の時期に欠かせない食品、食材ですが、この食べ物のついては、出汁(だし)づくり、具材(ぐざい、おでん種)の選び方、味付け、食べ方、などはその地方、地方により大きな違いがあり、“おでんはこれだ”、“これがおでんだ”という決定的なものはありません。

浅草のおでん料理店の老舗(しにせ)“大多福(おたふく)”の四代目店主、船大工(ふなだいく)さんも、本の対談の中で『おでんというのは決まりがあるわけじゃないんですね。その土地に行けば違ってしまうし、入れる種類(おでん種、具材)だってみんなそれぞれ違う』と言っています。

『所(ところ)変われば品変わる』という“ことわざ”があります。まさにその通りです。
私自身も、外国人の皆様に“おでんはどんな食べ物か”と説明するのに初めから戸惑(とまど)ってしまうのです。そうは言っても、前述したように日本人と“おでん”は切っても切れない食文化であり、特に寒い冬には、外食(がいしょく)でも自宅でも、絶対と言っていいほど欠かせない食品です。

素人(しろうと)の私ですが、外国人の皆様に、できるだけ簡単に説明してみようと思います。
ですから、これはプロが書いた、“おでん”のグルメガイドではありません。あくまでも“おでん”ってどんなもの? どんな歴史があるの? などがテーマです。

アンダーラインの言葉の説明

老舗:しにせ。何代にもわたり、商売を続けてきた格式と信用のあるお店。
戸惑う:とまどう。どう対処(たいしょ)したらいいかわからなくなる。まごついてしまう
切っても切れない:分けたり、離す事などとても考えられないことを表す慣用表現
外食:がいしょく。文字通り外、つまり自宅以外のレストランなどで食事をすること。
素人:しろうと、プロや専門家ではないこと。

2.“おでん”その言葉の起源

“おでん”、おかしな名前ですね。名前だけではどんな料理かまったく想像できません。
室町時代(1336-1573)の頃らしいが、豆腐を串刺しにして、焼いて味噌をつけて食べたのが田楽(でんがく)と呼ばれる今で言うならば軽食(スナック)がありました。その後、いまでも見かけるコンニャクを竹串(たけぐし)にさして、焼いて木の芽味噌をつけたものも出てきました。

江戸時代には、豆腐料理100種を紹介した“豆腐百珍(とうふひゃくちん)”という料理のレシピ本に、すでにこの豆腐の田楽(でんがく)の作り方が記されていました。その形がなんとなく、日本の平安時代(794-1185)に出来上がった伝統芸能(でんとうげいのう)である田楽踊り(でんがくおどり)を連想させたようです。どうもこれを宮中の女官達が、自分達だけで話す独特の隠語(いんご)、(女房言葉と言うらしい)にして、それに丁寧にする“お”をつけて“楽”を省略してしまった。そう、お田(でん)、そして“おでん”となったようです。なんとなく、現代の若者が、言葉を省略するのに似ていませんか? ひとつだけ勉強しましょう。

田楽踊りは、その字のとおり、“田”という字が使われています。この滑稽(こっけい)な踊りは元来、田畑の豊作をお祈りしたことからと言う説もあるようです。

アンダーラインの言葉の説明

田楽踊り:一本の棒の横に足場をつくり、派手な衣装でバランスをとりながら集団で踊るもので、もともと田畑を耕すことをイメージしているといわれている。(イラスト参照)
滑稽:こっけい、おもしろくて、楽しくて、ちょっとばかばかしいこと。こんにゃく:東南アジア原産のサトイモ科の芋の一種で球茎(きゅうけい)から製造される食品。

IMG1_0001-11


3.庶民の食べ物として一般的になったのはいつ頃なのか?

江戸時代以前はどちらかというと上流階級のスナックのようなものだったのだろうか? それはさておき“おでん”が庶民の食べ物になったのはやはり江戸時代のようだ。
作家、狂歌、など文人として蜀山人(しょくさんじん)の異名を持つ大田南畝(おおたなんぼ)という人が1801年に著した“改元紀行(かいげんきこう)”という本の中で『東海道の目川宿(めかわじゅく、現滋賀県)、にある立場(たてば)という休息所には、菜飯(なめし)と田楽が名物であった。太田は、今何処にでもある目川菜飯(めかわなめし)と呼ぶのはここが発祥の地であると聞いて、伊勢屋と言う店に入って、その有名な菜飯(なめし)を頼んだところ、暖かい田楽の豆腐が一緒に添えられて来た、とても美味しい。』と書いた。

東海道を旅する人たちに人気を博(はく)した菜飯と田楽はやがて江戸に飛び火して、浅草に菜飯と豆腐田楽の店が次々と登場したらしい。目川菜飯は、この地方で盛んな“たくあん”作りで余った大根の葉っぱを細かく刻んで塩もみして、他の青菜を加えて炊き上がったご飯に混ぜたシンプルなものらしい。評判を呼んだのはどちらかと言うと田楽の方で、この地方では赤味噌作りが盛んであったため、豆腐、こんにゃくにちょっと辛い赤味噌が合っていたのでしょう。

さらに、喜田川守貞(きたがわもりさだ)と言う浮世絵師が1837年に書きあげた江戸、京都、大阪の風俗(ふうぞく)を現(あらわ)した百家事典、“守貞謾稿(もりさだまんこう)”には、このように書かれています。『上燗(じょうかん)おでん=燗酒(かんざけ)と蒟蒻(こんにゃく)の田楽(でんがく)を売る。江戸は芋(いも)の田楽も売るなり。けだしこの商(あきない)、また大いに異なるの扮(いでたち)をなし、ゆえに略して図せず。』

この百科事典は、もともと図解、イラスト入りの解説書なのであるが、ことおでんについては図解を諦(あきら)めています。『意味は、温めた酒とこんにゃくの田楽を売る店があり、江戸では芋(いも)の田楽も扱っていた。ただし、この商売のやり方、スタイルが多くあり過ぎて簡単には図解できないので省略する。』

つまり、江戸時代には冬に“おでん”と燗酒を売る店、屋台?(やたい)がすでに存在したと言うことである。ただ、その形態があまりにも色々あり過ぎて百科辞典の図には描けなかったらしいの、だ。さらに、関東では関西ではない芋(いも)の田楽があったことが書かれている。

後ほど、関東のおでんと関西のおでんの違いを説明するところがあるが、すでにこの時代から
イラストに描けないほどいろいろなおでんがあったことがおもしろい。前述の“大多福”四代目、船大工さんのコメントにぴたりと一致するものがある。

アンダーラインの言葉の説明

狂歌:きょうか、5,7,5,7,7の31文字で構成される詩が和歌とも短歌とも呼ばれる日本の伝統的古典文芸であるのに対して、狂歌は俗語を用いて、面白いことや、なにかを皮肉ったりした、ちょっと“おふざけ”のような短歌。俳句と川柳のような関係か。なお大田南畝は平賀源内とともに夏の土用の丑の日にうなぎを食べましょうというキャンペーンを張った人としても知られる。詳しくはこのシリーズのワッツジャパンNo. 2の『“夏バテ”防止の“切り札”? ウナギ(鰻、うなぎ)』 をぜひ参照してください。
飛び火:火事に時に火の粉が飛んで離れたところに燃え移ること。つまり短期間に伝わる様子。

4.煮込みおでんへの変遷

さて庶民の食べ物として、現在のような煮込みおでんは江戸時代、現在の野田市など、近郊で“しょうゆ”の醸造が盛んになったことがきっかけという説が有力らしい。それが当時上方(かみがた)と言われた京都、大阪に伝わって行ったと言う。この段階で関西では“おでん”のことを“関東炊き(かんとうだき)”と言うことになったらしい。関西では田楽のイメージが強かったので鍋物のような煮込みおでんと区別をしようとしたのであろうか? それとも、上方(かみがた)には、そんな伝統料理は存在しないという、今の言葉でいうと上から目線で表現したのであろうか?

上方に伝わったものは、関東大震災や空襲で東京がほぼ全滅状態のなかで、逆輸入のような形になった。そして、それからさらに時代の流れとともに全国へと広がり、その土地特有の具材などを加えられ“おらが街”のおでんが構築されていったのではないでしょうか?

アンダーラインの言葉の説明

上方(かみがた):京都および大阪を含むその周辺地方のこと。徳川家康が幕府を開いたころの江戸は、庶民の文化レベルは上方に比べて低く、上方から伝わってくる有用なもの、便利なもの、品の良いものを“下りもの”と呼び、珍重した。“くだらない”と言う形容詞は、下ることがない(連語)で、つまらないので江戸には伝わらないからきている。


5.出汁(だし)について

“おでん”の基本は出汁(だし)である。欧米的にいえば、スープの元になるものである。うまみの素である。関東でも関西でも出汁のベースはかつおぶしと昆布のようだ。関東ではこれに濃い口しょうゆ、みりん、お酒などで味をととのえる。これに対して関西では、主に牛すじから出汁をとり、薄口しょうゆ、塩などで味をととのえるようだ。基本的には関西風の方が出汁が澄んでいて味が薄いようだ。

ただ、そんな単純なものではない。関東でも、関西でもこの出汁に“おでん種(だね)”という多くの具材が加わり、それらの味が基本の出汁に加わり、複雑な味のハーモニーを造りだす。この具材を入れて煮込んで初めて本当の出汁は完成する。“おでん”料理の専門店であれば、独自の出汁と独自の具材選び、仕込みに始まり、煮込んで、出汁と具材が調和してそのお店独特の絶妙の味となる。出汁を作る上で余分な癖のある物質“あく”を除いてまた翌日の出汁に使用して、それを毎日繰り返し伝統の味となる。いわゆる“秘伝の出汁”というわけである。この出汁こそはお店の生命線であり貴重なもので“門外不出”(もんがいふしゅつ)である。


image2浅草“大多福”五代目が具材を出汁に仕込むところ。
この具材の量、選び方によって店本来の味のハーモニーが出来上がる。
一瞬の気のゆるみも許さない重要な瞬間である。
《撮影:今成佳恵氏》










image1ここの空いたスペースに具材を加えてゆく。
おでんの出汁、具材を四代目が子供を見守る先生のような顔になる。
《撮影:今成佳恵氏》









これが一般家庭であれば、自宅で出汁を作り、具材は“おでんや”と言う具材専門店で購入し家庭で煮込み、それが家庭の味となる。以下の写真はおでん種という具材を販売する店の風景である

