鎌倉の世界遺産登録を考える

鎌倉市在住のジャーナリスト高木規矩郎による公式ブログ。鎌倉の世界遺産登録をめぐる動きを追っています。

修復あいついだ鎌倉の文化財の現状(ICP講演会)

(8月25日)「未来に引き継ぐ鎌倉の歴史遺産」をテーマとした講演会が21日、鎌倉女子大学二階堂学舎ホールで開催されました。神奈川県文化財協会会長の八幡義信さんが鶴岡八幡宮段葛と鎌倉大仏で行われた「平成の大修復」の現状をを通して報告すると同時に、御成小旧講堂、町立図書館の保全など変貌する今小路の歴史遺産について語りました。講演の流れをまとめました。
講演の八幡さん緑滴る二階堂学舎で講演される八幡さん

 講演会を主催した「NPO法人ICP鎌倉地域振興協会」(八幡理事長)は、2001年に設立され、自然や歴史、文化的・人的資源を知り、愛し、育み、新しい鎌倉を創造する分科会活動を通して情報発信を続けてきました。活動の一環として「鎌倉の桜」「「守られた鎌倉の中世遺跡」「鎌倉のやぐら」「和賀江島と六浦津-東アジアとの交流」の講演会、シンポジウムなども続けており、今年は「歴史遺産」をテーマに取り上げたものです。

≪平成の段葛改修整備≫
 治承4年(1180年)鎌倉入りした源頼朝は、源氏の氏神である由比若宮(元八幡)を現在地に奉還し、鶴岡八幡宮を起点とした中世鎌倉のまちづくりに着手します。その第一歩が寿永元年(1182年)3月に実施された若宮大路の造営でした。大正の大改修当時の姿がおおむね現在みられる段葛であろうと考えられます。段葛整備検討委員会(八幡会長)では段葛を含む八幡宮境内が昭和42年国史跡に指定された当時を整備目標としました。

 整備前に県道側と段葛歩道側に積まれていた玉石は、ひび割れが多く崩落も確認されていました。原因のひとつとされた桜樹根の伸長による圧迫に対して、桜樹の除去が整備計画の主眼となりました。検討を重ねて248本のソメイヨシノの」うち約30本は境内の平家池脇に移植し、その他の老木は伐採することになりました。さらに60~80㌢の地下で遺構が見つかったので、埋蔵文化財には手をつけないという基本姿勢から新たに段葛表面に約80㌢の盛土をして遺跡保存を図りました。

≪平成の大仏診断≫
 2016年1月13日、鎌倉大仏は55年ぶりの全面補修に入りました。1959年から2年半かけて行われた「昭和の大修理」以来、約50年ぶりの点検・補修作業でした。独立行政法人「東京文化財研究所」が調査を担当しました。露座であるため潮風や酸性雨、鳥の糞などにより表面が錆びるなど劣化が進んでおり、エックス線をあてての銅仏の状態調査、超音波メスによる錆の除去、昭和の改修で設置した免震装置の検証、新たな免震対策を行いました。

 体部は下方から7段に吹き上げ、頭部は前面で5段、背面で6段に鋳継いだ鎌倉時代の仏像彫刻の中で傑出した作例で、鋳造の技と仕上げの冴えを示す大作です。大仏表面の汚れを落とすクリーニング作業も順調に終わり、損傷状態や金属状態の調査では大きな損傷や悪い錆は確認されませんでした。また免震装置のステンレスにも劣化などはなく、診断結果は良好とのことでした。ただガムの付着が130か所以上で見つかりました。

≪今小路の歴史遺産≫
 今小路は武蔵大路から大町大路に通じる鎌倉府内西側の幹線道路の総称としてとらえるべき古道です。中世には寿福寺や浄光明寺、海蔵寺はじめ多くの社寺が建立され、江戸時代には水戸徳川氏により英勝寺が建てられました。近代では1899年(明治32年)、皇室御用邸が置かれました。現在の鎌倉市役所や商工会議所、御成小学校などが集中する鎌倉の文化的中枢です。

 御成小校地の地下には今小路西遺跡があります。1933年(昭和8年)に御用邸跡に建てられた木造校舎の改築に伴い、1984年から92年まで8年間に5次にわたる遺跡調査が行われ、古代から近代に至る鎌倉の時代的な変遷が明らかにされました。とくに古代(奈良・平安時代)の鎌倉郡衙と推定される政庁および正倉遺構の出現、天平5年の銘がある木簡の発見は、鎌倉が古代から当地域の中心に位置していたことを実証します。

 今小路西遺跡の中世遺構では、南北に並ぶ広大な武家屋敷とそれを取り巻く庶民の居住区、まちなみと泥岩で舗装された道路などがあいついで検出されました。玉砂利を敷き詰めた中庭などの状況から、北条得宗家(嫡流家)か、それに近い上級武士の屋敷であると推定されました。馬上の三物(みつもの)としての追物(おいもの)射(い)である牛追物、犬追物、流鏑馬、笠懸など武芸の鍛錬が行われた場所と考えられています。

≪結びの言葉≫
 古代からの歴史でつながっている鎌倉は、タテとヨコのかかわりをうまく生かしながら、現在につながるまちづくりが大切です。古い中世から近世、近代の建物をうまく利用しながら、現在の生活にあうようにしなければいけません。古いものをもう少し緩やかな形で現在の生活の中にいかに工夫して取り込んでいけるか問われています。

