鎌倉の世界遺産登録を考える

鎌倉市在住のジャーナリスト高木規矩郎による公式ブログ。鎌倉の世界遺産登録をめぐる動きを追っています。

御成小学校で何があったのか(永野征男・日大名誉教授の講演1)

(6月27日)日本大学名誉教授永野征男さんの講演会「壊したくない眺め~御成小学校改築計画から見えたこと」が開催されました。1984年に表面化してから30年を越える行政と市民の対立の構造を改めて取り上げたものです。緑の洞門など開発問題の原点ととらえ、中世武家屋敷跡、古代郡衙跡という壮大な遺跡が、校舎改築という「教育」を盾にしてもてあそばされる歴史都市の現実が浮き彫りにされました。資料として提供された日大自然科学研究所「研究紀要第40号」と併せて、永野さんの講演の論旨を整理してみました。
DSC03726御成山の麓に広がる御成小グラウンド(高木規矩郎撮影 2016.02.20)
≪御成小問題とは≫
 鎌倉山、由比ガ浜、緑の洞門など開発問題の原点です。行政とはいつまでたっても同じことしか考えないということが分かります。文化財関連の諸問題と関連性が強く、克明に御成小の問題を理解してもらった方がいいと判断して講演に応じました。市民であっても御成小という伝統校に起きた実態はよくわからないし、真実は見えていません。1984年に北鎌倉の知人の女性から「御成小が変だわ」と言われたのが、そもそものきっかけでした。

 御成小の改築計画は“改築”といいながら現在の校舎と同じ場所ではなくして、小学校の背後に広がる御成山の山裾(校庭側)へ新校舎を建設する、長年の校舎と校庭のレイアウトを変更する“変更”をともなう計画案でした。この移転の最大の理由(現在の校舎側では不可)は、現校舎下のまだ見ぬ埋蔵文化財との整合性に因っていました。新校舎は御成山の山裾に造る計画がたてられ、移転理由として使われたのが埋蔵文化財でした。

≪埋蔵文化財発掘調査≫
 校舎改築計画の公示前の1983年7月に早々と市教委は学内で埋蔵文化財の「試掘調査」を実施しました。調査団は10か月契約で8か所の小さな穴(2~4m四方のテストピット)を掘削しました。掘削中の出水で、最終的に5か所のみのデータしか得られませんでした。御成小を含む一連の遺跡群は今小路西遺跡と呼ばれ、移転が計画されている校庭の地下を掘りました。年内にテストピットの報告書が出されています。

 中世の歴史都市として資料が豊富であり、市民は「鎌倉は歴史の宝庫」との感覚でとらえています。国は文化財保護法、古都保存法の2つの法律に基づいて遺跡を守ろうとしました。文化・歴史都市を標榜してきた鎌倉市としては、移転改築問題で市民を説得するには、埋蔵文化財が最適と考えたのでしょう。その後の改築の説明文書には、埋蔵文化財との調整に多くの紙面が費やされました。

≪陳情・逆陳情の応酬≫
 試掘資料に基づいて、1984年6月には新任の校長が御成小の全父母にあてて改築計画概要書を配布しました。そこには移転の最大の理由が埋蔵文化財との関係であると明記されていました。市教委が4月中旬に学校側に説明したのと同じ内容でした。校地は便宜的に校舎側と校庭側に二分されていましたが、地下の遺跡の状態から校庭側の遺跡を軽視したにすぎないものでした。

 1985年2月からの1年間、多くの市民が改築の手続き面で行政と話し合いをもちました。市民からの陳情書は、改築計画の再検討を求める主旨を詳細に記し、賛同者からの署名を集め1985年2月13日に提出されました。短期の署名期間にもかかわらず14000名の署名が集まり、その80%が市内居住者でした。市外居住者の多くは御成小の卒業生でした。その後6月には当時の教育長は学校側の説明が誤っていたことを認めました。

 市民らが改築反対のため陳情しようという動きが分かると、市は虚偽の説明文を父母に配布し、市の移転計画が科学的に計画されたものであることを訴えようとしました。父母を改築賛成へ誘導し、反対運動に対抗する逆の陳情(賛成)を狙った動きでした。いわゆる「逆陳情」と呼ばれるもので、市民からの陳情書が出された4日前の2月9日に、御成小PTA組織(御成会)から在校父母の60%にあたる411名の署名を集めて提出されました。

 御成小をめぐる市民と行政の対立の歴史には、古都鎌倉に相応しくない真実がかくされています。❶ 2度にわたる校舎改築計画の白紙撤回❷学校がなければ国指定史跡だと言われた中世、古代の遺跡の発掘❸鉄筋校舎への改築設計で補助金のゼロ査定❹市文化財専門委員の総辞職❺重要文化財「木簡」の発見と行政による発見の隠蔽へと異常事態があいつぎました。(つづき)

(コメント)
 御成小学校といえば頭にあるのは旧講堂のことだけだった私にとって、小学校そのものの激動の歴史を改めて突き付けられ、積み上げられる事実に驚かされています。講演を聞き流すだけではなく、自分なりに整理してみようと思いました。そして鎌倉における「開発と歴史(遺跡)」という運命的なテーマに沿った象徴的な“事件”だということを強く感じました。

 それにしても旧講堂のことを考えれば30年にもなる古い住民運動がなぜ今、掘り起こされたのでしょうか。永野さんも冒頭で言っておられた「鎌倉山、由比ガ浜、緑の洞門など開発問題の原点」という位置づけに、疑問を解くカギがあると思います。この視点に立って、次回ブログに挑戦していこうと思っています。それにしても「御成小から見た緑の洞門」の分析について永野さんにお聞きしてみたいですね。




工事再開に向けて青信号か(「緑の洞門」消える景観6)

