鎌倉歴史文化都市の光と影~30年後のたたずまいを見据えて

鎌倉市在住のジャーナリスト高木規矩郎による公式ブログ。世界遺産登録挫折に続く鎌倉の歴史まちづくりの真実を探る。

由比ガ浜開発めぐる論争、市長選で一時休戦か(大規模商業施設建設計画78)

(10月18日)由比ガ浜のショッピング施設建設をめぐって地元住民組織「THINK YUIGAHAMAの会」は、さる1日に開催したシンポジウム「由比ガ浜の大規模開発を考える」について結果を(株)大和情報サービス藤田勝幸、(株)NTT都市開発中川裕の両代表取締役社長に送り、住民の結束を訴えました。事業者、行政、住民は22日に迫った鎌倉市長選をかたずをのんで見守っており、現地での埋蔵文化財調査などの準備も一時休戦の状況です。

 水彩画の鎌倉海濱ホテル共同代表の原正巳、産形靖彦連名で送られた書簡では、「由比ガ浜の歴史、文化、環境保全及びまちづくりの研究者、文化人、建築家、地域デザイナー、市会議員、鎌倉市行政、市長選挙立候補者、報道関係者及び一般市民など、約130名の方々が参加した」とシンポジウムを総括。「交通、防災、景観問題に加え、現状のまちづくりに関する市民と行政の意識の格差などについて真剣かつ有意義な議論を展開した」と評価しました。
 鎌倉の伊藤雅江さんが描いた海濱院ホテル(鎌倉近代史資料室提供)
 そして「両社長の英断により、都市マスタープランに合致し、且つ、近年、一層の課題となっている交通渋滞緩和、津波防災対策及び環境保全に則した新たな計画を、事業者、住民、行政のコンソーシアムで、鎌倉の歴史に残るプロジェクトが具現化できないものか」と由比ガ浜のまちづくりについて、両社との協力を持ちかけました。

 一方10日の市長選告示の前後から由比ガ浜の開発にからむ動きは、ストップしたままで、まちづくり条例にからむ手続きの終了で、続いて行われることになっている埋蔵文化財の発掘調査関連の手続きもストップしたままです。松尾市長が市長選に先駆けて大和情報の藤田勝幸社長とトップ面談を行い、ショッピングセンターの屋上駐車場建設計画の見直しなどを要求しましたが、それも選挙で事後のフォローアップがなされていません。

 8月なかばに行われた第一回の面談では、駐車場問題などで住民が期待したような成果はあげられなかったようで、市長側は続けて第二回の会談を申し入れました。その後、5候補による市長選にもつれこみ、由比ガ浜の開発問題は影が薄れてしまったようです。市長選でだれが勝利を納めるかによっては、開発問題の仕切り直しも必要になるでしょう。市長選の結果は由比ガ浜の歴史文化の保全にとっても重要な意義を担っています。

東南アジアの歴史的都市でのまちづくりに学ぶ

(10月13日)文化遺産国際協力コンソーシアム主催の国際シンポジウム「東南アジアの歴史的都市でのまちづくり~まちの自慢をまちの魅力に」が7日、東京国立博物館平成館大講堂で開かれました。鎌倉の歴史まちづくりとも相通ずるテーマです。シンガポール、ペナン(マレーシア)、ヤンゴン(ミャンマー)、フィリピン、ホイアン(ベトナム)のASEAN5か国から歴史的都市保全に取り組んでいる専門家や有識者が参加し、それぞれの体験を報告しました。報告の要旨をお伝えします。
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      平成館で行われたパネル・ディスカッション(文化遺産国際協力コンソーシアム事務局提供)
≪アイデンティティーの喪失(ヨハネス・ウィドド=シンガポール国立大学准教授)≫
 ここ数十年間アジアで起きた急速な経済成長により、建築や都市化の流れが劇的に変化しました。古い都市構造が分断・破壊され、アイデンティティーも文化の記憶も失われてしまいました。そんな中で私たちは、有形・無形の記憶とアイデンティティーを守ることがまだできるのかどうか、同時に経済を発展させつつ、その時々の需要と現代的な生活様式を取り入れることができるのかということを何度も自問してきました。

 ユネスコは2011年の総会で歴史的都市景観(HUL)の概念についての全加盟国の自然・文化・人的資源の包括的調査とマッピング、すべてのステークホルダーとの間で合意を取り付けることが求められています。この戦略の主眼は都市遺産の価値とその脆弱性を、より大きな都市開発の枠組みに取り込むことにあります。開発プロジェクトの企画や設計、実行に注意を要する保護地区が認識されるのです。

 私たちのリビングヘリテージ(生きた遺産)の保存、保護、修復、再生の努力は、社会と文化との連続性、もしくは「無形の永続性」を目指すものでなければなりません。コミュニティーの文化の連続性は、正確かつ慎重に修復し、さらには繊細かつ適切なメンテナンスを行ったり、有形無形の文化遺産を保護することによって、維持と育成が可能です。初代首相リ・クワンユーの屋敷の保存もオーナーの同意が必要で、再開発支持が前提になっています。