(コメント)
 八幡さんは段葛整備検討委員会の会長をされてきたので、段葛の遺構について詳しい話が聞けると思っていたのですが、詳しくは述べられませんでした。リニューアルにあたって遺構保存にどこまで配慮されたのか、遺構はどんなもので、いずれ内容についてお聞きできる機会はあるのか等、聞きたいことは山ほどあります。鎌倉大仏や今小路遺跡などはさておいて、段葛にもっと時間をとっていただきたかったと思います。

 結びで「古代から中世、近代、現在につながるまちづくり」に言及されたことは、行政が進めている「まちづくり」の理念です。中世の武家社会に絞った「まちづくり」は大きく姿を変えて、講演にかけつけた鎌倉ファンや市民の考えをも変えつつあることを実感させる講演だったと思います。

≪史跡を歩く8≫泰山木の木陰で(浄光明寺のやぐら)

(8月19日)灼熱の夏の日差しが降り注ぐ史跡浄光明寺で6月末、連続講座「鎌倉の文化財、その価値と魅力~比較研究から見えたもの」として「やぐらの広がり」の講演が行われました。その前段としてお寺と近隣の谷戸のやぐらを見学しました。中世鎌倉の原風景ともいえるやぐら群が浄光明寺とその近辺にしっかりと原型がたもたれていました。講座の参加者は境内のピンク色の花が満開の泰山木の木陰でしばしの涼を求めていました。
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      浄光明寺客殿で行われた比較研究連続講座
≪東林寺やぐら群≫
 まず鎌倉市教委文化財部の担当職員の案内で、浄光明寺が管理している近くの東林寺やぐら群を見ました。重要文化財「浄光明寺敷地絵図」にも名前がみられる東林寺跡ということで、10基ほどのやぐらが住宅地の奥にありました。玄室内部が細かく区切られていて、上下二段にいくつもの龕(がん)がありました。やぐら前には現代の墓地がひろがっていて、玄室の中にも墓石が入り込んでいるところもあり、中世の歴史との共存の光景ともいえそうです。
DSC_0694境内に咲く泰山木

≪浄光明寺のやぐら≫
 次いで浄光明寺の仏殿裏山の石段を上って中腹の平場にある網引地蔵やぐらに案内されました。入口で講座参加者を待っていた住職の大三輪龍哉さんが代わってやぐらの解説をしてくれました。錠前付きの木戸を潜って中に入ると広い玄室の中に石造地蔵菩薩(通称網引地蔵)が安置されていました。背中に地蔵が作られた年を示す正和2年(1313年)の年号の銘がはっきりと確認されました。

 お寺の保存管理が行き届いていて、やぐらも羨道(せんどう)、玄室(主室)、納骨穴、龕などやぐらの構成要素がはっきりと見て取れます。地蔵は堅い伊豆石(安山岩)を使って彫ったものです。頭上には座像の天蓋があったのではないかとみられる円形の彫り込みがありました。めったに機会がないやぐらの内部を住職の案内でじっくりと見学できたのは、貴重な体験になりました。
DSC_0713網引地蔵を案内する大三輪住職(写真はいずれも高木治恵撮影 2016.06.26) 

≪やぐらの比較研究≫
 史跡として国の支援を期待するような保全管理上の問題はないのかと聞いたところ、 住職は「今のところ支援を要請しなければならないことはありません。お寺でしっかりと管理できています」と胸を張って言っておられました。1時間にわたるやぐら見学のあと、客殿でやぐらの比較研究を行った逗子市教育部で文化遺産の調査・保護に関わる専門職員が「やぐらの広がり」の中間報告を行いました。

 調査を行ったのは、上総・安房(千葉県富津市、館山市、南房総市など)、陸奥(宮城県松島町・瑞巌寺など)、加賀(石川県小松市・八幡神社)、能登(石川県志賀町・中世墳墓窟)、越中(富山県高岡市・円通庵遺跡)、豊前(福岡県豊前市・如法寺、夫婦木など)、豊後(大分市・曲石仏、少林寺)、豊後(大分県豊後大野市・普済寺跡)の8地域に遍在する中世石窟遺構です。

 鎌倉のやぐらとの比較研究の結果、形態的な異同が見られるものの、基本的にはやぐらと同様の性格を有すると考えられる遺構が国内各地に存在することが確認されました。寺院との関わりを想定できる遺構や、水陸交通の要衝にある遺構が多く、調査地域と鎌倉の関係が深いと推定されるものの、必ずしも明確ではなく、今後の課題として残されました。

 報告では遺跡の形態などから房総は鎌倉と同じ文化圏に属し、人的交流も盛んだったことが示されます。だが房総を除くと、鎌倉のように長期にわたって広範に造営されることはなく、一時的、局地的もしくは単発的なものに留まったとしています。中間報告のまとめとしてやぐらは、供養を主目的にした中世鎌倉とその周辺地域に広まった施設で、法脈など鎌倉との何らかの関係性を足掛かりに造営した地域もあったものの、各地に拡散、普遍化することはなかったと結論づけています。

≪やぐらは鎌倉独特の稀有な遺構≫
 調査によって改めてやぐらと鎌倉のつながりが再認識されたといえそうです。やぐらは谷戸と山稜部の自然地形を生かしつつ造営されたもので、鎌倉に独特の宗教空間を構成する稀有な遺構というわけです。名越切通のまんだら堂やぐら群のように床面が平坦で、奥壁・側壁に沿って檀を設ける場合もあります。百八やぐらなど壁近くか玄室中央の床面に穴をあけ納骨して石塔や石仏を建て、壁面に石塔などのレリーフを残す例もあります。

