禅定日記

カブと自転車でキャンプを嗜んでおります

その他

ブリコラージュについて改めて考える

私の頭の奥底にいつも引っかかっているレヴィ=ストロースが提唱した概念「ブリコラージュ」。
その内容をとてもわかりやすく紹介しているサイトがあったので、ここにリンクしておきます。

行き過ぎた科学至上主義によって失ったモノってなんだろう。
生きている実感、創造性、とかかな。
ブリコラージュはそんな現代社会を少し疑い、生きる術の可能性を広げてくれるキッカケになるような気がしているのです。
「こうでなければいけない」という縛りから僕らを解放してくれる考え方、という感じでしょうか。

キャンプや山登り、釣り、など、自然と直にかかわる趣味が流行っている昨今。
その理由として、自然が気持ちいい、ってのもあるでしょうけど、それと同時に、無意識に「人工的なルールでがんじがらめになった空間」から脱出したい人が増えているのではないかと思うのです。
人が本来持っている「野生の思考」を呼び覚ますために、いつも「他人を意識している時間」を、自分自身が「本能的に活動する」ために充てる時間にする。
キャンプなどはそういう時間なのではないかと。

しかし残念ながらキャンプも山登りも釣りも、人工的なルールでがんじがらめになりつつありますがね。
まあ、土日が休みのサラリーマンが一斉に同じ場所に行くわけなのでなかなかムズカシイ問題ですな。
ホンモノのブッシュクラフターや登山家、釣り師なんかは、人のこないような場所で楽しんでいるのでしょうが、多くの一般人にはそれはなかなかできることではないですし。

でもブリコラージュ的な思考は自然の中だけで発揮するものではなく、日常生活でも発揮できるはずなわけです。
それがサラリーマンを十数年もやっていると、毎日同じようなパターンの暮らしによって考えが凝り固まってきて、自分の脳内で勝手に思考の範囲を限定し、その枠内でしか行動しなくなってきます。
その方が余分なことを考えなくて済むから楽なんですよね。
脳内に刺激が欲しければ、物を買い漁ったり、ネットサーフィンしたり、本を読んだりしていればいくらでも手に入る世の中ですから、自分自身が変則的な行動を起こす必要もない。
テレビで紹介されたとかなんとかで行列に並んでしまうのも同じことです。
我々現代人は自発的に行動しているようでいて、実は資本主義に動かされているだけなような気もしてきますな。

まあ、とりあえず「世の中ってテレビや新聞、ネットではわからない面白いことが山ほどあるんでっせ」、ってことを常に意識の片隅に入れておきたいところです。

冬のキャンプとオヤジ化


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ええ感じに肌寒くなってきました。
キャンプシーズンですな。

焚き火で暖を取り、炭火で魚なんぞを炙りながら熱燗をちびちびとやり、まったりと過ごす・・・。
最高ですな。

そんなわけで、熱燗を楽しむための道具をちょこちょこと買いました。

おちょこは旅先でいいものがあればその都度買い集めたら楽しそうなんですが、とりあえず割れる心配のないステンレスのやつを買いました。
こいつで行く先々の地酒を飲み比べできたら最高ですの。

考えてみたら、自分の住んでいる町は酒処として有名だった。
今度買いに行こう。

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最近食べるものや飲むものが随分オヤジ化してきた。
若い頃は量が多ければなんでもよかったのだが、最近はいいものを少量味わう喜びに目覚めた。
歳をとることがネガティブにとらえられがちな世の中だけども、歳をとらないと見えないこともたくさんあることがわかりつつある。

先日のビワイチにしても、若い頃よりも体力がなくなった分、身体と相談しながらじっくりと走る楽しさがあった。

古いカブに使い込んだキャンプ道具を積み、通りがかった遺跡や博物館を覗きつつ、キャンプ場を目指す・・・そんなツーリングのスタイルが、なんとなくかっこいいような気がしてきたのはこの歳になってからだ。

9月に体調を崩して以来、自分の中で何かが変わった。
それはある種のあきらめのような感覚であり、新たなスタートラインに立ったような感じでもあるのだが、まだはっきりとわからない。

なんにせよ、自分中心の世界への見方が、ちょっと俯瞰(ふかん)的に見られるようになった。
世界の中の自分の立ち位置についてのリテラシーが身についたといえばいいのか。

歳をかさねることに肯定的になれたのは自分の中では重要な変化だ。
これからどんな体験ができるのか。
今は不安よりも楽しみのほうが大きい。

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ところで酒かん計というものは、湯の温度を計るものなのか、酒の温度を計るものなのかどっちなんだろう?