IMG1_0003さいたま市浦和区“増田屋”さん













IMG1_0006川口市坂下町“港屋”さん













IMG1_0004築地場外市場“紀文”さん













IMG1_0005赤羽おでん“丸健水産”さん
(立ち飲み屋も兼ねる)
















愛知、名古屋あたりは、関東炊きに赤味噌をつけたり、煮汁に赤味噌を煮込んだものなど様々だが、おでんと言うと味噌おでん以外考えれらないとのこと。家庭でからしを使用した場合は“関東煮”と名前が変化するという。    
兵庫県に行くと、姫路おでんと言って薄味の出汁におろし生姜のつけだれで食すようだ。
青森は津軽味噌ベースでおろし生姜を混ぜた味噌だれ。姫路も醤油出汁におろし生姜を入れたつけだれあり
静岡は牛筋肉からとった出汁に濃い口醤油で味付けした黒いつゆが特徴、だし粉や青海苔を振りかけて食べる。
加賀風は貝類や蟹(カニ)、さらに加賀野菜。鹿児島は黒部和牛を桜島大根、全国色とりどりでキリがないのでやめましょう。

6.おでん種について

さて問題のおでんの具材であるが、次のようなものがある。残念ですがたくさん在り過ぎで写真やイラストにすると膨大になるので、種類と名前だけと若干の説明のみにする。

かまぼこ類:“かまぼこ”は白身の魚をすり身にして、すりつぶして味付けをし、さらに良く練りこんで、蒸し煮またはあぶり焼きにした食品類のことで、“つみれ”(さかなのすり身をまるく固めたもの)、“なると”(すり身を棒状にして中に食紅をいれて輪切りにすると渦巻きに見えるようにしたもの、“竹輪”(ちくわ、すり身を棒にくるんで固めたもの、真ん中が空洞になっている)、“はんぺん”(スケソウダラのすり身に山芋などをくわえて四角、または三角にしたもの)、“黒はんぺん”(鮫のすり身にまぜものをしたはんぺん、色が黒くなる、愛知、名古屋の特産などがある。名古屋だったら、はんぺんを注文するとさつま揚げが出て来ると言う説あり。

揚げかまぼこ類:イカ、えび、ウインナーソーセージ、餃子、ゆで卵、ごぼうなどを上記に記した     練り物を包んで揚げたもの。“さつま揚げ”(魚のすり身に野菜などを入れ込んで揚げたもの、関西以西では天ぷらと呼ぶ場合がある)、“ばくだん”(ゆでたまごを練り物で包んだもの)、

粉もの類: “ちくわぶ”(小麦粉をこねあげて茹でてかためたもの、真ん中が空洞で竹輪に似せた廉価製品のようだ。愛知、関西以西には存在しない。ちくわとちくわぶの中間に練りものを入れた白ちくわというものが出たこともある。“角麩”かくふ(グルテン、小麦粉、もち米を加えて蒸したもの、美濃(現在の岐阜南部)、尾張(現在の愛知県西部)の特産だった。岐阜、愛知以外では食べないらしい。

こんにゃく類:“しらたき”、“いとこんにゃく”、“板こんにゃく”(さといも科のこんにゃく芋の根茎を加工してつくる)群馬県、茨城県が産地。注:(この植物はもともとインドネシアなど東南アジア原産らしい)

豆腐類:“木綿豆腐”、“焼き豆腐”、“がんもどき”(豆腐をつぶして、にんじん、れんこん、ごぼうなどをいれて揚げたもの)、“厚揚げ”(あつあげ、豆腐の形をそのままにして外側だけを揚げた物)、“巾着(きんちゃく、油揚げを二つに切って袋状にして豆腐やお餅を入れたもの。

野菜類:だいこん、さといも、じゃがいも、ロールキャベツ、しいたけ、しめじ、えのき、たけのこ、にんじん、しゅんぎく、わらび、など。

魚介類:昆布、わかめ、たこ、“コロ”(クジラの皮を煎って干したもの、出汁にも使う。関西系)蛸(たこ)。

肉類:牛すじ(牛のアキレス腱、関西系)、ソーセージ、肉団子、つくね、うずら卵。

最後に、紀文食品が行なった全国7都道府県、20~50代以上の主婦1,400人のアンケート調査によると、好きなおでん種ランキングでは、1、大根 2、卵 3、牛すじ 4、こんにゃく 5、餅入りきんちゃく という結果が出たそうです。

おでんは、以上のように多くのおでん種を利用することにより、栄養のバランスが取りやすく、免疫力もアップするようです。どうか皆さん、ご自分の“おでん”見つけてみませんか?
それに“おでん”の鍋を囲みながら家族は友人との食事ほど楽しいものはありません。
また、お一人でも最近はコンビニなどでほとんど一年中おでんを御持ち帰りができて便利になりましたね。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

参考にさせていただいた資料:
明朝国語事典(電子辞書カシオEX-word dataplus9)
サイト 漱石と友人/高浜虚子と田楽|土井中照の日々これ好物
近世風物詩1、巻の六(岩波文庫)守貞謾稿
日本全国おでん物語 新井由己(あらい よしみ)著、生活情報センター 川口図書館にて。
江戸はことばの花盛り
Wikipedia 田楽
東京新聞 2018/12/23 世界と日本 大図解シリーズ おでん、(出会いの学校、鈴木初枝様所蔵)
産経新聞 2018/12/23 食フード歳時記 おでん、
産経新聞 2109/1/11 埼玉版 ほっこり手作りおでん 浦和増田屋、

ご協力賜り、またアドバイスをいただいた方々並びにお店など(順不同):
大多福(浅草)船大工様(特に4代目、5代目)、増田屋様(さいたま市浦和区)、港屋様(川口市坂下町)、
紀文様(築地場外市場)、丸健水産様(北区赤羽)。
NPO法人川口国際交流クラブ 渡辺伊佐男様、田島豊様、今成佳恵様
南口照美様(手作り家庭料理研究家 、川口市)


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

文、イラスト、写真撮影:NPO法人川口国際交流クラブ おおかわら
写真を含むページレイアウト:NPO法人川口国際交流クラブ 伊藤喜勝

発行人:NPO法人川口国際交流クラブ 理事長 伊藤喜勝

『第10回川口市外国人による日本語スピーチコンテスト』 開催のお知らせ

来る2月24日(日)に「第10回川口市外国人による日本語スピーチコンテスト」が開催されます。
川口市とその周辺に住む外国人住民が、テーマ『私が伝えたいこと』について日本語で発表しますので、皆さまぜひ聞きに来てください。
川口国際交流クラブでは、出場者に日本語指導を行っています。

supikonkaisaikokutiposuta


年末年始の国際交流コーナーについて

2019年1月3日の国際交流コーナーはお休みします。来年最初は1月10日です。お間違えのないようにお願いいたします。

産経新聞「産経抄」(2018年11月9日)

当クラブの日本語ボランティア、大川原孝裕さんの記事が産経新聞「産経抄」(2018年11月9日)に掲載されました。
IMG3
大川原孝裕さんは、当クラブのブログ「川口国際交流クラブニュース」ワッツジャパン・シリーズの主筆であり、かつ他の日本語教室でも活動しています。

ワッツジャパン(What’s Japan)No.15

金木犀(キンモクセイ、桂花)という花

日本語、日本文化などを勉強している外国人の皆様へ、これは日本語能力認定N2 以上、もしくはそこを目指して頑張っている方々にぜひお読みいただきたい文章です。日本の歴史、文化、自然などを思いつくままシリーズで掲載(けいさい)しています。読み方の難しいと思われる文字にはフリガナを( )書きに、意味の難しいと思われる言葉はアンダーラインを引いて解説しています。それでも解らない漢字や言葉がありましたら、インターネットや辞書、またはあなたの日本語の先生にお聞きください。同時に、この文章は日本人の方々にも普段(ふだん)何気(なにげ)無く理解していたことについても“ははあ、なるほど”と思わせる話題を提供しているつもりです。

こんにちは皆さん。ワッツジャパン  No. 15 をお届けします。
なんと、今回はこのニュースの読者で IT系の会社に勤めるかたわら川口市の日本語ボランティア教室に通って日本語を勉強している陳沐楊さんという中国の桂林(けいりん)出身の方から投稿がございましたのでご紹介します。以下ほぼ原文そのままです。


金木犀(キンモクセイ)のいい匂い、故郷の香り

IMG1-1『最近、通勤の道すがら漂(ただよ)う甘く芳(かぐわ)しい香りに気付きました。外にいる時はもちろん屋内でもうっすらと香るようになってきて、いよいよ秋という感じがしております。小さな花から漂うキンモクセイの香りは、なんだか私を懐かしい気持ちにさせてくれます。

私の出身地は中国南部に位置する桂林市です。桂林はカルスト地形と言って、長い年月をかけて石灰岩が作り出した、まるで山水画または水墨画そのままのような自然の造形美、風景に恵まれた世界的な観光地です。宋の時代の詩人は桂林の美しさを“桂林山水甲天下”と詠いました。文字通り、桂林の景色は天下一で他に比較するものがない、世界一だと言う意味です。毎年日本からの観光客もたくさん訪れています。

実は、私の出身地は道路に桂樹(金木犀 キンモクセイ)が多いことで桂林という名が付いているのです。桂林の秋といえばこの金木犀の花、桂花です。十月にちょうど桂花は満開の時期になります。今の桂林は町中にいい香りが漂っていると言っても言い過ぎではありません。

私はその香りが大好きです。香るたびにやっぱり秋には欠かせないな!と思っています。ふと気になり、ウィキペディアを見ると金木犀は中国南部原産の花で、江戸時代に日本に渡ってきたそうです。中国原産ということは、他のアジアの国にも咲いている可能性がありますね。しかし西洋の国々にはあまり馴染(なじ)みがないのかもしれません・・・

DSC_0252中国では金木犀の花びらと蕾(つぼみ)を白ワインに漬け込み熟成(じゅくせい)させた桂花陳酒(けいかちんしゅ)と言う甘い香りのするお酒があります。また花びらを干(ほ)した桂花茶と呼ばれる花茶もあります。どうです皆さん、金木犀の咲き誇る頃に私のふるさと、桂林に旅立ちませんか! 2018/9/30』

