鎌倉歴史文化都市の光と影~30年後のたたずまいを見据えて

鎌倉市在住のジャーナリスト高木規矩郎による公式ブログ。世界遺産登録挫折に続く鎌倉の歴史まちづくりの真実を探る。

住民からの陳情攻勢で揺れる建設常任委員会で爆弾発言(由比ガ浜開発計画95)

(9月15日)行政側からの開発許可の遅れで共同住宅・大型商業施設建設計画は、残された埋蔵文化財発掘調査や大規模小売店舗立地法(大店立地法)の手続きなどが中断したままの異常事態が続いています。14日には鎌倉市議会建設常任委員会に住民から由比ガ浜開発がらみの7件の陳情書が提出されました。一挙に7件という多数の陳情書は、手続き等の中断と舞台裏での事業者や行政の根回しに対する住民の懸念とストレスが表面化したものともいえます。

≪集団陳情の真実≫

 7件のうち住民組織Think Yuigahama(TY)からは、9月はじめに用意された5件の陳情書が建設常任委員会に提出されました。TY事務局長の兵藤沙羅さんは「別に日時を合わせて、集団陳情のような認識の下で集められたものではありません。住民の危機感が常任委員会を前に盛り上がったものです」と言っています。でも地下に潜行して行政と事業者間で秘かに進められている状況に住民がしびれを切らしたものかも知れません。

 
国道134号線交差点での右折レーン設置案は、事業者側の大和情報サービスなど2社が商業施設・共同住宅建設を計画している土地の一部を市側に寄付して、土地交換の形で右折レーンの早期設置を迫っているという動きが水面下で進んでいます。住民側は新たな陳情書を出して議会の動きをサポートしていこうという構えです。地元自治会は土地交換についての真意を糺していく構えで、事業者、行政との三者協議が15日から始まったことも新たなファクターとして注目されます。

≪吹き飛ばされた住民の小さな声≫

 TY会員からの5件の陳情のうち(陳情第21号)は、生活している地域住民の実態に基づいた市民生活の安心・安全を求めています。(陳情第22号)は右折レーンに関する松尾市長の判断について、幅広い意見聴取のための公聴会開催を掲げています。(陳情第23号)は沿岸の津波浸水予想地内での大規模商業施設建設を認めないよう求め、(陳情第24号)は子どもたちの遊び場が削られることへの懸念、(陳情第25号)は生活環境・交通環境の悪化から子ども達や住民が安全に暮らせるように具体策を求める内容です。

 1件1件みると、住民側の懸念が繰り返されているだけですが、集団陳情の形で提起されるとテーマのだぶりもなく、整然と整理されており、開発問題の本質を知る上で優れたツールになっていることを強く感じさせられました。反面で建設常任委員会の反応は冷たく、14日に委員会に上程された全案件(8件)は一括して「継続審議」になりました。「継続とは陳情そのものの空中分解」と結果を知らされた住民はがっくりしていました。

≪爆弾発言で騒然≫
 ところが建設常任委員の松中健治議員の一言で委員会の空気がガラリと変わりました。
「事業者は、右折レーン新設の為の海浜公園開削でスポーツ広場側が開削する分と同面
積の土地を寄付するのですね。とすると右折レーンの新設と寄付は、関係すると言ってるのですね。そうだとしたらこれは、完璧に便宜供与で、市長権限でも何でもない」

 この松中議員の発言に、議事中断し委員会室は騒然となりました。

 

さらに松中議員が「それじゃあ、右折レーンが出来ようが、出来まいが、寄付してくれるんですね」と踏み込むと、確認するからと緊急協議した議会事務局側から「公園への土地の寄付は、まだ確定した訳ではないので寄付に関しては削除します」との回答がありました。等価交換とまで言っていたのにいきなり「削除」です。最後まで傍聴していたTY

の兵藤さんは「信じられない光景でした。こんな人たちに私たちは、せっせと働いて税金を払っているなんて馬鹿馬鹿しいやら悔しいやら・・・」と興奮冷めやらない様子でした。

(コメント)

 松中発言のあと会場に現れた松尾市長との間で、短い対話が続きました。

(松中) 市長、あなたは山崎の焼却炉、北鎌倉の隧道などさまざまな案件に、住民の合意なくして進めないと言いましたね?それではこの開発も合意なくして進めないですよね。

(市長)100%合意が取れるとは言えません。

(松中)他では合意なくして進めないと言ってるのに、この問題は、別なんですか?何か他とは、違う理由があるのですか?

