禅定日記

カブと自転車でキャンプを嗜んでおります

雑記

路地をあるく

12時間寝た。
ずいぶん疲れがたまっていたようだ。
おかげで今朝は脳がクリアーだ。

昨夜は弱った身体にムチをうち、中京区を歩いた。
排ガスと騒音から逃げるように、細い路地を選びながら。

個人レベルで経営されているような小さな飲食店や服屋、雑貨屋、宿、何かの工場などが、古くからある民家に混在しているのが、京都の路地の特徴だ。
他の土地では、道路を拡張し、住宅街と商業地区をはっきり分けてしまっているところが多い。
すっきりしているけど、どこか味気ない。
町は計画的に開発するものではないような気がする。

時おり、カブが駐車されている。
古い自転車も停められている。
どれも景色に調和している。

この季節、他の大きな街ではクリスマスツリーが煌々とライトアップされていて、華やかな雰囲気だ。
大きなプロジェクト、それに群がるたくさんの人々。
大資本の欲望によってギラギラと輝くツリー。

京都でもそんな場所が目立ちはじめているが、そんな喧騒から何本か道をはずすと、暗い路地にぽわーんと灯る行灯の並ぶ路地がまだたくさん残っている。
薄暗い中にほのかな灯りがある小さな路地は、古いカブやランドナーに通じるような「わび・さび」の価値観が残る。

右肩上がりが絶対条件である資本主義経済社会の行く末が、暗い未来としか思えない現在、京都の小さな路地で営まれるような、ささやかで上質な暮らしが、これから生きていくためのヒントになるのではないか。
そんなことを思いながら、家路についた。




プリムスNo71分解

どーにもプリムスの調子が悪い。

火力がとても弱いのだ。
何度か清掃はしていて、ススはほとんどつかなくなったのだけども。
でも火の力は使うたびに弱くなっているような感じ。

ほとんどの原因は、バーナージェットと呼ばれる、気化したガソリンが吹き出す小さな穴がススやらゴミやらで詰まることが原因らしい。
しかし、ここは何度も掃除しているし、逆さにするとガソリンの残りがポタポタと落ちてくるから、それほどの詰まりはないように思う。
まあ、せっかくなので構造を理解しておくことも兼ねてバラせるところまでバラすことにした。

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意外にパーツ点数は少なく、構造はすこぶる単純なものだった。
でもなんとなくもう少しバラせそうな部分もあるのだけども、今回はここまでにしておくことにした。

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部品自体はどれも表面的には綺麗な状態で、特に清掃のしがいはなく、拍子抜けだった。
ただバラすことによって、仕組みがリアルにわかったのでそれはよかった。
それまでにも色々話を聞いたり、ネットで調べてはいたから、それが実物を見ることによりよくわかった。
ついつい脳内完結をして理解した気になる性分なのだけど、やっぱり直に見ることは大切ですな。

で、ウィックという綿でできた芯があるのですが、これはタンク内部のガソリンを吸い上げて、上部に供給する部品で、ウィックがへたっているとガソリンを吸う力が落ちてしまい、結果的に燃焼効率は下がるらしく。
なので、ウィックのへたりが原因の場合もけっこう多いらしい。
でも、見た感じはまだまだ綺麗だ。
ただ、過去に自分が使っていたのを思い起こすと、もしかしたらガソリン自体の量が少なすぎるのかもしれない。
そのために吸い上げる量が減って火力の低下につながっていた可能性がある。
今度はもうちょっと多めにタンクに入れてみることにする。

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それにしてもネットで検索していて思うのは、どうにも情報のレベルが落ちているなぁ、ということ。
正確には、深い情報にたどり着くには、検索上位にひっかかる(要するに〇〇ハックとかまとめサイト系ね)浅いペラペラの情報をさばいていく必要があるので、時間がかかるようになってしまった。
昔はこんなことなかったと思うのだけど。

どんなものでも大衆化が進みすぎると質は落ちるってことなのかな。

こんな時に大いに役立つのは個人のブログ。
何年も続けている人のブログは何かしら学べる部分が多い。
もうかなり減ってしまったけど。

SNSは面白いけど、情報の鮮度が短いネタが多いし、検索もやりにくいのが弱点ですね。
つまり使い捨ての情報が多いし、細部まで文章化されることもほとんどなく、わかりやすさや物珍しさのような、とっつきやすいネタが多いのが特徴。
もちろんそれはそれで使い方次第で可能性は無限大なのだけども。

