鎌倉の世界遺産登録を考える

鎌倉市在住のジャーナリスト高木規矩郎による公式ブログ。鎌倉の世界遺産登録をめぐる動きを追っています。

「歴史的遺産と共生するまちづくり」の現状(桝渕規彰部長の分析1)

(9月28日)歴史まちづくり法と日本遺産の認定を受けた鎌倉市は、都市マスタープランにも目標のひとつに掲げられている「歴史的遺産と共生するまちづくり」に向けて世界遺産への再挑戦のために、地道な努力を重ねています。近く始まる国の補助による寺社の公衆トイレ改修工事などまちづくりの現況について、歴史まちづくり担当の桝渕規彰部長に聞きました(9月2日)。発言要旨によってまちづくりの現状分析をお伝えします。

≪歴史的建造物保全に向けた条例案上程(歴まち法の認定について)≫
 9月市議会本会議に都市調整部建築指導部から「鎌倉市歴史的建築物の保存及び活用に関する条例案」(議案42号)が上程されました。歴史的建築物の改修など保全を目指す工事にあたって、1950年(昭和25年)に制定された建築基準法が足かせとなりかねないので、新たな条例によって制約を緩和し、基準法による審査に委ねようというものです。戦前の建物は一応全部が対象になるとみています。

 今後どのように歴まち法認定という状況を活用していくのかは、まず計画をつくってそれが適合するということであれば、市長がその建物に指定をして、建築基準法による審査となります。その際、建物が建築基準法以前に建てられたという証明が必要になります。消防法とか建物にからんで消防法の規制などをクリアしなくてはなりません。一番身近なところで国指定登録有形文化財の旧華頂宮邸跡も対象になります。

≪トイレ改修は妙本寺から≫
 歴まち法がらみの今年度事業として具体的に取り組んでいるのは、社寺の中の公衆トイレ改修です。まず手始めに始めたのが、妙本寺の公衆トイレです。歴まち担当が取りまとめて、商工観光課が工事を行います。認定によって補助金がもらえるものについてはその都度、国に申請をしてやっていきます。トイレから始めて市が所有している歴史的建造物、とくに近代の建築の改修や補修などを順次手掛けていきます。

 法律の運用期間は10年間です。鎌倉の歴史的風致維持向上計画への補助枠は決まっているわけではありません。毎年50件がこういう事業をやりたいので補助金をくださいという申請をあげて、それを文部科学省、国土交通省、農林水産省の関係3省庁で審査をして、これはOK、これはダメというような裁定をするわけです。妙本寺のトイレ改修への補助が決まれば、鎌倉では歴まち関係の事業の第一号ということになります。

≪情報発信のソフト整備を推進(日本遺産の事業も発動)≫
 日本遺産関連では、6月末に設立された「日本遺産いざ鎌倉協議会」の事業として、すでに着手しているものもあります。具体的には日本遺産を紹介するための映像や日本遺産を構成する文化財を中心に鎌倉の歴史的遺産を紹介したり、外国人向けのガイドの研修などに取り組んでいきます。歴まちの方はハード整備、日本遺産はソフト整備ということで、基本的には情報発信のためのソフトメニューの事業化を本年度計画として進めます。

 日本遺産の認定で国からの補助金は市に入ってくるのではなくて、協議会に直接入る仕組みになっています(事務局は歴史まちづくり担当)。個々の事業計画も協議会を通してすべて申請します。すでに交付の決定は知らされていますが、お金はまだ入っていません。国が予算を持っていて、それに対して去年が18件、今年が19件、都合37件が一斉に申請するわけで、それに対して文化庁がもっているパイに合わせる形で査定します。
(つづき)

(コメント)
 歴まち法、日本遺産があいついで認定され、鎌倉の「歴史的遺産と共生するまちづくり」は、急ピッチで進んでいるかに見えます。この2つの認定の延長線上に「世界遺産再挑戦」があります。言葉を変えれば「まちづくり」こそ最終目標というわけです。桝渕部長には折に触れて、3つの位置づけをお聞きしてきました。今回の会見で「世界遺産」も「まちづくり」の一環ということが、より明確に伝わってきたように思います。

隣接の山稜で山崩れ史跡和賀江嶋の不安

(9月24日)和賀江嶋の史跡指定範囲東側に隣接した山稜の急傾斜の斜面が、9月の長雨の影響からか23日夕方から深夜にかけて2度にわたり突然崩れました。現場は鎌倉と逗子マリーナを結ぶ市道沿いで、道路沿いのマンションが崩れ落ちた岩を食い止めるような形でしたが、史跡保全が極めて心細い自然環境に支えられている肌寒い現状を図らずも示す崩壊事故となりました。
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   2回にわたって崩落した山の急傾斜地
 
第一報は24日朝の松尾崇・鎌倉市長のフェースブックで知らされました。現地を管理する逗子市が24日午前9時30分に発表したプレスリリースを転載したもので、週末、祝日に発生した事件・事故に市長のフェースブックが情報発信の威力を発揮しました。最初の崩落は23日午後5時30分ごろに発生しました。小坪海岸トンネルの鎌倉側出口に近い逗子市小坪5丁目13番付近でした。

 急傾斜地の幅10㍍、奥行き1㍍、高さ12㍍の法面が崩れ、10㎡の土砂や岩塊が市道をふさぎました。次いで午後11時45分ごろに発生した2回目の崩落で、幅10㍍、奥行き10㍍、高さ30㍍の崖が崩れ、1回目の模を大きく上回る300㎥の土砂混じりの岩塊が隣接建物1戸を押しつぶし、道路向かい側のマンションと家屋1戸が1部破損、車両1台が土砂に埋まりました。幸い住民には被害は出なかった模様です。DSC_0305























                               



   和賀江嶋(右下)とマンション、崩落現場、国道(左上)の位置関係(いずれも高木治恵撮影 2016.09.24)
 
