鎌倉の世界遺産登録を考える

鎌倉市在住のジャーナリスト高木規矩郎による公式ブログ。鎌倉の世界遺産登録をめぐる動きを追っています。

≪史跡を歩く7≫尾根を残す形での鎌倉市の新たな対応(円覚寺の結界とまちづくり4)

(7月25日)円覚寺を取り囲む尾根(結界)の保全について鎌倉市は25日、市議会全員協議会で「尾根を残す形での安全対策工事について検討する」など新たな対応を明らかにしました。ただ尾根保全の議論のきっかけとなった北鎌倉隧道(緑の洞門)の開削については何も触れておらず、議員側から抗議が相次ぎました。これを受けて来年1月末までには、洞門を通行路として再開するという対応策が表明されました。
閉鎖前の北鎌倉隧道(緑の洞門)
開削工事のために閉鎖される前の「緑の洞門」(高木治恵撮影 2014.12.18)
≪文化財専門委員会の結論≫
 市議会全員協の協議の前提となったのは、7月8日に行われた尾根の文化財的価値に係る鎌倉市文化財専門委員会の開催でした。7人の考古学、建築史、中世史などの学者・専門家のほか、2人の外部有識者が参加して尾根の位置づけなどについて協議されました。全員協で議員に配布された「資料-1」では、専門委の審議結果として「結論」と「工法に関する主な意見」が記してありました。

 専門委の「結論」としては、「尾根は円覚寺境内絵図に描かれた境界として、文化財的な価値を有する場所であり、国指定史跡の指定を図っていくべきである」としています。同じく専門委の「主な意見」としては、「史跡としての価値があるのだから、保護するべきである」とか、「小型自動車は通れなくなるが、トンネルを内側から支え、内側が見えるようにするのが現実的ではないか」、「文化財を守る立場からは、開削せず現状保存を求める」などが紹介されました。

≪仮設による洞門の通行確保≫
 専門委の結果を踏まえた上で、松尾崇市長は4項目からなる対応を明らかにしました。
❶現在の工法を見直し、出来る限り尾根を残す形での安全対策工事を検討する。
❷検討から工事実施までさらに時間を要するため、仮設により通行を確保する。
❸史跡の追加指定に向けた調査・研究、指定範囲の検討を行う。
❹上記の対応については、引き続き文化庁の指導、助言を仰ぐというものです。

≪尾根と隧道≫
 全員協での市と議員の論争を整理してみました。「隧道があるところも尾根とみなしていいのか」との議員の質問に対し、市(文化財部)は「円覚寺境内絵図に描かれている尾根の残存部とみている」と答えました。「尾根を保存するということは隧道の開削工事はやらないということか」との質問には、松尾市長が「引き続き安全対策工事の方策を検討しながら尾根を残せるか考えていく」と答弁すると、「専門委で『文化財を守るため、開削せず、現状保存を求める』と委員もはっきり結論づけているではないか」と食い下がりました。

≪隧道の仮設工事≫
 「仮設工事はいつごろまでに終わるのか」との質問には、市(都市整備部)は、「文化庁、地権者との協議があり、確定したことはいえないが、遅くとも来年1月までは通行できるようにしたい」と具体案を示しました。全体として“影の主役”の文化庁の存在が市側の判断の大きな重しになっているようです。「今後の安全対策工事並びに仮設工事については文化庁と協議していく」という市長発言に見られるように、文化庁の言動は鎌倉のトラウマとして、文化財行政にこれからも影響を与えることになるのでしょう。

(街角の光景)大輪崩す煙害花火大会あれこれ

(7月21日)昨年は高波で流れ、2年ぶりの第68回鎌倉花火大会が梅雨の晴れ間の20日、由比ガ浜と材木座海岸で開かれました。「胸躍る光の夢幻花――」はいいのですが、海の花火特有の煙による視界不良で今年も輪郭が崩れ落ち、いつも感ずるモヤモヤ感は今年も一掃されませんでした。海の花火を一新するような煙をちらす方策が見つかったら、イグノーベル賞クラスの大発見になるのではないでしょうか。
夕暮花火
夕凪花火
 煙害対策として第1発が打ち上げられる前に由比ガ浜に行ってみました。砂浜は花火見物客でびっしりでした。さいわい屋台村のうしろの小山に一人分のスペースを確保できました。少しでも動くと後から「動くな。見えないぞ」と罵声が飛んできます。おかげではじめから終わりまで、同じ場所に立ちづくめの窮屈な姿勢でした。でも屋台村の屋根越しに花火を見物できました。妻はカメラアングルを求めて自由に動き回っていました。
水中花火
水中花火
 はじめのうちは空中に打ち上げの後に残る煙が少ないので、マルゴト花火を楽しめました。風は東南方向の逗子マリーナ方向から坂ノ下方向に向かって吹いていました。残念ながら勢いは弱く、夕凪花火と言うべきでしょうか。そのうち上空に煙が漂うようになると、大輪の輪郭がぼけ始めました。「アーア」とどよめきが地鳴りのように広がりました。海の花火で呼び物の水中花火は、煙が海面まで下りてこないのでまだゆとりがありました。
煙害花火
煙害花火(いずれも高木治恵撮影 2016.07.20)
 風が煙を流してくれればいいのですが、今回は煙はたなびくだけで時間がたつにつれて、次第に海面近くまで下りてきました。砂浜にも押し寄せてきて、蒸せかえるような気分になりました。沖に向けて煙を誘導するような技術はまったくないのでしょうか。とりあえず暫定措置として見物客に風向きとか風速、それに花火の見物ポイントをスマホ情報として流すだけでも効果があるかも知れません。すでに実行していることだったらごめんなさい。

