城島印刷マガジン ーきじまがじんー

福岡市中央区の印刷会社です。 印刷に関する事や、得意先様のイベント情報、社員の日常など、読んでいただいた方のタメになるブログを目指して更新しています。

歴史散策―渋谷編―

 ご無沙汰しています。がんパパ歴史散策の巻きです。

 「君は知ってるかい?渋谷川って 5

 名前を聞いてもピンと来ないだろう

 忘れられたように

 都会の片隅で

 それでも確かにせせらぎ続ける

 まるで・・・・





 欅坂46のゆいちゃんずが歌っている「渋谷川」に触発されて?

それにまつわる歴史探索を楽しみました。

渋谷といえば平成22年から始まった区画整理事業で、すてきな渋谷に生まれ変わっています。最近では渋谷ストリームが新たな憩いの場所になっています。そんな、若者やカップル、夫婦や親子が集い賑わう渋谷の歴史ヒストリアです。そして今回のがんパパ版歴史ヒストリアの道先案内人は東京大学のT先生です。

 

 渋谷駅と渋谷ストリームの間を通る六本木通りを東に向かって2~3分歩いていきます。そうすると右手にDUCATIのバイク屋さんが見えてきます。そこを過ぎてT字路を右に曲がります。そこに金王八幡宮という神社があります。時折この神社に参拝に来る人がいらっしゃいますが、とても静かなところです。別世界にやってきた感じがします。

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  さて、この金王八幡宮についてですが、この地域は、さかのぼること平安時代の末期(1180年ころ?)に渋谷氏の領地でした。そのころに建立されたお城の跡地になるそうです。八幡宮を兼ねた渋谷氏の居城だったようです。その時の城(以下 渋谷城)は室町時代の後期(大永4年<西暦1524年>)に北条氏綱による関東攻略によって消失してしまいます。







2 その頃の渋谷城の砦の石が社殿の左脇に祀られてあります。
この社殿の場所が渋谷城の本丸跡なのかもしれませんが、確かなことはわかりません。金王八幡宮のウェブサイトでは社殿および神門は慶長17年(西暦
1612年)建立とのこと。社殿が建つ前の約100年はどうなっていたんでしょうね・・・・。八幡宮としての役割を果たしていたのでしょうけど、北条氏綱が壊しちゃいましたし・・・。簡素な社殿らしき物が建っていたのかもしれません。



 金王八幡宮という名前の由来は、渋谷金王丸という人物です。この人は、源義朝に従って保元の乱で活躍しました。
 その後、平治の乱で平清盛に敗れた義朝に付き添って敗走します。尾張国野間で長年の家臣であった長田忠致(ただむね)の家に身を寄せます。しかし忠致の謀反により義朝は風呂場で斬首されます。金王丸は主の浴衣を用意していたそうです。入浴中の主のそばに刀をもって見張っていた金王丸に、浴衣の用意をするように忠致が助言したそうです。そうして主のもとを離れた隙に忠宗は謀反に至りました。

 それを知った金王丸は失踪し、京にいる義朝の側室の常盤御前にそのことを報告し、そのまま出家します。義朝の御霊を弔うことで、戦いから身を引いたように見えましたが、のちに義朝の子、頼朝について平氏追討の戦いに巻き込まれます。

壇ノ浦の戦いで勝利した金王丸は、その後頼朝の腹違いの弟の義経と戦います。頼朝の命により義経との決戦に挑みました。壇ノ浦の戦いに限らず、平氏追討の勝利は義経なしには語れません。金王丸の心境はどうだったんでしょうか…?頼朝のわからずやが・・・!という思いでしょうか?義経との決戦は初めから討ち死にする覚悟で出陣したらしいです(金王八幡宮のサイト参照)。

渋谷金王丸は最後まで源氏に仕えた英雄でした。その功績により、渋谷八幡宮から金王八幡宮という名称に変わったそうです。

 

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さて、渋谷ストリームのそばを流れる渋谷川にもどります。この川は渋谷城の外堀の池の水源となっていました。室町時代にはこの渋谷村に湧水が出ていて、渋谷川にそそいでいたそうです。その川から水を引いて渋谷城の外堀を作ったそうです。

