禅定日記

カブと自転車でキャンプを嗜んでおります

雑文

「野営」という言葉の響きが好きだ

俺はせせらぎの音を聴きながら橋の下で野宿をするのが気に入っている。
正直なところ旅費の節約よりはこちらに目的があるのかもしれない。
川原の野宿はなかなか捨てがたいものがある。

立ったまま缶ビールを呑んだ。
運動で汗をかいた後はやはり旨い。
暗くなる前にするべきことをした。
川原に散在する乾燥した流木や板切れを拾い集めるのだ。
たちまち多すぎるほどの焚火の材料が集まり、橋桁の自転車の脇に山積みになった。
それでも四時を三〇分過ぎていた。

俺は橋桁から少し離れた場所を選んで火を焚いた。
橋の上から一目で焚火とわかる場所だった。
不審火だと思われて余計な騒ぎを引き起こしたくなかったからだ。

思い切り盛大な焚火にした。
材料はふんだんにある。
ときどき、音をたてて木がはじける。
小さな火花が散る。
いつ見ても盛大な焚火の炎は妖しく美しく猛々しい。

自転車のキャリアからシュラフの入ったザックを外して焚火の前に置いた。
フライパンは出して橋げたの上に置いた。
その横に家から持ってきた握り飯の包みと四本の魚肉入りソーセージも並べておいた。

焚火のザックに腰を掛けて、やっと人間らしい息をした。

「男たちは北へ」 ー風間一輝ー

作家の風間一輝は自転車好きとして知られていた。
上の引用も自転車で旅をしたことのある人間にしか書けない文章だ。
がさつな男の野宿の様子を読んでいると、無性に自転車旅がしたくなってくる。

野宿だろうがキャンプだろうが、野外でのひとときは、どれだけシステマティックに道具を配置するかでその時間がくつろぎのひとときになるか、あわただしいひとときになるかが決まる。

バイクや自転車で長い時間を移動に充ててきたので、とにかくはやく腰をおろし、酒を飲み、人心地つきたい、
という気持ちは至極当然だ。
しかしそのためには野営地に着いてからのひと手間が大切になってくる。

私はとにかく現地に着くと「プシュ」っと缶ビールのプルトップを開けてしまう。
そうやってヒトイキついている間にいつの間にか辺りは暗くなり、ランタンはどこだ、食材はどこだ、寝袋の準備がまだだ、などとバタバタしてしまう。

そうやってグダグダの状態のまま、酔いがまわり、コッフェルやバーナーを散乱させたまま散らかっているテント内に入り、そのままの服装で寝袋に潜り込み、翌朝、頭痛とともに目覚める。
そして朝露に濡れたキャンプ道具を見て愕然とするのだ。

何度キャンプをしてもそんなアリサマである。
これじゃあ20代の頃と変わらないじゃないか。

私ももう上の小説の主人公である桐沢とほぼ同じ歳だ。
もう少し落ち着いたキャンプがしたい。
もちろんそれはネット上にころがるオシャレキャンパーのようになりたいということではない。
道具に支配されたキャンプではなく、思想の問題である。
最小限の使いこまれたいつもの道具によるいつものパターンでのキャンプができれば、千夜の万物を楽しむ余裕が生まれる。
まあ、まだまだ自分には無理そうだけども。

野営。
そうもっと野営感がほしい。
とてもステキな響きと思いませんか?
これからは「キャンパー」ではなく「野営家」を目指そう。










画面にうつせないもの

日本のメーカーがつくるテレビやカメラを売るときの謳い文句は、鮮やかさや鮮明さなど、いかに見た目、あるいは見た目以上の色彩豊かな世界を目の前に浮かび上がらせることができるのか、に終始している。
しかしそんなうすっぺらな画面で一体何が見えるというのだろう?

