鎌倉歴史文化都市の光と影~30年後のたたずまいを見据えて

鎌倉市在住のジャーナリスト高木規矩郎による公式ブログ。世界遺産登録挫折に続く鎌倉の歴史まちづくりの真実を探る。

真っ暗な海にかすかな航路灯(大規模商業施設建設計画70)

(8月17日)由比ガ浜の商業施設・共同住宅建設計画について、事業者と地元住民の対立の帰趨を見る上で重要な意味を担っている鎌倉市の考えを聞き出そうということで、「各課協議」の内実に迫る住民と担当課との2回目の協議が14日に市で行われました。住民側の疑問を代弁する弁護士呉東正彦さん(横須賀市民法律事務所)が提出した24件の質問事項に回答を求めたものです。住民側の鋭い追及に対して行政側が本音で切り返す場面もあり、緊迫したやりとりになりました。
由比ガ浜市民で賑わうビーチフェスタの
      市民で賑わうビーチフェスタの由比ガ浜(高木治恵撮影 2017.05.28)
 7月24日に行われた第1回協議では、由比ガ浜の開発をめぐって行政側の基本的な立場を知るために事業者が昨年夏に行った交通シミュレーション調査を中心に議論が展開されました。今回は前回の協議を受けて住民側は、24件の質問について行政側の回答を求めました。行政側からは都市調整課の古賀久貴・課長ら11人、住民側からは呉東弁護士をはじめ反対運動を展開している12人が参加しました。

≪開発反対の基本的スタンス≫
 質問への回答に先立って、古賀課長が「みなさんの開発反対のスタンスを知りたい。話し合いをしても最後に絶対反対ということでは意味がない」と住民側の意向を質しました。従来の住民交渉というと行政側は一歩退いて、住民側の「ご意見拝聴」という姿勢が目立ちましたが、今回は行政側の先制パンチでもあり驚かされました。これに対して住民側は「事業者、鎌倉市、住民でどんな商業施設なら受け入れられるのか話し合いたい。われわれとしては住民の意向に沿うものなら受け入れる。事業者は今の方針以外は余地はないと言っている」と柔軟姿勢ともいえる対応を見せました。

 一方で地元住民組織のThink Yuigahamaが中心になって展開している開発反対署名は、フェースブックだけでも7万を越え、市内の100店舗が署名簿やチラシを置いて反対運動の拠点となっていると住民側は運動の現況を説明しました。海岸沿いの国道での右折レーン建設については、行政側は「何らかの措置が必要で、市としては右折レーンを造るという前提で考えている。何とかまとめてほしいと藤沢土木事務所には言っており、事業者、県警とも協議を進めていく段階である」と慎重な姿勢に終始していました。

≪市長選とのかかわり≫
 次いで住民側から提出された24件の質問に対する行政側の回答が示されました。まず「各課協議」にかかわる「課」については「風致担当、導水路管理、道路、下水道河川、公園、都市景観、市民安全、文化財課など関連10課以上がこれまでに16回の協議をおこなってきた」と現状を説明しました。また市長選を前に北鎌倉洞門問題や山崎ゴミ処理場問題が手続き停止になっているのに、由比ガ浜の開発問題が進行しているのはなぜかとの質問に対しては「市長選は開発の手続きとは関係ない」と断言していました。

≪2工区の提言≫
 「開発企画が商業施設と共同住宅の2工区にするよう提言したのは、鎌倉市だとの説明を事業者(大和情報)から受けた」と事業者との水面下での接触をにおわせるようなショッキングな質問もありました。「市が事業者側にこうしなさいというようなことはない」と原則論で否定しました。一方で「今回の施設だけということでは可能性としてはあり得る。だがまちづくり行政の手続きからやり直せということではない」と微妙な回答でした。

≪右折レーンは必要なのか≫
 「市長の指導助言、市議会決議の中では右折レーンは必要だとされているが、直接かかわっている交通企画課はどう考えているのか」との質問に対しては、「設置すべきだと考えている。慢性的な交通渋滞、円滑な運行を保つためにも必要だ」と担当部局は明快に答えていました。右折レーンに関しては、異なる担当課でも統一見解ができていないようで、「今後も協議の場を設けてほしい。結論はもう少し待ってほしい」ということで妥協しました。

≪埋蔵文化財試掘調査≫
 「試掘の今後の手続きと全体の法的手続きの中での位置づけなどについて教えてほしい」との質問では、試掘を行った文化財課が「文化財保存法に基づき、本格的な発掘調査について県に届出をする段階」と現状を報告しました。さらに交通計画課が「遺跡が出そうなので発掘調査となった」と補足説明しました。「現状打開するには鎌倉市が土地を購入するしかないが、現状では無理な話。開発の形を変えるのが助言指導である」と古賀課長が協議を総括して答えました。

≪公務員の先入観突き破るパーソナリティー≫
 2時間半にわたって市側の前面にたって住民側に対応していたのは、都市調整課の古賀課長です。「みなさんのスタンスを知りたい」と冒頭で強く住民側に迫り、「このままではいけない」と市側の対応の遅れにも本音で触れていました。協議後に集まった住民の間でも(新しいパーソナリティー)といった評価が聞かれました。

 「まともに話して議論に持ち込める初めてのタイプ。これまで由比ガ浜の開発では古賀さん的な人間があまりにも少なかったですね。でもその古賀さんも最後には市長の意思をどうやって動かしていけるかというところで、限界を感じました。少なくとも古賀さんも参加していただいて今後の協議をつづけていけたらと思います」
 Think Yuigahamaの事務局長、兵藤沙羅さんは真っ暗な海にかすかに光る航路灯を見出したかのように語っていました。

