鎌倉歴史文化都市の光と影~30年後のたたずまいを見据えて

鎌倉市在住のジャーナリスト高木規矩郎による公式ブログ。世界遺産登録挫折に続く鎌倉の歴史まちづくりの真実を探る。

まちづくり行政と文化財保護行政の連携(大倉幕府跡フォーラム❿=山崎報告D)

(5月1日)鎌倉がモデルの一つにあげているエコミュージアムの先行事例である「萩まちじゅう博物館」について、連続フォーラム「原点としての大倉幕府跡~鎌倉のまちづくりのために~」で報告した鎌倉・湘南景観フォーラム代表山崎一眞さんは、萩の事例を念頭に着実にやっていけば幕府跡の保存と整備は十分に可能と見ています。

≪事例2 萩まちじゅう博物館(つづき)≫
(萩まちじゅう博物館の整備・オープン)
平成15(2003)年に「萩まちじゅう博物館整備検討委員会」が組織された。構成は商工会議所や観光協会など団体代表者や学識経験者、地域の代表者ら30名。平成16(2004)年3月市議会で市長のリーダーシップのもと「萩まちじゅう博物館条例」が可決され、「萩まちじゅう博物館 基本計画・行動計画」を策定し、紹介用ガイドブックや手引書が作成された。

 平成16年11月11日は萩開府400年の記念日、萩まちじゅう博物館は開館した。同時に萩まちじゅう博物館の中核施設である「萩博物館」がオープンした。その半年前、NPO萩まちじゅう博物館が設立された。このNPOは萩博物館の管理・運営を受託するとともに、市職員の学芸員や事務局員と協働して、まちじゅう博物館活動を支援している。永続的に萩まちじゅう博物館の充実を図り、飛翔するためには、時々の状況に応じて、まちづくり行政と文化財保護行政の柔軟で円滑な連携が必要である。

(柔軟で機動的な行政の推進)
 平成15年度から文化財保護に関する事務を市長部局が補助執行する方法をとった。平成20年度からは、「歴史的風致の維持及び向上に関する法律」に対応すべく、歴史まちづくり部を創設し推進した。平成25年度からは、「萩市歴史的風致維持向上計画」を総合的に推進するため、総合政策部と歴史まちづくり部の2部体制とした。また、文化財保護とまちづくりの整合を図るため、関連部局によるプロジェクトチームを設置した。なお教育委員会の職務権限とされる文化財の保護の根幹事項については、教育委員会の独立性を担保している。

(飛翔の兆し)
 平成21(2009)年、『萩市歴史的風致維持向上計画』は国の第1号認定を受けた。提出された計画の内容は萩まちじゅう博物館計画をアレンジしたもので、歴史まちづくり法予算で萩まちじゅう博物館関連建造物の整備をすすめたいとする意図は明白である。平成27(2015)年、萩エリアにある5つ(萩城下町、萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、松下村塾)を含む23構成資産からなる「明治の産業革命遺産」が世界文化遺産に登録された。

(都市の文化を基調と下都市計画)
 「環境保全型都市計画」という言葉がある。人間存在の基盤たる都市、そこに刻まれた記憶、それを尊重し、将来のために保全し、その上で都市の再生をはかる都市計画。言葉を変えると、都市の文化を基調とした都市計画だ。鎌倉から始まった古都保存法(66)、伝統的建造物群保存地区制度(75)、景観法と文化的景観制度(04)、歴史まちづくり法(08)等の制定が、地方分権制度の深耕と相俟って、まちづくりと文化財の保全・活用が融合する「環境保全型都市計画」の流れを進めている。これがこれからの奔流だと認識している。

 今回取り上げた二つの先行事例は、大倉幕府跡の保存と活用に参考になるという視点から選んだものだが、奇しくも「環境保全型都市計画」の先端事例になった。二つの先行事例に共通することは、①しっかりした調査・研究に基づく②30年から50年という長いスパンで構想し実践する③首長のリーダーシップのもとで柔軟で広範な対応を図る④推進と執行のベースは行政と市民の協力と協働⑤適切な形で国や県の協力が不可欠 の5点が挙げられる。
 
これら5点を念頭において着実に進んでゆけば、大倉幕府跡の保存と整備は十分に可能であり、同時に、それを起爆財にした鎌倉地区の「文化を基調のまちづくり」が想起されるのである。

萩まちじゅう博物館~都市遺産の保存・育成・展示(大倉幕府跡フォーラム❾=山崎報告C)

(4月29日)市民団体「大倉幕府跡地の保存・活用を考える会」主催の連続フォーラム「原点としての大倉幕府跡~鎌倉のまちづくりのために~」で鎌倉・湘南景観フォーラム代表山崎一眞さんは、先行事例として「史跡大友氏遺跡整備」に次いで「萩まちじゅう博物館」について報告しました。萩は鎌倉がモデルの一つにあげているエコミュージアムの先行事例ということです。
萩の街並み(まちじゅう❶)萩まち博の一つ古いまちなみ(まちじゅう博物館提供)

≪事例2 萩まちじゅう博物館≫
 長州藩の本拠地であった萩。そこは阿武川の三角州に位置し、藩政期260年間に造られた城下町。今に伝わる、往時の町の佇まいや町割り、萩城跡や武家屋敷、町家、維新の志士の旧宅、寺院などがまち全体のかけがえのない風景を形づくっています。わがまち萩に対する市民の思いを形にして、行政と市民が協働して取り組んでいます。その形とは街中に広く存在する文化財を「萩まちじゅう博物館」として捉え、総合的に保全・活用するという構想です。「まち博」の経緯と内容について報告します。

