(8月6日)センチュリー文化財団などから土地・建物の寄付を受けて、世界遺産ガンダンスセンターと中世博物館としての土地利用が現実味を帯びて動き出しています。寄付されることになった土地にはかって無量寺跡の遺跡がありました。2002年秋には財団が計画していた美術館建設にあたって館長の居宅を作ることになり、埋蔵文化財発掘調査が行われましたが、遺跡の痕跡も消えてしまい“幻の寺”になっていました。
寄付物件はセンチュリー財団からの①3252㎡の土地(うち建物は342.77㎡)と②3089㎡の土地(うち建物は267㎡)、それに③関連企業からの2225.44㎡の3か所です。無量寺跡の遺跡は②の小さな谷戸の奥にありました。「鎌倉市扇ガ谷1丁目26番地74外」の360㎡の土地で、発掘調査はセンチュリー文化財団による社宅新築に先立って2002年10月から12月にかけて行われました。
「無量寺跡発掘調査報告書」(2004年9月発行)によると、谷戸は「無量寺谷」と呼ばれ、無量寺があったとの伝承が残る土地です。もともとあった無量寿院は1285年(弘安8年)、鎌倉幕府の重臣安達泰盛と一族が滅ぼされた政変(霜月騒動)で焼失しました。跡地に無量寺が建てられたとされていますが、同一のものかどうかわかっていません。
発掘調査では5期(1面~5面)にわたる中世の整地面から遺構が検出されました。安山岩川原石で底を敷きつめた石組遺構も成果の一つでした。「一見すると井戸のような形ですが、深さや湧水の状況からして井戸跡ではなく、他の目的で作られたものと考えられる」と報告書は推定しています。建築遺構の一部をなす可能性も指摘されました。半間の縁が西に貼り出す大型建物の礎石遺構も見つかりました。
建物の西側には小規模なものとはいえ、中ノ島のある池が岩盤上に掘り込まれていました。瑞泉寺庭園より数十年早く造られたものとみられ、鎌倉の中世期の庭園としては最古のものとされています。池の遺構については文化庁・神奈川県教育委員会・鎌倉市旧王幾委員会の指導で、事業主のセンチュリー文化財団の協力を得て、調査後に岩盤ごとにブロック状に切り取られ、財団の敷地に移設されました。池の跡の移設のため切り取り作業が進む発掘現場(報告書より)
10年前に発掘にあたった鎌倉考古学研究所理事の宮田眞さんは、「遺構の性格からして一般的な寺院跡であることは確かです。財団関係の住宅建設のため工事が行われるにあたって、発掘調査が行われました。
無量寺跡の痕跡は何もありません」と言っておられます。消えた無量寺跡の遺跡は古都保存法、山稜部を構成資産とする推薦書の理念とのかかわりはどうなのでしょうか。鎌倉市世界遺産担当に確認したところ、「センチュリーから寄付された土地は一部山稜部にかかったところは6条地区になっていますが、無量寺跡の土地も含めて平場は6条地区からは外れています。古都法の規制を受ける後方の山の部分は県が買い取っています」との説明でした。
プロフィール
高木規矩郎
昭和16年、神奈川県三浦三崎生まれ。読売新聞海外特派員としてレバノン、イタリア、エジプト、編集委員としてニューヨークに駐在。4年間の長期連載企画「20世紀どんな時代だったのか」の企画編集に携わる。のち日本イコモスに参加、早稲田大学客員教授として危機遺産の調査研究に参加。鎌倉ペンクラブ、鎌倉世界遺産登録推進協議会に参加、サイバー大学の客員教授として「現代社会と世界遺産」の講義を行う。
【著書】
「日本赤軍を追え」(現代評論社)
「パレスチナの蜂起」(読売新聞社)
「世紀末の中東を読む」(講談社)
「砂漠の聖戦」(編書)(講談社)
「パンナム機爆破指令」(翻訳)(読売新聞社)
「ニューヨーク事件簿」(現代書館)
「20世紀どんな時代だったのか」全8巻(編集企画)(読売新聞社)
「20世紀」全12巻(編集企画)(中央公論新社)
「湘南20世紀物語」(有隣堂)
「死にざまの昭和史」(中央公論新社)
《写真撮影と景観からの視点》
写真は妻の高木治恵が担当します。特派員時代からアシスタントとしてインタビュー写真などを撮ってきました。現在は「鎌倉景観研究会」で活動しています。
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