いかがですか、皆さん、金木犀の花の香りで遠い故郷を思い起こす陳さんの気持ちが痛いようにわかる素敵な文章ではないでしょうか。陳さんありがとうございました。

『林の道を出ると秋の風が少し強く吹いていた。風に乗って健一郎君の母親のつけている化粧品の匂いが鼻先をかすめた。それは今の季節にふさわしい、きんもくせいの花の匂いのようであった。』

この文章は椎名誠(しいな まこと)という作家が書いた私小説(ししょうせつ)「岳(がく)物語」の中の“きんもくせい”というタイトルの一文です。保育園に通う息子、岳(がく)がその保育園に引っ越して来たばかりの友達、健一郎君を自分の家に遊びに連れて来たので、自宅で小説を書いていた自分が子供達に冷やしそばを食べさせた。そのことに対し『小柄で細おもての、目鼻(めはな)だちのはっきりした美人』の健一郎君の母親がお礼に来てくれた時の自分(作家)の彼女に対する最初の印象である。次にまた自宅で子供達が庭で泥遊びをしてみんな泥だらけになったので息子の岳のシャツを着せて帰してやったら、また母親がお礼に来た。母親が帰った後、普段は仕事で外に出ている自分の妻が帰って来て事情を知って言ったのが『なんだか花の匂いがするわ、、、、、、、、“きんもくせい”みたいな匂いがするわ』である。

その後、子供達がまたイタズラで付近の農家の芋を盗んだので、自分(作家)と健一郎君の母親は一緒にその農家に謝りに行く。そして弁償金を自分がすべて払ったことを妻に話すと『そういえば昔からあなたはああいうタイプが好きだったもんね』、『ああいうタイプってどういうタイプ』と聞くと妻は『きんもくせいよ』と複雑な顔をするとある。

DSC_0227ある時、健一郎君は“僕のお父さんは地獄に落ちて死んだけど、お母さんに時々会いにくるヨシローおじさんも地獄に落ちた方がいいと思うんだ”と気になる発言。
その後、保育園の布団干しに親として参加した自分はまた健一郎君の母親と会う。そして『あの、それから急な話なんですけど、私たちはまたちょっと別のところに越すことになったんです。』と言われた。
『朝の風が私の方から彼女に向かって吹いているのか、その日は健一郎君の母親からきんもくせいの匂いはまったくしなかった。』 こども達はプレゼント交換をしてお別れをしたのだが、自分にとって、きんもくせいと共に現れたちょっと気になっていた女性は、きんもくせいの季節が終わるとともにいつの間にかいなくなってしまった。椎名誠さんはこんな風にその女性をきんもくせいになぞらえていました。なんとなく、切なさが漂(ただよ)う小説です。

*『 』は小説の文章そのままです。“ ”は本文を一部省略しています。

『鳶色(とびいろ)の瞳(ひとみ)に誘惑(ゆうわく)のかげり、金木犀(きんもくせい)の咲く道を、銀色の翼の馬でかけてくる、二十世紀のジャンヌ-ダークよ』これは、アリスというフォークロックグループが歌って大ヒットした“君の瞳は一万ボルト”という歌の歌詞です。

この曲は1978年に綿密かつ極秘に計画された“化粧品会社 資生堂”のコマーシャルソング”だったようだ。当初の計画は作詞の谷村新司(たにむらしんじ)作曲の堀内孝雄(ほりうちたかお)でデュットだったらしい。ところがいざ発表時になって谷村がこの時期、病気になり歌えなくなった。当時、資生堂のコマーシャルソングはヒットするのが当たり前の状況だったのでまず堀内孝雄のシングルで大ヒット。その後二人のデュエットもリリース。何かのイベントで山口百恵(やまぐちももえ)さんに加わっていただき、山口百恵さんが2番を転調して歌ったものが大好評になり、百恵の可憐さと歌唱力が歌のイメージにピッタリでした。その後にYouTube上、ネット上で再認識された経緯のある曲です。余談ですが同年、谷村は日本国有鉄道(現 JR)の旅行誘致キャンペーンソングとしてあの名曲“いい日旅立ち”を百恵に送り、山口百恵の最大のヒット曲となりました。


DSC_0248椎名誠さんの小説を引き合いに出したのは、筆者が金木犀をテーマにした軽い書物を検索した結果で、また“君の瞳、、、、”はもともと筆者がアリスというグループが好きだったので、金木犀をテーマに書こうとした時、この歌い出しのフレーズがすぐに頭に浮かんできました。そして面白いことに気がついたのです。陳さんの文によると金木犀は中国原産であること。アリスの“君の瞳は一万ボルト”」という曲の作詞は前述の谷村新司(たにむらしんじ)さんでアリスとしてまたソロシンガーとしても中国でコンサートを何度も行っており、2010年上海万博の開始イベントで日本を代表して“昴(すばる)”という曲を歌いあげ、その曲はそのまま中国で大ヒットしたという経緯があり、それ以前の2004年から名門、上海音楽学院の常任教授を務めていて日中友好の音楽による架け橋になっていることがわかりました。また、椎名誠さんも中国の奥地を舞台にした“中国の鳥人”というSF小説を書いており、金木犀がとり結ぶ不思議な縁を感じます。もちろん、中国を意識しながら、椎名さんが、また谷村さんが文、歌詩を書いたというのは考えすぎでしょうが。


DSC_0259さて、前置きが長くなってしまいましたが、今回も前々回の梅と桜の話題に引き続き花の話題です。今時分(9月中旬—10月下旬)の日本をオレンジ色の小さな花とその甘い香りで優しくおおってくれる金木犀(別名、桂花、丹桂)とはどんな植物なのでしょうか。植物学的な分類ではモクセイ科モクセイ属、学名Osmanthus fragrans var aurantiacus makinoと言うらしいのですが、陳沐楊さんの言う通り中国原産で丹桂(たんけい)または桂花(けいか)とも呼ばれる常緑樹であり、日本で庭木、街路樹に良く植えられています。学名はラテン語で、Osme は香り、fragrans はもちろん、香しい匂い、aurantiacus は黄橙色と言う意味があるそうです。最後のmakino はこの植物を学会に発表して学名の名づけ親になった“日本の植物学の父”と言われる牧野富太郎(まきのとみたろう)先生の名前だそうです。葉は狭めで細長く、幹がアフリカにいる動物のサイ(犀)の皮膚に似ているので木犀(モクセイ)という名になったと言われています。この植物は雌雄異株(しゆういしゅ)といって、簡単に言うと雄の木(おしべ)と雌の木(めしべ)が別々に生育するそうで、日本に輸入されたのは雄株だけなので実をつけません。そのため植木屋さんは、親木から枝を切り取り揷し木(さしき)にして育て、庭木など観賞用として販売しているそうです。庭木などに使用されるのは病害虫に強いという長所があり、それはあの独特のニオイが一部の昆虫に忌避行動(きひこうどう)を取らせるからだと考えられている。ただし大気汚染に弱いという短所があり、市の花として4、50万本が植樹されている桂林ではモータリーゼーションの急激な普及による排気ガスで一時問題になりました。現在では電動バイクの大幅な普及などにより改善の傾向にあるようです。

DSC_0250日本でも静岡県の袋井(ふくろい)市が平成21年、市民投票により花ではなく市の“木”として決められたようです。面白いことに同時に市の“花”はコスモスに制定されたようです。
さて、この金木犀の花言葉は謙虚さ、気高い人、真実、陶酔、初恋 などのようですが皆さんはどんな風に思いますか?

観賞用以外には、陳さんの言う桂花陳酒という花びらをワインに漬けて熟成したお酒があります。この酒は唐の玄宗皇帝が寵愛(ちょうあい)した美人妻の楊貴妃(ようきひ)のために造らせたとも言われ、この甘い香りのリラックス効果が彼女の美容と心身の健康に役立っていたと考えられています。なんとこの桂花陳酒にライチ、ブルーキュラソーを加えたカクテルの名前はそのまま“楊貴妃”と名付けられているそうです。もともと中国ではこの甘い香りのリラックス効果や不安を抑える鎮静作用が知られており、さらに過度な食欲を抑えるダイエットの効果があることも最近注目されているとの事。

お酒、お茶の他に、花を砂糖漬けした“桂花糖”というお菓子、花と蜂蜜の炊き込みご飯の“蜂蜜桂花飯”また、この花のお腹を温めて気の巡りを良くする作用を使った漢方もあるそうです。
桂花陳酒も、桂花茶もなんとなく自宅で作れそうですね。健康に良い自然食品、自家製桂花茶なんちゃって。



アンダーラインの言葉

カルスト地形=石灰岩地帯が長い年月の雨や地下水により熔解、侵食(けずりとられる)されてできた地形で石の柱、や鍾乳洞(しょうにゅうどう、地下の空間、トンネル)などができる。日本では山口県の“秋吉台(あきよしだい)が有名で特別天然記念物に指定されている。
桂林山水甲天下=これと同じような言葉に日本では“日光見ずして結構と言うことなかれ”という言葉があります。つまり日光を見るまでは他の観光地のことを結構だと言ってはならない。それほど日光東照宮、華厳の滝、中禅寺湖、戦場ヶ原の美しさは他に類を見ないほどであるという意味である。
椎名誠(しいなまこと)=作家、写真家、エッセイスト、映画監督 吉川英治文学賞など作品多数私小説多く書いている。代表作“さらば国分寺書店のオババ”1944年生、74歳、公式サイト “椎名誠旅する文学館”
私小説(ししょうせつ)=作者が自分自身の生活体験を綴り、自分の気持ちや感慨(かんがい)をそのまま小説にしてしまう独特の文学形態。わたくし小説。       
谷村新司(たにむらしんじ)=1971年、フォークグループ、アリスのメンバーとして、堀内孝雄、ドラマーの矢沢透(やざわとおる)ともに歌手人生をスタート、アリス時代、“冬の稲妻”、“チャンピオン”など多くのヒットを世に出した。その後はソロシンガー兼作詞、作曲家としても活躍。1948生 70歳。
堀内孝雄(ほりうちたかお)=谷村とともにアリスとして、歌手、作詞作曲家と活躍。谷村同様ソロシンガーとしても活躍。範囲を演歌のジャンルまで広げ、他の歌手に多くの歌を提供もしている。約30年続いたテレビ時代劇、藤田まこと主演の“必殺シリーズ”の主題歌、挿入歌なども手がけている。1949年生、69歳。
山口百恵(やまぐちももえ)=元歌手、女優、 歌手として“プレイバックpart2 ”、“イミテーションゴールド”、“いい日旅立ち”などヒットさせ、また女優としては、ノーベル賞作家川端康成(かわばたやすなり)の不朽(ふきゅう)の名作“伊豆の踊り子”の映画に好演。その後に共演の三浦友和と結婚、芸能活動を停止した。1959年生、59歳
転調(てんちょう)=楽曲の途中である調(キー)から別の調(キー)に変えること。普通最後は元の調、主調に戻る。
牧野富太郎(まきのとみたろう)=日本を代表する植物学者、“日本の植物学の父”と呼ばれている。多くの新種を発見、学会に発表するなど近代植物分類学の権威。氏が監修した“原色牧野植物図鑑”は全国どこの図書館にも有る図鑑の定番。植物に関する多くの著書を残した。1862生、1957年没。
挿し木(さしき)=草木の枝や、茎などを切り取り、そのまま土に差し込み、根を出させて新株を作る方法。植物の生命力の強さを利用した栽培方法。
忌避行動(きひこうどう)=何らかの理由で、その場所をさけたり、逃げたりする習性の事。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

