ジャーナリストの取材ノート(鎌倉)

鎌倉市在住のジャーナリスト高木規矩郎による公式ブログ。世界遺産登録挫折に続く鎌倉の歴史まちづくりの真実を探る。

「あの時」特派員時代(カイロ❺)海外特派員の夫とともに(社報座談会)

(9月6日)「海外総支局員や家族の日常の生活ぶりは、あまり聞く機会がありません。最近帰国された3人の方に、現地での生活の様子や苦労など、最新のお話を聞かせていただきたいと思います」(司会者の挨拶)――1990年8月1日の「読売新聞社報」に特派員の妻たちの座談会が掲載された。妻の(高木)治恵はベイルート・ローマ・カイロでの生活を語った。司会は当時の編集局外報部長でテヘランと北京を回った特派員夫人高井久美子さんとリオデジャネイロ特派員夫人波津敦子さんが出席した。長文なので妻が語った部分を主にして抜き書きした。他の2夫人の発言は(北京)(リオデジャネイロ)として表示した。
特派員の妻座談会(画像❷)
外報部長の司会で特派員の家庭の事情を語った北京、リオデジャネイロ、
カイロ特派員の妻(右から2人目が妻の治恵)(1991年8月1日発行の
読売新聞社報より)
【配給米の小石拾いが一仕事】
 カイロは支局と自宅が別になっていて、主人は食事のたびに家に戻り、また支局に向かうというパターンでした。それに午前零時のBBCのラジオニュースを聞かないと、安心して寝られないというので、休むのは零時半から一時ごろでした。ですから私の方は自分の時間がなかなか持てません。

 子供を日本に置いてきたこともあり、時間を見つけて趣味でもと心がけたつもりですが、日本人とのつきあいは割合少なく、東京で知り合ったエジプトのかたなど、かえって現地の人とのおつきあいが多いという結果になりました。私はピラミッドなど遺跡を見るのがすきなので、主人に時間がある時は二人でいきましたが、よく一人で見に出かけられたのが土地柄よかったと思います。

 カイロではエジプト米がとれます。とてもおいしいお米なのですが、配給制で外国人には回って来ないので日本人はヤミで買うしかありません。ヤミだと値段は3、4倍になるうえ、本当においしいお米に当たるかどうかわからないんです。エジプト米が手に入らない時はフィリピン米です。かってきたらお米をお盆の上にひろげて、混じっている石やゴミを取り除かなければならず、この石拾いが結構大仕事でした。

【夫婦同伴しての人脈作りも】
 (司会)支局員の数が少ない海外では、ご主人の仕事をいろいろ手助けすることもあったかと思いますが。
 直接かかわることはありませんでしたが、主人の人脈作りに多少の協力はしたかなと思います。たとえば大統領インタビューの前に、先方のエジプト人関係者とお互い夫婦同伴で食事をして、何かとお願いするといったそんな形ですけど。実際の日常の生活は、カイロですと階層がはっきり分かれる傾向があって、お付き合いする相手がどうしても上層部に偏りがちになってしまいます。
 そこで家に来ているメードさんに「あなたのお家へいってみたい」とたのんで、主人と押しかけたこともありました。家の中はきれいにしているのですが、彼女がすんでいるあたりは、周りの道路が生ごみに埋もれています。食事中もハエが猛烈な勢いでたかってきたり、古新聞をテーブルクロス代わりにつかっていたりで驚きました。

【ズボン血だらけで主人帰宅】
 (司会)内戦とか動乱とか、いろいろ大変なことが多いのが海外生活の常で、苦労されたことが多いと思います。北京では昨年(1989年)6月の天安門事件の時の様子はどんなでしたか)
 (北京)主人は天安門近くのホテルに徹夜取材に出かけ、何の連絡もなく、私はうつらうつらしながら夜を明かしました。朝になって主人からの電話で、大変な数の人が殺されたことを初めて知りました。このぶんでは私たちもそろそろ荷物をまとめた方がいいと思いました。「内戦になる」といううわさも流れ始めていました。

 (カイロ)お二人の話を伺っていて、私も同じ経験をしたという思いがします。ベイルートで内戦が起きた時、主人は「東京に電話しておけ」と言ったまま飛び出して行きました。ところが電話が全く通じず、管理人に聞くと電話線が切られたとのこと。「なんとかして」と言っても、向こうは「インシャラー(神のおぼしめし)」と答えるだけ。主人が帰ってきた時、ズボンのすそが血だらけだったのを覚えています。

 カイロではやはり食べ物が心配でした。牛肉はウイルスが危ないから冷凍した方がいいというような話がありました。髄膜炎が発生した時が一番怖かった。南の隣国スーダンで発生し、だんだん近づいてくるんです。日本人会でフランスからワクチンを取り寄せたり大騒ぎ。食べ物と病気がやはり怖いですねえ。

 主人は前からせきが出て困ることが多く、砂塵に悩まされました。ローマでは娘が夜中に盲腸炎のような症状になり、救急病院に行きましたが結局、鎮痛剤だけもらって帰りました。娘の同級生がやはり盲腸炎と診断され、手術したら違っていたということがありましたから。なるべくホームドクターを作るようにしていました。

 カイロでは病院に行くときは必ず新しい注射針を持って行くようにしていました。そうしないとエイズなどの病気をうつされるという話でした。それにしても注射の仕方は下手でしたねえ。

【学校での教育問題は功罪の両面】
(司会)子供さんの教育問題は大変だと聞きますが。
 ベイルートでは長女が小学校2~3年、長男が4~5歳、次のローマでは長女が6年から中学校3年で、長男が小学校3~6年、カイロの時は子供は日本に残しました。ベイルートでは日本人学校でしたが、内戦がはじまってからはその日に学校があるかどうか、毎日電話連絡網を通じて連絡がまわってくるようになって。最後のころは各家庭に先生がいらして授業をする状態でした。

 子供たちは血液型、住所などを書いたカードをいつも身に着けていましたし、戦争がどんなものか、経験したと思います。ローマでは日本人学校もなく現地校にもちょっと行かせにくいということで、インターナショナル・スクールに行きました。英語がわからない子供たちは、最初は毎日、泣きながら通ったものです。

 (司会)経済面のやりくりでも苦労されたことと思います。
 (リオデジャネイロ)初めは本当に大変でした。主人が私たちより一足早く赴任した際、お金を随分持って行きましたが、通信費などまず自分で支払わなければならないので、かかってくる電話はいつも「お金を送ってくれ」でした。私が行く時には主人、私の両方の両親からかなりお金を借りました。特派員で海外に出るということは、とてもお金がかかることなんだという覚悟ができました。