「20世紀どんな時代だったのか」との出会い(「私の20世紀」を生きて❸)

(8月日11)あしかけ4年ぶりの東京本社で、カウントダウンが始まった20世紀、足音が次第に大きくなってきた21世紀への思いなどを気の向くままに追っていました。そこへ飛び込んできたのが20世紀を検証する企画でした。海外駐在が20年近くになり、国内や本社でも浮き上がった存在だっただけに受け入れるべきかどうか迷いました。その一方で自分なりに20世紀を振り返って、その意味を探るには願ってもないチャンスだとの思いもありました。
20世紀革命中公文庫20世紀革命より
≪タイトルの決定≫
 ニューヨークから戻った1996年秋、編集委員室で新聞を読んでいたとき、社会部出身の先輩編集委員から声をかけられました。「国内は私、国際社会は高木さんで20世紀を振り返る長期連載企画をやれないかと編集担当役員から相談されたのだけれどどうだろう」と突然の話でした。たまたま21世紀に入った直後の2001年1月の誕生日に定年を迎えるので、「それもいいですね。まさに20世紀とともに去りゆくですか」と脳天気に答えました。

 日本と世界、戦前と戦後、さらにさまざまなジャンルにわたり対象はあまりにも茫漠としています。企画から担当記者の選定まですべて任せるとのことでしたが、考えれば考えるほど気が重くなってきました。「テーマの設定も2人が中心になって考えてくれ」、「編集、デスクワークの仕事だけでなく取材も国内、国外どこでも自由に行ってくれ」とも言われました。

 でも最初から厳しい現実に押しつぶされそうになりました。まず企画のタイトルを決めようと他の編集委員も加わって、議論を重ねました。10件ほどのアイデアを持ちよって幹部のところに行きました。「どれもつまらないな」とはねつけられ、「これでいいのではないか」と押し付けられた「世紀どんな時代だったのか」に決まりました。社会部編集委員は無言のままでした。険悪な雲行きのなかで企画はスタートしました。

≪自主勉強会の開催≫
 政治、経済、国際、文化部など編集局の精鋭デスクに声をかけて、当面の企画担当デスクとして「20世紀企画室」に出向してもらいました。読売新聞大阪本社、西部本社にも企画にかかわってもらうことになりました。専門分野の思惑が食い違って、企画の構成を決めるにも延々と議論が続きました。「革命」「戦争」「科学」「戦後の高度成長」「大衆文化」「アメリカの世紀」と20世紀を象徴するキーワードでテーマを出し合いました。

 歴史、とくに近現代史にうとい記者だけだと検証作業などにも支障が出かねないとみて、テーマ選定や歴史用語などについては、大学教授や専門家などを随時委嘱してチェック体制を強化しました。神戸大学教授(当時)の五百旗頭誠や国立国会図書館の憲政資料担当専門家(当時)広瀬順晧らには、記者の自主勉強会を開いて専門分野についての解説をしてもらい、「革命の世紀」でロシア、中国に専門記者を派遣しました。

≪想定外の事件発生≫
 企画が動き出して半年ほどして、まったく予期していなかった“事件”が起きました。「なんでも自由にやってくれ」と言っていた約束が最初から反古にされたと思ったのか。タイトルが決まったころからもう1人の担当編集委員の積極的な発言が次第に少なくなってきました。取材陣を送り出し、体制が何とか整ってきた段階で「とてもついていけない。あとはよろしく」と企画から離脱してしまったのです。

 2人のキャップ体制で始まった20世紀の検証は、残された国際部出身の私にすべて追いかぶさってきました。外国駐在の時期が長かったため、国内の人脈はほとんどなく、社内的にも政治、経済、文化、科学部などとのつながりもありません。だが幹部や周辺の関連部などからは20世紀体制批判の声や新規出直しの動きは上がってこなかったので、「定年もまじかで駄目ならそれまで。やるしかない」と腹をくくりました。「終戦50年」を何とか乗り切ったアメリカでの取材体験が、怖いもの知らずの根拠のない自信となっていたようです。(つづく)

ニューヨークから東京へ(「私の20世紀」を生きて❷)

(8月4日)ニューヨーク駐在編集委員としての折り返し点だった94年8月はじめペンサコーラ(フロリダ)の取材先で軽いめまいを感じたのは、脳梗塞の前兆でした。予期すらしなかった発病で入院、リハビリを余儀なくされました。何とか取材活動の再開が可能となり、「対米進出の先駆者たち」の日系人、日本人の実態を追いました。20世紀検証企画の外堀は少しづつ埋められてきました。
アーウィン・ユキコ
     「対米進出の先駆者たち」で体験を語るアーウィン・ユキコ(高木晴恵撮影1996)
≪病魔に襲われて≫
 終戦50年の取材が一段落し、真っ赤なジャガーのレンタカーで中絶テロが激しくなったフロリダの社会情勢を追っている最中のことでした。めまいが消えないので、ペンサコーラの脳外科病院に救急車で運ばれ集中治療を受けているうち、言葉がもつれ始め麻痺が左手脚に現れてきました。二週間の入院ののち、車いすでニューヨークに戻り、半年間にわたるリハビリ生活が始まりました。

 医師の許可が出た95年3月はじめ、終戦50年の特集企画の取材再開で、在米被爆者の現状を聞こうとサンフランシスコに飛び、その日のうちにロサンゼルスに移動しました。空港から乗ったタクシーが高速道路に入る直前の交差点で大型トレーラーの横っ腹にぶつかりました。健康管理で同行していた妻ともども頭を強打し、一時意識を失いました。収まっていた麻痺が再び現れました。