 最初の崩落が起きた後、逗子市では道路とトンネルを全面通行止めにするとともに、鎌倉寄りの頭上で交差する国道134号も全面的に車両の通行ができなくなりました。でも週末と重なって国道の利用が増えることもあって、24日午後3時に片側通行となりました。ここまでのフェースブック情報を整理した上で24日夕方、材木座の光明寺前の駐車場に車を停めて現場を見にいきました。
   

 とくに24日午前中は国道の全面ストップで、崩落現場の手前から迂回路を抜けて逗子市街地方面に向かう車両で大渋滞といううわさを聞いて、国道の再開を待って取材に動き出しました。とくに崩落による史跡和賀江嶋への影響が出ていないのかどうか不安がありました。小坪海岸トンネルは車両だけでなく歩行者の通行も規制されていました。ブルドーザーが市道で岩や土の整備をしていましたが、事故の緊張感はまったくありません。

 手前の警戒線でガードマンから「この先はいけませんよ」と言われたものの、「和歌江嶋に行く」といって通り抜けました。数人の作業員がのんびりと動いていたものの、行政の関係者は1人もいませんでした。海側の史跡に隣接するマンションが2回の崩落で、市道を埋めた大量の岩塊や土砂の流出を食い止めたかのような位置関係に見えました。そのあと和賀江嶋の砂浜に降りてみました。下から見上げるとマンションと3軒ほどの民家に遮られて、崩落現場の斜面はまったく見えず、サーフボードを持って海から上がってくるサーファーの日常的な動きが目につくだけでした。

 和賀江嶋は「史跡指定範囲」と干潮時に水際から50㍍以内の「海岸保全区域」によって守られていますが、崩落現場はやや東側のためいずれの指定区域からは外れているようです。でも雨が本降りだったり、マンションの位置がずれていたら岩や土砂は史跡を直撃した可能性も十分に考えられます。逗子マリーナの建設や史跡沿いの住宅地の激増といった開発のはざまで、和賀江島嶋が置かれている歪みの状況を実感しました。

 1週間前に三浦三崎での法事に参加し、鎌倉に戻る途中でした。材木座海岸を見渡す国道の「飯島トンネル」で天井から壁面びっしりと大小の亀裂が現れ、数字やアルファベッドがびっしりと書き込まれているのを見て驚かされました。今回の崩落現場と目と鼻の先の同じ稜線です。「これ一体なんだ」と助手席の妻に言ったことを思い出しました。「三方山」の「武士の古都」は地下で大きな変動のエネルギーを蓄えつつあるようです。

 

運命の糸(伊東興三さんの肖像3)

(9月20日)物理学者の米沢富美子先生を軸として2000年代に8か国(エジプト、カンボジア、香港、ロシア、エストニア、マルタ、リビア、中国)と長崎の五島列島を回った「世界遺産の旅」は、各地の文化遺産の実情を知る上で、極めて有益な機会になりました。同時に米沢先生や伊東興三さんらと豊潤な共有体験を持てたことは、かけがえのない意味がありました。米沢先生に続いて仲間から寄せられた伊東さんの想い出を記録としてとどめておきたいと思います。
アフガニスタン展
     伊東さん(右端)との最後の別れとなった東京芸大のバーミヤン大仏天井画展(高木治恵撮影 2016.05.06)
≪家を建ててくれるなら≫
 旅仲間の津田輝子さんからは旅の途中でんとの会話についてメールをいただきました。独身時代の伊東さんが意中の女性(奥様)にプロポーズなさったら、「家を建ててくれるなら結婚してもいい」との返事だったとか。「それでどうなさったんですか?とヤボな質問をしましたら、『そりゃ、頑張って建てましたよ』と即座に返ってきました。その時の笑顔は照れたようなはにかんだようなニコニコ顔で、私の眼には若き伊東青年が浮かび上がって見えました」

≪運命の糸≫
 2007年9月に西安を訪れた「世界遺産の旅」の方々をNEC西安の日本側責任者としてお迎えし、チームの仲間となった福田祐郎さんは、告別式の後、運命的な伊東さんとの出会いについて語っておられました。伊東さんは中国旅行にも参加される予定でしたが、直前のやむを得ぬご事情で旅はキャンセルされました。

 「2008年10月,品川の和彊館での高木さんがかかわっておられる文芸大賞贈呈式に参加した際、中庭での数人の会話に交じってはじめて伊東さんと話をしました。お互いの仕事のことなどの話をしている内に、長女が住友損保に入社した時の上司の部長であり、お世話になったことがわかりました。更に共に伊東さんの部下であった相手との結婚の披露宴にもご出席いただいており、すでにその10年前にお会いしていたのだと驚きました」

 「数年前の中華料理店での食事会で、中国の話になったときにいろいろ詳しく説明をしていただきました。例えば、春節の際、「福」の字を逆さに貼るのは、「倒福」の音が「到福」と同じであるからと解説されました。かなり中国語の勉強をされていたと知り、中国への旅に参加できなかったのは心残りではなかったかと思います」

≪最後の出会いとなったバーミヤン大仏天井画展≫
 伊東さんが体調を崩されておられるとはまったく考えることなく、今年5月6日のゴールデンウィークには東京芸大で開催中のアフガニスタン特別企画展「バーミヤン大仏天井壁画」を見に行こうと旅の仲間に連絡しました。伊東さんからも「ご案内頂き有難うございます。上野は久しぶりでありアフガニスタンにも関心があります。是非参加させていただきたいと希望します」との返事がありました。

 内戦の混乱で海外に流出して日本で保護された文化財を展示するとともに、タリバンによって破壊されたバーミヤン東大仏の天井が「天翔る太陽神」を原寸大で3次元に復活して公開するという企画です。アフガニスタンから流出し日本で保護・保管された「文化財難民」は、東京芸大の手で一部保存・修復の措置が施され、母国帰還の日をまっているところでした。