 (カイロ)(インフレについての歯科医の質問で)本当に楽なことはなかったんですよ。ベイルートでは付き合い上必要だというので、訪問着やロングドレス、食器などを揃えて持って行ったら、内戦で大急ぎで帰国したものですからみんな置いて来ざるをえなかったり。ローマではインターナショナル・スクールに通わせる学費がばかになりませんでした。授業料は小学生でも年に一人百万円ぐらいで、家族よりも先に赴任していた夫からの第一報は「学費を工面して来い」でした。

【悩んだお客さんの接待】
 (司会)食料品が安いと言っても日本人の口に合わないなどご苦労されたのでは。
 (北京)イランでは食料はやすかったのですが、外でお酒は飲めませんからお客さんは家に呼んで接待するのです。お客さんをお呼びすると食費はかなりかさみます。北京ではだいたい週に2回は呼んでいました。
 (カイロ)そう。1、2週間分のお金が1日で飛ぶんですよね。
 (北京)すき焼きでも、中国の牛肉より日本の霜降りを、というようになってしまい、やはり食費はかさみました。
 (カイロ)皆さんそうだと思いますが、なるべく日本食を作って、召しあがっていただこうということで、どこの家庭でも大事にストックしておいた日本食品をお出しするということが多いようです。
 (リオデジャネイロ)主人もどこかでお世話になっているかと思うと、そこそこになどできません。
 (北京)ただ逆に日本からのおみやげで助かることもあったりしますね。

 (司会)日本からのおみやげで嬉しいものは何ですか。
 (北京)日本食品のスーパーが北京にはあり、かなり恵まれている方でしょう。手に入りにくいのは、北京だとミョウガなどのちょっと変わった野菜、果物、和菓子類かしら。
 (カイロ)何と言ってもお醤油、お味噌、カツオ節。生モノがないので、明太子、佃煮、それに漬物もうれしい。デパートで売っているきれいに包装されたものではなくて、「キューリのキューちゃん」だとか、スーパーで売っている普通のものがありがたいですね。カイロの日本人学校では、子供たちがタクアン一切れをあんパン一個と物々交換しているという話があるくらいに、漬物が貴重品です。
 (リオデジャネイロ)ブラジルでは日本からの食料品輸入が禁止されています。その代わり、日系人が作った調味料、ラーメンなんかがあるんですが味がどうしても落ちますよね。現地生産のものでも手に入りにくいのがノリ、乾燥シイタケ、カツオ節。あと出張で寄られた方が、薬の余ったのを置いていってくださったのが、本当に助かりました。
 (カイロ、北京)薬は日本から郵送できないきまりなので、本当に助かりますよね。

どうなる世界遺産再挑戦(比較研究報告書の刊行❶)

(9月5日)「鎌倉の価値を考える~世界遺産登録に向けた比較研究から見えたもの~」とのタイトルのカラー冊子が刊行された。昨年11月に「活動中止」が決まった神奈川県・横浜市・鎌倉市・逗子市世界遺産登録推進委員会(4県市)が刊行という主体なき異例の刊行となった。4県市そのものが活動を中止したために、世界遺産再挑戦も実質的に活動母体がなくなった形で、冊子は消えゆく世界遺産運動を象徴するものともいえる。

カラー冊子 
       4県市から刊行された「鎌倉の価値を考える」

 イコモス(国際記念物遺跡会議)により「武家の古都・鎌倉」が「不記載」との勧告を受けたあと、4県市は原因について徹底検証を行い、再推薦・登録に向けて戦略の練り直しを図った。その一環として基礎的な調査研究として平成26年から28年にかけて国内外で文化財の比較研究調査を実施した。冊子は比較研究報告書の形をとっている。5回にわたる連続講座・報告会の記録、さらに平成29年度に実施した中国の龍門石窟研究院との共同研究に係る学術会議による比較研究の記録である。
                                                                                     
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 イコモスの不記載勧告の原因を徹底検証した結果、3点の大きなポイントであることが判明した。❶都市全体が構成資産とみなされたため、武家政権及び政権都市などを示す物的証拠がふそくしていると指摘された。❷社寺等個々の文化遺産と国内外の文化財との比較研究に基づく価値の説明が不足していると指摘された。❸世界的普遍性を訴える説明が不足(根本的には国外類似資産との比較研究が不足)していると指摘された。
 
 不記載の最大の原因の一つに「比較研究の不足」があった。世界遺産の再推薦・登録のための新たなコンセプトの再構築には、比較研究によって「鎌倉」の普遍的価値を見出すことが不可欠である。イコモス勧告で鎌倉が評価された「禅宗寺院の境内」や鎌倉の独特の宗教空間である「やぐら」などに焦点を当て、再推薦に向けて構築する新たなコンセプトには、その評価された部分をより明確に打ち出せるように、比較研究の対象にした。

【鎌倉から始まった禅宗寺院】
 建長寺境内の特徴からみた比較の観点として❶谷戸造成(鎌倉の主な寺院のほとんどは谷戸の内部に立地し、山裾を垂直に切り下げ、中央部を埋め立てて敷地を確保する造成によって造られている)❷直線的な伽藍配置(建長寺の主要伽藍は、山門~仏殿~法堂が中軸線上に直線的に配置されている。開山の蘭渓道隆が南宋五山の寺院における伽藍配置を導入したものである)❸山稜部と一体となった境内景観(建長寺の伽藍は谷の三方を取り囲む山稜部と一体となり、静寂な宗教空間と美的景観を形成している)

 有識者からの意見聴取を踏まえ、「鎌倉」との関連が強いと考えられる中国の南宋五山(径山寺、霊隠寺、天童寺、浄慈寺、阿育王寺)等の禅宗寺院を中心に調査を行った。国内では京都五山(南禅寺、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺)等の禅宗寺院を中心に調査を行った。(結論)建長寺の直線的な主要伽藍配置は、南宋五山との交流によって導入され、方丈奥の庭園(後方苑池)という新規の要素を交えて、我が国における伽藍配置の基本的あり方として大禅宗寺院に取り入れられ、現在も維持されている。建長寺は日本における禅宗寺院の始まりであると言える。(つづく)

「第二の太陽の船」一足早く大エジプト博物館へ(新型コロナと古代エジプト発掘調査❷)