(文化財充実期―萩まちじゅう博物館前史)
 旧萩城、その外堀から外側に広がる城下町、碁盤目状に区画された町筋、軒を連ねる中・下級の武家屋敷。現在でも町筋は往時の面影をとどめ、白壁となまこ壁や黒板塀の美しい町並みが続く。その中に維新の志士ゆかりの地が点在する。萩は今でも「江戸期の地図で歩けるまち」である。

 これは市民にとっては大いなる誇りであり、来訪者にとっては日本の歴史や文化を体感する場となっている。 ベースとなっている史跡・名勝は、国・県・市レベルの文化財として指定・登録されている。萩城跡・萩城下町、旧萩藩校明倫館・旧萩藩御船倉、松下村塾、伊藤博文旧宅・木戸孝允旧宅などがその例である。単体建造物の保存から群としてマチや町並みを保存する必要性が生じ、昭和47(1972)年に萩市は独自の歴史的景観保存条例を制定した。これにより堀内や平安(ひや)古(こ)に残る土塀や武家屋敷は守られた。

 国もこの方向に進み、昭和50(1975)年に文化財保護法が改正され、伝統的建造物群保存地区が制度化された。そして、堀内と平安古の2地区は、翌年全国で最初の重要伝統的建造物群保存地区(以降 重伝建地区)に選定された。平成13(2001)年には浜崎、平成23(2011)年には佐々(ささ)並(なみ)市(いち)が追加選定を受け、全国最多の重伝建地区をもつ都市となっている。

(萩まちじゅう博物館の研究・整備検討―都市資産としての認識)
 広く分布し単体で存在する文化財、特定の数箇所に集積する重伝建地区。これらを総合的に保存・活用する必要性が出てきた。これを都市遺産と名づけ、相乗効果を生み出すことを目的に、平成10(1998)年頃から、大学との共同研究「文化遺産管理とツーリズムの研究」が始められ、平成15(2003)年頃、萩市を「まちじゅうを博物館」として捉えるという構想が打ち出された。

 この構想の背景となっている「エコミュージアム」について解説しておく。1960年代後半に国際博物館会議の初代ディレクターであったフランス人リビエールが提唱し推進した考え方は『地域社会の人々の生活と、そこの自然環境・社会環境の発展過程を史的に探求し、自然遺産および文化遺産を現地において保存し育成し展示することを通して当該地域社会の発展に寄与することを目的とする博物館である』というものである。

 萩に即して説明すると、市域をフィールドとして、コア、サテライト、トレイルの3つの要素で構成する。コアは情報展示システムである「萩博物館」、「サテライト」は文化遺産そのもの、「トレイル」は文化遺産やその関連性を市民や来訪者に展示、解説していくための探索路である。この新たな仕組みを用いて、エリアごとの特色を活かし、それらの位置的、文化的つながりを市民、行政、来訪者で共有する。そのことによって、次を目指そうとしている。萩にしかない宝物を次世代に確実に伝え、「萩に住んで良かった」「萩を終の住処にして良かった」と日々実感できるような魅力あるまちづくりに努める。さらに萩を訪れた人々に萩の良さや歴史を、愛着と誇りを持って伝える。それを「おもてなし」として具体的な形にしつつ推進しようとしている。

史跡大友氏遺跡整備を考える(大倉幕府跡フォーラム❽=山崎報告B)

(4月27日)市民団体「大倉幕府跡地の保存・活用を考える会」主催の連続フォーラム「原点としての大倉幕府跡~鎌倉のまちづくりのために~」での鎌倉・湘南景観フォーラム代表山崎一眞さんの報告「先行事例としての史跡大友氏遺跡整備」の後半です。市長部局と教育委員会の有機的連携など鎌倉市にとっても有効な方向が提示されています。
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≪事例1 史跡大友氏遺跡整備(つづき)≫
(国史跡「大友氏遺跡」の整備と活用に向けた計画づくり)
 大友氏館跡を対象範囲とする整備事業は次のように検討されてきた。平成11(1999)年度に市長の諮問機関「大友遺跡検討委員会」を設置し、まちづくりの観点から遺跡の在り方について検討。メンバーは学識経験者・地元代表・関係民間団体・行政機関などで、平成13年度末に報告がなされ、以降の指針となった。平成16(2004)年度に市長部局関連課の連携によって、「おおいた都心まちづくり会議」が組織され、これに協調する組織として、市教育委員会は「大友氏遺跡を活かしたまちづくり検討委員会」を設置した。

(市長部局と教育委員会の有機的連携)
 そして平成17年度末の報告を踏まえて、教育委員会は「大友氏館跡」区域の復元整備の具体化に向けて、庭園部分の発掘調査を平成24年度から着手したのである。都市計画の取り組みとしては、大友氏館跡を含む公園予定地内の3.68haについて都市計画公園事業としての手続きを行い、平成19(2007)年1月に認可を受けた。その後、史跡の追加指定を受けた箇所も都市計画公園事業の認可範囲に追加された。これにより現在の都市計画公園事業認可範囲は、8.55haとなっている。

 大友氏遺跡の保存と整備に向けた本格的な取り組みとして、『大友氏遺跡保存管理計画』を平成26(2014)年に策定し、同年度、庁内関係課17課で庁内検討委員会を設置して、歴史公園整備に向けた具体的な検討に着手している。平成27(2015)年度には『史跡大友氏遺跡整備基本計画(第1期)』を策定している。

(国史跡「大友氏遺跡」の整備と活用の第1期計画)
 計画書では、「国指定史跡である大友氏遺跡の保存・活用を行い、その価値を次世代へと継承することを目的に定め」、以下の方向に沿って、関係者の協力のもと事業整備を円滑に推進するとしている。
① 『大友氏遺跡保存管理計画』に示された整備活用の基本的方向の下、指定地の公有化や発掘調査等の事業を推進する。
② 大分市の個性と魅力を代表する大友氏遺跡を歴史公園として公開活用する。それに向け、適切な整備手法、ふさわしい便益施設や学習交流施設、隣接地と協調関係を模索する。