(6月21日)4月4日の開削工事着工と同時に3ヶ月にわたって休工が続いていた北鎌倉駅裏「緑の洞門」では、住民側から突き付けられていた許認可の手続きミスへの手当が整い、鎌倉市では近く工事再開に向けて態勢を整えつつあるようです。文化庁の動きなどわずかな期待は残されているものの、現地で開削反対の運動を展開してきた「緑の洞門を守る会」など住民側は危機感を募らせています。
樹木で覆われた岩盤(トリミング)          樹木で覆われた岩盤(高木治恵撮影 2015.05.09)
≪工事再開に向け態勢整えた行政≫
 市側が休工を迫られたのは、❶開削しようとする現場が第二種風致地区にかかっているための事前協議❷県指定の急傾斜地崩壊危険区域であるための県の土木事務所の許可❸宅地造成等規制法の許可などの手続き上の不備を住民側から指摘されたためでした。これに対して鎌倉市都市整備部道路課を中心に対策を講じ、17日までに風致地区の協議書がまとまり、宅地造成規制法の許可も下りたとのことです。

 なぜ17日なのかわかりませんが、神奈川県藤沢土木事務所がかかわる県の急傾斜崩落危険区域の工事の同意も出て、鎌倉市としては協議、許可、同意と法的手続きの不備だったものがすべて揃ったことになります。「書類が揃ったので同意したまで」とは県は言っているようです。開削阻止のための頼みの綱として残されているのは、住民側からの強い要請を受けて現地視察を行った文化庁の対応です。

≪尾根の価値求める文化庁見解≫
 5月24日に文化庁記念物課の主任文化財調査官が現地を訪れました。その後、文化庁は❶北鎌倉トンネルが所在する尾根は、重要文化財に指定されている境内絵図に円覚寺の境界として描かれていることから重要であり、文化財的価値がある❷尾根の文化財的価値について、文化財専門委員以外の専門家による検討が必要であるとの見解をあげて、鎌倉市側に対応を求めました。

 これを受けて松尾崇市長は市議会6月定例会で「文化財専門部会で外部の専門家の意見を聞くことになった」と答弁しています。文化庁からの指示の窓口となった市文化財課では「関連する許可等が得られ次第、速やかに工事を進めていくが、文化庁から尾根の文化財的価値について検討が必要との意見があったので、伐採、地形測量も行いながら、文化財専門委員会に外部から専門家を招き、意見を聞くこととする」との見解を表明しています。

≪いつ始まるのか開削工事≫
  工事再開を視野にいれて開削の主役である市道路課は、❶文化庁の指摘する文化財的価値をみるため、伐採と測量にはいる❷伐採したら土砂が崩れるかもしれないのでトンネル技術協会の指摘どおりの対策工法をとる❸場合によってはモルタルでトンネルを埋めるとの対応を明らかにしています。洞門前にある工事を請け負う齊藤建設の工事日程表には26日まで休工となっており、それまでは工事再開の動きはなさそうです。

 日程表は毎週月曜に書き換えられており、次の月曜である27日以降がどのようになるかは微妙です。工事といっても即開削に着手するというわけではなく、まず文化庁指示への対応が考えられます。具体的には岩盤表土の伐採です。「洞門を守る会」の共同代表の大東文化大名誉教授鈴木一道さんは、「尾根筋をはっきりさせるための伐採だと言っていますが、この時に実質的に開削が始まってしまう可能性も否定できません」と警戒しています。
 告発、訴訟と鎌倉市の開削計画に挑んでいる著述家の岩田薫さんも、「文化財の尾根保存に特化した運動が逆手にとられた形です。円覚寺の結界をなす岩塊が文化庁の言う大事な価値であって、トンネルを安全性のため埋めでもいいだろうというのが道路課の主張です。モルタルで埋めて住民を諦めさせる狙いです」と言っています。いずれにしても「緑の洞門」は開削に向けて一気に加速しかねない状況で、住民側の今後の対応が注目されます。

「馬のいる街」と長谷の発掘現場の賑わい(北条氏常盤亭跡プロジェクト2)

(ブログ)「馬のいる街」と長谷の発掘現場の賑わい(北条氏常盤亭跡プロジェクト2)

(6月16日)史跡北条氏常盤亭跡での「馬のいる街」プロジェクトの創設、長谷の墓地遺跡で発掘された石棺と人骨などの見学会に集まった想定外の群集――世界遺産登録で挫折を経験した鎌倉で、文化財保存の基盤整備に向けての行政と市民の連携が胎動しつつあるようです。歴史的風致維持向上計画、日本遺産の認定と鎌倉の文化財を取り囲む外堀が次第に埋められ、「眠れる市民」が目覚めつつある兆候と言えるかも知れません。
DSC_0447史跡で行われた弓馬術の実演(高木治恵撮影 2016.06.05)

≪報告書に見るプロジェクトの位置づけ≫
 「馬のいる街」プロジェクトを主催した獣医の北條隆男さんは、行政、関係団体などに提出するイベントの報告書を作成しています。来年以降も開催したいという意向で、今回の結果に基づいて、内容を精査していくための基礎にするものです。報告書に触れられたプロジェクトの「背景」と「目的」を通して、改めて北條さんたちの意向を探ってみました。

 
(背景)「馬のいる街プロジェクト」は、市民主導による馬の飼育の実現を通して、❶自然とともに動物との共生を実感できる場の提供、❷鎌倉の歴史文化への貢献、❸相乗効果として世代を超えた市民のウェルネスの実現、❹これらを包括した新しい鎌倉ブランドの確立を目指すものです。「鎌倉に馬がいる風景を鎌倉の歴史や自然と共に次世代に伝えていく」をキャッチフレーズにしています。

 
活動の一歩としてイベント開催等の具体的な活動を模索していたところ、鎌倉市との協議の過程で、史跡北條氏常盤亭跡を利用してのイベントが開催できないかと打診されました。鎌倉の歴史的な史跡でのイベント開催は、北條さんたちの目的に合致する方策であったことから、地元の「常盤町町内会」および「常盤道普請の会」と共催する形での開催を念頭に市に提案し、イベント開催にこぎつけました。