(9月1日)いつ発掘調査は再開するのか。新型コロナ感染拡大の影響で中断している早稲田大学と東日本国際大学(福島県いわき市)を母体に続けてきた古代エジプトでの発掘は、7カ月にわたって中断しているが再開のめどはたっていない。吉村作治隊長(東日本国際大学学長)はカイロ郊外の発掘現場から2月に帰国し状況を見守っている。発掘の中断について電話インタビューで思いを語った。
.jpg「喜寿を祝う会」での吉村作治さん❷J
                                     2月にエジプトに出かける直前「喜寿を祝う会」に山本寛斎デザインのスーツを着て
                                     出席した吉村隊長と発掘隊のOBや関係者(高木治恵撮影 2020.02.01)
(大エジプト博物館の開館)
 何回か開館を延長してきた大エジプト博物館(GEM)については、新型コロナ感染拡大の影響もあって、エジプト考古省は今年10月に予定していた開館はあきらめたようです。1年後とか2年後といっていますが、実際には誰もわからないのではないでしょうか。開いても観光客は誰も来ないのではないでしょうか。ギザ周辺ではコロナ感染者は誰もいません。現場にもいないし、GEMでも誰もいません。

 現場で働いている人の親戚とか友だちがかかったという話は聞きますが、関係者にはいません。GEM付属の保存修復センター(GEM-CC)ではエジプト人が日本人には関係なく普通にやっています。センターではカイロ市内の古い博物館からまずツタンカーメンの遺物を運んできて、修復して展示できるようにしています。それが現在も続いているということです。これまでにせいぜい150~60点というところです。中心となってやっている日本人はJICAの関係者で、東日本国際大学の調査隊は数人以外は係わっていません。

(新型コロナの影響と今後の見通し)
 調査というのはやれるときにやればいいので、3000年、4000年前の歴史の舞台でやっているわけですから、中断による直接の影響はないと思います。エジプトで長期計画を立てるなんてまったく意味がありません。現実におきたことにどう対処していくか解決策を講ずることが重要です。エジプト人がやるように一緒にやっていくしかありません。

 新型コロナの影響については誰も騒いでいません。みんな粛々とやっています。これからの対応策についてJICAと検討するようなことはありません。われわれはわれわれでやって第3期というか、組み立ての予算もJICAで通ったので、「いつからやるのですか」と聞かれたから、「一応10月に下見に行って、どうなのか見てからやります」と言いました。「うまくいけば10月中に始めます」と言っています。

 エジプトでの発掘調査については、「なるようにしかならない」と思っています。調査というのはやれるときにやればいいので、3000年、4000年前の歴史の舞台でやっているわけですから、中断による直接の影響はないと思います。エジプトで長期計画を立てることが馬鹿なんです。現実におきたことにどう対処していくか。エジプト人がやるように一緒にやっていくだけです。六件のプロジェクトの中で優先的に考えているのは「太陽の船」です。これからミーティングして日本でも出来ることをやって、エジプト側に連絡しています。

 話し合うことなんかあまりありません。オンラインで「元気、元気」と励まし合うことぐらいです。一日も早くコロナ騒ぎが収まって普通に仕事ができればいいなと思っています。おさまったら一気にやろうというのが本心です。次から次へとやってきたことを今ここできちっと整理するのにとてもいい時間だと思っています。半年ぐらいゆっくりといろいろなことを考え反省して、これからどうしようか考えていくつもりです。

(JICAの意向)
 日本の独立行政法人国際協力機構(JICA)との技術協力で「第二の太陽の船」の保存修復は進み、日本人スタッフが帰国してからエジプト人スタッフによって三月には完成、最終的に展示する「太陽の船博物館」も着々とできているようです。来年の1月中旬には第一の船を運ぶそうです。移送を担当することになっていた日通に聞いたところ「ちょっと難しい」というので断ったところ、エジプトの運送会社がやることになったと聞いています。作業の中断で最後の詰めにも支障が出始めているようです。(JICAの日本人スタッフへのエジプト側からの新型コロナ感染に伴う作業中断、帰国要請については次回ブログで報告します)
            

日本隊の引き揚げで発掘中断(新型コロナと古代エジプト発掘調査❶)

(9月1日)1966年に念願の調査を開始し、早稲田大学と東日本国際大学(福島県いわき市)を母体に続けてきた古代エジプト発掘調査が新型コロナ感染拡大の影響で、7ヵ月にわたって隊員は帰国し、発掘の中断を迫られている。半世紀以上古代エジプトの発掘を担ってきた吉村作治隊長(東日本国際大学学長)に発掘の現状と再開の見通しなどについて聞いた。日本の円借款供与で建設を進めてきた大エジプト博物館(GEM)は10月に予定していた開館の再延長を余儀なくされ、保存修復センター(GEM‐CC)も半年以上にわたって独立行政法人国際協力機構(JICA)の技術協力も半年以上にわたって中断を迫られている。
たち今年2月ダハシュールの遺跡を訪れた吉村隊長と隊員
      2月ダハシュールの発掘現場を訪れた吉村隊長(中央着席)と隊員たち(発掘隊提供)
(エジプトからの帰国)
 7月に山本寛齋さんが急性骨髄性白血病で亡くなられ、がっかりしました。山本さんに作っていただいたカラフルなスーツで今年2月に東京で行われた「喜寿を祝う会」パーティーに出ましたが、遺品として大事にしていきます。感染拡大でエジプトでの発掘は全部中止しています。東日本国際大学エジプト考古学研究所としての決定です。それに先立ってエジプト考古省から「できれば来ないでくれ」と言われました。

 とにかく現場ではエジプト人は働いてもいいが、外国人は来ないでくれという状況です。8月いっぱいでこの規制は解けて、9月になったら来てもいいと言われています。今は各国隊はどこも行っていません。今エジプトに残っている日本の隊員はだれもいません。2月のパーティーの直後、調査隊に合流するため、エジプトに行っていたのですが、帰国にあたってトラブルは全くありませんでした。

 私は体調不良で考古省への通告の1週間前に帰ってきたので問題はありませんでした。隊員はチャーター便などを探して帰国しましたが、みな成田空港に2週間とめおかれました。私は2月の第3週に普通に帰ってきたので、空港では何も言われませんでした。今は無事でみな東京にいてエジプトに戻るために待機しています。