≪リビングヘリテージの持続(クレメント・リャン=ペナン・ヘリテージ・トラスト)≫
 ペナン州(マレーシア)のジョージタウンは2008年に世界遺産に登録されました。その顕著な普遍的価値(OUV)のひとつに商人、職人、芸術家たちが形成してきた独自のリビングヘリテージがあげられます。ショッピングモールの台頭により古くからの商売はだんだん数を減らしてきました。新時代の職人を育成する努力はアジアの昔ながらの商売を蘇らせる新たな希望になると思います。

≪発展のツール遺産保存(モーモー・ルウィン=ヤンゴン・ヘリテージ・トラスト所長)≫
ヤンゴン ヤンゴンの都市遺産に直接大きな影響を及ぼしたのは、まず国が軍の手中に入り、1960年代から90年代初頭まで続いた準社会主義支配の時代で、孤立して経済が停滞した結果、都市の建築遺産が意図せず保存されたことです。さらに90年代はじめに再び世界に対して扉を開き、開発の歩みは再び速度を上げ、多くの遺産構造物が破壊されて新たな開発に向けて、道が舗装される結果となりました。

 2011年に軍の直接支配が終わると、残された遺跡の環境を保護するため、ヤンゴン・ヘリテージ・トラストが創設され、新政府に対して、ヤンゴン独自の遺産を財産とすることによって、さまざまな形で持続可能な発展が可能になることを示しました。現在私たちは政府、地元組織、国際組織と共同で、「ヤンゴン・ヘリテージ戦略」で提案したいくつかを実行に移しています。

≪小さな町の大きな夢(エリック・ゼルード=聖トマス大学文化財保全センター所長)≫
 世界遺産都市ビガンは、人材育成とリスク軽減プログラムを実施してきました。インフラ開発、固形廃棄物のリサイクル、歴史的な家屋や建築物の継続的な記録などを通じて、観光、教育、および投資の統計には向上が見られます。貧困発生率、中途退学率、栄養失調率も低下しています。ビガンの経験は開発のモデルになり、フィリピンの多くの都市にとってあこがれの存在となっています。

≪文化遺産保護と現代社会発展の対立(グエン・スー=元ホイアン市人民評議会会長)≫
 ベトナム中部の小規模ながら良好な状態で保存された古都ホイアンは、時代に取り残されたことで15世紀から19世紀にかけての町並みが元の姿で保存されています。文化遺産群のうち木造建造部1107件と現代、伝統的な生活が各建造物と密接にかかわり、営まれています。一般的な建物、民家、商店、市場、船着き場、寺や祠堂などです。

 ただ保護と開発事業の関係で対立関係が多く見られます。現状保護の必要性と住民の現代的生活への要求との対立などです。文化遺産の現状保護と地区の経済開発を相互に実行した結果、経済発展と生活状況の改善により、住民が遺産保護と修復のために必要な資金を手に入れることができるようになった事例も見られます。対立をいかに最低限に抑え、最前の相互関係を築くかということが重要です。
 
(コメント)
 東南アジア5か国の歴史まちづくりについての報告を聞いて、鎌倉のまちづくりがいかに恵まれた環境のもとで進められているかを痛感しました。シンガポールでは経済成長のもとでアイデンティティや古い文化の記憶が消え、ヤンゴンでは軍事政権下で破壊が進んでいきました。

 鎌倉では歴史まちづくりといっても住民の理解を越える障害物はありません。でも現状をしっかりと認識しないと鎌倉でも開発の波にいつの間にか飲み込まれてしまうような気がしました。由比ガ浜の開発や北鎌倉の緑の洞門など危機はしたしたと足もとに忍び寄っています。東南アジアのまちづくりの体験報告は鎌倉の現状を考える貴重な機会だったと思います。

近代化の意味を問いかける海濱ホテル(大規模商業施設建設計画77)

(10月11日)シンポジウム「由比ガ浜の大規模開発を考える」の冒頭で鎌倉中央図書館近代史資料室の平田恵美さんから提供いただいたホテルの画像と歴史年表・解説を使って鎌倉海濱ホテルの歴史について報告しました。時間が限られていたため十分な説明ができなかったので、追加報告(2)をいたします。サナトリウムの名残を残す鎌倉海濱院ホテルから海濱ホテルとして展開する時代は、近代化の明から暗への転換期でした。
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≪海濱院ホテルさながら鎌倉の医療センター≫
 明治41年7月、海濱院ホテルにドイツの細菌学者コッホ博士を迎えての記念写真です。最前列中央のコッホ博士の左隣は北里柴三郎、勝見正成医師(鎌倉郡医師会会長・海浜院担当医師)。右隣は寺島大浩(名越で開業)、前列左端は清川来吉医師。斜め後ろの女性は、腰越医院の医師沖本幸子ですが関東大震災で死亡しました。顔ぶれを見るとホテルが医療センターに化したかの感があります。急速な近代化を示す1枚の写真です。