 講演の前に見学した東林寺やぐら群や網引地蔵やぐらは、原型を保ってしっかりと管理保存されています。まんだら堂も逗子市の保存体制が行き届いており、文化遺産としての価値は十分にあると思います。でも鎌倉のやぐらの大半は朽ちかけています。中間報告を聞く限りでは見て回った国内の中世石窟遺構をスライドを使って、観光ガイド的にさらりと説明しているだけです。各地の管理保存体制に学ぶところはなかったのでしょうか。

小泉淳先生「崩落」についての見解表明(緑の洞門急転3)

(8月16日)北鎌倉隧道(緑の洞門)の洞口近くで発生した岩盤の崩落について、日本トンネル技術協会の報告書作成に関わった第3者委員会の早稲田大学理工学術院小泉淳教授から16日、現段階で考えられる崩落の原因などについて回答がありました。一方住民組織「緑の洞門を守る会」は14日、改めて洞門封鎖を解除して安全対策を早急に講じ、通行の再開を求める声明文を発表しました。
●●崩落した岩盤(緑の洞門の坑口)(岩田)
      剥落した「緑の洞門」洞口の岩盤(岩田薫さん提供 2016.08.12)
≪行政への不信感に変化も≫
 冒頭では「動きがありましたね」として、4月4日の開削工事着工以来135日にわたって休工が続いている中で、岩盤崩落という最悪事態ながら洞門についての変化の兆しとして受け止めておられるようです。先生は5月はじめの会見で、第3者委員会の報告内容を無視する形で洞門開削を決めた松尾崇市長に対する不信感を持っておられました。その流れの中で今回の崩落をどのように見ておられるのか、教授の発言に住民などからも関心が寄せられていました。

≪崩落は必然だったのか≫
 まず「崩落があった個所は先生も『事前に亀裂のある危険個所を削っておいた方がいいのでは』と指摘されて」おられたところです。崩落は必然的なものだったのでしょうか。それともほかに何らかの原因が考えられるのでしょうか」との質問に対する回答です。先生は 「必然と言えば必然かも知れません。また樹木を伐採していないことが原因の一部かも知れません。夏は木も勢いがよく根も太るでしょう」と言っておられました。

≪行政への期待は洞門内部防護工事≫
 「緊急事態で行政はどのような対応をすべきなのでしょうか」との質問に対しては、「落とす必要があるだろうところ(岩盤の亀裂部分)が必然的に落ちたのでしょう。木を伐採し、注入などで山を固め、内部防護工を施すのがよいと思います」との回答でした。住民から大船警察に提出された硝煙捜査依頼書については、「すでに亀裂は大きくなっています。亀裂をさらに拡げるような人為的な行為があったとすれば、(崩壊を引き起こすことは)簡単でしょう」と答えておられました。

 行政の対応が明らかにされる前の質問だっただけに、必要最小限のぎりぎりの内容で誠実にお答えいただいたものと思います。いささか生臭い硝煙捜査依頼についても、客観的な回答でした。「守る会」から出された声明は、崩落についての住民の認識を一本化して、崩落をきっかけにして洞門開削・解体に走らないように行政にブレーキをかけようという動きが見てとれます。

≪反転攻勢の声明住民に配布≫
 (声明の要旨)私たちは、2015年4月24日に「北鎌倉駅沿いの岩塊・トンネルの緊急安全対策を求める陳情」を鎌倉市議会に提出しましたが、常任委員会に付託されませんでした。この陳情では、緊急安全対策として樹木樹根の手入れによるひび割れ防止対策、剥落による落石防止対策、表面ケアによるはく離防止対策の3点の実施を求めています。実はこれらは、2014年から要望を重ねてきていることです。

 特に今回岩塊が剥落した部分については、昨年専門家の協力を得て調査した結果、剥落等のリスクが高い部分であることから安全対策の要望を重ねてきました。つまり、今回の剥落は1年前から予想出来ていたことなのです。さらに本年2月4日の『緑の洞門(北鎌倉隧道)保存・安全対策の提言 第二提言』では、その「総合所見」の部で、藤の間伐と樹根の処理工法、洞門の構造を安定させるためにアーチ構造とすべく、今回剥落したその箇所を切除、整形などが必要だと提言しています。

 鎌倉市は、私たちの陳情、提言だけでなく、市職員との面談の際の口頭での再三の注意喚起をも無視し、長期にわたり何ら安全対策を講じることなく岩塊部分を荒れるに任せてきました。今回のような事態を招いた責任は鎌倉市にあります。幸いにも、洞門本体は依然としてその安定性を維持しています。皮肉にも今回の剥落で私たちが提案している岩塊の切除、整形後の形に近づいたと考えます。

 私たちは、鎌倉市に対して①専門家と専門業者の援助を受け、現況に沿って洞門を含む岩塊を保全する努力を開始すること、②1年4ヶ月に及ぶ洞門封鎖による市民の耐え難い不便を解消すべく安全対策を早急に講じて通行の再開を可能にすることを求めます。上記2点、いずれも迅速な対応を必要とします。
(「守る会」では崩壊に関する声明文を戸別配布するとともに、住民の意向として市議会、鎌倉市などにも手渡すことにしています)