(中断したプロジェクト)
 隊員たちは2月に発掘調査活動を中断して帰国せざるを得なくなった時、6件のプロジェクトに係わっていました。まず「第2の太陽の船」です。2011年6月に船ピットの上部にあった石蓋を取り上げたことで発掘が始まりました。1200余の部材が埋設されていて、2020年3月には全部が取り上げられ修復・保存処理されてGEMCC(大エジプト博物館保存修復センター)の倉庫に収納されています。1年後にはコンピューター上に完成モデルができれば、それから5,6年かけて組み立てを行う予定です。

 次いでピラミッドスキャンニング・プロジェクトです。大ピラミッドがクフ王の墓ではないという私の仮設の裏付けとするためにピラミッド本体の内部探査を始めました。近年テレビなどで発表された調査内容の検証をエジプト政府から依頼され東京大学、東北大学、九州大学、千葉工業大学等の研究機関、最先端の技術力を持つ企業の協力で調査を行っています。まもなく成果が発表できる見通しでした。

 クフ王のピラミッド西側の西部墓地調査では、ピラミッドが王の墓でないことの証明として、ピラミッドの外で墓をみつけようというプロジェクトが続いていました。1980年12月から始まったルクソールの貴族墓の調査プロジェクトでは、数百とある墓の中から彩色階段のアメンヘテプ3世時代の墓を探し出す調査が行われ、これまでに7基の墓を調査しました。82年には貴族墓から約200体のミイラが発見されました。

 ダハシュール北遺跡調査は人工衛星の画像解析によって地下にある墓地を見つけた最初で最後の例といえるでしょう。少なくとも500基近くの墓が図上に見えました。1996年にツタンカーメン王のバトラー役だったイパイという人の墓からは、数十点の王や王妃アンケセナーメンの指輪や19王朝ラムセス2世の時の宰相メスの石棺、シャブティ(ミイラの姿をした小型の人形)などを発見しました。現在までに160余の墓を掘りました。

 サッカラ北部ライオンの丘発掘調査では、「カエムワセト」という名前のラムセス2世の第4王子の葬祭殿とステラ(碑文)を発見しました。6件のプロジェクトはいずれもエジプトでコロナ禍が広がるまで継続して発掘調査を続けていたのですが、2月以降は全部中断しています。現地には小屋を作ってガードを配備し、3交代で見張らせています。これはエジプト政府とは関係なく、全部私たちの責任としてやっています。発掘作業に係るエジプト人の賃金なども全部私たちが支払っています。

(湾岸戦争で調査中断)
 感染阻止対策としての発掘の中断のようなケースはこれまでにもありました。1990年には電磁波探査レーザーをジープに登載してアブシールの砂漠を探査しましたが、その途中で湾岸戦争が始まり、調査は中断しました。クウェート在留の日本人がイラク政府に拉致され、バグダッドに連行されたため、アラブ圏にいた日本人が帰国を命じられ、エジプトにいた調査隊員も帰国せざるを得なくなりました。おまけに帰国している間に私たちが作った遺跡マップを利用して、エジプト人のカイロ大学教授が発掘を強行しました。

 日本人が現場を離れた後に発生するトラブルに悩まされるのですが、今回の感染阻止のための離脱では半年になるものの目だったトラブルは聞いていません。考古関係の予算がとれないとか、大臣が変わったとかエジプト側の事情で中断においこまれることはよくあります。今後の見通しはまったくたちませんが、10月になったら「太陽の船」プロジェクトに30年近く係わって来られた黒河内宏昌先生にエジプトにいっていただいて情報をリサーチし、その報告をお聞きして対策を立てるということになるでしょうか。

 中断している6件のプロジェクトの中で一番注視しているのは、やはり「第二の太陽の船」です。修復・再生の作業そのものは黒河内先生をはじめとして日本人スタッフが、2月に現場からの離脱・帰国を迫られてからエジプト人をチーフにして3月に全部終わりました。これを修復センターに運んで待機しています。やることがないので、みなぼーっとしているのではないでしょうか。一応一週間に三日は現場にきているとのことです。(つづき)

コロナ禍で落ち込んだ観光業界再生への胎動(大河ドラマと鎌倉❹)

(8月19日)激減した内外の観光客を再び呼び寄せ、日常化した交通渋滞や江ノ電の混雑などの解消を図ろうという動きが出てきた。二〇二二年にはNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放映されることになり来年には撮影が本格化する。鎌倉市市民生活部観光課には「大河ドラマ・オーバーツーリズム担当」が置かれ、起死回生策が動き出した。市の思惑通り鎌倉にとって‶神風″となるのか。担当の観光課係長石川雅之さんに大河ドラマへの抱負を聞いた。
フィルムコミッションの立ち上げ(鎌倉市提供)、
 鎌倉文学館でのフィルムコミッション立ち上げ式に駆けつけた俳優の中井貴一さんら関係者(鎌倉市提供)
≪期待と不安≫
 2018年7月に文化のコンテンツを発信する職員の公募で文化人権担当課長として着任し、「知られざる鎌倉」の発信というプロジェクトで鎌倉の文化資産を文化担当として掘り起こして広めていくという事業に2年間かかわった。ちょうど任期切れだったが今年1月にNHKの2022年大河ドラマが中世鎌倉だということになり、再度公募の試験を受けた。今年4月から観光課の「大河ドラマ・オーバーツーリズム担当係長」となった。大河ドラマへの期待とともにオーバーツーリズム(観光公害)への挑戦という重荷がたった1人の担当の肩に食い込んでくることになった。 

≪知られざる鎌倉≫
 「知られざる鎌倉」では鎌倉中央図書館での「鎌倉仙覚文庫」の設立にかかわった。「萬葉集」に四首の関連歌を伝える鎌倉には、大町の妙本寺に現在最も信頼される写本とされる「西本願寺万葉集」にかかわった僧仙覚を顕彰する史碑がある。近代万葉集研究の泰斗歌人佐佐木信綱は大町に設けた「遡川草堂」で門下生を育てながら鎌倉の文人と交流を重ねた。市では「万葉集」のみならず「古今和歌集」「源氏物語」研究の系譜の継承をめざして、「仙覚文庫」を創設した。 

 「稲村ガ崎には西田幾多郎の寸心荘がある。鎌倉市川喜多映画記念館には和辻哲郎の旧邸が移築され、東慶寺には鈴木大拙の蔵書がすべて保存される松ヶ岡文庫がある。これらを一連にして結ぶことで鎌倉には本当の哲学の道があると言えよう。『知られざる鎌倉』はまだまだあるはず。大河ドラマは鎌倉の歴史を市民に知ってもらうために願ってもないチャンスである」と石川さんは意欲を見せる。海、山、景観に加えて歴史、文化に対象を広げると鎌倉の魅力は大きく広がってくる。
 