≪対米進出の先駆者たち≫
 事故で病気の全快はやや遅れましたが、顔に大きな青あざを残しながらも取材を続けることができました。戦前の日系移民や戦後アメリカに経済・社会基盤を築いたパイオニアたちに日米関係の原風景を探ろうと新たなシリーズにも挑戦しました。米国ミノルタや米国ソニーなど進出期の苦労についての証言が続きました。まさに日系人、日本人のアメリカ発見の物語でした。

 クリストファ・コロンブスら歴史上の人物の末裔7人を取り上げた米ライフ誌の特集で、米国建国の祖ベンジャミン・フランクリンの直系七代目として紹介された日米混血女性アーウィン・ユキコ(故人)もその1人でした。日本に移住して日米国際結婚の第一号となったフランクリン五代目の息子と神戸で結婚し戦後、夫の父祖の地アメリカへ移住しました。

 ユキコは発病で帰国して離婚、東京で身に着けた指圧の技術をもとにニューヨークに定住しました。「アメリカこそ私が生きていける国。ダイナミックで進取の気性に富み、個人主義の本質をわきまえ、変化を受け入れようとする。私はまさにフランクリンの生き方を体現してきた」というユキコの言葉には歴史の資産があればどこでも生きていけるという自信がみなぎっていました。

≪ニューヨークから東京へ≫
 ニューヨークでは主に「戦後50年の証言」、「対米進出の先駆者たち」を通して、私は無意識のうちに20世紀の証言と物語を求めていたのかも知れません。とくにニューヨーク駐在時代に知り合ったライシャワー日本研究所所長だった入江昭(ハーバード大教授)、日本文学研究家ドナルド・キーン(コロンビア大教授)先生には、20世紀検証企画の強力なサポーターとなっていただきました。

 96年3月、半年の発病と事故による空白期を含めて3年半に及ぶ駐在を終え帰国しました。編集委員室は相変わらず同じ顔触れで、みな黙々と自分のテーマに徹して取材活動を展開していました。こんな調子で定年まであと5年、大きな変化もないまま任期をこなすことになろうと予想していました。1年後に20世紀を総括するといった激流に巻き込まれるとは夢にも思っていませんでした。(つづく)

20世紀検証の心準備となった終戦50年(「私の20世紀」を生きて❶)

鎌倉ペンクラブ会報(No.17 2017.7)に21世紀直前の取材体験記「私の20世紀」を発表しました。ブログ用に一部リライトして報告します。
(8月1日)記者として36年間勤務した読売新聞社を新世紀になったばかりの2001年1月26日の誕生日に定年で辞めました。検証企画「20世紀どんな時代だったのか」にぎりぎりまでキャップとしてかかわってきました。「20世紀」とのかかわりとは何であったのか。どんな意義があったのか。編集委員から検証企画へとあわただしく過ぎ去った20世紀最後の10年間を振り返ってみました。
メモを頼りに憲法作成の思い出を語るケーディス(1)GHQ時代のメモをたよりに憲法制定の思い出を語るケーディスさん
(高木治恵撮影 1994年春)

≪編集委員でニューヨークへ≫
 編集局国際部デスクワークの現場にいた私に編集委員の打診があったのは、中東総局長として赴任していたカイロから帰国して1年もたたない1991年のことでした。当時の編集委員は年輩記者の掃きだめのようなところもあり、「とうとう閑職においやられる年齢になったのか」と悄然たる思いでした。だが現実は91年1月に始まった湾岸戦争に追い立てられ、あわただしい日々でした。

 「駐在編集委員としてニューヨークに行ってくれないか」と国際部の部長から声をかけられたのはそんな時期でした。92年秋に初めてのアメリカ大陸に降り立ちました。事件や戦争、テロなど生のニュースを追うのは若い特派員にまかせ、アメリカ文化やアメリカ社会など自由にテーマを見つけて取材をしました。対日関係も大事なテーマでした。太平洋戦争の終戦50年という節目の年の95年が目の前に迫っていて、終戦関連企画が中心テーマとなってきました。

≪終戦50年のはざまで≫
 できるだけ太平洋戦争の生の証言をとっておこうと思い、まず日本国憲法草案作成の中心人物だった元米陸軍大佐チャールス・ケーディスに焦点をあてました。インタビューを取り付け、94年春にマサチューセッツ州の標高1000㍍の山荘を訪れました。憲法はアメリカの押しつけではないかと日本で憲法論議が続いていました。そこでだれが発案者だったのかなど第九条戦争放棄条項に焦点を合わせ、GHQでの体験を聞きました。

 「46年2月3日、民政局局長ホイットニーから手書きの『マッカーサー・ノート』を渡された。自己の安全を確保するための手段としての戦争の放棄など3つの原則に触れていた。『マッカーサー元帥はこの原則を憲法に入れるよう希望しておられる』とホイットニーは言っていた。だから発案したのはマッカーサー自身だったと考えるのが正しいのではないか」

 GHQ民政局メンバーで二二歳という若さで草案作成チームに参加し、日本女性の社会的地位の向上に尽力したベアテ・ゴードン・シロタ女史とは、ニューヨーク州ロングアイランドの自宅で会いました。たった九日間で草案が整えられた謎について語った。マッカーサーの命令で草案に女性の権利の条項を織り込むことなどで、憲法作成にかかわることになりました。
鎌倉の棟方志功記念館を訪ねたシロタさん棟方志功記念館(鎌倉)を訪ねたベアテ・ゴードン・シロタさん(高木治恵撮影)
 