まあ、自分のブログは何の役にも立たんけど、これはこれで、こういう偏屈な思想の人間にはなりたくないなぁ、という反面教師として見ていただけたらこれ幸いです。


キャンプ飯


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最近のキャンプ飯はもっぱら化学調味料と砂糖に頼らないレシピで調理している。

今のところは失敗ばかりで、大体において薄味になってしまっている。

しかし考え方によっては、素材そのものの味を楽しめるし、化学調味料によって麻痺してしまった舌(味覚)をよみがえらせるための過程だとも言えるわけである。
一応、健康や身体づくりに関心のある周囲の人達に、普段どんな調理法で何を食べているかを聞いてみて、それらを参考にして研究をしている最中である。

私のキャンプは、現地についたらまず、缶ビールのプルトップをプシュっとしてしまうほろ酔いスタイルなので、あまり凝った料理はできない。
かといって、あまりに短時間で完成してしまうほど簡単な料理だと、キャンプのメインイベントがすぐに終わってしまい、おもしろくない。

なかなかさじ加減がムズカシイところではある。

ここのところ、立て続けに化学調味料や砂糖の怖さについて書かれた本を読んでおり、その影響で健康志向的調理法に目覚めつつあるのだが、結論としては、どう考えたって、現代日本社会で有機的に栽培された食物を健全な調理法で食べる毎日を送ることは不可能なのだということに気がついてしまった。

まあ、人間何を食べていても死ぬときは死ぬのだろうから、あまり神経質になってもしょうがないのだろうけれど。

それでもやっぱりある程度はちゃんとしたものを食べたいという思いは強くなった。
わけのわからん記号や成分が書かれた原材料を見ていて、何も思わないわけにはいかなくなった。

食べ物は自分の身体の元だ。
ジャンクなもんばっか食べて、ジャンクな人間にならないように注意したいところだ。



小料理屋のランドナー

散歩している時によく通る小料理屋の入口に、たまに古いランドナーが立て掛けられているときがある。
80年代のマスプロ品だが、いい感じで使い込まれていて、手入れもしっかりされている。
車体から味わいがにじみでているようで、見ているだけでいい気分になる。
何よりも小料理屋の入口に溶け込んでいるのがいい。

よい品には情緒がある。
それは使い手が育むものだと思う。
だから品物は実用しなければならない。

骨董品と呼ばれるものには、美術品と民藝品の二種類が存在する。
しかし今ではどちらも違いのほとんどない同じようなものになってしまっている。

民藝品は本来、実用に徹してつくられたものだった。
作り手のエゴは入れず、しかし妥協はしない。
それを使い手によって、さらに磨きこんでいく。
小料理屋の入口に停められていたランドナーに僕が惹かれたのは、そういった民藝品の本質を感じたからだと思う。

このランドナーを見たいがために、今日も僕は小料理屋を通るルートで散歩にでかける。






実家にかえる


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ここんところ忙しかったので、気分転換に実家に帰って数日過ごしました。

しかし実家にはパソコンがないので、スマホを持っていない自分は、本を読むかテレビを見るしかやることがない。
もちろんそれは想定内なので、数冊の本を持っていってたし、普段見ないテレビをみるつもりでいた。

テレビ、くっだらねー。
とか言いながらもけっこう見た。
こんなもん見て、貴重な人生の時間を削るのはもったないな、と思ったけども。

でも人生なんてほとんどくだらない時間の消化の積み重ねなのだろうな。

くだらないことでもとりあえず全力でやってりゃあ、それなりに楽しさを見出せるのかな。









ツーリングについて考える

ここのところ、カブと自転車でのツーリングについて考えている。
自分にとっての理想のツーリングとはいったいどのようなスタイルなのか。

過去のツーリングをふりかえると、印象に残っているものがいくつかある。
それらはどれも、自分にとってはセンセーショナルな体験に基づくものなのは当然なのであるが、どのようにセンセーショナルだったのか。
そのことについて、考えてみたいと思う。