人はものを見るとき、視覚だけを頼りにしているわけではない。
経験というフィルターを通すこともあれば、感情という画角で視野がかわることもある。
時にはモノクロ画面に鮮やかな色彩を見ることだってあるのだ。

それがどういう意味なのかが見えてこないと、今の日本はこのままズブズブと沈んでいくだろう。


早くじじいになりたい


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小学生ぐらいの時から、早く年を取りたいと思っていた。
色白でヒョロヒョロで肌が妙にツルツルしている自分の姿が、好きになれなかったからだ。

アンチ、アンチエイジング。
とりあえず年を取れば色白ではなくなると信じていた。
ヘミングウェイの小説に出てくるような、浅黒く日焼けした老漁師のような姿になりたかった。
しかし42歳を目前にした今も色白なままだ。

先日、某カブ屋の店長が、7、8年前に撮ったと思われる店長と私が写っている写真を見つけたらしいのだが、その写真を見て「ヨナさん若すぎてきっしょいわ!(気色悪いということ)」と言っていた。
何も反論できなかった。
私も同じ写真を持っているのだが、感想は全く同じだったからである。

しかし最近、鏡や動画、写真などで自分を見ていると、自分のオヤジ化が随分すすんでいることに気がついた。
シミやシワ、たるみ、髪の量や色、髭、匂い。
おお・・・目の前におっさんがいる。

私はうれしくなった。
肌はまだ青白いが、それ以外は順調にじじい化してきているのだ。
自分の知らないあいだに。

じじい、と言っても、ヨボヨボで頭も身体もいうことをきかない老いぼれになりたいわけではない。
屈強で頭の回転の早い経験豊かなじじいになりたいのだ。
なので、身体もそこそこ鍛え、脳もそれなりに使える状態に保ち、神羅万象に関心をもたねばならない。
理想のじじいへの道はなかなか険しいのである。

そして、じじいになってもカブや自転車に乗って、キャンプに出かける自分であってほしい。
しかし、私はある日突然モノゴトから冷めてしまうタイプだから心配である。
何事も冷めずに続けるには探求心が不可欠だろう。

このブログで何度も書いているのだが、私の座右の銘は、近所の寺の掲示板に書かれていた
「まだやっているのか」と言われてはじめて本物なんだ
である。
今まで星の数ほどの偉人たちの名言を見聞きしてきたが、一番心に響いたのが、近所の寺で見かけた等身大のこの言葉だった。

じじいになっても今とおなじように遊んでいられたら最高だ。
好きなことを探求し続けた結果、気がつけばじじいになっていた、ということになるのだろう。

じじいは一日にして成らず。
理想のじじいになるにはまだまだ色白のままで日々揉まれなければならないようだ。

モノと知恵の相関性を考えてみる


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年末のキャンプツーリングの準備が完了。
これで全部。
といっても多いのか少ないのか、これじゃあサイズ感がわかりまへんな。

炭を1kg持っていくのだが、けっこうかさばる。
しかし現地に落ちている枝だけで料理をするスキルがないので仕方がない。
スキルがない分、便利なモノに頼るしかないのが実情だろう。

「全ての装備を知恵に置き換えること」とパタゴニアの創業者であるイヴォン・シュイナードは言った。
我々は便利なモノと引き換えに、その「知恵」に置き換える行為をあきらめた。

モノが進化すればするだけ、人間の能力は退化しているように思う。
便利なモノを使いこなしているつもりでも、実は単にモノに支配されているだけのように感じることも少なくない。

便利なモノを貪った結果、知恵を失った。
そして失った知恵を補うために、より便利なモノを貪る。
その負のスパイラルによってモノに対するリテラシーは底なしで失われることになる。
モノに対するリテラシーは知恵がなければこしらえることはできない。
そして、モノに対してのリテラシーがなければ、モノを使いこなすことは不可能だ。
その結果、モノは単なる消費欲や自己顕示欲を満たすためだけのツールになり下がり、無意味にモノを買うために貴重な人生を消費することになる。

自分の場合、キャンプを通じてそうした知恵を呼び覚ましたいと思う反面、新しいキャンプ道具を買い込み、それを使うのが楽しみになっているというジレンマもあったりする。

まあ楽しければいいのかもしれないが、「楽しい」の向こう側にある奥深い世界を少しでも覗こうと思ったら、モノよりも知恵を駆使する方がいいのではないだろうか。
そして、モノを減らす試みの第一歩として、一つのモノを使い続けてみることを考えたい。
それには忍耐が必要かもしれないが。

一つのモノを我慢強く使い続けることによって知恵が生まれ、リテラシーが育つ。
使い続けるうちに、長所も短所もつかめてくるだろうし、もしかしたら愛着も湧くかもしれない。
短所がいつのまにか長所だったことを発見することもあるかもしれない。
やがて、それなりに使いこなせるようになり、いつかそのモノから「卒業」する時がやってくる。

