気功流ふぁんそんテクニック

体感を伴った心身のゆるみの技「気功流ふぁんそんテクニック」を学び、伝え、広げましょう!

人生の礎に

 太極拳をしているM君がツイッターを通して僕のしている気功に出会った。
 彼は、太極拳のまえにする効果的な準備の技を模索していた。
 僕が伝えている「ゆるみ」の技に何らかのヒントを得たのであろう。
 しかし、気功は、単に太極拳の準備のための技ではない。
 気功は、常に入静状態(気功状態)を求めている。
 そのために、放鬆(ほうしょう)という状態を作る。
 放鬆は中国語で、「ふぁんそん」と読み、「リラックス」と訳されている。
 しかし、普段、用いられている、筋肉の力の抜けた「リラックス」やゆったりとコーヒーを飲みながら、気持ちが「リラックス」というのとは、かなり違う。
 M君が語っていたのだが、手の指を揃えてまっすぐ伸ばした状態から、ゆっくり広げていくと、間に空間が出来ていく。
 「リラックス」というのは、指を広げて、間に空間が出来ていくように筋肉繊維がゆるんでいく、そんな感じだろう。
 しかし、放鬆というのは、字の通り、体の中が鬆(す)=空洞になり、それが放たれていく(四方八方に延び広がってゆく)という意味なのだ。
 つまり、筋肉がほどけて(弛緩して)リラックスしている状態だけではなく、その空間の中に液体や気体が染み込んで、それが温かくて心地よく、更に皮膚を通して外にも広がってゆく、その感覚、も含めて放鬆なのである。
 その状態をより感覚的に表すために、ツイッター仲間のKさんが用いていたひら仮名での「ふぁんそん」を、僕たち気の舞の仲間は採用したのだ。
 ふぁんそんは、従って、リラックスだけのことではない。
 体内の、体表の、ゆるんだ液体的、空気的感覚なのである。
 その「ふぁんそん」の上に気功の功法が成り立っている。
 この「ふぁんそん」こそが太極拳の基礎なのだとM君は気づいたのだろう。
 しかし、残念ながら、気功の世界の中においても、この「ふぁんそん」を抜きに、功法だけをしている人もいる。
 或いは、太極拳の世界でも放鬆という言葉は語られてはいるが、それは筋肉的弛緩、リラックスという海で用いられ、準備としての「ふぁんそん」は成されていないようである。
 入静のない気功は気功に非ずと言われてはいても、それを技として実践する人は少ない。
 これからは、「ふぁんそん」の時代だ。
 「ふぁんそん」を気功や太極拳の礎にしていくばかりでなく、僕たちの日々の営みの礎、人生の礎にしていくように ふぁんそんの技を身につけようではないか。

気の舞を舞おう!

 釈尊は、その教えの中で、まず苦諦を説いた。
 人生は苦であるという真理である。
 そんなことは無い。
 人生は楽しいものだ。
 楽しくしなくては生まれてきた意味がない。
 仏教は「苦」をといて、何か暗い。
 だから、仏教は陰気くさくて嫌いだ。
 そう言った声を聞くことがある。
 しかし、この「苦」を、僕たちは勘違いしているようだ。
 ここで説かれている「苦」は、苦しいという意味ではない。
 思い通りにならないという意味なのだ。
 人生は思い通りにならないということなのだ。
 何か楽しいことをしようと思っても、親や先生からの反対があったり、友人からはイヤなことを言われたり、なかなか思い通りにはいかないものだ。
 なかなか休みが取れなかったり、少ない休みの日なのに雨が降ったりとなかなか思い通りにはならないものだ。
 何処かに出掛けると渋滞に巻き込まれたり、電車が止まったりとなかなか思い通りにはゆかないものだ。
 みんな、みんなストレスになる。
 そんな思い通りにならないことが積み重なっていくと、心身が少しずつ蝕まれていき、やがては、鬱になったり、カッとキレてしまったり、胃潰瘍や心筋梗塞になったりと、具体的な症状として現れてくる。
 そこで釈尊は説く。
 思い通りにならないのは、「思い」という心が在るからなのだ
 何となくわかるような気はするが、「思い」を無くす訳にはいかない。
 夢、願い、希望、意欲、そんな「思い」があるから生きていけるんだ。
 「思い」を無くすことなんて出来ない。
 釈尊は言う。
 「思い」はあっても良い。
 いけないのは、「苦」をもたらす、「思い」に固執する心があることなのだ。
 「思い」に執着し固執する心が「苦」をもたらすのだ。
 更に、釈尊は言う。
 水を見なさい。
 水はどんな形の器に入れても、必ずその形になる。
 この形じゃいけないなどというものはない。
 相手がどんな形の器であれ、それに自然に形を合わせる。
 流れる水だって同じことだ。
 山の中では渓流や滝になり、野原では川になり、形を変えて流れている。
 その形は、相手任せなのだ。
 そんな水のような心を持ちなさい。
 そうすれば、思い通りにならないというストレスは無くなるだろう。
 なるほど。
 そう言われればそうだ。
 しかし、そんな水のような心になれるものなのだろうか。
 釈尊は、ここから八正道という修行を説く。
 しかし、僕は、気功の練功者だ。
 仏道を離れ、気功や太極拳で言う「ふぁんそん」の状態になることを奨めるのである。
 「ふぁんそん」こそが、「苦「」から解き放たれる道なのだと説くのである。