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まず、ここ最近で一番印象に残っているツーリングが小豆島へのツーリングだ。
このツーリングのテーマは、「とにかくゆっくりじっくりキャンプを楽しむ」といった感じのもので、実際に二晩、じっくりとキャンプを堪能した。

キャンプは今までのツーリングでも「手段」としておこなってはいたのだが、ここ最近は「目的」として楽しむ機会が多くなっている。
その一環としておこなったのがこの時のツーリング。
そこそこツーリングとしての移動を楽しみつつ、メインはキャンプ、という感じだった。
実際、観光的なことは買い出しのついでに少しやったぐらいで、あとはキャンプに多くの時間を割いた。
個人的には小豆島という場所自体が観光として楽しめる土地だったので、わざわざ移動しなくても、観光的な旅感は十分に楽しめたとも言える。

はじめての土地で焚火を調理のメインに使った二晩の経験は、自分にとってはとても刺激があり、「こういうキャンプをやってみたい」という、ひとつの思いが実現したツーリングだったように思う。

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しかし、本来、ツーリングは移動がメインである。
走り続けるとどこまでも行けてしまう。
それがツーリングの醍醐味。

その最たるものが、四国へのツーリング
このツーリングは、とにかく無計画な旅だった。
その日泊まる場所も走るルートもほとんど何も計画しないまま、決行された。

早朝から寒さに震えながら淡々と西に向かい、ようやくしまなみ海道に入ったのは夕方、土地勘のない暗くなった道を迷いながら、寝床を探し、釣りをした。

思っていた場所が想像よりも遠く、その日の朝に計画したルートの半分も消費できないまま訪れた海辺のキャンプ地、フェリー乗り場に向かう夜道、どれもが、「遠くまできちまった感」の中での幻想的な出来事だった。
ツーリングの王道のような楽しみ方ができたように思う。

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自転車ではそれほど旅はしていない。
それは時間的な問題と体力的な問題なのだが、それでも印象に残るツーリングはいくつかある。
そのひとつは、淡路島一周の旅
一周する途中で、テキトーに野宿をした。
その野宿体験が散々で、二度と野宿はしたくないと思わせるものだったのだが、その細かな内容については省く。

淡路島はほどほどにアップダウンがあるが、全体的には平坦なので、それほどの脚力は必要がない。
カブとは違い、ガソリンは自分に注入する必要がある。
一気に注入すると、逆に動けなくなるので注意が必要。

カブはいくら走っても文句ひとつ言わないが、自転車の場合、自分の身体のアチコチから文句がでる。
それらの文句を受け入れ、相談し、妥協点を見つけながら走り続ける。

淡路島は何度もカブで走っているが、自転車で走ると、その土地への密着度がすごい。
たぶん、自分の身体に敏感な状態で走ることによるものだろう。

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何もツーリングは泊りがけで行くことだけを指すわけではない。
日帰りとなると行ける場所は半減してしまうが、やりかた次第で近場でも壮大なツーリングを楽しめる。

そのひとつが自分にとっては自転車でのビワイチである。
ビワイチなんてできるか!という人もいるだろうし、ビワイチなんて余裕すぎるわ!という人もいる。
それは各自が工夫して、自分の体力ギリギリで完走できるようにルートを設定すればいい。

この「体力ギリギリ」、というのが、自転車での日帰りツーリングがどれだけ自分の中に残るかを左右するように思う。
余裕すぎると「ああ、楽しかった」で終わってしまう。
もちろんそれでもいいのだが。
逆に過酷すぎると「もう二度とやらん」で終わってしまう。
自分にとっては、京都の自宅から出発するビワイチが、絶妙な距離なのである。
距離にして220㎞、時間にして15時間。
しかし、このツーリングの中身は時間や距離には関係がないほどの深みがあり、以後、毎年ビワイチをしなければ、満足できない身体になってしまった。

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カブや自転車での旅に飽きたら、徒歩や電車での旅がある。
自分は歩くことが好きなので、よく歩く。
以前、自宅から実家までの60㎞を歩いたことがある。
実家へは普段はカブや自転車で帰る。
カブだと(渋滞が多いので)2時間半ぐらいだろうか。
自転車だと4時間ほど。
それが歩きになると15時間もかかり、壮大な旅になる。
日常空間で非日常体験を簡単にできるのだ。
それがどんな体験をさせてくれるものなのかは、各自で実地に体験してほしい。

