鎌倉の世界遺産登録を考える

鎌倉市在住のジャーナリスト高木規矩郎による公式ブログ。鎌倉の世界遺産登録をめぐる動きを追っています。

ジャーナリストが追った発掘調査(エジプト・フォーラム2)

(12月1日)エジプトで発掘調査を始めてから50年という年を記念して11月13日に開かれた「エジプト・フォーラム25」では、隊長の吉村作治・東日本国際大学学長の基調講演に続いて、パネル・トーク「エジプト調査半世紀を顧みて」が行われました。ジャーナリストとして発掘を追ってきた私にとっても、忘れがたい想い出なので、飛び込みでお願いしてパネリストの1人に加えてもらいました。
パネルトーク画像
    ジャーナリストが見た発掘調査についての報告(左から3人目)(早稲田大学エジプト学研究所提供)
 パネル・トークは吉村隊長がコーディネーターで、近藤二郎・早稲田大学文学学術院教授をはじめエジプトでの発掘調査を続けている9人の現役隊員たちが、それぞれの想い出を語りました。専門外は最長老の私1人でまったくの場違いの登壇でした。でも早稲田大学、サイバー大学で客員教授として講義をし、今は地元の鎌倉でブログ活動を続けるなど世界遺産が第2のジャーナリスト人生のテーマになったことを考えると、私のエジプト体験は報告の必然性があるのではと勝手に思っています。プレゼン用テキスト「ジャーナリストが追ったエジプト発掘調査」(要旨)です。
太陽の船太陽の船プロジェクトのきっかけとなった電磁波探査(1987.02)
左はマジックハンドを使っての木片採取で会見する吉村隊長(1993.01)(いずれも高木治恵撮影)


≪早稲田隊との出会い≫
 レバノン、ローマ、カイロと古代文明発祥の地に特派員として赴任し、戦争やテロという中東の日常とともに発掘調査をもう1つのテーマとしてカバーしようと思っていました。1986年にカイロで初めて出会ったのが早稲田大学の調査隊を率いていた吉村隊長でした。ギザで電磁波探査により「第2の太陽の船」のピットを発見するなどめざましい成果をあげている時でした。時間が許す限り調査隊との密着取材を始めました。

≪古代文明調査報道44年≫
 1970年代のベイルート時代には、極左組織「日本赤軍」の動き、イスラエルとの軍事衝突、揺れ動く政治状況の合い間を縫って中部ビブロスの古代フェニキア遺跡、南部ティール、北部バールベックとレバノン全土に散在する古代ローマ遺跡を見て歩きました。続いて転任したローマでも赴任5日後に「モロ首相暗殺」、「ローマ法王狙撃」と激動の時代でした。でも「地下鉄工事トンネルの先に壁画の壁」と文明史をえぐるテーマを追いました。
06スフィンクスの修復現場を案内してくれた中川教授(1990.06)
≪発掘調査の宝庫古代エジプトの地で≫
 何も知らないがすごく興味があるので報道したいというジャーナリスト特有の感性で、カイロ時代には、エジプト全土を飛び回りました。幸い第3次中東戦争と湾岸戦争の中間期で多くの時間を早稲田隊の発掘調査に振り向けることができました。吉村隊長の仲介で「太陽の船」電磁波探査の専門家、建築史の中川武教授、アメンヘテプ3世墓の権威である近藤二郎教授、エジプト考古庁のザヒ・ハワス長官(当時)ら太い人脈にも恵まれました。

 電磁波探査など発掘の技術革新をまとめた「王家の谷にハイテクの光」(1989)、ルクソール「西の谷」の発掘成果を概観した「初の王墓調査着々」(1990)など新聞のトップとなった想い出深い記事です。東京本社と連携しての「巨大遺跡を行く」(1990)、エジプトの大河の変貌を描く「ナイル昨日・今日・明日」(1989)、遺跡発掘を技術面で分析した「古代史とハイテク」と3本の連載記事を発表しました。新たな発掘などニュース処理したものを含めるとカイロ駐在中に100本を超える古代エジプトの記事を書きました。

≪第2の太陽の船≫
 「第2の太陽の船」については、調査隊は1987年2月に電磁波地中レーダで船らしき遺物を確認しました。カイロで発掘調査の取材を始めてから最初のころの本格的な取り組みでした。1992年10月に駐在編集委員としてニューヨークに赴任して間もなく、93年1月に吉村隊長から「マジックハンドを使って太陽の船の木片を採取する」との連絡が入りました。

 大西洋を越えてカイロに向かいました。ギザの現場にかけつけ、ニュースの骨子だけを締め切り間際の朝刊社会面に「太陽の船4500年前の木片クフ王ピラミッド隣接の地下で採取」の見出しで押し込みました。ローマ駐在時代に締め切りまでギリギリでローマ法王ヨハネ・パウロ2世狙撃事件発生、とにかく2行の本記だけを1面トップに押し込んで以来の緊迫の特ダネ処理の瞬間でした。

 電磁波探査で存在を確認してから30年。およそ1200点の埋設部材の取り上げから修復、保存処理を施して倉庫に収納するまでの長期にわたる第2の太陽の船プロジェクトは、調査隊の成否を賭けた夢の事業です。最終的には2020年開館予定の大エジプト博物館(GEM)に展示して、復原組み立てを行うという工程です。ジャーナリストとして展示まで見届けることは私の一生の夢です。(つづき)

 次号で「エジプト・フォーラム」パネル・トーク用テキストの後半として、エジプトでの発掘調査を追ったジャーナリストとしての体験につづく「世界遺産への道」を発信予定です。