崩壊事故で市議会に報告書(緑の洞門急転2)

(8月14日)北鎌倉隧道(緑の洞門)の円覚寺側寄り洞口で起きた岩盤崩壊について鎌倉市は12日、市議会あてて現場状況を記した文書を提出しました。崩落発生後、行政がどのような動きをしたのか具体的に記されています。なぜ崩壊したのか、さまざまな憶測が飛び交っていますが、洞門の解体・開削で陳情、告発、議会監査請求などさまざまな法的手続きを取ってきた著述家の岩田薫さんは、地元の大船警察署に爆破の可能性についての「硝煙反応検証依頼状」を提出しました。
崩落現場
崩落発生の洞門洞口部、右は崩落現場で検証に当たる「緑の洞門を守る会」の住民(高木規矩郎撮影2016.08.13)
≪議会報告≫
 市議会に提出された報告「北鎌倉隧道付近の一部崩落について」は、まず「❶概要」として崩落の一部始終を記しています。「8月11 日午後4時 50 分頃、北鎌倉隧道(鎌倉市山ノ内 520 番地)付近の岩が一部崩落しているとの連絡を受け、確認したところ坑口付近で約4㎥の岩石が崩落していまし た。北鎌倉隧道は崩落の危険性があるため、昨年4月28 日から通行止めの措置を取っており、崩落によるけが人その他の被害はありませんでした」というものです。

 「❷経過」では、「8月11日午後4時 50 分 東日本旅客鉄道株式会社から市守衛及び大船警察山ノ内交番へ 通報、午後5時 30 分頃市職員現地着(大船消防署職員及び大船警察署職員は既に現地 で待機)、午後7時 15 分 施工業者(斉藤建設)が現地到着。応急対応に着手、午後8時 55 分 応急対応完了、8月 12 日午前8時 40 分、神奈川県藤沢土木事務所へ状況を連絡、午後2時 00 分  文化庁へ状況を連絡」と事後処理に触れています。

 「❸原因」については、「岩盤の間のクラックが徐々に広がったことにより崩落に至ったものと考えています。詳細 については、現在調査中です」との見方をしています。「❹ 対応」では、「現在他に危険箇所がないか確認中です。また当該隧道が所在する尾根が、先月開催された文化財専門委員会で文化財的な価値 を有するとされていることから、8月12 日に文化庁に状況報告を行いました。今後の対応については文化庁をはじめ、関係機関と協議を図っていきます」と記されていました。

≪住民の見たて≫
 13日朝、崩落現場を訪れました。住民組織「緑の洞門を守る会」共同代表の鈴木一道さんら3人が❶洞口に向かって横に伸びる亀裂ラインから下が崩落を起こしている❷藤の木の根が張って岩盤を痛めているので早急に根を取り除いてほしいと30年近くにわたって要求してきたのだが、鎌倉市は無視してきて結果として崩落したなどと崩壊の臨床カルテを描いてくれました。

 「守る会」が昨年2月にまとめた洞門保存・安全対策の「第二提言」では、史跡名越切通の成功例に学んで、坑口部上部の剥離、剥落、落石対策工法を取り入れ、対処するよう具体的な提言を行っていました。また昨年4月に「守る会」が提出した陳情書では、亀裂部を中心として伐採を行うよう要求してきたところでもあります。大きな亀裂を見て「危ないですね」と一般市民からの指摘があったことも事実のようです。

≪硝煙検証依頼≫
 「北鎌倉隧道入り口の岩塊崩落事故現場検証依頼状」を提出した岩田薫さんは、依頼状提出に至った状況について、崩落時刻に「ボンという大きな音が2回続き、ムラサキの煙が出たと思ったら岩塊が崩落していた」という目撃証言を未確認情報としてあげています。岩田さんは「警察は現場検証をしているので、硝煙反応があるか調べればわかるはずである。鎌倉では過去にも開発がらみでこうした、きな臭い話が出たことが何度かある」と言っていました。

 130日間にわたって休工という異常事態が続いていた開削工事については、現場での崩落事故の発生により、とりあえず鎌倉市と請負業者の間の契約は白紙に戻された模様です。改めて工事を再開するには新たな契約が必要ということです。崩落をきっかけにして工事強行の主張が強まるのではないかとの声も依然根強いだけに、市議会や報告を受けた文化庁の対応などこれから目を離せない状況が続きそうです。

(緊急)休工130日目の崩落(緑の洞門急転1)

(8月12日)4月4日の開削工事着工直後から130日休工が続いていた北鎌倉隧道(緑の洞門)の円覚寺側の岩盤の一部が11日夕、崩落しました。工事推進を図る鎌倉市や通路としての安全対策を主張する一部住民は、崩落をきっかけに洞門解体の主張を強めてくるでしょう。また洞門の保全を掲げて解体に反対する住民組織「緑の洞門を守る会」は、樹木の伐採などで岩盤補強を主張してきた市の責任を追及しようとしています。洞門問題は岩盤崩落で130日の休工に象徴される無為な対立が再び広がりかねません。
緑の洞門崩落
11日夕崩壊を起こした緑の洞門の坑口部(岩田薫さん提供)