  「憲法の学者だったり、弁護士だとしても憲法を書けるというわけでもありません。われわれが素人だったということは、そんなに不思議なことではないでしょう。9日間でできた憲法が50年間続いて、あなたたちの国のためになった。たった9日間でも何かができるということです」と明るく応えたのが印象に残りました。ベアテの証言はあっけらかんとして、敗戦国日本の運命を決めるといった気持ちの高ぶりは感じられませんでした。素人のかかわり、短期間の草案作成・・・いとも簡単に日本人の憲法の常識を破ったことはむしろ驚きでした。


 95年2月から連載が始まった「終戦50年の証言」シリーズでは、「占領下の言論統制の実態」、「にっぽんの軌跡~二つの祖国」や「日系人独自の第442部隊についての上院議員ダニエル・イノウエの証言」などを取り上げました。米国駐在当時はまったく考えていなかったし、本社の誰からも言われたこともない20世紀検証企画ですが、ニューヨーク時代にめぐり合った終戦50年の企画とあいまって、無意識のうちに「20世紀」に向けての心の準備ができつつあったと思います。とくに「戦争の世紀」の20世紀に一人一人の人間が、その時代とどのようにかかわってきたのかという構想が次第に具現化しつつあったと思います。(つづく)

行政の決断迫る住民の声(大規模商業施設建設計画69)

(7月27日)由比ガ浜の商業施設・共同住宅建設計画は、埋蔵文化財調査に先立つ試掘調査が行われ、大規模小売店舗立地法に基づく審議会の開催、住民の意見書提示等を経て事業者側は、着工に向けて地固めを進めています。「老若男女が集える緑多き公園」など代替案を掲げて工事の差し戻しを図る地元住民は24日、新たに弁護士も加わって、由比ガ浜の開発をめぐる「各課協議」を中心に行政の動きを質しました。

≪各課協議の現状≫
 工事計画はまちづくり条例に基づく手続きは終了し、事業者と市との「各課協議」が行われています。「各課協議の状況を説明してくれ」との横須賀市民法律事務所の呉東正彦弁護士の要請に対し、交通量調査を主導している鎌倉市緑政都市部交通政策課の担当は、「6月9日の事業者側からの依頼で、代理人と関連動議を検討しており、今後各課協議に移る」と言っていました。

 各課協議の主題である交通量調査については、住民側から「事業者が昨年8月に行った交通シミュレーション調査では慢性的渋滞状態の悪化が見落とされているのでは・・・」との疑問が提示されました。これに対して市側は「134号国道での渋滞悪化については事業者側からの方針も出ている。右折レーンは形も含めて、検討されている」との回答でした。

≪影薄い市長助言・指導と議会決議≫
 住民との質疑応答の中で気がかりだったのは、市側の対応がまちづくり条例に基づく松尾崇・市長の助言・指導と鎌倉市議会での決議内容とで微妙な隔離が感じられたことです。「議決が出ても出なくてももともと市と住民の間には溝がある」など発言には、突出した内容のものも見受けられ、とまどいました。

≪各課協議の順延を測って≫
 交通問題にからむ最後のやりとりで、「各課協議の中で事業者に現状を悪化させることのない客観的に有効な解決策を示させ、それが見い出せないならば、協議を成立させないよう要請する」という事業者に対する住民側の新たな攻勢のシナリオが見て取れます。その手の内のひとつが弁護士の介在だったのではないでしょうか。行政との連携を強化し、事業者側の動きを封じ込めようというものです。

≪埋蔵文化財試掘調査≫
 交通量調査に絡む各課協議の見通しとともに地元住民が関心を持っていたのは、現地での埋蔵文化財発掘調査がらみの動向です。歴史まちづくり推進担当文化財課で確認したところ、7月19日から1週間にわたって予定していた埋蔵文化財試掘調査は実働は1日半で終了したとのことです。工事予定地の7か所で2㍍四方、深さ3㍍の試掘を行い、発掘の是非を決めることになっています。

≪呉東弁護士の見解≫
 原子力空母の横須賀母港化を考える市民の会などでも活動しておられる呉東弁護士は、由比ガ浜開発での市民と鎌倉市の動きについてコメントしています。
 「横須賀では世論が大きく分かれるテーマに取り組んでいます。鎌倉では世論をバックにきちんと役所を動かしていける市民の団結力が力です。由比ガ浜でも十分に市民全体の支持が得られる内容です。こうした市民の声を役所に伝えていきたいと思いました」と住民にエールを送っておられます。

≪弁護士の支援を要請した住民の考え≫
 横須賀に勤務する開発予定地の近隣住民は、開発計画が進行する中で住民の意見や要望が、事業者はおろか、助言・指導の立場である鎌倉市にも反映されていない実情にしびれを切らし、呉東弁護士にコンタクトし、助言をあおぐことになりました。

 「市は事業者の言うがままではないかとの印象に至った頃、弁護士の事務所に伺いました。事務所での面談で、弁護士の活動が開発事業計画への対応が中心であり、行政や事業者への対処方法の経験値が多い事や、少なからず鎌倉にも関心を持っている事を伺い知ることになりました。そこで、行政、事業者との交渉のノウハウをご指導いただくことになりました」と語っています。

(コメント)
 次回の呉東弁護士と現地住民の鎌倉市との面談は8月14日(月)に行われることになりました。弁護士と市の関係部署との日程調整で決まったものです。次回も「各課協議」について市側の動きをウォッチしようというものです。由比ガ浜の開発ではこれまでは事業者の説明会と市への意見書の提出などに限られていました。

 その結果、住民の考えが十分伝わらないうちにいつの間にか既成事実化だけが進んでいく現状のように思えます。ショッピングセンターに併設される共同住宅は、外国人の入居を軸にして考えられているなどのうわさも聞きました。こうした状況に危機感を抱いた現地住民が、行政の動きを牽制していくために急きょ考え出したのが弁護士の介在というシナリオなのではないでしょうか。