 「鎌倉市海水浴場のマナー 砂浜は飲酒禁止」――全ページがカラー印刷の豪華パンフレットが見物客に配布され、「花火開催時もこのルールは適用されます」と表示されていました。心なしか周辺を見渡してみてもビールを飲みながらの花火大会恒例の光景は少ないようです。「鎌倉市海水浴場のマナー向上に関する条例に定める禁止行為」とか。何とも興ざめな条例通達でした。

 そういえば鎌倉市と暴走トラックによるテロ事件があった南フランスのニースとは、姉妹都市の関係を結んでいます。ちょうど花火大会が終了した時で、群衆が車道を埋め尽くしており、多くの犠牲者を出しました。10月には、姉妹都市提携50周年記念行事のため松尾崇市長や市民代表がニースを訪問する予定になっているということです。テロに揺れるフランス行きは平和ボケの国からの迷惑なお荷物以外の何物でもありません。

≪史跡を歩く6≫尾根と洞門の総意で待たれる市長の判断(円覚寺の結界とまちづくり3)

(7月18日)円覚寺を取り囲む尾根(結界)の保全についての議論に続いて、鎌倉市文化財専門委員会では、尾根の山裾にある隧道(緑の洞門)の保全問題が取り上げられました。隧道のある尾根は史跡「円覚寺境内」には含まれておらず、史跡を管理する文化庁としても追加指定の対象としてかかわったものと思われます。それにしても文化庁のひとことで、強行に洞門開削を推し進めようとしてきた鎌倉市が専門委の開催で一気に防禦の立場に追いやられたようです。専門委の最終回の報告です。
円覚寺境内を取り囲む結界の尾根円覚寺を取り囲む結界の尾根(高木治恵撮影 2008.04.04)
≪隧道は文化的景観≫
 鎌倉市側が洞門開削の理由の1つとして掲げている「横須賀線の開通で尾根の先端が削られている」との見解については、「鉄道開通で削られたかどうかはさしたる問題ではなく、残っているものは残すべきで史跡として十分価値がある」との意見が専門委の主流になりました。尾根の山裾にかかる洞門の文化財的価値についても議題として取り上げられました。昭和女子大教授(民族学)の大谷津早苗さんは、「安全性は十分配慮しなければならない。しかし人々の心の中に染み込んで長年にわたって地元に親しまれてきた景観は大事にしなければならないというのが民族学の基本であり、大事にしてほしいと思う」として、洞門の現状維持に支持を示しました。

≪専門委ですれ違いの議論も≫
 中世、近世史や建築史、民俗学、考古学など各分野の専門家が集まっただけに、意見のすれ違いも見られました。元鶴見大(考古学)教授河野眞知郎会長が「開削は尾根を削るということで、やろうとしているわけではない。現在の方法で手をつけたいとしたら、どのような影響があらわれるか」と委員に聞いたところ、東大資料編纂所の高橋慎一朗教授は「専門委で答えを求めようというのはずるい。文化財を守る立場からは開削してはいけない」と食い下がりました。外部有識者の1人青山学院大(日本中世史)藤原良章教授も「よくわからない。専門的にこういう方法があるというのなら分かるが、はっきり教授とは言えない。何もないところで専門委員に質問するのはお門違いではないか」と反論しました。

≪委員会の流れを決めた五味文彦さん≫
 五味文彦東大名誉教授は文化庁文化審議会委員長、鎌倉世界遺産登録の推薦書作成委員会副委員長の要職を歴任され、鎌倉の文化財の現状を知り尽くしておられます。外部専門家として「電車が北鎌倉の駅に入ってきて目につくのは素掘りの隧道(洞門)で、多くの人が『鎌倉らしい風景だなぁ、鎌倉にやってきた』と感動を持って眺める文化的景観である。住んでいる人々の生活と溶け込んだ癒しの場、記憶の光景である。できるだけ残す努力をしてほしい」と専門委の議論の流れを総括されました。

 最後に専門委では、❶隧道の上の岩塊が構成する尾根は円覚寺境内絵図に描かれている境界として文化財的価値があり、史跡として追加指定すべきである、❷隧道そのものも日常的に人々に長く親しまれてきた文化的景観として残すべき価値がある、❸開削工事以外の工法が資料として示されなかったが、補強策が他にあるならば検討すべきである—―の3点を松尾崇市長に結論として伝えることに合意して、閉会となりました。