 (
目的)史跡でのイベントを通して、❶市民に鎌倉の伝統的な武家文化を身近に感じてもらう❷市民に武家文化にゆかりの深い馬という動物を知ってもらう❸全体を通して市民への史跡の認知度を上げ、イベントによって「史跡を身近に感じ、その本質的価値の認識や市民自らが史跡を守る意識を育てることにつながることを期待できる。定期的な開催は、史跡の保全や植生、環境の維持・管理に良い影響を及ぼす」(史跡北條氏常盤亭跡保存管理計画書より)ことを目的とするものです。

≪行政の対応≫
「行政と仕事を進めるというのは初めてだったので、話には聞いていたものの、その対応の遅さ、対応自体無視というのは驚きました。職員の姿がなかったのはそのせいです。しかしながら、史跡後でのイベント開催の打診をいただいたのは事実ですし、全体を通しては好意的に受けていただき、ある部分ではきちんと速やかに対応していただきました」
 プロジェクトを終えて北條さんは、初めての官民協働について感想を述べています。

 会場にはイベント開催のきっかけを作った市文化財部の桝渕規彰部長が顔を見せ、馬に乗って積極的なかかわりを示すとともに、次回は市も共催したいとの意向を伝えました。北條さんは「文化財維持管理での住民と行政の新しいかかわりを示すものですが、その通りになるかは、今後に掛かっています。史跡は保全だけでなく、植生、環境の維持・管理など周囲の自然まで包括的な管理が求められるからです」と将来への展望を語りました。

≪常盤山と史跡保全活動を続ける住民≫
 史跡周辺の歩道や山道での整備活動を続けている「常盤道普請の会」と「常盤町町内会」は、今回共催団体としてプロジェクトを支えてきました。史跡を含めた背後の常盤山全体の緑を守るためには、まずはだれもが歩け、利用できる、身近な山と緑地にしていかなければならないと考え、「市政を考える会」と連携して常盤山に健康散策路を作ろうという活動を続けています。

 「北條さんのプロジェクトは、鎌倉市の一歩進んだ前向きな考え方の反映と私も大いに好意的にとらえています。今回のイベントでは借地料を無料にするよう市議に働きかける住民の動きもあったようですが、保全にはお金が必要なので、今後利用団体が出てきた場合には常盤山に特化した基金としてプールしていくのが良いと思います」
 「道普請の会」代表の山村みや子さんはプロジェクトのテコ入れを考えています。

≪「眠れる市民」の目覚め≫
 世界遺産登録挫折後の文化財行政立て直しに当たって、官民協働態勢の構築を基本に据えてきた桝渕(文化財部部長)体制にも市民への働きかけ強化といった動きが芽生えつつあります。世界遺産では「眠れる獅子」ならぬ「眠れる市民」は、ほとんど舞台の外に置かれていました。その反省に立って、世界遺産再挑戦に向けての取り組みで、3回の連続講座を開き、毎回定員を大きく上回る市民からの応募が続きました。26日には浄光明寺で第4回講座「鎌倉の文化財、その価値と魅力~比較研究から見えたもの(中間報告)」が開かれます。

 
12日には由比ガ浜こどもセンター建設地での発掘調査現地見学会に4000人近い市民、観光客の参加で、関係者も大わらわの対応を迫られました。「眠れる市民」の目覚めと言えるのでしょうか。「馬のいる街」も行政側から市民組織への打診があって実現したものです。官民協働もまだ兆候でしかありませんが、今後の行政の動きと市民のかかわりの行方を見極めていきたいと思います。

鎌倉に熱き思いの人の群(長谷で古墳時代の石棺発掘)

(6月14日)梅雨に入ってどんよりとした曇り空が続いていましたが、いつもの観光地の賑わいとは別に朝から晴れた12日、時ならぬ人だまりで鎌倉は色めき立ちました。ひとつは大仏方面に向かう由比ガ浜のバス通り沿いで、鎌倉市教委文化財部による埋蔵文化財発掘現場での混雑です。夕方には五所神社例大祭乱材(みざい)祭の海上お渡りが多くの市民、観光客を集めました。鎌倉の歴史・文化・伝統への熱き思いが人びとを惹きつけるのでしょう。
DSC_0501墓地遺跡(バス停の右奥)に入場待ちの調査の列
≪発掘の現地説明会に長蛇の列≫
 長谷で目撃した人だまりは、鎌倉市が進めている「由比ガ浜こどもセンター(仮称)」建設地で行われていた埋蔵文化財発掘調査現地見学会への入場を待つ長蛇の列でした。住まいの近くであり、生活道路でもあるので、楽しみにしていた見学会でした。でも笹目交差点まで300㍍を越す列で、最後尾に行ってみると「午前中の分は入れません。午後まで並んでいただかないと」と警備員に言われ、あきらめました。

 歩道の列は300㍍はあったでしょうか。列の中におられた発掘専門家の馬淵和雄さんは「中世の人骨だったら鎌倉でもよく見つかるが、古墳時代のものが出てきたので注目されているのかな」と首を傾げておられました。7日の新聞報道を見た人や何事かと思ってとりあえず並んでみた観光客もいるようです。でも鎌倉の埋蔵文化財への関心がこれほど高いということは新しい発見でした。世界遺産登録の過程では見たことのない熱気でした。

≪古墳時代の石棺発掘≫
 今回調査が行われたのは「長谷小路周辺遺跡」と呼ばれる由比ガ浜通りの南側一体の砂丘上に広がる墓地遺跡の一角です。これまで20か所ほどの地点で発掘調査が行われ、弥生時代の竪穴住居跡や土器、古墳時代の墓地、奈良・平安時代の竪穴住居跡、中世の倉庫跡・骨細工や洞細工の工房跡などが見つかっています。中世から奈良・平安時代にさかのぼって火葬跡や火葬墓、弥生時代末から古墳時代にかけて埋葬された人骨も見つかっています。

 今回の「こどもセンター」建設地での発掘では、古墳時代の箱式石棺墓1基が出土し、10代半ばとみられる身長156.2㌢の男性の人骨が仰向けに体を伸ばす形で発掘されました。石棺は礎石の泥岩を部分的に削ったもので、長さ235㌢、幅114㌢、深さ45㌢あり、中央に長さ162㌢、幅35㌢の埋葬空間がしつらえてありました。そのほかうつ伏せの壮年女性を埋葬した同じく古墳時代の土坑墓や竪穴住居跡、鳥の頭骨もありました。