 鎌倉が保養地として確固とした地位を得るために、医家長與専齋の功績は大きく、高徳院境内に大きな顕彰碑が建っています。長與は肥前大村藩侍医の家に生まれ、大阪の適塾(緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾)に学び、長崎医学伝習所ではポンぺ(安政4年、江戸幕府が招いた最初の外人医学教官)から西洋医学を修めました。明治4年に文部省に出仕し、岩倉遣欧使節団に加わり、近代日本の衛生行政の基礎を築きました。海濱院ホテルや海濱ホテルの歴史を考えるとき、忘れてはならない人物です。
 
 大正5年3月、海濱院ホテルは「株式会社鎌倉海濱ホテル」と改称し、明治屋の磯野長蔵が社長に就任しました。開業と同時に超満員の大盛況でした。これはロシア革命で亡命ロシア人が押し寄せ、長期滞在したためでした。ベルノン支配人の料理の魅力により千客万来。明治屋からは精選された葡萄酒が納入されました。大正8年8月には亡命ロシア人のバレリーナであるエリアナ・パヴロア、ナデジタ・パヴロアが海濱ホテルで公演しました。
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≪激震で倒壊した海濱ホテル≫
 大正12年9月1日、関東大震災が発生、海濱ホテルでも大食堂が倒壊し従業員2人が圧死しました。鎌倉町全戸数の3分の1が別荘で占められ、賑わっていた矢先でした。鎌倉は壊滅状態になりました。横須賀海軍航空隊が震災から8日後の9月9日に被害状況を空から撮影しました。大正9年に増築されたホテルの全容と周辺の松林や町並みがよく分かります。砂浜から津波が上がっている様子も分かります。

≪昭和の海濱ホテル≫
 大正13年6月、海濱ホテルはいち早く復旧開業しました。昭和になると新しい支配人春田助太郎を迎えてホテルの競争時代、大衆向けに衣替え、カラフルなパンフレットで国内外の客を対象に宣伝とサービスに一層力を入れました。だが表面的な華やかさの裏で近代化の本質を問いかけるような変化が表れてきます。大震災は海濱ホテルに象徴される近代化のリスクを示すきっかけになりました。
ヒットラーユーゲントを迎えて

 昭和13年9月には海濱ホテルにはイタリアの黒シャツ隊やヒットラーユーゲントが訪れるなど、戦時色が次第に濃厚になってきました。長谷区の旗を先頭に寸松堂と鎌倉劇場の前を戦死者を弔う葬列が通って行ったのもそのころのことです。町葬は盛大に行われましたが、日本を覆う暗い空気に押されてその後だんだんとひっそりとしてきました。

煙と日本人(青木豊館長の講演)(鎌倉歴史文化交流館4)

(10月8日)日本文化に見る防虫意識というユニークなテーマの講演会が9月末に鎌倉歴史文化交流館で行われました。博物館学における資料の保存に関連した「虫害虫」が専門の青木豊・館長が講師として研究成果を話しました。これまでに交流館ではワークショップ「ペーパー甲冑をつくろう!」や夜間講座「中世美術鑑賞のコツとツボ」、「くずし字ことはじめ ―中世の鎌倉を旅する―」が開かれイベントも次第に充実したものになっています。講演要旨をまとめました。

≪防虫のための煙の使用≫ 
 防虫を目的とした煙の使用例として仏像(木彫仏)を対象にした楠・線香、日本家屋の囲炉裏・竈や蚊遣り火、狼煙(のろし)などがあげられます。寺では線香をたくことによって防虫対策にしていました。虫害、経年・火災・地震による資料の劣化・損壊対策は、博物館でも重大な課題です。冷涼な気候の朝鮮半島や欧州では、気温が低いと虫は活動しないので虫害も見られません。日本独特の被害です。

 燻煙(くんえん)も防虫のための技法として知られています。印度から伝来し印伝(いんでん)と言われます。奈良時代の国宝東大寺所蔵の「文箱」は「ふすべ技法」の最古の事例です。「燻べる」(ふすべる)には「いぶす」、「くすべる」、「けむらす」といった意味があります。燻製または薫製は燻煙により傷みやすい食材を長期間保存可能な状態にする食品加工技法です。
舟をたでる
     舟をたでる浮世絵「東都三ッ股の図」(館長講演資料より)
≪舟をたでる≫
 船喰虫(フナクイムシ)は黒潮に乗って生息します。日本最古の築港和賀江嶋跡の岩場にも大量のフナクイムシが見られます。駆除の方法としては❶たでる❷真水につけることです。「たでる」というのは「広辞苑」によると「船虫害を防ぐために船底を焼く」との説明があります。日葡辞典には「フネ(舟)ヲアラ(洗)イタズル」と解説しています。漆(うるし)は虫を寄せ付けないためという日本書紀の記録も残っています。