 住民からの連絡を受けて、「守る会」共同代表の鈴木一道さんは、すぐ崩落現場にかけつけました。現場には警察、消防、市職員、開削工事を請け負っている斎藤建設、市議会議員、「守る会」の住民らが集まってきました。鈴木さんは「樹木の崩落は確認できませんでした。大きな岩のかたまりがいくつも散乱していました。ただ洞門そのものは無傷で残っていました」と崩落直後の現場の状況を語りました。

 昨年夏の日本トンネル技術協会の報告書作成に関わった第3者委員会の早稲田大学理工学術院小泉淳教授が、現状視察をした際に崩落個所について他と比べて岩盤が弱いので、事前に崩しておいて強度を保つことも必要ではないかとして鎌倉市側に善処を要請していたところです。でも具体的な対策は講じられず、1年間にわたって放置され、今回の崩落に至りました。

 昨年8月末に公表された報告書でも、「鎌倉側坑口上部ひび割れ状況」、「鎌倉側から大船側へ縦断ひび割れ状況」も6月25日の北鎌倉隧道安全性等検証委員会の現地調査状況写真として表示されており、それなりに崩落個所の危険性は、鎌倉市やトンネル技術協会では周知の事実として認識されていたようです。

 さらに「守る会」が今年2月に提出した「緑の洞門(北鎌倉隧道)保存・安全対策の提言」(第2提言)で小泉教授の見解などを取り入れて、洞門の安定性を増すために危険個所を削り取ることを提言したまさにその場所です。住民に崩落の現状を知らせる「守る会」のネット通信(報告97:洞門の円覚寺側右側の崩落について)では、「今回の崩落は、洞門の保存・安全対策にとっては、安定性を増すいい形状になってかえってよかったと思います」と分析しています。

 ただ「守る会」共同代表の鈴木さんは、「崩落をきっかけに開削推進、洞門解体を支持する考えが再び強まってくることは、われわれも覚悟してかからなくてはなりません」とも言っておられます。「守る会」では、出来るだけ早く崩落についての見解を声明文としてまとめ、市議会や松尾市長に緊急の陳情を行う予定です。また市議会では17日に全員協議会を招集して、崩落事件後の北鎌倉隧道(緑の洞門)の展開について協議します。

御成小地下遺跡の真価を学ぶには・・・(永野征男・日大名誉教授の講演3)

(8月6日)日本大名誉教授の永野征男さんは6月の講演で、今なお続く「開発と文化遺産」の対立の構造を読み解くための生きた教訓として御成小問題を改めて取り上げました。1984年に老朽化した木造校舎の改築計画で、校地内の遺跡の軽重によって決められたことで、長期にわたる市民運動の一因となりました。「教育と遺跡」についてどんな対応が図られたのか、講演で紹介された茅ヶ崎北陵高校と仙台・長町南小学校の事例を永野さんの講演報告最終回としてまとめました。
茅ヶ崎北陵高校の遺跡発掘現場
   茅ヶ崎北陵高校の高座郡衙跡(神奈川県埋蔵文化センター提供)
≪古代官衙跡が発見された茅ヶ崎の高校≫
 御成小と似た例に茅ヶ崎北陵高校改築があります。2002年に校庭下から古代官衙跡(高座郡衙)が発見され、県教委は鉄筋校舎の新築を白紙とし、“鎌倉方式”(木造2階建て)と称する改築案を発表しました。それは御成小を参考にした県の計画案でした。しかし茅ヶ崎市民は、校舎の移転をもとめつづけ2015年、校地は国指定史跡の認定を受け、高校移転も決まりました。

 御成の地では歴史ある木造校舎と、改築に伴う事前発掘により、校庭下から古代鎌倉郡衙跡が発見されました。地上と地下の両文化財の保全を求めた市民運動(御成小移転改築を考える会)は1984年から20年間の永きにわたり、市教委と対立してきました。そこで見えたことは、今日の市内各所に生起する歴史景観に関わる動きと多くの共通点があります。まさに「歴史は繰り返される」のです。

≪仙台の小学校建設用地で古代水田跡を発見≫
 学校建設と遺跡のからみでは、仙台市の新設小学校でも同様のことがありました。仙台市太白区長町に建設予定の長町南小学校が周辺の「富沢遺跡」の範囲内であったことから、当時は記録保存で工事を進める予定だったところです。中世、奈良・平安時代、弥生時代の水田跡が重層的に見つかり、1988年春の小学校建設に伴う第30次調査では地下5mから、20,000年前の後期旧石器時代の湿地林跡と野営跡が出土しました。

 人類の活動を考えることができる極めて貴重な成果として仙台市は、考古学協会などの保存要請を受け入れて小学校建設予定地を遺跡範囲外へ変更して保存・整備することを決めました。地下水位の高い遺構面を地下でそのまま展示する保存公開技術の開発で1996年秋には、旧石器時代をテーマとする「地底の森ミュージアム」をオープンし、現在に至っています。埋め戻したところは遺跡公園として保全管理しています。

(コメント)
 茅ヶ崎、仙台、鎌倉の3つのケースは、学校建設計画にからむそれぞれの対応を示しています。いずれも工事に先駆けての事前調査で茅ヶ崎(高座郡衙)、仙台(後期旧石器時代の野営跡など)、鎌倉(武家屋敷跡)と重要な遺跡の発掘により、建設地は変更されました。さらに茅ヶ崎では郡衙跡は国指定史跡となり、仙台では遺跡公園、ミュージアム建設で遺跡の保護管理対策が確立されました。