今年も煙害うらめしの花火大会

(7月20日)ノーアルコールの鎌倉花火のはずが、実際はアルコール持ち込んで適当に楽しんでいるようでした。海の家では自由飲食。スピーカーは繰り返し「お酒は砂浜で飲まないで」と興ざめの注意喚起。ビールを置いてない屋台は何となく手持無沙汰のようでした。第69回鎌倉花火大会が1度は中止の発表に追い込まれたものの、何とか復活しました。でも今年も煙害でせっかくの大輪も形が崩れ、色あせてしまいました。
目の前でドカーン
     目の前でドカーン、真っ赤な火炎に大歓声
≪抜け穴だらけの禁酒条例≫                          
 「海浜事業者が設置する店舗以外の場所で飲酒すること(公共性又は公益性の高い行事等を 行う場合であって、市長が特に認めるときを除く)」                             
 2015年3月に制定された「鎌倉市海水浴場のマナーの向上に関する条例」にある砂浜での飲酒の禁止を定めた条項です。昨年に続いて今年の花火大会でも由比ガ浜と材木座海岸で市条例が適用されました。
煙がまだたなびかないうちの打ち上げ
     煙が視界を遮る前の水中花火
 でも実際には条例の効果は薄いように思えます。鎌倉市市民活動部観光商工課によると今年の人出は、昨年同様15万人で、中止発表に追い込まれた大会への影響は最小限に抑えたようです。条例の適用外になっている海の家では、予約している花火客でほぼ満席で、飛び込み客を受け入れる可能性はほとんどありません。条例のことを知らずに持ち込んだ見物客が公然と条例に反してアルコールを飲む光景があちこちで見られました。
煙2題
     花火+煙2題(いずれも高木治恵撮影 2017.07.19)
≪ハワイでは違反者には罰金≫                        
  壁やドア一枚で飲酒の是非が決められるというのも感覚的にはなかなか受け入れられません。赤い顔をしていても「花火大会の会場に来る前にのんだものだよ」と言われたら、どう対応しようというのでしょうか。マナーアップ条例は形だけのざる法というのが実態のようです。会場を回ってアルコールを飲んでいるかどうかを監視する警備員も、違反者を見つけてもありきたりのことしか言えない現実にお手上げ状態のようです。

 では条例の是非を考え直そうということになるのでしょうか。ハワイのワイキキ海岸近くのレストランで働いている従兄に聞いてみました。「ハワイではビーチでのアルコール摂取は罰則が課せられ罰金となります。たしか200ドルから1000ドルぐらいですので、ワイキキビーチなどではアルコールを飲んでいる人はほとんど見かけません」と驚くような情報でした。効果を生み出すためには、罰則も考えなくてはならないということなのでしょうか。

≪欠ける大輪≫                                
 今年も打ち上げの煙がたなびいて、大輪の輪が欠け始めました。鎌倉市で従来から”煙害”の対策がないかどうか考えてきました。風向き、風速などの計測によって、風が強いと「中止」なども考えてはいます。だが市では微妙に変わる風向きなどの変化に迅速に対応するのは難しいと言っています。私たちは由比ガ浜4丁目交差点の江ノ島よりで見ていましたが、最後は打ち上げの際の煙が砂浜ぎりぎりまで覆い、眼も開けられない始末でした。

 滑川河口の砂浜の先端にいた娘や孫からは西風なので、よく見えたとのことでした。自然相手のことなので、いかんともしょうがないところもありますが、せめて風向きを知らせてくれれば、見学のポイントも考えられるはずです。10年以上にわたって“煙害”の思い出しか残っていませんが、最近では煙も取り込んだ写真を狙うようにしています。海の花火大会の意味を積極的に考えようというわけです。

常設展と特別展(歴史まちづくり担当桝渕規彰部長に聞く❺)(鎌倉歴史文化交流館7)

(7月11日)5月に新設オープンした鎌倉歴史文化交流館の運営にあたって、鎌倉市では、今後どのような展示構想を考えているのでしょうか。「モザイク都市鎌倉」が展示のコンセプトになっているということでしたが、御成小学校の遺跡展とか、武家の古都遺跡展とか、やぐら展とか永福寺展とか、段葛修復の結果をアピールするような時期に応じた特別展を開催して、鎌倉を効果的にPRしていく特別展開催を考えているのでしょうか。歴史まちづくり推進担当の桝渕規彰部長に将来の特別展について聞きました。カッコ内は質問です。

≪鎌倉博物館の整備と合わせて特別展を構想≫
 結論から言うとオープンした歴史文化交流館は、基本的には常設の施設です。特別展の開催については、交流館単独では考えていません。今後交流館と一体として整備していこうと構想を練っていくのですけれど、(仮称)鎌倉博物館の整備の検討の中で、特別展の開催も検討していきたいと考えています。歴史文化交流館がオープンしたことで、われわれの使命が終わったとは思っていません。

 交流館を博物館として拡充していく。さらには基本構想でも述べている鎌倉博物館を整備していく。これは新たな箱をつくることではないと思います。鎌倉には登録博物館としての中世美術史に特化した国宝館があります。それから今回、歴史文化全般を扱おうとする交流館を新たに作りました。この二つが核になってさらに鎌倉博物館を構築していくということになるのだろうと思っています。

≪特別展としてのトピックス展示≫
 ただ第3展示室はトピックス展示ということなので、特別展ではないのですが「トピックス」として抽出できるものを展示をしながらやっていきます。第4展示室は出土品を中心とした考古遺物の展示スペースです。毎年生涯学習センターでやっている新発見の速報は義務として今後もやるつもりでいます。その他にも季節ものが入るのですが一角を用いて、出土品で展示をしていくようなことはやっていこうと思っています。