(市長)三者協議会の中で極力合意を求める努力はしていきたいと考えています。

 

 松中議員の建設常任委員会での爆弾発言は、停滞していた由比ガ浜開発問題の基盤を揺るがしかねない威力を秘めています。発言の影響が考えられるのは、❶15日から始まった三者協議会への波及❷すでに3、4ケ月中断したままの埋蔵文化財発掘調査や大店立地法の手続きのさらなる遅れ❸土地の等価交換による右折レーン新設構想打開のきっかけなどが想像できます。



 

 

 

 

 

 

 


鎌倉市広報広聴課課長が「謝罪の本音」について回答

(9月12日)広報かまくら8月1日号で神奈川県作成の古い「洪水浸水想定区域図」を掲載していたことが判明し、鎌倉市広報広聴課・内田彰三課長が住民投票の準備を進める市民組織「市役所移転を問う住民投票の会」に直接謝罪するという異例の事態になりました。市長ではなく、なぜ一課長が謝罪したのか、市長から指示があったのかなどいろいろ疑問が生じます。疑問への返信メールに基づく「謝罪の本音」です。括弧内は質問内容です。
会場桜栄(トリミング)住民投票の会説明会会場光景

≪何のための謝罪≫
 8月29日(水)に鎌倉商工会議所において開催された「市役所移転を問う住民投票の会」の市民対話に松尾市長が参加し、市民の方と市長の間で質疑がありました。市民の方からの「広報かまくら8月1日号に、本年1月26日に神奈川県が公表した洪水浸水想定区域図を参考にしないで、なぜ市が以前に発行したハザードマップを掲載したのか」という趣旨の質問をいただきました。

 これに対して、「神奈川県に市広報紙の掲載用データの提供について問い合わせたところ、市の広報紙で使用することについて了解を得ることはできなかった」という趣旨のお答えをしましたが、実際は神奈川県に問い合わせをした事実がなかったため、その原因について説明し、誤った発言に至ってしまったことについてお詫びしたものです。

≪謝罪については当然市長も知っておられることなのか≫
 市長に事実経緯を報告した上で、今回の対応を行っています。
≪どうして内田さんが矢面にたつことになったのか≫
誤った情報を市長に伝えてしまったのが、広報広聴課長である私であることから、私からご説明させていただいているものです。

≪誰の誰に対する謝罪か≫
 市として、「市役所移転を問う住民投票の会」に対して、事実の説明並びにお詫びするめ、会の代表である岩田薫氏に連絡し、お会いした上でお詫びしたものです。
≪「誤った情報」というのは何か。ハザードマップに関する情報を内田さんが市長に与えてしまったということか≫
 「誤った情報」とは、神奈川県が告示した柏尾川の「河川の氾濫による洪水浸水想定区域図」について、神奈川県は広報で使うために出すことはできないと広報広聴課で誤った解釈をしたことです。

≪市長が広報に今回の事案について謝罪する意図はあるのか≫
 できるだけ早い広報紙で神奈川県が告示した洪水浸水想定区域図を掲載するとともに、「市役所移転を問う住民投票の会」における市長発言をお詫びして訂正させていただく予定です。
≪9月議会の反応は≫
9月10日(月)現在、市議会において、本件についての質疑は行われておりません。

(コメント)
 9月7日付けのブログ(松尾市長またもや「広報かまくら」でフライイング)で、「8月1日の広報の騒ぎをそのままにしておいたら致命傷になりかねないとの判断からの謝罪になったと思われる」との考えを記しました。こうした推測以外にも、内田課長が述べておられるように「問い合わせた事実がないのに誤った発言をしてしまった」との心証には、大きな罠が潜んでいるように思えます。

 事実関係を明らかにしていく過程で、この虚構が明らかにされたということであるが、こうした心証が日常化しているとなると、地方行政の実態は透明とは程遠いといえるでしょう。虚構を許さず、あくまでも真実を突き詰めていく姿勢が市民の信頼を得る道だということを改めて認識し、行政を建て直していってもらいたいものです。内田課長も言っているように、次回「広報かまくら」での市長の意思表明を期待しています。

松尾市長またもや「広報かまくら」でフライイング

(9月7日)9月1日から10月1日まで、住民投票条例制定の署名収集が行われており、「広報かまくら」に市役所移転計画が明るみに出たのをきっかけに一部市民によって始まった住民投票の動きは、一段と現実味を帯びはじめています。ところが広報かまくら8月1日号に神奈川県作成の古い「洪水浸水想定区域図」を掲載していたことが判明し、広報公聴課の課長が住民投票の準備を進める市民組織「市役所移転を問う住民投票の会」に直接謝罪するという異例の事態になりました。あいつぐ重大なフライイング行為で広報とは何かという根本的な課題も浮き彫りになっています。
満席の住民集会
     8月末に行われた満席の市長との対話集会(「住民投票の会」提供)
≪ハザードマップめぐる県と市の食い違い≫
 役所移転についての市長対話集合は8月29日、鎌倉商工会議所ホールで開催されました。定員をはるかに超える162名の市民が参加し、立ち見も出るほどの大盛況でした。市長は市民の質問に答え、「洪水浸水想定図の広報への掲載にあたって神奈川県にデータの提供を問い合わせたのだが、了解は得られなかった」と釈明しました。市役所移転予定地の深沢地区の西端にあたる柏尾川については、県は「河川の氾濫による洪水想定区域図」を作成していました。
広報に掲載されたハザードマップ
 深沢地区は柏尾川の洪水浸水地域になっています。「広報かまくら」は古いハザードマップを掲載して、柏尾川の周辺部だけ浸水エリアにしていました。県の新しい洪水浸水エリアは、市役所移転予定地まで浸水域になっています。これを広報になぜ載せなかったのでしょうか。県は洪水浸水想定図は外に出して全く問題ないと言っており、市長は嘘をついたとして市民の反発をあおる結果となりました。