≪素朴な考古学的関心≫
 日本でははじめての墓地遺跡の広がり、特異な副葬品の出土というのなら3000人を越すという想定外の人混みもわからないわけではありません。でも出土品を見る限りこれまでに周辺の遺跡で見つかったものと大差はありません。鎌倉では初めてと言っても箱式石棺墓の発掘は横須賀、三浦、藤沢で前例があり、今回で13例目ということです。由比ガ浜海岸に沿って広大な生活遺跡、墓地遺跡が広がっているという既定の史実に素朴な関心や歴史のロマンを抱く市民や観光客が多いということなのではないでしょうか。

≪展示施設の確立≫
 「事前の問い合わせが多かったことから、ある程度は大勢がお見えになるかとは思っていましたが、想定以上の来場者に驚いています」として鎌倉市文化財部長の桝渕規彰部長は、事前に新聞に大きく取り上げられたことと鎌倉市民の知的好奇心の高さをあげています。また発掘品の保存、活用については、「この手の遺構は現地保存よりも、博物館のような施設での復元展示がよいかとは思っています」と博物館の開館に思いをよせていました。
DSC_0583お渡りの前に材木座海岸に勢ぞろいした神輿
DSC_0631海上お渡りの神輿(いずれも高木治恵撮影 2016.06.12)
≪もうひとつの人の群≫
 夕方の材木座海岸は涼しい海風が心地よい最高の祭日和でした。神輿の海上お渡りを見ようと砂浜に出てくる住民が次第に増えてきました。稲村ガ崎から遠泳してきたらしい赤いメッシュキャップをつけたままの大柄の外国人が、法被姿の数人の若者たちに「神輿を担がせてくれるよう頼んでくださーい」と慣れた日本語で頼んでいました。砂浜が人の群で埋め尽くされたころ、街から神輿が下りてきました。

 「どっこい、どっこい」の掛け声で3基の神輿が勢ぞろいしてお祓いが行われた後、2基が凪いだ海に入っていきました。あちこちで小集団となって、おしゃべりを交わす人の群は、若者や親子連れが目立ちました。国道沿いの歩道から見下ろすと、神輿の動きに合わせて群は大きく揺れ動きました。海から上がって五所神社に戻る神輿をかつぐ上半身裸の赤キャップの外国人の姿もありました。片や知的好奇心の高さを示す墓地遺跡見学、片や伝統に生きるお渡りの日に目撃した人の群2景でした。

「馬のいる街」に夢託す官民協働(北条氏常盤亭跡プロジェクト1)

(6月10日)イコモス勧告で鎌倉の世界遺産登録が挫折してから構成資産だった国指定史跡に対する市民の関心が急速に薄らいできているように思えます。切通の劣化が進み、樹木が伸び放題で管理保全が適切になされているのかどうか疑わしくなる中で、史跡北条氏常盤亭跡では、住民が守る遺跡づくりを合言葉に、子どもたちが馬に乗って楽しむという「馬のいる街」プロジェクトが地元と鎌倉市文化財部の協働でスタートしました。

 DSC_0460北条氏常盤亭跡での「馬のいる街」プロジェクト、左後方は歩射実演(高木治恵撮影 2016.06.05)

≪忘れられた史跡≫

 世界遺産登録のテーマだった「武家の古都・鎌倉」で交通路としての切通を開き、その周辺に政権を担当する武家一族の屋敷をつくることで、北条氏常盤亭跡は交通路の支配と幕府の防御を図る独自の都市構造を象徴するものとして位置づけられています。でも現実には政権所在地の鎌倉の境界の外にあったこともあり、しかも地上には武家屋敷の存在を示す証拠がほとんどないことなどが災いして、市民の関心はいまひとつという状況でした。

 

≪小雨降る朝のプロジェクト≫

 中世の歴史に思いを馳せるイベント「鎌倉武家文化と馬」は、6月はじめの日曜日の朝、史跡入口の草地で開かれました。あいにく小雨が降り続いていましたが、予定通り曳馬では地元住民が家族連れで参加し、学童が神妙な面持ちで乗馬を楽しんでいました。市民団体「鎌倉もののふ隊」も武士の装束で馬に乗り、イベントに花を添えました。会場では弓馬術礼法小笠原流鎌倉菱友会による草鹿式の歩射行事も行われました。

 

≪企画は獣医の発案≫

 中世歴史の宝庫鎌倉に馬がいる風景を歴史や自然とともに、次世代に伝えていこうというと獣医北條隆男さんが代表となって「馬のいる街」プロジェクトを立ち上げました。「遊休地になっており、市から何とか利用できないかと打診を受けたので、それならイベントをさせてくださいと依頼しました。流鏑馬は狭くてできないのですが、馬と一緒に鎌倉の伝統文化を体験してもらうことになりました」といきさつについて語っておられました。

 

 史跡で草刈りなどボランティア活動を続けている地元の常盤町町内会と常盤道道普請の会でもプロジェクトに共催して、実現にこぎつけました。道普請の会代表の山村みや子さんは「住民あっての史跡の維持管理ができるという認識を新たにしてもらいたいと思っています。世界遺産候補地にもなった史跡の存在をまず地元住民に知ってもらうのが目的です。ぜひこれからも続けていきたいですね」と言っておられました。

 

 

≪史跡の活用について≫

 ただ史跡の土地利用については、所轄の文化庁にいろいろな規制があります。遊休地活用で市民団体の打診に応じた鎌倉市文化財部の桝渕規彰部長は、「今回のイベントは建築物等を設置するものではないので、史跡の現状変更許可は必要ないものと判断し、文化庁への相談も特段しておりません。史跡指定を受けている寺院境内等でも音楽イベントなどを開催している事例があり、許可申請の必要性についてはその都度判断しています」と言っておりました。 

 