≪知られざる鎌倉の歴史の発掘≫
 大河ドラマでは鎌倉幕府の二代執権北条義時が〝主役″となる。「知られざる鎌倉」と文脈を同じくするとみている。
 「義時はこれまでは北条政子の弟という、ということもあってか、一般的にはそんなに注目されてこなかった。しかし一番の立役者だと思っている。三代で終わった源氏を引き継ぎ江戸幕府まで続く武家時代の基礎の基礎を政子と共に固めて、自分自身は姉を支えることに徹し、後につないだ長男泰時が御成敗式目を定め、武家の憲法を作ることになった」

 中世鎌倉はこれまでの大河ドラマで5回取り上げられている。最初は尾上菊之助(七代目尾上菊五郎)主演の「源義経」(1966年)、次いで石坂浩二が頼朝、岩下志麻が政子を演じた「草燃える」(1979年)。真田広之主演の「太平記」(1991年)、和泉元彌主演の「北条時宗」(2001年)、滝沢秀明主演の「義経」(2005年)と続いた。
 
 中世鎌倉が舞台となった過去5回の大河ドラマでは、鎌倉市として特別な対応をしたことはなかった。他の街のように大河ドラマ館を作ったり、特別な広報宣伝態勢を敷いたこともなかった。ところが今回は街をあげて、大河ドラマを機会にもう一度鎌倉の歴史を見直そうということになった。新たな観光振興のきっかけにしようとの思惑もからんでいた。
 
≪フィルムコミッションの立ち上げ≫
 新体制でスタートしたこの7月には、鎌倉における映画産業の振興と映画文化の発展を目的として一般社団法人「鎌倉映画学校」を設立し、フィルムコミッションの立ち上げ、人材育成のためのスクール、セミナーの開催、関連グッズの企画販売などに取り組むことになった。フィルムコミッションは鎌倉市観光協会のもと「鎌倉ロケーションサービス」との呼称で、鎌倉文学館や民間の古民家などを使った撮影誘致、支援を行う。 鎌倉にはかって松竹大船撮影所があったことから映画とのかかわりが深く、20年越しの懸案だった。鎌倉は映画やドラマのロケーション撮影を行うのは難しいとされてきたなかでの始動である。

 2022年には大河ドラマ館を設立してドラマの紹介や観光客の対応を図ることになっている。それに合わせての「鎌倉殿の13人」推進協議会の設立も差し迫った課題である。だが大河ドラマと並ぶ担当の役割である「オーバーツーリズム」については、交通政策の施行、ツールの導入など多くの課題があがっており、具体化にはまだ手が届かない状況である。それに合わせて「鎌倉殿の13人」推進協議会の設立も差し迫った課題である。だが大河ドラマと並ぶ担当の役割である「オーバーツーリズム」については、交通政策の施行、ツールの導入など多くの課題があがっており、具体化にはまだ手が届かない状況である。たった1人の担当といえども石川さんへの期待は大きい。


優先すべきは軍事か国民の命か(那覇通信❶)

(8月10日)沖縄の米軍基地が新型コロナウイルス感染の新たなクラスターとなった沖縄では、県民の感染も急拡大し、医療崩壊も危惧されるなど危機的な状況になっている。友人の東アジア共同体研究所(EACI)琉球・沖縄センター長の緒方修さんは、忘れられがちな現地の感染状況をEACI News Weeklyで知らせてくれている。「那覇通信」を新設して島民の新型コロナ感染阻止の孤軍奮闘を伝えたい。第1回はEACI事務局の新垣邦雄さんの研究員コラムである。
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     観光シーズン最中なのにひと気の絶えたシーサーの石像が護る那覇の国際通り(緒方修さん撮影 2020.08.15)

(那覇通信❶)

《沖縄の新聞から 研究員コラム》

コロナ感染急増、沖縄県が緊急事態宣言

新垣 邦雄(東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター 事務局)

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 沖縄県は7月31日、新型コロナウイルス感染の緊急事態宣言を発令しました。7月上旬から中旬に米軍関係者の爆発的な感染が起こり、その後県民の感染が急拡大し医療崩壊も危惧される危機的な状況に陥っています。医療支援の難しい離島県の立地、観光が経済の柱で来県自粛要請に容易に踏み切れないことなど、県政は難しいかじ取りを迫られています。

 

【クラスター、米本土部隊から】

 7月31日付沖縄タイムス「クラスター 米本土部隊から」。在沖米海兵隊政務外交部長のニール大佐は普天間飛行場で発生したクラスター(感染者集団)の原因について、「米国本土から移動してきた部隊と分析している」と明らかにしました。詳細は不明ですが、重大な発言です。感染の急拡大は米軍基地クラスター、東京など本土由来、繁華街のクラスターなどが複合的に作用したと見られますが、米本国から持ち込まれたウイルスの基地内外への拡散が大きな要因であることは間違いありません。

 

 玉城デニー知事は米軍関係者の感染急増を受け、政府に米軍の「米国から沖縄への移動中止」を要請しましたが、政府はまともに受け止めていません。7、8月は米軍の大量定期異動時期です。沖縄だけでも「5千~7千人」と見られています。在日米軍はそもそも米軍基地の兵員数を「安全保障上の理由」で明らかにせず、米本国から日本への異動(移動)数は不明です。PCR検査の強化などの対応策が示されていますが、政府は明確に「米国から日本への異動中止」を打ち出すべきではないでしょうか。今のところ国内の米軍感染者は沖縄に集中していますが、米本国から国内へ、また沖縄から本土基地へと、米兵の移動を制限しない限り、感染の拡大は時間の問題です。

 

 玉城知事は政府だけでなく在沖米軍トップのクラーディー4軍調整官にも海兵隊基地の閉鎖や「米国から沖縄への移動禁止」を要請しました(7月11日)。調整官は「私の権限における最高レベルの感染防止策を取る」と弁明しつつ、移動禁止については「権限外」と責任を回避しました。確かに現地レベルでは無理でしょう。日米合同委員会などトップレベルの交渉で、日本政府の責任ある対応が問われています。

 

