教育音樂の回顧

田村虎蔵

……(一)……

私が郷里鳥取の一訓導から音樂生活に入つたのは、明治甘五年の九月で、丁度満四十年になる。人によつてはこの四十年は短いかも知れないが、しかし相當に長いともいへよう! 今その四十年前の昔や、過ぎ去つた教育音樂の経過を振り返つて見ると、實に萬感交々到るの感がある。

申す迄もなく、私はこの間終始一貫、ひたすらに教育音樂の場面に働いて來た。否今後も尚私の一生を擧げて、斯の道に専心努力を續ける覚悟である。左におぼろげながら私の記憶をたどりつゝ、時代的に我國教育音樂の経過――普及――發達の後を尋ねて見よう。

明治廿年時代
…我が樂界の沈滞期…
二十年代の前半はまづ順調であつた。即ち二十年の十月には、彼の音樂取調掛を東京音樂學校と改稱し、創設者たる伊澤修二先生が第一回の校長となられた。同二十四年六月理學博士村岡範爲馳先生がその後を繼がれた。翌二十五年九月、中等學校卒業者を同校師範部に入学を許可することになり、その最初の各府縣選抜生として私は入學したのであつた。
當時の世間は未だ音樂の眞價を解してをらぬ、從って音樂學校志望者は、どこの學校に受験してもドロップする、仕方なしにマア音樂學校にでも行かう位のものであつた。私の音樂學校に入學したのは、かゝる事情のもとではなかつたが、然し正直に申すと、音樂家にならうといふ考へは毛頭なかつた、書物で讀んだ鐵道は見たし、東京遊學の念に驅られてゐたが、私共師範卒業者は、容易に縣外に出られない、會々前條の機會を捕へたので、一も二もなく勇んで入學した。もちろん私は音樂は好きであつた、が實は音樂よりは國語の方が好きだつた。だから音樂學校に入學する數日前に、既に私立の大八洲學校に入學してゐたのであつた。この學校は、當時人心の西洋心酔に反撥して、國學の徳興を企てた學校で、一流の國學諸大家が教授の任に當つてゐたので、實に有益でかつ愉快な學校であつた。時間は午後三時から六時迄であるから、音樂學校の授業終了後で問に合ふ。かうした動機が私の上京を現實にした事情であつた。

この時代の入學試験程度と申したら、今考へると實に滑けいの感がある。彼の小學唱歌集中の歌を一つと、長音階を一度歌へばよかつた、今日の樣に、新曲だの聴音だの、又は樂器の試験などなく、まことに幼稚極まるものであつた。

所が翌二十六年になると、日清の風雲愈急を告げ、國家を擧げての大緊縮であつた。さらでだに軽視されてる音樂學校のこと、遂に同年の九月、東京音樂學校は高等師範學校の附属校となり、國家は音樂學校長の給料までも検約したのであつた。斯て廿七・八年戦役となり、我國音樂教育の一頓挫を來した。即ち人心の緊張その極に達し、戦々きようきょうたるの時、樂界一般の萎微沈滞は當然のこと、殊に民衆娯樂的音樂は火の消えたやう、實にびん然なものであつた。けれども、流石に教育音樂の方はそれ程でもなかつたとしても、進むべき歩調は亂されたのであつた。かうして二十年代の後半は、樂界沈滞といふ幕が下されて終りを告げた。

教育音樂の回顧

田村虎蔵

…(二)…

明治30年代
 ―言文一致唱歌の創設―

前時代末に於ける日清戦争は遂に我國の大勝利に歸し、多額の賠償金や土地など得て、大いに景氣づいたセヰか、或は前時代に於て、人心まで萎徴振はなかつた反動とも見るべきか、兎もあれ此時代は樂界の復興期であつた。歌謡(リート)式の單行本は雨後のたけのこの如く、その種類といひ其部數といひ、ほとんど數へきれない程續出して、いはゆる唱歌の普及徹底したことは恐らく空前絶後ともいはるべく、眞に大繁昌を極めたのであつた。

明治三十一、二年の頃は、彼の大歓迎を受けた大勝軍歌の余波を受けて、全國の小學兒童はことごとくこの軍歌を唱謡してゐた。時に自分は三十二年の七月始め、兵庫縣師範學校から東京高師兼東京音樂學校に轉任して來り、こゝに親しく高師付属の小學兒童に唱歌を教授することになつた。この機會によつて私は唱歌教授の研究を進め、その實際を調査することを得て、兒童音樂教育に趣味を感じ、遂に満二十五年以上の久しきに及んだ次第である。