参考資料:
明鏡国語辞典、デジタル大辞典 金木犀
ウィキペディア キンモクセイ
椎名誠著 岳物語
キンモクセイのおもしろ話題集
ハンディ図鑑散歩道の木と花(植物写真家 金田洋一郎著)
新分類牧野日本植物図鑑(北隆館)
ウィキペディア 桂林市、
クラブツーリズム発行“旅の友”6月号、および桂林特集、

* 川口市立グリーンセンター、花と緑の振興センター 園芸専門担当の方 キンモクセイに関する電話の質問に親切にお答えしていただきありがとうございました。
* 旧来の知人である佐藤朋彦様には文章全体に対するアドバイスを賜り感謝しております。
*一つだけ、今回残念なことがあります。ちょうどこのブログが皆様にアップする頃、金木犀は満開のはずでしたが、9月の末から10月の初めに日本列島を襲った台風24号の影響で、かなりの花が風に飛ばされてしまいました。それでも、注意深く観察すればまだ頑張っている花を見れるかもしれません。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

投稿文:陳沐楊氏(中国桂林出身)
文(投稿を除く)作成、イラスト、写真撮影:NPO法人川口国際交流クラブ おおかわら
写真を含むページレイアウト:NPO法人川口国際交流クラブ 伊藤喜勝
校正協力:NPO法人川口国際交流クラブ 渡辺伊佐男


毎度のことですが、筆者自身の思い込みや無知で史実を異なる記述もあるかと存じますが
外国人のために少しでもお役にたてばと書きましたので大目にみていただくとありがたいです。

第10回川口市外国人による日本語スピーチコンテスト

来る2019年2月24日(日)に「第10回川口市外国人による日本語スピーチコンテスト」が開催されます。日本語を母語としない外国人がテーマ『私が伝えたいこと』について、日本語で発表します。

外国人の皆さま、ぜひ出場してみませんか?

日本人の皆さまもお知り合いに外国人がいましたら、ぜひ出場を勧めてください。何より日本語能力の向上、自信につながります。川口国際交流クラブでは、コンテスト本番に向けて、出場者に日本語指導を行っています。

IMG1_0001_BW
IMG1_0002_BW


ワッツジャパン(What’s Japan)No.14

新宿物語(しんじゅくものがたり)、“内藤(ないとう)新宿とは”

【前書き】


日本語、日本文化などを勉強している外国人の皆様へ、これは日本語能力認定N2以上、もしくは同等程度の読解力、またはそこを目指している方々にぜひお読みいただきたい文章です。日本の歴史、文化、自然などを思いつくままシリーズで掲載(けいさい)しています。読み方の難しいと思われる文字にはフリガナを( )書きに、意味の難しいと思われる言葉はアンダーラインを引いて各章のあとで解説しています。
それでも解らない漢字や言葉が出て来たら、辞書やネットなどで調べるなり、あなたの日本語の先生などにお聞きください。同時にこの文章は日本語のボランティア教室の日本人の方にも普段(ふだん)何気(なにげ)なく理解していた事について“ははあ、なるほど”と思わせるような話題を提供(ていきょう)しているつもりです。


【第1章 現在の東京都新宿区】

《新宿の守り神であり商売ビジネスの神様》

IMG1_0005皆さん、こんにちは。前回は“梅と桜”の話題でしたが、今回は東京都、新宿(しんじゅく)区のお話です。
東京都新宿区は、一日の乗降客数が350万人を誇りギネスブックに世界最大と認定され、さらに現在では370万人に膨れ上(ふくれあ)がった巨大ターミナルステーション新宿駅、 都庁を含めた高さ200以上の超高層ビルディング群、小田急、京王、伊勢丹、高島屋などの大手デパートを初めとする買物天国の街、日本最大規模の歓楽街(かんらくがい)の歌舞伎町(かぶきちょう)、都区内一二を争う飲食店数、商売、ビジネスの守り神である花園神社(はなぞのじんじゃ)を始め多くの歴史的文化財が残されている神社仏閣群(じんじゃぶっかくぐん)、花と緑のオアシスの新宿中央公園、洋風庭園と日本庭園の中で季節の花々が観賞できる新宿御苑(しんじゅくぎょえん)、区市町村レベルで全国6位を誇る在留外国人数、同時に外国人旅行者数で都内No. 1を誇るなど、数え上げればキリがないほど多面性を持つグローバルな街と言っていいでしょう。でもこのような新宿が出来上がったのは、たった400年足(た)らずなのです。それでは今から新宿の原点(げんてん)を探(さぐ)って行きましょう。

アンダーラインの言葉
区市町村レベルで全国6位を誇る在留外国人数=全国20ある政令指定都市を都道府県と同等として格上げした場合は、新宿区は全国の市区町村レベルで1位の外国人数に踊り出る。もちろん都内1位である。
グローバルな=世界的な規模の

【第2章 将軍、徳川家康(とくがわ いえやす)の野望(やぼう)=江戸(えど)時代の始まり】

時を今から約400年前に戻(もど)します。1600年、“天下分け目(てんかわけめ)の戦い”と言われた関ヶ原(せきがはら)の合戦(かっせん)にて勝利を得た徳川家康(とくがわいえやす)は1603年天下(てんか)を統一、現在の東京、江戸に幕府(ばくふ)を開き、第一代将軍(しょうぐん)として名実共(めいじつとも)に日本の頂点に立ちました。その後300年近く維持された異例(いれい)の長期政権(ちょうきせいけん)の誕生である。ただし、家康(いえやす)は自分自身が武力(ぶりょく)で天下(てんか)を統一したため、地方の大名(だいみょう)が富(とみ)を得て鉄砲などの武器を購入し、自分と同じ様にいつ何時(なんどき)江戸に、つまり自分に攻め込んでくるか不安で仕方がなかった。

そのため頭の良い、ある意味で狡猾(こうかつ)な家康は政権を盤石(ばんじゃく)なものにするため、いくつかの計画を思い付いた。その一つは“地方大名貧乏作戦”である。そのため“参勤交代(さんきんこうたい)”というシステムや、“天領(てんりょう)”というシステムを構築した。もう一つの不安は江戸の治安(ちあん)である。当初の江戸は全国からなんらかの仕事を求めて有象無象(うぞうむぞう)うろんな人たちが集まり出し、治安(ちあん)は極端に悪かった。家康は江戸を洗練(せんれん)された都市にする必要性を感じ、当時朝廷が在り、文化人が多く、歴史の古い最も優雅(ゆうが)な街である京都に憧(あこが)れ、江戸を少しでも京都のような品格(ひんかく)があり、しかも治安の良い都市にしよう試みた。

そのためには江戸と京都を結ぶ街道(かいどう)の整備(せいび)がどうしても必要であった。当時は京都を含めた関西方面を上方(かみがた)と言い、上方(かみがた)に行く事を“上(のぼ)る”と言い、逆に上方(かみがた)から江戸に行くことは“下(くだ)る”と言った。京都から届く品質の良い製品の事を“くだりもの(下り物)”と言い、よくない製品は“江戸に下る事がない”“くだらない”と言われ、役に立たない、無意味、ばかばかしい、と言う言葉の語源になったぐらいである。京都と江戸ではそれぐらい文化レベルの差が存在し、プライドの高い家康にとって屈辱的(くつじょくてき)だったと考えられる。街道の整備への思いは代々の将軍に引き継がれた。

アンダーラインの言葉
天下(てんか)=一国の全体、
幕府(ばくふ)=武士、武家がつくりあげた政権。 名実ともに=名ばかりでなく、事実上。 
大名(だいみょう)=幕府に直属した地方の領主。 いつ何時(なんどき)=“いつ”を強めた言葉。
狡猾(こうかつ)=ずるがしこい、悪知恵(わるじえ)がはたらく。
盤石(ばんじゃく)=大きな岩という意味から、しっかり、堅固、確実、安定を意味する。
参勤交代(さんきんこうたい)=全国の各地の領主である大名(だいみょう)もしくは“藩主(はんしゅ)を原則として一年おきに江戸と地元(じもと)を往復させて住まわせた。そのための準備や交通費、江戸での住居建築、に多額の費用が必要で彼らの財政(ざいせい)を圧迫(あっぱく)した。世界でも例のない家康独特の支配制度。
天領(てんりょう)=地方であっても金銀の鉱山、名産品のある土地を幕府の直轄(ちょっかつ)とし、
郡代(ぐんだい)、代官(だいかん)という役人を江戸から派遣(はけん)し、利権を独占した地域や土地。
治安(ちあん)=社会秩序(ちつじょ)の安全、平和、平穏。
有象無象(うぞうむぞう)=平凡(へいぼん)で雑多(ざった)な人々の集まり。
うろんな=怪しい、どんな人かわからない。出身や学歴が不明。
洗練(せんれん)される=知的で上品で程度が高く美しいこと。
優雅(ゆうが)=洗練された状態を表し気品があって美しいこと。
屈辱的(くつじょくてき)=恥ずかしくて、悔(くや)しい状態