  ハザードマップは市町村が作成するもので県はつくりません。県の洪水浸水想定図をもとに鎌倉市がつくることになります。まだ鎌倉市は新しいハザードマップをつくっていません。古いままのものを使っています。市長は対話集合で市役所移転の必要性について語り、「現在の庁舎は津波浸水エリアにあり、50㌢水に浸かる可能性がある」と言っていました。今回の対話集会での混乱を契機に、はからずも柏尾川の洪水浸水問題が市庁舎移転の最大の争点として浮上してきたと言えそうです。

    広報かまくら8月1日号に掲載された県の洪水浸水想定図

≪内田課長の謝罪≫
 このあと8月31日に住民投票代表請求人の一人に広報公聴課の内田彰三課長から電話で「対話集会での松尾市長の発言は、全くの間違いだったので、謝罪したい」と言ってきました。対話集会では市長は「神奈川県に対して掲載用データについて問い合わせたところ、市の広報紙で使用することについて了承を得ることはできなかった」と発言しました。ただ市長が神奈川県に問い合わせたという事実はなく、全くの根拠のない架空の話だったので謝罪したいとの異例の申し出でした。

 3日には梶田俊夫、岩田薫ら代表請求人6人が市役所に行きました。市側からは内田課長と課長補佐が対応しましたが、松尾市長の姿はありませんでした。課長は「このたびのことは、大変申し訳ありませんでした」と謝罪、「市役所移転を問う住民投票の会における市長発言について」という題名のついた文書を手渡しました。

 対話集会で市民からの質問に答えたとき、市長は「広報に以前のハザードマップを掲載したことで広報掲載用データの提供について問い合わせたところ、広報での使用について了解を得ることはできかったと発言をしてしまった」ことなどに改めて言及したものです。それにしても県への個人的な“恨み節”が市の広報紙を思うように動かしたとなるとことは重大です。

(コメント)
 内田課長の謝罪に至る一連のいきさつは、市庁舎移転を計画通り実現したい市長にとっては、大きな失点といえるでしょう。8月1日の広報の騒ぎをそのままにしておいたら致命傷になりかねないとの判断からの謝罪になったと思われます。でも広報担当の一課長に頭を下げさせただけで、市長からの直接の説明はいっさいありません。それに課長の謝罪に市長はどの程度かかわっていたのか、市長からの謝罪の指示はあったのでしょうか。

 こうした疑惑があきらかにされなければ、住民投票の動きも大きく変わってくるでしょう。それに5月1日の市庁舎の深沢移転表明に続いて、8月1日のハザードマップをめぐる虚偽記事の掲載と「広報かまくら」の私的使用があいついだことで、市長が広報をどのようなものと考えているのかもぜひ知りたいところです。対話集合をきっかけにはからずも柏尾川の洪水浸水問題が市庁舎移転の最大の争点として浮上してきたといえます。

「被災者に寄り添う活動」をモットーに(広島豪雨災害報告❸)

(8月31日)東日本大震災、熊本地震、広島での豪雨災害と被災地をボランティアで周り、救援活動を続ける防犯・防災組織「鎌倉ガーディアンズ」代表の大津定博さんは、被災者に寄り添うことを活動の原点に据えています。現地での体験を鎌倉のガーディアンズの仲間たちに伝えて少しでも多くの市民を災害から守るサポートをしていきたいという理念を育んでいます。大津さんにその理念を聞いてみました。
鎌倉ガーディアンズ画像2防犯フォーラムでガーディアンズの活動について語る大津さん(鎌倉ガーディアンズのホームぺージより)


≪自然災害とガーディアンズ≫
 ガーディアンズは被災者に寄り添うという活動を一貫してすすめております。被災者は2度死ぬと言う言葉がありますがとても重い言葉です。1度目は災害に遭ったとき、2度目はみなさんから忘れ去られたときです。ガーディアンズは小さな団体で被災者を救う力などありませんが、せめて被災者のことを忘れずに覚えていただき、何か有れば寄り添い声をかけられるような優しい存在であり続けたいと思います。

 そのことをいつも市民に訴えられれば嬉しいことです。来年度は福島原発地区に現地見学ツアーを組んでいく予定です。福島では震災も津波も終っていません。福島では今でも災害被害は起こっていることです。それを忘れてはいけません。ガーディアンズの活動に「防犯」に加え「防災」を加えたのは、東日本大震災からのことです。被災地で多くの犯罪が起こっていることに気がつき、防犯と防災は表裏一体だと認識しました。

 ガーディアンズの仲間には、広島でボランティア活動を自由参加でよびかけました。ガーディアンズのメンバーで、市議の飯野真毅さんがボランティアをされました。鎌倉を考えるのが私達の活動の原点です。そのために現在100名のメンバーが頑張っております。青臭い正義感です。世の中は一人でも変えられるというのがモットーです。好きな言葉は「素志貫徹」です。安心安全と鎌倉の歴史を守ることです。