そしてまた新たな知恵が生まれ、リテラシーが育ち、少しずつモノから開放され、世界は深まっていく。

なんだか禅の境地みたいな理屈っぽい話になってしまいましたが、要するに私はもっとキャンプスキルを上げて、少しの厳選された道具でキャンプをしたいんですよーってことですわ。






ブリコラージュスタイルでの年末キャンプツーリングの概要

年末の恒例行事の二泊三日のキャンプツーリングが近づいてきた。

過去二年はわりとハードな行程で四国を旅したのだが、今年は同じキャンプ場で連泊して、ゆっくりとキャンプを楽しもう、という趣旨でプランを練っていた。
ところが先日、「もっと流浪感がほしい」という友人の要望により、連泊はやめて、二か所でキャンプをすることになった。
まあ、我々の場合、どこへ行ってもホムセンや百均のハシゴばかりしているのだが、それはそれでオモロイのでヨシとしよう。

とは言え、一応プレスモーターサイクルのカブ屋のカブツー(今回は動画のみですが)名義でのツーリングなので、それなりにマジメにツーリングしなければならない。
あまりにテキトーなツーリングをしてしまうと、動画の編集作業で泣きを見ることになるからだ。
しかし、何かいいお題目はないかな・・・と考えてはみたけれど、これといって面白いテーマは思い付かなかった。

とりあえず走りだせばそれなりに何かしらの面白いことにぶち当たるだろう。
古いカブにキャンプ道具を積んで寒い中を走るのだ。
面白くないはずがない。

その旅は〈目的〉を設定する旅、生産的な旅からは、かけはなれたものだ。むしろあらゆる資格を自分から剥奪する旅、自分自身にさえ知られない匿名性へと帰ってゆく試み、絶対的に異郷にあることを経験しようとする冒険だ。「コロンブスの犬」菅 啓次郎
もう何度もツーリングをしているというのに、いつまでたっても上手に旅ができない。
でも旅慣れしてしまうと変に合理的になってしまうような気がするので、そういう意味では旅が下手な方が結果的に面白い旅ができると思う。

・・・・・・・・・・
キャンプ回数を重ねるにつれて、荷物が増えていく傾向にあるのだけど、ここらで歯止めをかけたい。
というか、現地にあるモノをできるだけ利用する「ブリコラージュ」なキャンプをしたいので、今回は荷物を少し減らすことにした。

私が勝手に命名したブリコラージュスタイルのキャンプ。
ブッシュクラフトほどガチガチなスタイルではなく、かといって、グランピングのような道具ありきのスタイルでもない。
自分のスキルに合った範囲で、現地の環境を利用し、自然に調和したスタイルを目指すキャンプのことである。

例えば「箸」を持っていかずに現地の枝を削ってつくるとか、トイレを使わずに野グソをする(これはさすがにキャンプ場ではできない)とか、LEDランタンを使わずにロウソクだけで夜を乗り切るとか。
小さなルールをつくって、ちょっとメンドーなことを楽しんでしまおうじゃないか、というスタイルだ。

で、今回は椅子とテーブル、ガスバーナーを持っていかないことにしました。

椅子はでかい石ころをどっかで拾ってきて、その上に尻皮を敷いて座ればいい。
テーブルも石ころを使う、もしくは太い木を縦に割って使えばいい。

ガスバーナーは焚き火で代用する。
とはいっても今回はイマイチ自信もスキルもないので、とりあえず炭火焼グリルを持っていって、薪と炭を併用する予定だ。

まあ、そんな軟弱スタイルですが、今の自分にはこれでいっぱいいっぱいでしょう。
初日は海辺でのキャンプなので、釣りで魚を現地調達できれば理想なのですが、色々と無理っぽいので今後のスキルアップに期待。

と、そんな感じの年末ツーリングになります。

停電


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朝、会社に入ったら真っ暗だった。
「え?今日って何曜日?」と一瞬だけ思ったが、単に停電しているだけだった。

特に急いでいる仕事もないので、真っ暗な仕事部屋でのんびりする。
使っていないLEDランタンを持ってこようかな。
いや、こういう時こそ、空き瓶を利用した自作ロウソクランタンの出番じゃないだろうか。
などと考える。

それにしても電気に依存してるなぁ。

暖房がないので寒い。
別の部屋にある石油ストーブに当たりにいく。
みんなも集まってきた。

なんとなく焚き火を囲んでるような雰囲気だ。
普段あまり話すことのない人と他愛のない話を交わしたり。
アナログでのんびりした時間。

昼前に復旧。



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