 第1期は平成17年(2015)を初年度として概ね15年とし、主に大友氏館跡・唐人町跡の史跡整備の完成・公開と、学習交流施設の完成・公開の実現を目標とする。第1期事業の終了前年に第2期整備計画を策定し、平成42年度(2030)以降も引き続き計画を推進する。

(コメント)
 シンポジウムでの報告者の一人山崎一眞さんは、鎌倉市が学ぶべき「先行事例」の一つとして大分市の『大友氏遺跡保存管理計画』をあげ、指定地の公有化や発掘調査等の事業を推進するためとしています。大倉幕府跡の場合はどうなっているのでしょうか。私の知る限り保存管理計画は存在していません。行政は「国指定になっていないので計画も何もない」と答えるでしょう。でも幕府跡の実態を見極めるためにも何らかの計画が必要です。山崎報告をスタートにして一緒に考えましょう。




史跡大友氏遺跡整備と萩まちじゅう博物館(大倉幕府跡フォーラム❼=山崎報告A)

(4月26日) 大倉幕府の地は、往時の都市鎌倉づくりの一丁目一番地でした。それをベースに創られた鎌倉時代のまち、それが今でも当地の基本骨格になっています。この象徴的かつ重要な(埋蔵)文化財、それが大倉幕府跡であり、その保全と活用をどのように 考えるべきなのでしょうか。鎌倉・湘南景観フォーラム代表山崎一眞さんは、二月末に行われた市民団体「大倉幕府跡地の保存・活用を考える会」主催の連続フォーラム「原点としての大倉幕府跡~鎌倉のまちづくりのために~」で大分と山口の事例をあげました。まず史跡大友氏遺跡整備を紹介します。

≪事例1 史跡大友氏遺跡整備≫
 相当市街化が進んだ地区にも拘らず遺跡を保存・活用している事例で、県庁所在都市大分の中心市街地にある。大友氏遺跡は大分駅から約1km、市役所から2km弱に位置し、県庁所在都市・大分市の中心市街地の中にある。文化庁の国指定文化財等データベースには、14~16世紀末につくられた都市「豊後府内」の遺跡として「史跡大友氏遺跡」と記載されている。そこに至った経緯や内容を紹介する。
大友館跡画像❷
        中世大友府内町跡の発掘現場(大分市教育委員会文化財課提供)
(大友氏遺跡保存の前史)
 大分市の中枢部は古代・中世・近世とおよそ400年サイクルで北方向に移動しており、現在の市街地は近世の城下町を基盤として造られた。そのため、中世のまちのあった場所は、中心部に至近な位置でありながら、大規模な開発に至らなかった。その結果、大友氏のまちは、地中に良好な状態で、しかも広範に遺存するという状況で保たれたのである。

 当地には大友氏のまちの様子を描いた「府内古図」が残されており、そこには南北4本、東西5本の街路で区画された街区と、中心の大友館、菩提寺の万寿寺などが示されている。昭和62(1987)年の『大分市史』の刊行にあたって、現在の地図上に当時のまち「府内古図」を投影する研究が実施され、「戦国時代府内復原想定図」が作成された。これが以降の研究の有力な指針となったのである。

(大友氏館の発見と調査そして国史跡「大友氏館跡」として保存へ)
 後世に誇り得る県都「大分の顔づくり」を目指して、平成8(1996)年大分駅周辺総合整備事業が開始された。その事業の移転代替地に、復原想定図で大友館と推定されていた場所を含んでいた。平成9(1997)年に大友館推定地の東南部分で発掘調査が行われ、東西道路の発見や大量の陶磁器類などの遺物が検出され、引き続く確認調査(大友氏館跡第1次調査)では庭園跡が発見された。この遺跡から大友氏館跡の可能性が極めて高いと判断され、平成11(1999)年に国史跡指定の方向性が打ち出された。

 2年後、大友館推定地の一部は国史跡の指定を受けた。国指定文化財データベースで「大友氏館跡」の解説をみよう。①市教育委員会が平成10・11年度の発掘調査で庭園遺構を検出 ②西外郭付近の調査で16世紀の土塁遺構,整地層,掘立柱建物跡等を検出 ③大友氏館跡は北部九州,西国の戦国時代史の重要中心地の一つであり,方二町室町幕府の規範守護館の典型。よって史跡指定し,保護を図る。その後、長い時間をかけて重要遺跡確認調査が進められ、徐々に史跡追加が行われてきた。併せて公有化も図られ、大友氏館跡の所在地域では、少しずつ戸建住宅やアパート、マンション、店舗等が取り払われている。

(中世大友府内町跡の調査 そして国史跡「大友氏遺跡」として保存へ)
 並行して中世大友府内町跡の調査が精力的に続けられた。文献・絵図史料調査、地名・地割調査等や、大分市教育委員会による重要遺跡確認調査や大分県教育委員会によるインフラ整備に伴う発掘調査などである。勿論、両教育委員会は協力連携して発掘調査を進めており、成果が得られている。16世紀中頃から後半に、豊後府内町は最盛期を迎え、東西0.7km、南北約2.1kmの都市域を有した。その中心に一辺約200m四方の大友氏館跡があり、館跡の南に隣接して倉庫施設の御蔵場跡が、南東部に近接して大友氏菩提寺の万寿寺跡が連なる。