世界遺産へのメッセージ込めた文化財保護ポスター事業と作文コンクール

(11月28日)次世代を担う中学生が鎌倉の文化財保存、世界遺産再挑戦をどのように見るのかを示す文化財保護ポスター展、作文コンクールがあいついで行われました。ほんの一部の応募とはいえ中学生の歴史・文化への感性をどのように考えたらいいのでしょうか。歴史的風致、日本遺産認定、世界遺産再挑戦と行政主導のまちづくりへの模索が続いている中で中学生の感性を活かすことはできないのでしょうか。
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   ポスター展を終え作品を取り外す担当職員(高木治恵撮影 2016.11.28)  
 ≪イコモス勧告の後にポスター事業の応募も激減≫
 文化財保護ポスター展は11月28日まで鎌倉駅地下道ギャラリーで行われました。神奈川県教育委員会と4県市(県・横浜・鎌倉・逗子市)世界遺産登録推進委員会の主催で、「文化財保護」「私のまちの文化財」と「世界遺産登録をめざす鎌倉」のテーマで県内74校から969点の応募があり、うち52点の入賞作品が展示されました。
世界遺産最優秀ポスター
ポスター「世界遺産登録をめざす鎌倉」最優秀賞受賞作品

 ポスター展は1972年から始まり、今年で45回目となります。県内の文化財への関心を高めようという目的で、教育事務所を通じて国立、公立、私立の中学生に参加を呼びかけました。2004年には「武家の古都・鎌倉」というコンセプトで世界遺産登録推進活動が本格化したため、ポスター展も「世界遺産登録をめざす鎌倉」を新たにテーマに加えました。

 12年にユネスコに推薦書が提出されると応募総数も増え、世界遺産登録への関心の高まりを示しました。しかし13年4月30日にイコモス勧告で登録不記載となり、世界遺産登録が挫折すると、ポスター展への応募も減少傾向を示しました。勧告前に文化財のテーマを含め1000点を越していた応募は、600点台に激減したこともありました。

 ところが昨年度は941点と回復傾向を示し、今年は969点にまで戻りました。推薦書の取り下げを文化庁に要請し、世界遺産再挑戦に向けての鎌倉市と4県市委員会の水面下での動きを県内の中学生たちが理解してのポスター展への応募だとは思えません。教育現場の対応の違いもあるだろうし、再挑戦の動きとの関連性については、来年度以降の応募の動きを見てみないと何とも言えません。

≪世界遺産登録の挫折を越えて≫
 鎌倉市内の中学校を対象に実施されてきた「中学生作文コンクール」も今年で10回目の節目を迎えました。鎌倉の歴史について考え、世界遺産登録に対する関心を深めることを目的として、鎌倉市青少年指導員連絡協議会が応募を呼びかけました。2007年に第1回コンクールが実施され、市内564人の中学生から作文が寄せられました。

 6回目の2012年までは、コンクールの目的だった世界遺産登録が直接テーマだったので、生徒も比較的取り組みやすかったのでしょう。2013年4月末にイコモス勧告によって登録そのものが挫折するとテーマもばらけてきました。文化財行政と並行して「まちづくり」をテーマとした年が増えてきて、生徒もテーマに即して内容を掘り下げる難しさに直面したようです。

 10回目の今年のテーマは「歴史と文化を守るまち」と抽象的で、応募も300~500人台だったものが171人に激減しました。参加した中学校の数も減っています。今後も作文コンクールを続けるのなら、生徒が取り組みやすい具体的なテーマにする必要があるでしょう。今年の作文の中では「ゴミのまち」や「ポイ捨て」とテーマにそぐわないものが多く、生徒のとまどいを象徴していました。

≪未来に残したい若者の感性≫
 でも次代を担う中学生が文化財にめぐまれ、世界遺産に再挑戦するという鎌倉といかに共生していくのかという“宿命”を考えると、長い歴史を育んできた文化財保護ポスター展、今年で10年目の作文コンクールは何としてでも続けていって欲しいものです。

 5年後に50回目の記念すべき年を迎えるポスター展ですが、それまでの文化財50点、世界遺産登録10数点の最優秀作品を一堂に集めて、回顧展を開いたら大きな反響を呼ぶのではないでしょうか。その時作文コンクールの入賞作品を集めて刊行したら、「若者たちの見た鎌倉の世界遺産」として大きな意味を持つと思います。「鎌倉ペンクラブ」の代表として作文の審査を続けてきた立場からの提言です。

博物館の壊滅的破壊と崩れたライオン像(パルミラ遺跡最新報告1)

(11月26日)シンポジウム「シリア内戦と文化遺産」が20日、東京国立博物館平成館で開催されました。イスラム過激派組織「イスラム国」(IS)が武装制圧したシリア砂漠の世界遺産パルミラ遺跡の現状と復興に向けた国際支援を取り上げました。ISが2015年5月に制圧し、今年3月末にロシア軍の支援を受けたシリア政府軍によって奪還されたあと1週間にわたって初めて現地調査を実施したポーランド人研究者2人が生々しい被害状況と内戦の戦火は収まらないものの一部で始まった修復の動きについて報告しました。
シンポジウム3
   パルミラの状況を報告する左からマルコヴスキーさんとズコウスキーさん(2016.11.20)
 昨年5月末にISが制圧した後のパルミラの状況は、シリア政府文化財博物館総局(DGAM)とユネスコ本部から断片的に流れる現地情報が唯一の情報源でした。ISの侵攻に先立ちDGAMはシリア国内の遺跡所在地の博物館などから13000点の遺物をダマスカスに運び、秘かに保管する作戦が展開され、パルミラからも古代ローマの胸像が運び出されました。

 ISは移送した胸像がどこにあるのか執拗な尋問を続け、口を割らなかったため、パルミラ博物館ハレド・アサド館長の首をはねました。ベル神殿やバルシャミン神殿が破壊され、博物館前のライオン像の粉砕、凱旋門の破壊と世界的な文化財の損失があいつぎました。ポーランド科学アカデミー考古学民族学研究所のロバート・ズコウスキー、保存修復家バルトシュ・マルコヴスキー両氏の現地入りは、断片的に伝えられたパルミラの惨状を確認する意味もありました。2人のシンポジウムでの報告の要旨をまとめました。