≪サラリーマンとボランティア≫
 私が勤務している東京のメガバンクには有休があります。それをほぼ全部使って、ボランティアをやっております。もちろん会社の理解と認可も頂いております。2度ほど日経で私の銀行業務とボランティアの両立の特集を組んでもらったとき以来、銀行は私の活動を支援してくれるようになりました。今では銀行内でも認められる存在になりました。仕事も全力で、ボランティアもできる限り全力で、頑張っております。

 資金は全額自己負担です。銀行で生活資金を稼いでおりますので大丈夫です。足りなくなることはありません。自宅が倒壊した場合に公費で補助が出ても、後片付けや処分・掃除は全て自己負担でやらねばなりません。また被災者の心や体が傷ついたり、疲弊した時には周りの人が助けてあげないと立ち直れません。災害ボランティアはその一番大切な部分を担っています。行政では到底できません。街を復興させるのは、行政の仕組み作りと、災害ボランティアの人間味のある支援が両輪です。

ボランティアの理想と限界(広島豪雨災害報告❷)

(8月25日)防犯・防災団体鎌倉ガーディアンズ代表の大津定博さんは、「50歳を越えた人には無理」といわれながら広島土砂災害の猛暑の現場でボランティア活動を体験してきました。ボランティアとは何なのか。広島で何を学び取ったのか。大津さんの体験記を通して広島豪雨の実態を報告します。
豪雨で土砂に埋もれた公園(大津定博さん提供)
≪50歳以上は無理と言われて≫
 東日本大震災の津波被災地と似た光景ではあるが、圧倒的な違いはその流れ込んだ大量の土砂であり、復旧までの行程がいっそう厳しい作業となる。加えて殺人級の猛暑が広島を襲う。そこで被災者を救うのはボランティアである。住民の家屋に土砂をかき出してはひたすら土嚢に入れる。灼熱での一日2時間、10分作業しては10分休憩。予め2リットルの飲み水を用意。マスクとゴーグルも必携。

   広島の住宅地で土砂に覆われた公園(大津定博さん提供)
 私が災害ボランティアセンターで並んでいると「50歳を超えた人は無理だ」と言われた。ここまで来て帰れないと思ったので、「体力には自信がある。少しでもやらせて欲しい」といって無理やり加わった。それからが地獄。40度近い猛暑と終わりの見えない土砂との戦い。直ぐに体が動かなくなった。スピードが遅れ始める。50歳代の私には無理だ!やはりこのボランティアは若い人が不可欠だ。学生ボランティアの力の結集が必要だと思う。

≪会話こそ心のメンテナンス≫
 感動したのは作業中、被災者にはなるべく声をかけ、会話になったら作業を中断し会話を優先する事を言われたことだ。それが被災者の心のメンテナンスに繋がると言われた。私は地区の方になるべく声をかけて、話しを聞いた。もらい泣きするような話もあった。本当に皆さんがよく喋られた。とても勉強になった。行政への不満、天候への不安、ボランティアへの感謝、広島カープの事・・・・・いつまでも聞いた。

 矢野地区の矢野小学校の広本典子校長先生と遭遇した。ひたすら各戸に封筒を配っていたので、お手伝いをしましょうか?と声をかけた。小学校の校庭の土砂の撤去がようやく始まるので、そのご挨拶にお手紙を地区の方に配っているとのこと。周辺の被災者は「大量の土砂が山から流れたが、中腹にある矢野小学校の広い校庭がその土砂を受け止めてくれて、犠牲者が少なくて済んだ。」と言っていた。その話しをすると嬉しさに涙ぐまれた。

 大変にお疲れの様子も分かり、ご心痛を考えるとやりきれない思いがする。住民の盾となった矢野小学校、隣接する矢野幼稚園には2m近い土砂が今でもグランドを覆っている。9月の始業式までには土砂の撤去は間に合わないらしい。ここでも犠牲者は生徒である子ども達であろうか。なんとか救う方法はないだろうか?

≪実感した土砂災害の怖さ≫
 東日本の一番の心配事は大地震である。地震は確かに破壊力は大きいが、大雨による土砂災害は経済的な損失などを考えると、京都大学の試算によれば、地震をはるかに上回るとのこと。そして治水対策や崖地対策は先進国の中で、日本はかなり遅れているといわれる。気象庁や市町村から、「避難指示」、「特別警戒」などが出される。これが煩雑で市民には分かりにくい。この他に「土砂災害特別警戒」もある。この警報の意味を分かりやすくできないかと思う。地震のように震度3、震度5強など、高齢者にも分かり易い基準が必要と感じる。

 また防犯と同じで、自分の命は自分で守ることが一番大切である。行政の対応には限界があり、行政依存では自分の身は守れない。ハザードマップを一度も見ていない市民が如何に多いか。行政が幾ら防災を呼びかけても、自分は大丈夫と言う「正常性バイアス」がかかっている。今回の災害は自宅で逃げ遅れて、自宅で亡くなった方が8割と言う。東日本大震災の津波の時と同じく、災害からの逃げ遅れである。土砂災害は瞬時に起きる。情報に耳を傾けて、早めの避難が鉄則だ。