 このような結果は国史跡に値するとして、平成17(2005)年に大友氏の菩提寺である万寿寺跡とそれに隣接する武家地・町家跡推定地区の一部を「旧万寿寺地区」として追加指定された。同時に名称を「大友氏遺跡」に変更している。発掘調査はその後も行われており、その結果を受けて大友氏遺跡の追加指定が続いている。平成22(2010)年の「推定御蔵場跡」、平成26(2014)年の「上原館跡」である。さらに、「唐人町跡」も追加指定の方向にある。これら新たに追加された旧万寿寺地区・上原館跡においても、関係市民と合意を図りつつ徐々に公有化が図られている。(つづく)

大倉幕府跡の開発計画狂わす〝頼朝の呪い″

(4月17日)大倉幕府跡の遺跡で地下の静寂を破ろうとする現代人への″頼朝の呪い”かも知れません。開発関係者によるとマンション建設を予定していた東急不動産株式会社は、開発から手を引くとして埋蔵文化財の発掘調査をはじめすべての手続きをストップしていますが、この決断の背景には建設用地の湧水量が予想以上に多かったことが考えられます。1年以上前に公表されたマンション建設予定地での確認調査報告書(試掘報告書)でも地下の湧水による地盤の崩落などを指摘しており、企業の社会的責務を自覚しての実質的な撤退となったのかも知れません。

4T.P.試掘調査位置(カラー)湧水の状況が詳しく記述されているT4(試掘報告書より)

試掘が行われたマンション敷地内のトレンチ
 建設が予定されていた大倉幕府跡地のマンション計画は、雪ノ下3丁目の事業1951.58㎡の敷地において、地上4階、高さ13.635m、戸数33戸、地下駐車場付きの共同住宅棟です。すぐにでも発掘調査が行われる段階まで来ていましたが、「平成29年10月19日付けで鎌倉市開発事業における手続及び基準等に関する条例」に基づく手続きがストップしたままで、発掘も事前の書類手続きすら行われていない状況で、工事に関連する動きはまったく途絶えたままでした。私たちも東急不動産側の真意がつかめず、やきもきしていました。

 「地下水が思いのほか深刻で、工事を強行するとしたら鉄杭を何十本、何百本と打ち込む必要性があるのではないか」とか「買い手を探していると知って、開発業者が現地を見にきたが、地下水の状況を知って、早々にあきらめたらしい」などといろいろなうわさも飛び交っているようです。「当初のマンション計画はあきらめて、戸建てに移るのではないだろうか」と将来を見据えた意見も聞かれました。地下水の状況とは一体どんなものだったのでしょうか。謎を解く資料が足下にありました。
        トレンチの配置図(Tはトレンチの略)(試掘報告書より)
≪試掘調査で湧水に言及≫
 昨年2月20日から26日にかけての「雪ノ下三丁目694番2、694番17で実施された確認調査報告書(試掘報告書)です。報告書によると南北3㍍、東西2㍍のトレンチを計画建物内東側に沿って南北方向に3か所、西側に沿って南北方向に3か所、中央部に1か所の計7か所を設定しました。トレンチ名称は南東トレンチから北に1~3、中央トレンチを4、西側の3か所は南から5~7としました。湧水(地下水)についての記述があったのはトレンチ1、トレンチ2、トレンチ4、トレンチ6、トレンチ7の5か所のトレンチです。

 トレンチ1については「湧水は地表下130㌢、海抜12.40㍍以下で激しく噴出する。埋没している現代池の影響と考えられる」、トレンチ2については「地表下70㌢、海抜12.80㍍の生活面(1面)は、トレンチ西半分が現代池に壊されている」、「炭化物質は湧水が多く確認は困難であったが、3面の上には6㌢程の厚さに堆積している」といった湧水についての記述があります。

 トレンチ4については「海抜13.10㍍の生活面を1面とした。その面は北東部が大きく現代池に壊され、池の南には当時庭園に置かれた大きな庭石が検出されている。池の影響もあり、地表下40㌢、海抜13.0㍍で多量の湧水がある。トレンチ壁の北~東にかけて崩落する可能性が高いため、調査は地表下110㌢、海抜12.55㍍で終えた」と湧水の状況、池との関連を想像させる重要な記述が見られます。

 トレンチ6では「湧水は地表下130㌢から始まり、湧水量は多い」とあります。トレンチ7については「トレンチ北半分に半径1㍍ほどの浄化槽が埋設されていることが判明した。そのため安全を考慮して浄化槽周囲は調査対象から除いて、南側140㌢の範囲で掘り下げを行った。湧水は地表下110㌢、海抜12.80㍍前後で始まるが湧水量は多くない」と記述されています。試掘調査の結果を包括的にまとめた一覧表では、「調査概要」として「湧水の深さ GL―約40㌢ 湧水量 非常に多い」と特筆されています。試掘では7か所のトレンチのうち5か所のトレンチで「湧水」の記述があり、一覧表での「(湧水が)非常に多い」との評価につながっていると思われます。

 また試掘だけでもトレンチ4では「池と多量の湧水による崩落の可能性」への言及、トレンチ7では「半径1㍍の浄化槽」の発見に触れています。浄化槽とはいつごろ造られたもので、一体何のためのものか、湧水との関連はどうなっているのかなど多くの謎を残しています。

≪試掘報告書と東急不動産の開発中断≫
 試掘報告書は現実に東急不動産側の「開発手続き中断」という判断に調節の影響を与えているのでしょうか。それとも判断材料のひとつとなっているのでしょうか。企業側からの説明がないのではっきりしたことは言えません。でも実際に工程の変更、内容の一部中止をもたらしています。報告書の指摘を無視して本格的な発掘調査を強行したら、大きな災害にもつながりかねません。大倉幕府跡地の開発問題は〝頼朝の呪い″によって予期せぬ激流にさらされていると言えるかも知れません。

もうひとつのドラマ(キーン先生と鎌倉❸)