 会場でお会いした時、伊東さんは杖をついておられました。腰の具合いがよくないとのことで、「おかけになりませんか」と声をかけると「立っている方が楽ですから」と言っておられました。場所を変えて懇談することになっていたのですが、体調を気にされて横浜・青葉区のご自宅までタクシーでお帰りになりました。われわれが伊東さんにお会いした最後の光景でした。それから4か月後に伊東さんは旅立たれました。

心に刻まれたアンソロジー(伊東興三さんの肖像2)

(9月19日)物理学者の米沢富美子先生を中核にして編成されたわれらが「世界遺産の旅」チームの想い出は、職業も生きた時間、環境もまったく異なるが故に豊潤で貴重な体験に裏付けられたものでした。いろいろお話いただいた米沢先生のモスクワの想い出を中心に伊東興三さんのアンソロジーを編んでみました。数年間にわたる旅の想い出が生き生きと甦ってきました。
モスクワの伊東さん(米沢先生、高木夫妻と)モスクワの赤の広場で(左から高木夫妻、米沢先生、伊東さん)

≪モスクワの騎士≫
 米沢先生は「いつも伊東さんが居られるだけで、場が和むような雰囲気がありましたね。いつも会計を担当していただいて、私たちは安心し切っていました」と伊東さんの想い出を語っておられます。
 「モスクワでの夕食後仲間がタクシーをさがしていた時、私は『歩いて帰る』と言い張りましたら、伊東さんが『私も一緒に歩きましょう』と言ってくださいました。金曜日の夜で街は賑わっていて陽気に歩きました。あちこちに少し酔った若者たちがたむろしていて、ロシア語で『ヤポンスキ(日本人)』とか『キタイスキ(中国人)』と声をかけてきました。私一人だったら、もっとまとわりつかれたかもしれません。伊東さんは、勇ましく守ってくださいました」

 「翌日はエルミタージュ劇場でのバレエ観劇で、出かけるときは白夜ではなく、正真正銘の昼間でした。私はまたホテルから劇場まで歩いて行くことにしました。伊東さんは当然のように、寄り添って歩いてくださいました。穏やかなお人柄の中に、中世の騎士のような頼もしさがありました。歩くと主張した私は方向音痴でしたが、素晴らしい勘で、車の通れない細い道を選び小さな橋を渡って川を越え、思ったより早く劇場に着きました」

 「全席自由席なので、劇場の前には人が並んでいました。様子を知っている人たちは、こうして早くから並んで席を取るのですね。我々が並んでいる間にも、列はどんどん長くなりました。開場と同時に、皆が一斉に走り、我先にと席を取りました。幸い我々も特等席のようなところを獲得しました。渋滞にはまってタクシーで向かったはずの仲間の姿がなく、仲間の席も確保したいと考えたのですが、あのときの殺気立った雰囲気では、その場に居ない人の分まで席を取ることはできませんでした」

 「伊東さんと私はいい席を取れたのですが、仲間が席に困っている様子を見て、2人とも心苦しい思いで、口数も少なく座っていました。バレエはほんとうに素晴らしく、どの席から観ても最高でしたね。並んで座り、一緒に観劇するという、いともロマンティックなシチュエーションでしたが、のちに仲間と会った会合で伊東さんと顔を合わせても、あの日のことを、伊東さんは一度も口になさいませんでした」

 米沢先生にとってとくにモスクワでの伊東さんの想い出は、忘れがたいものになったようです。記憶をたどりながら先生は「観覧車回れよ回れ想ひ出は 君には一日(ひとひ) 我には一生(ひとよ)」と歌人栗本京子が、京大学生時代に詠んだ短歌を思い出しておられたとのことです。「伊東さんが旅立たれて、想い出は私にとって、やはり一生(ひとよ)のものになりました」と締めくくられました。(つづき)

キートンのサスペンスを地でいく(教え子であり人生の師だった伊東興三さんの肖像1)

(9月18日)世界遺産を一緒に歩いた仲間のひとり伊東興三さんが原発不明がんの骨転移で亡くなられました。MASTERキートンのように損害調査畑に所属し、査定を適切にするお仕事にかかわっておられ、外国でも調査をされたこともありました。根っからの勉強好きで、退職後は横浜の短大に社会人入学され私が担当していた講座で知り合いました。実は3歳年上だったのですが、気心が通じて私が企画した世界遺産の旅にも同行されるようになりました。私たちとの接点は人生のごく一部にすぎないのでしょうが、伊東さんの想い出は鮮烈です。
トリポリの伊東さん
       カダフィのポスターを背景にポーズをとる旅の仲間たち(右端に伊東さん)(山田利行さん撮影)
≪現役時代の仕事にはキートンばりの保険調査も≫
 伊東さんは住友海上火災保険(2001年に三井海上火災と合併)で主に損害調査がらみのお仕事をされておられ、海外の調査にも出かけられることがあったようです。同じ時期に特派員として取材に駆け回っており、伊東さんの仕事に興味を引かれたのも事実です。旅先で時間がとれると「キートンのようなお仕事をされていたのですね」と、伊東さんにいろいろ質問させていただきました。大きな事故になると巨額な賠償金がからんでくるため、何社かの保険会社で分担して対応する再保険のための調査が多かったようです。

 動物学者の父親と英国の旧家出身の母親との間に生まれたキートンは、考古学者であると同時に副業としてかかわっていた英国のロイズ保険組合の調査員の仕事を主な収入源としていました。テレビでも人気番組でコミックスには縁のない私も惹きつけられて、欠かさず見ていました。インターポール(国際刑事警察機構)ばりのサスペンス・ドラマをお聞きしたいと思っていたのですが、実際には伊東さんのお仕事は地味な調査が多かったようです。