 古来から犯罪や災害は地域力を考える一番のカンフルと言われる。コミュニティーは災害や犯罪を乗り越える事で作られるという説もある。この災禍を乗り越えて、災害で悲しまない国になって欲しい。それには、市民と行政の互助努力が必要である。私は犯罪や災害で苦しむ人をこれ以上見たくない。私は今後も、被災者に寄り添いながら、防犯や防災を考えて行きたい。そして募金活動を通じて支援も続けて行きたい。(つづき)

ボランティア体験で鎌倉の防災を考える(広島豪雨災害報告❶)

(8月22日)防犯・防災ボランティア団体鎌倉ガーディアンズ代表の大津定博さんは、東日本大震災、熊本地震に続いて、7月に広島を襲った大規模な土砂災害でも現地に飛び、救援ボランティアに携わってきました。いずれ鎌倉でも避けられない震災・津波による被害を最小限に食い止めるためにはどうしたらいいのかをガーディアンズのテーマとして常に考えており、広島での体験を新聞社に寄稿するためにまとめたボランティア報告を読ませていただきました。大津さんの広島土砂災害体験記として2回に分けて報告いたします。
ごみ処理に当たるボランティアたち
     広島市内でごみ処理に当たるボランティアたち(大津定博さん提供)   
≪車で広島の被災地入り≫
 車で山陽自動車道を走り広島に近づくと、山肌にがけ崩れが方々に見て取れる。被災地に近づいたと言う気持ちで、いつも胸が痛む。東日本大震災の直後に鎌倉ガーディアンズで初めて新幹線で現地に入ったときに、窓から見える東北の住宅街は、屋根のブルーシートで青一色だった。その風景は今でも忘れない。それを連想させる。8月4日災害が起きてから三度目の広島である。一度目と二度目は新幹線で現地入りした。

 いつもは雨が少なく、晴れた日が多い。広島はレモン出荷が日本一である。しかし7月6日夕方~7日明け方に降り続いた大雨が、平成最悪の豪雨被害を招く事になったのだ。地元気象台は、200年に一度の豪雨と発表した。4年前には、その広島の三方の山並の北側を豪雨が襲い、70名以上の犠牲者が出た。有名な「広島土砂災害」である。
 
 当時ヤンキースの黒田投手が、わざわざ広島に帰ってボランティアをしたので話題にもなった。それ以来、私は常に黒田投手の写真を持ち歩いている。そして、今年7月、今度は東側を大雨が襲った。花崗岩の山である広島地方は大雨にもろい。「真砂」と言われる独特の白い砂である。見た目は綺麗だが、災害には弱いと言う。

≪矢野地区でボランティア活動≫
 鎌倉ガーディアンズの飯野市議が既に広島でボランティアを経験済みであるが、私は飯野市議とは少し離れた、土砂が一気に流れ落ちて犠牲者の最も多かった矢野地区でボランティア活動をすることにした。矢野地区というのは、避難を誘導していた警察官二人が犠牲になった所で、安倍首相も視察に来た、最も悲惨な被災地の一つである。つい最近は、嵐の松本潤さんが来た。この日は隣の被災地で木村拓也さんが来たという。

 矢野地区の犠牲者のほとんどが土砂の下敷き・生き埋めであったという。この地形は、鎌倉で例えるなら、西鎌倉・ハイランド等の新興住宅街の地形である。山に向かって扇状に住宅街が広がっている。その山が一気に頂上から崩れ落ちた。復旧には、自衛隊はまず最初に行方不明者の捜索からはじめる。土砂が多くても重機は絶対にいれない。手作業でゆっくりと丁寧に行う。重機で人間をつぶすことになるからだ。

 行方不明者の捜索が一通り終ったら、やっと重機で土砂を運び出す。それまでに、二週間以上かかった。行方不明者の捜索が難航を極めたからだ。捜索が終れば、自衛隊は県道や市道の土砂の撤去は行うが、基本的に個人宅の土砂の撤去は自己責任と言われる。土砂は凡そ1m以上積もっている。それを撤去するのにとても家族だけでは無理である。ましてや、老人では絶対に無理だ。床の板を外して、流れ込んだ泥を全て取り除いて、乾燥させて、板を戻して、畳をひいて、の復旧作業だ。一軒でのこの行程は気の遠くなるほど時間がかかる。
(つづく)

右折レーンで新たな火種(由比ガ浜開発計画94)

(8月19日)由比ガ浜開発問題のネックになっている国道134号線交差点での右折レーン設置案は、行政側からの明確な判断が下されないままさらに長期化しかねない状況です。ところが事業者側の大和情報サービスなど2社が商業施設・共同住宅建設を計画している土地の一部を市側に寄付して、土地交換の形で右折レーンの早期設置を迫っているという動きが判明し、市議会などで新たな火種となりかねません。
        安定した天気の日曜だが、人出は今一つの由比ガ浜海水浴場(高木治恵撮影 2018.08.19)
 この土地交換による交差点構造変更の動きに対し当初市長が難色を示したことにより、右折レーン設置の基本方針に係る県や事業者との協議・調整が新たに発生したというのが新たな長期化の現状のようです。この結果事業者側は計画されている共同住宅南側の約150㎡の土地を市側に寄付するという筋書きです。実は昨年夏ごろに市側から土地の一部提供での解決方法を提案したことがあり、その時は事業者側が反発して終わったということもあったようです。でも今回は市長の合意の上で準備が進んでいるということになります。