(4月13日)「父は日本の雨が大好きでした。きょうのような日は窓から外を見て『雨で緑の葉が洗われて美しい』と言っていた。この雨は悲しみの雨ではない、父の喜びの雨だと思います。父は自分の希望通り、夢に描いた通り、日本の土になりました」
 「お別れの会」が開かれた青山葬儀所で10日、喪主で養子のキーン・誠己さんは父ドナルド・キーンさんの思い出を簡潔な言葉で語りました。誠己さんは病身の父を最後まで支え続け見送りました。「私と鎌倉」プロジェクトを1年以上にわたって支えてくれた誠己さんへの感謝の気持ちを込めての「もうひとつのドラマ」です。

上原誠己≪浄瑠璃弾き語りのキーン先生との運命的な出会い≫
 1962年、早稲田大学の国文学者鳥越文蔵教授(当時)が大英博物館で「弘知法印御伝記」という即身仏を取り上げた古浄瑠璃を発見して、友人のキーン先生に翻刻出版に至った経緯を話しました。新潟の柏崎が舞台となる物語で、先生はかって文楽座の浄瑠璃弾き語りをしていた上原誠己さんに復活上演の相談をもちかけました。先生の命名で越後角太夫という芸名もでき、越後猿八座を立ち上げ2009年6月の柏崎での初演に備えたのです。
     上原さんの公演パンフレット

 こんな伏線があって、秘書として先生の帰化にあたり日本国内での受け入れ準備、日本への膨大な書籍や家具の引っ越しなどで奔走された上原さんの存在がキーン先生の人生にとって重要な意味をもってくるようになったのでしょう。資料の中にはキーン先生による「鶴澤淺造(文楽座での上原さんの芸名)さんのこと」というパンフレットもありました。上原さんの才能を高く評価していたことが伺える内容です。

 「25年も文楽座の一人として芸を磨いていたところ、体の調子を悪くして、10年も文楽の世界から離れるようになった。回復しても長い間三味線を稽古しなかったため芸が衰えたと感じ、自分の名前が出ていた古い文楽のプログラムを捨てた。会社員になって新しい仕事に身を入れて、過去のことを忘れたかのようであった。が、忘れてはいなかった。文楽座にいたころ、三味線の勉強の重要な課題として、太夫の語りに調和するために浄瑠璃を覚えたり・・・古い作品の永遠の価値や普遍性についても勉強したり・・・21世紀の人間として300年前になかったような(浄瑠璃の)新鮮さを求めている。予言に反して文楽は化石にはならなかった。東京では相当な人気があって、なかなか切符が手に入りにくい。未来はむしろ明るい」
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     鎌倉に着き会場に向かう(左から)キーン先生、上原さん、出迎えの私(髙木治恵撮影
 2011.10.29)
≪東日本大震災と鎌倉プロジェクト≫
 いま思うと鎌倉での企画をもちかけた時期は、東日本大震災をはさんでまさに先生の人生を揺るがす大変動の時期と重なっています。入退院を繰り返された病気への配慮、ご高齢にして重大なご判断をされた先生の心中を考えると鎌倉プロジェクトで先生の確かなお気持ちを執拗に迫ったことで忸怩たる思いにかられます
 誠己さんがプロジェクトの先生側の窓口になってくださり、客観的な判断で先生の意向をお聞きできるようになりほっとしたことも事実です。震災直後の2011年3月19日には八王子郊外の高尾で上原さんが浄瑠璃弾き語りの公演をされるので、キーン研究会の仲間と観劇する準備をしていました。関東でも散発的に余震があり、計画停電も続いていて公演そのものは中止になりましたが、私たちとしてはプロジェクト実現のための必死の働きかけの一環でした。

 講演会開催予定日のわずか2週間前の2011年10月16日にやっとキーン先生にお会いでき、最終打ち合わせをしました。先生にとっては日本と米国での入院、東日本大震災のことをニューヨークで聞き、新たな人生への門出としての帰化を決意されるなど、まさに激動の1年でした。当時89歳というご高齢にもかかわらず、先生はお元気そのもので、キーン研究会で用意した日程については、大枠で了承してくださいました。

 そのあと世界遺産協議会の幹部と一緒に、近くの喫茶店に移動し、上原さんを囲んで鎌倉滞在の詳細について話し合いました。講演会・シンポジウムの後の鎌倉大仏での懇親会、ホテルで一泊された後、鶴岡八幡宮参拝、建長寺を回って北鎌倉駅までお送りするという概略をチェックしていただきました。そして「29日にお会いするのを楽しみにしています」といって別れました。上原さんのご協力なしには、なしえないプロジェクトの成功を確信しました。

≪キーン先生最後の言葉≫
 2011年夏ごろ先生の方から養子縁組の話が持ち上がり、12年3月に先生が日本国籍を取得した後、「キーン・誠己」となりました。3月はじめ、東京で記者会見した誠己さんは、「父は死去の1週間ほど前に英語で『君は私にとっての全てだ』と言われました。『原稿が書けなくなったり、本が読めなくなったら死んだ方がいい』と言っていました。もう仕事ができなくなって、死ぬ日も近いことに気付いていたと思います」と先生の最後の言葉を回想しました。

世界標準のまちづくりを(大倉幕府跡フォーラム❼=古川報告C)

(4月12日)心から慕う先輩ドナルド・キーンさんと米沢富美子さんがあいついで逝去され、追悼録をまとめることになりました。このため連載中のブログが長く休載を迫られました。大倉幕府跡フォーラムの日本女子大学の古川元也教授の報告Cから連載を再開します。「文化財保護法の改正を活かすために」についての報告最終回の「まとめ」と、古川報告に対する行政側からの反応です。