≪短大での出会い≫
 読売新聞に在籍したまま1998年から非常勤講師として時事英語を担当して神奈川県立外語短大で、瓢々とした性格の伊東さんは、ご自分のかかわったお仕事のことなどまったく口に出されません。ある時「損保の調査をしていた」ということをお聞きして、体が固まってしまったことがあります。通夜のあと奥様から「主人は高木先生の添削で赤くびっしりと書き込まれたニュース翻訳の答案を大事にしていましたよ」とお聞きして、うれしいやら恥ずかしいやらで体がほてりました。

 1998年に読売新聞の20世紀検証企画の一環として私の司会で行ったシンポジウム「科学技術は人間を幸せにしたか」のパネラーのひとりで物理学者の米沢富美子先生を団長として、当時世界遺産の旅をしようという話が盛り上がりました。伊東さんにも「ご一緒に世界遺産を見て回りませんか」と声をかけました。「面白そうですね。お邪魔でなかったらぜひ参加させてください」と微笑が返ってきました。

≪世界遺産の旅≫
 米沢先生をはじめ10人前後の参加で、現地で考古学者や外交官のお話を伺えるタイミングを狙って、各地の世界遺産を見て回りました。エジプトの吉村作治先生やアンコールワットの中川武先生、カダフィ時代の末期のトリポリ(リビア)では塩尻宏大使に合わせて日程を作成しました。日本も入れて全部で8か国に及ぶ世界遺産の旅のうち伊東さんとは、五島列島のほかモスクワ、タリン(エストニア)、マルタ、リビア4か国を一緒に回りました。

 米沢先生、伊東さんと共有した旅の記憶は、われらが人生のキラキラ輝く華でした。突然先立たれたのを機に、伊東さんのいる世界遺産の旅の想い出を集めてみました。1人では知り得ないさまざまな肖像が寄せられました。次回ブログでまとめます。(つづき)

世界遺産登録に組織として反対の意見も(第一線職員の講演2)

(9月12日)8月末に行われた「歴史的遺産と共生するまちづくり」のための歴史的風致維持向上計画、日本遺産そして世界遺産への再挑戦の現状についての現状説明会で、会場から行政が再挑戦の世界遺産については組織として反対の意思表明がありました。イコモス勧告で不記載となって「武家の古都・鎌倉」の世界遺産登録では、市民不在が挫折の原因のひとつとしてあげられていましたが、その市民団体側から反対の声が表面化したのは初めてです。質疑応答でのやりとりをまとめてみました。
歴史まちづくり講演会4市民向けまちづくり説明会で行政に対して見解を述べる市文化協会理事長の村田さん(2016.08.29)
≪鎌倉市民憲章の具体化で世界遺産登録はもっとも効果的≫
 歴史まちづくりの現状説明会は、鎌倉文化人会議(奴田不二夫会長)が主体となって、鎌倉市歴史まちづくり推進担当に働きかけ実現したものです。「歴史的遺産や周囲の自然環境を確実に保全し、未来へ伝えていく責任がある」という鎌倉市民憲章(1948年)の理念を具体化していく上で、世界遺産登録(再挑戦)は、最も効果的な手法だという行政側の見解が表明されました。

≪世界遺産反対の声≫
 説明会終了後、会場の市民からの文化財行政への見解や質問があいつぎました。最初に鎌倉市文化協会理事長で鎌倉美術連盟代表の洋画家村田佳代子さんから、再挑戦に向けて準備が進んでいる世界遺産登録について否定的な見解が表明されました。「再挑戦と簡単に言っているが、現状では世界遺産登録は無理」として文化協会でも大半が現状では反対との分析を明らかにしました。

 文化協会は前理事長が鎌倉彫の奴田さんで、世界遺産登録推進協議会の事業部会長という世界遺産に対する市民の見解を代表するような立場にありました。村田さんが理事長になってからの新たな対応に関する発言で、市の世界遺産への取り組みは微妙なものになりかねません。とくにあいかわらず市民の考え方には大きな変化の兆しは見られず、行政とのギャップは依然大きいだけに、再挑戦の行方は微妙です。

 村田さんは日本遺産については、「文化協会として協力できることはやっていくというスタンス」を強調しておられました。さらにハリス記念鎌倉幼稚園と鎌倉カトリック雪ノ下教会を現在54件ある構成文化財に加えて、宗教都市としての鎌倉の現状を訴えるべきだと言っておられました。「鎌倉は早い時期に教会ができて信者も多いのに、日本遺産のストーリーの中にキリスト教関係の建物などへの言及が見られないのは残念」と言っています。

≪世界遺産賛成の意見≫
 現状説明会は鎌倉文化人会議の7人の幹事が、発起人となって開催を呼びかけました。そのひとりで鎌倉文学館館長の富岡幸一郎さんが村田さんに続いて発言し、世界遺産に対する肯定的なスタンスを表明しました。「歴史まちづくり、日本遺産の認定で別荘文化に象徴される近代の鎌倉が評価された。さらに世界遺産を目指すのなら一丸となってやっていかなくてはならない。登録に向けての市民の盛り上がりが不可欠で、機が熟せば目指すべきである」と慎重な発言をしました。

≪歴史まちづくり担当部長がまとめ≫
 桝渕規彰部長が最後に賛否両論の意見を聞いた上で、世界遺産再挑戦の現状について発言しました。「鎌倉の文化遺産の価値はどうなのか、疑問に思っておられる方も少なくない。だが世界遺産にはなり得ないということは絶対にない。今も県の職員として文化財行政と世界遺産登録にかかわっているが、再挑戦に向けては市民憲章の理念を世界の人々に向けて発信していく。世界遺産はまさに市民憲章のためだと思っている」と強調されました。