【第3章 江戸時代の旅のスタイルと宿場町(しゅくばまち)】

《バスタ方面から甲州街道ごしに望む新宿駅南口》
IMG1_0002-1その京都に行く最も重要な二本の道が葛飾北斎(かつしかほくさい)歌川広重(うたがわひろしげ)の絵で有名になった太平洋に面した海沿いの“東海道(とうかいどう)”、それと本州(ほんしゅう)の中央部の木曽山脈(きそさんみゃく)を抜ける山沿いの“中山道(なかせんどう)”である。新宿と関係するのはさらにその中間にあった“甲州街道(こうしゅうかいどう)”という道である。甲州街道はその途中、今の長野県(ながのけん)の諏訪湖岸(すわこがん)で中山道と合流し、中山道は滋賀県(しがけん)の琵琶湖(びわこ)のほとりで最終的に東海道と合流し京都へと続く。

《江戸時代の宿場町のイメージ写真 中山道 奈良井宿(長野県)》
IMG1_0003江戸の日本橋(にほんばし)から京都の三条大橋(さんじょうおおはし)まで東海道で500キロ弱、中山道は約530キロの行程である。当時の移動は人馬(じんば)が主体、当時の日本人は恐るべき健脚(けんきゃく)で一日30キロ以上を歩き、江戸から京都まで15日から20日で到達したと言われる。
当時の旅行は公用(こうよう)が多く、観光旅行らしいのはお伊勢(いせ)参(まい)りぐらいである。



《江戸時代の人力タクシーの駕籠。このタイプは上級クラス。大名などがのる最上級はドア付きで漆塗りで多くの飾り付けがあった。》
DSC_0077多くの藩(はん)や天領を通過するためには“関所(せきしょ)”という現在の言葉で言えば出入国管理事務所(しゅつにゅうこくかんりじむしょ)および税関(ぜいかん)を通過しなければならなかった。さらに旅行を証明するために“通行手形(つうこうてがた)”といって、現在のパスポートのようなものが必要だった。つまり当時の移動はまさに現代の海外旅行と同じである。最も厳しくて有名なのは箱根(はこね)の関所である。京都まで2週間以上の旅行なので、途中で何度も寝泊まりをしなければならない。そのために出来上がっていったのが宿場町(しゅくばまち)である。その名の通り、人々はその土地の名物料理に舌鼓(したつづみ)を打ち、温泉で旅の疲れを癒(いや)し、宿泊した。大きな宿場町(しゅくばまち)は旅籠(はたご)という旅館だけでなく、今のタクシーに相当する駕籠(かご)を担(かつ)ぐ駕籠舁(かごかき)、草鞋(わらじ)と言う履物(はきもの)など旅に必要なすべても物を取り揃(そろ)えている店、馬の世話をする場所、薬を含む日用品の店、料理屋や居酒屋、置屋(おきや)という芸者(げいしゃ)達を手配する店もあり、遊女(ゆうじょ)博打場(ばくちば)などの遊興施設(ゆうきょうしせつ)も揃(そろ)っていた。

アンダーラインの言葉
葛飾北斎(かつしかほくさい)=江戸時代の天才絵師(えし)、画家である。膨大な作品を残したが、東海道と富士山を描いた“富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)”のシリーズは当時の旅の状況を良く表している作品が多い。特にそのシリーズの中の“神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)は傑作(けっさく)中の傑作である。彼の作品は欧州(おうしゅう)の芸術家達に北斎ブーム、ジャポニスムをまき起こし多大な影響を与えた。東京両国には北斎美術館がある。
歌川広重(うたがわひろしげ)=同じく江戸時代の天才絵師。その代表的作品に東海道の旅の状況を描いた
“東海道五十三次(とうかいどうどじゅうさんつぎ)”がある。広重は同時に中山道、および今回のテーマ内藤新宿(ないとうしんじゅく)を含む甲州街道の絵も多く残している。
お伊勢参り(おいせまいり)=現在の三重県(みえけん)伊勢市(いせし)に在る二千年の歴史を誇り日本人の心のふるさとのような神社、伊勢神宮にお参りすること。当時の人々は一生に一度で良いからお伊勢参りをするのが夢だった。ただ目的地まで長い道中の移動はそのまま観光旅行と変りがなかったと思われる。
藩(はん)=地方の領主、つまり大名が支配した地域。現代の県に比較される。
舌鼓(したつづみ)を打つ=美味しいものを食べた時に舌を打ち鳴らすこと。したづつみとも言う。
駕籠(かご)=人を乗せて人力で運ぶ乗り物。客を乗せて二人で担ぐ。*写真あり。
遊女(ゆうじょ)=売春婦、宿場では客に食事の提供などもするので飯盛り女とも言った。
博打場(ばくちば)=賭け事、ギャンブルを行う場所。


【第4章 宿場町“内藤新宿”の登場】

《四谷大木戸門跡》
IMG1_0007甲州街道(こうしゅうかいどう)には問題があった。東海道の最初の宿、品川宿(しながわじゅく)は、日本橋から2里(一里は約4キロ)つまり約8キロ、中山道も最初の板橋宿(いたばしじゅく)まで同じく約2里、8キロである。ところが甲州街道の最初の宿、高井戸宿(たかいどじゅく)までは日本橋から4里、つまり16キロもあった。現在の四谷4丁目に有った大木戸門(おおきどもん)を出るとひたすら長閑(のどか)な田園風景(でんえんふうけい)が広がるが、街道沿いの所々(ところどころ)に旅人(たびびと)相手の茶店(ちゃみせ)はあるが馬を休めるところもない、しかも旅の初日に16キロの歩行は少々キツかったに違いない。

《内藤新宿のジオラマ(新宿歴史博物館にあります)》
DSC_0180大木戸門を出るとすぐに広大な内藤家(ないとうけ)の家と土地があった。内藤家は“譜代大名(ふだいだいみょう)”と言って関が原の合戦(かっせん)の前から徳川家に味方をして来て、江戸の西側の警備に多大な功績(こうせき)を残していた。家康は江戸幕府を設立する前に新宿周辺で鷹狩(たかが)りをしたことがある。その時同伴した内藤家2代目、清成(きよなり)に「お前の馬でこの辺りを走ってみろ。走り回った土地をお前にくれてやる。」と言い切った。そして清成は愛馬にまたがり、四谷、千駄ヶ谷(せんだがや)、代々木、大久保を駆け抜けて広大な土地を拝領(はいりょう)していたのである。その際、清成の愛馬は疲れ切って死亡したらしい。元禄11年(1698年)に浅草阿部川町(あべかわちょう、現元浅草4丁目)に住む名主(なぬし)喜兵衛(きへえ)ら5人が日本橋と高井戸宿の間に宿場街(しゅくばまち)を造りたいと巨額の運上金(うんじょうきん)5600両(現在の約5億円?)とともに幕府に請願(せいがん)した。これに応えて幕府は内藤家の下屋敷(しもやしき)を含む広大な敷地の約3分の1を返還させ、ついに翌年に現在の四谷から新宿四丁目辺りまでに至る“内藤新宿”という名の宿場町(しゅくばまち)が出現したのである。元禄12年(1699年)の事である。遠すぎる高井戸宿の手前に文字通り新しい宿の誕生である。なぜ喜兵衛(きへえ)らが巨額の運上金(うんじょうきん)を払ってまで請願したかははっきりしないようだが、その後の利益を計算したと考えられる。現に喜兵衛(きへえ)ら5人は内藤新宿に移り住んで名主(なぬし)となったのである。

アンダーラインの言葉
大木戸門(おおきどもん)=現在の四谷4丁目辺りにあった江戸と江戸以外を表す境界線にあった門
ひたすら=この場合 同じような景色が真っ直ぐに、変わらずに 延々と続く状態
茶店(ちゃみせ)=お茶や軽食を提供するお店。
鷹狩り(たかがり)=鷹(たか)を飼育し、その習性を利用して兎(うさぎ)など小動物を捕獲する狩猟方法。
この場合、家康はゲーム感覚で鷹狩りをしながら軍事的概念で地形を視察したと考えられる。
拝領(はいりょう)=上の位の人から受け賜(たまわ)ること。新宿内藤町の多武峯(とうのみね)神社に
その馬を供養した碑がありますが、内藤家18代当主によるとその馬の話はあくまでも伝説ではないかと。
名主(なぬし)=役所、役人の下でその地域の管理運営をする民間人。信用と人徳(じんとく)、合わせて
財力を必要とした。役所と庶民との間での折衝(せっしょう)に当たることも多かった。
運上金(うんじょうきん)=税金、寄付金のこと。
下屋敷(しもやしき)=大名が街外れや郊外に構えたお屋敷。江戸市中に構えたのを上(かみ)屋敷と言う。


【第5章 内藤新宿の発展と突如の廃止】

《新宿2丁目太宗寺にある内藤家の墓》
IMG1_0006宿が出来ると、宿泊客が来る。一般の旅籠(はたご)と呼ばれる旅館の他に“本陣(ほんじん)”と称する大名、公家、幕府の役人などが泊まったり休息したりする施設も内藤家の菩提寺(ぼだいじ)のある“太宗寺(たいそうじ)”の周辺に出来た。そうなると宿泊の設備だけでは物足りない。馬を休ませ餌を与える場所が必要となる。旅の無事を祈願(きがん)するため近くの神社仏閣にお参りする人が増える。旅に必要な草鞋(わらじ)、日除けの傘などの小物の販売店、修理屋も出来る。旅の疲れを癒(いや)す湯屋(ゆや)も必要。髪の毛を結い直す髪結(かみゆ)いの営業、せっかくだから美味しいものを食べて元気をつけて明日の道中に備えようとする客の為の料理屋が出現する。矢場(やば)や見世物小屋が出来、お酒も気晴らしに必要となり、長い夜の暇つぶしに遊興施設も必要。芸者を手配する置屋(おきや)そして当然のごとく、旅籠(はたご)には食事のサービスを兼務する“飯盛り女”という遊女が、また同時に闇の博打場も出現する。