≪大倉幕府跡は京都の轍を踏むな≫
 室町幕府、いわゆる「花の御所」があった京都では、その跡地はどうなっているのだろうか。残念ながらすでに多くの住宅が建てられてしまい、面的な発掘を行うことは不可能である。さらに一部は同志社大学の建物(鉄筋コンクリート造りの寒梅館、さらにそれ以前の校舎)が建築されているので、地中核心部には何も残されていない。わずかに周辺部に石敷き遺構が発見されたが後の祭りである。
フォーラムの資料で紹介された花の御所
      花の御所(「洛中洛外図」16世紀)             現在の花の御所跡に設けられたガイイド施設
              (フォーラムで配布された資料より)
 このように遺跡、遺構はいくつかの条件、すなわちその当時の人々の理解、行政の歴史遺産に対する認識が熟していなければ残らない。ひとたび失われてしまえば、それは永久に失われてしまうのである。大倉幕府跡は同じ轍を踏んではいけないのではないだろうか。失われてしまった文化財は元には戻らない。その喪失感は計り知れないものであり、残念ながら多くの人は、失って初めてその大切さに気がつくのである。

≪世界標準のまちづくりを=市文化財部の見解への反論≫
 (古川教授から3月16日にメールで以下の報告をいただいたので、文面を一部書き換えてお伝えします)2月24日の第3回連続フォーラム「原点としての大倉幕府跡」を受けて、3月7日にフォーラムを主催した「大倉幕府跡地の保存・活用を考える会」の八幡義信代表が鎌倉市文化財部に報告に行きました。その結果を踏まえて3月15日に反省会で検討しました。

 八幡代表がフォーラムについて報告した文化財部の桝渕規部長からは、❶文化財保護法の改正はまだ先行事例が少ないので静観する(何もしたくないという意思表示に思えました)❷大倉幕府そのものについては、世界遺産コンセプトを「武家の古都」から変更する予定なので、そうなると大倉幕府はそのコンセプトから外れる――といった驚くべき発言があったようです。

 世界の中の鎌倉市が文化財保護法改正の先行事例となるような意気込みも感じられません。ましてやコンセプトが変わっても大倉幕府の重要性は変わらないと思われますが、文化財行政の事実上のトップがこんなことでは、まったく目も当てられません。直接関係あることではありませんが2018年度に鎌倉国宝館に関係した優秀な職員2人が移りました。1人は昨年10月から東京国立博物館、もう1人は3月いっぱいで大学へ移籍しました。

 鎌倉にはモノもあり、市民も意識が高いのですが、文化財行政を担う文化財部がこんなことでは、やりがいも失せ、悲観して外に出て行ってしまうのも仕方ないと思います。人材流出です。こういう人事はまったく外の人にはわからないのですが、寺社とのつながりは人によって支えられているので、内部組織的にも危機的な状態と言えるのではないでしょうか。鎌倉三日会をはじめ市民組織がこのような危機意識を共有して、なんとか文化財を大切にする世界標準のまちづくりを進めていきたいと思います。

文化庁長官のひとことがきっかけに(ドナルド・キーン先生と鎌倉❷)

(4月11日)ドナルド・キーン先生に鎌倉の世界遺産登録について市民にお話ししていただけないものだろうか。今ひとつ市民の盛り上がりが見られない時だけに偶然生まれた「キーン先生と鎌倉」の発想は、鮮烈な響きを持っていました。だが東日本大震災で日本中が揺れ動き、ご高齢で病気がち、しかも日本文学や歴史に絡む終生の研究・出版活動で鎌倉にきていただくのは至難の技です。私たちにとっての巨大プロジェクト実現への道を振り返ってみます。DSC_3310
      キーン邸を訪れ、鎌倉プロジェクトで相談(高木治恵撮影 2010.12.20)

≪キーン先生と鎌倉≫
 2011年10月29日、キーン先生をお招きして鎌倉世界遺産登録推進協議会主催の講演会とシンポジウム「私と鎌倉」が鎌倉生涯学習センターで開かれました。きっかけとなったのは2010年11月に協議会の理事5人で、当時の文化庁の近藤誠一長官にお会いしたとき、「ドナルド・キーンさんにお話をうかがったらいかがですか」と長官からさり気ない提案があったことです。

 昼食時間だったので帰りに神田の老舗のうなぎ屋に立ち寄って近藤長官がおっしゃったことについてどうするか話し合いました。「キーン先生を鎌倉にお呼びしましょうよ。やるべきです」と理事のひとりの発言にみな奮い立ちました。「高木さんお願いします」と言われ、ニューヨークの思い出もあって安請け合いしたものの後の祭り。後のことをじっくり考えもせずに手をあげる。退路を断つための新聞記者の悪癖です。

 とにかく先生のお気持ちを伺わないことには何も始まりません。やっと電話が通じて2010年12月20日午後2時にお会いすることになりました。最初は妻とふたりで行くつもりだったのですが、先生の大のフアンである理事の卯月文さんが同行することになりました。先生の東京のお住まいは英国人ジョサイア・コンドルが設計した国の名勝・旧古賀庭園に隣接する閑静なマンションでした。

 ゆとりを持って約束の時間にベルを押したのですが、返事がありません。玄関でしばらく待っていると、食パンとチーズが入ったビニール袋を手にニコニコしながら近づいてきました。「明日の朝食の買いものです」といってほほ笑んでおられました。この予期せぬ光景で私たちの緊張感が一気にほぐれ、心がなごんできました。「世界遺産登録に挑戦している鎌倉で、ぜひ講演をしていただけませんか」と訪問の主旨を伝えると、原則的にOKの返事でした。
≪激動の1年≫
 話の途中で「いま日本での永住を考えています」とふともらされました。「ということは帰化されるということですか?」と聞くと「日本が好きで前から考えていたことです。体調を崩し1週間入院していて、気持を固めました」と言われました。