放置しておくと荒れるだけの史跡は、今回のような形で利用できれば住民の史跡に対する意識の改革にもなるので意味のあるプロジェクトだと思います。桝渕部長も「そのような狙いで試みに実施してもらいました。これを契機として、市民からの申し込みがあれば、随時相談させて頂きながら、当該史跡の利活用に相応しいイベントであるかどうかに着目し、使用の可否について判断していきたいと思います」との回答でした。行政と市民がともに手を携えて文化財を守っていくという大きな課題にも、ようやく新しい風が吹き始めたといえそうです。

排水溝と化した史跡(仮粧坂の荒廃)

(6月8日)イコモス勧告で鎌倉の世界遺産登録が挫折してから3年。構成資産の国指定史跡が今、どのような現状に置かれているかを見て歩いてみようと思います。とくにこれといった計画もなく、史跡がらみの話題を耳にしたら現地に行ってチェックするという手法です。第1回は旧鎌倉を取り囲む切通「七口」のひとつである史跡仮粧坂の荒廃を取り上げます。
DSC_0324仮粧坂を水浸しにする側溝
 元鎌倉世界遺産登録推進協議会の仲間であった国文学者で陶芸家の菊池威雄さんの案内で5月なかば、急な切通を登ってみました。お住まいは仮粧坂の登り口にあり、日常的に史跡の劣化を目にしておられます。「豪華な商業地域・市場で、娼家が並び、遊女のたむろする場であると同時に、刑場と葬送の地」(仮粧坂周辺詳細分布調査報告書)としてさまざまな顔を見せた中世のまちなみは、世界遺産登録の喧騒がなくなった今、人々の記憶から忘れ去られつつあります。

≪崩れる切通≫
 住宅地を過ぎるとS字状の急傾斜の坂道が続きます。登り口を過ぎてまもなく左側の崖の一部が踏み固められて道のようになっていました。本来のルートは岩盤に沿っているのですが、崖路を利用して登っていく観光客も多いようです。岩盤は地下水で常に濡れたままで、滑りやすいため山側にロープを張って安全対策を講じています。時々砂を入れて現状維持をしているようですが、岩盤の下の土砂が崩れて空洞化しているところもあります。

  「1955年ごろまでは、表面は比較的平らで大八車も上り下りしていたようですが、利用客の重みで岩盤そのものも削られ、起伏が大きくなりました。雨が降ると道の全面がぐちゃぐちゃになり、土砂とともに流れ落ちます。とくに最近は路面の劣化が目立ちます」と菊池さんは現状を語っていました。世界遺産登録の間はルートの崖側に丸太を束ねて転落防止柵を造るなど対策を講じていましたが、イコモス勧告後は補修の動きも見られません。
仮粧坂の劣化(画像3)劣化の点描(左から斜面が通路に変形、はく落の現場、空洞化が進む岩盤)(いずれも高木治恵撮影 2016.05.18)

≪側溝で加速する切通の劣化≫
 切通を登り切ったところに源氏山公園からの雨水を一手に集めて、切通の道に流れるような側溝があります。大雨の時は激流となって下の住宅地に向かいます。今年も梅雨をまじかにして菊池さんは「側溝が坂道の劣化の重要な要因であることは明らかです。源氏山からの雨水は道路が緩やかな傾斜をなしているので、水はすべて側溝に誘導される形です。仮粧坂にかかったところで突然切れるので、切通部に溢れます」と不安を募らせています。

 側溝は昭和30年代に造られ、古いものですが、今もきちんと「機能」を果たしているようです。窪み部分の幅は18㌢で肉厚部は片面で3㌢5㍉(両面で7㌢)、全体で幅25㌢、長さ19㍍50㌢のU字溝が源氏山から仮粧山の切通にかけて設置されています。側溝の資料提供を鎌倉市公園課に依頼したところ、「古いことなので見つかりません。調べてお返事いたします」との返事でした。一週間ほどして「データがなかったので、直接現場に行って調べてきました」と電話がありました。

 菊池さんが世界遺産協議会にかかわっていた時に鎌倉市の担当者に「史跡を排水溝として使っているのではないか」と厳重抗議したところ、「文化庁と相談して対処します」との返事だったということです。仮粧坂の史跡指定は1969年で、側溝造設した鎌倉市など工事関係者に史跡としての認識があったのかどうか不明です。今となれば切通とは反対側の崖に流れるようにするとか暗溝にするなど別の対応が考えられたはずです。
≪文化財部の見解≫
 史跡の維持管理にあたる鎌倉市教育委員会文化財部の担当職員は「あくまでも個人的見解」とした上で、「史跡といってもあくまでも道路です。放っておけば廃墟です。とくに仮粧坂はほとんどが水みちで、劣化が目に見えて進んでいます」と危機感は共有しています。アスファルト舗装の考えもありましたが、岩盤にダメージを与えかねないということで構想が消えたこともあります。具体策は皆無で仮粧坂の劣化を見過ごすだけという現状とか。史跡保存は絵に描いたモチです。

ローマ地下鉄工事と遺跡(第三者委員会の小泉淳教授に聞く4最終回)

(6月3日)緑の洞門開削にからむ第三者委員会での体験をお話しいただいた早稲田大学理工学術院の小泉淳教授との会見の最終回は、内外でのトンネル事故や工事での調査についてまとめました。訴訟、告発などがあいつぎ、2か月にわたって着工即休工の異常事態が続く微妙な時期での会見だっただけにいろいろご配慮を仰ぎました。ありがとうございました。従来同様カッコ内は高木の発言です。
08)洞門を調査する小泉教授(写真家関戸勇さん撮影 2015.05.08)

≪笹子トンネル事故から学ぶこと≫
 (2012年12月の笹子トンネルでの天井板落下事故のあと、2度と繰り返してはいけないということが、精神的なプレッシャーになっているようなところがあるのではないかということが緑の洞門でも何度か聞いています。どうなのでしょうか)笹子トンネルはトンネルの事故ではなくて、設備の事故なんです。そういう意味では私のところにも取材の電話がいくつか来ましたが、あれはトンネル屋の問題ではないと答えました。

