(7月12日)JR北鎌倉駅裏の「緑の洞門」は、国指定史跡の円覚寺境内を内と外に分ける結界(境根の山裾にあります。洞門そのものは行政の決定で伐り崩される寸前の危機に直面していますが、住民や歴史、考古学専門家・学者の間から開削を阻止して結界を守ろうという動きが活発になってきました。住民主体のシンポジウムや鎌倉市文化財専門委員会などがあいついで開かれ、結界の保全について激論が交わされました。
*結界シンポ3jpgシンポジウムで提示された空撮画像(県道際の★印から赤線で線路を越え尾根のはずれまで46m)(講演会のパンフレットより)
≪史跡と結界≫
 円覚寺結界遺構の尾根は鎌倉幕府滅亡直後に描かれた重要文化財「円覚寺境内絵図」にも描かれています。しかし尾根は史跡「円覚寺境内」から除外されており、国指定史跡であることを前提とした世界遺産の構成資産にもなっていませんでした。だからといって尾根を壊していいという理由にはなりません。市は「尾根は横須賀線の開通(明治22年)と宅地化で削られ、先端が大きく破壊され、結界を示す地形は旧状をとどめていない」として、洞門の開削を進めようとしており、住民や学者・専門家の結界保全運動の火に油を注ぎました。

≪流れを変えた住民の証言≫
*結界シンポ1jpg亀井さんが断面図を作成した(赤線部分)明治15年のフランス式地図、下図は断面図(赤い部分は県道から尾根の先端まで46mを表示)(いずれも講演会パンフレットより)
 6月19日のシンポジウム「円覚寺の結界とまちづくり~街角に残る中世の鎌倉」では、洞門の近隣に住む住民の報告が会場を沸かせました。「江戸時代から先祖が代々今と同じ平地に住んでいて、今私の家まで尾根が続いていたとする市の見解と矛盾する」として、「伐られるような尾根は存在していなかった」と主張したのは、「私が住んでいるところの意味」の報告をした地元の亀井士門さんです。尾根が伐られたとされる横須賀線開通前の1882年(明治15年)国土地理院作成の陸軍迅速図(フランス式彩色図)を基に尾根の頂上に至る断面図を作成、これを根拠に新設を展開しました。

 断面図によると県道から横須賀線線路を挟んで46m先の洞門までは、標高差1~1.5mでほぼ平です。その先は尾根は急勾配になり、最も高い標高100mの峰に至ります。亀井さんは市による尾根の先端が県道と接する地点に代々住んでいて、「尾根の上に建っているのならわかります*結界シンポ2jpgが、昔からわが家は平地で断面図でも非常になだらかな斜面です。私の先祖はずっとここにいましたので、尾根が県道まで延びていたら今のようには家は建たないということです」と強調しておられました。

 亀井さんの前の最初の報告「岩塊は削られていなかった~陸軍迅速図を読む」で鶴見大教授(日本中世史)伊藤正義さんは、横須賀線開通前後に公表された4枚の地図を基に尾根の岩塊は元のままとの新説を紹介されました。❶1882年の陸軍迅速図(ドイツ式単色)❷1330年代の「円覚寺境内絵図」に最も近いと見た1882年フランス式彩色図(亀井さんの断面図の基になった地図)❸横須賀線開通後の明治38年陸軍測量部図❹横須賀線複線化後の1925年(大正14年)陸軍測量部・参謀本部図です。伊藤さんは「横須賀線敷設・複線化でも20mの等高線に変化はなく、尾根の裾部は削られていない」と結論付けていました。亀井さんの報告は先祖の生活体験によって伊藤説を裏付けたものです。 

≪第三者委員会への期待≫
 シンポジウムでは日本考古学協会の馬淵和雄さんら2人の基調講演、亀井さんら3人の報告、ついで神奈川県立博物館の古川元也さんの司会で総合討論が行われました。円覚寺の結界について❶中立性が担保されるような中立な学者による第三者委員会の構成を市に働きかける❷現地視察をした文化庁に結界保存についてもっと強い行政指導をしてほしい――といった意見が出されました。

 最後に神奈川県文化財協会会長の八幡義信さんによって決議文が読みあげられました。「北鎌倉の尾根が持つ歴史遺産としての文化的価値、観光資源としての経済的価値、見るものを和ませる景観としての精神的価値を再検証する必要があるはずです。世界遺産に再挑戦すると明言している鎌倉市にはその責任があるはずです。鎌倉に居住している私たちにもその責任があるはずです。この重い判断は拙速になされるべきではありません」というもので、シンポジウム参加者全員の拍手で受け入れられました。「緑の洞門」開削反対の住民運動は、「円覚寺の結界」破壊阻止運動として新たな広がりを見せようとしています。(つづき)