≪ライオン像は蛮行への抵抗のシンボル=ズコウスキー報告≫
 (パルミラ博物館)博物館の1階には200点の文化財が展示されていましたが、大半が破壊されました。その多くはハンマーなど重機を使って破壊したことは明らかです。さらに多くの文化財が持ち去られましたが、損失の規模は分かりません。

 博物館の建物はISの橋頭保として使われていました。窓がほとんどなくなり、至るところ銃弾や砲弾の穴だらけでした。DGAMが破壊の調査を行い、緊急補修措置を講じています。もともと棚におさめられていた遺物貯蔵室の遺物は、石のかけらやゴミなどでごちゃごちゃになり散乱していました。

 (破壊された古代住民の彫像)塔墓の壁には2万点の古代住民の彫像がありましたが、大半が破壊されました。盗難の痕跡を残したくなかったのでしょう。パルミラだけにしか見られない貴重な文化財でした。パキスタン、アフガニスタンから来たISが、2000年に及ぶパルミラの歴史の消滅を図りました。

 (バルシャミン神殿の破壊)ISから神殿に爆発物を持ち込む画像が流されたことがあります。バルシャミンは古代アラブの神を祀った神殿です。バーミヤン大仏爆破と同じで、ISは自らの文化を破壊しているのです。

 (地雷の危機)監獄から囚人を解放したパルミラ西方のタドモアでは、ISは偶像もないのに町のアーケードを破壊しました。町には5~7万の住民がいますが、ロシア軍兵士が調査したところ、ISはまちの至る所に地雷を設置しており、車で通ると爆破されかねない危機的状況が続いています。

≪ライオン像の破片は危機の証人=マルコヴスキー報告≫
 (ライオン像の破壊)IS撤退後の今年春からDGAMを主体として緊急保存修復が始まりました。ワルシャワ大学ポーランド地中海考古学センターのチームが4月にDGAMから招かれ、200点の破片を集めてライオン像の修復に取り組みました。

 1977年に発掘されたもので、20年以上にわたって博物館の前に建っていました。2005年からライオン像の修復に取りかかり、15年まで10年間の計画で新しい土台として石材で固め、その上にライオン像を置いてスチールシールドで囲ったところでした。

 ISによりブルドーザーで壊されました。まず取り組んだのは破片を集めることでした。幸い木っ端みじんになったわけではなく、破片はすべて近くにありました。すべての破片を使って復元し、危機の証人として将来的に残しておきたいと思います。ライオン像はダマスカスの安全な場所に運び、クレーンを使って土台を固めました。(ズコウスキーさんは蛮行に対する抵抗のシンボルとして、ライオン像はパルミラにとどめるべきだと米紙のインタビューに答えていました)。

 パルミラのシンポジウムについての次回ブログでは、パネリストとして参加したユネスコの動きと日本をはじめとする国際支援の動きを報告します。(つづき)

エジプト発掘50年戦争や治安悪化で中断も(エジプト・フォーラム1)

(11月18日)東日本国際大学吉村作治学長(早稲田大学名誉教授)がアジア初の調査隊を組織して、エジプトで発掘調査を始めてから50年になります。11月13日には早稲田大学国際会議場井深大記念ホールで発掘調査の歴史(半世紀の歩み)を振り返るエジプト・フォーラム25が開催されました。吉村さんの基調講演要旨で発掘の歴史50年をまとめました。
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   エジプト発掘調査50周年記念祝賀会に集まった隊員(最前列左は吉村隊長)(高木治恵撮影2016.11.13)
≪マルカタで本格的な発掘調査を開始≫
 6人の学生がタンカーでわたったエジプト、シリア、イラク、イランでの1966年9月から7か月間にわたるゼネラル・サーベイを手始めに、基調報告では吉村さんは9か所の調査地ごとに50年間の発掘調査について語りました。ルクソール西岸マルカタ南遺跡では71年より発掘を始め、74年1月にアメンヘテプ3世の王位更新祭(セド祭)に使われたとみられる魚の丘彩色階段と主要な建物があった大丘と呼ばれる人工の丘陵を発見しました。

13(古代エジプト)エジプト・フォーラム25(チラシ)≪クルナ村でアメンヘテプ3世関連調査≫
 80年12月からクルナ村貴族墓調査としてアメンヘテプ3世代の調査を開始しました。その後中断しましたが現在は早稲田大学文学学術院教授の近藤二郎さんがアル・コーカ地区のウセルハト墓とその周辺で調査再開。85年に始まったマルカタ王宮発掘調査は、早稲田大学理工学部建築史(当時)の渡辺保忠さんが彩画片の復原を目的に取り組んだものの、渡辺さんの死去で中断。その後日本工業大学の西本真一さんが渡辺さんの遺志を継いで寝室天井画の復元図を完成しました。

≪大ピラミッドでの電磁波探査≫
 エジプト考古庁(現考古省)の呼びかけで、調査隊は電磁波探査レーダーを使って大ピラミッド内部とその周辺、大スフィンクス周辺を探査し、大ピラミッドの中に3か所の部屋を発見しました。さらに1987年2月ピラミッドの南側で「第二の太陽の船」の存在を確認。大ピラミッドとその周辺で空間探しが加速し10か国以上が探査を要求したため、考古庁はギザの調査を凍結。早稲田大学の調査隊には代替地としてアブ・シール地区での調査の権利を認めたものの、湾岸戦争で中断しました。