(コメント)
 世界遺産登録の第一線に立つ課長と主査が講師と聞いて、部長、次長といった管理職からはなかなか聞けない現場の苦労や日常の仕事の内容が聞けるのではないかと楽しみにしていたのですが、なかなかそのようにはいかないようです。直属の部長も同席されておられたし、発言も用意されたレジメに沿って卒のない内容でした。

 でも質疑応答では明快に「世界遺産反対」の見解が、鎌倉市文化協会理事長という要職におられる方から表明されました。これに対して鎌倉文学館館長からは「気が熟せば世界遺産を目指すべき」との意向を聞くことができました。トップの見解も賛成反対両極端の状況が図らずも示された形です。行政も市民置き去りで突っ走るのではなく、「いま世界遺産に賛成か反対か」を表面に立てた市民討論会を開催し、じっくりと行政の考えを説得すべきです。

 私もあいかわらず歴史まちづくり、日本遺産、そして世界遺産という3本の柱について行政の考えを理解できませんでしたが、「市民憲章の実現のために」という共通の理念を通して、現状をやっと理解できたような気持ちになってきました。でもあいかわらず疑問が多い鎌倉の世界遺産再挑戦です。もっともっと具体的に「市民憲章と世界遺産」の議論を進めていくべきでしょう。

あいまいな市長の助言・指導(大規模商業施設建設計画63)

(9月7日)「由比ガ浜四丁目商業施設及び共同住宅の建築」についての鎌倉市側の最後の対応となる「まちづくり条例に基づく大規模開発事業に対する助言または指導について」が、松尾崇市長から(株)大和情報サービス(代表取締役藤田勝幸)と(株)エヌ・ティ・ティ都市開発(代表取締役社長牧貞夫)に手渡されました。市民の意向に沿った市長見解のように見えますが、あいまいさが気になる内容で市民が納得できるものではないようです。
鎌倉カーニバル5
   開発計画地前の海浜公園で土砂降りのなか開かれた鎌倉カーニバル(高木治恵撮影 2016.08.28)

≪鎌倉市まちづくり条例の基本理念≫
 基本理念として条例で、「まちづくりは市民、開発事業者及び市の相互の信頼、理解及び協力の下に、市民の参画によって行わなければならない」と定めています。さらに事業者の責務として「開発事業を行うに当たっては、良好な環境が確保されるよう必要な措置を講ずるとともに、市が実施する施策に協力しなければならない」としています。また❶古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法(古都法)の趣旨を理解し、その目的に反することのないように努める❷国及び市が古都法の目的を達成するために行う措置にきょうりょくしなければならない❸開発事業に伴う環境への負荷の低減その他環境の保全に必要な措置を講ずる責務を有すると述べています。

≪周辺の交通環境悪化の懸念の解消≫
 計画地周辺は交通環境が優れているとは言えない状況にあり、商業施設・共同住宅の建設により周辺の交通環境が悪化した場合、住民が安全に生活する環境や歩行者の安全の維持に強い懸念を抱いています。ついては❶国道134号に右折車線を設けることが直進交通への影響を緩和すると認められるので、自主的に右折車線を設置する❷計画地の北側周辺の生活道路や狭隘な道路で住民や歩行者の安全が確保されなくなるという強い危惧があるので、歩行者交通量調査と適切な誘導員の確保を講ずるとしています。

≪周辺の風致景観への調和≫
 鎌倉市は歴史的風致維持向上計画の認定を国から受け、計画地周辺をその重点区域として設定し、さまざまな施策を行っています。さらに世界文化遺産登録を目指し、再推薦に向けた取り組みを行っています。❶計画されている商業施設の屋上の利用を控え、やむを得ず利用する場合は必要最低限の部分として周辺と調和する修景を施す❷計画地に多くの緑を配置し、建築物が見え隠れするような措置を施す❸計画地に対しては複数の眺望点を設けているが、いずれの眺望点からの景観にも支障を及ぼしていないことを明らかにする――と具体策をあげています。

≪今後の各種手続フロー図≫
 まちづくり条例に基づく手続は今回の市長からの助言・指導を受けて、事業者側からの方針書の提示・公告(14日間の市民への縦覧)を経て9月末には終了通知が出される予定です。次いで開発事業条例に基づく事業者からの事前相談、助言内容及び基準の協議、適合審査・確認を経得て2017年3月までの予定で協定締結を行います。2か月間で開発許可がおりると2018年5月まで約1年間の予定で埋蔵文化財調査が実施され、次いで建設工事に着手します。大規模小売店舗立地法に基づく審議会が開催され、予定通りいけば2019年4月に開店という流れで対応しています。

(コメント)
 内容を見る限り市長の助言・指導は文句のつけようがないように見受けられます。これまでの住民の要望にも理解を示しているのはいいのですが、具体的なことは何も言っていないのが気になります。交通問題など住民の要望内容が中心となっていますが、ひとつひとつの助言・指導をどのように、いつまで処理しろというのか具体的な言及がありません。いずれも「勤めてください」「明らかにしてください」「提案を行ってください」というだけで、具体性が見られません。このままでは事業者側にあいまいな形で処理されることにもなりかねません。とりあえず方針書の提出を待って、事業者の誠意を見てみたいと思います。

歴史まちづくり―日本遺産―世界遺産をめざす行政の動き(第一線職員の講演1)

(9月5日)鎌倉市歴史まちづくり推進担当の第一線職員による「歴史的遺産と共生するまちづくり」のための歴史的風致維持向上計画、日本遺産そして世界遺産への再挑戦の現状についての現状説明会が8月29日、市役所で行われました。会場には市民組織の関係者らが詰めかけていましたが、世界遺産については組織として反対を表明していたところもあり、再挑戦の道のりは決して甘くはないことを示していました。現状分析の要旨です。
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   講演の職員を紹介する歴史まちづくり担当の桝渕規彰部長(2016.08.29)
(高橋悠子・歴史まちづくり推進担当主査)
≪歴史まちづくりの取組≫
 計画期間30年第3次鎌倉市総合計画の第3基基本計画(平成26年~31年)として、❶世界遺産登録の推進❷歴史文化交流センターの整備❸歴史的風致の維持向上に取り組んでいます。計画の推進に向けた考え方として「古都の風格を保ちながら生きる喜びと新しい魅力を創造するまち」を掲げ、「歴史を継承し、文化を創造するまち」「都市環境を保全・創造するまち」などまちづくりの6つの将来目標をあげています。