≪歴史文化交流館と世界遺産再挑戦≫
 (鎌倉の世界遺産登録のときのように密接な関係を持っていた逗子とか横浜などにも新しい歴史的なことがあったら、それも交流館の方で展示するようなこともあるのか)ちょっと待ってください。世界遺産登録のために交流館を使うということではないのですから、誤解ないようにお願いします。あくまでも歴史文化というものをベーシックに情報発信しましょうということです。

 基本的には鎌倉市の歴史文化でテーマを設定します。場合によっては広域的なテーマが設定されたときには、そういう協力をあおぐということもあり得ると思います。その場合は何も横浜、逗子に限らず対応を考えていきます。それは一般の博物館と同じだと思います。

(コメント)
 常設展についての構想を聞いていたのですが、交流館への導入路が造られた前庭の一一画建設を想定している(仮称)鎌倉博物館に話題が移りました。交流館と国宝館そして鎌倉博物館を一体として今後の特別展のあり方なども考えていくということです。桝渕部長は当面は特別展は考えていないとも明言されておられました。

 部長には2~3か月に一度お会いして世界遺産再挑戦についての状況を聞いているのですが、今回も「世界遺産登録のために交流館を使うということではない」と強く言っておられました。4県市(神奈川県・横浜市・逗子市・鎌倉市)世界遺産登録推進委員会で進めている世界遺産再挑戦と鎌倉市が主体となって進めている交流館プロジェクトは、別のものということなのでしょうが、それはあくまでも行政サイドの考えで、おそらく予算もからんでの判断なのかも知れません。

 でも市民の視点からは納得できません。目の前に交流館の建物や展示を見て世界遺産再挑戦とのかかわりを考えるという市民目線があってもいいのではないでしょうか。

老舗蕎麦店社長の決断で段葛沿いの遺跡展示

(7月3日)鶴岡八幡宮前の段葛沿いで中世鎌倉の遺跡が市民の手で保存され、一般公開されています。2014年11月から段葛の本格的修復工事が始まり、埋蔵文化財の調査が行われました。地下遺跡は段葛東側の商店がならぶ一角です。旧市街のほぼ全域に埋蔵文化財が広がっており、基本的には発掘された遺跡は地下に埋め戻すことになっています。でも遺跡が出た土地を所有し老舗蕎麦店・懐石料理「鎌倉 峰本」社長・長戸芳郎さんの決意で、個人資金を投入して遺跡を保存管理し公開しています。
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     ビルの一階ロビーに作られた遺跡展示室
≪将軍御所移築の地≫
 長戸さんが保存公開を決めた遺跡は、源頼朝が築いた大倉幕府廃絶の後、北条氏によって幕府機能が移され、将軍御所が築かれた場所にあります。段葛の修復にあたっては文化庁の指示に基づいて遺跡に影響がないような形で工事を進めることになっていました。段葛周辺の遺跡からはいろいろ木が出てきたのですが、「木は保存できない」と言われ、そのまま埋めてしまうのはもったいないとして残すことになりました。
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遺跡展示について語る長戸社長(いずれも高木治恵撮影 2017.05.19)
 
 木の保存がどのように行われているのかを知るために、工事関係者から紹介されて縄文時代の丸木舟が保存されている若狭三方縄文博物館 DOKIDOKI館にも出かけました。木は乾燥するとボロボロになってしまうので簡単には残せません。天然の冷蔵庫ともいえる若狭の遺跡からの発掘品は数千年前のものとは思えないほど保存状態がよく、丸木舟は出土したままで残っていました。

≪北条小町邸跡の遺跡≫
 長戸さんが保存公開しているのは、「北条小町邸跡」と呼ばれる遺跡の一部です。鎌倉時代、本遺構のある若宮大路周辺や、東方の滑川に至る一帯には鎌倉幕府の有力御家人だった北条氏の屋敷が多くありました。北条氏代々の本家筋『得宗』の屋敷があったとされる場所です。源頼朝が築いた《大倉幕府》が廃絶した後に、北条氏によって幕府機能が移され、将軍御所が築かれた場所でもあります。

 北条本家(得宗)筋が構えていた邸宅跡で、2014年2月から4月にかけて調査が行われました。発掘された一番古い道路面は13世紀前半のもので、鎌倉幕府第三代執権北条泰時も歩いたところと想像されています。「長戸さんが遺跡を保存し公開しているのは、当時の幅3㍍ほどの側溝の一部」と調査にあたった鎌倉考古学研究所理事宮田眞さんは言っています。

≪保存公開のための工事≫
 早稲田大学の遺跡保存専門家の協力を得て、まず地下の遺跡にプラスチックを注入して固化させて保存しました。壁も地層を剥がして、遺跡周辺の地層も全部プラスチックで固化しました。一旦剥がしてあとで加工して張りつけ直すのです。要は現状をそのまま残そうという原則でやりました。最初はなるべく広く残そうとされたのですが、資金が膨大になるので残す規模を縮小せざるを得なくなったようです。

 遺跡の上はガラス張りにして中を見下ろせるようにしました。掘っていくと非常に深いことに気づきました。上に乗るのが怖いので、少しかさ上げをしてもらって、明治時代までの土砂は取りのぞき、江戸から下の層だけを残しました。鎌倉では安国論寺で観音堂が新たに作られた時の発掘現場が保存され、見えるようになっています。お寺に聞くと公開の予定はいまのところないとのことです。