 笹子トンネルのケースは設備屋の問題だということと、少なくとも私の専門は山岳トンネルではないので、都市部のトンネルなら見にいきますという話もしました。千葉の習志野でトンネルががさっと落ちた事故のときも、取材の申し入れがありましたが、あれはお粗末でしたね。私らは専門ではなくてもあんなトンネルの造り方はないよねという話も仲間うちで出ました。あれはあまりにもトンネルを知らなすぎるという印象でした。全く知らない人が施行したのだという感じがしました。調査された先生方も国交省の方も言葉に詰まるのではないかと思いましたよ。少しでもトンネルを知っていればあんな工事はやらないでしょうから。

≪外国での調査≫ 
 中国が多いのですが、海外での仕事はたまにあります。中国は都市トンネルでは地下鉄がほとんどです。地下鉄の工事は中国、韓国をはじめ東南アジアが多いですね。ヨーロッパはやはり山岳トンネルの世界です。これからも中国は地下鉄の計画が目白押しです。それと同時に中国を含めて東南アジアは下水ですね。トンネル工事はどんどん深くなってきています。深くなるとでき上がったトンネルは安全ですが、水圧が高くなるので、工事中には十分に配慮しなくてはいけません。地震の際も地下のほうがずっと安全ですよ。

 地下鉄で地震があったときには、地下鉄から出ない方が安全なのです。あわてて地上に飛び出して行って、建物のガラスが落ちてきたといような状況の方がよほど危険です。地下はどんな地震でもつぶれないですよね。思い切り深く造った方がいいですよと言うのですが、深いと掘るのには何と言ってもお金がかかります。

≪ローマの地下鉄工事≫
 **(高木取材メモより)地下鉄工事で見つかった古代ローマのフレスコ画の壁が外気に触れた瞬間、幻のように消えていきました。イタリア映画界巨匠フェリーニが「ローマ」に込めたメッセージです。特派員として駐在していた1980年に地下鉄が開通しました。実際の工事ではフェリーニの幻想をはるかに上回って、古代の浴場遺跡や等身大のジュピター像などが次々に掘り起こされました。「遺跡が死滅するときは都市そのものも滅びる時」との遺跡監督官アドリアーノ・ラ・レジーナ教授の警鐘が記憶に残っています**

 ローマ市の地下鉄との直接の関係はありません。でも現場を視察に行ったときに,市の担当者の「嘆き節」を聞きました。イタリアのトンネル技術者も同じようなことを言っていました。ローマの地下鉄は掘り始めると遺跡に突きあたって途中で行き止まりです。トンネル工事で遺跡にぶつかることは結構あります。ボスポラスの海峡横断鉄道トンネル(大成建設)もイスタンブールの陸上では遺跡にあたりました。日本でも遺跡調査のために工事が遅れる事例は多くあります。工事ができない顕著な事例は皇居の下です。皇居の下には地下鉄は通せません。

(コメント)
 小泉先生が会見の最後に強調されたのは、「洞門は道路を拡幅する意味合いがまったくわかりません」ということでした。会見記の最終回は「緑の洞門」を離れて、国内外でのトンネルの構築にからむ体験や見解をアトランダムにお話しいただきました。ローマでの「地下鉄工事と遺跡」のテーマは、私も体験したことなので、記憶をたどって先生の体験とドッキングさせていただきました。

由比ガ浜の大腸菌騒ぎ終息でもBFの行方微妙

(6月1日)4月末から下水圧送管の破損に伴う海への放流で、由比ガ浜一帯に遊泳、サーファーの利用自粛などの措置が取られた大腸菌騒ぎは、27日に仮設送水管の設置終了明らかにして夏のシーズンに向けての安全確保の目途がたちました。ただ由比ガ浜のブルーフラッグ(BF)認証を発表した国際環境教育組織(FEE)本部に大腸菌騒ぎについて状況報告することになっており、鎌倉市は7月はじめの海開きに向けて対応を迫られています。
稲村ガ崎の崩壊現場の送水管工事稲村ガ崎の送水管
埋設工事(高木治恵撮影 2016.05.16)

 騒ぎの発端となったのは、4月14日に稲村ガ崎の崖の一部が崩壊し、22日に周辺に埋まっていた下水圧送管が破損して、鎌倉地域1万7000世帯の下水を七里ガ浜処理場に送れなくなったことです。圧送管の修復には時間がかかるため、下水を消毒処理した上で海に放流し、仮設送水管を設置して送水の復旧を図りました。でも海への放流を完全には止められず、5月27日の全工事の終了をまたなくてはいけない状況でした。

 4月22日の圧送管の破損で下水の一部を海に放流せざるを得なくなり、鎌倉市としては当初は1週間ほどで仮設送水管を設置して送水再開し、放流に対処する予定でした。しかし2本の送水管では十分に対応できずあいかわらず水質汚染が続いたため、さらに2本を増設して5月27日の工事完了宣言を出すに至ったものです。担当の鎌倉市都市整備部では、「海水浴シーズンになり多少の水質汚染が起きることはあり得ますが、今回の下水による大腸菌騒ぎはこれで終息したと見ています」と言っております。

 水質調査結果(鎌倉市ホームページ)からも水質が正常化していることは明白です。相模湾内16か所の水深0.5mで試料を採取しふん便性大腸菌群数(cfu/100ml)を分析したところ、水質調査が始まった翌日の4月25日に坂ノ下の放流口で(2,900,000)と高単位の大腸菌群を検出、その後も26日(680,000)、29日(779,000)、5月13日(81,000),18日(130,000)と変動しましたが、28日(24)、29日(19)と急激に減少しました。

 由比ガ浜の2か所での水質調査で5月3日に最高値の(300)と(420)をピークに減少し、5月29日には(23)、もう1か所は(不検出)という測定結果でした。16か所の試料採取ではいずれも海水浴場水質測定基準に基づく1次判定では水質A(水質が良好な海水浴場)ないしは水質AA(水質が特に良好な海水浴場)で「適」と判断されました、由比ガ浜の2か所は大腸菌が検出されなかったところが水質AA、もう1か所は水質Aでした。