 講演を快くお引き受けいただき、ほっとしていたのも束の間で、先生は再び体調を崩されて入院、米国で治療を続けられるということで帰国されました。2011年3月11日に東日本大震災が起きると「日本はさらに立派な国になると信じています。日本の人たちとともに何かをしたい」として、帰化を表明されたとのニュースがニューヨークから飛び込んできました。

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               日本文学研究者や建築家などで設立したキーン研究会(高木治恵撮影)

 先生の動向に一喜一憂しながらも私たちも受け入れ態勢に万全を期そうと、若手日本文学研究者や個人的に先生と接触したことがある編集者らに声をかけ、アドホックの「ドナルド・キーン研究会」を作り、1年がかりの準備にとりかかりました。パネリストをどのように選ぶか、総合タイトルをどうするか、後援をどこまで広げるかなど細かい取り決めを1つずつ決めるとともに、先生の代表的な著書として『百代の過客』と『日本細見』を選び、9回にわたって読書会を開きました。

 でも予期せぬ事態で準備も冷や汗の連続でした。プログラムへの参加を予定していた近藤長官はやむを得ざる日程のため、急遽ビデオメッセージで挨拶してくださることになり、文化庁に出向いて、ビデオ撮影を行うことになりました。最大の問題は10月29日という日時も含めて、キーン先生ご自身の確認がまったくとれなくなったことです。それでも準備は進めなくてはなりません。

 やっと先生にお会いできたのは、講演会開催予定日のわずか2週間前の10月16日のことでした。当時89歳というご高齢にもかかわらず、日本と米国での入院、東日本大震災後の新たな人生への門出としての帰化など激動続きでしたが、先生はお元気そのもので、「キーン研究会」で用意した日程については、大枠で了承してくださいました。(つづき)

「お別れの会」の献辞に代えて(ドナルド・キーン先生と鎌倉❶)

(4月10日)日本文学研究の大家で海外での日本文化研究の基礎を築かれたドナルド・キーン先生が2月24日、東京都内の病院で96歳でお亡くなりになられ、10日東京の青山葬儀所で「お別れの会」が開催されました。ニューヨークでの出会いに始まり、鎌倉での講演会の準備、開催など先生の素顔に接した貴重な体験や思い出を「鎌倉のキーン先生」としてまとめました。 8年前に鎌倉に強いインパクトを残された先生への私なりの〝献辞″でもあります。
会場出入口を飾ったキーン先生の肖像(高木治恵撮影 2019.04.10)
          ホール入口に飾られたキーン先生の肖像(高木治恵撮影 2019.04.10)

≪後絶たぬ献花の列≫
 10日午後、招待客に向けて会場では先生の義理の息子キーン誠己さんが、「父は日本の雨が大好きでした。この雨は悲しみの雨ではない、父の喜びの雨だと思います。自分の希望通り、夢に描いていた通り、日本の土になりました」と挨拶されました。全体では1500 人を越す会葬者であふれ、一般の人の献花のために30分以上待たされるほどでした。キーン先生との最初の出会いから思い出に触れます。
    
≪コロンビア大学でのキーン先生≫
 1993年春、読売新聞ニューヨーク駐在編集委員として赴任しました。最大のテーマは、戦後50年の歴史にいかに対応するかということでした。まず人脈を作ろうと奔走しました。1994年にはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)生存者のリストを作り、日本の戦後復興にかかわったチャールズ・ケーディスや日本国憲法の人権、平等に関する条項を起草したベアテ・シロタ・ゴードンに折に触れて取材させていただきました。

 キーン先生も「戦後50年」とは切り離せません。1994年3月、大雪の後のコロンビア大学の研究室に初めて先生を訪問しました。日本文学研究にかかわるきっかけとなったのは、死を前にして戦場に残された日本兵の日記や走り書きのメモでした。収集整理をして天皇や家族についての日本人のいつわらざる心象に心を動かされたと言っておられたのを思い出します。

 1766年創立のニュージャージー州立ラトガス大学は明治新政府ともつながり、日本から300人近くの留学生を受け入れてきました。卒業生の中には新政府の要人として歴史に名をとどめた者もおり、日本の近代化のバックボーンの1つになっていました。キーン先生が講演された際に私もラトガス大学を初めて訪れ、近代史関連の日本の史料が豊富なアレクサンダー図書館を外山良子館長の案内で、キーン先生と一緒に見学しました。

 マンハッタンまでの帰路、先生を私がチャーターしていた車でお送りしました。ニューヨークと東京を生活の拠点として往復し、日本人の感性やとくに考え方の特徴を先生なりに学び、身に着けてこられたようです。車の中でそんな話を伺っているうちに車は、ご自宅の前につきました。ハドソン川を見下ろすコロンビア大学に近いマンションの一室が、びっしりと日本文学や歴史関連の本や学術書で埋め尽くされていたのをかすかに覚えています。

≪20世紀どんな時代だったのか≫
 1996年に東京に戻ってからしばらくして、私は社をあげての検証企画「20世紀どんな時代だったのか」に編集長としてかかわることになりました。キーン先生をはじめニューヨークで培った「戦後50年」の人脈はそのまま継承しました。GHQの日本国憲法起草に係わった方々やコーネル大学の天体物理学者カール・セーガン博士ら各分野での「20世紀の証人」があいついで逝去され、時間が限られていることを肌で感じ、焦燥感にかられたこともあります。

 2001年1月まで4年にわたる企画では「革命」「戦争」「思想・科学」など20世紀を象徴するテーマで411回の新聞連載を続け、86回の人間ドラマを特集のインサイドストーリーとして取り上げました。さらに20世紀という時代の本質を問いかける14回の大型座談会を開き、連載、特集、座談会を集大成して読売新聞社から全8巻、中公文庫では関連取材も入れて全12巻を刊行しました。

