都会のマンション暮らしだと忘れてしまうのだが、人間の住居のまわりには本来、幾ばくかの毒虫がつねに生息してきたのだな。
 夜眠っていると、「ボタ」という音とともに顔になんか固いものが落ちてきて、電気をつけてみると巨大なトビズムカデだったりする。

 うちの親父は毒虫狩りがとても得意で、昔わしのBMW-E34になぜかムカデが出て騒ぎになった時も、何処にいったのかわからんムカデを車内さがしまわり、シート裏に隠れていた巨大なそれを燻しだして焼殺した。

 生活に何か害を与える可能性があるものを排除する力は一種の権力である。それら排除力、あるいは秩序への復原力をもっているからこそその権力は正当性をもつ、という言い方もできる。うちの親父は(恐らく無意識的にだろうが)毒虫退治をコドモにさせず自分が一手に引き受けていたが、それは権力的契機だったのだなあといま懐かしく思い出す。



 さて。
 先日、選挙で落ちたのに大臣の椅子に居座った千葉景子法務大臣が死刑を執行して、いろんな意味で問題になっている。

 法権力の発動の最たるものが刑罰の執行である。
 刑罰のうちで最も重いものが死刑であること、恐らく異論はない。

 死刑を執行するのは法務大臣に与えられた権限であり、刑事訴訟法上法務大臣以外は死刑執行命令を行うことができない以上、大臣の義務でもある。その意味で、千葉景子が死刑執行命令を下したことには何の問題もない。

 そもそも、千葉が参議院議員選挙で落選したことを前提に、閣僚としての「不適格さ」を述べる物言いがあるが(千葉、荒井氏を自民が追及)議員であるかどうかと、閣僚であるかどうかは直接的に関係ない以上、これらの追求は道義的な物言い、もっといえば気分的な放言以外のなにものでもないということをまず認識すべきだろう。少なくとも参議院議員選挙において千葉は議員を落選したのであって、大臣を罷免されたわけでは全くない。制度論的混乱というべきだろう。

 恐らく今回の死刑執行と絡んで、だと思うが、ふたつ行動があった。

 死刑制度勉強会が初会合 法相「国民的議論の契機に」
 【刑場公開ルポ】香のにおい 青いカーテンの先に執行室 赤いテープで囲まれた踏み台

 古来から政治家の「勉強会」なんというのは党派形成かガス抜きかどちらかの目的を果たすだけで結論なんて出ないわけで、今回も、ほんらい死刑廃止派であったはずの千葉による一種のエクスキューズに過ぎないと考えるので放置するとして、刑場が公開されたのはとてもよい。ヴィヴィッドである。

 ヘリポートみたいな赤囲みがしてある踏み板にいくつかのしみがある。
 内部は消毒薬の匂いがするそうな。
 じつにやな感じである。

 わざとらしい木目調も、ボタン室の無機的な感じも、じつにやな感じである。わざとらしいところ、効率的なところ、無機質なところすべて含めて、如何にも国家がことを為す・ひとを殺すための部屋らしい佇まいだ。

 公開に際し、感情的なディレクションを行う意図はないだろうと考えるが、それでもやはり刑場が現前すると、やはり厭な感じはする。有り体にいえばキモチがわるい。

 さて、わたしは以前からずっと言うように死刑、現状の制度下では反対である。問題点は後ほど書くけども、先に死刑存置派のロジックから見てみたい。
 死刑存置派の死刑存続理由は三つあって、遺族の応報感情の昇華、一般威嚇効果、社会的応報感情の昇華、である。

 まず、現状、刑罰権を国家に取られている以上、死刑による遺族の応報感情の昇華は欺瞞的、あるいは間接的なものでしかない。死刑に遺族が立ち会って死刑用ククリーナイフなどで死刑囚を八つ裂きにできるとか(でもこれは憲法35条違反か)、最悪死刑執行ボタンを押下できるというのならばともかく、現状は立ち会いさえ認められていない(刑事訴訟法の原則上、事前申請して「刑事施設の長」の許可があれば死刑に立ち会うこと自体は可能なはずだが)。遺族がいう「犯人を殺してやりたい」というのは「同じ苦しみを味わわせてやりたい」ということで、「存在を抹殺したい」ということではないだろう。現在の制度だと、思うように死刑が執行されても事後に「執行されました」と伝え聞くだけで、完全に尻抜け感がある。
 だいいち、実際に執行ボタンを押し、立ち会う刑務官の心理的負担が余りに大きいということは以前から言われてきた。ナチスのアイヒマンみたいにザッハリッヒカイトにボタンが押せる刑務官が居るとするとそれはそれで恐ろしいので、心理的負担を感じる刑務官というのは非常に好ましい。好ましいがカワイソウである。一部のひとに過大な負担がかかる制度は改善されるのが望ましい。ここはやはり、希望する限り遺族にボタンを押してもらうべきではないか。応報感情の昇華には資する。