≪なぜ世界遺産登録をめざすのか≫
 平和都市宣言(昭和33年)、市民・社寺・文化人が連動して鶴岡八幡宮裏山の宅地造成計画を阻止した御谷騒動(39年)、古都保存法の制定(41年)などを通して、「歴史的遺産や周囲の自然環境を確実に保全し、未来へ伝えていく責任がある」という鎌倉市民憲章(48年)の理念を体験的に学びました。この市民憲章を具体化していく上で、世界遺産登録(再挑戦)は、最も効果的な手法だと思っています。

≪これまでの取組≫
 まず「古都鎌倉の寺院・神社他」が国の暫定リストに登載(平成4年)され、世界遺産をめざすということで総合計画に位置づけられました(8年)。ユネスコへの申請(24年)、イコモスの現地調査、勧告(25年)で不記載となり、推薦を取り下げました。次いで1年間勧告の分析を行い、不記載の主因は比較研究不足だとして、内外の社寺ややぐらで基礎的な調査研究を行い、「武家の古都・鎌倉」に替わる新たなコンセプトの構築を図っています。

≪鎌倉歴史文化交流センター≫
 市民が鎌倉の魅力や価値を共有することで、歴史的遺産を確実に守り、後世に伝える施設として歴史文化交流センターの整備を急ピッチで進めています。扇が谷の土地・建物の寄付及び売買に関する基本合意(平成24年11月)、鎌倉市への所有権移転(25年3月)、整備基本計画策定(26年3月)、建物用途許可(変更)(27年3月)を経て、工事着工(28年3月)し、市内小中学生、来訪者の「学ぶ場」として来年4月にオープン(予定)します。

(不破寛和・歴史まちづくり推進担当課長)
≪歴史的風致維持向上計画≫
 これまで文化財保護法、古都保存法、都市計画法、景観法がまちづくりの制度として活用されていました。でも少子化・高齢化などで相続問題による歴史的建造物やまちなみ喪失、地域の伝統芸能の担い手不足といった課題が現れました。そこで風情・情緒のある市街地を理想にして、文化財と周辺環境を一体的にとらえようという歴史的風致の維持及び向上に関する法律(歴まち法)で国が支援する仕組みを構築することになりました。

≪歴史的風致とは≫
 人々の活動を歴史的価値の高い建造物及びその周辺の市街地とが一体となって形成してきた良好な市街地の環境です。イメージとしては50年を経過した家屋、遺構、庭園など人工的なもの、祭礼行事や伝統芸能など50年以上続く人々の活動など全体が歴史的風致です。社寺、海にまつわる伝統行事、若宮大路、江ノ電、別荘文化、山稜の保全活動に見る6件の「生きている歴史的遺産」の重点区域で厚生事業を展開します。

≪構成事業の内実≫
 文化財保護法の重要文化財、重要有形民俗文化財または史跡名勝天然記念物として指定された構造物の用に供される土地、文化財保護法により選定された重要伝統的建造物群保存地区内の土地及び周辺の土地を歴史まちづくり法に基づく重点区域として、構成事業を行います。主な構成事業としては❶歴史的建造物の保存活用に関する事業❷歴史的建造物の周辺市街地の環境整備に関する事業など5分野で25件の事業を計画しています。

≪現在の取組状況≫
 2016年1月25日に鎌倉市の歴史的風致維持向上計画が国の認定を受けたのに続いて、国の補助金を得ながら計画に基づく事業を実施しています。まちが抱える課題の解決に向け、必要に応じて構成事業の追加認定を検討します。さらに計画の作成、変更に関する協議を行う歴史的風致維持向上計画協議会が設置され、鎌倉市と連絡調整を図り、構成事業の進捗状況や成果等を管理することになっています。

≪日本遺産の認定≫
 日本遺産は地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が認定するものです。「いざ鎌倉~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~」は、19件のストーリーで構成され、2016年4月に文化庁の認定を受けました。文化財などの世界的な価値を証明し、「保存」していくことを重視する世界遺産に対して、日本遺産は価値の証明は必要ではなく「活用」を重視し、点在する文化財をひとつのストーリーでつないで、魅力を発信することを目的としています。

≪54件の構成文化財≫
 鶴岡八幡宮、建長寺などの社寺、若宮大路や切通などの史跡、鎌倉文学館、旧華頂宮邸など別荘建築、湯浅物産館などの商店、流鏑馬やぼんぼり祭など無形文化財、伝統的工芸品の鎌倉彫など鎌倉の日本遺産は、54件の構成文化財からなっています。文化庁の「日本遺産魅力発信推進事業」の補助金を活用して総会映像の制作や冊子の作成などに取り組んでいきます。
 2016年4月の日本遺産認定によって、鎌倉としては緑や景観を守り、歴史遺産、市民生活を守る取組をさらに充実させ、古都としての風格を保ちながら「歴史的遺産と共生するまちづくり」を進めていきます。講演のあとの市民との一問一答では、突っ込んだ議論が行われましたので、次回ブログで質疑応答の内容をお伝えします。

