「妙国寺東」のバス亭に到着した時にはすでに午後5時を回っており、辺りは薄暮に包まれていた。

妙国寺では、堺文化財特別公開期間中、蘇鉄の枯山水庭園と天然記念物の大蘇鉄をライトアップし、拝観時間も9:30から20:00と大幅に延長されている。

妙国寺1


それでは、妙国寺の由来について、パンフレットより一部抜粋して紹介する。

妙国寺は永禄5年(1562)創建と伝えらているが、この年には三好義賢(実休)公が久米田の戦いにて戦死を遂げた年である。妙国寺開山日珖聖人は、弘治3年(1557)頃、京都頂妙寺第三世として住持していた折、実休公は
日珖聖人の徳行に感じて帰依・受法し現場所に東西3丁、南北5丁の寺領を寄進、その後、実休公追善の為、兄長慶公、甥義長(義興)公により、蘇鉄の枯山水庭園やそれをのぞむ書院の寄進を受ける。

永禄11年(1568)に、日珖聖人の父・油屋常言、兄・常祐が三好一族と茶事で深い繋がりがあることや実休公7回忌供養の為に堂宇建立を発願し、元亀2年(1571)に落成する。元々、実休公は物外軒実休として出家されていたが、日珖聖人と出会い法華経の信者となる。京都・頂妙寺開山妙國院殿光徳実休大居士とされ、師匠と開基壇越に因んで妙国寺という寺号が誕生した。

妙国寺は開創以来二度の大火で伽藍を焼失している。江戸時代初頭の大阪夏の陣と昭和の第二次大戦である。妙国寺は焼失以前の北之庄の寺領から現在地に移転し、庫裏が元和2年(1616)に再建され、同様に寛永4年(1627)に本堂、万治元年(1658)に三重の塔、寛文2年(1662)に表門、寛文5年(1665)に書院、元禄9年(1696)に宝蔵、正徳元年(1711)には客殿と鐘楼がそれぞれ再建された。

第15世中興見理院日圜の代には靈元天皇の勅命によって、江戸の末まで歴代の貫首が勅願所として国土の安穏と天皇家の長久を祈った。また、明治12年(1879)の社寺明細長によれば寺域は三千百五十一坪あったという。

第二次大戦の末期、昭和20年(1945)7月10日未明の空襲で堺は焦土と化し、そのために妙国寺も三重の塔を始め大部分の伽藍を焼失した。

現在の本堂は鉄筋コンクリートで、昭和48年(1973)に客殿と共に建造された。

妙国寺3


正面入口から本堂に上がる。ライトアップされた庭園を鑑賞するため、堂内の照明は落としている。

妙国寺2

 

幻想的にライトアップされた蘇鉄の枯山水の庭園は、近年造園整備され境内には岩組と龍の髯が枯山水風に配し、新たに蘇鉄十数本が植えられ、修景されたものだそうだ。濃い緑の蘇鉄の葉は白い敷砂利に映えて、見る者を魅了する。

妙国寺5



本堂の奥にある枝分かれした大蘇鉄は大正13年に国の天然記念物に指定された。大小合わせて十株程あって、一番太い株の根元は周囲1メートル、最も高いものは高さ7メートルもあるという。ちなみに、ガイドによれば、蘇鉄は1年間でわずか1cmしか育たないというから、樹齢1,100年余りといわれているのも頷ける。

妙国寺6



この大蘇鉄には伝説があり、以下は岡部貫首の談話である。

この蘇鉄は昔、鉄蔦(てつつた)・鉄蕉(てっしょう)と呼ばれていた。南国で生息する木で当時は大変珍しく、信長が安土城に植えたいと一株持って行ったが、毎夜「妙國寺に帰ろう」「堺へ帰ろう」と聞こえる呻き声に腹を立て、森蘭丸に切らせた所、切り口より鮮血とも見える水が噴出し、火を放つと白煙が立ち込め、余りの不気味さに妙國寺に帰された。日珖聖人は切り刻まれた鉄蔦を哀れに思い、境内に植えなおし、一千部の法華経を読誦すると、満願の日に青い芽が吹き出し、その夜、夢枕に蛇身の白髪老人が現れ「供養忝なし、報恩のため三つの誓いを立てん、女には産みの苦しみを和らげ、苦難(刀難)には、その災厄を逃れしめ、福運のえしきものには福徳を授く可し」と、礼を言って姿を消した。妙國寺勧請の宇賀徳正龍神(通称・宇賀神)である。

大蘇鉄の傍には宇賀徳正龍神のお社が見える。

妙国寺7


ということで、本堂の奥に祀られている宇賀徳正龍神にもお参りをした。

妙国寺4



午後6時半頃、妙国寺を後にした。たった半日の観光であったが、5つも寺院を巡ることが出来たので満足度は高い。また、無料ループバスとボランティアによるガイド付というサービスの内容も充実しており、大変有意義な時間を過すことができた。