パンドラの箱、というのがある。
エピメテウスが美女パンドラにもらった箱、である。
ご存じのようにギリシャ神話では、エピメテウスが後先考えず開いてしまって(エピ - メテウスとはすなわち、「後で考える人」という意味である)、どえらいことになる。あらゆる災難悪徳が飛び出して、それらは世界中にちらばってしまう。
「決して開いてはいけませんよ」といいつつ箱をくれるパンドラもパンドラだとは思うが、そしてこれは「好奇心は人を滅ぼす(こともある)」という原始キリスト教的な教訓のプロトタイプも含まれているようで興味深くもあるが、さしあたりそのことはどうでもよい。
ある日、パンドラの箱なんてものをまったく了知しないエピメテウスのもとに、眼鏡かけたシワシワの、眼光だけはやたら鋭い初老がやってきたとしようや。
その初老はエピメテウスにこう言うわけだ。
パンドラの箱というのがあってな。
開くとえらいことになる。
これ、パンドラの箱なんだ。
おまえにやるよ。
でも、開けたらいかんよ?
こう問われた時に、効果は4通り考えられる。
1.開けてえらいことになる(パンドラの箱)
2.開けたがえらいことにならない(初老が箱でエピメを担ぐ)
3.開けない(でもパンドラの箱、たぶんいつか誰かが開く)
4.開けない(初老の愉快犯未遂)
海上保安庁の、いわゆる中国漁船衝突ヴィデオが公開されて、ちょっとした騒ぎになった。YouTubeにて広まったこともあって、マス=メディアが国家情報に関して完全に出し抜かれた(翌日の朝日新聞一面には「YouTubeにて流出」と記された)という意味で、それはそれで情報論において象徴的な事件である。
ヴィデオ非公開の時点ですでに非難囂々だった仙谷由人官房長官は、情報を流出させたと自認する保安官が逮捕されたことに関して
しかし、捜査情報の漏洩なんて、記者クラブ制度の表と裏でいままで散々やってきたじゃないか。
もちろんそれをやってきたのは自民党政権においてであるが、そうだとすれば民主党政権下では正統な、厳正遵法的国家としてやろうというのだろうか?
スパイ防止法も制定し、他国に対するものも含めた情報漏洩に関しては厳正に対処すると、そういうことを行うつもりはあるんだろうか。
もしそうだとすると、姿勢自体は評価してもいい。
しかしそうでなければ、とんだ情報統制タヌキである。
asahi.comでは国家公務員法に抵触するかどうか字義的法解釈的な判断をしているが、職務上の秘密を公表したのは明らかなんで、この情報を持ち出した行為自体は守秘義務にほぼ間違いなく引っ掛かる(但し今回自首してきた保安官が該当するか、それとも当該保安官は幇助犯扱いで情報元が正犯で引っ掛かるかは状況による)。今回問題なのはそこではない。
そこではなくて、今回の事例に
情報公開法はもちろん、開示情報対象に例外を認めている。
第5条第1項第3号にて、「公にすることにより、国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ又は他国若しくは国際機関との交渉上不利益を被るおそれがあると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」、同第4号にて「公にすることにより、犯罪の予防、鎮圧又は捜査、公訴の維持、刑の執行その他の公共の安全と秩序の維持に支障を及ぼすおそれがあると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」については開示できない旨、定めている。
第3号は防衛・外交情報、第4号は犯罪捜査情報だが、通説は「行政機関の長による第一次的判断を尊重する」としている。すなわち、実際に司法判断をさせようとすると「高度の政治判断を要する問題」としてハジかれる可能性が高い。
しかしながら、これら尖閣諸島問題の情報は法解釈的に考えると、憲法21条によって保護されている「知る権利」、または情報公開法にて「国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資する」「知る権利」の最たるものである。そして「知る権利」は社会の木鐸を自任するマスメディアにとって金看板、最終防衛線であり絶対的生存圏である筈である。オマエらツマラン政治家のスキャンダルやらロス疑惑の三浦和義の情報呈示にまで「知る権利」を押し立ててこれまでやってきたじゃないか。国家公務員法の字義(児戯)解釈でお茶を濁すのではなく、使える武器全部つかって正面から戦わんかいという思いだ。
そういうことも併せ考えるに、先に述べた「YouTubeで出てきた」という論点も含め、情報inteligenceの流れが明らかに変わっているということを知らしめる事件である。
ところでもし、誰もヴィデオを流出させなかったとして、当該国民感情は、いつものように次第に、かつ加速度的に収束・終息していったのだろうか?