【問われる日米安全保障】

 31日タイムス読者欄に宮古島・内科医が投稿しています。4軍調整官が「沖縄への移動禁止」を「権限外」と回答したことを、「自国兵士のみならず駐留地の人々の命も守るという使命感が感じられない」「人の移動が感染拡大の最大要因であることは周知の事実。人命救助のため移動禁止を上官に要請するのは現場指揮官の責務」と厳しく批判しました。日本政府、安倍首相にも、在日米軍トップにも聞いてほしい言葉です。

 

 投稿の内科医師は「復帰48年の沖縄に、感染者数が世界最大の米国から多くの兵士が異動した。その直後、米軍の集団感染が起きた。今まさに日米安全保障の存在意義が、自粛を要請された国民から問われている」としています。

 

 米軍は何のために日本に居るのか。日本を守るためと言いながら、日本国民の命を脅かしているのではないか。「日米安全保障の存在意義」と同時に、「優先すべきは軍事か国民の命か」という日米安全保障の内実も問われています。

(新垣邦雄 1956年、コザ市生まれ。琉球新報社東京支社長、論説委員、関連会社代表を経て退職。2020年4月から東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター事務局長)

新型コロナ感染危機の鎌倉観光への影響(大河ドラマと鎌倉❸)

(8月9日)コロナ危機は鎌倉市の観光にどれほどの影響を与えているのか。昨年(2019年)8月に市民生活部観光課が公表した「鎌倉市の観光事情――令和元年度版――」と6月1日の記者発表資料にはコロナという文字はまったく出ていない。だが悪天候による海水浴客の激減と台風15、19号による寺社の閉鎖やハイキングコースの長期にわたる通行止めなどで、鎌倉の延入込観光客数の減少などが見られる。これに続くコロナ危機で鎌倉の観光事情は壊滅的な影響をこうむっているはずである。統計の数字を追った。
変わる由比ガ浜の夏の景観
           変わる由比ガ浜の夏の景観(左は昨年夏、右は2020年8月2日)
                  新型コロナウイルス感染不安か、それとも社会の構造改革の予兆か


≪鎌倉市の観光事情――令和元年度版――≫
 鎌倉市は昨年8月、新型コロナ感染が広がる直前に公表した「観光事情」は、「1 平成30年度の実績概要」「2 目標指数の平成30年度実績数値」「3 観光課の事業内容」「4 その他 統計データ」の章立てで構成されている。だが平成30年度としておきながら、年度末にはすでに横浜港の「ダイヤモンド・プリンセス号」で2月上旬にコロナ感染が広がっておりながら、「コロナ」については言及していない。

 (実績概要)
 政府は平成29年度に観光立国推進基本計画の規定に基づき、観光立国推進基本計画を策定し、観光を我が国の成長戦略と位置付けた。2020年の東京オリンピックを目前にして今後も観光先進国としてさらなる観光客の取り込みとインバウンド消費の拡大が想定される一方で、一部の観光地では急増する外国人をはじめとする多くの観光客により、混雑やマナーの悪化など市民生活への影響が現れている。鎌倉市も例外ではなく、市民生活と観光振興の両立は「第3期鎌倉市観光基本計画」の施策として位置づけられている。

 (目標指標の平成30年実績指数)
 令和元年の延入込観光客数は1902万人で、平成30年の1987万人を約85万人下回り、前年比約4.3%の減少となった。悪天候による海水浴客数の減少により約35万人が減少したほか、令和元年度台風15号及び19号による社寺や観光施設の一時閉鎖やハイキングコースの通行止めが背景として挙げられる。一方では近年需要の増加がみられる。鎌倉海岸(材木座海岸・由比ガ浜海岸・坂ノ下海岸)では客数の増加がみられた。
 

≪新型コロナ感染症の旅行市場への影響(じゃらん宿泊旅行調査2020)≫
 8月4日、じゅらんリサーチセンター主催のオンライン「観光振興セミナー2020」が開催された。観光行政に携わる地方自治体や観光協会など関連団体関係者ら3000人を対象にしたもので、「新型コロナウイルス感染症の旅行市場への影響」について、沢登次彦センター長が報告した。新型コロナの影響について鎌倉市は「観光事情――令和2年度版」の公表を8月末に予定している。リサーチセンターの調査報告(要旨)である。

 今後1年間の需要回復シナリオとしては、 ❶2020年夏休み前には県内中心のマイクロツーリズムの動きが若年層中心にみられる。❷夏休み中にはファミリー需要高となり、名所旧跡、テーマパークの需要が増える。
❸2020年秋から年末にかけて、シニア需要を軸に従来の旅行スタイルが戻り始める。❹2021年以降、テーマパーク、買い物、街歩き、食べ歩きなど旅行需要の完全回復期に入るとみている。長期的に注視すべきトレンドの変化としては、アウトドアブーム・ドライブ・自然観賞などの3密回避の旅行スタイルが、21年以降も継続するかどうかがポイント。

≪新型コロナ感染の観光への影響に触れた報告書の公表か≫
 新型コロナ感染症の影響に言及するとみられる「鎌倉市の観光事情――令和二年度版――」(8月末公表予定)がじゃらんリサーチセンターの分析に見合うものになるのかどうか、若年層中心❶➡ファミリーの動向❷➡シニア需要の回復❸➡2021年以降の完全回復❹といった〝楽観的シナリオ″通りに動くのかどうかが当面の鎌倉の観光の行方を見極める試金石となろう。

夏の由比ガ浜コロナ危機下の情景

(8月2日)梅雨が明けた1日夕方と2日昼に、由比ガ浜の海水浴場の情景を見に行った。海岸沿いの国道134号線には電光掲示板が「海水浴の自粛」をドライバーに呼びかけていた。いつもの夏なら最も混雑する時期だが夕方と言えどもコロナの夏で、由比ガ浜から材木座にかけては家族連れの客がチラホラ残っている程度で、夏とは思えないほど閑散としていた。
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海水浴客が少ない、海の家がない、ビーチパラソルがないコロナ危機危機下の由比ガ浜(2020.08.02  高木治恵撮影)
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もっぱら夕涼み客が目立つ由比ガ浜(2020.08.01  高木治恵撮影)
 砂浜に隣接する遊歩スペースで「高木さん、お元気ですか」と自転車に乗ってチラシを配っていた県会議員の飯野まさたけさんから声をかけられた。時折夏の海を回っては今年の海水浴場の状況を観察しているとか。手渡された県政報告のチラシにはコロナで激震が走った夏の海の問題点が、懇切丁寧に説明してあった。