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もともと音樂學校在學中、私はかう考へてゐた、自分の樣に年を取つてから音樂を始めた所で、音樂の藝術家には到底なれるものでない、よし本科を産業してゐたにせよ、将來は教育音樂家になる外はない。と深く自覚してゐた、そこで兵庫縣師範校に在職中の約四年間も、常にこの點に注意を拂つてゐた。ところが前條の機會によつて、教育の総本山たる高師に参り、年來の研究を體験し得られるので、この上なく喜び――かつ努力したのであつた。即ちこの時代は、私のもつとも活躍し奮闘した時代であつた。

當時小學校唱歌の教材は、彼の十年代に出來た小學唱歌集三冊の歌曲がその主體であつた。該書は歌曲共に立派で、今尚師範學校の教科書に多数採用されては居るが、その歌詞曲節共に余りに高雅過ぎて、小學兒童には不適當であると断定されるに至つた。その次第は、即ちこれ等を實際に教授して見て、その眞實なるを會得したのである。今その一例を申して見る、試に小學唱歌集の初編をひもといて御覧!題材はことぐく歌詞第一節の初句をとつてある。彼の「見渡せば」―「うつくしき」―「ほたる」―「思ひ出づれば」等々これ等を兒童に教授して見ると氣の早い子供は直ぐに擧手する先生!何を見渡すのですか、何がうつくしいのですか、何を思ひだすのですか、と、質問されたり野次られて、實に困りきつたのであつた。歌詞又同樣で、こそけれで堅められた語句、まして歌想ときたら全く大人力一ばいの佳作のみである。

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かくて自分は、海外の事情を調査すべく、明治三十年頃英米獨佛における唱歌の教科書を取寄せ、詳細にこれを吟味して見ると、其歌詞曲節共に、誠にあどけない子供らしいものである。即ち兒童には兒童の詩があり、子供には子供の節があることに氣がついたのであつた。そこで幼年兒童には、彼等の平素使用せる言葉を基調として作られた歌から始めねばならぬ、曲節又この見地に立脚したものに作らねばならぬ、と深く堅い信念を持つに至つた。幸ひ自分の大八洲學校で國語の研究をいさゝかなしてゐたので、自ら作歌作曲を試み、その二、三を高師付属校の兒童に教授して見た、ところが兒童は喜びの笑顔を示し、望外の大歓迎を以て唱謡してくれた。かくて自分は、あたかも百萬の援兵を得た勢ひに乗じたのであつた。時は丁度明治三十二年の暮。

教育音樂の回顧

田村虎蔵

……(三)……

反逆者呼はり

當時(三十一、二年頃)は、あらゆる新聞雑誌でも、皆ことごとく漢文口調の文章のみであつた。この時代における前記言文一致唱歌の發表は、よし相富の根據と確信とを持つてゐたにせよ、それは随分大膽な仕宜であつた。果せるかな!私のこの言文一致唱歌に對して、樂界方面から非常なる反對と容易ならぬ難題とが持上つた。公會の席上で痛罵されたこともあり、樂界の反逆者とまでいはれたこともある、しかし、自身は當時二十七、八歳の壯年者、意氣すこぶるわう盛であつた。加之、研究調査を遂げての堅い信念がある、故に、それ等の非難攻撃にして、學術的に若しくは教育的原理に基かざる限り、断固としてこれ等に應戰して來た。遂に兼務なる音樂學校には、辭表を提出せねばならぬ所まで行つた。しかし、堅き所信の貫徹は男子の本懷である。私は言下に辭表を提出したのであつた。しかして淳二にこの言文一致唱歌を公表し、同三十五年の五月には、早やこの幼年唱歌十冊を完成し、大にその宣傳に努力したのであつた。

因にこの言文一致唱歌に反對された理由を掲げると、【第一】元來言文一致なるものは、果して我國の文章となり得るかどうか未定の問題である。然るにそれを教育上に課する唱歌とすることはケシからぬ。【第二】歌詞のそれに節づけをして唱歌もすることは、教育上もつとも危險千萬である。【第三】唱歌として試作するのはよいとしても、それを實際兒童に教授することはもつての外である。といふのであつて、一應無理からぬ議論である。しかしこれ等の理由は、いはゆる學術的の反駁ではなくて單に危険であるといふ消極的憂慮に過ぎない。そこで私は一切これ等に應じなかつた、況して威力や権力などに屈するものではない。然るにこの言文一致唱歌は、漸次識者にその眞價を認められ、間もなく我國初等教育界を風びするに至つた。かくてこの唱歌の大勢こゝに定まるに至り、さきに非難攻撃を加へた連中も、何時しか沈黙を守れるうち、次の時代、即ち明治四十年代に成れる文部省尋常唱歌においても、又低學年にはこの言文一致の歌詞を採用され、今や動かす能はざる根底を築くことになつたのは、想ひだすだに自ら痛快に堪へない次第である。