《新宿天龍寺の梵鐘》
IMG1_0000-1これらに関連する新規の商売がさらに発生し、利権が発生する。宿場は次第に歓楽街(かんらくがい)の様相(ようそう)を呈(てい)してくる。となると旅人以外の遊び目的の人々が一夜の楽しみを求めて江戸市内からもやって来る。むしろそちらの客の方が多くなったことが考えられる。今の新宿の歓楽街(かんらくがい)の原点がここに造られたのである。現在の新宿4丁目にある“天龍寺(てんりゅうじ)”では自慢の梵鐘(ぼんしょう)を現代の6時に相当する、明け六つ(あけむつ)の鐘を30分ほど繰り上げて5時半に突き、遊び呆(ほう)けていぎたなく眠っている武士や商人に“江戸城登城の時間だ、急げ”“商(あきな)いの時間だ、時は金なり”と叩き起こしたと言われ、“追い出しの鐘”と言われたそうだ。なんとなくユーモラスな光景が目に浮かぶ。大変な賑(にぎわ)いを見せた内藤新宿は、なんとその20年後の享保3年(1718年)に突然閉鎖されます。

《天龍寺のやぐら時計》
IMG1_0001-1アンダーラインの言葉
菩提寺(ぼだいじ)=先祖代々(せんぞだいだい)の墓があり、葬儀(そうぎ)などの仏事を行う寺
太宗寺(たいそうじ)=内藤家の墓所の他に銅像地蔵菩薩像(どうぞうじぞうぼさつぞう)、閻魔像(えんまぞう)、奪衣婆像(だつえばぞう)、塩かけ地蔵、感無量寿経曼荼羅(かんむりょうじゅきょうまんだら)、など多くの東京都、並びに新宿区の指定有形文化財が境内に多く安置(あんち)されている浄土宗の寺院。 
近隣は明治維新後も赤線地帯になりつつ、夏目漱石、田山花袋などの文学者も住み、また吉行淳之介や五木寛之の小説の舞台となった。住所 新宿区新宿2−9−2、 電話 03-3356-7731 
矢場(やば)=客に弓を打たせて、的に当てっこする遊び。現代のパチンコのようなもの。
天龍寺(てんりゅうじ)=江戸城の東北の方角からの災いを鎮(しず)める目的の寺院でお寺の紋(もん)は
徳川家と同じ三つ葉葵(みつばあおい)、新宿区指定有形文化財の“時の鐘”、同“やぐら時計”などを所有する曹洞宗(そうとうしゅう)の寺院。新宿区新宿4−3−19、電話 03-3354-1011
梵鐘(ぼんしょう)=寺院の鐘つき堂に吊り下げる鐘(かね) イラスト参照
遊び呆ける(あそびほうける)=他のことを忘れてしまうぐらい遊びに夢中になること。
いぎたなく=“辺(あた)りはばからず”(=周囲をきにしないで)、みっともなく眠りこけること。
時は金なり=時間は大切なもので無駄にしてはいけない、と言うことわざ。英語でTime is money.


【第6章 廃止の理由】

せっかく旅行者の利便性(りべんせい)を持たせ、繁栄していた宿場、内藤新宿は廃止されてしまった。主な理由は当時、幕府公認の遊郭(ゆうかく)吉原(よしわら)からの反発に幕府が反応したらしい。
吉原は天下に轟(とどろ)いた幕府公認で、高級であり、10年以上、いやそれ以上に芸事(げいごと)や作法(さほう)を学んだ気位(きぐらい)の高い洗練(せんれん)された太夫(たゆう)と呼ばれる女性と遊ぶためにはそれなりに独特のしきたりを理解しなければならないので、客自身もある程度の素養(そよう)を身につけていなければ相手にされない、ちょっとした接待や遊興費(ゆうきょうひ)としては高額。そこで下級武士や庶民等は接待や遊びがお手軽(てがる)に出来る品川宿(しながわじゅく)、板橋宿(いたばしじゅく)、それと日光への日光街道と東北への奥州街道(おうしゅうかいどう)の最初の宿場である千住宿(せんじゅじゅく)それと内藤新宿(ないとうしんじゅく)に流れて行った。これが吉原(よしわら)の客離れを誘発したというのである。つまり内藤新宿は旅の宿の街であると同時に江戸市民の娯楽の場所となっていたのである。さらに幕府の財政状況が悪化したため8代将軍、吉宗(よしむね)による享保年間(1716-1744年)に行われた“享保(きょうほう)の改革(かいかく)”である。詳しく書くと多くのページを必要とするので説明は省(はぶ)くが、要するに幕府再建のために“贅沢(ぜいたく)は止めましょう、無駄(むだ)を省(はぶ)きましょう”といった財政を立て直すための色々な方策や法令の整備を行ったのである。現代で言う働き方改革のようなものも含まれた。幕府が吉原側の名主(なぬし)達に動かされたのも一つの要因かもしれない。なぜならこの廃止に伴う報告書には、実際の繁栄とは全く違う“内藤新宿の利用者は少ないので”と書かれていたというのである。なんとなくしっくりとはいかないが、ただ最初に内藤新宿を立ち上げる際の幕府への運上金(うんじょうきん)が一部未払いになっていたことも原因として考えられる。廃止決定後も締め付けは続けられ、宿場は急速に衰退(すいたい)し、商売を廃業する人が続出し、人口は減少し、とうとう内藤新宿は一農村に立ち返ったのである。

アンダーラインの言葉
遊郭(ゆうかく)= 公認された遊女屋を集めて、周囲を掘りや塀で囲んだ地域。
しきたり=その場所や集まりにおいての一定の決まりごと。
素養(そよう)=教養(きょうよう)や技能(ぎのう)、知識


【第7章 内藤新宿の再開と繁栄】

廃止は約20年続いた。しかしその後も度重(たびかさ)なる名主(なぬし)達などの願いにより内藤新宿は明和9年(1772年)に再興された。主な要因は幕府の政策転換(せいさくてんかん)である。第10代将軍、家治(いえはる)は老中(ろうじゅう)に田沼意次(たぬまおきつぐ)を任命し、従来の出費を抑える緊縮財政策から起因(きいん)する閉塞感(へいそくかん)から一挙に消費活動を活発にすることにより税の増収を計る方向に舵(かじ)を切り替えたのである。これを“重商主義(じゅうしょうしゅぎ)”と言った。他にも理由があったようだが、この時の幕府の再開に関する見解は“内藤新宿は支障がなく、便利である”というものであったらしい。廃止時の見解と見事に違った皮肉なものであった。面(つら)の皮(かわ)の厚(あつ)い田沼意次の面目躍如(めんもくやくじょ)である。この時幕府は条件として名主等に対し、前回の内藤新宿立ち上げの時の運上金未払い約1200両の取立て、元禄15年の太宗寺(たいそうじ)の裏に住む大工の家から出火してほぼ内藤新宿を焼きつくした大火災に対する幕府からの復興支援金(ふっこうしえんきん)の返還、そして新たな年間の税金を設定した。要は当座(とうざ)のお金が欲しかったのと、経済活性化を目論(もくろ)んしたたかな意次(おきつぐ)の政策である。

《子供合埋碑》
DSC_0186こうして宿場の営業は以前よりやりやすくなり、芸妓を仕切る置屋も増え、飯盛り女も最大で150人にも達したという。また宿泊設備を伴わないで遊女を雇う茶屋(ちゃや)も許可された。こうして宿場は目覚ましい発展を遂げ、年々派手になって行った。但し繁栄を担(にな)った飯盛り女、茶屋女達の多くは年季奉公(ねんきぼうこう)という形で、借金の形(かた)に数年間無給で雇われた者が多く、年季が明けずに流行(はや)り病(やまい)や過労による死亡者があとを立たず、彼女達の遺体は現在の新宿二丁目にある“成覚寺(じょうがくじ)”に捨てられるように葬られた。旅籠屋達は万延元年(1860年)に彼女達を弔(とむら)うため“子供合埋碑(こどもごうまいひ)”を造立した。一方で幕府は各旅籠や関連する店の家作(かさく)まで毎年チェックし、いわゆる不正収入、税金逃れにも気を配った。同時に神社仏閣の宗教活動、個人の宗旨にも目を光らせた。意次(おきつぐ)の真骨頂(しんこっちょう)は言うならば“いけいけどんどん、だけども取るものは取るよ”だったのである。こうなると宿場は自分達を守るため、それまでの足の引っ張り合いでなく共同の管理体制を構築しなければならなかった。こうして新宿の原点は息を吹き返したのである。

アンダーラインの言葉
度重(たびかさ)なる=何回も、何回も繰り返すこと。
老中(ろうじゅう)=将軍に直属し、幕府の政策を実行する最高実務担当者。
面(つら)の皮(かわ)が厚(あつ)い=ずうずうしい、厚かましい。自分で無茶なことを発言しても平気であり、知らないふりを決め込む。
面目躍如(めんもくやくじょ)=その人の言動がまさにその人らしい。通常は名誉な事に使う。
目論(もく炉)む=計画をくわだてる。めぐらす
したたかな=強く、利口で簡単に物事に屈しない、諦めないこと。
成覚寺の子供合埋碑(こどもごうまいひ)=遊女達は隠語で子供と呼ばれていたらしい。碑は新宿区指定有形文化財となっている。
家作(かさく)=他人に貸すための土地や建物やそれに類する財産。
真骨頂(しんこっちょう)=その人が本来持っている才能、真価。


【第8章 時代の潮流に伴う試練と生き残りへの戦い そして現在の巨大都市への変貌】

しかし、内藤新宿も来るべき幕末胎動(たいどう)を迎え試練が待っていた。天保11年(1840年)幕府は“遊女は吉原のみ”の御触れ(おふれ)を出し、内藤新宿の遊女は表向き禁止された。さらに米を中心とした物価が高騰(こうとう)し不正に利益を上げていると見られた領主や商人、名主に反発した庶民や農民が彼らの家などを集団で襲う“打ちこわし”が流行(はや)り世の中の治安は極端に悪くなった。

《新宿末広亭》 落語(漫才)は江戸時代から、そして現代社会においても庶民の楽しみ。

DSC_0183そしてついに15代将軍、徳川慶喜(よしのぶ)は慶応3年(1867年)大政奉還(たいせいほうかん)し、政権を朝廷(ちょうてい)に返すことになった。内藤新宿もその潮流(ちょうりゅう)の中にのみ込まれて行ったのであろう。そして明治になり、明治5年(1872年)品川と横浜の間に日本発の営業鉄道が敷かれ、1885年ドイツではダイムラーが、翌年にはベンツがガソリンエンジンの自動車の開発に成功する。日本を馬や徒歩で何日もかけて移動するための宿場町の必要はなくなって行くのである。