(コメント)  
 助言といったらいいのか、もっと強い意味を込めた要請といったらいいのか、文化庁からの効果的な一言で鎌倉市文化財専門委員会が開かれました。都市整備部道路課、文化財部など関係部局が同席している中で、尾根の保全と史跡追加指定、洞門の文化財的価値、文化的景観が専門委の総意として認められた形です。洞門と尾根の問題の行方は、松尾市長の判断に委ねられたと言えます。当面は専門委の結論を無視して、休工が続く開削工事を強行するのか、素堀りのトンネルを人々の日常になじんだ景観として残すのか、市長の判断が問われています。

≪史跡を歩く5≫文化庁の肝いり文化財専門委開催(円覚寺の結界とまちづくり2)

(7月16日)開削工事着工と同時に休工になったJR北鎌倉駅裏隧道(緑の洞門)がある円覚寺を取り囲む尾根(結界)の保全問題について、鎌倉市文化財専門委員会が7月8日午後、市議会全員協議会室で開かれました。委員会では尾根の保全については全会一致の同意が得られ、出口の見えない洞門開削では反対意見が主流を占めました。洞門の保全そのものも新たな展開の可能性が予測されました。録音や資料の持ち出しが禁じられているため、週刊誌時代の経験が生きている傍聴の著述家岩田薫さんの詳細なメモに私のメモを加えて、洞門問題の流れを変えかねない会議となった専門委の模様を再現してみました。
円覚寺境内絵図尾根が明示された「円覚寺境内絵図」
≪文化庁の肝いりで開催≫
 円覚寺の尾根が改めて見直されるきっかけになったのは、2回にわたって住民側からの要請を受けての文化庁の介在でした。5月末に佐藤正知主任調査官が現地を訪れ、❶北鎌倉トンネルが所在する尾根は、重要文化財に指定されている境内絵図に円覚寺の境界として描かれており文化財的価値がある❷尾根の文化財的価値について、文化財専門委員以外の専門家による検討が必要であると、鎌倉市側に要請しました。

 これを受けて松尾崇市長は市議会6月定例会で「文化財専門部会で外部の専門家の意見を聞くことになった」と答弁しています。こうして尾根の文化的価値などについて協議する文化財専門委員会の開催となりました。委員会の席上「文化庁には、第3者委員会でなくとも文化財専門委員会に外部の専門家を呼ぶ形でもいい、そう了解をいただいています」と市に文化財部職員が説明しており、結果的に外部有識者を招く形での委員会開催については、事前に文化庁の内諾を得ていたことがわかりました。

≪尾根は円覚寺の境界そのものか≫
   当日は10人の文化財専門委員会の委員のうち7人が出席。外部有識者として5人に声をかけ、五味文彦東大名誉教授(日本中世史)と藤原良章青山学院大教授(日本中世史)の2人が委員会に参加することになったといいます。30人もの市民が傍聴訪れ、関心の高さを示していました。委員の1人から出された「別の尾根の可能性はないか」との疑問に対しては、会長の河野眞知郎元鶴見大教授(考古学)はじめほとんどの委員から「境界であることは間違いない」との意見が出されました。

 東京国立博物館主任研究員(絵画史)の瀬谷愛さんは、「絵画を研究している立場から言えることは、絵というのは描いている者の思いに基づいて描くということで、ある程度デホルメしたものであり、必ずしも現実をそのまま写したものではない。そうした視点から見れば、円覚寺絵図に描かれている境界と今のトンネル上の岩塊は同じものと考えられる」と発言しました。

≪史跡「円覚寺境内」への追加指定≫
 重要文化財の「円覚寺境内絵図」にも描かれている結界の尾根が、なぜ国指定史跡の「円覚寺境内」から外されたのかという疑問については、「よくわからない」という意見が大半を占めました。東大資料編纂所教授(日本中世史)の高橋慎一朗さんの「当初史跡の範囲に尾根を入れなかったのか、今となっては不明だが、地権者の理解が得られなかったことも理由の一つかも知れない。これから追加指定することを考えるべきだ。時代が変わり文化財への地権者の理解が得られやすくなっている状況にある点も勘案すべきと思う」との意見で、ほぼ全員が「追加指定」に同意しました。(つづき)

≪史跡を歩く4≫地図があばく行政の“偽証”(円覚寺の結界とまちづくり1)

(7月12日)JR北鎌倉駅裏の「緑の洞門」は、国指定史跡の円覚寺境内を内と外に分ける結界(境根の山裾にあります。洞門そのものは行政の決定で伐り崩される寸前の危機に直面していますが、住民や歴史、考古学専門家・学者の間から開削を阻止して結界を守ろうという動きが活発になってきました。住民主体のシンポジウムや鎌倉市文化財専門委員会などがあいついで開かれ、結界の保全について激論が交わされました。
*結界シンポ3jpgシンポジウムで提示された空撮画像(県道際の★印から赤線で線路を越え尾根のはずれまで46m)(講演会のパンフレットより)
≪史跡と結界≫
 円覚寺結界遺構の尾根は鎌倉幕府滅亡直後に描かれた重要文化財「円覚寺境内絵図」にも描かれています。しかし尾根は史跡「円覚寺境内」から除外されており、国指定史跡であることを前提とした世界遺産の構成資産にもなっていませんでした。だからといって尾根を壊していいという理由にはなりません。市は「尾根は横須賀線の開通(明治22年)と宅地化で削られ、先端が大きく破壊され、結界を示す地形は旧状をとどめていない」として、洞門の開削を進めようとしており、住民や学者・専門家の結界保全運動の火に油を注ぎました。