ああ、まだまだ経験値が足りないオジサン入門者の私であります。




健康の秋

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気が付けば11月だ。
9月ごろから体調が悪かったのだが、ようやくここのところマシになってきた。
7月8月の暑さによる疲労が秋なって一気に出たのだろうか。
自分が暑さに弱いことは昔からわかっているし、年々その弱さもアップしているような感じなので、今年の夏は特に用心して外出は控えてゆっくり過ごしたつもりなのだけど。

日中は頭がぼけーっとするし、夜中に全身汗だくになって目が覚める。
倦怠感、頭痛、関節痛、歯痛、便秘、眼精疲労、などもひどかった。

これはやばいなぁ、と思って、とりあえず家の本棚から役に立ちそうな本を引っ張りだし、片っ端から読んだ。
そしてひとつわかった。
自分は今まで「若さ」の上にあぐらをかき、自身の中には健康とか不健康とかいう概念すらも存在していなかったのだと。

改めて自分と年齢が近い人達と健康の話をすると、みんな大体一度は医者にお世話になっているようで、40を越えるとそれが当たり前だということを知った。
自分の体調の悪さが肉体以上に精神にこたえてしまい、最近かなり落ち込んでいたのだが、そんなもんだとわかった今は少し気持ちは軽くなった。

とりあえずこれから先の人生を考えると、健康に対してもそれなりの努力が必要なようである。
なるべく医者に世話にならないようにするには、生活習慣はかなり大切なようだ。
もちろんそんなことは今までも頭ではわかってはいたのだが、こう体調が悪いと、実感としてリアルに理解できた。

そして同時にこうも思った。
先日キャンプした時に友人のテントのポールが折れてしまった。
買い出しから戻ってくると、建てたはずのテントがぺしゃんこになっていたのだ。
一瞬焦りつつも、そこらに落ちていた竹の破片と、偶然持っていたガムテープで補修し、なんとか使うことができた。
カブや自転車で長距離を走ると、ボルトがなくなっていたりパンクしたりすることもよくある話だ。
しかしその都度処置してやると、普通に旅は続行できる。

要はなんとかなるのである。

もちろん事前にチェックすることも大切だが、それにも限界があるし、仮に何かあってもなんとかなることがほとんどなのだ。
つまり「なんとかなる」ことを「なんとかできる」ようにする知恵を日々磨かねばならないということだ。

人間の身体もモノ同様、いつ壊れてもおかしくないもの、と考えるべきなのだろう。
しかし私たちはそう思いにくい環境に生きている。
今の社会はモノが壊れるという前提があまりない。
壊れたら捨てる。
だから壊れない完璧なモノを求め続ける。
その結果、誰も手を入れることができないような複雑なモノができあがる。
そんなモノは壊れても誰も修理できないので、買い替えるしか選択肢がなくなってしまう。

人間の身体に対しても同じ感覚で接しているような気がする。
病気なんて私には縁がない、と。
医療も発達しているし、サプリも服用しているから安心だ、と。
その結果、自分の身体の悲鳴に鈍感になってはいまいか。

「なんとかなるもの」なんて言っておきながら矛盾しているようなことを書いているように誤解されるかもしれないが、察してください。

身体もモノもある程度使い続けていると必ず不具合はでる。
その不具合とどう付き合うかは重要である。
人間もモノも「壊れる」という前提で付き合うことによって、普段から敏感に接することができるのではないか。
壊れたら買い替えればいいや、とモノの場合は思えても、身体はそういうわけにはいかない。

とは言っても、やっぱり医者に頼ることも必要になる時はある。
私のカブは主治医がいるので安心だが、自分自身も信頼できる主治医がいたほうがいいのだろう。

なんだか色々考えさせられる秋である。

ルールと経済を最優先することの未来性のなさについて

こんなことがあった。

・・・・・・・・・・

通勤途中に新しいホテルができた。
そこは駐車場が数台分しかないホテルだ。
しかしたくさんの観光客を乗せた大型バスがよくやってくる。

駐車場が狭いので大型バスは路駐して荷物や客を下ろさなければならない。
当然、道路とホテルの間の歩道はでかいキャスター付きのハードケースや、それを取ろうとするたくさんの客でごった返し、道がふさがれる。

バスの客は歩道を通行する人間には目もくれず道を占領するので、たまたまそのタイミングで通りがかった通行人からすれば、ちょっとした迷惑である。
でもまあ、観光客は気分も上がっているだろうから、まわりを見る余裕はないだろうし、地元民としては京都を楽しんでほしいと思うだろうから、優しく見守る人がほとんだ。
もちろん私も。

