気功流ふぁんそんテクニック

体感を伴った心身のゆるみの技「気功流ふぁんそんテクニック」を学び、伝え、広げましょう!

2012年03月

ストレス・執着・セロトニン・そして気功

 気功をしていると、得も言われぬ心地よさが体中に広がる。
かって、それはβ-エンドルフィンによるものだと言われていた。
しかし、いまは、それは脳内セロトニンによるものとわかってきた。
脳内にセロトニンが溢れてくると心地よい感覚が生じるらしい。のだ
脳内セロトニンは、体や気持ちを心地よくするばかりではない。
 心情的に「ま、いいか」という気持ちにさせると言う。
この「ま、いいか」という心境がストレスから我々を守ってくれるのだ。
釈尊の教えを思い出してみよう。
釈尊は、人生は思い通りにはならないものだ。
 その思い通りにならないものを思い通りにしようとするところに「苦(ストレス)」が生じる。
思い通りにならないものへの執着をやめなさい、と言う。
執着をやめよと言われても、そう簡単にはいかない。
執着を手放すのに、必要なもの、それがセロトニンだ、と僕は考える。
「ま、いいか」の心境は、執着という縛りを放していくのだ。
セロトニンが不足した脳になると、うつ症状、パニック、キレるという現象を引き起こすらしい。
 これらの現象は執着による。
こうしなければならない、こうすべきだという強い思いが心を縛り、うつ、パニック、キレるという現象を起こすのだが、それは自分ではどうしようも出来ない。
 セロトニン不足がそうさせているからだ。
執着から離れるためには脳内セロトニンの分泌を促進する必要があるのだ。
東邦大学の有田先生の研究によれば、脳内セロトニンの分泌を促すには、①太陽の光を浴びる、②リズム的に筋肉を動かす、③グルーミング、マッサージ、スキンシップがいいらしい。
この中の②に注目したい。
リズム的な筋肉運動は、15分から20分くらいが良く、それは、サルサ、フラダンス、太極拳、ヨガ、坐禅、ウォーキング、ジョギング、自転車など何でもよいと言う。
但し、条件がある。
ひたすらに行なうということである。
テレビを観ながら、おしゃべりをしながらなどということではセロトニンは出ない。
しかし、我々は「ひたすらに」ということが苦手だ。
どうしても色々なことを考えてしまう。
 いわゆる雑念である。
この雑念から解放され、ひたすらにということが条件なのである。
 ひたすらにということは、それに没頭していることになる。
没頭と言えば、気功はお手のものだ。
何故か。
気功は気の感覚というものがあり、曽の感覚に没頭することで気功を深めることが出来るからだ。
また、気功においては、前段として「ふぁんそん」の体を作る。
この場合においても、体内の状態、その感覚に没頭する。
体をゆるめる動きに没頭しているだけで、脳内セロトニンの分泌が促進され、「ま、いいか」と、ストレスを生む執着から離れることが出来るのである。
この脳内セロトニンの分泌という科学により、釈尊の教え、ストレスからの解放という課題と気功への取り組みという実践が、見事に結実する。
このことに僕は喜びを感じているのだ。 (おわり)

気功を深める哲学

僕は学生時代に「科学的社会主義」(かっては、マルクス・レーニン主義と呼ばれていた)の理論を学んだ。
その中に、哲学としての弁証法的唯物論というのが合った。
物事は単独では存在せず、螺旋状に発展するというものであった。
 中でも気に入ったのが、量から質への飛躍(転化)という理論である。
全ての物事は、量的な蓄積が行なわれた時に急激に質的変化を起こすというのだ。
卵→幼虫→蛹→羽化。
種→芽→茎→蕾→花→実。
自然界のあらゆるものの発展は、量から質への飛躍を伴いながら螺旋状に発展するのだ。
 その発展は、学問、芸術、スポーツなどの人間の発展においても同じことだ。
わからないのじゃない。
 わかるまでの蓄積がなされていないのだ。
出来ないのじゃない。
 出来るまでの蓄積がなされていないだけなのだ。
自分の出来ないこと、わからないことを、現時点の実力で考えてはいけないのだ。
飛躍する(わかる、気づく、出来る)までの蓄積が出来ていないからわからない、出来ないのだ。
わかるまで、出来るまでの蓄積を続けることなのだ。
 この理論は、僕に勇気を与えてくれた。