 気になるのは海開きで由比ガ浜に掲げられることになった国際認証組織FEEのブルーフラッグ(BF)取得の行方です。水質やゴミ箱の設置などを含む33項目の厳しい基準に適合しているとのお墨付きを得たもので、日本では初めての取得です。しかしその認証には、「条件」(日本の結果について)が付いていることがあきらかになりました。水質も条件の1つにされていました。

 認証にあたって鎌倉市はFEEの規定内でのサンプリング除外申請を提出し、国際委員会によって特例を認められていましが。通常この特例は海水の水質サンプルが4年に渡って問題がなかった場合に認められています。皮肉なことに認証されたあとに下水圧送管の破損で、大腸菌が海の放流される事態となったのです。「条件」については鎌倉での対応を6月なかばまでに日本支部のFEE Japan(東京)に報告することになっています。

 附帯条件についての報告書に今回の水質汚染について鎌倉側がどのように盛り込むのかFEE側はどのように判断するのか。認証の行方は微妙です。FEE Japanは「汚染については内容は把握しています。認証は昨年行われた審査に基づいて決まったもので、今回の汚染は別のものとみています。でも報告書とは別に鎌倉は汚染と対応の実態をFEE側に知らせる必要はあります」と言っていました。

 予定では海開きは7月1日に行われる予定ですが、鎌倉市では水質の改善がまちがいないものかどうか神奈川県も含めて検討を重ねています。予定通り海開きになってもそこにブルーフラッグが掲げられるかどうかは、今月末のFEEの評価待ちの状態です。「条件」には「海岸責任者はBFのルールに基づいて、汚染について調べるために水質のサンプルを通常より多めに採取することを強く勧めます」との項目もあります。少なくとも由比ガ浜を含む相模湾一帯での水質調査は、当分続けられることになりそうです。

日本遺産はストーリーが生命(桝渕規彰部長が語る真実)

(5月30日)日本遺産に認定された「いざ鎌倉~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~」は、54件の構成文化財からなるストーリーが生命です。鎌倉市歴史まちづくり担当の桝渕規彰部長から認定に向けてのいきさつ、世界遺産との違いなどについて説明を受けました。折から「広報かまくら」で認定のニュースが流されました。それにタイミングを合わせての「日本遺産の真実」を桝渕部長の説明に沿ってお伝えします。
DSC_0007平成の大修理を終え竣工式を迎えた鎌倉大仏も「日本遺産の顔」(高木治恵撮影 2016.03.22)

≪いざ鎌倉のストーリー≫
 地域に所在するものをひっくるめてストーリーを作り、ストーリーに関連する文化遺産群で構成したのが日本遺産です。ストーリーの良し悪しが認定にあたっての評価の対象となります。鎌倉八幡宮や建長寺、円覚寺、鎌倉大仏など個々の「構成文化財」(世界遺産登録の構成資産に該当)が日本遺産ということではありません。とはいえ鶴岡八幡宮などは「いざ鎌倉」の看板であり、構成文化財を実質的な日本遺産とみなすことができます。

 文化庁とは4回打ち合わせをして、ストーリーの内容をもんできました。はなから斬新さ、奇抜さといったインパクトがなくてはだめだと最初から言われてきて、最終的に今回のストーリーで落ち着いたといういきさつがあります。歴史的風致をうまくアレンジしていると思います。まず鎌倉幕府の成立と社寺をもってきました。社寺は命脈を保って、江戸時代には遊山の地として賑わいを見せました。

 今の鎌倉は明治20年代以降に別荘の進出とともに形成されてきました。それに伴って文化人の活動が目立ってきて、カーニバルやぼんぼり祭がはじまり、いろいろなものがごちゃまぜ状態になりました。中でも社寺の存在は鎌倉にひきつけられる最大の要素です。昨年11月の終わりに日本遺産認定に取り組もうと判断し、2月13日の締め切りに向けて2か月で文化庁と協議しながらストーリーを作ってきました。

≪歴史的風致と日本遺産≫
 文化庁から初めに日本遺産の話が持ち込まれたとき、歴史的風致維持向上計画の認定に向けて取り組んでおり、時間的なゆとりもありませんでした。認定に向けての準備が整ってきたことで、日本遺産のストーリーづくりにつながりました。鎌倉に行ったらどういうところを回るか、個々のものについてのストーリーはあるが、鎌倉をとらえるときの全体のストーリーになるように構成しました。歴史との共生のルールのひとつともいえます。

 ただ歴史的風致計画と日本遺産との整合性を考えなければいけません。歴史的風致計画の目的は事業を展開するための計画で、ハード整備にあてます。社寺などの公衆トイレなどの整備計画も含まれます。歴史的建造物を修理し、公開活動をしていくためのツールでもあります。日本遺産はソフト整備を目的とします。日本遺産はソフト面に限定されます。たとえば切通の整備などは考えていませんが、切通についての情報発信は日本遺産でできます。

≪モザイク都市≫
 表題にある「モザイク画のまち」については、「モザイク画」という言葉でストーリーがどこまで関心を集めることができるかということで、議論を呼びました。なぜ「モザイク画」なのか。鎌倉のまちにはいろいろな時代のものがちりばめられていることも事実です。悪い言葉でいえばごちゃまぜになっています。多層文化の現代から見れば、モザイク画というキャッチフレーズでストーリーを構成できます。一番大事なのはキャッチフレーズなのです。

≪日本遺産と世界遺産≫
 日本遺産はストーリーを対象として、あるがままのものを情報発信して見にきてもらおうというものです。これに対して世界遺産は文化財そのものであり、構成資産としての文化財を保存して継承していこうというものです。観光振興が主な狙いであり、観光の質を高めていこうというものです。魅力発信推進事業としてHPの整備や外国人向けのパンフレット作成などが事業として考えられます。

