404

ふと、糸が切れた。

それは張りつめるもので、切れれば弛むものである。それが切れたのは横浜線の車内であった。
私以外の乗客は木になった。木は葉を揺らし囁くものである。全くの静寂に包まれていた車内は、私が戸惑っていた三十秒の後、嵐に包まれた。吹きすさぶ風の轟音や葉の悲鳴、そして私に向けられた失望の声が、絶え間なく鳴り続けた。出ていけ、逃げるな、堪えろ、哭けと、乗り続けることも降りることも許されぬまま、私はそこに倒れこみ、口内で吐きかけた弱音を再び呑みこんだ。

それは繋ぎとめるもので、錨を失った意志なき舟は水平線に沈んでいく。
言い訳がましく作った曲は、誰に聞かせるでもなく死んでしまった。あんなに愛していた曲は、子どものようだと比喩した言葉は雑踏となり、騒音となった。そうなると困ったもので、耳をふさいでも聞こえるのである。目を閉じても見えるのである。動力のみが生き残ってしまった。意思なきエンジンはエネルギーを食い尽くすまで、浅はかな情熱は人をとかしてしまうまで暴れ続けるのである。

祈りで一通、慈悲で二通、同情と涙でちょうど八つめを受信したころ、灯台からサイレンが聞こえた。
人魚は浅瀬にいるという。鮫の好物が人魚だからである。こうして逃げてきた人魚は、食べられてしまった仲間を思い、泣きながら歌う。
ローレライ、ローレライ。
そのかなしい声に呼ばれた舟は人を運び、そして鮫の餌とした。
ローレライ、さみしくないといい。
ローレライ、暗くないといい。


顔を上げるとそこは、楽しそうな笑い声と別れの涙によって鼻をすする音にあふれた教室だった。

今日、僕はこの高校を卒業する。
僕はそのまま県内の地方大学に進学し、彼女は都内の国立大学に進学が決まっていた。
僕は、ずっと彼女が好きだった。

思いを打ち明けることも、彼女の気を引くために特別なにかをすることもできずに、僕はこうして卒業の日に途方に暮れていた。

彼女は、とても笑顔のすてきな人だ。だからきっと……と、僕はやはり彼女に近づくことすら、後ろめたく感じるのだ。

「大島くん」

ああ、やっぱり眩しい。

「伊藤さん……卒業、おめでとう」
「大島くんこそ、卒業おめでとう」

にこにこと笑う彼女。ブレザーの襟元から校章がなくなっていた。きっと誰かがもらっていったのだ。僕ではない、誰かが。

「ねえ、卒業アルバムに、一言書いてほしいんだけど」
「え、僕が?いいの?」
「よくなかったら頼みません」

開けられた白いページにはもうすでに、男女を問わず別れの言葉が所狭しと書かれていた。

「ここ。ここに書いて」

サインペンを右手に、なにか書こうとするも手が動かない。
……なにを書けばいいんだろう。離れていってしまう彼女に、思いを告げられないままどこかへ行ってしまう彼女に、どんな言葉を向ければいいんだろう。

「どうしたの?」
「い、いや、なにを書けばいいのかなって」
「あはは、なんでもいいんだよ。一緒に美化委員やったり、補習受けたりしたじゃない」

手が震える。抑えている気持ちが右手を伝う。

どうしてこんなにも、僕はなにもできないやつなんだろう。

勉強もだめ、スポーツもだめ、おまけに意気地なしだ。でも彼女はすごくやさしくしてくれて、こうして覚えてくれてさえいる。

伝えないまま終わるなんて、いやだ。

「……伊藤さん」
「ん、どうしたの?」

僕は黙って、サインペンで卒業アルバムに字を書きこんでいく。

(ずっと好きでした。)

書き終わった字を見て固まる彼女。目を丸くしていた。

「……大島くん」
「はい」
「ごめんなさい、気持ちには応えられない」
「……はい」
「でもありがとう、いい思い出になったよ」
「伊藤さん……」
「さよなら、大島くん」

僕はこのときの彼女の顔は忘れまいと思った。
彼女は赤い目で、にこにこと笑っていた。





報われなかった気持ちは、どこに行くんだろう。きっと死ぬのだ。報われぬまま、後悔したまま、死ぬのだ。
後悔が、体中を駆け巡る。痛みになって、目頭を襲う。苦しい。痛い。

