「諸君には、選ぶ権利がある」
教卓に手をつき、三崎は言った。しっかと生徒を見やった。
「なにを選択するのも、諸君の勝手である」三崎は続けた。
生徒は、三崎の顔をただ瞬きせず見つめている。
鳥井も、その一人であった。その目にただ、気圧されていた。
「ねえ、この間のレディバードのライブ、すっごくすてきだった!」
北尾はきらきらした目を鳥井に向けた。鳥井は無愛想に「ああ」と答えると、出かける準備を続けた。
「あなたがミュージシャンで、とってもよかった、まさかレディバードと生でお話できるなんて!」
鳥井は、そこそこ売れたミュージシャンであった。有名なバンドとのパイプもあり、たびたび大きなライブで共演を果たすこともある。レディバードも、以前面倒を見ていたバンドのひとつであった。
北尾は、売れない時代から同棲をしている恋人であった。北尾は平々凡々なオフィスレディである。
もし自分が売れたら、北尾にプロポーズしようと思っていた。しかし、サードシングルが爆発的に売れてから二年経っている。鳥井に、北尾と結婚するつもりはない。
それは、鳥井に「おれの作品をこよなく愛する女性と一緒になりたい」という強い願望があったからである。が、鳥井は北尾のことを愛していた。
鳥井はジレンマの渦中にいた。抜け出せずにいた。考えれば考えるほど北尾のことを愛おしく、そして憎らしく思うのであった。
「殺すしか、あるまい」
そう結論づけたのは、昨夜偶然に、北尾の部屋に金庫を見つけたときであった。
小さな冷蔵庫ほどの大きさの金庫が、北尾の机の下に布を被せて置いてあったのだ。
その周りには北尾の大好きな「the ladybird」の写真やらCD、DVDが積んであった。
すぐにわかった。手にあるグッズの中でも、とびきり大切なものを、そこに入れているのだろう。
愛する北尾が、自分が愛する曲を愛していないのなら、音楽を続ける意味がない。
音楽をやらぬのであれば、生きる意味もない。二十七の鳥井は、強くそう感じていた。
そして、三崎の言葉を、思い出していたのであった。
「先生、先ほどの話ですが」
机をはさみ向かい合う三崎は、いつも通り眉間に深い皺を寄せていた。
「そうか、おまえは音楽家になりたいのだったな」
「はい、僕は、音楽の道に進もうと思います」
三崎はふう、と浅くため息を吐くと、先と同じように強い眼差しで鳥井を見た。鳥井は背筋を伸ばした。
「構わない、おまえには選ぶ権利がある」
鳥井は安堵した。反対されたらどうしようか、ずっとそればかり考えていたからである。三崎は「しかしな」と続けた。
「特別な道を選ぶということは、そこで出会う挫折も普通ではない。おまえの人生をかけて作り上げた愛するすべてを、おまえが人生をかけて見つけた愛する相手が、否定する日が来るかもしれない」
「それでも、僕は」
三崎は鳥井の言葉を遮って続けた。
「おまえは、どうしてだと嘆くだろう。しかしな、どちらも捨てられないのだ。どちらも捨てられないのだよ、鳥井。愛するとは、そういうことなのだ。なあ、わかるか、鳥井」
「……わかりません、ですが、先生だって、お分かりになるんですか」
三崎は目を伏せて沈黙した。そして若干の静寂のあと、三崎は煙草に火をつけ、重い口を開いた。
「おれは小説家になりたかった」
鳥井は訝しげに三崎を見た。「先生は数学の先生ですよね」
「おれはおまえと違って、頭がよかったからな」三崎の顔は笑ってはいなかった。
「何十回もいろいろなところに応募をしたが、一度も一次審査すら通らなかった。でもな、そんなおれだったが、書き上げたときに、『これだけのものが書けたのだから死んでもいい』という作品を書いたのだ。おまえはよく知っているな、てんとうむしという話だ」
三崎が言うように、てんとうむしという本を、鳥井はよく知っていた。
今年の読書感想文のテーマ、そして学校弁論における参考文献として紹介するほど、その本が好きであった。
「まさか」鳥井がそれだけこぼすと、そのまま三崎は話し続けた。
「おれの集大成とも、いや、人生、おれ自身とも言えるその話を、おれはプライドにしていたし溺愛していた」
煙草を吸いきり灰皿にこすりつけると、三崎は二本目に火をつけた。
「だがな、おれの女房は、てんとうむしが出版されたと同じ時期に世に出た、電脳戦争、なんて本にかじりついていやがった。おれは悔しくて、てんとうむしを読んでくれ、と言ったさ。読んだ女房が、おれになんて言ったか、わかるか」
すっかり前のめりになって聞いていた鳥井は、口を開けたまま反応できずにいた。
「『ねえ、この部分、電脳戦争にも出てきたのよ。この話、面白いのね』だとよ」
いっとう大きく煙を吸い、吐かれた煙は鳥井の顔を包んだ。目にしみて、むせた。