 岩場や海岸近くの物置などに生息する舟虫は雑食性で、海岸の掃除役と言われています。北欧ではバイキングの船が沈んでそのまま残っています。日本では考えられませんが、寒流には虫がいないということです。神津島で明治維新前夜、船の安定をたもつためのバラストが崩れて沈没した1500石の船の引き揚げをしたことがありますが、船体は何も残っていませんでした。これも黒潮で生息した虫の影響といえます。

≪蚊遣り火≫
 かやり火の けぶりのあとや 草枕 たちなんのべのかた 見なるべき    藤原定家
 六月の頃 あやしき家に夕顔の白く見えて 蚊遣火ふすぶるもあはれなり   徒然草 第十九段
蚊遣火の美人画 蚊遣り火は古い歌や文学にも言及され、大正時代初期まで続いた煙で蚊を追い払う生活習慣です。松の葉・蓬(よもぎ)・蜜柑の皮など煙の材料には、殺虫効果はありません。虫は殺そうと考えてはいけないということが、歌や蚊遣り火の習慣にも見て取れます。




蚊遣り火のある美人画(館長講座資料より)

≪紙魚(しみ)に悩まされた日本人≫
 おのずから うちおくふみの月日へて あくればしみのすみかとぞなる    定家    日本人は昔から虫の食害に悩まされてきました。穿孔食ではなく、表面をなめる紙魚対策もいろいろ講じられてきました。冷涼・乾燥・匂い・風・光といった虫の弱点を経験から知って煙を利用したり、曝冷(虫干し)するなど日本人の知恵を生み出してきました。漆・柿渋・藍・楠(くす)・ウコン・薄荷・銀杏・樒(しきみ)・梔子(くちなし)の実・ヨモギ・タチバナなど虫の忌避材なども生活に取り入れられてきました。

(コメント)
 5月15日の開館以降の鎌倉歴史文化交流館の入館者はあいかわらず低迷しています。8月15日までの3か月では合計7792人、開館日の1日平均では200人という予測を下回って100人でした。さらに9月末までの入館者は総勢で10153人、開館日数は116日なので、1日あたり88日と今もなお漸減しています。このままでは入館者を増やす決め手もないまま忘れ去られるといった事態も考えなくてはならないでしょう。
 そんな時期の防虫についての講演でした。館長の初めての講演ということもありましたが、正直言って害虫がテーマと聞いて専門的な話だと思い、あまり期待しておりませんでした。文化財保存にもかかわってくるということで、ちょっぴり関心を持っていた程度でした。いつも持ち歩くICレコーダーも持たずもっぱらメモに依存していたのですが、途中で大失敗だったと後悔させられました。
 
 淡々とした説明ながらこれまでは忌み嫌っていた虫の生態が生き生きと伝わってきました。それも藤原定家だとか徒然草からの引用も効果的で、メモと館長が準備されたレジメを頼りにブログを作ってみました。専門的には私の記憶やメモなどに問題があるかも知れませんが、とにかく紙魚やゴキブリなどに改めて興味を惹かれるきっかけになったのは事実です。
 
 博物館の運営という観点から考えてみると会場が30人ほどで一杯ということもありますが、テーマによっては思い切って生涯学習センターなどで7,80人を対象に拡大講演会をしてもいいのではないでしょうか。交流館の入館者を増やすのは、住民対策という難問はあるものの、展示の質にかかってくるでしょう。リピーターも増えてくるような魅力ある博物館の構築を考えていただきたいと思います。

鎌倉の近代史における由比ガ浜(大規模商業施設建設計画76)

(10月6日)ピンチヒッターでシンポジウム「由比ガ浜の大規模開発を考える」の冒頭で主催者側の住民組織「THINK YUIGAHAMAの会」の1人として、海濱ホテルの歴史について報告しました。鎌倉中央図書館近代史資料室の平田恵美さんから提供いただいたホテルの画像と歴史年表・解説を使っての報告でしたが、時間が限られていたため十分な説明ができませんでした。そこで平田さんの了解を得て再度ブログで報告いたします。

≪海濱ホテルの歴史支える鎌倉海濱院の建設≫
 海濱院は明治20年8月に建てられました。開院の広告には、申し込み方法や入院養生するときの細かい規則が書かれています。翌年の明治21年には客室25室をもつ「海濱院ホテル」として衣替えしました。文人や医師、政財界人らさまざまな人が出入りしました。中でもドイツ人細菌学者ローベルト・コッホの滞在は、近代化の道を歩み始めた鎌倉の歴史に欠くことはできません。