人を好きになるということは、痛みを覚悟することである。
人に好きになってもらいたいと望むことは、痛みを受け容れることである。

その覚悟が、きっと僕にはなかったのであった。





「あ、紗江子!どうだった?大島」
「んーん、特になにもなかったよ」
「そっかあ、残念だったねえ。告ればよかったのに」
「……ううん、いいの。これでいいの」

肩の震えが止められないまま、痛みが目頭を襲う。がんばって笑ってみても、笑顔のまま涙があふれる。

「大島くん、大島くん……」

小さい声で彼の名前を呼べば、この痛みを、報われなかった私のすべての思いを、今だけは撫でてあげられる気がしていた。
ポケットに入れたままの校章を、ただ触っていた。


途方も無い無駄話のあとには、果てなく遠く思考が飛ぶ。飛んでいく。

青いラインの電車を越え、朝靄に翳むビルを撫で、あなたの見えないほど、遠く、遠く。



ーーーーー


紺色のカーテンから太陽色の光が差しこむ。
僕の部屋に目覚ましがないのはこのためである。
差しこんだ光はちょうど眠る僕の顔を照らし、瞼ににじんだその色の眩しさで、僕の意思と関係なく僕は目を覚ます。

身体が重く気だるい。
どうやら、昨夜の同窓会が響いているようだ。
まだアルコールの抜けきらない脳が、会社に行く準備をせよと僕を急かしている。

「はあ、あんなに飲むんじゃあなかったな」

誰に言うでもなくそう溢し、ベッドから起き上がる。
カーテンを開けると、目映い光に目がくらむようであった。



昨日は、本当に楽しかった。
とかく懐かしかった。
高校を卒業してから10年、僕らはいつの間に28になっていた。
同級生の内定祝いをついこの間した気がするのに、もう僕らには部下がいたり、家庭を持っていたり、行方がわからないものもあった。

取り留めのない思い出話をした。

みんな笑っていて、当時の僕らが、時間が、当時のままたしかに、そこにあった。

懐かしかった。懐かしい。





そんなことに思いを馳せている場合ではない。時間は7時をまわっている。
僕はシャツに袖を通し、ネクタイを結ぶ。

「あれ、……ネクタイって、どう結ぶんだっけ」

これが最初の異変である。


たまにあるど忘れだ。アルコールが抜けきっていないのだ。
とりあえずネクタイは会社で結ぼう。

そんなことを考えているうちに、台所で湯の沸騰した音がする。
コーヒーを淹れようとしていたのだった。

まだ寝ぼけているに違いない。

いつものようにインスタントコーヒーをコップにセットし、湯を注ぐ。
このとき立ち上がる湯気とともに香るこの独特の匂いが好きで、これがいい目覚ましになる。

朝のコーヒーに砂糖やミルクは似つかわしくなく、目覚めの一杯は、やはりブラックに限るのである。
口元にコップを傾け、湯気と香りとともに熱いコーヒーをすする。

「っ!!に、苦い……」

おかしい。
僕は毎朝これを美味しく嗜んでいたのだ。
これこそが大人の流儀だと、自分でもこの習慣を気に入っていたのだ。

たまらず、スティックシュガーとコーヒーミルクをいくつか注ぐ。
結局三本のスティックシュガーと二つのコーヒーミルクを使ってしまった。

ネクタイも結べない、甘くないコーヒーは飲めない……これではまるで子どもではないか。


異変が確信に変わったのは、出勤のため車に乗ったときであった。

車の操作がわからない。
エンジンもかけられない。

なにかがおかしい。

しかたがないので、会社に休みの連絡を入れようと電話をかけた。

「はい、富士見川商事です」

「あ、開発部の波野ですが、課長につないでもらえますか」

「はい、少々お待ちください」

保留音が流れる。長い。かれこれ4分も待っている。
落ちつかないので煙草に手を伸ばしたところで保留音が消えた。

「大変お待たせしました」

「あれ、課長は不在ですか」

「いえ、波野という社員は当社にはおりません。お間違えではありませんか」


おかしい。
僕は富士見川商事の開発部で、今日は大事な開発会議だってあった。しかもこの企画のリーダーは僕だ。


途方に暮れ、持っていた煙草に火をつける。
肺に入れた煙でむせかえる。
くそ、なんだっていうのだ。


むせかえるのを抑え、三本目の煙草に火をつけたとき、携帯電話が鳴った。
会社からの折り返しかと思い、急いで画面を見ると、「404」という電話番号が表示されていた。

おかしな番号に首を傾げながら、通話ボタンを押した。

「もしもし……」

「404 notfound、404 notfound」

耳障りな機械の声、繰り返される「404 notfound」の言葉。
得体の知れない恐怖を感じ、慌てて電話を切る。
なにが起きているのか、さっぱりわからない。

見つからない、エラーが起きている……?

車のバックミラーに、煙る車内とあどけない僕の顔が映った。

懐かしいな、と、それだけ思った。


ーーーーー

途方も無い無駄話のあとには、果てなく遠く思考が飛ぶ。飛んでいく。

青いラインの電車を越え、朝靄に翳むビルを撫で、あなたの見えないほど、遠く、遠く。


眩しい人やもの、ことで日焼けした網膜では、灰色で有耶無耶にした視界。

僕らの住んでいたあの町は、もうここにはないんだよ。


憎々しげに、鏡を睨みつける。



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