経文の最初に出て来る言葉は「観自在菩薩」で、この観自在菩薩が、後に出て来る「舎利子」に向かって語っているとされる解説もあるのですが、それには疑問を持ちます。
何故ならば、歴史的に現存した人物は、釈尊だけであり、○○如来というのは釈尊の覚りの内容を体現化したものであり、○○菩薩は釈尊の修行の内容を体現化したものだと言われていますので、従って、これは、「観自在菩薩として修行していた時の私が」と、釈尊が語っていると理解すべきだと考えるのです。

《観》
 観というのは、物事の本質を見抜く直観力のことで、人生観、世界観などという場合の「観」の意味を持っています。
気功の場合で言えば、「気功とは何か、何をすることなのか」という問題の本質に迫る気功観のことでしょう。

《自在》
これは「自由自在」という意味です。
物事の本質を見抜くために、誰か(何か)の教えを盲従的に信じたり、教条的に捉えたりするのではなく、そういったものに縛られることなく、自由自在の発想で物事に迫っていくという意味でしょう。

《菩薩》
菩薩とは、ボディ・サットヴァという音を漢字にした菩提薩■(唾を土へんに)(ぼだいさつた)」の略語です。
ボディは覚り、サットヴァは衆生を意味する言葉で、それを合わせたボディ・サットヴァは、覚りを求めて修行している人のことを指しています。
気功的に考えれば、「気功とは何か、何をすることなのか」という命題に向かって、ひたむきに練功している私たちのことだと思います。

●通し訳
人生や、この世界について、その本質を見抜くための直観力を身につけるべく、修行に取り組んでいた時の私(釈尊)が…

●気功的な読み方
気功とは何か、何をすることなのかという気功の本質に迫るべく練功に励んでいるわたしが…。