≪サナトリウムが鎌倉の近代のはじまり≫
 明治12年(1879)、E. ベルツが七里ガ浜を「海水浴に最適」と評価(ベルツの日記)、次いで
明治17年(1884)、蘭医学を学んだ大村藩の医家長与専齋が鎌倉を海水浴に最適と紹介(鎌倉市史)したのがきっかけとなって海水浴と保養地としての鎌倉が知られるようになりました。明治20年、サナトリウム創立当時の鎌倉は、安政6年(1859)横浜開港から30年ほど経ち、外国人遊歩地域になっていました。温暖な海辺の気候が好まれ、別荘も建ち始めていました。
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      鎌倉海濱院玄関正面(明治26年ごろ)(阿部家所蔵)
 幕末の老中、福山藩主阿部正弘ゆかりの伯爵阿部正桓(まさたけ)が、諸国漫遊の旅で撮影した写真です。海岸通りから正面玄関まで長いアプローチが続き、両側には小松が先代阿部正方の妹恪子は、開院早々の「海濱院」で療養し、その日記が残っています。明治20年7月、開院の広告には、申し込み方法や入院養生するときの細かい規則が書かれています。院長の横浜の医師近藤良薰(りょうくん)の名も見られます。
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     ジョサイア・コンドルの設計図を基に改築された海濱院ホテル(明治40年ごろ)
 海濱院ホテルを海側の砂丘から見た写真です。向かって右端二階建ての建物1階は大食堂です。震災ではこの食堂が完全につぶれました。写真にはジョサイア・コンドルの署名が入った設計図や立面図も残されています。日本髪を結った女性たちが細菌学者コッホと並んで撮影した写真には、コッホ夫妻のお世話をした材木座村木ハナの姿も見られます。ドイツまで行き、博士を看取り、2年後に帰ってきました。(つづく)

市民シンポジウムで活発な議論(大規模商業施設建設計画75)

(10月2日)第1回市民主催シンポジウム「由比ガ浜の大規模開発を考える~旧鎌倉海濱ホテルの跡地について」が1日、鎌倉商工会議所ホールで開かれました。開催の準備、観客の動員を進めてきたのは、開発予定地周辺の由比ガ浜西自治会に設けられた住民組織「THINK YUIGAHAMA(TY)の会」です。会場では住民の家族も応援に駆けつけて、テーブルや椅子の移動、パネラーの案内にあたるなど市民主導を裏付けるかのようななごやかな光景も見られました。観客は107人(事務局発表)で満員でした。
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     プレゼンで使用した「鎌倉海浜ホテルの歴史」のパワーポイント表紙 
 第1部ではTYの共同代表でシンポジウム実行委員長である原正已さんが、事業者の(株)大和情報サービス、(株)エヌ・ティ・ティ都市開発より当初提出された計画案と4月1日の住民説明会に提出された修正案の実態、問題点などが提起されました。続いて直前の予定変更でピンチヒッターとして登壇することになった私が鎌倉図書館近代史資料室の平田恵美さん作成のパワーポイント画像で「海濱ホテルに見る鎌倉の近代」のプレゼンをしました。
 
 続いてTY創設者の一人で医師の西尾進也さんが建設に伴う交通環境への悪しきインパクト、近隣への環境破壊など現状報告をしました。またTYのもう一人の共同代表である産形靖彦さんは汐留(東京)の国鉄操車場跡の開発にかかわった体験を活かして、総合プロデューサーとしてシンポジウムの実現を諮ってこられました。

 第2部の基調講演では野村総合研究所主席研究員時代に「横浜みなとみらい」や「埼玉新都心」構想にかかわったことがある地域デザイン専門家の山崎一眞さんが、「古都鎌倉の景観を再考する」のテーマで由比ガ浜の住民運動を理論づけました。さらに御成小改築基本計画責任者だった建築家の福澤健次さんが「10年先を見据えたまちづくりが大切だ」として「旧鎌倉海濱ホテルの跡地利用」について話しました。
 最後に長嶋竜弘、栗原えり子市議、小泉ちかたか元県議、増永聖・鎌倉中央商業組合理事も交えて総勢11人で「海濱ホテル跡地を鎌倉の誇れる場所に」のテーマで、パネルディスカッションを行いました(司会は有限会社フロスヴィータ代表取締役の京ケ島弥生さん)。会場からも質問があいつぎ、活発な意見の交わされました。私は6年前の2011年に日本文学研究家ドナルド・キーンさんを鎌倉に招いて行った講演で、「開発による便利さよりか美に生きる心の豊かさを求めてください」という市民向けメッセージを改めて紹介しました。
 
 なお最初に行ったプレゼンでパワーポイントの画像37枚のうちじっくり紹介できたのはほんの時間の制約もありほんの数枚だったので、改めて次回ブログで「海濱ホテルに見る鎌倉の近代」の画像と近代史資料室平田恵美さんの解説を発信します。「鎌倉近代の光と影」を理解する参考にしてください。

松尾市長改めて大和情報サービス社長と面談(大規模商業施設建設計画74)