むしろ逆ではなかろうか?
この度、ヴィデオが(これでもまだ一部だそうだが)公開されて「ああ、これは非道い」と思った人間が何人いるだろうか。
「おお、確かにぶつかっとるな」という感じだろう。
もちろん、尖閣列島は現在、日本の領土である。日本の領土領海にて漁船がコースト・ガードの公船に体当たりしてくるというのは違法行為である以上に、敵対的行動である。
しかしながら、人間の想像力は逞しい。
公開しなかったとすると、対中国の国民感情は無駄に、それこそまったく無益に、鬱屈したのではあるまいか。
そうだとすると、このパンドラの箱らしき箱は、開けてみた結果パンドラの箱ではなかったということになる(現状は、という前提つきだが)。
つまりそもそも箱を封印していたことに怒っていたエピメテウスは、初老に担がれたことになお、怒っている。
国益というものがあるとすると、開けなかったことにより損なわれたそれおよび損なわれた政府の信頼は小さくないのではないかと思われるのだが。
その意味では、「パンドラ」の箱ではなかったが、まあそうだな、「sengoku」の箱と呼び称されるには相応しい悪徳が飛び出てきたということは、いっていえないこともない。まあそうねその程度ね。
パンドラの箱には「希望」が残ったが。
我が国の箱にはそれに類するものは、残っているだろうか?
なお、仙谷がとんでもないやり手ならば、ヴィデオを隠しておいて、国民に「非道いものに違いない」と思わせておきながら、これを別ルートにてコソッと公開することによって「なあんだ大したことないじゃん」→ガス抜きウマー、ということを考えたといえなくもないが。
いや、いえないか。
エピメテウスが美女パンドラにもらった箱、である。
ご存じのようにギリシャ神話では、エピメテウスが後先考えず開いてしまって(エピ - メテウスとはすなわち、「後で考える人」という意味である)、どえらいことになる。あらゆる災難悪徳が飛び出して、それらは世界中にちらばってしまう。
「決して開いてはいけませんよ」といいつつ箱をくれるパンドラもパンドラだとは思うが、そしてこれは「好奇心は人を滅ぼす(こともある)」という原始キリスト教的な教訓のプロトタイプも含まれているようで興味深くもあるが、さしあたりそのことはどうでもよい。
ある日、パンドラの箱なんてものをまったく了知しないエピメテウスのもとに、眼鏡かけたシワシワの、眼光だけはやたら鋭い初老がやってきたとしようや。
その初老はエピメテウスにこう言うわけだ。
パンドラの箱というのがあってな。
開くとえらいことになる。
これ、パンドラの箱なんだ。
おまえにやるよ。
でも、開けたらいかんよ?
こう問われた時に、効果は4通り考えられる。
1.開けてえらいことになる(パンドラの箱)
2.開けたがえらいことにならない(初老が箱でエピメを担ぐ)
3.開けない(でもパンドラの箱、たぶんいつか誰かが開く)
4.開けない(初老の愉快犯未遂)
海上保安庁の、いわゆる中国漁船衝突ヴィデオが公開されて、ちょっとした騒ぎになった。YouTubeにて広まったこともあって、マス=メディアが国家情報に関して完全に出し抜かれた(翌日の朝日新聞一面には「YouTubeにて流出」と記された)という意味で、それはそれで情報論において象徴的な事件である。
ヴィデオ非公開の時点ですでに非難囂々だった仙谷由人官房長官は、情報を流出させたと自認する保安官が逮捕されたことに関して
「捜査の期間中にそこに身を置く司法警察員の身分を持つ人が、訴訟に関する書類を流出させて『国民に見てもらいたい』などと言うことは想像ができない」と語り、厳しく批判したそうな。
(http://www.asahi.com/special/senkaku/TKY201011160183.html)
しかし、捜査情報の漏洩なんて、記者クラブ制度の表と裏でいままで散々やってきたじゃないか。
もちろんそれをやってきたのは自民党政権においてであるが、そうだとすれば民主党政権下では正統な、厳正遵法的国家としてやろうというのだろうか?