ここまで書いていて思うのだが、結局ツーリングなんて、大半は平凡に移動を続けるだけの単調な行為なのだろう。
でも、そんな中でふと太陽の光が雲のすきまからもれた瞬間だとか、コンビニで寒さに震えながら食べる肉まんだとか、テントの設営が終わって、仲間で乾杯するときだとかが最高なのだ。

それらは全て直にしか体験ができない。
そして平凡に走る時間がなければ体験できない。
寒い日にコンビニでふつーに食べる肉まんとは似て非なるものなのだ。
どんなに綺麗な写真でも、うまく編集された動画でも、流れるように書かれた文章でも、体験することはできない、生々しい体験なのだ。

だからこれからもツーリングには行かなければならない。
たとえ丸一日中、平凡で退屈な時間が続くとしても、一分一秒の小さくて地味な感動を得るには行くしかない。
そのうちに、退屈な時間すら「おもしろがれる自分」に出会える可能性だってある。

何かに期待するのではなく、自らを期待化させること。
それがツーリングという行為の本質なのかもしれない。




1950年代のプリスムのガソリンストーブを使いました


けっこう前に手に入れたヴィンテージストーブ。
ようやく使う日がきたので記念に動画に記録しておきました。

1950年代後半のスウェーデン製のこのストーブ。
1950年代と言えば、ようやくエベレストが初登頂されて間もない頃で、まだ「冒険」や「探検」という行為に「わかりやすさ」のようなものが残っていた時代です。

「わかりやすさ」ってなんやねん、と思った人に対して補足しておくとすれば、わかりやすさとは「人跡未踏の地が残っていた」ということ。

今ではエベレストを登頂するにしても、
季節(秋か冬か)、
手段(アルパインスタイルかポーラーメソッドか)、
人数(ソロかパーティか)、
酸素の有無(ボンベのあり、なし)、
登攀ルート(ノーマルルートか直登ルートか)、
などによって評価は変わってきます(多くの人はそこんところを理解していない)から、それはつまり、冒険性のようなものは変わってくるわけです。
要するに、興味のない人には、何がそんなにすごいことなのかがわかりにくくなってきているわけですね。

今の時代では中国の山奥にはまだまだ未踏峰があるそうですが、そういった政治的に行けない土地以外で、人跡未踏の地はほとんどなさそうです。
強いて言えば、地下や宇宙が冒険の地かもしれませんが。

なんにせよ、まだまだ冒険探検の匂いが残っていた1950年代後半のストーブは、見ているだけでロマンをかきたてられるわけです。
それを実際に使えるとなると、もう私のような冒険本マニアにはたまりません。

プラスチッキーな質感が苦手な私にとって、古い時代のものはまったくプラを使用していないのもいいところです。
カメラでも自転車でも時計でもそうです。
カブは限界がありますが、昔のものは鉄っぽさが全面に出ているので好きなのです。

それに加え、昔のものは構造もシンプルですし、全てバラせるので、トラブってもメンテがしやすい。
今の自転車のリヤディレイラーなんて、ほぼすべてがかしめられているので、ほとんど何もできませんから。
つまり、手入れさしていれば、長く使い続けることができます。

昔のスターメーの変速機も本を見ているだけで、飯が三杯食べられます。
英国製品はいい意味で進化がゆるいので、モールトンやブロンプトンが今も現行で手に入るのはとてもすばらしい。
カメラも昔の物はアナログな機構で、バラすこと自体が楽しかったですな。

バカのひとつ覚えみたいに、次々に新しい製品を生み出すばかりでは、モノにブランド性は滲み付かないことは、もう何度もこのブログでも書いていることです。

まあ、そんな趣味性全開のヴィンテージストーブ。
使ってみてもやっぱり最高でした。
こうなるとポンピングタイプや、灯油ストーブ&ランタンも欲しくなってきますね。

いかんいかん。
モノは使い込んでナンボ。
しばらくはこのストーブを使い倒さねばなりません。


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