≪流れを変えた住民の証言≫
*結界シンポ1jpg亀井さんが断面図を作成した(赤線部分)明治15年のフランス式地図、下図は断面図(赤い部分は県道から尾根の先端まで46mを表示)(いずれも講演会パンフレットより)
 6月19日のシンポジウム「円覚寺の結界とまちづくり~街角に残る中世の鎌倉」では、洞門の近隣に住む住民の報告が会場を沸かせました。「江戸時代から先祖が代々今と同じ平地に住んでいて、今私の家まで尾根が続いていたとする市の見解と矛盾する」として、「伐られるような尾根は存在していなかった」と主張したのは、「私が住んでいるところの意味」の報告をした地元の亀井士門さんです。尾根が伐られたとされる横須賀線開通前の1882年(明治15年)国土地理院作成の陸軍迅速図(フランス式彩色図)を基に尾根の頂上に至る断面図を作成、これを根拠に新設を展開しました。

 断面図によると県道から横須賀線線路を挟んで46m先の洞門までは、標高差1~1.5mでほぼ平です。その先は尾根は急勾配になり、最も高い標高100mの峰に至ります。亀井さんは市による尾根の先端が県道と接する地点に代々住んでいて、「尾根の上に建っているのならわかります*結界シンポ2jpgが、昔からわが家は平地で断面図でも非常になだらかな斜面です。私の先祖はずっとここにいましたので、尾根が県道まで延びていたら今のようには家は建たないということです」と強調しておられました。

 亀井さんの前の最初の報告「岩塊は削られていなかった~陸軍迅速図を読む」で鶴見大教授(日本中世史)伊藤正義さんは、横須賀線開通前後に公表された4枚の地図を基に尾根の岩塊は元のままとの新説を紹介されました。❶1882年の陸軍迅速図(ドイツ式単色)❷1330年代の「円覚寺境内絵図」に最も近いと見た1882年フランス式彩色図(亀井さんの断面図の基になった地図)❸横須賀線開通後の明治38年陸軍測量部図❹横須賀線複線化後の1925年(大正14年)陸軍測量部・参謀本部図です。伊藤さんは「横須賀線敷設・複線化でも20mの等高線に変化はなく、尾根の裾部は削られていない」と結論付けていました。亀井さんの報告は先祖の生活体験によって伊藤説を裏付けたものです。 

≪第三者委員会への期待≫
 シンポジウムでは日本考古学協会の馬淵和雄さんら2人の基調講演、亀井さんら3人の報告、ついで神奈川県立博物館の古川元也さんの司会で総合討論が行われました。円覚寺の結界について❶中立性が担保されるような中立な学者による第三者委員会の構成を市に働きかける❷現地視察をした文化庁に結界保存についてもっと強い行政指導をしてほしい――といった意見が出されました。

 最後に神奈川県文化財協会会長の八幡義信さんによって決議文が読みあげられました。「北鎌倉の尾根が持つ歴史遺産としての文化的価値、観光資源としての経済的価値、見るものを和ませる景観としての精神的価値を再検証する必要があるはずです。世界遺産に再挑戦すると明言している鎌倉市にはその責任があるはずです。鎌倉に居住している私たちにもその責任があるはずです。この重い判断は拙速になされるべきではありません」というもので、シンポジウム参加者全員の拍手で受け入れられました。「緑の洞門」開削反対の住民運動は、「円覚寺の結界」破壊阻止運動として新たな広がりを見せようとしています。(つづき)

まちづくり審議会埋蔵文化財調査で追及(大規模商業施設建設計画62)

(7月8日)第84回鎌倉市まちづくり審議会が7日、市議会全員協議会室で開催され、「由比ガ浜四丁目商業施設及び共同住宅の建築」で活発な議論が展開されました。事業者側は市まちづくり条例に基づく手続を着々と進めており、残すのは行政(鎌倉市長)の「助言・指導書」だけとなり、審議会ではその試案が検討されました。交通量調査と埋蔵文化財調査の2つが主要テーマとして浮上しました。審議会委員の意見と分析、市担当課の回答を軸にして開発計画の焦点をまとめました。
交通図表1              昨年12月の住民説明会で事業者が提示した交通シミュレーションの一部
≪開発計画に賛成の住民はいるのか≫
 まず4月22日に行われた開発事業(共同住宅・商業施設建設)についての公聴会の総括が行われました。委員から「住民から出された要望は開発への反対の立場のものだけだった。近隣住民の中には便利なものができて、期待しているといった声も聞かれるが」との質問が出ました。これに対して市まちづくり景観部の担当者は「公聴会と住民からの意見書には賛成意見はなかった。『自分としては作ってもらいたい』と匿名の電話があったが、公にはならなかった」と言っていました。