スパイ防止法も制定し、他国に対するものも含めた情報漏洩に関しては厳正に対処すると、そういうことを行うつもりはあるんだろうか。
もしそうだとすると、姿勢自体は評価してもいい。
しかしそうでなければ、とんだ情報統制タヌキである。
asahi.comでは国家公務員法に抵触するかどうか字義的法解釈的な判断をしているが、職務上の秘密を公表したのは明らかなんで、この情報を持ち出した行為自体は守秘義務にほぼ間違いなく引っ掛かる(但し今回自首してきた保安官が該当するか、それとも当該保安官は幇助犯扱いで情報元が正犯で引っ掛かるかは状況による)。今回問題なのはそこではない。
そこではなくて、今回の事例に
行政機関の保有する情報の一層の公開を図り、もって政府の有するその諸活動を国民に説明する責務が全うされるようにするとともに、国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的とすると第1条にて謳われた情報公開法が合致するかどうかを審議検討せねばならんだろう。
情報公開法はもちろん、開示情報対象に例外を認めている。
第5条第1項第3号にて、「公にすることにより、国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ又は他国若しくは国際機関との交渉上不利益を被るおそれがあると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」、同第4号にて「公にすることにより、犯罪の予防、鎮圧又は捜査、公訴の維持、刑の執行その他の公共の安全と秩序の維持に支障を及ぼすおそれがあると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」については開示できない旨、定めている。
第3号は防衛・外交情報、第4号は犯罪捜査情報だが、通説は「行政機関の長による第一次的判断を尊重する」としている。すなわち、実際に司法判断をさせようとすると「高度の政治判断を要する問題」としてハジかれる可能性が高い。
しかしながら、これら尖閣諸島問題の情報は法解釈的に考えると、憲法21条によって保護されている「知る権利」、または情報公開法にて「国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資する」「知る権利」の最たるものである。そして「知る権利」は社会の木鐸を自任するマスメディアにとって金看板、最終防衛線であり絶対的生存圏である筈である。オマエらツマラン政治家のスキャンダルやらロス疑惑の三浦和義の情報呈示にまで「知る権利」を押し立ててこれまでやってきたじゃないか。国家公務員法の字義(児戯)解釈でお茶を濁すのではなく、使える武器全部つかって正面から戦わんかいという思いだ。
そういうことも併せ考えるに、先に述べた「YouTubeで出てきた」という論点も含め、情報inteligenceの流れが明らかに変わっているということを知らしめる事件である。
ところでもし、誰もヴィデオを流出させなかったとして、当該国民感情は、いつものように次第に、かつ加速度的に収束・終息していったのだろうか?
むしろ逆ではなかろうか?
この度、ヴィデオが(これでもまだ一部だそうだが)公開されて「ああ、これは非道い」と思った人間が何人いるだろうか。
「おお、確かにぶつかっとるな」という感じだろう。
もちろん、尖閣列島は現在、日本の領土である。日本の領土領海にて漁船がコースト・ガードの公船に体当たりしてくるというのは違法行為である以上に、敵対的行動である。
しかしながら、人間の想像力は逞しい。
公開しなかったとすると、対中国の国民感情は無駄に、それこそまったく無益に、鬱屈したのではあるまいか。
そうだとすると、このパンドラの箱らしき箱は、開けてみた結果パンドラの箱ではなかったということになる(現状は、という前提つきだが)。
つまりそもそも箱を封印していたことに怒っていたエピメテウスは、初老に担がれたことになお、怒っている。
国益というものがあるとすると、開けなかったことにより損なわれたそれおよび損なわれた政府の信頼は小さくないのではないかと思われるのだが。
その意味では、「パンドラ」の箱ではなかったが、まあそうだな、「sengoku」の箱と呼び称されるには相応しい悪徳が飛び出てきたということは、いっていえないこともない。まあそうねその程度ね。
パンドラの箱には「希望」が残ったが。
我が国の箱にはそれに類するものは、残っているだろうか?
なお、仙谷がとんでもないやり手ならば、ヴィデオを隠しておいて、国民に「非道いものに違いない」と思わせておきながら、これを別ルートにてコソッと公開することによって「なあんだ大したことないじゃん」→ガス抜きウマー、ということを考えたといえなくもないが。
いや、いえないか。