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次に、この時代の産物として特筆大書すべきことは、彼の「汽笛一聲新橋を…」の鐵道唱歌の出現である、これ又三十三年の出版に係り、元東京開成館主西野虎吉氏の計畫であつた、歌詞は大和田建樹氏の平明流ちやうなもの、作曲は多梅雅氏、我國國有の五聲音階に成り、これ又兒童的な輕快のもの、時あたかも我國鐵道熱の盛んなる秋、しかして難澁なる歌曲に厭悪を感ぜる兒童は、前記言文一致唱歌と共に、大いにこれを歓迎あう歌し、忽ちにして全國的大流行を來たし、一時洛陽の紙價をして騰貴せしめた程で、出版元でさへ逐にその部数を精算し能はなかつたといふ盛況を呈した。教育的兒童唱歌においても、可なり長い間採用されてゐたのであつた。

利にさとき大小無数の書店は都會といはず、皆爭つて地理的唱歌をだした。更に歴史、修身的唱歌も作られ、甚だしきは算術(九九)唱歌、文典唱歌、ペスト豫防、肺結核豫防唱歌さへ出版された。事實上、唱歌の出版であれば決して損はないといふ話であつて、出たわ出たわ實に雑然紛然、單行本唱歌の全盛期を畫した。これ皆前記鐵道唱歌に刺激されたもので一篇の鐵道唱歌が、如何に音樂普及上大なる効果があつたかは、何人も否むことの出來ない事實あつた。

教育音樂の回顧

田村虎蔵

……(四)……

講習會全盛期
明治末年から大正へ

前三十年代は、あらゆる唱歌の發生期であつて、あたかも戦國時代の樣に混亂を極めたが、この時代に入ると、いはゆる大風一過萬木新たなる感を呈した。彼の單純軽薄な單行本は漸次跡を断つて、もつとも眞面目な――眞劍な著作物を見る樣になつた。即ち作者も出版元も、いつしか覺せいされた形で、教育音樂も組織的に研究される樣になり、何々教科書と命名されるものが續出された時代である。かくて教材の程度も漸く整頓され、教授方法も進歩して來た。殊に前時代においては、師範學校高等女學校ですら、數字譜(略譜)を採用してゐた學校が多かつたのであるが、比較的優良なる音樂教師の輩出と共に、これ等中等學校はことごとく樂譜(本譜)教授となり全國小學校においても、又漸く數字譜を廢する傾向となつた。これはまことに教育音樂界の一大進歩といはねばならぬ。

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この時代前半期における唱歌教科書の主なるものを擧げると、明治三十九年から四十二年にかけて、共同販賣所の高等小學唱歌八冊が完成した。これは前時代に成つた尋常小學唱歌十二冊に引續いたもので、當時の國定敬科書に準據した教科用書の元祖となつたもの。次には四十一年から同四十二年に完成した共益商社の中等音樂教科書四冊で、これは北村季晴氏の力作、名は中等用なれど、今尚小學校に使はれてる歌曲も相當にある。殊に本書には伴奏譜を少量載せてある。同じ四十二年に、東京音樂學校編の中等唱歌一冊が出來た。これには全部件奏樂譜を付してあるが、まとまつた伴奏付の唱歌書類としては、恐らく本書がその先べんを着けたものであらう。次に同四十三年に大阪開成館の女子音樂教科書四冊が出來、續いて四十四年五月に着手して、大正三年六月に完成した文部省著作の尋常小學唱歌六冊がある。申す迄もなく、本書は國家的編さんであつて、多大の経費と時間とをかけただけに、もつとも優良なる歌曲が収集され、我國小學唱歌の基準となつたもの、廿年後の今日でも、今尚重要な唱歌集となつて居る。かくて本書の出版以來、唱歌教材の安定を來たした如く、以後数年間は、唱歌教材の供給も一時中止の状態となつた。

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この時代においてもつとも注意すべきことは、全國的に各教科に對する講習會の隆盛を極めたとである。従つて音樂の講習もすこぶる多く、夏季冬季の休暇にはもちろん、春季休業にさへも開催された。この講習のために、自分は三十二年以來今日迄、ほとんど一回の休暇も丸休みにした事はない。眞面目なる地方の研究心を想ひ、斯道の普及發達に資するあらばと考へ、命の限りをこの講習に盡した。その代償としては自己修養を怠ることになり、いさゝか後悔するふしもないではないが、然し又慰安の途もないではない。