 また協議の間に「方針書の公告、縦覧を待って9月中にはまちづくり条例に基づく手続は終了し、6か月の開発事業条例関係の手続きに移行する。2か月の建築確認の手続きを経て、1年間埋蔵文化財調査が行われ、9か月間の工事で、2019年4月に開店したい」との事業者側の現在の進行状況に沿った事業工程も明らかになりました。大雑把なテナントも決まっているようで「1階は1800㎡の食料品スーパー、2階はドラッグストア、4~5区画の医療クリニックと錠剤薬局」との構想が確認されました。

≪混迷の交通問題≫
 鎌倉市や事業者は神奈川県警察本部との協議を前提にして交通問題に取り組んできました。審議会は建設用地北側の市道が通学路であり、狭隘道路である現実を踏まえた対応を提言しています。北側市道については交通量にとどまらず、歩行者通行量についても調査が必要です。歩行者が安全に通行できるように「交通の質」を考えて調査しなくてはなりません。地元合意の上でアドバイスも得ています。商業施設に入庫する車については、国道134号に誘導する経路を設定しました。

 また国道を逗子方面より進行してくる車については、右折車線建設ということで指導しているものの、建設は困難な状況です。基準通りの建設はできないものの、右折車線はあった方がいいと見ています。信号が変わらないうちに3~5台が右折できるという感じです。ただ(事業者側に)右折レーンを造ってあげるというニュアンスが感じられるのが気になります。旧市街地の住民の中には、車がいらない生活をしたいという声も聴かれます。どうしたら車を使わないですむかも検討してほしいところです。

≪揺れる埋蔵文化財調査≫
 まちづくり条例、開発事業条例に基づく手続、開発許可のあとに2017年5月から1年間かけて埋蔵文化財調査が計画されています。「計画では発掘調査に基づき、手続きフロー図では記録保存することになっているが、何が出てきても記録保存という答えを出すのはまずいのではないか」との質問に対し、市文化財部は「重要なものが出たら、協議が必要で、記録保存だけではない」と述べました。また開発許可➡埋蔵文化財調査の順序について「逆ではないか」との委員からの見解が示されました。

 審議会での議論は、市長から事業者側に提示される「助言・指導書」の試案の修正、加筆の形で取り込むことになりました。修正は2か所で「交通量調査の再検討」のところでは「生活者に配慮した(調査)」と住民の目線を強化し、「周辺の風致景観の配慮」では歴史まちづくり法の認定や(世界遺産登録での)バッファゾーンだったことなどに触れ、表記の充実を図ることになりました。試案には一言もふれてなかった埋蔵文化財調査については、発掘されたものの評価などを「各課協議の段階で協議していくことが重要である」と追加の形で処理することで同意しました。従来も埋蔵文化財の処理で慣習として行われてきたことなのでしょうが、庁内処理だけで済ませることに解せないところもありました。

由比ガ浜開発計画公聴会を傍聴して(大規模商業施設建設計画61)

(7月5日)由比ガ浜の商業施設・共同住宅建設計画で事業者側は鎌倉市まちづくり条例に基づく手続を着々と進めており、地元住民側の建設反対の目立った動きは当面は目につかない状況です。このタイミングを逃すまいとするかのように6月末には、事業者側は地元自治会にショッピングセンターのテナント構想を伝えるなど、地元の懐柔策ともいえる柔軟姿勢を見せはじめています。
由比ガ浜海開き開発予定地前の由比ガ浜2016年夏の海開き(高木治恵撮影 2016.07.01)


≪事業者は着々と手続き≫
 交通渋滞悪化などの懸念から昨年2月に白紙撤回された由比ガ浜の大規模商業施設建設計画は昨年末、共同住宅とショッピングセンターを同時開発するという新たな計画案によって再浮上してきました。事業者側は「大規模開発事業基本事項の届出」(2015年11月30日)、説明会の開催(12月13日)、提出された意見書への見解書の公示(2016年2月15日)、公聴会の開催(4月22日)と条例に基づく手続きを着々と進めてきました。ついで7月7日には第3回まちづくり審議会が開催される予定です。

 このタイミングで6月24日、ショッピングセンター建設を計画している(株)大和情報サービスの関係者が由比ガ浜西自治会に、事業の進捗状況などについて説明しました。主な内容は交通量再調査とセンターに出店するテナント構想でした。

≪8月はじめに交通量再調査≫
 交通量調査については鎌倉市と協議し、8月6日(土)、7日(日)、8日(月)の3日間にわたって実施することになりました。白紙撤回前に行われた調査では国道134号から車両を開発計画地に誘導する際の国道4か所の交差点での現況と開店後の車両台数のシミュレーションがおこなわれました。8月の調査は地元住民らから調査日が休日、平日各1日だけで客観性、信頼性に乏しいといった批判が出され、調査日を週末、平日の3日間に増やしたものです。

≪生活に根ざしたテナント配置≫
 交通問題については、白紙撤回以前にシミュレーションと並んで住民側が反発していた逗子方面からの右折レーン造設を、改めて取り上げるとのことで、工事資金は事業者側が負担するとの意向が示されました。店のテナントについては、1階は食品スーパー、2階にはドラックストアと複数のクリニックの開業を計画しており、医療施設への個々の打診を始めたとのことです。その他クリーニング店、郵便局等の出店も考えられており、地域サービスのワンストップとして生活に根ざした開発を進める意向です。