≪トイレビルでの遺跡公開≫
 長戸さんがもともと考えていたのはトイレビルの建築です。外国に出かけると「お父さんトイレどこ?」というのが空港に着いてからの妻の第一声です。今はドイツとオーストリアぐらいしかトイレは完備していません。とくにスペイン、イタリアはひどく、いつもレンタカーで廻るのですが、トイレは悩みの種でした。「それなら鎌倉に来る観光客に世界一のトイレを提供してあげよう」と考え、トイレビルM'sArk KAMAKURAができました。

 「ローマ風呂なども英国などではきれいに残っています。どこに行ってもきれいに残してあるのに、鎌倉はみな埋めてしまうのですね。若狭で丸木舟がしっかりと保存されているのを見て、鎌倉でも市民や観光客にも見せてあげた方がいいのではないかと考えました」
 ビルの一階ロビーにしつらえられた中世鎌倉の側溝の遺構を見下ろしながら、長戸さんは行政ができなかったトイレの整備と“見えない遺跡”への鎌倉市民の意地を見せました。

≪見える埋蔵文化財への規制≫
 鎌倉市歴史まちづくり担当の桝渕規彰部長に営業の一環として埋蔵文化財を利用することについて、規制の有無などを聞いてみました。
 「とくに法規制はありません。むしろあのような形で現地に保存していただくということは、文化財の保存、そしてその先にある公開活用という観点からすると非常にありがたいことです。個人の住宅などにかかるとなかなか難しいとは思うのですが、商店とか法人のご協力がいただければ、確認された遺跡の一角でも現状あるいは切り取ってでも展示という形で一般に公開できます。実物の迫力と訴えかける力は鎌倉の魅力にもつながります」

 御成小学校建て替えの時に確認された地下の武家屋敷跡の広大な遺跡、さらに昨年6月には4000人近い市民、観光客が殺到した(仮称)由比ガ浜こどもセンター用地での発掘調査現地見学会・・・など過去の事例を見ても、一部でも遺跡が見えるような施設ができれば、埋蔵文化財に対する市民の意識向上にも大きな影響が出てくるはずです。長戸さんの決断は行政を動かすきっかけの一つにはならないのでしょうか。

「モザイク都市」の展示(歴史まちづくり担当桝渕規彰部長に聞く❹)(鎌倉歴史文化交流館6)

(6月30日)A館の通史展示室、中世展示室、近世・近現代展示室とB館の考古展示室(中世鎌倉の出土遺物)と4つの展示室からなる鎌倉歴史文化交流館は、どのような構想で展示されているのでしょうか。鎌倉市歴史まちづくり担当の桝渕規彰部長は、歴史的風致維持向上計画、日本遺産の認定にあたってコンセプトにした「モザイク都市」が、交流館の展示の基本になっていると言っています。展示構想について聞きました。カッコ内は質問です。
鎌倉のジオラマの前にたたずむ入館者
     鎌倉のジオラマの前にたたずむ入館者(高木治恵撮影 2017.05.15)
≪展示の構成≫
 交流館の展示は歴史的風致、日本遺産のコンセプトとまったく同じです。ただ交流館の展示資料などでは「モザイク都市」という言葉は使っていません。鎌倉の歴史文化を出土品を用いて通史的にみてもらうということです。歴まち担当がやってきた日本遺産のストーリーが交流館の展示に反映されるのは、当然のことだと思っています。歴史文化はほとんどが頼朝以降2百数十年の中世都市のものでした。

 それを見直したのが歴まち計画であり、日本遺産ということなので、その成果を交流館の展示に生かしています。確かに文言としては出ていないかも知れませんが、展示の構成としては明らかにそのようになっています。高木さんご自身がモザイク都市と言っているので、私は成功したと思っています。いずれ交流館のパンフレットなどで何らかの形で、「モザイク都市」をうたった方がいいのではないかなと思っています。

≪世界遺産再挑戦とは厳密な区別が必要≫
 歴まち担当として「歴史的遺産と共生するまちづくり」に取り組んできました。具体的なプロセスとしては、歴史的風致➡日本遺産➡交流館整備という流れです。これが密接にかかわっているとご理解いただきたい。(世界遺産の再挑戦もこの延長線上にあるのか)世界遺産の場合には鎌倉の歴史文化を証明するということなので、われわれがやってきたことはベースにはなるでしょう。これまで手がけてきたまちづくりの施策の一つではありますが、性格を異にするものだから厳格に考えなければいけないと思っています。

≪外交官杉原千畝の展示≫
 (近世・近現代展示室の杉原千畝の展示に違和感もあるが)市議会で杉原千畝を顕彰するという決議が全会一致でなされました。その決議を具現化するには、交流館で近現代の展示も行うという中で顕彰にふさわしいのは交流館での展示です。(国民的にはみなさんよく知っているが、鎌倉市民が親しく感じていないため展示には唐突感もあるのでは)決議されたことはしっかりとやっていく。それをアクションの着火剤にしながら、鎌倉にかかわりがあるということをご理解いただきたいと思っています。

 第3展示室の展示自体はトピックス展示と考えています。近現代は物見遊山だとか、別荘文化であるとか、鎌倉文士であるとか、取り上げるべき時に展示も変わるので、そういう風にチェンジをしていきたいと思っています。

(コメント)
 交流館の展示が歴史的風致維持向上計画、日本遺産のコンセプトである「モザイク都市」を踏まえたものだということを桝渕部長との会見で初めてはっきりと認識できました。いずれ交流館のカタログやパンフレットなどでも展示のコンセプトとして明示することを検討したいと言っておられます。でも開館に当たってなぜはっきりと触れなかったのでしょうか。むしろこの「たじろぎ」が何だったのか気になります。