明治、大正、昭和、平成に移り変わり、都市として繁栄していくに伴って、きれいな湧水の川に下水を流し込むようになりました。また、そのまま下水を流すと悪臭がするのでコンクリートのふたをする工事をして、長年渋谷川は陰に隠れていました。今回の区画整理事業で生まれ変わり、見事にきれいな川に戻りました。


金王八幡宮図1

この図は江戸時代に書かれた金王八幡宮の絵図だそうです(道先案内人T先生より提供)。おそらくこの辺が外堀であろうと思い、水色で塗ってみました。この堀の水を渋谷川から引いていたと思います。





「・・・・忘れられたように

都会の片隅で

それでも確かにせせらぎ続ける・・・」

ずっと昔からせせらぎ続けているこの川は渋谷金王丸の心の安らぎをもたらしていたでしょう・・・。

 

 

 

「ありがとう箱崎の図書館たち」

みなさん、こんにちは。

36歳ともなると、お腹まわりのお肉が気になるところ。
という事で最近、「松岡茉優が1ヶ月でバッキバキに腹筋を割った」という話を
ネットで見て、それ(よりはゆるいですが)を始めた営業部の池です。

我が家には、5歳(もうすぐ6歳)になる女の子と1歳2ヶ月の女の子がいるのですが
上の子は腹筋が結構割れているのです。
それは「赤ちゃん体操(上の子命名)」をしているからなんですが
やり方は簡単で、仰向けになって足を浮かせて細かくバタ足をするように動かすのです。
しかし足を浮かせたままバタバタするので、これがなかなかキツくて…(× × ;)

そんな上の子の割れた腹筋に負けるわけにはいかないし
何より「パパ最近お腹がぷよぷよしてきたね~」という一言が効きました。

以前は身体を動かす仕事をしていたので、余分なお肉がつきにくかったのと
ジョギングしたりしてたのである程度は体型をキープできてたのですが
最近は営業仕事で歩き回ったり、納品で重いものを持ったりはしますが、
ジョギングもこれといった運動もしていないので
食べたら食べた分だけ脂肪になるんですよね~。

「いつまでも  若いと思うな  30代」(天平 心の俳句)

と肝に銘じつつ、今日も腹筋がんばります!


さて、全く関係ない前置きを延々と書いてしまいましたが…
今週の火曜日(31日)、九州大学箱崎キャンパスの中央図書館が
伊都キャンパスへの移転に伴って閉館されました。

図書館のお仕事をいくつかさせていただいていることもあり
今回閉館式に出席させていただきました。

閉館式には、図書館の元館長で名誉教授の先生方や現役の先生方
図書館職員の方々、学生さんなど200名くらい?が参加されていました。

僕にとっては、長い中央図書館の歴史の中での
たった1年ちょっとの関りではありましたが
暑い日も寒い日も雨の日も風の日もよく足を運び
図書館職員のみなさんから良くしていただいたのでとても感謝していますし
足しげく通った図書館がなくなってしまうと思うと一抹の寂しさを感じてしまいます。

箱崎キャンパスの図書館については、弊社で印刷を担当した記念冊子
「ありがとう箱崎の図書館たち」にその歴史が詳しく載っています。

下記URLよりPDFを見られるようになっていますので、興味のある方はぜひご覧ください。

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD100000&bibid=1936931

箱崎から九州大学が移転してしまい、寂しい思いをされる方もたくさんいらっしゃると思います。
跡地についての協議会も開かれていますが、箱崎の住人の方や、九州大学に関わって来られた方々が
そして近隣のみなさんが、いつでも九大箱崎キャンパスを思い出し、想いを馳せられるような
跡地の活用を是非ともお願いしたいなと思います。

100年の歴史は伊達じゃありませんからね。

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城島印刷も、設立100周年を迎えられるようにこれからも
全社を挙げて研鑽に努めてまいりたいと思います。

これから秋にかけて、様々なイベントで印刷物が必要になることもあるかと思います。
印刷物に関するご相談、見積りから承りますので
まずはお気軽にご連絡いただければと思います。

今後とも、城島印刷をどうぞ宜しくお願いいたします!


城島印刷 営業部 池天平

#九州大学 #九大
#箱崎キャンパス #中央図書館 #閉館式

猛暑お見舞い申し上げます。

みなさま、こんにちは。

暑い日には、パンイチ(パンツ一丁)で汗だくになりながら辛い物が食べたくなる
Mっ気率高めの営業部員 池です。

いや~、猛暑というよりは酷暑、いや酷暑というよりは
極暑、いや極暑というよりは獄暑…。
うん、これだなシックリくるのは。

そうです、地獄のような暑さが連日続いておりますが
みなさま、いかがお過ごしでしょうか?