 また西自治会には松尾崇市長から西自治会の柏木幹夫会長に7月26日の「ふれあい地域懇談会」開催の連絡があったとのことです。テーマについて意見を聞かれ、由比ガ浜開発計画をメーンテーマの一つとして取り上げてくれるように申し入れました。交通量調査やテナント具体化しつつある開発の現状について市長の真意を打診することになりそうです。

(コメント)
 しばらくの間、表立った動きがなかった由比ガ浜開発計画に交通量再調査とテナントの打診という事業者側の新たな動きが出てきたようです。いずれも住民が大きな関心を持っているところです。でも最大の懸念である駐車場の規模を縮小して車両数をコントロールするのか、商業施設とともに同時建設を予定している共同住宅は認めるのかといった基本的問題については、一言も触れていないようです。こま切れではなく全体像についての説明がないと、事業者側の“和解ポーズ”として手放しで喜ぶわけにはいきません。

校舎移転計画第一次案の白紙撤回(永野征男・日大名誉教授の講演2)

(7月3日)御成小学校の老朽化した木造校舎の改築計画は、中世の遺跡が確認された校庭側への校舎の“移転”という歴史都市鎌倉ならではの青天の霹靂であり、2度にわたる校舎改築計画の白紙撤回や古代の「木簡」発見を隠匿するといった異常事態があいつぎました。日本大名誉教授の永野征男さんは講演で、今なお続く「開発と文化遺産」の対立の構造を読み解くための生きた教訓として御成小問題を改めて取り上げています。「講演2」は白紙撤回に至った第一次移転計画を中心にまとめました。

≪新築校舎の設計≫
御成小(補正
 図は永野教授が講演の際に参考資料として配布された紀要「鎌倉市立御成小学校改築の諸問題」に添付された2枚の図を使わせていただきました。左側は新築計画の概要が示されています。御成山(図左端)に接する校庭全体で新築工事が行われるはずでした。右の図は敷地全体を左下から右上へと斜線で二分したもので、1984年5月1日に御成小が保護者に配布した文書の模式図の一部です。上部の白い部分(校庭)には、「遺跡は1~2層で表土は2mほど」、下部(校舎)には「「遺跡は6~7層で表土は6~9m」と書き込まれています。記載内容はいずれも「虚偽」とみなされました。

≪揺れる移転計画≫
 御成小の遺跡は、行政が校舎の改築場所を移転させる有力な理由づけとして安直に使ったことに端を発し、ついには国内でも重要な中世・古代遺構として、出版物やメディアを通じ、全国に知られるようになりました。でもまだ見ぬ埋蔵文化財の評価を校舎移転の理由にしたことが、不幸な出発となりました。つねに校舎の建設だけを先行させてきたことは、文化財行政の姿勢に大きな禍根を残すことになったのです。

 1984年12月、御成小の父母の一部と卒業生の有志、市民、専門家たちは初会合を開き、「御成小移転改築を考える会」が発足しました。20年、30年と御成小の父母は血の出るような活動を続けてきました。これまで御成小がらみで26回のシンポジウムが開かれ、解剖学者養老孟司、作家永井路子さんらが登場し、日本を代表する建築家が手弁当で参加しました。

 この市民運動の難しい点は、民間企業の計画に反対する、いわゆる「民民問題」と異なり、市教委の計画に反対するという父母にとっては学校に子供を託した中での活動であったことです。以前から鎌倉市では、学校を改修する際に「鎌倉方式」と呼ばれる手順を踏むのが慣習になっていました。改築計画の素案づくりの段階で、教師たちからなる「改築準備委員会」が学校側に設置され、現場や父母の意見を市教委に伝える役割を担っていたのです。このため改築の詳細な内容が市民に直接伝わることは稀でした。

≪中世武家屋敷跡・古代木簡発掘≫
 発掘調査が終わる直前の1985年1月、新校舎建設予定地の校庭の地下に古代の建物遺構があることが分かりました。それまでに発見されていた中世武家屋敷の塀部分を発掘していた調査員は、校庭の地下2mのところで平安時代の「基壇状遺構」を見つけたのです。中世の建物は平安時代の建物の上に建造されていました。掘り下げるにつれて直径1mを越す柱穴の跡が現れました。1週間後には42個の柱穴が見つかり、巨大な建造物の存在が明らかになりました。

 1985年10月23日、26㌢の木簡が校庭から見つかりました。1㍍ぐらい地面を打ち抜いたところ出てきたものです。古代についてはは古文書はないと市役所は言っていたのですが、まさに古代の古文書が見つかったわけです。中世の地層の下に古代の郡衙(郡役所)があるということは否定できなくなりました。木簡発見の翌日、古代史関係者らが発掘現場を訪れたのですが、木簡出土のことは完全に葬られました。木簡発見を伏せた事実は、改築計画への影響や、木簡の重要性を考えると重大な問題行為です。