 当初世界遺産とは別のものと思っていました。日本遺産は2020年の東京オリンピック・パラリンピックに備えて展開すべきだと考えていました。現に文化庁ではオリ・パラまでに日本遺産を100件にしたいという意向を持っています。ただ世界遺産と同じ言い回しでは理解してもらえません。国際化という方向性も見えてきません。ただ日本遺産の推進にあたっては鶴岡八幡宮宮司ら鎌倉の宗教界が押してくれたのが大きな力になっています。

≪市民との協働をめざして≫
 「いざ鎌倉日本遺産協議会」を観光協会、商工会議所、風致保存会を中心に創設し、事業組み立てを考えています。ここで事業として観光の高質化を図るための協議を展開していきたいと思っています。タイトなスケジュールなので数人で始めて、推移をみながら一般市民にもはいっていただく所存です。

 市民が反対するのは主に、観光客が増えることへの不安です。鎌倉市が掲げる「暮らしやすいまち」とどう折り合っていくのかが、これからの課題です。ただ観光客が一方的に増加するだけでは世界遺産の文化遺産を保護していくという理念とも矛盾しかねません。禅宗寺院の比較研究を進めてきた世界遺産再挑戦では、市民の目線で「世界遺産Q&A」を鎌倉市のホームページに公表しています。

(コメント)
 たまたま日本遺産認定を1面で取り上げた「広報かまくら」(2016.6.1号)が配布されてきました。54の構成文化財を組み合わせて作成したという「モザイク画」のイメージが掲載されていました。集積場のゴミを束ねて撮影したような何が何だかわけの分からないイメージ図でした。これでモザイク都市といっても訴えるものはないでしょう。スケッチでもいいから、鎌倉に行ってみようという気持ちにさせるような描写はできなかったのでしょうか。

 桝渕部長の語る「日本遺産の真実」は、認定に至る行政の苦労を物語っています。寺社からも抵抗があったという「モザイク画のまち」についても要するに「ごちゃごちゃしたまち」を言い換えたものという桝渕さんの言葉が「いざ鎌倉」の真実をついています。観光客には興味を抱かせるストーリーかも知れませんが、世界遺産の挫折で冷え切った市民に評価されないままの日本遺産の前途は多難です。モザイク画のイメージ図が日本遺産の将来を象徴しているように思えます。

地下からのメッセージ「(第3者委員会の小泉淳教授に聞く3)

(5月25日)―― 一度破壊してしまえばもとに戻すことはできません。現状の洞門は少し手を入れれば安全性を担保できると思われます。景観に配慮した補強方法も十分に考えられます。本当に保存できないかどうかを再度検討されることを望みます――
 開削工事着工直前の4月1日の「学識者と市文化財部の意見交換会」で、早稲田大学理工学術院の小泉淳教授からのメッセージが紹介されました。開削に反対する地元住民にとっては何よりの激励となりました。メッセージに託された思いを聞きました。
DSC03791

地元住民の見守る中で開かれた行政との検討会、このあと小泉教授のメッセージが紹介された(2016.04.01)
≪メッセージのいきさつ≫
 (メッセージはどういういきさつで出されたのですか)住民組織「緑の洞門を守る会」共同代表の鈴木一道さん、出口茂さんらから依頼されました。とくに,会の鈴木伸子さんからは多くの情報とともに、切実な依頼を受けました。私は第3者委員会の委員だった立場から、メッセージは勘弁してくださいと申し上げましたが,洞門を閉め切って、いよいよ工事を始めるという大変に切羽詰まった状況のようでしたので、心を決めてメッセージを書きました。問題になるかも知れないだろうとは思っていましたが、覚悟を決めた次第です。

 委員会にもよりますが、委員会の場で出てきた情報は口外してはいけないという規約がある委員会も多くあります。この委員会にもそのような約束があったかどうかは覚えていません。委員の立場で委員会の結論を直接批判することはできませんが、何度も申し上げたように、開削以外にもやり方はいくらでもあるのではないかという思いはありましたし、委員会の結論にはもやもやしたものを感じていましたので、あのようなメッセージををまとめることにしました。メッセージは鈴木伸子さんにメールで送りました。

 守る会の皆さんや住民の皆さんの熱意に負けてしまったというところもあります。同時に少しでも時間をいただき、再検討できないものかというわずかな希望もありました。開削案の景観に比べて、洞門を残す場合の補強案は非常にひどいものでした。醜悪とも思えるほどです。時間があれば、どなたか専門の方に洞門を残す場合の景観を描いていただき、両方の案をきちんと公平に判断できるようにして欲しいという思いもありました。

≪東京の地下が仕事場≫
 (委員会としてどんなお仕事をされているのですか)今一番多く開かれているのは東京外環道関係の委員会や検討会です。私はいろいろな委員会にかかわってきています。都市部のトンネルが多いですね。古いものでは東京湾横断道路、東京メトロ,昔の営団地下鉄ですけど,ここの委員会にはずいぶん長く関係しています。土木学会や地盤工学会の委員会にもたくさん出てきました。圏央道や東京港トンネルなどの委員会もありました。東京湾横断道路の委員会以来、都立大名誉教授の今田徹先生が委員長をされた委員会は、随分長くご一緒させていただいています。

 かかわりのある委員会は40近くになります。年に3回ぐらいしか開かれない委員会もありますし、毎月のように開かれる委員会もあります。でも本職はやはり教育と研究です。いろいろな委員会や現場での仕事を通して研究のテーマも見つけられます。この5月はじめにはNTTのとう道(通信ケーブル・ガス管・送電線などの専用管路トンネル)を見に行きました。最近は電力、通信、鉄道,下水道などで、老朽化や劣化の問題が多くありまして、維持・管理や補修・補強などの問題でも幅広くかかわっています。

(コメント)
 小泉教授が地元住民の要望に応じたものとは言え、「緑の洞門」開削についてのメッセージを出された意義は大きいと思います。洞門問題が表面化してから保全を臨む住民や、安全性の確保を重視する行政や住民の一部などからさまざまな見解が示されてきました。大学教授や専門家などから意見もあいつぎました。でも第三者委員会内部からのメッセージとなると、これまでとは性格が大きく変わります。ひどい現実がまかり通っていることへのやむに已まれぬ決断だったのかも知れません。









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