 いっぽう、死刑に一般威嚇効果があるかどうかについては争いがある。むしろ軽犯罪以外には威嚇効果はないんじゃないかということがいわれていて、確かに考えてみれば凶悪犯罪を起こす場合は一時的な異常心理か恒常的な異常心理を抱いた犯人が行うのであってみれば、心神耗弱状態の犯人に対して死刑の威嚇効果がいかほどあるのかということについては疑問である。むろん異常心理状態だと刑罰一般に抑止効果が期待できないということになるので、だから終身刑がいいとかそういう話でも全くない。これはまあ悪魔の証明にもつながるので置いておくとして。

 社会的応報感情とやらいうものがもし、遺族の応報感情と同質的にあるのならば、やはり死刑は公開で行われるべきである。現状では立ち会いに許可が要るとする刑事訴訟法第477条第2項を改正し、「死刑執行は国民への公開を基本とする」とすればいい。これでもちろん遺族も立ち会うことができる。いっぽう本当に死刑でなければ昇華されない社会的応報感情があるとすると、公開することによって初めてそれが十全に果たされるはずだ。少なくとも遺族はそれを望むだろう。遺族の応報感情には資するだろう。しかし社会的応報感情とやらは公開に耐えられるのだろうか。
 逆からいえば、現状の制度上、死刑執行は一行ニュースで報道されるだけである。ずっとそうだ。このような事務的な死刑執行報道で昇華されている程度の社会的応報感情ってそもそもなんなんだということでもある。



 一応、死刑は判決確定後六ヶ月以内に行われるとされている。死の恐怖がいたずらに長引くのはよくない、という理由であるが、実際はそれが守られているとは言い難い。
 現状死刑確定囚はまだ100人以上居て(確か2010年8月の時点で107人)、円滑に処理されているとは言い難いし、機械的円滑に死刑処理を行うというのも現状の制度だと難しい(ひとりひとり絞首にて行うため)。立ち会う刑務官の心理的ケアの問題もあるし、だいいち再審請求可能性の問題がある。更に困ったこととして、裁判員制度導入により厳罰化傾向が出て来ている。死刑判決の増加(参考:日弁連WEB)も相俟って、執行待ち死刑囚はさらに増加する可能性がある。これ制度的にもつんかという大いなる疑問がある。
 ここにおいてもうひとつ問題がある。凶悪犯に対する懲役刑が決定したときによく放言されることとして、「税金で凶悪犯を何年も食わせるのか」という物言いがある。誰が言い出したのかわからんがじつにけちな、その意味でゲヒンな物言いである。またここには言外に「死刑にしろ」という言い草が隠れているのだと推察するが、懲役刑は法律上、強制労働を行わせるので、生産活動に従事する。いっぽう執行待ち死刑囚は未決囚といっしょなので拘留されている状態で、何もしない。しないというよりは、死ぬことが刑の執行になるので、それまでは何もさせることができないわけだ(なおほかの拘置刑についてもほんらい囚人は何もする必要がないわけだが、無聊をかこつのに耐えられぬ多くの人間は自主的に労働を行う)。死刑囚の長期間の拘留はまさしく、ゆくゆくは殺す予定の人間を「税金で無駄飯を食わせ」ている状態なわけで、ここにこそツッコミどころがあるはずなのだが、けちな人間は思考リソースもけちなんかわからんけれども、ここについて何か言っているのを聞いたことはない。しかしこれは大いなる問題である。


 現在、欧米の多くの国では死刑が廃されている。その防遏として、「死刑制度をはじめ日本にある制度というのは、土着的な感覚をもとにした独自なものである」、従って死刑はおいておくのがよい、そのような物言いがされる。
 日本独自の法制度があっていい。欧米の法変遷に過度にふりまわされるのはよくないと思っている。その意味で、特に死刑制度については一度剥き出しにして、変えるべきところは変える、戻すべきところは戻す、そのような原理論でいってはどうだろうか。
 つまり、
・死刑は原則国民に公開とする
・遺族に死刑参画可能性を与える
・再審可能性がない死刑囚は定期的に執行処理していく

 それで、明らかにおかしいと思ったところを変えていく、そういう方向でいくべきだと考える。密室でコソコソやってるから余計議論が混乱するのではないか。

 なお、このたびの刑場公開で印象に残った記載があって、今回は踏み板の開閉は行わなかったのだが、その理由は「非常に大きな音がするので、囚人の心理的影響を考慮した結果」開閉は行わない、とのことだった。
 では、やはり拘置されていながら囚人は「ドカン」だか「ばたん」だかいう踏み板が開く大きな音を聞くのだなあ、と。それが聞こえるのだなあ、ということを考えた。ま、余りキモチのいいものではない。