 20世紀検証企画ではキーン先生のご協力を得て、雑誌に連載中の「明治天皇」について、政治部のベテラン記者と鎌倉山の蕎麦懐石「檑亭」で、執筆のきっかけなどについてインタビューさせていただきました。ついで京都で開かれた識者座談会では川勝平太、瀬戸内寂聴、陳舜臣と一緒にキーン先生にご登場いただき、「千年紀」について熱い議論を展開しました。21世紀最初の新年1月26日の誕生日に私は、36年間の新聞記者を終え定年退職を迎えました。
(つづき)

 

令和ショックの改元発表に想う

(4月2日)まさに新年号の発表で揺れた一日でした。わが家でも春休みで中学2年になる孫娘、妻と私もNHKテレビの前にかじりつき、刻々と変わる状況を見守ってきました。とくに菅官房長官が「令和」と発表すると3人とも一瞬言葉を失い、10秒近くの沈黙が続きました。「平成」への改元当時カイロにいて、天皇崩御の後の決定・発表は蚊帳の外だったため、今回のリアルタイムでの改元ドラマは人生初めての体験であり驚きでした。
合現発表の朝に想う
            令和の改元発表を孫娘と聞く(高木治恵撮影 2019.04.01) 
 午前11時半に予定されていた発表が10分遅れ、40分になりました。首相の指示で官房長官が複数の元号案を選定、有識者による「元号に関する懇談会」と衆参両院正副議長から元号案について意見を聞き、全閣僚会議で協議、臨時閣議で新元号を定める政令決定と何事もなく順調に進んできたために、この遅れは気になりました。政令決定の後に天皇陛下の署名、捺印、官報掲載、交付と重要な手続きがあるので、このための遅れなら問題はないはずです。

 「令和」と知って「法令」「政令」という生活を新たに規制しかねない言葉が思い浮かびました。妻も「号令」「命令」とのかかわりが気になったようです。孫娘は「律令国家の律令にもつながる」と歴史の授業で学んだ知識を思い出していました。大宝律令の成立により整然とした官制の下で多くの官僚に支えられ、租・調・庸・雑徭などを課し、良・賤の身分の区別を定めたものです。

 新元号の令和は「初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」との「万葉集」の「梅花の歌」三十二首序文からの引用で、出典が日本の古典(国書)というのは、「大化の改新」(645年)以降の元号の歴史では初めてのことでした。安倍首相の記者会見での熱のこもった説明を聞いて、わが家でのどちらかというとネガティブなイメージも薄らいできました。

≪30年前の天皇崩御・改元≫
 私の人生では2度目の改元でした。でも中東総局長として駐在先のカイロからモロッコに飛び、南の西サハラ独立問題の現状を追っていた1988年9月末には、BBC放送で昭和天皇が危篤で、皇族や首相も皇居に集まっているとの緊急ニュースをキャッチしました。当時の昭和天皇のご体調に伴う臨戦態勢で、状況がよくつかめない外国特派員にも心理的に重圧がかかっており、つねにラジオが手放せませんでした。

 日本で大学受験準備中の長男に電話して、さして切迫した状況ではないと知り、現地での取材を続けました。11月に入ると再び病状が悪化し、本社から天皇崩御のXデーに備えて準備しておくよう指示がありました。そこでオイルショックの際に天皇に謁見したことがあるエジプトの元首相にインタビューしました。Xデー対策であると同時に最終段階に入っていた当時のムバラク大統領との単独会見実現の思惑もからんでいました。

 年末になんとかムバラク会見にこぎつけ、東京からの応援組も総動員で年内の掲載にこぎつけました。1989年1月6日深夜、東京から再び天皇の容態急変の電話、ついで日本大使館からも「今度は危ない」との電話がありました。実家のある三浦の妻の妹から崩御の一報が飛び込んだのは、BBC放送とほぼ同時でした。昭和が終わり新しい時代にはいるということは想像を絶する大事件のはずなのに、日常のあわただしさに振り回され、以外と動揺はなく静かに事態を受け止めました。

 夜中のうちにエジプト政権の内部事情に詳しく、元首相とムバラク会見に影ながら動いてくれた日本レストラン経営の日本人にファックスで天皇崩御を知らせると、お礼の電話があり、新しい時代が「平成」となったことを知らせてくれました。夜が明けて息子に電話すると表面的には大きな変化はなく、通常通り商店も開いているとのことでした。あれから30年、2つの改元は東京とカイロの時間差ばかりでなく、心理的な温度差も思い起こさせてくれました。

プロフィール

高木規矩郎

昭和16年、神奈川県三浦三崎生まれ。読売新聞海外特派員としてレバノン、イタリア、エジプト、編集委員としてニューヨークに駐在。4年間の長期連載企画「20世紀どんな時代だったのか」の企画編集に携わる。のち日本イコモスに参加、早稲田大学客員教授として危機遺産の調査研究に参加。鎌倉ペンクラブ、鎌倉世界遺産登録推進協議会に参加、サイバー大学の客員教授として「現代社会と世界遺産」の講義を行う。

【著書】
「日本赤軍を追え」(現代評論社)
「パレスチナの蜂起」(読売新聞社)
「世紀末の中東を読む」(講談社)
「砂漠の聖戦」(編書)(講談社)
「パンナム機爆破指令」(翻訳)(読売新聞社)
「ニューヨーク事件簿」(現代書館)
「20世紀どんな時代だったのか」全8巻(編集企画)(読売新聞社)
「20世紀」全12巻(編集企画)(中央公論新社)
「湘南20世紀物語」(有隣堂)
「死にざまの昭和史」(中央公論新社)

《写真撮影と景観からの視点》
写真は妻の高木治恵が担当します。特派員時代からアシスタントとしてインタビュー写真などを撮ってきました。現在は「鎌倉景観研究会」で活動しています。

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