しかし今日はちがった。

自転車で通勤中、いつものように路駐されたバスから荷と客をおろす真っ最中のタイミングに出くわした。
道が占領されていたので、私もちょっと急ぎ気味ではあったが、我慢して積み下ろしを見守っていた。
こっちに気が付けば道をそれとなく空けてくれるだろう、という期待をこめつつ。

そうやって待っている私に、突然バスの運転手らしきおっさんが「ここって自転車走っていいの?」と言い放ってきたのだ。
私はとっさに言葉が出なかった。
そんなことを指摘する前に、目の前の客をなんとかせーよ、おっさん。
と思ったが、あまりの不意打ちに言葉にならなかった。

その次の瞬間、こっちに気が付いたホテルの従業員がかけよってきて、運転手らしきおっさんに「ここは通行可能です」と伝え、道をつくってくれた。
従業員は私に「もうしわけございません」と言い、私は笑顔で(ひきつっていたかもしれないが)黙ってその場を去ったが、後になってあのおっさんの態度に腹がたってしょうがなかった。

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ルールばかりを気にして常識がどこかに飛んでいってしまった輩。
そんな人が増えた。

ルールなんてものは一過性のもので、辻褄を合わせる為につくられたものでしかなく、マナーを忘れなければ必要のないものがほとんどである。
そのマナーがわからない人が増えた。
だからルールで縛ることで、動きを制限させる。
するとマナーよりもルールが重んじられ、マナーという感覚がより欠落していく。
そういう悪循環がうまれるわけだ。

こわいのはルールが常態化したときに、マナーをすっ飛ばして常識にかわったような錯覚を起こしてしまうことだ。

それは、交通量のない広大な道のど真ん中にある交差点の信号が赤だからといっておとなしく待つ人、信号がない交差点だからといってそのままのスピードで通過する人、それぞれがルールを守っているという考えのもとでマナーや常識を見失っていることに気が付いていないことを意味する。

戦争では人をたくさん殺した方が勝つ。
そういうルールである。

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今の交通事情は、自転車は歩道を走るものというドライバーの常識、自転車は車道を走るものというサイクリストの常識、自転車はどこを走ってもいいものというシティサイクル乗りの勘違いがごちゃごちゃになっているし、インフラもまだまだ整っていない。

自転車はちゃんとした道さえあれば、かなりの距離を楽に移動できる乗り物だ。
しかし日本での自転車の立場はいまだに窮屈で肩身が狭く、歩道を走っても車道を走っても煙たがられるし、危険も多い。
自転車はスポーツ的な側面でしか理解は進んでおらず(それは自転車を売る側が売れたらあとはどうでもいいと思っているからだ)、移動手段としての理解は皆無にひとしい。

このご時世、騒音や排ガスをまき散らす車の方が幅を利かせ、静かでクリーンな自転車が肩身が狭い思いをしなければならないなんて、日本もまだまだ新興国の域を出ていないとしか言えない。

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でかい金が動くことばかりを最優先に考える経済至上主義に未来なんてない。
決まりごとでがんじがらめになったルール至上主義にも未来はない。

それをまず我々消費者が気が付かなければ、いつまでたってもこの国は閉塞感から抜け出すことはできないだろう。


テキトーキャンプ vol.7

最近色々なことを考えている。

昨日今日は久しぶりのキャンプだったので、そのあたりのことをネチッこく語る機会があるかな、と思っていたのだが、普通にオモロイキャンプとなってしまい、いつも通りのバカ話だけでタイムオーバー。

でもこれはこれでいいのかな。
それが人生なのだろうし。

雑誌に元気がない

釣りをしなくなって久しい私ですが、なぜか今もいくつかの釣り雑誌を愛読しています。
釣りもしない自分がなんで釣り雑誌を読むのか・・・と考えると、単に「面白いから」「読んでいてワクワクするから」という理由が強いように思えます。
世の中には様々な雑誌がありますが、そのほとんどはメーカーの広告のような「おべんちゃら記事」ばかりで、このご時世、ネットでその分野の記事を検索するほうがはるかに内容的には面白いものが多いように感じます(最近はネットの記事もおべんちゃらが増えてきたように感じますが)。