(9月26日)計画通り商業施設と共同住宅は建設されてしまうのか――行政と事業者との折衝が最終局面に入っている開発計画をめぐって、松尾崇・鎌倉市長が9月15日に(株)大和情報サービス代表取締役社長藤田勝幸氏とトップ面談し、その内容が25日市長から由比ガ浜住民に明かされました。8月に行った面談が藤田社長ではなく、ナンバー2の常務取締役(関東甲信越担当)村越正彦氏だったため、松尾市長が藤田社長とのトップ面談を改めて申し入れていたものです。
社長との面談について語る松尾市長
     大和情報サービス社長との面談について語る松尾市長
≪トップ面談の内実≫ 
 15日の面談は藤田社長が鎌倉市役所を訪れる形で行われ、市側からは都市調整部など建設計画にかかわった関連各部の部課長が同席しました。25日には住民組織THINK YUIGAHAMA(TY)の共同代表である産形靖彦氏ら約10人の住民が市長の説明を聞きました。主に市長は❶駐車場への車の呼び込みについて住民側に強い懸念があり、計画の見直しはできないか❷近くの材木座に同じようなドラッグストアがあり、果たして必要なテナントなのかと事業者側の意向を糺しました。

 面談については市長は「まちづくり条例に基づく(事業者への)助言指導書(昨年8月30日公告)の内容と都市マスタープランに位置づけられている歩行者、自転車が快適に歩け通行できることをめざしているところなので、そういうことを含めて話をさせていただきました」と市の基本的立場を明確にしたようです。

 これに対して藤田社長は「全国で鎌倉と同じような商業施設を造ってきましたが、駐車場をやめてほしいといった話しを聞いたのは初めてで驚いています」、「いい話を聞かせていただきました。社に持ち帰ってご返事をいたします」と述べて、今回の面談は終わったとのことです。

≪住民側深まる不信≫
 市長の説明に対して産形TY代表が住民側の疑問をぶつけました。❶使用するコンクリート、鉄骨の総量をみると(全体の規模を削減したとされる)当初案よりか現行案の人工物の方がかえって増えてしまう❷既存の駐車場も加えると駐車場出口の機能がマヒしてしまうといったTY独自で行った実査なども踏まえて計画の杜撰さを指摘しました。

 また「商業施設建設計画にたずさわる大和情報サービスだけで、共同住宅建設計画を進める(株)エヌ・ティ・ティ都市開発側にはこうしたトップ面談の予定はないのか」との質問に対しては、市長からは明確な回答はなされませんでした。「すばらしい内容のマスタープランがありながら事業者側が十分に読みこなしている節は伺えない」、「行政とは逆の方向を向いているはずなのに、なぜトントンと話が進むのか」との疑問も提示されました。

≪ボールは事業者側にある≫
 1時間を超える大和情報サービス社長との面談の説明を終えて、市長は「ボールは事業者側にあります。われわれの提案にたいしてゼロ回答だったら、もう一度ぶつけます」との決意を表明しました。でもトップ面談がどのような緊張感のもとで行われたのか、今回の説明だけでは何も伝わってきません。住民が関係部課長に面談のメモを公文書公開請求して面談の状況を引き続き精査する意向を表明しました。

(コメント)
 松尾市長の住民との説明会にはブロガーとして同席しました。でも市長の話だけでは駐車場とテナントの選定といった現状での問題に絞られたようです。長年にわたる津波対策を事業者は計画の中に盛り込んでいるのか。由比ガ浜の歴史、文化財保存をどのように考えているのか。もっと時間をかけてじっくり話し合うべきではないのかという印象を持ちました。市長の投げたボールに藤田社長がどんな返球を考えているのか注目されます。

由比ガ浜住民主催でシンポジウム開催(大規模商業施設建設計画73)

(9月22日)住民の意向を無視して着工に向けての準備が進んでいるかに見える大規模開発計画について、地元の由比ガ浜西自治会「THINK YUIGAHAMAの会」が主催する「旧鎌倉海濱ホテル跡地の開発を考える」が10月1日(日)に開催されます。2013年末に開発計画が表面化して以来ブログ取材を続けてきた私は、冒頭セッションで鎌倉近代史資料室が作成したパワーポイントを使って「鎌倉近代史と由比ガ浜」のプレゼンを行います。
由比ガ浜シンポジウム(1)
 「開発計画が実現すれば、鎌倉に暮らす人々が長年育んできた鎌倉らしい佇まいが一気に損なわれてしまいます。さらに海沿いの国道134号線など周辺の渋滞悪化も危惧されます。近代鎌倉発祥の地である鎌倉海濱ホテル跡地の歴史風土にふさわしい景観に配慮した持続可能な都市開発の可能性を考えるためシンポジウムを企画しました」
 主催者側はシンポジウム開催の狙いをこのように記しています。

 14年2月末に商業施設建設事業を鎌倉市に届け出て開発計画は表面化しました。その後3回にわたる事業説明会や意見書の提出など、まちづくり条例に基づく手続きが行われました。ところが届出から11か月後の 15年1月末、事業者は事業廃止届出を提出しました。問い合わせたところ「現在の施設規模では地元の理解が得られない、あるいは理解を得るまでに相当の時間を要すると判断した」との事業者側からの回答が寄せられました。