≪ダハシュールで人工衛星の画像分析≫
 サッカラ北部ライオンの丘発掘調査では、「カエムワセト」という名のラムセス2世の第4王子の碑文発見しましたが、墓はまだ見つかっていません。2003年には階段ピラミッド建造のための石積み遺構を発見。ダハシュール北遺跡では1996年、ツタンカーメンのバトラー役だったイパイの墓を発見。人工衛星の画像分析によって地下の墓地を見つけた最初で最後の事例です。ツタンカーメン王の指輪、王妃アンケセナーメンの指輪、数十点のツタンカーメン関連の遺物、ラムセス2世のときの宰相メスの石棺、シャブティなども出土。その後遺跡からはセヌウ、セベクハトなどの未盗掘墓が発見され、現在までに120余の墓を発掘しました。

≪王家の谷西谷アメンヘテプ3世王墓≫
 1992年に調査隊は王家の谷の西谷の調査権を得て、アメンヘテプ3世王墓のクリーニング修復を続けています。共同プロジェクトであるユネスコの協力が得られず中断したままです。あと一歩で終了し、エジプト考古省に返すことができるのに残念です。

≪第2の太陽の船プロジェクト≫
 1987年に電磁波探査レーダーで第2の太陽の船の存在を見つけ、92年にファイバースコープを入れて確認。2011年6月に船のピットの上にあった石蓋を取り上げ、発掘が始まりました。現在まで800点の部材を取り上げ、修復、保存処理を施しています。今後は2020年にギザに開館予定の大エジプト博物館(GEM)で展示しながら復原組み立てを行うことになっています。

≪ギザ台地西部墓地調査≫
 長年の夢であるピラミッドが墓でないことの証明、すなわち王墓をピラミッドの外で見つけることが実現しつつあります。クフ王の墓は大ピラミッド西側の墓地の下にあると予測しています。まず西部墓地の地下マップを作ることから始める予定で、2016年には許可を得て、予備調査を行いました。

≪発掘調査裏面史≫
 エジプト発掘調査50周年記念フォーラムに参加して、調査権を得ることの難しさや戦争のために調査を中断せざるを得なくなったことなど中東の激変が調査の継続にあたって大きな影響を及ぼしていることを改めて確認しました。アメンヘテプ3世のマルカタ王宮址の発掘では発掘権がなかなか得られず、彩画片の復原を最終目的に発掘にかかわっていた早稲田大学の教授が途中で倒れ、亡くなられたのも大きなストレスを抱えていたのかも知れません。

 アブ・シール南丘陵遺跡調査では、1990年の湾岸戦争でクウェートの日本人がイラク政府に拉致され、アラブ圏の日本人に帰国命令が出され、調査隊も帰国せざるを得なくなりました。この間作成してあった遺跡マップを使って、カイロ大学の教授が発掘してしまい、エジプト人がエジプトを掘って何が悪いと言われたとのことです。

 発掘の舞台裏で繰り広げられるさまざまな心理戦も基調講演で取り上げられました。吉村さんは50年間先頭に立って、厚い壁を乗り越えてこられました。発掘の成果だけで一喜一憂するのではなく、その背景のエジプト社会や中東世界の激動などにも目を向けて、50年続いた発掘の裏面史を正しく理解すべきだと思いました。第2の太陽の船の展示が予定されている大エジプト博物館も、2020年には完成予定です。何度も激動に巻き込まれ建設計画も延期に次ぐ延期となっただけに、太陽の船とともに今度はぜひ完成を祝いたいものです。

方針書後遺症か住民の間に広がる焦燥感(大規模商業施設建設計画65

(11月15日)「由比ガ浜四丁目商業施設及び共同住宅の建築」についての事業者側から方針書では、交通問題への対処に触れました。今回のブログでは周辺地域への貢献、埋蔵文化財の発掘調査、今後の手続きなどについて、事業者側の考えを取り上げました。方針書と市の対応を見て住民の間では「何をやってもダメ」という焦燥感の広がりが伺えます。
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   建設予定地の目と鼻の先で開かれたビーチフェスタ(高木治恵撮影 2014.05.17)
≪周辺地域への貢献について≫

(助言書)地域社会における新たな一員として、地域行事等への参加や協力により、積極的な貢献のための提案を行うこと(方針書)❶運営者自らが自治会に加入し、社会活動などに積極的に貢献できるよう出店テナントも含め周知していく❷計画施設では地域コミュニティーの場を提供するなど、地元自治会の意見を聞いて地域貢献を行っていく。

≪防災面での配慮について≫

 (助言書)災害発生時には周辺住民のいち早い避難が可能となる避難路の確保等、周辺の防災、減災に資するための配慮(方針書)災害発生時には、施設を避難路として開放し、親水時には屋上への一時避難、備蓄品の確保(施設利用者+α)等を行い、災害発生時に周囲への安全確保について地元自治会と協議する。

≪埋蔵文化財の発掘調査への協力≫

 (助言書)過去にも埋蔵文化財の出土事例があることから、文化財関連の関係機関と特段の協議を行い、必要な調査及び措置について協力する(方針書)文化財関連の関係機関と早期に協議する。発掘調査には約1年間を見込んでいる。

≪今後の手続きについて≫

 (助言書)今後手続きが必要となる鎌倉市開発事業における手続及び基準等に関する条例等において、大規模開発事業説明会や意見書、公聴会等で意見のあった案件については住民との良好な対話と協議を行い、計画への反映に努める(方針書)海浜公園前交差点の右折車線設置や交通規制の変更などの実現に向けて、関係各課のみならず、地元自治会と協議を行い、意見反映に努める。

≪助言書、方針書について地元自治会で協議≫

 商業施設、共同住宅の建設が計画されている地元の由比ガ浜西自治会では12日、役員ら8人が商業施設建設にからむまちづくり条例を所管する鎌倉市のまちづくり景観部土地利用調整課の職員2人と意見交換を行いました。2時間半にわたって、最大の課題である交通問題について意見が絞り込まれました。中でも国道134号線の右折レーンとのからみについては、市側から「レーンが作られるかどうかにかかわりなく施設は作られる」とのスタンスが示されました。レーン建設には1億円の工事資金が必要で、事業者負担で調整されているとのことです。