 ところが御成小学校では、今もって広大な武家屋敷と鎌倉郡衙の存在を示す標識ひとつ見られません。史跡指定の動きもありません。鎌倉歴史文化交流センターの整備、御成小旧講堂の一部補強などのテコ入れをきっかけに、地下の遺跡について認識と理解ができるような対策を講ずるべきではないのでしょうか。文化財の保存管理はまず地下の状況を知ることが第一歩だと思います。

発掘に見る中世都市鎌倉(発掘40年の斎木秀雄さん講演)

(8月1日)「中世都市鎌倉の成立前後―発掘調査から見るもう一つの鎌倉―」という魅力的なテーマの講演が5月に鎌倉で鎌倉で行われました。講師は40年近くにわたって、鎌倉で発掘調査にかかわっているNPO法人鎌倉考古学研究所理事の斎木秀雄さんです。講演を設定したのは今年度の事業として「鎌倉らしい魅力あるまちづくり」を目標に、4分科会に分かれて調査研究を行っている鎌倉三日会です。講演によって浮き彫りにされた「発掘から見る中世鎌倉の生活」を再現してみました。
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元治苑遺跡での住民説明会で成果を語る斎木秀雄さん(高木治恵撮影 2011.12.23)

≪発掘されたのは旧市街地の
2%≫

 鎌倉で発掘調査が始まった昭和50年代以降、旧市街地の約500地点で調査が行われてきました。しかしその発掘面積を合計しても旧市街地の2%ほどに過ぎません。調査の主体は鎌倉考古学研究所で、斎木さんはその一員として40年近く発掘に係ってきました。鎌倉は日本で最大級の遺跡も見つかっており、中世については規模と量からも日本一とされています。鎌倉は地下水が豊富で地下1m掘ると水が湧きます。水につかっていると木が腐らないという特性があり、遺跡が比較的良好な状態で保全されている一因になっています。

 鎌倉時代が始まる前の発掘調査でいろいろな遺物が採集されています。❶荏柄天神周辺(縄文前期の土器)、❷横浜国大付属小中学校周辺(縄文後期の土器)、❸大倉(雪ノ下3丁目)(弥生後期、古墳時代の集落)、❹長谷、鎌倉駅周辺、雪ノ下(奈良・平安時代の住居跡)

❺御成小学校校庭(奈良時代の鎌倉郡衙跡)❻鶴岡八幡宮(鎌倉国宝館用地)(男女合葬墓)などです。遺跡の上層には旧市街地全域にわたって、暗褐色の粘土層が厚く堆積します。

≪外部に見えない遺跡≫

 水田の可能性が高いこの粘土層を基盤層として鎌倉時代が始まりました。源頼朝は1180年に鎌倉に入り、鶴岡八幡宮(1181)、若宮大路(1182)、勝長寿院(1185)、永福寺(1189)など社寺や鎌倉中の道路の造設を進めました。やがてまちづくりの担い手は北条氏に移り、大倉幕府は若宮大路に移りました。商店街も7か所に集められますが、あちこちで勝手に店を開いていたようです。ただ致命的なのは鎌倉時代の遺跡がほとんど外部には見えず、絵画や絵巻物など記録がないことです。

≪北条氏の鎌倉で大消費都市完成へ≫

 ただ出土遺物によって都市としての賑わいや変化の跡を見ることができます。都市の成立期であった源氏の鎌倉は、寺院や御家人の屋敷跡などから概観を想像できます。1980年代に鎌倉で発見された板壁建物は地面を掘り、そこから壁を組み立てる構造です。柱は細く下を埋めることで強度を確保します。板壁に先立って方形竪穴建物が発見されました。古代の竪穴住居に似ていますが、土台角材や柱がありました。

 鎌倉での
調理の光景が分かる遺物も多く、鎌倉時代初期には京都系の手づくね土器を使ったかわらけ皿や黒漆塗りの漆器が主体をなしており、銭はほとんど出土していません。大消費都市が完成する北条氏の鎌倉になると、かわらけ皿はロクロを使った東国型になります。さまざまな木製品が出土し、舶載磁器や瀬戸・常滑製品など国内の窯で焼かれた製品が大量に運び込まれ、銭も多量に出土します。

 庶民の食事がどんなものだったのかはよくわかりませんが、食材ではシカ、イノシシなど哺乳類、ガン、キジ、ニワトリなど鳥類、マダイ、マグロ、スズキなど魚類、ハマグリ、カキ、ホタテガイ、アワビ、サザエ、アカニシなど貝類、ウリ、クリ、モモ、ウメ、クルミなど果実が出土しています。食事関連遺物では白木の箸、経木折敷、かわらけ皿が最も多く、この三点は「宴会セット」と呼ばれます。

 
酒宴が終わると宴会セットは汚れたために捨てられます。中世の酒宴セットは現在の居酒屋に姿を変えて残っています。訴訟などの関係で訪れる住居を持たない人々は、関係する人や寺院を頼って食事、住居の提供を受けたと考えられます。中には鎌倉内に食事を提供する店や宿を提供する施設に頼らざるを得ない人々のための、食べ物を売る店は確認されています。中世のファーストフードといえるかも知れません。


≪もう一つの鎌倉を知る見学会、施設の設備≫

 