寒い夏の熱き思い

(9月5日)熱波の襲来、あいつぐ台風の余波で鎌倉も風雨が激しい日が続く夏でしたが、私は7月から9月にかけて、冷房の部屋で震えながらパソコンに向かっています。どうしたことか、私が所属する鎌倉三日会の会報制作に加えて、大学時代の水泳部部長だった友人の1周忌を機に仲間内で追悼文集を刊行することになり、記者経験者ということで編集から印刷まですべての制作を押し付けられたのです。締め切りに追われて最優先させるべきブログは後手後手です。処理しなければならないテーマも山積。一刻も早い日常に戻りたいと思います。
駒場プールに全員集合
     駒場のプールに勢ぞろいした水泳部の同期の仲間(前列右端が小嶋部長。左から二人目が私)(部員からの提供写真)

 三日会会報は年3回(4月、8月、12月)しています。世界遺産登録推進協議会の広報部会長をされていた内海恒雄さん、中央公論新社で編集にかかわっていた金子務さんら、これまではそうそうたるキャリアの先輩が制作にあたっていました。読売にも在籍されていたことがある金子さんから「10年続けたので助けてよ」と何度もくどかれて、渋々首を盾に振ったのが運の尽きでした。

 8月号から取り組むことになったのですが、編集ソフトに関する情報もまったくなく、手探りの出発でした。金子さんのご自宅で2回ほどソフトの操作の特訓を受けて何となくわかったような気持ちになったものの、何とも心細い状態でした。「自分で考えるとおりに作ってよ」ということで、まず8月15日を締め切りとしてエッセーを中心に会員に原稿を依頼したところ、「暑いのに気の毒だね」との思いからか、思いのほか集まりました。

 原稿をソフトに取り込んで体裁を整えるまでは、まったくの孤軍奮闘です。後はホームページ担当でパソコン操作に慣れておられる会員が全体を見渡して、プロの目で細かいミスなどをチェックしてくれます。8月末の印刷配送の時には総務担当の若手会員を中心に理事が数人、鎌倉NPOセンターに駆けつけてくれて仕上げてくれました。もちろん前編集者の金子さんも心配して手伝いに来てくれました。

 手分けしての発送も終え、お茶を飲みながらみんなで出来上がり具合を話し合いました。大きなミスがなかっただけでもほっとしています。「集まった原稿をすべて掲載したら大変だよ」との指摘は、次号に生かしたいと思いました。従来は30ページから40ページどまりでしたが、「高木編集人」の初回の会報はしめて76ページになりました。「ご祝儀と思って今回は大目に」との助け舟の言葉もあり額の汗を拭きとりました。

 一仕事終わってほっと一息というわけにはいきません。昨年秋に逝去した東大水泳部の部長小島弦さんの追悼文集の編集制作が迫っているのです(参照:2015.12.10「武士道を往く友の死」)。時期的に三日会会報と重なったので原稿締め切りは同じ8月15日に設定しました。会報の編集ソフトをそのまま使ってやればなんとかなるのではと、安易に考えていたのが悔やまれます。昭和39年卒業の水泳部の仲間は約20人いますが、原稿は16人から集まりました。

 最近では駒場キャンパスのプールの新設などで地味な仕事をこつこつと進めてくれたり、毎年1回の懇親会にも率先して出てくれた工学部出身の秀才の小島に対する部員1人1人の思いは、老いてなお大きくなってくるばかりです。エッセーにも学園祭の華でもあった河童踊りのことや、いつも微笑みを絶やさない仏の小島君から水球の練習中に「相手ではなく、ボールに突っかかれよ」と大きな声でどやされた思い出などがふんだんに盛り込まれていました。

 みな共通して触れていたのは、死の直前まで取り組んでいたと見られる新渡戸稲造の「武士道について」の小島君の遺稿です。いよいよ「武士の誕生」の本論にかかろうというところで、C型肝炎に倒れました。エッセーでは、科学者がなぜ「武士道」?といったテーマがさまざまな角度から問いかけられていました。私は「武士の生きざま、死にざまを実践した友の死」で原稿をまとめました。

 もっとも「個の死」を追悼するだけでは刊行の意味が薄れます。そこで「小島君とともに歩んだわれらが青春時代の意味を問い直す」という編集理念で、テーマを掘り下げました。でもいざ編集に取りかかると仲間が寄せてくれた半世紀前のプールサイドの光景や、駒場祭での河童踊りの出陣風景などの古い写真をグラビアで構成しようなどと新しいアイデアが生まれました。

 さらに会報を作った鎌倉三日会の先輩である橋爪幸臣さんの父親幸大さんが、東大教養学部の前身第一高等学校の水泳部で創設にかかわった「河童踊り家元」だったことがわかり、会報「向稜」や関連写真を送ってくれました。第一部「小島君の遺稿から」(「武士道について」の絶筆の再録)、第二部グラビアとエッセー「われらが青春の時を想う」に加えて、第三部「一高資料が物語る河童踊りことはじめ」を追加することになりました。
 「偲ぶ会」を「小島弦君を語る会」にして東京のホテルで集まることになった9月28日に、追悼文集「風の如く」を20人の仲間と小島夫人に手渡すことになっています。あと1週間は部屋に閉じこもりでの編集校正作業が続きそうです。確かに1人で2件の刊行というとてつもない冒険に取り組んだわけですが、別の視点からすれば新聞記者のキャリアを生かしてまとまった仕事ができたわけで非常に充実した夏でもありました。

 1日も早く「寒い夏」から抜けてブログの日常に戻りたいと思っています。松尾鎌倉市長から最終的な「助言または指導について」の最終文書が出た由比ガ浜ショッピングセンター建設計画の動き、北鎌倉の「緑の洞門」の展開、大船まつりと世界遺産についてのチームサムライ代表大津定博さんとの連続対談などテーマも手付かずで山積しています。状況をご理解いただき、新たなブログ更新をお待ちください。

修復あいついだ鎌倉の文化財の現状(ICP講演会)