 交通問題以外では景観問題も取り上げられ、屋上に建設予定のエレベーター工事にともなう塔屋については、周辺道路から見えないようにするための利用方法の変更が明らかにされました。方針書の商業施設に関する3か所の「基本事項届出書からの変更」一覧表にも「外壁面からバラベット位置をセットバック、屋上緑化を追加(助言指導による周辺道路からの見え方への配慮)」として明示されています。

 意見交換に出席した住民は「市としては方針書に一定の理解を示しているようで、これ以上何をしてもだめだという焦燥感が広まっている感じだ」と現状の空気を読み取っていました。方針書は右折レーンの造設に絞られた感じで、住民が懸念している周辺市道の渋滞緩和など生活に密着した問題については、解決の糸口すら示されていません。まちづくり条例に基づく手続は方針書の提示をもって終結するものの、住民の焦燥感は広がる一方です。

(コメント)
 由比ヶ浜開発計画にからむまちづくり条例に基づく手続は、事業者側からの方針書の提出・公示で一段落した感じです。あとは開発事業条例に基づく適合審査と埋蔵文化財調査を経て、早ければ2019年4月ごろのオープンということになっているようです。でも方針書を見た限りでは住民側の懸念解消に至るような進展は見られません。

 国道134号線交差点での右折レーン造設については、重点的にとりあげられてはいるものの、住民の最大の懸念となっていた周辺生活道路への影響については、具体的な対処は伺えません。風致条例については鎌倉市からの助言・指導の中にあった歴史的風致維持向上計画の認定と世界文化遺産登録に向けての再推薦の動きなどについて、事業者側がどのような意向を示すか注目していましたが、方針書では一言も触れないままでした。

 全体としてのちのちに事業計画に影響を与えかねない言質を避けるという意向が見え見えの方針書のように見えました。でも事業計画の可否が住民との信頼関係の樹立にかかっていることを考えると、十分なものとは言えません。事業者側はこれまで以上に地元との接触を密にして、不信感を少しでも解消していく努力をすべきでしょう。

方針書の提出でまちづくり条例クリアか(大規模商業施設建設計画64)

(11月11日)「由比ガ浜四丁目商業施設及び共同住宅の建築」についての鎌倉市側の最後の対応となる松尾崇市長の助言・指導書に対し、事業者側から方針書が提出され、11日まで公示されました。同日をもってまちづくり条例に基づく大規模開発事業の手続きは終了し、次いで開発事業条例に基づく措置、埋蔵文化財調査等が実施され、建設工事に着手します。住民の最大の懸案であった交通問題については今後に持ち越されます。
由比ガ浜画像(合併)
         方針書に添付された正面入口からの施設のアプローチスケッチ変更前(左)と後というがほとんど区別がつかない
 方針書は先月27日に商業施設の建設を予定している(株)大和情報サービス(藤田勝幸・代表取締役)と共同住宅を予定する(株)エヌ・ティ・ティ都市開発(牧貞夫・代表取締役)の2事業者から提出されました。開発計画は当初2014年2月末に事業の届出が鎌倉市に提出され、条例に基づく手続を終了しましたが、交通問題などで住民との折り合いがつかず、15年1月30日に事業廃止届が出されました。新規計画は11日の条例手続終了でようやく当初計画と同じレベルに達したことになります。

 問題の交通対策等について事業者側はどのような代案を用意したのか、方針書の内容を整理してみました。項目によっては助言・指導書も併記しました。≪国道134号への右折車線の設置について≫(助言書)県警本部及び県藤沢土木事務所との十分な協議を行い、右折車線を設置すること(方針書)❶周辺住民の懸念は非常に大きい❷交差点の負荷や北側の生活道路などへの影響を十分検証する❸交通、道路管理者との具体的協議を行う。

 ≪交通量調査≫(方針書)地元自治会からのアドバイスで、交通量調査ポイントを追加して、8月に調査を実施した。
 ≪周辺生活道路の安全対策≫(方針書)施設内への入庫にあたって、前面道路の中央線へのポール設置や開発道路の出入口の形状の工夫で、物理的な(施設への)右折入庫、左折出庫がしづらい対策を検討する。

 ≪風致景観との調和≫(助言書)鎌倉では歴史的風致維持向上計画を国から認定され、さらに世界文化遺産登録を目指し、再推薦に向けた取組を行っている。一定規模の商業施設・共同住宅の建設は鎌倉の施策に配慮し、景観と自然的環境である周辺の風致に特段に調和したものでなければならない。やむを得ず屋上を利用する場合は、必要最低限の部分俊、周辺と調査するよう修景を施す。

 (方針書)❶立地法上必要駐車台数+非物販専用駐車場の確保のため、屋上の駐車場利用はやむを得ないと考える❷計画地周辺の遠・中景となるスカイラインとの調和のため、屋上パラペット(建物の屋上や吹抜廊下などの端の部分に立ち上げられた小壁や手摺壁)と塔屋の位置を外壁面からセットバックさせ屋上緑化を施し、可能な限り屋上駐車台数を削減する。(つづき)

虐殺のない「穏やかな日本の歴史」(東大寺サミット2)

(11月3日)横浜国立大学附属中学校体育館で11月末に開催され東大寺サミット2016 in かまくら(東大寺建立にかかわった市町村サミット)で、東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんが源頼朝による東大寺大仏再建の支援について記念講演をされました。メモを頼りにまとめた「おだやかな日本の歴史」の講演要旨です。

≪八幡宮の起源≫
 私の話は東大寺の僧侶とか八幡宮の神職とは視点が若干違う歴史研究者としての見解に基づくものである。八幡宮は宇佐神宮(大分県)に祀られていた八幡大神に由来する。邪馬台国は九州なのか大和なのかは議論の分かれるところだが、大和朝廷による九州平定があったとすれば、豊前に進攻した際に朝廷の軍を迎えたのが闘いの神である八幡大神を祀る宇佐神宮で、朝廷側は八幡の庇護を受けながら支配を強めていった。