「この話は、おまえには早いかもしれん。しかしな、我が道を往くというのは、おまえが思うより大変なことだ。これだけは覚えておくといい」
三崎の言葉は、鳥井にもよくわかった。しかし、鳥井には音楽しかなかった。
鳥井の耳に、北尾との会話が蘇る。
『聞いたわよ、新曲』
『レディバードみたいで、とってもすてきだったわ!』
北尾のきらきらした目まで蘇ってきた。
おれは、選択を誤ったのだ。
そして、また、間違える。
最寄り駅からちょうど一時間車を走らせたところにある大きな橋の上から、デビュー前に買った七十万円するギターを川へ投げ捨てた。五年前、自らを投げようと思った場所である。
その足で家に帰り、北尾を撲殺した。
昼寝をしていた北尾の頭を、あの金庫で殴打した。
北尾は身体をびくんとさせ、そのまま血を流し横たわった。
そのまま、北尾の集めていたレディバードのグッズを金庫を振り回し粉々にした。
机の上にかざられた紫色の花も、気に入らなかったので花瓶ごと踏みにじった。
最後に金庫を開け、中身も粉々にするつもりだった。
暗証番号は、以前盗み見たときに知った。
「101064……開いたな、まさかこれが暗証番号とはな」
中からまず出てきたのは、レディーバードの雑誌の記事であった。
鳥井との、対談の記事だった。
『レディバードがあるのは鳥井さんのおかげです。名前も、鳥井さんが勧めてくれた本から取りました。』
次々に出てくる、鳥井のCD、DVD、記事の切り抜き、ライブの半券……。
鳥井が命をかけ作ったCDも、そこにあった。
放心状態になりながら、鳥井はCDを取り出し、コンポに入れた。
CDケースのポケットには、「盗み見た悪いあなたへ」というメモがあった。
『盗み見はよくありません。残念でした、レディバードではありませんでした。
私もあなた自身であるこの曲が世界で一番好きです。
曲を書いて帰ってきたときの、子どもに戻ったようなあなたの顔が浮かびます。
あなたの声が、曲が、歌が、歌詞が、愛おしく思えます。
これからもずうっと、あなたの隣で聴かせてください。
追伸
これを読んだら、ちゃんと申告すること!』
部屋の中では、二人が世界で一番愛する曲がかかっていた。
『なにを選択するのも、諸君の勝手である』
教卓に手をつき、三崎は言った。しっかと生徒を見やった。
「なにを選択するのも、諸君の勝手である」三崎は続けた。
生徒は、三崎の顔をただ瞬きせず見つめている。
鳥井も、その一人であった。その目にただ、気圧されていた。
「ねえ、この間のレディバードのライブ、すっごくすてきだった!」
北尾はきらきらした目を鳥井に向けた。鳥井は無愛想に「ああ」と答えると、出かける準備を続けた。
「あなたがミュージシャンで、とってもよかった、まさかレディバードと生でお話できるなんて!」
鳥井は、そこそこ売れたミュージシャンであった。有名なバンドとのパイプもあり、たびたび大きなライブで共演を果たすこともある。レディバードも、以前面倒を見ていたバンドのひとつであった。
北尾は、売れない時代から同棲をしている恋人であった。北尾は平々凡々なオフィスレディである。
もし自分が売れたら、北尾にプロポーズしようと思っていた。しかし、サードシングルが爆発的に売れてから二年経っている。鳥井に、北尾と結婚するつもりはない。
それは、鳥井に「おれの作品をこよなく愛する女性と一緒になりたい」という強い願望があったからである。が、鳥井は北尾のことを愛していた。
鳥井はジレンマの渦中にいた。抜け出せずにいた。考えれば考えるほど北尾のことを愛おしく、そして憎らしく思うのであった。
「殺すしか、あるまい」
そう結論づけたのは、昨夜偶然に、北尾の部屋に金庫を見つけたときであった。
小さな冷蔵庫ほどの大きさの金庫が、北尾の机の下に布を被せて置いてあったのだ。
その周りには北尾の大好きな「the ladybird」の写真やらCD、DVDが積んであった。
すぐにわかった。手にあるグッズの中でも、とびきり大切なものを、そこに入れているのだろう。
愛する北尾が、自分が愛する曲を愛していないのなら、音楽を続ける意味がない。
音楽をやらぬのであれば、生きる意味もない。二十七の鳥井は、強くそう感じていた。
そして、三崎の言葉を、思い出していたのであった。
「先生、先ほどの話ですが」
机をはさみ向かい合う三崎は、いつも通り眉間に深い皺を寄せていた。
「そうか、おまえは音楽家になりたいのだったな」
「はい、僕は、音楽の道に進もうと思います」
三崎はふう、と浅くため息を吐くと、先と同じように強い眼差しで鳥井を見た。鳥井は背筋を伸ばした。
「構わない、おまえには選ぶ権利がある」