(8月25日)「未来に引き継ぐ鎌倉の歴史遺産」をテーマとした講演会が21日、鎌倉女子大学二階堂学舎ホールで開催されました。神奈川県文化財協会会長の八幡義信さんが鶴岡八幡宮段葛と鎌倉大仏で行われた「平成の大修復」の現状をを通して報告すると同時に、御成小旧講堂、町立図書館の保全など変貌する今小路の歴史遺産について語りました。講演の流れをまとめました。
講演の八幡さん緑滴る二階堂学舎で講演される八幡さん

 講演会を主催した「NPO法人ICP鎌倉地域振興協会」(八幡理事長)は、2001年に設立され、自然や歴史、文化的・人的資源を知り、愛し、育み、新しい鎌倉を創造する分科会活動を通して情報発信を続けてきました。活動の一環として「鎌倉の桜」「「守られた鎌倉の中世遺跡」「鎌倉のやぐら」「和賀江島と六浦津-東アジアとの交流」の講演会、シンポジウムなども続けており、今年は「歴史遺産」をテーマに取り上げたものです。

≪平成の段葛改修整備≫
 治承4年(1180年)鎌倉入りした源頼朝は、源氏の氏神である由比若宮(元八幡)を現在地に奉還し、鶴岡八幡宮を起点とした中世鎌倉のまちづくりに着手します。その第一歩が寿永元年(1182年)3月に実施された若宮大路の造営でした。大正の大改修当時の姿がおおむね現在みられる段葛であろうと考えられます。段葛整備検討委員会(八幡会長)では段葛を含む八幡宮境内が昭和42年国史跡に指定された当時を整備目標としました。

 整備前に県道側と段葛歩道側に積まれていた玉石は、ひび割れが多く崩落も確認されていました。原因のひとつとされた桜樹根の伸長による圧迫に対して、桜樹の除去が整備計画の主眼となりました。検討を重ねて248本のソメイヨシノの」うち約30本は境内の平家池脇に移植し、その他の老木は伐採することになりました。さらに60~80㌢の地下で遺構が見つかったので、埋蔵文化財には手をつけないという基本姿勢から新たに段葛表面に約80㌢の盛土をして遺跡保存を図りました。

≪平成の大仏診断≫
 2016年1月13日、鎌倉大仏は55年ぶりの全面補修に入りました。1959年から2年半かけて行われた「昭和の大修理」以来、約50年ぶりの点検・補修作業でした。独立行政法人「東京文化財研究所」が調査を担当しました。露座であるため潮風や酸性雨、鳥の糞などにより表面が錆びるなど劣化が進んでおり、エックス線をあてての銅仏の状態調査、超音波メスによる錆の除去、昭和の改修で設置した免震装置の検証、新たな免震対策を行いました。

 体部は下方から7段に吹き上げ、頭部は前面で5段、背面で6段に鋳継いだ鎌倉時代の仏像彫刻の中で傑出した作例で、鋳造の技と仕上げの冴えを示す大作です。大仏表面の汚れを落とすクリーニング作業も順調に終わり、損傷状態や金属状態の調査では大きな損傷や悪い錆は確認されませんでした。また免震装置のステンレスにも劣化などはなく、診断結果は良好とのことでした。ただガムの付着が130か所以上で見つかりました。

≪今小路の歴史遺産≫
 今小路は武蔵大路から大町大路に通じる鎌倉府内西側の幹線道路の総称としてとらえるべき古道です。中世には寿福寺や浄光明寺、海蔵寺はじめ多くの社寺が建立され、江戸時代には水戸徳川氏により英勝寺が建てられました。近代では1899年(明治32年)、皇室御用邸が置かれました。現在の鎌倉市役所や商工会議所、御成小学校などが集中する鎌倉の文化的中枢です。

 御成小校地の地下には今小路西遺跡があります。1933年(昭和8年)に御用邸跡に建てられた木造校舎の改築に伴い、1984年から92年まで8年間に5次にわたる遺跡調査が行われ、古代から近代に至る鎌倉の時代的な変遷が明らかにされました。とくに古代(奈良・平安時代)の鎌倉郡衙と推定される政庁および正倉遺構の出現、天平5年の銘がある木簡の発見は、鎌倉が古代から当地域の中心に位置していたことを実証します。

 今小路西遺跡の中世遺構では、南北に並ぶ広大な武家屋敷とそれを取り巻く庶民の居住区、まちなみと泥岩で舗装された道路などがあいついで検出されました。玉砂利を敷き詰めた中庭などの状況から、北条得宗家(嫡流家)か、それに近い上級武士の屋敷であると推定されました。馬上の三物(みつもの)としての追物(おいもの)射(い)である牛追物、犬追物、流鏑馬、笠懸など武芸の鍛錬が行われた場所と考えられています。

≪結びの言葉≫
 古代からの歴史でつながっている鎌倉は、タテとヨコのかかわりをうまく生かしながら、現在につながるまちづくりが大切です。古い中世から近世、近代の建物をうまく利用しながら、現在の生活にあうようにしなければいけません。古いものをもう少し緩やかな形で現在の生活の中にいかに工夫して取り込んでいけるか問われています。

(コメント)
 八幡さんは段葛整備検討委員会の会長をされてきたので、段葛の遺構について詳しい話が聞けると思っていたのですが、詳しくは述べられませんでした。リニューアルにあたって遺構保存にどこまで配慮されたのか、遺構はどんなもので、いずれ内容についてお聞きできる機会はあるのか等、聞きたいことは山ほどあります。鎌倉大仏や今小路遺跡などはさておいて、段葛にもっと時間をとっていただきたかったと思います。

 結びで「古代から中世、近代、現在につながるまちづくり」に言及されたことは、行政が進めている「まちづくり」の理念です。中世の武家社会に絞った「まちづくり」は大きく姿を変えて、講演にかけつけた鎌倉ファンや市民の考えをも変えつつあることを実感させる講演だったと思います。
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