 神と仏は基本的には違う。神は日本古来のもので、人間を超える霊的な存在である。仏はインドで生まれ、中国を経てやってきた日本で神と融合する。724年に即位した聖武天皇は仏教に深く帰依して東大寺を建立し、盧舎那仏(大仏)を造った。仏教による鎮護国家をめざす。仏法によって国を護るというもので、神が仏と仲がいいということを見せるのは、大きな意義のあることだった。

≪エマニュエル・トッドとの対話≫
 日本の歴史を考えるということで、フランス人歴史人口学者エマニュエル・トッドと対談したことがある。トッドがまず指摘したのは、日本には歴史上外敵がいないということである。いつも北から襲い掛かる異民族の存在がある中国の歴史と比べると、その違いは明らかである。中国では文化が破壊され、宗教も根底から覆されたことを考えると、日本は外国から攻められた経験はない。

 さらに日本には大量虐殺のような激しい歴史がほとんどない「おだやかな歴史」がある。ヨーロッパでは宗教戦争で何百万もの犠牲者が出た。フランス革命ではリヨンで起きた反乱に対し大虐殺が行われ、街は一瞬にして消えた。カンボジアではポルポト時代の200万人のジュノサイドも記憶に新しい。織田信長は2万人を虐殺した。2万人とは20万人を犠牲にしたという感覚である。日本には虐殺の歴史はほとんどない。

 その点、日本は豊かだということを考えておかなければいけない。農作業をきちんとやればなんとか食べられる。日本には八百万(やおよろず)の神々がいる。正義は一つとは限らない。いい面を神がちゃんと認めてくれる多様性をもった国である。これはすごいことだと思う。一方でイスラム教、キリスト教、ユダヤ教は同じ神の一神教である。人間はイエスかノーかを迫られる。「0」か「1」かのコンピューターを生み出した考え方に囚われる。

≪南都焼討と東大寺再興≫
 聖武天皇によって建立された東大寺と大仏は、1181年に平清盛の命による南都焼討で壊滅的な被害を受けた。1185年には大仏が再建され開眼供養が行われた。続いて1192年の大仏殿の再建では源頼朝が最大の支援者となって進められた。1195年の落慶供養には、頼朝と一緒に北条政子も臨席している。頼朝の八幡神への信奉は強く、その中心的な位置を占めていたのがほかならぬ鶴岡八幡宮だった。

 大仏再建は国家事業とみなされていた。東大寺は日本を仏の力で治めていく上で重要な意味を担っており、朝廷、天皇、上皇らが資金を出し合って再建を支えてきた。仏法を再生する上で俊乗房重源が大勧進として再建事業の指揮にあたった。頼朝は資金や物資の調達のみならず、大仏殿安置の巨像群の造立を御家人に分担させた。「資金を出すことによって結縁できる。その力で自分はすくわれる」といった頼朝の想いを記す文書も残されている。

≪吾妻鏡に見る東大寺再建への頼朝の思い(講演資料より)≫
 (東大寺の事について)当寺は平家の乱逆で破滅し、ついには火災の厄難に遭い、仏像は灰燼に帰し、僧徒が亡くなりました。これは平家が積み重ねた悪業の至りであり、これに比するものは少なく、殊に嘆かわしく思っています。今は元の如くに修復・造営を遂げ、鎮護国家の祈りを行うようにされたい。もし世が乱れようとも、君が舜のような徳を施されれば、王法と仏法とが共に繁昌するでしょう・・前右兵衛佐源朝臣(頼朝)文治1(1185)3月

(コメント)
 ブログ活動をつづけていく上で気になる講演があると、テーマが難しいかどうかを判断してなるべくメモをとるようにしています。テーマによってはテープレコーダーを使います。メモで処理するメリットは3つほどあります。❶感銘を受けると、その場で円や四角で囲んで区別できる❷1度聞いたところや繰り返すことで強調しようとしているところを省略できる❸老人の記憶力を少しでも維持し、認知症を予防する脳トレのためです。

 東大史料編纂所の本郷教授の東大サミット記念講演は「源頼朝と大仏再建」という魅力あるテーマでした。ブログの報告書作成にあたって、メモを読みながらわからないところは別にインターネットなどで調べて補強します。こうして歴史を幅広く学ぶこともできます。

 この過程でいくつか疑問も残りました。まずエマニュエル・トッドと本郷教授の対談で日本には虐殺の歴史がないということです。そうだとすると日本軍の中国での虐殺行為はどうなるのでしょうか。広島・長崎の被爆体験はどうなのでしょうか。特に現代史における事実の欠落がひっかかりました。ひょっとしたらメモを取り損ねた可能性もあります。日本は「穏やかな歴史」だとは簡単には言えないと思いました。メモに100%依存することは危険が伴うという認識も必要なのかも知れません。

まちづくりに向けて全国14市町連携(東大寺サミット1)

(10月30日)東大寺建立にかかわった全国14市町のサミットが29日、横浜国立大学附属中学校体育館で開催されました。郷土の歴史と文化遺産保護または活用によって魅力ある個性豊かな地域づくりを進めようというユニークなサミットです。歴史的風致、日本遺産の認知に続いて世界遺産再挑戦に向けて弾みをつけようという鎌倉が、全国に向けてどんなメッセージを発信するのか注目していましたが、歴史まちづくりについては何も触れずじまいでした。
東大寺サミット(チラシ)東大寺サミットのチラシ
≪地域の歴史を活かしたまちづくり≫
 サミットを開催した鎌倉市の松尾崇市長が冒頭のあいさつで、実行委員会が作成したサミット宣言を読み上げました。
 「我が国の人口は減少傾向に転じ、地域活力の低下や税収の減少などが大きな問題となっています。歴史や文化財を活かしたまちづくりは、地域の活性化や観光収入の増加につながる重要な施策と考えられます」とまず観光振興を強調しました。