 しかし駐車場、ショッピングセンター規模を多少縮小したかに見える新たな建設事業の届出が15年11月末になされました。でも新計画は(株)大和情報サービスによる商業施設に加えて(株)NTT都市開発 のマンション計画が付け加えられていました。その後約1年かけてまちづくり条例に基づく手続きを終了し、開発基準条例に基づく市役所の各課協議が行われ、近く建設計画地での埋蔵文化財発掘調査が行われます。

 でも初めの事業計画廃止の際に事業者側が言っていた❶現状では地元の理解が得られない❷理解を得るまでに相当の時間を要すると判断したとの2つの廃止の理由については、何ら改善の跡がみられません。それどころかマンション計画などが新たに現れ、住民との隔たりがますます広がってきた状況にあります。そこで住民組織THINK YUIGAHAMAが主体となって開発反対の署名活動を展開、さらにシンポジウムの開催で開発に反対する意識の共有を図ることになりました。
由比ガ浜シンポジウム(2)

 そこで「鎌倉近代史と由比ガ浜」の現状について、鎌倉中央図書館近代史資料室が収集してきた「海濱ホテルに見る鎌倉の近代」の記録画像に基づく報告をしてほしいと打診しました。資料室キャップの平田恵美さんがたまたまシンポジウムの10月1日には不在とのことで、代わって私がパワーポイントで整理されている画像を使って報告することになりました。60枚を超える画像を取捨選択して独自の表題「鎌倉近代史と由比ガ浜」で由比ガ浜の歴史的展望に挑戦してみたいと思っています。

期待される市民参加型の博物館(鎌倉歴史文化交流館3)

(9月15日)鎌倉歴史文化交流館の展示はどのように決められるのか。建設が予定されている(仮称)鎌倉博物館はどんな内容のものを想定しているのか。博物館運営にあたって市民はどんな位置づけがなされているのか。青木豊・初代館長に開館4カ月の歴史文化交流館の現状を踏まえて将来を展望していただきました。括弧内は高木の質問です。
●●●歴史文化交流館オープンのチラシ
≪常設展示について≫
 (武家の古都という形で世界遺産を目指した地でもあるし、展示も中世が中心になるのではないかと思っている。私自身は古代、中世から近世、近代、現代に至るモザイク都市鎌倉という展示の基本コンセプトにはなじめないところがある。鎌倉のオリジナリティーを出していくべきではないか。たとえば常設展示が主ではあるが、この中でできる範囲で特別展を展開していくということはどうなのか)ぜひやりたいとは思っています。博物館である限り特別展をやるべきであるということは言うまでもありません。

≪鎌倉博物館≫
 (博物館の前庭に構想されている「(仮称)鎌倉博物館」がこれからの継続的なテーマになるのではないか。それも含めて鎌倉博物館ができたら、そこで特別展を展開していくといった構想もあり得るのか)たとえばこちらの建物がそうした特別展の会場といったことも考えられます。このままでは展示室にしても極めて使い勝手が悪いことは見ていただければおわかりのことです。自然光も入ります。何とか対策を考えなくてはいけません。

 (仮称)鎌倉博物館については、今年度(平成29年度)構想の検討をこちらで博物館を運営しながら始めようかというところではありますけれど、まだ「構想の検討」段階ですから本当に端緒についただけです。今後どうしていこうかということを考え始めようという段階のものです。(交流館の推移を見ながら鎌倉博物館についても検討していくということか)それも含めて、鎌倉博物館も含めた博物館構想を今年度から始めていこうということです。

≪見えない市民の参画≫
 (世界遺産登録当時も市民不在がいわれていたが、交流館のオープンでも官民共同で支えていこうというところがないのが気になる)もちろんこの博物館というのは市民のための博物館でありますから、市民参加型の博物館にしたいというように考えています。それにはたとえばいくつものことがありますが、いろいろなイベントであったり、講演会であったり、特別展もそうですが、交流室の貸し出しであるとか、数々のことがあると思います。「友の会」も将来的にはやっていきたいと思っています。

 (理想としている郷土博物館はどんなものか)市民参加型の博物館、市民が研究をする博物館、市民が展示する博物館です。何も博物館側が行う中世展だけではなくて、市民の方々が参画するいろいろな団体があります。そういう人たちの特別展示、市民参加による市民による特別展示もぜひやっていきたいと思います。(世界に目を拡げてみて館長の理想を実現した博物館はあるのか)住宅で言えばモデルハウスみたいなものです。

嵐の中の公開座談会(「私の20世紀」を生きて❻)