僕は鍼灸の道に入り、陰陽論を学んだ。
陰陽は天地の道なり。
 万物の綱紀、変化の父母…とあった。
陰陽は自然界の法則であるというのだ。
しかも、陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる、という飛躍の理論が含まれていた。
これは、僕が学んだ弁証法的唯物論に通じていた。

そして気功の道に入り、気功を深めるために仏教を学んだ。
  ブッダは、その教えの第一に「無常」を説いていた。
この世に存在するものは、全て無常である。
 同じところに留まっているものは何一つない。
 全ては変化しているのだ。
これは、弁証法、陰陽論の考え方だ。
その変化の原動力は何か。
弁証法では対立する二つの力の力関係であり、陰陽論では、陰と陽という二つの相反するエネルギー(気)であり、仏教では因縁という条件なのであった。
この、条件という理解が僕は気に入った。
条件が整った時に物事はその結果を生じるというのだ。
 仏教の教える無常の論理の中で、その変化をもたらすものは条件であるという考え方は納得だ。
種は放っておいても芽は出ない。
弁証法の量的蓄積、即ち、種が発芽するまでに成長するというのは、水分や太陽の光、温度などの条件によって決定されるのだ。
条件が整った時に、種は成長し、芽2なるという質的な飛躍を起こすのだ。
陰極まれば陽になるというのも、陰を極めるまでの条件がいる。
僕たちが何かをなす場合、どういう条件が必要なのか、どの条件が足りないのかといった仏教的な観察が必要なのである。
この世に存在するあらゆる物は、固定的なものは何一つない。
 全ては変化している。
そこに内在する陰陽の気によって、相対立する二つの力関係によって、内部的条件(因)と外部的条件(縁)によって、質的飛躍を伴いながら螺旋状に発展する。
僕は、弁証法も陰陽論も因縁説(条件)も、洋の東西や歴史的な新旧を越えて、発展の哲学として学んだのだ。
だから、あらゆるものに失望はしない 諦めない。
 偶然ではなく、条件を整えて、必然の結果、しかもよい結果として実を結ぶために努力する、それだけのことなのだ。
仏教は哲学であり思想である。
観念的なものは必要ない。
 極めて唯物論的なのだ。
勿論、精神的な内容、心の問題にも触れている。
しかし、そこには、神を信じるとか、教条的に盲従するなんて発送はない。
あくまでも、無常と因縁の人生哲学なのだ。
唯物論と観念論の違いは、創造主としての「神」の存在を、事実として認めるかどうかの違い、従って、我々の人生は、その生死や運命は、「神」の意思によって決定されているということを認めるのかどうかの違いなのだ。
 条件によって物事は発展する、変化するととらえる仏教においては、創造主としての神も、人生を決定づける神も必要ではない(個人的に信じるのは自由ではあるが)。
だからこそ、努力、学習、修行という行為が必要になるのだ。
仏教は、第二の教えとして「無我」を説く。
全てのものは変化するのだから、「わたしのもの」という固定的なものは何一つないのだ。
「わたしのもの」でないものに 執着、固執することは無意味である。
 全ては因と縁、即ち、条件のなせる業なので、条件が変化すれば、現状も変化する。
 変化していくものを押し留めることは誰にも出来ない。
 執着、固執するところに心の苦しみが生まれる。
条件が変わったのだから、その条件から出発するのだ。
失われたものに心を留め、失われたものを追いかけることはやめよ。
いま、ここ、そこからなのだ。
僕は、この教えに共感した。
そして、これらの考え方に基づいて気功を深めて来たし、これからも深めていくだろう。

ふぁんそん気功の魅力

僕は怠け者だ。
修行なんてまっぴらだ。
坐禅?
断食?
滝に打たれる?
山を歩く?
そんな修行はまっぴらだ。
している人を見ても、エライなーとは思わない。
「してみたい」とも、「しなくては」とも思わない。
だって、オイラは怠け者なんだから。
それでも人間、引け目を感じているのか、何か言い訳を考えてしまう。
そして、お釈迦様の話をする。