 「ここ鎌倉の地に東大寺の造営や再建について歴史的に深いつながりがある市町が集い、『地域の歴史を活かしたまちづくり』をテーマに、第18回東大寺サミットを開催できますことは、誠に意義深いものがあります。先人たちが守り、私たちに遺してくれた歴史的遺産を将来に引き継いでいくことが現代に生きる私たちの使命です・・・」
 文科遺産の保存・継承に努め、市民が暮らしやすく誇りに思えるまちとするため、鎌倉が指向する「歴史的遺産と共生するまちづくり」につながる都市づくりの拡大プランです。

≪東大寺とのゆかり≫
 サミットに参加した14市町は、それぞれ東大寺建立にかかわっています。桶谷町(宮城県)では日本で初めて砂金が採取され、大仏の塗金として東大寺に献上されました。鎌倉は東大寺再建にあたり、源頼朝から多額の浄財が寄せられました。宇佐市(大分県)では大仏建立事業を完成させるため、宇佐神宮が大きな役割を果たしています。大宰府市(福岡県)では東大寺とともに観世音寺に戒壇が開かれ、筑前国分寺も建立されました。
付属中学生徒の大合唱
サミット開催記念の附属中2年生全員による大合唱
≪国大附属中2年生の大合唱≫
 東大寺の橋村公英執事長による「鶴岡八幡宮と源頼朝公」など2つの講話に続いて、国大附属中2 年生168人によるサミット開催記念の大合唱は、会場を魅了させました。「学園の歌山のすがた」「50周年記念歌呼びかけよう遥かな海に」など3曲の合唱でした。そのあと記念講演を行った東京大学史料編纂所の本郷和人教授は、会場が薄ら寒く風邪をこじらせそうだと文句を言ったあと、「清らかな声を聴いて薄汚い心がきれいに洗われました」と絶賛されておられました。ユニークな演出だったと思います。

(コメント)
 「東大寺サミット2016 inかまくら」には全国各地から市長や市(町)役所幹部がかけつけ、「東大寺とのゆかり」をそれぞれ強調していました。附属中の生徒による大合唱もあって、それなりに意義のある企画だったと思います。それだけに主催の鎌倉市の影が薄かったのが気になりました。松尾市長が読み上げた「サミット宣言」は、「地域の歴史を活かしたまちづくり」という狙いを強調したものの、歴史遺産保存・活用に取り組むまちの意気込みはまったく聞かれませんでした。

 世界に向けての情報発信は今鎌倉が取り組まねばならない最優先課題のひとつです。サミットの仲間に歴史的風致、日本遺産認定に伴って展開しているまちづくり事業を紹介し、世界遺産再挑戦に向けてどんなことをやっているのかを宣伝する絶好の機会だったのではないでしょうか。沈黙が最善の策というのは今の鎌倉にはあてはまらないと思います。

世界遺産再挑戦とオリパラ関連事業の展開(オリパラと鎌倉4)

(10月22日)東京2020オリンピック・パラリンピック(オリパラ)競技大会に向けた鎌倉市推進基本方針の中核をなす歴史まちづくり関連の取組方針が、具体的に提起されておりません。確かに「鎌倉の歴史的、文化的価値を世界に発信し、国際理解、異文化理解が進んでいるまち」の実現を目指すという言及は見られますが、具体的なイメージは伝わってきません。経営企画部オリパラ担当の山戸貴喜課長に別途会見の日程を組んでもらって、歴史まちづくりとのかかわりについて聞いてみました。
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   日本遺産の構成文化財(54件)のひとつ長谷観音では恒例の朝市で賑わいを見せていた(髙木治恵撮影 216.10.16)
 基本方針では取組の柱として5つの方針を定めています。その1つである≪方針5:文化交流・国際交流の推進≫の主な取組内容として、「文化プログラムの実施」、「市民、とくに次世代を担う児童・生徒が鎌倉本来の価値を学ぶ機会の創出」とありますが、歴史的風致、日本遺産の認定など歴史まちづくりの成果については何もいっていません。世界遺産再挑戦についても完全に黙殺しています。山戸課長の回答を内容に沿ってまとめました。カッコ内は三日会側の質問です。

≪歴史的風致および日本遺産関連事業とのかかわり≫
 (歴史まちづくり担当とオリパラ担当のふたつの市長部局は、オリパラに向けてどのように動いているのか)私(山戸課長)の立ち位置は、かっこよくいえばすべての事業の指揮者です。でも自分のところが受け持つ事業はなく、オリパラに向けての事業の進捗管理が主な職務です。

 歴史まちづくり担当(桝渕規彰部長)はオリパラ関連事業のキーパーソンの1人です。日本遺産の認定は、オリパラに向けて海外からの観光客が増え、オリジナリティーにあふれた事業を展開していくことがシティープロモーションの視点からも大事です。認定によって国から資金的な援助が始まり、パンフレットやTVによる宣伝を考えています。1つの事業での援助額は分かりませんが百万、千万単位というところでしょうか。

 12月末までに所轄の歴まち担当が事業を査定してオリパラ事業として提示することになっています。基本方針にもある文化プログラムの展開に当たって、鎌倉の文化財の価値を広めることが有効な手立てとなります。オリパラに向けて庁内で「合議体」ともいうべき体制を作っており、担当の数で言うとざっと30部課(担当)がかかわっています。その中でも重要なのは歴まち担当です。

≪世界遺産再挑戦とオリパラ≫
 (歴史的風致にしても日本遺産にしても鎌倉が認定を受けて国からの援助で寺社などのトイレの整備や情報発信事業を計画しているが、これに対してオリパラはどのようにかかわっていくのか。また歴史まちづくりの目標のひとつである世界遺産再挑戦は、オリパラが具体的な広報のきっかけにはならないのか)