 交流館の展示を見て古代から中世、近世、現代に至る歴史をごちゃまぜにして並べたという違和感を感じました。鎌倉がモザイク都市だとしたらそのイメージについて回る宿命ともいえるかも知れません。鎌倉の地名についての最も古い文献は「古事記」ということですから、少なくとも1300年の歴史のある地をモザイクという形でコンパクトに展示したということなのでしょうか。交流館の展示によってはもっと別の鎌倉を考えるきっかけにもなるのではないかと想像してみました。

支援の輪広がる新たな署名活動(大規模商業施設建設計画68)

(6月27日)由比ガ浜の開発にからむショッピングセンター建設計画は、規模縮小、共同住宅の建設という“妥協案”のまま事業者に押し切られてしまいかねない状況で、危機感を募らせた住民が、新たな署名活動を始めました。開発予定地に「黒松の森で覆われた鎌倉海浜ホテルの再現」という提言によって建設計画を阻止しようという新たな構想です。でも計画そのものは最終段階を迎えており、住民の熱い思いも吹き飛ばされかねません。提言と署名活動がどこまで広がりを見せるのか住民運動の力が問われています。
由比ガ浜開発阻止で新たな署名活動
≪署名活動のスタート≫
 「160台もの屋上も含めた大駐車場、スーパーとドラッグストアーとクリニック、90戸近く入る無機質なマンション…これがこの場所にふさわしい計画だと思う住民は、いったいこの街に何人いるのでしょう?」と近くで鈴木屋酒店を経営する兵藤沙羅さんは、「このままでは旧鎌倉最後の広大な土地が危ない」として署名への協力を呼びかけています。兵藤さんが5月12日のフェースブックで現状を訴えたところ、1万件を越す「いいね」の反響が寄せられたことからも、由比ガ浜の将来に対する住民・市民のあせり、危機感が見られます。

 そこで兵藤さんをはじめとする近隣住民数人が署名活動の推進する「古都鎌倉を守るTHINK YUIGAHAMAの会」をたちあげました。由比ガ浜で開発問題が生じてから4年半、署名活動など住民運動を続けてきた原正己さんと元電通役員の産形靖彦さんの2人が共同代表となり、鈴木屋酒店を事務局として署名活動を展開していくことになりました。署名結果は提言と合わせて鎌倉市長、市議会議長に提出することになっています。

≪開発計画の見直しと未来遺産となる代替案≫
 署名活動は現在の開発計画を根底から見直し、古都鎌倉にふさわしい提言をしていくために広く市民や県民、国民の支援をとりつけることを目的にしています。「THINK YUIGAHAMAの会」代表の産形さんが代替案を作成しました。骨子は開発予定地周辺を黒松の森で覆い、周辺住宅地とのバッファーゾーンとして再生を図り、その森の中に「鎌倉海浜ホテル」を鎌倉の「未来遺産のシンボル」として建設し、復興しようというものです。

 提言は「歴史的遺産と共生するまちづくり」を進める鎌倉市に対して、現行2業者の計画案破棄を呼びかけ、「(このまま計画が進行すると)鎌倉の生命線が微塵になって、歴史と未来が破壊され、鎌倉はその醜態と惨状を世間にさらしてしまう」と警告を発しています。ただ提案には乗り越えねばならないバリアがあるとして、●開発計画反対運動の拡大●市の許認可の取り消し●2業者による申請取り下げ●新たな開発業者、開発主体の選択●ファンドレイジング主体の設立●出資者の決定●国、県、市による予算や行政面でのサポートなど9件の課題をあげています。

≪市長選の争点に?≫
 兵藤さんは、「10月の鎌倉市長選の争点になるように市民に働きかけていきたいですね。単に開発反対を叫ぶだけでなく、鎌倉市、事業者、住民にとってもウィンウィンの解決策があるはず」と署名に広がりに期待しています。共同代表の1人原正己さんは「これまでの署名活動であまりにも由比ガ浜が直面している危機を知らない人が多いことに驚きました。とにかく事実を知ってもらいたいという思いで再挑戦しました」と言っています。

 また今回の署名・提言の筋書きをまとめた中心人物は、電通で東京・汐留地区の総合開発を手がけた産形靖彦さんです。「THINK YUIGAHAMAの会」共同代表として、汐留での体験を活かして由比ガ浜の開発を新たな角度で見直そうとしています。「由比ガ浜の案件は、一言でいえば、業者側が由比ガ浜・鎌倉の歴史と来し方について、あまりにも無知であったことが問題です 。環境アセス、都市計画手続き、住民合意の形成の三本の矢について、お座なりの対応があったことも事実。それを怠り、ありきたりな商業施設やマンション作りが見て取れます」。産形さんの参画で由比ガ浜開発計画で何かが動き出しそうな気配を感じます。

(コメント)
 「黒松の森と鎌倉海浜ホテル」の復活は、夢とロマンに満ちた由比ガ浜の修景構想です。しかも森の中には「鎌倉サテライト・ミュージアム・オブ・アート&プロダクツ(略称K-SMAP)の新設計画なども検討されています。昨年1月に国の認定を受けた歴史的風致維持向上計画とも密接に関連して鎌倉観光の活性化にもつながるはずです。だが最終段階に入った大規模商業施設のことを考えると、構想の具体化は並大抵ではありません。

 本文でも触れたように提案では、9つの課題が「バリア」として示されています。ここで何よりも重要な意味を持ってくるのが署名活動の去就です。署名の数が多ければ多いほど行政としても無視できなくなるでしょう。鎌倉市、事業者、住民にとっても今年は、いつになく暑い夏になりそうです。


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