発掘調査では地下に埋もれている「もう一つの鎌倉」から僅かな部分を切り出して、中世都市鎌倉の復元を試みています。「武家の古都鎌倉」の最も重要なアイテムは地下に埋もれている華やかな「もう一つの鎌倉」だという個人的な思いは強く、中世の世界が地下に埋もれているという事実を多くの人に伝える手段として、発掘調査現場を見学する機会を増やす必要があります。また中世の生活を紹介する施設の創設が待ち望まれます。

≪史跡を歩く7≫尾根を残す形での鎌倉市の新たな対応(円覚寺の結界とまちづくり4)

(7月25日)円覚寺を取り囲む尾根(結界)の保全について鎌倉市は25日、市議会全員協議会で「尾根を残す形での安全対策工事について検討する」など新たな対応を明らかにしました。ただ尾根保全の議論のきっかけとなった北鎌倉隧道(緑の洞門)の開削については何も触れておらず、議員側から抗議が相次ぎました。これを受けて来年1月末までには、洞門を通行路として再開するという対応策が表明されました。
閉鎖前の北鎌倉隧道(緑の洞門)
開削工事のために閉鎖される前の「緑の洞門」(高木治恵撮影 2014.12.18)
≪文化財専門委員会の結論≫
 市議会全員協の協議の前提となったのは、7月8日に行われた尾根の文化財的価値に係る鎌倉市文化財専門委員会の開催でした。7人の考古学、建築史、中世史などの学者・専門家のほか、2人の外部有識者が参加して尾根の位置づけなどについて協議されました。全員協で議員に配布された「資料-1」では、専門委の審議結果として「結論」と「工法に関する主な意見」が記してありました。

 専門委の「結論」としては、「尾根は円覚寺境内絵図に描かれた境界として、文化財的な価値を有する場所であり、国指定史跡の指定を図っていくべきである」としています。同じく専門委の「主な意見」としては、「史跡としての価値があるのだから、保護するべきである」とか、「小型自動車は通れなくなるが、トンネルを内側から支え、内側が見えるようにするのが現実的ではないか」、「文化財を守る立場からは、開削せず現状保存を求める」などが紹介されました。

≪仮設による洞門の通行確保≫
 専門委の結果を踏まえた上で、松尾崇市長は4項目からなる対応を明らかにしました。
❶現在の工法を見直し、出来る限り尾根を残す形での安全対策工事を検討する。
❷検討から工事実施までさらに時間を要するため、仮設により通行を確保する。
❸史跡の追加指定に向けた調査・研究、指定範囲の検討を行う。
❹上記の対応については、引き続き文化庁の指導、助言を仰ぐというものです。

≪尾根と隧道≫
 全員協での市と議員の論争を整理してみました。「隧道があるところも尾根とみなしていいのか」との議員の質問に対し、市(文化財部)は「円覚寺境内絵図に描かれている尾根の残存部とみている」と答えました。「尾根を保存するということは隧道の開削工事はやらないということか」との質問には、松尾市長が「引き続き安全対策工事の方策を検討しながら尾根を残せるか考えていく」と答弁すると、「専門委で『文化財を守るため、開削せず、現状保存を求める』と委員もはっきり結論づけているではないか」と食い下がりました。

≪隧道の仮設工事≫
 「仮設工事はいつごろまでに終わるのか」との質問には、市(都市整備部)は、「文化庁、地権者との協議があり、確定したことはいえないが、遅くとも来年1月までは通行できるようにしたい」と具体案を示しました。全体として“影の主役”の文化庁の存在が市側の判断の大きな重しになっているようです。「今後の安全対策工事並びに仮設工事については文化庁と協議していく」という市長発言に見られるように、文化庁の言動は鎌倉のトラウマとして、文化財行政にこれからも影響を与えることになるのでしょう。

(街角の光景)大輪崩す煙害花火大会あれこれ

(7月21日)昨年は高波で流れ、2年ぶりの第68回鎌倉花火大会が梅雨の晴れ間の20日、由比ガ浜と材木座海岸で開かれました。「胸躍る光の夢幻花――」はいいのですが、海の花火特有の煙による視界不良で今年も輪郭が崩れ落ち、いつも感ずるモヤモヤ感は今年も一掃されませんでした。海の花火を一新するような煙をちらす方策が見つかったら、イグノーベル賞クラスの大発見になるのではないでしょうか。
夕暮花火
夕凪花火
 煙害対策として第1発が打ち上げられる前に由比ガ浜に行ってみました。砂浜は花火見物客でびっしりでした。さいわい屋台村のうしろの小山に一人分のスペースを確保できました。少しでも動くと後から「動くな。見えないぞ」と罵声が飛んできます。おかげではじめから終わりまで、同じ場所に立ちづくめの窮屈な姿勢でした。でも屋台村の屋根越しに花火を見物できました。妻はカメラアングルを求めて自由に動き回っていました。
水中花火
水中花火
 はじめのうちは空中に打ち上げの後に残る煙が少ないので、マルゴト花火を楽しめました。風は東南方向の逗子マリーナ方向から坂ノ下方向に向かって吹いていました。残念ながら勢いは弱く、夕凪花火と言うべきでしょうか。そのうち上空に煙が漂うようになると、大輪の輪郭がぼけ始めました。「アーア」とどよめきが地鳴りのように広がりました。海の花火で呼び物の水中花火は、煙が海面まで下りてこないのでまだゆとりがありました。
煙害花火
煙害花火(いずれも高木治恵撮影 2016.07.20)
 風が煙を流してくれればいいのですが、今回は煙はたなびくだけで時間がたつにつれて、次第に海面近くまで下りてきました。砂浜にも押し寄せてきて、蒸せかえるような気分になりました。沖に向けて煙を誘導するような技術はまったくないのでしょうか。とりあえず暫定措置として見物客に風向きとか風速、それに花火の見物ポイントをスマホ情報として流すだけでも効果があるかも知れません。すでに実行していることだったらごめんなさい。