 お釈迦様というのは僕たちが使っている通称で、シャーキー族出身のムーニー(牟尼=尊者)、或いは、悟りを得た人、即ちブッダ(仏陀)のことなので、釈迦牟尼とか、釈尊とか、彼の本名からゴータマ・ブッダなどと表すのが正しいだろう。
 僕は大抵の場合、釈尊という表現を使っている。

 釈尊は29歳の時に、人生を見極めるためか修行に出た。
 他に類を見ない程の究極の難行苦行を6年間にわたって続けた。
 だが、彼は悟りを売ることは出来なかった。
 釈尊は苦行をやめ、修行の場を抜け、村に下り、村の娘の差し出す乳粥(スジャータ)を飲んで体力を回復し、坐禅に入った。
 そして悟りを得るのである。

悟りの内容は、
「この世に在る全てのものは因と縁によって移り変わり、常なるものは何一つ存在しない(無常である)。
 その無常なるものに固執、執着するが故に心の安定を得られない。
 執着を離れ、正しい八つの実践(八正道)によって、涅槃の境地を獲得せよ。」
というものだと僕は理解している。

 ここでは悟りの内容の話ではなく、僕の言い訳なのだから、釈尊が何故に難行苦行をやめたのかという話をしなければならないのだ。
 釈尊は、難行苦行では悟り(心の安定、涅槃の境地)は得られないとして苦行をやめた。
 何故か。
 難行苦行というのは肉体への虐待である。
 肉体を虐めることで精神を鍛えるのだ。
 肉体を虐め、虐め、虐め切り、その苦痛に耐え、耐え抜くことで精神を鍛えるというものだ。
 しかし、その虐待に耐え切った精神は、涅槃の境地、心の安定とは異質のものであった。
 苦行に耐え抜いた精神というのは、肉体の苦痛に耐え抜いたという精神的満足、即ち、自己満足以外の何ものでもなかったのである。
 精神の満足、自己満足というのは、釈尊が求めた悟りや涅槃の境地とはほど遠いものだった。
 わたしは、この誰も成し得なかった苦行を成し遂げた。
 しかし、そこに残った精神は、満足感以外の何ものでもなかったのだ。
 釈尊は、そのことを悟って難行苦行をやめたのである。
 肉体への虐待による精神の鍛錬法は、成し得なかった場合には、挫折感と敗北感をもたらす。
 千日回峰行に入る行者は、途中で挫折した場合には命を絶つために小刀を持っているというが、挫折したら命を絶たねばならないといった、つまり、成し遂げるまではやめる訳にはいかないという厳しい修行のように言われるが、それは裏を返せば敗北感に打ちのめされて生きていくことが出来ないという現れでもあるのだろう。
 挫折感、敗北感か満足感かといった二者択一の精神鍛錬が、心の安定や涅槃の境地をもたらす訳がないのは言うまでもない。
 このことを悟った釈尊は、無意味な苦行を捨て去ったのである。
 そして僕は苦行をしようともしない怠け者を自己弁護しているのである。