 今後は市議会への住民側からの働きかけが必要になるでしょう。右折レーンの設置そのものに「事業者への便宜供与だ」と反発していた松中健治市議は、「市長が事業者と秘かに協議して、工事予定の敷地の一部を市側に寄付するから右折レーン工事を認めてくれということなのだろうが、こうした話は市議会の議決事項である。市長の独断で進められることではない。地元が立ち上がらないと事業者側にまるめこまれてしまう。背任行為ともいえる市長の独断を許してはならない」と強く反発しています。


 住民側は新たな陳情書を作って市議会の動きをサポートしていこうという構えです。さらに地元自治会は事業者、鎌倉市との三者協議を開催して、土地交換についての真意を糺していく構えです。現状のままでの由比ガ浜の開発に異を唱える市につい民運動Think Yuigahama(T.Y.)も三者協議に加わり、現地だけではなく、広く市民の意向を反映させていこうと準備を進めています。

≪今後の由比ガ浜開発計画の流れ≫
 右折レーン
については現在、各課協議と合わせて県との協議が行われており、地元自治会との市道安全対策協議、庁内開発事業協議会が約2か月かけて行われることになっています。しかし右折レーン整備基本方針に土地交換による交差点構造変更の動きが加わり、新たな協議・調整が発生して全体の工程表が大幅に伸びている現状です。各課協議終了後、協定が締結され30日以内に都市計画法、風致地区条例に基づく許可申請が出されます。

 許可が下りると大規模小売店舗立地法による届出が行われ、約10ヶ月かけて説明会・警察協議・住民通知・審議会に移行します。この動きと並行して埋蔵文化財発掘調査が約1年行われ、その結果を待って建物工事、右折レーンの整備を経て工事完了、オープンに至りますが、どれまでにいくつものハードルをクリアしなければいけません。この間協定締結に先立って、三者協議が開催され、事業者と自治会で工事協定が締結されます。この長丁場をいかに乗り切るか、住民にとっても大きな試練です。

(コメント)
 松尾市長は国道134号線交差点での右折レーン設置そのものには反対しているわけではありませんが、工事が市有地の海浜公園にまで食い込むことで最終判断に影響を与え、鎌倉市の開発許可が滞っていて再開のメドも立たないという現状のようです。これに加えて今回明らかになった土地交換方式について、市長が明確な回答を出さないと右折レーン増設だけでなく、開発問題そのものにも影響が及びかねません。さらには北鎌倉の隧道問題や大倉幕府跡のマンション建設問題などにも飛び火しかねません。さしあたり9月市議会での行政と議会の議論の行方が注目されます。

(街角の風景)シロナガス挽歌

(8月7日)猛暑が続く5日午後、シロナガスクジラの子どもが由比ガ浜海岸の西端に近い坂ノ下の砂浜に漂着しました。この暑さで体力を維持できなかったのでしょうか。絶滅危惧種に指定されている巨大なクジラのなれの果ては、無数のトンボが弧を描くように飛び交って見送りました。
シロナガス1
             クジラの漂着で集まった住民

 漂着直後にはヒゲクジラではないかとされていたのですが、20時間ほど経過した6日朝には国立科学博物館職員の調査でシロナガスクジラと判明しました。体長10.52㍍の雄で死因や生息状況などを調査するために解体後、午後に博物館の研究施設に移送されました。本来海にいる生物が打ち上げられることはストランディングといわれ、とくに死んだ後の漂着デスストランディングは巨大であればあるほど人間の想念につながるようです。

 話を聞いて中学生になって初めての夏休みの孫娘と妻が飛び出して行きました。「炎天下に長く放置され、痛みが早く臭いも次第に強くなっているようで、トンボの群が飛び交っているのも何とも不思議な光景だった」との報告を聞きました。私は猛暑を避けて5日夕、リハビリのポールウォーキングに出た時に現場近くにさしかかり、海岸に人の気配を感じたのですが、見過ごしてしまいました。ヘリコプターも旋回していました。
シロナガス2     
     漂着クジラの計測をする関係機関の職員と低空を飛びかうトンボの群(いずれも高木治恵撮影 2018.08.06)
 クジラの漂着は異常気象と関係しているのではないかと思いました。科学的なデータに裏付けられたものではありませんが、2011年3月11日の東日本大震災の年にも前後してクジラの異常現象があいついで報告されています。今回の漂着の事例は過去の集団漂着とは規模も環境も違うのでこの因果関係説には、何も言えませんが、科学博物館の研究成果に期待してのシロナガス挽歌とします。

大倉幕府とは何か(揺れる遺跡の真実に迫る❶)

(8月4日)マンション建設計画で脚光を浴びる「大倉幕府(御所)」とは一体何なのでしょうか。遺跡に係る基本的な事項を知ることによって、現実に起きていること少しでも正確に把握したいと思います。これまでに刊行された「大倉幕府」・「大倉幕府周辺遺跡群」発掘調査報告書から「大倉幕府とは何か」を探ってみました。