《現代新宿が誇る超高層ビル群》
IMG1_0004それでも新宿は不死鳥(ふしちょう)のように遊興、歓楽の地として戦争や災害を乗り越えながらしたたかに冒頭(ぼうとう)に述べたような現在の巨大都市へと変貌して来たのである。遊興、歓楽街として新宿が膨脹発展した原因の一つは皮肉にも1923年に発生した関東大震災であった。地震により東京の下町側の遊興、歓楽街、吉原、洲崎を含む遊郭はほぼ全滅、地盤の固い安定した土地の元の内藤新宿エリアだけが比較的軽微な被害で済んだのである。そして当然被災した人々は新宿に流入したと考えられる。また硬い地盤は今日の超高層ビルの建設に有利に働いたのもまぎれもない事実である。




《新宿御苑》
IMG1_0008

最後に内藤新宿を語る時、これまた内藤家の地所であった“新宿御苑(しんじゅくぎょえん)”は外すことができないが、それは次の機会にしたいと思います。皆さんがその“新宿御苑”にお越しの際は合わせて近くにある歴史の舞台に登場した天龍寺、太宗寺、成覚寺などを訪ねて400年前の世界を垣間見(かいまみ)るのも一興(いっきょう)でしょう。



《新宿と信州松本をむすぶ特急 あずさ》
cbe1e79f-1幾多の推理、ミステリー小説、ドラマ、歌にも登場するJR東日本が主に新宿ー松本間を運行する看板特急列車。”あずさ”は松本を流れる美しい清流の名前。
現在は広く日帰りビジネス路線として、また登山、スキーなども含めた多くの観光客をため息の出るような美しい大自然、そして幾多の温泉へと運ぶ万能特急列車である。
ミステリードラマの主なテーマは、単調で刺激のない田舎の若者が大都会の魅力に誘われ、そしてその憧れた大都会に裏切られ挫折し故郷に戻る、または大都会の喧騒に疲れ果てた恋人達が美しい自然に魅せられて旅に出て一時的に息を吹き返すがそこに犯罪が絡んでくる。その設定の移動手段または直接の舞台としてこの特急が彩(いろど)りを添える。一度ならず、何度でも乗りたい列車です。


アンダーラインの言葉
お触れ(おふれ)=幕府からの通達や命令、御布令(おふれ)とも書く。
大政奉還(たいせいほうかん)=江戸幕府が政権を返上し、朝廷つまり天皇に譲った事。
不死鳥(ふしちょう)=神話に出てくる霊鳥で何度も生き返る鳥。フェニックス。
関東大震災(かんとうだいしんさい)=1923年9月1日に関東全域を襲った巨大地震、東京をはじめ近隣の県も甚大な被害を被った。死者は10万人前後と想定されている。
垣間見る(かいまみる)=物事の一旦を知る。ちらりとのぞくこと。
一興(いっきょう)=一つの楽しみ、ちょっとした興味あること。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

参考文献 施設等:
ウイキペヂア関連項目、明鏡国語辞典、読むだけですっきりわかる日本史(宝島社)、
東海道への誘い(国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所サイト)
一般財団法人国民公園協会、新宿御苑ホームページ、新宿御苑の歴史
小説 居眠り磐音 江戸双紙“寒雷の坂”佐伯泰秀著(双葉文庫)
新宿御苑資料 内藤新宿四谷荘
AERAdot (週刊朝日 2015年2月27日号)内藤家18代当主「鷹狩りで新宿に来た家康が、、、」
新宿ミニ博物館、内藤新宿太宗寺(たいそうじ)の文化財(太宗寺パンフレット)
曹洞宗、護本山 天龍寺 パンフレット
新宿区 一般社団法人新宿観光協会 新宿観光マップ“四谷”
新宿歴史博物館、常設展示解説シート 江戸の暮らしと新宿 ジオラマ内藤新宿(本文中の写真)
東京都産業労働局資料(統計関係)、 新宿観光振興会(地図など)、
東京都公文書館 都市紀要29 内藤新宿、新宿区発行グラフ新宿区(2015)、サイト骨董品の教科書

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

文と絵および写真:NPO法人 川口国際交流クラブ おおかわら
全体(文章、イラスト、写真)のレイアウト:NPO法人 川口国際交流クラブ 伊藤喜勝

毎度のことですが、筆者自身の思い込みや無知で史実と異なる場合もあるかと存じますが、外国人のために
少しでもお役に立てばと書きましたので大目(おおめ)にみていただくとありがたいです。

5月3日(木)交流コーナー(日本語教室)はお休みします。

5月3日(木)憲法記念日は、かわぐち市民パートナーステーション休所日のため、国際交流コーナーはお休みします。お間違えのないようにお願いいたします。

ワッツジャパン(What’s Japan) 梅と桜のアルバム

本文 ワッツジャパン(What’s Japan)No.13 もご覧ください。

《神代植物公園の白梅と紅梅》
IMG_20180224_141913IMG_20180224_142001














《写真左から、目黒川、見沼》
15226570454331522317102301














《石神井川》
IMG2IMG3IMG4










《リリアパーク(川口西公園)のサクラの下を走り抜ける寝台特急カシオペア号》
IMG5IMG6











《古利根川》
IMG7IMG8








《御嶽山白龍神社(群馬県伊勢崎市)》
photoIMAG0428photoIMAG0429






photoIMAG0434photoIMAG0440






本文 ワッツジャパン(What’s Japan)No.13 もご覧ください。

※この写真集を許可なくコピーし他の目的に使用することはご遠慮ください。

ワッツジャパン(What’s Japan)No.13

桜(さくら)の季節へ(梅から桜への心変わりの謎)

(日本語、日本文化などを勉強している外国人の皆様へ、この文章は日本語能力N2 以上、もしくは
同等程度の読解力、またはそこを目指している方々に是非お読み頂きたい文章です。日本の文化、自然などを
思いつくままシリーズで掲載しています。また意味の難しいと思われる言葉はアンダーラインを引いて本文の後で解説しています。またどうしても意味がわからないときはご担当の日本語の先生などにお聞きください。また同時にこの文章は日本語のボランティアの教室の方々にも普段何気なく理解していたことについて
“ははあ、なるほど”と思わせるような話題を提供しているつもりです。)

皆さん、こんにちは。前回のワッツジャパンNo.12 は学問の神様、菅原道真(すがわらみちざね)公と彼が祀(まつ)られている天満宮(てんまんぐう)、天神様(てんじんさま)のお話でしたね。
その時の主役の花は、天満宮、天神様の御神木(ごしんぼく)、つまり道真の大好きな“梅”でした。
でも今は四月、既に桜の季節の到来です。今年は桜の開花時期が早かったので、ひょっとしたら皆さんがこの文章を読む頃は桜も散り始めているかもしれません。
受験生達は1月から3月に開花時期の長い“梅”の花咲く天満宮(てんまんぐう)で合格祈願(ごうかくきがん)の絵馬(えま)を奉納(ほうのう)しました。しかし、いざ希望の大学なり高校なり、または企業なりに合格すると、肉親や友達、恩師(おんし)に昔は電報、いまはSNSやメールなどで合格でしたら“サクラサク”、不合格なら“サクラチル”などと短い文章で伝えます。決して“ウメノハナサク”などとは書きません。
そうです。頼みごとをするのは“梅”に関係ある神社なのに、合格の一報は“桜”になってしまうのです。これって“梅”ちょっとかわいそうですね。理不尽(りふじん)だと思いませんか? でも止(や)むを得ません、なんと言ったって“桜”は春合格シーズンの最中(さいちゅう)に一斉に華々しく開花するのですから、まさに主役、スターなのです。

    “世の中に たえて桜の なかりせば 春のこころは のどけからまし

IMG1-1《開花直前の桜》
この短歌ワッツジャパンNo.5 にて、東京都の鳥、ユリカモメをご紹介したとき出てきた平安時代のイケメン、プレイボーイの歌人、在原業平(ありわらのなりひら 825-880)さんが桜に対する想いを歌にしたものです。意味は、“この世の中に桜というものがなかったなら春の季節をもっとおだやかにすごせるのになあ”とでもいいましょうか。つまり、あまりにも豪華で美しいので、 何時咲いてくれるのか、またいつ散ってしまうのか気になって、落ち着かない。急に強い風でも吹かないか心配でしょうがない。そのような気持ちを表現しています。(のどけからましは、のどかでありましょうに)
もう一首を紹介します。

     “ひさかたの 光のどけき 春の日に しず心なく 花の散るらむ

この歌は紀友則(きのとものり 845-907)という人が同じように桜に対する想いを詠んだものです。
意味は、“桜さんよ、あなたはこれほど暖かく穏やかな日にどうして急いでいるように散り始めるのですか? お願いですからもう少し咲いていてほしいな“ というような意味です。
つまり、業平さんや友則さんの生きた平安時代から桜の美しさはその開花時期の短さと合わせて人々の心に強烈なインパクトを与えていたのです。

IMG2-1《白梅》
しかしながら、奈良時代(710-794)以前から平安時代(794-1192)の初期までは、誰がなんと言おうと花と言えば桜ではなく梅だったのです。その理由というのは中国との関係です。日本は当時強大な先進国、中国に遣隋使(けんずいし)遣唐使(けんとうし)を派遣して中国との交易、また文化の交流、と言っては聞こえが良すぎますが要は、中国のすべてを学びましょうと言う時代でした。

その当時、中国で花といえば梅だったのです。もちろん梅は中国原産です。多くの文人、歌人が梅を題材にしてその香り、花の美しさを歌に詠み、絵画にしました。ですから日本の貴族(きぞく)、公家(くげ)、歌人、文人もそれに習って優雅(ゆうが)に梅を讃(たた)えていたと考えられます。7世紀後半から8世紀後半に編纂(へんさん)された日本最古の歌集“万葉集”に、桜を詠んだ歌は43首のみ、それに対して梅を詠んだ歌は110首だそうです。
いかに梅の存在感が強く人気が高かったかお分かりのことと思います。そうです主役は梅だったのです。