 御成小遺跡は行政が校舎の改築場所を“移転”させる有力な理由づけとして、安直に使ったことに端を発し、ついには国内でも重要な中世・古代遺構として、全国に急速に知れ渡ることになりました。移転改築の第一次案ともいえる最初の計画は、1985/86年度事業(86年3月着工、87年3月完成)として決定していたのですが、1986年に14億3000万円の予算は、未執行のまま白紙となりました。

(コメント)
 中世武家屋敷や古代郡衙跡など貴重な遺跡の存在が確認されている御成小校庭への第一次校舎改築計画が遺跡保全管理の声に押されて、白紙撤回されたという御成小問題の核心部です。文化財行政が教育委員会の一環に組み込まれてきたことが問題の本質をなしています。どこでも同じような態勢なのでしょうが、鎌倉のように膨大な文化遺産を抱えるまちでは、教委から切り離して強固な文化財行政を構築する議論がなされてもいいのではないでしょうか。

由比ガ浜海開きでブルーフラッグ掲揚(由比ガ浜の国際認証5)

(7月1日)梅雨の晴れ間となった1日朝、由比ガ浜海岸の海開きで、国際認証のブルーフラッグ(BF)が夏の空に無事掲揚されました。直前の下水放棄による大腸菌汚染で一時は、予定通り掲揚されるかどうか赤信号も灯されましたが、国交省も巻き込んでの緊急対策で元の水質確保を達成してのBFの掲揚となりました。青い空、青い海に映える青い旗は、鎌倉市民の誇りとして認知され、受け継がれていくのでしょうか。
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由比ガ浜の海開きで掲揚されたブルーフラッグ、右は海開きの式典会場(高木治恵撮影 2016.07.01)

 海開きの式典でBFの国際認証機関FEE(国際環境教育組織)の日本支部FEE Japan代表理事伊藤正侑子さんは、アジア・日本初のBFに思いを込めて挨拶されました。
 「1985年歴史の長いフランスでスタートしてから31年。由比ガ浜で旗がなびくことになろうとは誰も思わなかったと思います。感無量です。5年前に韓国で始めようとしたのですが、まだ取得できていません。由比ガ浜に次いで韓国は来年こそ取りたいと頑張っています。アジア初、日本初のフラッグがあがったことを皆さんにぜひ誇りとしていただきたいと思っています。BFビーチは写真にあるようにきれいな白い砂と青い海に与えられた認証ではありません」

 「33の厳しいチェック項目をクリアし、またクリアし項目の履行を続けていかなければ、旗を上げ続けることはできません。旗が上がっていることはみなさんの誇りであり、プライドと思っていただきたい。これから認証される多くのアジアの海の模範になるようなすばらしい由比ガ浜のビーチであっていただきたいと心から祈念いたします。そして世界49か国、4271か所のビーチの仲間からの心からのお祝いを代わって述べさせていただきました」

 由比ガ浜沿いの国道歩道下にある圧送管の破損で下水を海に放流したことによる水質汚染のトラブルについて式典終了後、改めて伊藤さんに聞いてみました。一時は時ならぬ大腸菌騒ぎに巻き込まれ、BF認証も返上しなければいけないのではないかとか、今年からのBF掲揚の延期もあるのではないかといったうわさも流れていただけにFEE側の対応を注目して見守っていたところでした。伊藤さんはFEE本部から❶継続的に水質をきちっと管理しておく❷汚染による環境への影響が目に見えているものだけではない部分も含めて、きちんと監視、管理を続けていくという具体的な指示があったことを明らかにしました。

 海開きの式典では水質汚染と闘った工事関係者は、「由比ガ浜でBFの認証が決まったというタイミングで、残念ながら下水の放流を余儀なくされました」として、水質汚染騒ぎを振り返りました。さらに「仮説送水管に使っている塩化ビニール・パイプは非常に熱に弱いので、よしずをたくさんかぶせたるて日射を避けていますが、逗子、藤沢とともに3市が共同で取り組む夏なので鎌倉市民にもご理解いただきたい」と依然不安定な状況にあることを暗に認めていました。

 BFの掲揚を何とか実現させようと国交省では下水道部が関係業者に呼びかけ、官民一丸となって塩ビ・パイプをかき集めたというエピソードも式典で紹介されました。由比ガ浜のBF認証にあたっては、情報掲示板の設置やキャンピング規制などいくつかの条件をクリアすることを求められていましたが、これも何とかメドが立ってギリギリでBFが掲揚されました。FEE Japanは近くFEE本部に条件に対する鎌倉側の対応について報告することになっているとのことです。

 文化遺産に対する市民の誇りは、日常的な維持管理によって担保されます。同じように景観や環境、水質保全など鎌倉の海に対する市民の誇りは、日常的な維持管理によって担保されることを、市民はBF掲揚に至る一連の経験の中で学ぶべきではないのでしょうか。


御成小学校で何があったのか(永野征男・日大名誉教授の講演1)