 苦行を成し遂げた後の達成感は、確かに爽快に違いない。
 ハァハァ言いながら山を登って頂上に到達した時の達成感は言うに言われないものがある。
 それは確かだ。
 しかし、その達成感は、例えば、数学の難問を解いた時、演奏会で演奏し終わった時、ゲームをクリアした時、欲しかった物を手に入れた時等など様々な場面の中で得られる達成感、満足感とどう違うのだろうか。
 苦労した分だけ満足感も大きくなるのは当たり前だろうと言われるかも知れない。
 確かにそうだ。
 しかし、それらの満足感、達成感に質的な違いはあるのだろうか。
 僕の関心の中心はこの点にある。
 つまり、違う手段によって得られる達成感、満足感に違いはあるのか、上下の差はあるのかという問題である。
 足の悪い障害者が必死になって100mを歩くのと、Qちゃんがフルマラソンを走るのとで得られる達成感、満足感に差はあるのだろうか。
 そんな成し遂げた量の大きさではないのだ。
 一人一人にとって、出来なかったことを達成するということが達成感、満足館の中身なのだ。
 それによって他人を感動させられるものもあれば、独りだけで満足するものもあるだろう。
 他人のことを除外視して考えれば、その達成感、満足感は、やはり、自己満足の域を出ないのではなかろうか。
 では、人間としての生き方、人間性の向上にはどう関わっているのだろうか。
 それは、乗り越える、立ち向かう対象によって異なるように思う。
 芸術、スポーツなどのそれは他人に感動を与え得る。
 例え、それが100mの必死の歩きであったとしてもだ。
 自分が欲しかったものを必死になって、苦労して働いて手に入れたものであっても、それは感動を与えない。
 その違いは何か。
 僕は、そこに感動と共感というものを見い出した。
 他人を感動させ、達成を共感し合える達成感は自己満足にならないかも知れない。
 釈尊が理解したように、肉体の苦痛に打ち勝ったという精神の満足感、自己満足だけが残るような苦行には、感動と共感を引き起こす要素はなく、人間としての高まりにも影響を及ぼさないのである。
 それを明確にするために僕は気功をしているのだ。

 何事かを成し遂げた時の達成感、満足感は、脳内ホルモンとしてのドーパミンという物質のせいらしい。
 何事かを成し遂げると、ドーパミンという物質が脳内に分泌され、その働きが心の達成感、満足感をもたらすということだ。
 ドーパミンが分泌されると、とにかく心地よいのだ。
 心地よいから、その心地よさを求めて、ドーパミンを分泌したくなり、再び何事かに立ち向かっていく。
 つまり、意欲が生まれるのだ。
 しかし、その意欲の対象、即ち、立ち向かう対象は、必ずしも人間的な高まり、人間性の向上とは無関係である。
 物を手に入れることによる達成感は、次の物を手に入れる意欲となり、物欲だけが膨らんでいく。
 物欲というより、手に入れた瞬間の達成感だから、とにかく手に入れたくなる。
 買い物依存症や常習の万引きは、この延長線上にあるだろう。
 同じ原理で、あらゆる依存症は、このドーパミンが関与しているようだ。
 意欲の対象が学問、芸術、スポーツなどに向かえば、それは人間としての成長につながる可能性を持っている。
 しかし、いずれにせよ、自己満足には違いない。
 そのことに気づいた釈尊は、苦行を離れたのである。

 ドーパミンの分泌だけでは人間としての高まりも共感も生まれないのである。
 小動物を殺しているうちに人まで殺したくなる。
 盗撮、痴漢、万引きをした人は止められなくなる。
 ゲーム、ギャンブルも同じだろう。
 達成感、満足感を味わうドーパミンの分泌は、ものの善悪や人間性の向上とは関係がない。
 苦行は、結局のところ、肉体の苦痛に打ち勝ったという精神的満足、自己満足の域を出ない、即ち、ドーパミンの分泌では悟りは得られない。
 釈尊は苦行の末に、そのことに気がつき、ドーパミンの分泌による行を止めたのである。

 僕たちも、大なり小なりそういう経験を持っている。
 何かに夢中になっていたり、とりこになっていたりする時に、
「こんなことをしていて良いのだろうか?」
「こんなことをしていては自分がだめになる」
と、ハッと気づくのだ。
 ドーパミンのとりこになっていることへの警告が心の中で行なわれる瞬間なのである。
 では、ドーパミンのとりこを離れ、ドーパミン(意欲)をうまく活用するにはどうすればよいのか。
 そこに出てくるのが、共感と共感による感動だと僕は思っている。