≪鎌倉時代以前の大倉≫
 弥生時代中期から後期にかけては滑川の段丘上に大きな集落が営まれていたことが、発掘調査でわかっています。後期には大倉幕府周辺遺跡群にある荏柄の地で古墳時代前期の住居址数軒が発見されました。さらに雪ノ下字大倉耕地で見つかった東御門川旧流路からは大量の土器が出土しています。この流路は鎌倉時代になると大倉幕府の東側境堀になりました。
大倉幕府復元図
 王朝国家時代の11世紀なかば、前九年の役平定に功のあった陸奥守鎮守府将軍源頼義は、岳父平直方から所領の鎌倉を譲られます。康平6年(1063)石清水八幡宮を鎌倉由比に勧請しました。頼義の館については、南北朝時代の歴史書『保暦間記』は大倉幕府の地だとしています。以来鎌倉は河内源氏正統の根拠地となりました。
1992年の発掘調査報告書に掲載された大倉幕府復元図

≪大倉幕府創設で始まった鎌倉時代≫
 鶴岡八幡宮東側の雪ノ下3丁目から4丁目にかけては古来、「大倉(大蔵)」と呼ばれていました。治承4年(1180)10月6日、鎌倉に入った源頼朝はまず、六(むつ)浦(ら)道(どう)(県道金沢鎌倉線)沿いに御亭を造営、大倉幕府と呼ばれるようになりました。はじめは亀ヶ谷にあった父義朝の旧亭跡(寿福寺)に建てようとしましたが、土地が狭い上にすでに義朝の菩提を弔う堂が建っていたために断念し、大倉の地にしました。

 大倉幕府は北側の広大な長方形(平行四辺形)の区画でした。頼朝・頼家・実朝の源氏三代将軍がこの大倉幕府の地で政務を執り行ないました。東西が南辺370m・北辺320m・、南北210㍍で、少し東に傾いだ平行四辺形になっています。神奈川県遺跡台帳には「大倉幕府跡」(鎌倉市No253)として登録されています。しかし遺跡としての実態があいまいなこともあり、国指定史跡にはなっていません。

 『吾妻鏡』によると幕府の東西南北にはそれぞれ門があり、郭内には寝殿・大御所・小御所・対屋・北向御所・常御所・御所対面所・釣殿・侍所・問注所・弓学問所・進物所・厩(うまや)などがありました。全体として寝殿造りを中心としながら、厩など武家的要素も加えられていたようです。以後大倉幕府は何度か罹災し、そのたびに建て替えられきました。

≪45年で大倉幕府廃絶≫
 嘉禄元年(1227)北条政子が死ぬと、幕府移転が議論されるようになりました。宇都宮辻子(ずし)が造られ、45年間続いた大倉幕府は廃絶、政治の中心は若宮大路一帯に移行しました。廃絶後も大倉幕府の跡には御家人屋敷や町屋がありました。廃絶から300年たった天文14年(1545)鎌倉を訪れた連歌師宗牧は『東国紀行』の中で、大倉幕府の跡が畠にもならず芝が繁り、馬が放牧されていると記していました。

2つの大仏(前田耕作さん鎌倉の世界遺産について言及)

(8月1日)日本イコモス国内委員会副会長の前田耕作さんが鎌倉三日会の講演「バーミヤンに生きる」の後の質疑で鎌倉の世界遺産登録に言及されました。「鎌倉にはシンボルとなるのは大仏しかない。シルクロードの終点は鎌倉だと思っている。2つの大仏を通して、鎌倉の世界遺産への登録についてお聞きしたい」との会場からの質問に答えたものです。世界遺産登録再挑戦を進める鎌倉市への具体的な対応とも受け取れる内容です。発言のポイントをまとめてみました。
前田先生の講演スライドより
      バーミヤン全景(後方の絶壁に爆破された大仏の2つの空洞がみえる)(講演スライドより)

≪「武家」の英訳が最大の障害≫
  アフガニスタンの展覧会が開かれた時、1枚の写真をカタログに載せてもらいました。それは鎌倉大仏の写真でした。経済ミッションが来日した時、鎌倉にも来て大仏を訪問しました。その写真が両国関係の記念すべきものとして残っています。大仏を通して、バーミヤンと鎌倉は唯一の親しい関係にあることを示すものだと思っています。ヨーロッパ人が気になるのは「武家の世界」ということでした。

 鎌倉の世界遺産登録の時に私も拝聴したことで、「武家」とは英語ではwarriorつまり「戦士」である。相手を殺さないと自分が殺される。ある意味では殺しをなりわいとしないと、日本人の命はもたないということで、「戦士」が日本人の象徴としての意味を担っています。ウオリアーといった言った途端に、みなが引っ込んでしまう。それは本来の鎌倉のイメージではない。「武家」以外の言葉だと説得するのがなかなか難しい現状でした。