鳥井は安堵した。反対されたらどうしようか、ずっとそればかり考えていたからである。三崎は「しかしな」と続けた。
「特別な道を選ぶということは、そこで出会う挫折も普通ではない。おまえの人生をかけて作り上げた愛するすべてを、おまえが人生をかけて見つけた愛する相手が、否定する日が来るかもしれない」
「それでも、僕は」
三崎は鳥井の言葉を遮って続けた。
「おまえは、どうしてだと嘆くだろう。しかしな、どちらも捨てられないのだ。どちらも捨てられないのだよ、鳥井。愛するとは、そういうことなのだ。なあ、わかるか、鳥井」
「……わかりません、ですが、先生だって、お分かりになるんですか」
三崎は目を伏せて沈黙した。そして若干の静寂のあと、三崎は煙草に火をつけ、重い口を開いた。
「おれは小説家になりたかった」
鳥井は訝しげに三崎を見た。「先生は数学の先生ですよね」
「おれはおまえと違って、頭がよかったからな」三崎の顔は笑ってはいなかった。
「何十回もいろいろなところに応募をしたが、一度も一次審査すら通らなかった。でもな、そんなおれだったが、書き上げたときに、『これだけのものが書けたのだから死んでもいい』という作品を書いたのだ。おまえはよく知っているな、てんとうむしという話だ」
三崎が言うように、てんとうむしという本を、鳥井はよく知っていた。
今年の読書感想文のテーマ、そして学校弁論における参考文献として紹介するほど、その本が好きであった。
「まさか」鳥井がそれだけこぼすと、そのまま三崎は話し続けた。
「おれの集大成とも、いや、人生、おれ自身とも言えるその話を、おれはプライドにしていたし溺愛していた」
煙草を吸いきり灰皿にこすりつけると、三崎は二本目に火をつけた。
「だがな、おれの女房は、てんとうむしが出版されたと同じ時期に世に出た、電脳戦争、なんて本にかじりついていやがった。おれは悔しくて、てんとうむしを読んでくれ、と言ったさ。読んだ女房が、おれになんて言ったか、わかるか」
すっかり前のめりになって聞いていた鳥井は、口を開けたまま反応できずにいた。
「『ねえ、この部分、電脳戦争にも出てきたのよ。この話、面白いのね』だとよ」
いっとう大きく煙を吸い、吐かれた煙は鳥井の顔を包んだ。目にしみて、むせた。
「この話は、おまえには早いかもしれん。しかしな、我が道を往くというのは、おまえが思うより大変なことだ。これだけは覚えておくといい」
三崎の言葉は、鳥井にもよくわかった。しかし、鳥井には音楽しかなかった。
鳥井の耳に、北尾との会話が蘇る。
『聞いたわよ、新曲』
『レディバードみたいで、とってもすてきだったわ!』
北尾のきらきらした目まで蘇ってきた。
おれは、選択を誤ったのだ。
そして、また、間違える。
最寄り駅からちょうど一時間車を走らせたところにある大きな橋の上から、デビュー前に買った七十万円するギターを川へ投げ捨てた。五年前、自らを投げようと思った場所である。
その足で家に帰り、北尾を撲殺した。
昼寝をしていた北尾の頭を、あの金庫で殴打した。
北尾は身体をびくんとさせ、そのまま血を流し横たわった。
そのまま、北尾の集めていたレディバードのグッズを金庫を振り回し粉々にした。
机の上にかざられた紫色の花も、気に入らなかったので花瓶ごと踏みにじった。
最後に金庫を開け、中身も粉々にするつもりだった。
暗証番号は、以前盗み見たときに知った。
「101064……開いたな、まさかこれが暗証番号とはな」
中からまず出てきたのは、レディーバードの雑誌の記事であった。
鳥井との、対談の記事だった。
『レディバードがあるのは鳥井さんのおかげです。名前も、鳥井さんが勧めてくれた本から取りました。』
次々に出てくる、鳥井のCD、DVD、記事の切り抜き、ライブの半券……。
鳥井が命をかけ作ったCDも、そこにあった。
放心状態になりながら、鳥井はCDを取り出し、コンポに入れた。
CDケースのポケットには、「盗み見た悪いあなたへ」というメモがあった。
『盗み見はよくありません。残念でした、レディバードではありませんでした。
私もあなた自身であるこの曲が世界で一番好きです。
曲を書いて帰ってきたときの、子どもに戻ったようなあなたの顔が浮かびます。
あなたの声が、曲が、歌が、歌詞が、愛おしく思えます。
これからもずうっと、あなたの隣で聴かせてください。
追伸
これを読んだら、ちゃんと申告すること!』
部屋の中では、二人が世界で一番愛する曲がかかっていた。
『なにを選択するのも、諸君の勝手である』
三題「センタク」「ハシ」「テントウ」
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