要するに、明治四十一年から大正六年迄の十年間は、人心に落着のあつた時代で、教育音樂も組織的系統的に研究され、従つて教材も教授方法も、一段と進歩したのであつた。殊に講習會の全盛期を示し、あらゆる方面に普及發達をなしたのであつた。さて次の時代には如何なる變遷があつたか。

教育音樂の回顧

田村虎蔵

……(五)……

大正・昭和時代

童謡の全盛

文部省著作尋常小學唱歌によつて、一時鳴りを靜めてゐたが、大正七・八年にかけて、目黑書店から大正幼年唱歌・大正少年唱歌が出版され、又、共益商社書店より福井氏の著作物が数多公表された然しこれ等の教材は、前時代のそれと大同小異のもの、更に特色と認むべき程のものはない。

然るにこの時代頃より、新清の作詞者たる北原白秋・西條八十・野口雨情等の諸氏が現れ、子供の詩、即ち児童唱歌なるものは、その形式においてもつと自由型であらねばならぬ、もつと子供の想、即ち童心を捕へたものであらねばならぬ。と主張し、盛んにいはゆる童謡なるものを作製されたのであつた。然してこれ等童謡に對して、又更に新進の作曲者が現れ、その旋律は主として邦楽旋法により、日本流の情調を十二分に盛つたために、唱謡の氣分すこぶる宜しく、漸く世の歓迎を受くるに至つた。この作曲に成功したものは山田耕作・中山晋平・弘田龍太郎・本居長世等の諸氏である。

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この童謡なるものを詳細に吟味して見ると、その歌詞曲節共に確に時代の一進歩であつて、唱歌教材としても又優良な作品が多々ある。即ちその歌詞は、舊型を破つた自由な形、ずつと砕けて軟かく、いはゆる童心に触れたものが多く、その作曲又これに伴つて、寧ろ大膽過ぎる程に邦楽情味を取いれ、然も愉快な伴奏を付してある所から、次第に我國兒童教員の歓迎を受け、大正八・九年頃より同十三四年迄は、非常なる勢を以て流行的に普及され、こゝに童謡時代を現出した程であつた。然して此童謡なるものは、いはゆる童謡で程度の低い所から何人にでも作歌される傾向があり、又その作曲にしても、素人でも「手の着け易い所から、無名の士の駄作も續々と出た。然しこれ等作品中には悲観的、感傷的なものもあり、中には廃たい氣分をさへ醸成する樣なものもある。これ素より好事に伴ふ余弊ではあるが、にも拘らす、ある地方の如きは、在來の唱歌教材は愚か、文部省著作の尋常小學校唱歌すら放擲して顧みず、この童謡に夢中となり沈溺して、教育音樂上由々しき害毒を植つけてる所もあつた。

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しかしながら、昭和の御代に入りてより、この童謡なるものは、作歌者の方でもいさゝか行詰りの感があり、又作曲家の方にも同樣|の傾向があると同時に、一般識者間にも、又教育音樂に従事せるものも、漸次反省し覺せいする樣になり、従つてこれ等童謡の出版は跡をたち、一旦放棄せられてゐた文部尋唱も復活され檢定済の唱歌教材が再び探しもとめられる樣になつたことは、私ども教育音樂に終始してゐるものゝ、大いに喜んで居る所である。

由來欧米には、かうした淺薄な流行といふことはない、我國においては、ひとり唱歌のみでなく、思想問題――教育問題においても、かゝる傾同のあるのは歎かはしいことである。殊に藝術品たる唱歌の如きは、その新作舊作たるを問はず、價値あるものは、幾萬年でもその生命を持續されてゐるのである。新奇を追うてやまぬ我國の悪風は大いに相いましめねばならぬ。

昭和時代に入りては、今更詳説する要もないが、こゝに一言申添へたいことは、彼の小唄なるものゝ流行したことと、又肉感的なジャズ音樂の渡來繁榮してることである。これ等は共に民衆音樂であつて、断じて教育音樂に取いれてはならぬ。更に喜ばしきことは、今や全國小學校でも樂譜(本譜)教授となり、然して唱謡上には伴奏を付する樣になつたことで、その進歩や實に隔世の感がある。殊に最近音樂の進歩と共に、小學校にも鑑賞教授を漸く實施せられる樣になつたことは、私どものもつとも意を強うするところである。再び繰返していふ。今後の學校音樂教育は、單に歌ふ技能の養成のみでなく、高尚な音樂を理解させ、それに趣味を持つ素地を作る樣に指導すべきである。教授上の變遷發達については、更に機會を得て申上げることにしよう。(完)

『朝日新聞』昭和8年3月20日~24日の5回連載。