 人から人間へ、自己満足から共感への精神的高まり、それは即ち行ないの高まりでもあるのだが、その人間としての高まりへの意欲は、共感と感動によって押し進められるのである。
 達成感、満足感に関与するドーパミンは、次々にと達成感を求める性質を持っているという点で意欲にも関与している。
 今の達成感、満足感が次の達成感、満足感を求める意欲になるのだ。
 学問、芸術、スポーツなどの目標の設定においては、達成感、満足感としてのドーパミンの分泌がなされるようにすることがカギになる。
 いま、少し頑張れば達成できるものを目標にして取り組むことで、その目標に到達し克服出来たという達成感、満足感が、次のステップを目標として取り組む意欲を引き起こすのだ。
 既に出来ることや外から与えられたものでは達成したという満足感は出ない。
 だから、それは意欲にはつながらない。
 意欲がないから次に向かって進むという人間としての向上はない。
抽象的な話になるが、5の能力を持っている人に、4や5の課題を課しても意味はない。
 やはり、6か7の課題を課すことが必要だろう。
 しかし、5の力しか無いのに、50や100の課題を課すことは、逆に、出来ないという挫折、諦めを引き起こし、そ5ものに対する興味そのものをも失わせるのだ。
 親や教育者、指導者は、達成感、満足感を促す課題を提供することで、その本人が自ら課題を課し、挑戦していくように導かなければならないのだ。
 そして、そこに必要なものとして平常心というテーマが現れるのである。

 ドーパミンの分泌による達成感、満足感を求めて更なる挑戦に向かう場合、勿論、その挑戦は学問、芸術、スポーツなど価値あるものであるべきなのだが、挑戦の内容によっては精神的な緊張状態にならざるを得ない場合がある。
 そのことによって結果が出る場合、他人から評価される場合、自分の失敗が他人へ影響を与える場合など様々であるが、一定のレベルのステップアップのためには通らなくてはならない緊張を伴う課題への挑戦な5だ。
 その緊張は、失敗するかも知れないという不安、怖れを伴うので、時として回避してしまう場合もあるが、回避していてはステップアップは不可能である。
 自分の目の前に一つの課題が提起され、それへの挑戦が他の人たちから期待されている場合は、自分のステップアップのためにも、回避せず、挑戦したいものである。
 しかし、同時に、その緊張状態は、その課題を成し遂げるには妨げになり得る、即ち、失敗を引き起こす可能性をもった緊張であり、その緊張をコントロールする技を身につけておくことは、課題を克服していくためには、絶対に必要な条件なのだ。
 スポーツ選手などを見ていると、一人一人自分なりのコントロール法を持っているようだ。
 両耳にイヤホーンを当てて好きな音楽を聴き精神をリラックスさせ、自分の世界に入って集中力を高める人、ライバルの結果を見ないで、自分のしてきた練習に自信を持って自分の全力を尽くそうと自分に言い聞かせる人、また、最近の高校野球などを見ていると、「楽しむ」ということによって緊張を取り除くというような方法が用いられている。
 体が自由に動くためには肉体的な緊張はマイナスに働き、肉体の緊張は精神的緊張によってもたらされるので、精神的な緊張を如何にコントロールするかが重要になってくるのだ。
 そういう意味で、自分なりの精神的な緊張を取り除く技を持っておくことは人生のステップアップにおいては欠かすことの出来ない課題なのだ。
 その課題に応える技が気功の技には沢山含まれているのだ。
 気功の技は、精神的緊張をコントロールする技であると同時に、釈尊が求めたであろう涅槃の境地に通じる心の安定をもたらす技でもある。
怠け者の僕は、この気功と出会うことにより、肉体的苦痛を乗り越えたという自己満足でもなく、自己満足のためだけのドーパミンの分泌(意欲)でもなく、人間としての生き方や人間性の高まりをもたらす共感と感動をこそ大切にした意欲と、それを可能にする心の安定を得る可能性が出来たのである。
それが、ふぁんそんを内包する気功なのである。

気功の始まり…ふぁんそん的な体を造ろう!