 「県と沿岸市町による『海水浴場に係る調整会議』で新型コロナウイルス感染症防止対策ガイドライン(案)が県から示され、5月末に公表された。海水浴場が開設した場合には、市町や海水浴場組合が安全管理を担うことになっている」
 今年の由比ガ浜は、「海の家」の開設が見送られ、「海開き」の行事もなく閑散たる眺めだった。
 
 「(海の家を)開設しない場合は誰が海岸の安全管理を担うのかという新たな論点が生ずる」
 砂浜を一見したところ、パトロールの光景も目につかなかった。中央監視設備はいつものようにあるが人影は見えなかった。昼間の雑踏はなくなったので、パトロールも監視人も引き揚げたのかも知れない。でもまだざっと2百、3百人の海水浴客が残っており、ここで事故が起きたらどのように対応するのか不安になった。
コロナ危機の由比ガ浜
由比ガ浜唯一の〝施設″エコステーションでゴミ分別の呼びかけ   国道上の電光表示板に「遊泳自粛」の呼びかけ(2020.08.01 高木治恵撮影)
 「県管理の海岸での対応として、遊泳自粛要請看板、柵の設置、警備員及びライフセーバーによる海岸パトロールの強化などを実施している」
 国道上の電光表示板はこうした要請に応じて造られたのであろうか。それにしても今年はコロナ感染の脅威が広がる「不安の海」の情景である。台風到来によって海が荒れ始めたらどうするつもりなのかと撮影の妻と意見を交わした。

 何よりも今年の夏は新型コロナ感染の第二波にそなえて、対策を講じなければならないはずである。中途半端な自粛呼びかけだけで由比ガ浜や材木座海岸が新たな感染のクラスターとなったら一体だれが責任を取るというのか。飯野さんは防犯防災組織鎌倉ガーディアンズの創設メンバーとか。自転車で回っているのもガーディアンズとしての自主パトロールの一環なのかもしれない。「ご苦労さん。パトロールの結果について、新たなチラシができたら私の所にもぜひ回して」と依頼して「不安な海」を後にした。 

「オーバーツーリズム」ミッション脅かす最大のガン(大河ドラマと鎌倉❷)

(7月31日)二〇二二年に予定されているNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映で、鎌倉市市民生活部観光課の「大河ドラマ・オーバーツーリズム担当」が脚光を浴びている。大河ドラマは内外の観光客を呼び戻し鎌倉の再活性化を図る上で利用価値が大きいという考えはわかるのだが、もう一つの「オーバーツーリズム」には一体どのような思いが託されているのだろうか。担当の石川雅之係長に聞いた。
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   ゴールデンウィーク江ノ電鎌倉駅コンコースを埋め尽くす観光客(2015.05.05 高木治恵撮影)  
≪オーバーツーリズムとは≫
 観光客の激増で地域住民の生活や自然環境、景観等に限度を超える負の影響をもたらしたり、観光客の満足度を著しく低下させるような状況をさす。首都圏にある観光地として鎌倉が宿命的に負う課題である。「観光公害」と同義語。石川さんは「他の都市や街みたいにどんどん観光客を呼び込む態勢ではないので、今回のようにNHKのドラマがおこなわれるので、みんな集まってくださいと言う風に容易には言えない。(大河ドラマと目的が相反しているが)確かにそうなのだけれどそこのところが共存できなければ、明日の鎌倉はないと思っている」と頭を抱える。

 一方で「やはりある程度の観光客にきてもらわないと市民生活に及ぼす影響だって大きい。皆が気づいていないけれど沢山のお金は観光客が落とすわけではないとしても、これで観光客がこなくなると、税金をあげなくてはいけなくなる。普通のインフラが成り立たなくなってしまう。ある程度の収入を得るためには観光客に来てもらわないといけない」と本音を語った。

 「逆にあつまってくることで、生活の支障がないように交通のシステムだとか、観光客にいろいろなところに分散していただくこととかを課題として考えなければいけないというような意識をもって取り組んでいかなくてはならない。(目的が相反しているが)そうなのだけれどそこのところが共存できなければ、明日の鎌倉はないと思っている」と決意を語った。

≪観光客が来なくなることに危機感≫
 鎌倉には大きい工場はみななくなってしまって、残っているのは三菱電機ぐらいである。大船からは資生堂、神戸製鋼もいなくなった。大きい工場がない中で鎌倉は市民税だけで生きている。あとはそこへ観光客が少しお金を落としてくれる仕組みを考えないといけない。なんとかやっていかないと後には厳しい現実が待っている。

 「やはりある程度の観光客にきてもらわないと市民生活に及ぼす影響だって大きくて、皆が気づいていないけれど沢山のお金は観光客が落とすわけではないとしても、これで観光客がこなくなると、税金をあげなくてはいけなくなる。普通のインフラが成り立たなくなってしまう」
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     車の渋滞、観光客であふれ返る長谷駅前の通り(2015.05.04  高木治恵撮影)
≪オーバーツーリズムの実態≫
 鎌倉市ではコロナ危機が蔓延するまでは年間2000万人を超える観光客が訪れていた。そのために鶴岡八幡宮、鎌倉大仏等の観光地周辺では、休日を中心に著しい交通渋滞で日常的にオーバーツーリズム(観光公害)が発生していた。このため市ではパーク&ライドの実施、シャトルバスの運行、バス専用レーンの設置、鎌倉フリー環境手形の発行等を提案、さらに(仮称)鎌倉ロードプライシングについて意見交換会やシンポジウム行ない、新たな観測機器の設置による交通文責や課金の仕組み等について検討を重ねてきた。

 一方では江ノ電にのるために観光客が1時間以上も長蛇の列を作って並ばなければならないし、住民も満員電車に乗ることが出来ないいびつな現実もあった。そこで市は事前に住民証明書を発行して長い列をスキップできるというゴールデンウィークの社会実験も行った。観光客や住民の不興を買って制度として定着したものはパーク&ライド程度だが、それも目に見れる成果をあげているようには見えない。従来議論されたさまざまな課題をどうするのか。それともコロナ危機で観光客の動向なども大きく様変わりしており、新たな視点でオーバーツーリズム対策を根本的に見直そうというのか。新設の担当係長に課せられた期待はあまりにも大きい。

