11時間寝た。

ここ数日、歩き旅をしていた。
合計80㎞ほど歩いた。
かなり疲れた。
さすがに足が痛い。

夜も遅くまで起きてテレビを見たり、本を読んだり、酒を飲んだりしていたので、睡眠不足だった。

そんなわけで、長時間睡眠に至ったのだろう。

歩き旅はどうだったか?
結論を先に言うならば、「イマイチだった」ということになる。

なぜイマイチだったかについて考えた。

私は歩きながら、その場所の日常をボケっと見るのが好きなのだ。

年末はまだ、そういった日常の枠内におさまっている「いつもの休日」的な雰囲気だったのだが、年始になったとたん「特別な日」に町の空気がガラッと変わってしまったかのようだった。

店はほとんど閉まっているし、まちゆく人々は、団体の大家族連れか、若いカップルばかり。

いつものような、買い物に行くおばちゃんも、ワンカップ片手のおじちゃんも、部活に急ぐ若者も、公園で遊ぶ子供の姿もなく、まるで町に存在していい条件が、家族連れかカップルに限定されているかのようで、なんとなく、どの場所を歩いていても居心地がよくなかったのである。

それでも歩き続けた。
なんとかそういう現実を受け止めようと努力しながら。

途中、古本屋に寄る。
野口晴哉、橋本治、内田樹の三冊を買う。
ついでにヴィルヘルム・ バックハウスとロン・カーターのCDを買う。
これから歩かねばならないのに、荷物になるなぁ。

年始に独りで歩くという行為はおかしいのだろう。
この数日で一人で歩いている人を、駅以外ではほとんど見かけることはなかった。

私はよく人から「あなたはちょっと変わっている」と言われる。
先日も言われた。

しかし、その人達が言う「変わっている人」の定義とはどこにあるのだろう?
たぶん、「一般的な日本人像」にあるのだろう。

でもなぜ「日本人」に限定するのだろうか?
グローバルだのなんなどの言われている時代なのだから、「世界の人々」を対象にして定義するべきだと思ってしまうのだが。

でもそうなったら、「変わっている人」の定義なんてできないのだ。
ヨーロッパや中東、アフリカなどを入れてしまうと、平均的な「人間像」なんてものは作ることができるわけがない。
(実際はできるけど、ここではあくまで一般的な話)

だから日本人はあくまで日本人の枠内の中でモノゴトを考え、そこからはみだしているかどうかによって「変わっている人」と「普通の人」をつくりだそうとしているにすぎないのである。

もっと言うならば、そういったマジョリティの枠内を作りだしているのはテレビである。
テレビをつけると、そういう普通の人々の考え方をあちこちに垣間見ることができる。
それらはコマーシャルやドラマによって意図的につくろうとするものであり、そこからはみだす人々を「遅れている人」というレッテルを貼ろうとする凶器でもある。

そういった排外主義的な思想がやがてファシズムを生みだす。
つまりファシズムとは、一般的な「善良無垢な市民」によって生み出される。

誰もいない公園のベンチで古本屋で買ったばかりの橋本治の短編小説をパラパラと読む。
ごく「フツーの人々」がやさしく描かれている、その小説の主人公たちに、すっぽりと感情移入してしまう。

フツーでないはずの私が、フツーの人々に感情移入できるのが不思議だ。
それとも橋本が描いている人々は実はフツーではないのだろうか。

さすがに公園で数十分座っていると、寒さが身にしみる。
私は本を閉じ、方角だけを頼りに、大した当てもなく、また歩きだすことにした。