 気功はふぁんそんに始まり、ふぁんそんに終わると言っても過言ではない。
 気功を練習する前段として、体の中や頭の中をゆるめるという作業をする。
 この作業のことを気功体を作る、気功脳を作ると呼んでいる。
 体の中をゆるめるというのは、いわゆる力を抜くという意味ではない。
 体の中が液体のような流動体になり、その流動体を実感として体感することなのだ。
 そのゆるんだ状態を「ふぁんそん」と呼ぶ。
 つまり、ふぁんそんというのは、体の中が液体のようにゆるんだ状態のことなのだ。
 この「ふぁんそん状態」が、第一段階のふぁんそんであり、気功はふぁんそんに始まるという意味なのである。
 ふぁんそん状態になって、初めて気功を気功として練習することが出来るのだ。

 タレントのコロッケさんのものまねのレパートリーに「五木ロボット」というのがある。
 五木ひろしの歌に合わせて、ギー、ガシャ、ギー、ガシャと、如何にもロボットが動くように見せるのだ。
 僕たちは笑って見ているけれど、実は、大抵の人が、あんなには派手ではないけれど、同じように動いている。
 僕たちは、体中の関節によってカクカクと動いているからだ。
 他の部位との関連を無くして、その部だけを動かしてみると、完全にロボットになる。
 僕たちの動きがロボットのように見えないのは、他の部からの力を借りながら、逆に、他に力を伝えるようにしながら動いているからなのだ。
 例えば、歩く時に、腕も腰も動かさずに歩いてみると、とても歩きづらいのがわかる。
 僕たちは、歩くという足の動きだけをしているのではなく、腰や腕を含めて、体全体で歩いているのだ。
 本来、僕たちの動きは、他の体全体との関連の中で、その部の動きを作っているのだ。
 しかし、体のこわばりが強い現代人は、この自然な動きを忘れている。
 体のあちこちでロボット的に動いてしまっているのである。
 これを、自然体に戻していく作業、それが、ふぁんそん的な体を作る作業なのである。

 軟体動物というのがある。
 学問的にはわからないが、タコのようなものだ。
 彼らがくねくねと動くのは、彼らに骨がない、従って関節が無いからだ。
 ロボットとタコとの違いは、骨同士をつなぐ関節があるかどうかなのだ。
 僕たち人間には関節があり、その関節を筋肉で動かすことで体は動く仕組みになっている。
 だから、僕たちの体の各部はロボット的な動きしか出来ない。
 その動きを、しなやかに、やわらかくしていくのが、ふぁんそん的な体、気功体を作る作業なのだ。
 僕たちの体はロボットのように作られてはいても、全体が関連の中で動いているので、動きがロボット的ではない。
 しかし、例えば、腕などは、上腕(上腕骨)と前腕(撓骨と尺骨)という長い骨が肘関節によってつながっているだけで、腕の動きはロボットのような直線的な動きしか出来ない。
 それをしなやかに動かそうとするのだから、そこには何らかの要素が必要になる。
 それが「ゆるみ」、即ち、「ふぁんそん」の状態なのである。
 どういうことかと言えば、関節の部分を動かすのではなく、関節の中がゆれるようにする ということなのだ。
 この関節の中をゆるめ、他からの力によって、粘っこくゆらされるように動く関節を作るということが、第一段階のメインテーマになる。
 この作業の中で、決定的に重要になるのが、関節の中のゆらされている動きを体感するという作業なのである。。

 細い竹ヒゴをもって、軽く振ってみると、竹ヒゴはやわらかくゆれる。
 竹ヒゴは自分では動いてはいない。
 ゆらされているだけなのだ。
 これを腕に置き換えてみる。
 手を肩の高さで横にのばし、掌を前に向ける。
 これが竹ヒゴだ。
 竹ヒゴは自分では動かない。
 振ってやるとしなやかにゆれる。
 手を伸ばした状態で体を前後に動かしてみると、手はゆれる。
 しなやかに曲線的にゆれる。
 肩関節も肘も手首も自分では動かしてはいない。
 力が入っていると腕は肩関節のところで直線的に動いてしまうし肘も揺れない。
 各関節の中の力を抜き、ゆれるという感覚になるように工夫してみるのだ。
 字数の関係で細々とは書けないが、手首を振る(空間的な1を動かす)ことで、手首の中のゆれを体感する、肘を振ることで肘の中のゆれを体感するという具合に各部ごとに関節の中のゆるみを作っていくのである。
 脊椎(背骨)も同じことだ。
 坐して、骨盤部分を動かすことで背骨のゆれを作っていく。
 坐骨で左右に体重を移動させるようにしてみると、脊椎全体は、しなやかな竹ヒゴのようにゆらされるだけなのだ。
 そうして脊椎をゆるめておいて、両手を左右に伸ばし、掌を前に向け、恥骨と尾骨、即ち、骨盤の部分で前後に動かしてみると、そのゆれが脊椎に伝わり、背中に伝わったゆれが肩甲骨をゆらし、更に、そのゆれは腕に伝わり、手の先までをゆらしていく。
 つまり、骨盤さえ動かせば、手の先までゆれるということなのだ。
 骨と骨が関節によってつながっているロボットのような僕たちの体が、しなやかな曲線的な動きになるのは、このような体の使い方を、関節のゆれを体感するという練習によって身につけていくからなのだ。
 このことを理解し、体感を通して、体全体をゆるめ、「ふぁんそん」の状態にしていこうではないか。