 事業を担うのはオリパラ担当ではなく、観光商工課の仕事であり、オリパラに向けて情報発信事業の一環として無料のWi-Fi接続環境の拡大・整備なども計画してます。1つの目標年次という認識を持って、これまで以上に頑張ってもらわなくてはなりません。歴まち担当が進めている世界遺産の再挑戦ということでは、オリパラ担当でとくに具体的に考えていることはありません。歴まちが淡々と進めていくべき課題です。

 (主な取組内容として基本方針には「文化施設との連携による文化プログラムの実施」がうたわれている。文化施設とは工事が進んでいる鎌倉歴史文化交流センターや保全が決まった御成小講堂などを想定してのことか)
 いずれも12月末までに具体的なオリパラ関連事業が確定するまでは、私の口からは語れません。今後4年間かけて取り組む事業は数多くあげられることでしょうが、そこには当然優先順位が生じます。数多くの事業をきちんと把握して、事業推進に向けアクセルをかけていきたいと思います。

(コメント)
 2020東京オリンピック・パラリンピックと同様に「武家の古都・鎌倉」の世界遺産登録そのものも、まちづくりのきっかけになったはずです。確かに登録推進運動の間にもまちづくりとの連動らしき動きが全然なかったとはいえません。でもイコモス勧告で騒ぎが急速に終息した今、何も痕跡は残っていません。改めて世界遺産運動とは一体何だったのかを考えると愕然とした気持ちになります。

 オリパラが鎌倉に突き付けているのは、まさに世界遺産運動を市民の負の体験として生かしていくことだともいえます。幸い歴史まちづくり担当は「歴史的遺産と共生するまちづくり」を目標に歴史的風致、日本遺産の認定に続いて世界遺産の再挑戦に取り組んでいます。ただオリパラとの連携の動きが希薄なのが気になります。なぜオリパラ担当は世界遺産再挑戦のことには触れようとしないのでしょうか。

 山戸課長の意向を聞いても、オリパラに向けての基本方針の曖昧さが目立ちます。文化財をどのように事業展開するのか方向性も伺えません。具体的なオリパラ事業は12月までに整合性を図り、具体化のめどなどを考慮して公表するとのことですが、事業一覧表の一刻も早い提示に世界遺産再挑戦の去就もかかっているといっても過言ではない状況です。

鎌倉駅前再整備は社会基盤整備の1丁目1番地(オリパラと鎌倉3)

(10月20日)東京2020オリンピック・パラリンピック(オリパラ)競技大会に向けた取組の柱として5つの方針を定めていますが、その1つである≪方針4:社会基盤の整備≫については議論が先行しているようです。鎌倉三日会の経営企画部オリパラ担当の山戸貴喜課長との話し合いでも、鎌倉駅東口・西口整備計画についてさまざまな意見が飛び交いました。カッコ内は三日会からの質問と山戸課長の回答です。
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   歩道からはみ出る観光客も日常化した大仏通り(髙木治恵撮影 2016.10.16)
≪江ノ電の西口での混雑≫
 (江ノ電の乗客があふれてタクシー乗り場まで押し出されているのは、土日や休日の日常的な光景になっている。オリパラまでに抜本的な対策は考えられないのか)東口、西口の再整備は、社会基盤の整備の1丁目1番地に位置づけられるべき対策だと思っている。東口広場はJRの所有地なので市が勝手に整備するわけにはいかない。今JRとの協議を営為進めているところである。

 西口については地権者との話し合いがなかなかまとまらない状態だが、合意ができないからと言って放っておいたら、何もできなくなってしまう。戸塚駅などは随分変わった。戸塚のような再整備をやろうとしたのだが、遅々として進んでいないところは本当にお詫びのしようもない。西口も時計台広場は鎌倉市が管理しているので、少なくとも管理部分でできることをやっていこうといろいろと設計をしている。

≪西口、東口を結ぶ新たな連絡通路≫
 (今ある通路は東急ストアで買い物をして、西口に抜けるにしても老人にとってはかなりの距離になる。さらに。ミニバスを利用するとなると市役所前まで重い荷物を持って歩かなければならない。東急寄りに跨線橋でもいいのでもう一本あれば、西口商店街も繁盛するだろう)駅前整備関係は庁内の動きについてすべてにアンテナを張っているが、新たな連絡路が議論されたという記憶はない。

 (鎌倉山方面のミニバスは市役所前で乗降する。地権者との交渉もあるのだろうが、横浜銀行の駐車場スペースをミニバスのターミナルにできないか。三日会の交通分科会でも提起されたことがある)道路も含めて公共のエリアは、必要なところを広げつつ、全部を取り上げてしまうわけにはいかないので、地権者の方々にはそれなりの代替スペースをお渡しするというのが、駅前再開発の一般的な考え方になっている。

 バスターミナルも不便がないように歩行者のスペース、電車待ちの方々のスペースを確保して、歩行者と車両が交錯しないような形にするというのが、共通のコンセプトである。西口についてはそこまでの整備がオリパラまでにできるのかということになると、あまり大きな声でいえることではないと思っている。時計台広場中心にはなるが、できるところはオリパラという1つの区切りをもってやっていきたい。

≪歩行者空間の確保≫ 
 緊急の課題は歩行者空間の確保である。鶴岡八幡宮前、北鎌倉駅から建長寺の間、長谷駅から大仏の間と歩行者があふれ返っているところで歩行者空間を何とかしなくてはいけない。われわれ道路行政の目線は歩行者空間の確保に向けられている。ここで沿線の地権者との話し合いが最優先課題になる。県道に関しては、神奈川県と一体となって動いていかねばならないが、市からも折に触れアイデアを出していく。(つづき)
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