 思い通りにならないことを思い通りにしようとするところにストレスが生まれる。
 それは血圧と同じようなものだ。
 心臓から強い圧力の血液が押し寄せてくる。
 血管が僕たちだ。
 僕たちが頑固に固まっていると、血流との摩擦が強くなり血圧(ストレス)は増大する。
 僕たちにやわらかな弾力性があれば、血流をやわらかく受け止めることが出来、血圧(ストレス)は増大しない。
 元々、ストレスなんて実体はないのだ。
 思い通りにならないというのは、思い通りにしようとする「思い」があるから起こることなのだ。
 思いはあっても良い。
 あるのが当たり前なのだ。
 問題は、その思いに固執してしまう心なのだ。
 固執しない心を作れば、即ち、心に弾力性を持たせれば、外から来る様々な状況に自由に対応できるようになる。
 そんな弾力性のある心を作っていけば、ストレスと言われる状況をもやわらかく受け止められるようになるのだ。
 西洋医学は体と心を別々に考える。
 だから、心は心の側で、心に働きかけて心を変えようとする。
 心理学的に、カウンセリングの技法などを使ってである。
 しかし、東洋医学は、心身一元、心身一如と考える。
 元々、心と体は一つなのだから、弾力のある柔らかな心にしていくために、体を弾力のあるやわらかなものにしていけば良いことになる。
 そのやわらかさの追求こそが、気功の「ふぁんそん」の示すところなのである。
 筋肉をゆるめるだけではない。
 ゆるんだ筋肉の間に流れ込む液体や空気の感覚を体感することなのである。
 そして、それは特殊な能力ではなく、ふぁんそん状態を作るための理論と技を収得すれば誰でもが体感できる感覚なのである。
 その理論と技を追求し、伝えていくのが僕のライフワークなのだと思っている。

 僕は気の舞が好きだ。
 中でも自由舞がいい。
 それには意味がある。
 ストレス(苦)がストレス(苦)にならないようなやわらかな心を持つために、体をやわらかくすることは言うまでもないのだが、それ以上に、その体をやわらかく、しなやかに動かせるかどうかを大事にしているからだ。
 あれこれと思い図ることのない自由な境地、気の世界での言葉で言えば、ふぁんそんの境地で体を動かせるかどうかという挑戦、それが自由舞なのである。
 思い図ることなく体を動かすためには、心を解き放ち、体を心以外の何かに任せきる必要がある。
 僕は、それを音に求めている。
 音のリズムに乗って体(細胞)が動き出すのは、生命としての躍動にほかならないと感じている。
 音楽は直接的に体を刺激する。
 音に身を任せて体を動かせばよい。
 思い図ることは何一つないのだ。
 しかし、ただ、めったやたらと動かす訳ではない。
 気が心地よく流れるのを体感しながら舞うのだ。
 だから「気の舞」になる。
 気の舞は、ふぁんそん状態の目安でもあるのだ。
 僕は、ふぁんそんを楽しみ、その体現化としての気の舞を追究していこうと思う。
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プロフィール

和気信一郎

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