≪自信と弱音≫
 石川さんはオーバーツーリズムと観光客誘致のことは二律背反で、格闘しながらやっていかねばならないと考えている。「そんなことを私ができるのでしょうかね。そんなことを私がやれるのかわからない」と首をすくめた。神奈川県で永年かかわってきた高校教師を定年で辞めて、鎌倉市の公募に応じ、文化人権課長になった。次いで別の公募で「大河ドラマ・オーバーツーリズム担当係長」になった。とくにオーバーツーリズムについてのインタビューでは自信と弱音が繰り返し聞かれた。抱え込んだ課題の大きさを実感しておられるのであろうか。

「あの時」特派員時代(カイロ❹)夢枕にたった宇野重吉の生死の確認、1週間後に現実の死

(7月28日)読売新聞中東総局長としてカイロに駐在していた1988年1月はじめの朝、見知らぬ若い女性が息せき切って支局に飛び込んできた。東京外語大学からカイロ大学に留学している吉田尚子は、「大手新聞社に何らかの情報があるのでは?」と俳優宇野重吉の生死の確認を求めた。そして1週間後に宇野はこの世を去った。今年の7月初め吉田は編集者として勤務してきた文藝春秋を早期退職したのを機に、32年前「あの時」の心理状態について聞くことができた。カイロでの女子留学生の体験とそれを貴重な心療風景として受け止めた貴重な人間ドラマである。(敬称略)

≪宇野重吉の死を予告した夢枕≫
 「昨日、文藝春秋を無事退社いたしました。平成元年に入社以来30余年、お世話になったさまざまな皆様、ありがとうございました〜。退社1日目は、爽快な目覚めでした」
 7月1日文春で編集にかかわってきた吉田から退職したことを伝えるメールでの挨拶があった。「あれもう退職したの」が私の最初の反応だった。若い女性が一人で突然支局にやってくるというのはただ事ではない。それも新聞社の海外支局に飛び込んできて、霊感に突き動かされたと思うしかない突拍子のない行動である。でも真剣なまなざしに負けて話を聞いた。
カイロで吉田とツーショット(1988.04   高木治恵撮影)カイロの自宅での友人送別会で招いた吉田とツーショット(1988.04 高木治恵撮影)
 申し訳なさそうに切り出した。「私は日本の俳優宇野重吉の大のファンで尊敬しているのですが、その宇野さんの死が夢枕に立ちました。新聞社に何か情報があるでしょうか」というものだった。東京外語大学四年当時語学(アラビア語)研修のため、カイロ大学に留学していた。真剣なまなざしで聞くので「宇野重吉が死んだのかどうかを確認して知らせてほしい」と用件を東京本社に送った。30分ほど雑談をして東京からの返事を待った。「亡くなったという事実はありません」との回答があり伝えた。これで一件落着かと思った。1週間後に東京から「問い合わせのあった宇野は9日亡くなりました」との返信があった。カイロ留学中、吉田は夢枕の確認がきっかけとなって支局での友人の送別会などに顔を出すようになった。                          死にざまの昭和史(表紙) 𠮷田の体験で「宇野重吉の死」をまとめた「死にざまの昭和
                                          史」(中央公論新社 2006年刊)
   
≪退職通知がきっかけでよみがえった記憶≫
 夢の確認で出会って32年。お互いにカイロを離れてからは、出版社の編集やら新聞社の激務のため、吉田に会う機会はほとんどなくなった。宇野の死にからむささやかなエピソードも次第に忘却の彼方に消えつつあった。そこへ突然の退職を知らせるメールをもらって記憶がよみがえった。宇野の死は吉田の文春入社の直前だった。そして退職の知らせが記憶の再生の触媒になった。もっとも私自身は意識下でこの記憶を大事に保存していたのかも知れない。2006年に中央公論新社から出版した「死にざまの昭和史」で宇野重吉の死を取り上げ、その冒頭で「宇野の死には忘れられないエピソードがある」として、吉田との出会いに触れた。

≪私だけの心療風景≫
 32年前に聞けなかった宇野重吉の死がカイロ留学中の夢枕にたち、1週間後に宇野の死を確認したという不可解な体験について退職を機にいろいろと細かいところを確認し、聞きただす機会が訪れた。「今考えるとなんだったんだろうなあと思います。同じような(霊感ともいうべき)体験はありません。若い頃は、なんとなく、『この場所は嫌な気を感じる』とかは思いましたが、それも感性が鈍ったのか、今はあまり感じなくなりました」とメールが返ってきた。

「(退職後に)家の整理をしていたら、40年近く前の札幌南高2年のときに、倫理社会の教師に教えてもらって行った黒色テントのチラシとチケットの半券が出てきました。初アングラ。ここから演劇にハマったきっかけでした。1年間のカイロ留学を終えて、(1988年)9月に日本に戻ってから、(東京外語)大学4年に復帰しました。宇野重吉は好きな俳優でしたが、出版社への就職、編集の仕事に追われ、結局会えず仕舞いでした」

 演劇に関心をもったいきさつ、宇野については夢枕にたつほどのめりこんでいたわけではなかったと予想外に淡白な思い入れだった。「感性が鋭いというのでしょうか。25歳くらいまでは、土地によっては、いやな感じのする場所があったりしましたが、だんだんそういうものもなくなり、(今は)生きやすくなっております」と答えた。夢枕にたった宇野重吉が1週間後に他界するという体験に踊らされていたのは、私だけの心療風景だったということなのか。

プロフィール

高木規矩郎

昭和16年、神奈川県三浦三崎生まれ。読売新聞海外特派員としてレバノン、イタリア、エジプト、編集委員としてニューヨークに駐在。4年間の長期連載企画「20世紀どんな時代だったのか」の企画編集に携わる。のち日本イコモスに参加、早稲田大学客員教授として危機遺産の調査研究に参加。鎌倉ペンクラブ、鎌倉世界遺産登録推進協議会に参加、サイバー大学の客員教授として「現代社会と世界遺産」の講義を行う。

【著書】
「日本赤軍を追え」(現代評論社)
「パレスチナの蜂起」(読売新聞社)
「世紀末の中東を読む」(講談社)
「砂漠の聖戦」(編書)(講談社)
「パンナム機爆破指令」(翻訳)(読売新聞社)
「ニューヨーク事件簿」(現代書館)
「20世紀どんな時代だったのか」全8巻(編集企画)(読売新聞社)
「20世紀」全12巻(編集企画)(中央公論新社)
「湘南20世紀物語」(有隣堂)
「死にざまの昭和史」(中央公論新社)

《写真撮影と景観からの視点》
写真は妻の高木治恵が担当します。特派員時代からアシスタントとしてインタビュー写真などを撮ってきました。現在は「鎌倉景観研究会」で活動しています。

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