さて、そうは言っても決して桜がないがしろにされた訳ではありません。桜は日本原産と言う訳ではないのですが昔から日本人は大切にしてきたのです。一説には、「桜の花が咲くということは神様が山から降りて来た、田植えの時期の知らせだ。」と言われています。田植えが終わった水田に近くの桜の花が見事に反射して美しく映ることを苗代桜(なわしろざくら)とも暦桜(こよみざくら)と言うなんとも風情のある表現をする地方があるようです。桜は花見、宴会の対象ではなく神様が宿る木で、豊作(ほうさく)をお願いしてお供えものをしたり、拝んだりする神聖な木だったかもしれません。多くの神社に桜が植えられ桜の名所になっているのもなんとなく判るような気がしますし、桜の名前を付けた神社も存在するぐらいです。
繰り返します。花といえば梅で、梅が主役だった時代でも脇役の桜もけして忘れられていた訳ではなかったのです。

ところが、ここで誰にも予想できなかったとんでもない事件が起こります。梅が主役だったこの時代に、桜が主役になるという梅にとっては不幸な出来事がなんと日本と中国で同時に起こってしまったのです。
この事件の張本人はこともあろうか、梅の木、梅の花をこよなく愛して止まず、あの有名な

     “東風(こち)吹かば 匂(にほ)いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ“

と詠んだ菅原道真(すがわらのみちざね)本人そのものだったのです。どうしてそうなったかというと、彼は玄宗皇帝が支配していた唐の国が傾いていたことを知っていて、そして彼自身が遣唐使に命ぜられた時に自分から遣唐使を廃止することを提案したのです。玄宗皇帝が楊貴妃のあまりの美しさに目を奪われ政治をないがしろにしたのが原因の一つでした。楊貴妃の気にいることは全部やってのけ、政治のことはほったらかしにしてしまったので唐の国の治安が悪くなって来ていたのです。この原因となった楊貴妃のことを”傾国の美女“と言うのはどなたもご存知のことと思います。菅原道真は、「そんな危ない国にこれからも優秀な人間を派遣し続けても何が起きるかわからない、もう中国に行って学ぶ必要なし。」と、遣唐使廃止を宣言しました。894年のことでした。もちろん反対論を強引に押し切ってだと思われます。

その事以来、日本古来の文化が再認識され桜が大きくクローズアップされてきたのです。梅をこよなく愛した道真にとってはなんとも皮肉な結果になってしまいました。さらに不幸なことに道真は遣唐使廃止などで政争に巻き込まれ九州の太宰府(だざいふ)という当時日本最南端、僻地の役所に左遷させられてしまいました。この経緯は前回のワッツジャパンNo.12 で詳しく書いておきましたのでぜひお読みください。とにかくこれ以後、花といえば梅ではなく桜となってしまいました。

それはデータでもはっきりしています。平安時代に朝廷の命令によって、10世紀ごろに編纂(へんさん)された古今和歌集という歌集があるのですが、その中で梅を詠んだ歌は18首程度で、桜を詠んだ歌は70首となっています。ここでついに逆転現象が起きてしまったのです。
冒頭に挙げた在原業平さん、紀友則さんの歌もその古今和歌集に収録されているのです。
まさに四文字熟語の“主格転倒(しゅかくてんとう)”そのものズバリ、桜の天下になってしまったのです。

IMG1-2《ソメイヨシノ》
さらそれに輪をかけて中国でも梅にとってとんでもない不幸な出来事が起こってしまいました。
梅は、前述したようにその清楚で可憐な花、かぐわしい香りで中国人に愛され続けてきました。
しかも玄宗皇帝が楊貴妃に出会う前に愛した女性の名前はなんと言うことか梅妃という女性でした。しかし玄宗は楊貴妃に会うとその美貌に圧倒され、非情にも梅妃を捨てました。清楚(せいそ)可憐(かれん)な花、梅妃は豪華な花、楊貴妃に完全に負けてしまったのです。

さらにこれに輪を掛けるようにして、あの有名な詩仙(しせん)と呼ばれ、大酒飲みのご存知、李白(李大白)があろうことか楊貴妃の美しさを彼の詩において“まるで牡丹(ぼたん)の花のようだ”と詠んでしまったのです。いつも酔っ払っている李白が牡丹にたとえたという事は楊貴妃がどんなに美しかったかを物語っているような気がします。
決定的でした。そしてとうとう牡丹は現在の中国の国花にまで登り詰めてしまったのです。

IMG1-1日本と中国で一時は圧倒的にはもてはやされ、やがて別の花に主役の座を奪われて行った清楚で可憐な梅は一体どこまで不幸な花なのでしょうか? 1月から3月の初めの頃までと、3月の中頃から4月へと、まるで前座(ぜんざ)が梅で、真打(しんうち)が桜のようになってしまいました。
それでも梅はどんなに厳しい冬でも1月から3月の頃になると忘れずに清楚で可憐な花を咲かせてくれますよね。そうです、次のような梅の声が聞こえてきそうです。

“桜さん、もうすぐ貴方の出番ですよ。この辺で私は身を引きます。これからはあなたが皆様をて楽しませくださいね、そして幸せな気分にしてあげてください。”と控えめに。

ご参考に ワッツジャパン(What’s Japan) 梅と桜のアルバム もご覧ください。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

【解説1】
本文では自然の植物、梅と桜をまるで人間のように記述しておりますが、この手法を擬人化、または擬人法と言います。
もともとお花見は昔の貴族や公家達が梅の木やサクラの木の下で短歌などを競いあう優雅で格調高いもので現在のようの馬鹿騒ぎ?とは縁遠いものでした。
奈良、平安時代の桜は主に野生のヤマザクラと言う種類だったようです。現代で桜といえばソメイヨシノ(染井吉野)という種類が主力ですがこの種は江戸時代に鑑賞用に作られた日本の固有種です。
染井吉野の名前の由来は、奈良、平安時代から桜の名所として知られていた奈良県の吉野山と東京都の駒込が江戸時代に染井村と言ったからのようです。
染井桜ではなんだか良く分からないので当時の桜の有名な場所を頭につけたのです。
つまり、今でいうブランド志向なのですが、なんかこの名前の付け方、平賀源内先生が絡(から)んでいるような気がしないではありませんか?(ワッツジャパンNo.2 参照)
サクラの木の下で、お団子、お酒、お菓子などを持ち寄り、現在のような宴会状態になったのは、貴族や武士社会の文化やしきたりが急速に庶民に伝わって行った江戸時代のようです。

梅は咲いている時期が比較的長く、それに対して桜は比較的短い、つまり桜はパッと咲いてパッと散る。林芙美子さん(1903-1951)という作家が“花の命は短くて、苦しきことのみ多かれ ど、風吹くなり、雲も光るなり“という言葉を残しています。
江戸っ子は”宵越しの金は持たない“言われていました。主な原因は住宅のほとんどが木造で火事が起きると防ぎようがなく、一瞬のうちに全ての財産を失う・・・・・、だったら今の今を思いっきり楽しんでしまおう。という考えかたです。
日本人の感性のどこかに美しくて短い命に心を揺さぶられる部分があるのでしょうか? そう、仏教の無常感につながるような。
  
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

【解説2】
アンダーラインを引いた難しいと思われる言葉
理不尽(りふじん)=道理に合わない、無理な事、筋道が立たない事。止むを得ない=仕方がない、そうするより他に方法がない。
短歌=過去のワッツジャパンに何度も出てきますが日本の伝統文芸の詩で 音を5音、7音、5音、7音、7音の定型にして“独特の語彙と美しい言葉”で作者の心情を伝える。
    “東風(こち)ふかば=5 匂(にほ)いおこせよ=7 梅(うめ)の花(はな)=5
    あるじなしとせ=7 春(はる)な忘(和す)れそ=7”(ワッツジャパンNo.12 参照)
インパクト=英語のimpactがそのまま日本語になった言葉。衝撃とか強い影響という意味。
遣隋使(けんずいし)遣唐使(けんとうし)=日本の朝廷が中国の文化、薬学、科学などを学習させるべく中国に派遣した優秀な学者、技術者の事。まだその制度のこと。
優雅(ゆうが)=美しくかつ品があること。ないがしろ=あってもないように、気にしなかったり、軽々しく思う事。
風情のある=味わいのある、素敵な趣(おもむき)のある。
編纂(へんさん)=たくさん集めて、整理して一つの書物にする事。
主格転倒=主なものとそうでないものを取り違えること。この場合は単純に桜が梅に変わって主役になったという意味で使用しました。
清楚(せいそ)=飾り気がなくすっきりとしていること。清らかなさま。
可憐(かれん)=小さく、可愛いながらも懸命に頑張っている様子。
前座(ぜんざ)、真打(しんうち)=落語、漫才などの大衆芸能の興行する演芸場で、最初の部分に出演する経験の浅い芸人のことを前座。対して目玉(めだま)と言って最後を飾る芸人を真打と言います。    


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

参考または転用させていただいた資料
Wikipedia サクラ、花と贈り物語、百人一首講座、千年後の百人一首(株)リトルモア、
Manapedia、明鏡国語辞典、東武鉄道広報部発行 マンスリーとうぶ 3月号
などなど。ありがとうございました。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

文章ならびにイラスト NPO法人 川口国際交流クラブ おおかわら
写真および全体レイアウト NPO法人川口国際交流クラブ理事長 伊藤喜勝

* あとがき 毎度の事ですが製作者の無知や思い込みで事実と異なる事があったり、校正が不十分なところがあるかもしれません。その点は大目にみて頂ければ幸いです。
* あとがきの後に驚くべきニュースが飛び込んできました。新聞によると古来、文人や歌人に読まれていた吉野のヤマザクラは実はヤマザクラではなかった。紀伊半島南部に生息する100年ぶりに発見された新種のクマザクラという種類かもしれないと思わせるような意味深な内容でした。
ソメイヨシノは人間がある意図を持って、いわばDNAをいじくり廻して作った作品だから害虫に弱く、この木の幹だけを食い荒らすカミキリムシの存在が明らかになり、野生で育った免疫力の強いクマノザクラはその弱点がないようで、いずれソメイヨシノからクマノザクラへのシフトも、また、すでにそれを進めている地域もあるそうです。
当時の在原業平さんや紀友則さんがスマホを持っていたらどうでしたかねえ。なんちゃって。
でもヤマザクラはヤマザクラのままでよろしいんじゃないでしょうか。
どうか科学者の皆さん、1300年前のロマンをぶち壊さないで頂きたい。

※この文章およびイラストを許可なく転写、ダウンロードなどをして別の目的にアップロードすることはご遠慮ください。

記事検索
  • ライブドアブログ