本日7月20日、福岡市では観測史上最高の38.3℃を記録したそうです。
38.3℃ですよ。風邪ひいてまあまあキツイ時の体温と同じレベルですよ。
子どもやお年寄りだけではなく、それ以外の世代でも
熱中症を発症する方が多くおられるようですので
「自分は大丈夫だ」などと過信されずに
万全の対策を取られますようお願いいたします。

さて、これだけ暑いと涼しいところに行きたくなるのが人間ってもんです。
という事で、先日家族で海に行ってきました。

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適度に人も少なく、水温も冷たすぎず、ぬるすぎずで気持ち良かったです。

しかし、僕は基本的に色白で、適度に焼けてカッコよくなりたい願望があるので
日焼け対策を全くなにもせず2時間子どもたちと遊んでいたら両肩を中心に真っ赤!

夜になるとヒリヒリヒリヒリしてきて大変でした。(しかしここでも対策せず…笑)

あとからネットで調べたら、化粧水などで保水すると早めにヒリヒリが引くみたいですね。

次の日には知り合いの農家さんで田植えを手伝って、ふくらはぎだけ真っ赤に日焼けしたので
対策を実行したらヒリヒリが早く収まりました。

Googleさんありがとう!

という事で、今のところ両肩と腕、耳、ふくらはぎだけ日焼けしており
全くカッコよくない身体で夏を過ごすことになりそうです(´;ω;`)

みなさまも、熱中症と日焼けには十分お気を付けください。

それでは、また!

城島印刷 営業部
池 天平


七夕。

みなさま、こんにちは。

城島印刷営業部の池です。

僕個人としては3ヵ月ぶりの更新となってしまいました。
お久しぶりです。

まずは、この度の西日本を中心とした大雨の被害にあわれた方々にお見舞いを申し上げます。
昨日、一昨日と尋常ではない量の雨が降り、営業に回った先々でも身の危険を感じるほどでした。

福岡市内は、御笠川や室見川は氾濫寸前でしたし、早良区の一部など各地に避難指示が出され
小郡市のイオンは駐車場が水没、九州自動車道は門司のあたりで土砂崩れ
バスや電車は遅延、運行停止などが相次ぎ、帰宅の足に影響が出ました。

岡山県倉敷市真備では町全体が水没した状態になり屋根の上から助けを求める方が
今なお(7日正午現在)たくさんおられます。

広島でも土砂崩れにより生き埋めになった方がおられるようですし
各地で甚大な被害が出ています。

今日は七夕ですが、短冊に書く願いは
「1人でも多くの命が助かり、1日でも早く被災者の方々が元の生活に戻られますように」

僕もやれることをやりたいなと思っています。

今回の豪雨による自然の猛威を目の当たりにして、改めて人間の非力さを感じましたし
自然の中で人間は生かされているんだなと感じました。

地震、台風、大雨など、災害が頻発する日本列島です。
もしもの時のために、日頃から色々と備えておきましょう。

と言いつつ、我が家では飲み水くらいしか常備していないので
家族会議でも行って、必要なものを揃えておきたいなと思います。

城島印刷 営業部
池 天平


歴史散策ー鎌倉編ー

 月も改まり、6月の最初の日曜日。関東地方の朝は4時になるとお天道様が上り始めます。がんパパ東京事務所の隣の家が先月解かれて、お天道様の日差しがダイレクトに飛び込んでくるようになりました。家が建つまでの辛抱です。ということで早く起きた朝は外出に限る!

 鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮イントロ鶴岡八幡宮

鎌倉にやってきました。鎌倉といえば歴史建造物・名所の宝庫です。

まずは鶴岡八幡宮。源頼朝が源氏の再興を期すべく、由比ヶ浜にあった八幡宮を今の場所に遷移し、本宮を築いて、現在の鶴岡八幡宮となったそうです。この本宮に登る石畳の階段の途中にある大銀杏の大木も有名です。今回はこの大木にまつわるトピックスです。
大銀杏の木
大銀杏の木_原木大銀杏の木_移植後

鎌倉幕府の2代目将軍である頼朝の長男の頼家は、頼朝の妻(頼家からしたら母)の政子の父であり、祖父にあたる時政と衝突してしまいます(梶原景時の変・比企能員の変)。ちょうどこの時に、頼家は明日をも知れぬ病に倒れてしまいました。病床に臥す息子の状態を知った政子は、将軍後継を実朝にする旨を朝廷に上申します。また時政(祖父)は、頼家に吹き込んだ比企一族を滅ぼしました。頼家の妻の若狭局とその子の一幡を義時が殺害しました。頼家は病から回復しそのことを知ると、時政と義時を討とうと従臣に呼びかけます。しかし、ついてくるものはいません。逆にそのことを政子に知られ、静岡県の修禅寺に幽閉させられます。その後、義時の手勢に殺されてしまいます。頼家のあとは次男の実朝が後継しました。

さて、頼家にはもう一人の息子がいました。母は若狭局ではないそうです。つまり比企一族の血を引いていません。名前を善哉といいます(ぜんざい)。父親が殺されたのは彼が5歳の時です。善哉は7歳になって、祖母の政子の計らいで実朝の猶子となります。一度は親子の関係になりました。12歳に出家するまで親子関係だったようです。出家後、名前を善哉から公暁(くぎょう)に代わりました。
北条氏の家系図に殺害した矢印を記入しました

SATUGAIKAKEIZU

 

時は過ぎ、公暁は20歳、実朝は28歳。それぞれ立派な大人になりました。公暁は鶴岡八幡宮の別当(管理人みたいなもの?)に就任しました。実朝は右大臣の位を拝賀しました。右大臣の位は父頼朝が拝賀した位より上になります。拝賀の大饗宴が鶴岡八幡宮で行われ、その帰りの本宮を降りる階段のところでの一瞬の出来事でした。階段のそばにそびえる大銀杏の木に隠れて様子をうかがっていた公暁は、「親の敵はかく討つぞ」と咆哮し、階段を下りてきた実朝の首を一刀両断しました。そして間断の隙もなくその首を抱えて逃走しました。実朝のもとを離れて8年の間、公暁の人生に何があり、何が芽生えたのでしょうか?公暁からすると、実朝を殺してしまえば4代目将軍を自分が継げると考えての軽挙だったのでしょう。しかし、彼がこのような行動に出た背景は?一人でできることではありません。誰が何のためにそうさせたのか?実朝がいなくなることで、勢力を増そうと考えている人物とは?そもそも北条氏とはどんな一族なのか?
寿福寺写真
寿福寺1寿福寺2


北条氏は、1180年以仁王が全国の源氏に平氏追討の令旨(りょうじ)を発令し、それに呼応した頼朝が伊豆で挙兵するときに付き添ってきた一族です。同じように頼朝に付き添い、孤軍奮闘の働きをした一族はほかにもいます。北条氏はたまたま政子が正室になり、執権という立場を得られたと考えられます。北条氏だけが執権の位でいるのはいかがなものか?そう考える一族がいます。このあたりの勢力争いが公暁をかく至らしめたと考えられるでしょう。
 

「いざ鎌倉」という言葉って爽快で、一致団結というイメージがありますよね。何かあった時には鎌倉に集まって、一致団結しようということだったと思います。

一方では「源氏の敵は源氏」ということも聞くこともあります。頼朝亡き後、北条氏の呪いの手が螺旋状に伸びていき源氏の末裔をことごとく滅ぼしていきました。直接手を下さず、対抗する源氏をたきつけて殺させます。そして北条氏は決して将軍として立たず、執権として鎌倉を納め、一緒に戦ってきたほかの一族を滅ぼし、ついに承久の乱で朝廷をも押さえつけました。

 

歴史にもしってないでしょうけど、もし北条政子さんに質問できるとしたら、「息子や孫まで巻き込んで命を奪い、勝ち得た鎌倉幕府はどんなもんですか」って聞いてみたいですね。ひょっとしたら真相の部分で「なるほど、そういうことでしたか」ってうなずける理由があるのかもしれません。由比ヶ浜の初夏の海は海辺で楽しく遊ぶ家族でいっぱいでした。
左から北条政子の墓、実朝の墓、頼朝像

政子の墓実朝の墓頼朝像

由比ヶ浜海岸

由比ヶ浜

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