私は、講談社が発行しているノンフィクション誌「g2」を1度も読んだことがないのだけれど、私の裁判を全回傍聴し、「g2」でルポルタージュを書いた還暦過ぎの男性作家がいると12年の春に知った。

 どんな記事だろうと気になっていたら、5月に突然、講談社から単行本が届いた。表紙には、私の顔写真が使われていた。私の許可なく。勝手に。謹呈の札が挟んであるだけで、送付書や手紙の1枚もなく、本を送りつけてきた編集者の神経を疑いましたよ。一応読みました。
 著者は、娘を育てたことのない男性だろうな、と思った。男性って、娘を持つことで人格の変容が起こるけれど、この著者には、女子の心に寄り添う精神的な土壌がないように感じられた。彼は、過剰な人の心の闇や血脈だのに拘泥し過ぎるあまり、大切なことを見失っている。取材対象をいかに口汚く罵ることができるかに全精力を注ぐ下品な芸風は、私の好みではない。

 それはともかく、この本で彼が、私について「おそらく」「だろうか」「思われる」「ではないか」「していたのだろう」「だろうと思った」と推測して書いた文章の全てが事実と異なっていることだけは、断言しておきます。
 本の帯に著者の言葉として「これは私の書いた『東電OL殺人事件』を超える事件だ」とあった。はて、東電OL殺人事件とは何ぞや?
 私は、20125月までこの事件を知らなかった。37歳にして初めてこの事件について興味を持ったのは、佐野眞一さんの言葉がきっかけではない。

 同年同月、私は読売新聞を読んでいた。4月に朝日新聞へ寄稿した手記の反響におののき、距離を置きたかったのだ。埼玉の拘置所では朝日か読売という選択肢しかなかったので、5月は読売の購読を契約した。
 524日の朝刊で、1997年に起きた東電OL事件の再審請求審が23日東京高裁で結審し、ネパール国籍の受刑者の主任弁護人が記者会見をしたという記事が、写真入りで載っていた。びっくりしましたよ、その弁護士さんは、東京の事件でお世話になった男性だったから。
 思い起こせば彼は当時警視庁の接見室で、ネパール人の被疑者が、いかに黙秘を貫いたか話しておられた。私は東電OL事件なんて知らないから、どうしてこの弁護士さんはネパール人男性の話をするんだろうと、不思議に思っていたものです。

 97年に私は22歳だった。愛人稼業もしていたけれど、渋谷は私のホームグラウンドではなかったこともあり、その事件のことを誰かと話した記憶はない。渋谷の円山町にラブホテル街があるとは上京後、長らく知らなかったし。私は大人になってから、新聞はおろか、テレビのニュースやワイドショーを見る習慣を待たずに生きてきたものですから、よろず世事や流行に疎いのです。
 その東電OL事件に15年がかりで無罪を勝ち取った弁護士が、現在私の主任弁護人。いつもスタンドカラーシャツを着て、とんでもない高音ヴォイスの早口で詰め寄ってきます。あの高速トークは、シャイな性格の照れ隠しではないかと見ていますが、かなりユニークな男性です。

 私は、佐野さんには感謝しています。ジャーナリストとして活躍する取材記者を何人も使って、著名なノンフィクション作家が、私についてあの程度の本しか書けなかったことは、自叙伝を執筆する時の励みになりました。取材記者が上げたデータを、自分が現地で見聞きしたことのように書く手法にも関心しました。彼の手にかかると、事実とは関係なく誰もがモンスターになり、面白い物語が完成するのも、作家としての力量でしょう。しかし、ノンフィクションで、それはいけない。
 彼は、12年に橋下徹大阪市長の人物論を書き、血脈思想、差別主義、人権問題で批判を浴び、その直後に、長年にわたって他人の著作からの盗用をしてきた剽窃問題のダブルパンチで休筆に追い込まれ、生ける屍となった。
 彼がまともな神経の持ち主であれば、体調を崩したであろうし、眠れぬ夜もあったと思う。晩節を汚した猪瀬直樹さんと同世代、同類の彼は、今後どうなるのでしょうね。

 彼は、私の裁判を傍聴して、裁判長の左側に座っていた20代の女性裁判官を「右陪席」と書いていました。もう少し勉強しないと。律令制の大臣のように左右があると、左の方が偉いと思っているのかしら。向かって右にいるものを左と呼ぶのは、神社の随神門に配してある武官の像の名称を考えたらわかるでしょう。向かって右の方を左大神と呼ぶ。中学生でも知ってるわよ。

 彼の目に映る私は、法廷でいつも薄化粧をし、つけまつげをつけ、アイラインまで引き、唇にはリップグロスを塗っていたという。
 佐野さんは心臓が悪いそうですが、ノンフィクション作家として復帰するのなら、まず眼科に行った方が良いのでは?知識や洞察力以前に、視力に問題があるんじゃないのかと思うなあ。

2014119日記