 「鎌倉市海水浴場のマナー 砂浜は飲酒禁止」――全ページがカラー印刷の豪華パンフレットが見物客に配布され、「花火開催時もこのルールは適用されます」と表示されていました。心なしか周辺を見渡してみてもビールを飲みながらの花火大会恒例の光景は少ないようです。「鎌倉市海水浴場のマナー向上に関する条例に定める禁止行為」とか。何とも興ざめな条例通達でした。

 そういえば鎌倉市と暴走トラックによるテロ事件があった南フランスのニースとは、姉妹都市の関係を結んでいます。ちょうど花火大会が終了した時で、群衆が車道を埋め尽くしており、多くの犠牲者を出しました。10月には、姉妹都市提携50周年記念行事のため松尾崇市長や市民代表がニースを訪問する予定になっているということです。テロに揺れるフランス行きは平和ボケの国からの迷惑なお荷物以外の何物でもありません。

≪史跡を歩く6≫尾根と洞門の総意で待たれる市長の判断(円覚寺の結界とまちづくり3)

(7月18日)円覚寺を取り囲む尾根(結界)の保全についての議論に続いて、鎌倉市文化財専門委員会では、尾根の山裾にある隧道(緑の洞門)の保全問題が取り上げられました。隧道のある尾根は史跡「円覚寺境内」には含まれておらず、史跡を管理する文化庁としても追加指定の対象としてかかわったものと思われます。それにしても文化庁のひとことで、強行に洞門開削を推し進めようとしてきた鎌倉市が専門委の開催で一気に防禦の立場に追いやられたようです。専門委の最終回の報告です。
円覚寺境内を取り囲む結界の尾根円覚寺を取り囲む結界の尾根(高木治恵撮影 2008.04.04)
≪隧道は文化的景観≫
 鎌倉市側が洞門開削の理由の1つとして掲げている「横須賀線の開通で尾根の先端が削られている」との見解については、「鉄道開通で削られたかどうかはさしたる問題ではなく、残っているものは残すべきで史跡として十分価値がある」との意見が専門委の主流になりました。尾根の山裾にかかる洞門の文化財的価値についても議題として取り上げられました。昭和女子大教授(民族学)の大谷津早苗さんは、「安全性は十分配慮しなければならない。しかし人々の心の中に染み込んで長年にわたって地元に親しまれてきた景観は大事にしなければならないというのが民族学の基本であり、大事にしてほしいと思う」として、洞門の現状維持に支持を示しました。

≪専門委ですれ違いの議論も≫
 中世、近世史や建築史、民俗学、考古学など各分野の専門家が集まっただけに、意見のすれ違いも見られました。元鶴見大(考古学)教授河野眞知郎会長が「開削は尾根を削るということで、やろうとしているわけではない。現在の方法で手をつけたいとしたら、どのような影響があらわれるか」と委員に聞いたところ、東大資料編纂所の高橋慎一朗教授は「専門委で答えを求めようというのはずるい。文化財を守る立場からは開削してはいけない」と食い下がりました。外部有識者の1人青山学院大(日本中世史)藤原良章教授も「よくわからない。専門的にこういう方法があるというのなら分かるが、はっきり教授とは言えない。何もないところで専門委員に質問するのはお門違いではないか」と反論しました。

≪委員会の流れを決めた五味文彦さん≫
 五味文彦東大名誉教授は文化庁文化審議会委員長、鎌倉世界遺産登録の推薦書作成委員会副委員長の要職を歴任され、鎌倉の文化財の現状を知り尽くしておられます。外部専門家として「電車が北鎌倉の駅に入ってきて目につくのは素掘りの隧道(洞門)で、多くの人が『鎌倉らしい風景だなぁ、鎌倉にやってきた』と感動を持って眺める文化的景観である。住んでいる人々の生活と溶け込んだ癒しの場、記憶の光景である。できるだけ残す努力をしてほしい」と専門委の議論の流れを総括されました。

 最後に専門委では、❶隧道の上の岩塊が構成する尾根は円覚寺境内絵図に描かれている境界として文化財的価値があり、史跡として追加指定すべきである、❷隧道そのものも日常的に人々に長く親しまれてきた文化的景観として残すべき価値がある、❸開削工事以外の工法が資料として示されなかったが、補強策が他にあるならば検討すべきである—―の3点を松尾崇市長に結論として伝えることに合意して、閉会となりました。

(コメント)  
 助言といったらいいのか、もっと強い意味を込めた要請といったらいいのか、文化庁からの効果的な一言で鎌倉市文化財専門委員会が開かれました。都市整備部道路課、文化財部など関係部局が同席している中で、尾根の保全と史跡追加指定、洞門の文化財的価値、文化的景観が専門委の総意として認められた形です。洞門と尾根の問題の行方は、松尾市長の判断に委ねられたと言えます。当面は専門委の結論を無視して、休工が続く開削工事を強行するのか、素堀りのトンネルを人々の日常になじんだ景観として残すのか、市長の判断が問われています。
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