早い話、売れれば正義、売れなければ即アウト。
まあそれはある程度は仕方ないことなのでしょうが、これでは読者も育たないような気がします。

しかし一部の釣り雑誌はまだまだ元気です。
釣り雑誌は割と個人レベルの編集者がつくっているようなローカルでマニアックな雑誌がまだ生きていて、いわゆる「全国紙」でありがちな「初心者からベテランまで」のような、よくばりになりすぎて結局ペラペラな内容に終始している雑誌にはない魅力があります。

もちろん初心者をないがしろにしてもいいと言っているわけではありません。
裾野を広げる努力も趣味の世界の雑誌では大切ですから、そういった記事は必要なことは言うまでもありません。

マニアックな本はたしかに読みにくいところはあります。
初心者はおいてけぼりをくらうような専門用語が溢れかえっているので、読んでいてもほとんど理解できない記事も少なくありませんが、それでも面白いと感じるのは、書き手の「伝えたいこと」がしっかり伝わるような文章だからです。

釣り道具はいわゆる「ガレージメーカー」と呼ばれるような、個人で営んでいる釣り道具製造メーカーが多いのですが、それも、釣り雑誌の活性に一役買っているのではないかと思います。
(自転車なんてシマノ一辺倒ですし、フレームは日本では個人レベルのビルダーがけっこう存在しますが、雑誌で紹介されるのは大手のものばかり。キャンプ道具はガレージメーカーがけっこう増えているので、今後の活躍に期待、というかネットでは結構活発ですね。雑誌は相変わらず大手のおべんちゃら記事ばかりですが)
小さな出版社の釣り雑誌は、そういった小さな釣り道具メーカーが書いた文章が結構多くて、内容も質もとてもよくて面白いものが多いです。
個人で運営している道具メーカーは趣味が高じて仕事になったパターンが圧倒的に多く、「売りたい」という気持ちよりも「自分の納得いくものをつくりたい。そしてそれを他の人にも使ってみてほしい」という思いがとても強い。
今の日本のほとんどのメーカーが忘れてしまったものづくり精神を感じます。

趣味の世界は探求してナンボだと思うわけですが、雑誌は初心者を引き入れるまではしても、そこから先の中級者以上の趣味人に対して「あとはあなたがたで勝手に楽しんでねー」というスタンスしかありません。
「需要がない」と出版社は反論するでしょうが、内容が面白くないから需要がなくなる、とは考えようとはしません。

出版業界では個人の編集者が自分のつくりたい本を作るために独立するケースが少しずつ増えています。
個人で何かするのは、今の経済システムでは大変な面も多いですが、パソコンやネットの発達により、昔よりは動きやすくなっているような気もします。
一部のフリーペーパーではそういった動きが活発です。

私は紙媒体の雑誌が好きです。
液晶画面よりもじっくり落ち着いて読める気がしますし、視覚だけでなく、紙の感触や、ページをめくる音、かすかな匂いなど、身体全体で読めるような気がするからです。
だから雑誌にはもっと頑張ってほしいのです。


大切に使い続けること

某BSで1967年製のハーレー(といっても単気筒の小排気量車)をレストアする番組があったので見ていたのだが、めっさいいヤレ感のハーレーを、見る見る再メッキ再塗装のピカピカ状態にしていく過程を見ていて心が痛んだ私は懐古趣味の時代錯誤のおっさんですかね。

レストアを含む修復作業とは非常にデリケートな行為である。
それは絵画や神社仏閣などでも同じである。
経年劣化を尊重するか否かの判断で、正しい見解なんてあるのかは誰にもわからない。

しかし個人的意見としては、なんでもかんでも新品当時のピカピカ状態にすることが正義なのかと問われれば、必ずしもYESとは言えない。
例えば着込んだ革ジャンや履きこんだジーンズ、しっかりと手入れされてきた木製家具や木造家屋などは新品当時とは違った魅力を放っている。
それらは経年美化しているとも思えるからである。

新しいモノは魅力的だが、それらは手に入れた瞬間から劣化の一途を辿ると思われがちだったりする。
みんな新品当時のような綺麗な状態を維持しようと躍起なるところがあることでもそれはわかる。
しかし経年美化を知ることによって、新しく買ったものでも所有する喜びはいつまでも得ることができる。
逆にそれを知らなければいつまでも新型カブを追い続けるようなことになる。
110のインジェクションカブに乗っている人々は早くもC125に興味を奪われていたりしませんか?

「大切にする」ということは表面だけを綺麗に維持することではなく、よく使い、中身をよく手入れすることではないかと思う。
アメリカのハーレーのレストア番組を見ていて感じた自分なりの思いはそこに尽きます。











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YONA