ふぁんそんの旅に出掛けよう!

 ふぁんそんの旅に出掛ける前に断っておかなければならないことがあります。
 「ふぁんそん」という言葉を漢字やカタカナでかかずに「ひら仮名」で書いている理由です。
 それは、ツイッターで知り合った紅さんという人に教わったからです。
 僕は、それまでは、漢字で放鬆と書き、「ほうしょう」と呼んでいました。
 勿論、僕なりに学びを深め、単なるリラックスという意味ではなく、放鬆という漢字の意味である「中が空洞になって四方八方に自由に広がっていく」という点が、気功、特に静功時の感覚であり、それ、は般若心経に出て来る「空」と同義語ではないかと理解していたのです。
 そして、紅さんや松村さんなど気の舞仲間との語らい(ツイッター上での)の中で、「ふぁんそん」という用にひら仮名で表した方が内容的にも実感的にもぴったりするというところから「ふぁんそん」という表現を用いるようになったという訳なのです。
 そして、この「ふぁんそん」こそが気功を理解し深めていくキーワードだったのです。

 ふぁんそん気功の旅は
「かんかんかんさいれん」
です。
 この言葉も、僕は意味が分かるように、漢字で「緩感貫採練」と書いたのですが、これも気の舞仲間の松村さんが、リズムが良いというのと、やはりひら仮名の方が「ふぁんそん」らしく感じるのか「かんかんかんさいれん」とツイッターで書き始めたので、僕も同じ思いから、ひら仮名で書いているのです。
 「かんかんかんさいれん」は、気功を深めていく練習過程というかプログラムというか、とにかく、「ふぁんそん気功」の道標のようなものなのです。
 概略を示しておきましょう。

【緩(かん)】
 気功は体をゆるめるところから始めます。
 体をゆるめることで脳や心もゆるんでくるのです。
【感(かん)】
 体と脳、心をゆるめていく過程で気を感じるようになってきますので、今度は、気というものを体感として味わう練習に移ります。

【貫(かん)】
 掌だけでなく、体のあちこちで気を感じられるようになると、次は、脚や腕、胴体の中で気を動かす練習です。
 この練習を、気功の言葉で貫気法と言いますので、貫(かん)とした訳です。

【採(さい)】
 体の中で気を自由に動かせるようになったら、次は、天地自然の気を採り入れる練習に入ります。

【練(れん)】
 この練の意味は、練習のことではありません。
 採り入れた気や体内の気を練っていき、さらに強い気(自然治癒力、免疫力)にしていくという意味です。
 丹田の気を練っていく、或いは、気を練って強い丹田の気にシていくというところから「練丹」と言いますので、その練なのです。

 この「かんかんかんさいれん」の旅を通して、体をゆるめる段階の「ふぁんそん」から、心も体も自由に解き放った状態や心境での「空(くう)の状態に近いふぁんそん」まで、「ふぁんそん」の旅をしていくことになりますので、その練習全体の総称として「ふぁんそん気功」と名付けているのです。
 あなたも、気功を通して「ふぁんそん」の旅に足を踏み出しましょう!
プロフィール

和気信一郎

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