(6月27日)日本大学名誉教授永野征男さんの講演会「壊したくない眺め~御成小学校改築計画から見えたこと」が開催されました。1984年に表面化してから30年を越える行政と市民の対立の構造を改めて取り上げたものです。緑の洞門など開発問題の原点ととらえ、中世武家屋敷跡、古代郡衙跡という壮大な遺跡が、校舎改築という「教育」を盾にしてもてあそばされる歴史都市の現実が浮き彫りにされました。資料として提供された日大自然科学研究所「研究紀要第40号」と併せて、永野さんの講演の論旨を整理してみました。
DSC03726御成山の麓に広がる御成小グラウンド(高木規矩郎撮影 2016.02.20)
≪御成小問題とは≫
 鎌倉山、由比ガ浜、緑の洞門など開発問題の原点です。行政とはいつまでたっても同じことしか考えないということが分かります。文化財関連の諸問題と関連性が強く、克明に御成小の問題を理解してもらった方がいいと判断して講演に応じました。市民であっても御成小という伝統校に起きた実態はよくわからないし、真実は見えていません。1984年に北鎌倉の知人の女性から「御成小が変だわ」と言われたのが、そもそものきっかけでした。

 御成小の改築計画は“改築”といいながら現在の校舎と同じ場所ではなくして、小学校の背後に広がる御成山の山裾(校庭側)へ新校舎を建設する、長年の校舎と校庭のレイアウトを変更する“変更”をともなう計画案でした。この移転の最大の理由(現在の校舎側では不可)は、現校舎下のまだ見ぬ埋蔵文化財との整合性に因っていました。新校舎は御成山の山裾に造る計画がたてられ、移転理由として使われたのが埋蔵文化財でした。

≪埋蔵文化財発掘調査≫
 校舎改築計画の公示前の1983年7月に早々と市教委は学内で埋蔵文化財の「試掘調査」を実施しました。調査団は10か月契約で8か所の小さな穴(2~4m四方のテストピット)を掘削しました。掘削中の出水で、最終的に5か所のみのデータしか得られませんでした。御成小を含む一連の遺跡群は今小路西遺跡と呼ばれ、移転が計画されている校庭の地下を掘りました。年内にテストピットの報告書が出されています。

 中世の歴史都市として資料が豊富であり、市民は「鎌倉は歴史の宝庫」との感覚でとらえています。国は文化財保護法、古都保存法の2つの法律に基づいて遺跡を守ろうとしました。文化・歴史都市を標榜してきた鎌倉市としては、移転改築問題で市民を説得するには、埋蔵文化財が最適と考えたのでしょう。その後の改築の説明文書には、埋蔵文化財との調整に多くの紙面が費やされました。

≪陳情・逆陳情の応酬≫
 試掘資料に基づいて、1984年6月には新任の校長が御成小の全父母にあてて改築計画概要書を配布しました。そこには移転の最大の理由が埋蔵文化財との関係であると明記されていました。市教委が4月中旬に学校側に説明したのと同じ内容でした。校地は便宜的に校舎側と校庭側に二分されていましたが、地下の遺跡の状態から校庭側の遺跡を軽視したにすぎないものでした。

 1985年2月からの1年間、多くの市民が改築の手続き面で行政と話し合いをもちました。市民からの陳情書は、改築計画の再検討を求める主旨を詳細に記し、賛同者からの署名を集め1985年2月13日に提出されました。短期の署名期間にもかかわらず14000名の署名が集まり、その80%が市内居住者でした。市外居住者の多くは御成小の卒業生でした。その後6月には当時の教育長は学校側の説明が誤っていたことを認めました。

 市民らが改築反対のため陳情しようという動きが分かると、市は虚偽の説明文を父母に配布し、市の移転計画が科学的に計画されたものであることを訴えようとしました。父母を改築賛成へ誘導し、反対運動に対抗する逆の陳情(賛成)を狙った動きでした。いわゆる「逆陳情」と呼ばれるもので、市民からの陳情書が出された4日前の2月9日に、御成小PTA組織(御成会)から在校父母の60%にあたる411名の署名を集めて提出されました。

 御成小をめぐる市民と行政の対立の歴史には、古都鎌倉に相応しくない真実がかくされています。❶ 2度にわたる校舎改築計画の白紙撤回❷学校がなければ国指定史跡だと言われた中世、古代の遺跡の発掘❸鉄筋校舎への改築設計で補助金のゼロ査定❹市文化財専門委員の総辞職❺重要文化財「木簡」の発見と行政による発見の隠蔽へと異常事態があいつぎました。(つづき)

(コメント)
 御成小学校といえば頭にあるのは旧講堂のことだけだった私にとって、小学校そのものの激動の歴史を改めて突き付けられ、積み上げられる事実に驚かされています。講演を聞き流すだけではなく、自分なりに整理してみようと思いました。そして鎌倉における「開発と歴史(遺跡)」という運命的なテーマに沿った象徴的な“事件”だということを強く感じました。

 それにしても旧講堂のことを考えれば30年にもなる古い住民運動がなぜ今、掘り起こされたのでしょうか。永野さんも冒頭で言っておられた「鎌倉山、由比ガ浜、緑の洞門など開発問題の原点」という位置づけに、疑問を解くカギがあると思います。この視点に立って、次回ブログに挑戦していこうと思っています。それにしても「御成小から見た緑の洞門」の分析について永野さんにお聞きしてみたいですね。




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