≪外国人の説得≫
 世界遺産登録で票を投ずる人たちはこうしたディテールについては、誰も理解していない様子でした。日本の主張にはこれまで無理をいってきたことはありません。妥協性をきちっと踏まえていると言っています。2回目に票を集めるのかどうかは、外交の手腕がかかわってきます。ディプロマティックなポリシーのやり方次第です。「理屈」のところで逃げては駄目だというのが私の主張で、そこで頑張ってほしいということです。外国人を納得させるということを絶えずやっていかなければ駄目です。

 昨年東京芸大で6日間にわたって、バーミヤンの大仏の再建は是か非かということで議論しました。韓国の人たちは「大仏なんか関係ない」と勝手なことを言っていましたが、日本は「大仏を今すぐ作ってしまおう」と主張しました。政治的なターゲットになった時に誰が責任を持つのかということになりました。イスラム原理主義組織タリバンがOKしなければ、踏み出せない状況で、アフガニスタンの国内問題となりました。

 平山郁夫先生は負の遺産として残そうと主張されましたが、賛同は得られませんでしたた。結局バーミヤンについては大仏の復元をするのかどうかは、全国民的な議論にしていこうということになりました。タリバンを含めてアフガニスタン側がイエスと言ってくれなければ、踏み出すべきではないというメッセージは伝わったと思います。

≪アイデアを新たに≫
 鎌倉はあのままでいいのかということでは、もう一度世界遺産に挑戦するなら、本当にアイデアを新たにしてやるべきだと思います。確かにいろいろ考えなければいけないということはあるのでしょうが、ポンポンポンとあるものを「武家」で結んでいくのは、なかなか説得が難しいと思います。「武家」そのものについては十字軍みたいなものは、どうなるのかということになりますが、そこでの議論は鎌倉には当たらないだろという気がします。

 僕らはどう見たって鎌倉で肌で合うのは、社寺であることを中心として中世世界があることは事実なので、どうやって鎌倉の誇りとして押し出していけるかということになるでしょう。大仏は非常に面白い存在だしバーミヤンのおかげで、世界的に大仏は敬意の対象となってきました。知恵を絞らなくてはならないのですが、何といっても多数をにぎっているのは我々以外の人たちなので、その人たちを納得させられるアイデア、理念を共有できるようにすることが出発点だと思います。

≪説得下手の日本人≫
 われわれ日本人は説得が下手である。鎌倉もお金をかけて世界遺産の経験者を呼んでも、彼らは勝手なことを言うから、それに基づいて(世界遺産登録を)進めるということはとても難しい。自分たちで自分たちの理念を作り出すということが、何といっても世界遺産を実現していく上で最も重要なことだと私は思っています。そういう意味でより多くの知恵を結集することをみなさんが中心となってやるべきです。

 平山先生のようなシンボル的な人物がいると、ことは進みやすいのですが、早くお亡くなりになりもう10年がたちます。最近薬師寺に行きました。食堂(じきどう)の再建をしたのですが、食堂よりも膨大な蔵書を保管する経堂をつくってほしいですね。知的世界の足跡を示すものがほとんどなくなり、中国や韓国に流れています。シルクロードを通って先人が持ってきたさまざまな世界が消えてしまいました。日本が始めた学問の領域なので、何とかしなくてはと思っていたら、食堂の方が先に再建されてしまいました。

 中国は膨大なお金で買っていきます。神田でもシルクロードの時代の古典的な本が何年も並んでいたのだが、最近行ってみたらあっという間になくなってしまいました。勉強しようという意欲にあふれているのか。ほとんどが中国に持ち去られてしまいました。日本あるものは財産が散ってしまうので、施設を造ってそこに集めるようにすれば、先生のものも保全されます。鎌倉でも自分たちが持ってきている知的遺産をちゃんと留め置き、それを利用し、さらに世界遺産に結び付けて世界に向けて発信していくところになれば、とてもいいのではないかと思っています。

プロフィール

高木規矩郎

昭和16年、神奈川県三浦三崎生まれ。読売新聞海外特派員としてレバノン、イタリア、エジプト、編集委員としてニューヨークに駐在。4年間の長期連載企画「20世紀どんな時代だったのか」の企画編集に携わる。のち日本イコモスに参加、早稲田大学客員教授として危機遺産の調査研究に参加。鎌倉ペンクラブ、鎌倉世界遺産登録推進協議会に参加、サイバー大学の客員教授として「現代社会と世界遺産」の講義を行う。

【著書】
「日本赤軍を追え」(現代評論社)
「パレスチナの蜂起」(読売新聞社)
「世紀末の中東を読む」(講談社)
「砂漠の聖戦」(編書)(講談社)
「パンナム機爆破指令」(翻訳)(読売新聞社)
「ニューヨーク事件簿」(現代書館)
「20世紀どんな時代だったのか」全8巻(編集企画)(読売新聞社)
「20世紀」全12巻(編集企画)(中央公論新社)
「湘南20世紀物語」(有隣堂)
「死にざまの昭和史」(中央公論新社)

《写真撮影と景観からの視点》
写真は妻の高木治恵が担当します。特派員時代からアシスタントとしてインタビュー写真などを撮ってきました。現在は「鎌倉景観研究会」で活動しています。

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