(9月13日)20世紀を検証する連載、人間ドラマの発掘と連動して、「20世紀企画室」では公開座談会や巡回写真展など関連プログラムに取り組みました。取材で集めた記録写真は、20世紀写真巡回展を開き公開しました。読売新聞社からは全8巻の単行本、次いで中央公論新社からは全11巻の文庫版で「20世紀」を出版しました。かくして21世紀のカウントダウンが始まり、思い出の企画室は部屋を閉じて解散し、激動の20世紀は幕を下ろしました。ニューヨーク駐在時代を含めあしかけ9年に及ぶ「20世紀の旅」の記憶は、かけがえのない遺産として「私の20世紀」に受け継がれました。
公開座談会
     横浜での公開座談会(1999.08.14)
≪20世紀公開座談会≫
14) 関連プログラムの1つは1999年8月14日、横浜市教育文化センターで行った公開座談会「科学技術は人間を幸せにしたか」でした。私が企画し司会も買って出たのですが、あまりにも捉えどころのないテーマで頭を抱え込んでいました。おまけに当日は朝から大雨にたたられたものの、定員500人の会場はほぼ満席で観客席を見て「とにかくやるしかない」と腹をくくりました。

 そもそもの発想は19世紀最後の夜から20世紀最初の朝にかけて、三田の慶應義塾で社頭の福澤諭吉をはじめ塾員、学生500人が参加して開かれた世紀送迎会のことが頭にあってのことでした。われわれなりに世紀の転換に相応しいプログラムを立ち上げようと横浜、京都、広島、福岡と巡回した写真展と連携した座談会を考えました。しかも「20世紀」という壮大なバックだったため、日常的にはあり得ない広大無辺のテーマとしたのです。

 冷や汗をかきながらテーマを説明して集めたパネリストは、宇宙飛行士(有機農業従事秋山豊寛さん)、芥川賞作家(読売新聞編集委員日野啓三さん)、エジプト考古学者(早稲田大学教授吉村作治さん)、物理学者(慶應大学教授米沢富美子さん)の4人でした(肩書はいずれも当時)。「結果的に社会を悪くしたとしても、もう一度改善する力が科学技術にはある」(吉村)、「人類は厳しい環境を生き抜いてきた。今信ずるのは人類のこうした知恵である」(日野)、「欲望を何らかの形でコントロールしながら、全体としてものを見て、考えていくことが大事」(米沢)と力強いメッセージでした。

 「どんな技術が私たちを幸福にし、豊かにしてくれるのか真剣に考えるべき時だ」と言っていた宇宙飛行士は当時、福島県の山間の地でシイタケの有機栽培をしていました。11年後の2011年3月、大地震と大津波が東北を襲い、福島の東京電力で原発事故が発生、避難を迫られるなどまったく想定外の異常事態でした。とくに4人は「人間の力への信頼」という共通の理念でつながっており強いインパクトを受けました。
20世紀検証について語る企画室の記者たち有隣堂(横浜)での20世紀企画室スタッフの討論会(1999.08)

≪新聞協会賞にノミネートされて≫
 20世紀企画は1999年度の新聞協会賞「キャンペーン・企画・連載」部門で「歴史のはざまに埋もれたヒューマンドキュメントを掘り起こす20世紀特集」として読売新聞社から応募されました。地方紙も含めて多数の企画が寄せられ、うち6件が最終審査に残りました。「どれを協会賞にするかで、読売の20世紀もせりあっているようだよ」と審査状況も寄せられ、スタッフは緊張の面持ちでした。中でも私が一番わくわくしていたようです。

 結果は次点で涙を飲みました。協会賞に選ばれたのは毎日新聞編集委員鳥越俊太郎さんのストーカー規制法連載企画でした。受賞を機にしてストーカー規制法の動きがにわかに活発になりました。世紀末という歴史の転換点に立ち会って朝日新聞の「100人の20世紀」など各社は、独自の切り込みで企画を展開していただけに、ノミネートされたことはわれわれの仕事が認められたことでもあり次点になったことをスタッフのみなで喜びました。

≪第二の人生を支える歴史ジャーナリズム≫
 「基礎史実を先入観なしに掘り下げることが歴史ジャーナリズムのありようだと思う。イデオロギーや政治意識にとらわれることなく過去を発掘し、そのまま読者に提供するという姿勢を貫けば、学者や評論家の視線とは違った歴史が提供されるだろう」
 出版にあたって寄せられたハーバード大学入江昭教授はメッセージを送って下さり、、私たちを力づけてくれました。
 
 読売新聞の先輩や仲間たちに支えられて取り組んだ20世紀企画は、歴史検証の初体験にもかかわらず戦争史のタブーによる逡巡や過去へのこだわりもなく、歴史ジャーナリズムを貫くことができたと思います。そして1941年太平洋戦争開戦の年に生まれ、戦後の経済成長期、科学技術の発展など後半しか見てこなかった半人前の20世紀人が、どんな切り口で20世紀に挑んだらいいのかといった人には言えない悩みがついてまわりました。

 でも日本文学研究家のドナルド・キーンさん、ハーバードの入江昭さんとは、「20世紀」を介して今でも太いパイプでつながっています。科学技術の今を考える公開座談会で初めて知った物理学者の米沢富美子さんとはそれから10年間、仲間を募って「世界遺産の旅」で世界各地を回りました。フラメンコダンサーの山口のり子さん、定点撮影の写真家富岡畦草さん・・・とのつながりも健在で、「私の20世紀」を豊かなものに育んでくれています。
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