(4月2日)まさに新年号の発表で揺れた一日でした。わが家でも春休みで中学2年になる孫娘、妻と私もNHKテレビの前にかじりつき、刻々と変わる状況を見守ってきました。とくに菅官房長官が「令和」と発表すると3人とも一瞬言葉を失い、10秒近くの沈黙が続きました。「平成」への改元当時カイロにいて、天皇崩御の後の決定・発表は蚊帳の外だったため、今回のリアルタイムでの改元ドラマは人生初めての体験であり驚きでした。
合現発表の朝に想う
            令和の改元発表を孫娘と聞く(高木治恵撮影 2019.04.01) 
 午前11時半に予定されていた発表が10分遅れ、40分になりました。首相の指示で官房長官が複数の元号案を選定、有識者による「元号に関する懇談会」と衆参両院正副議長から元号案について意見を聞き、全閣僚会議で協議、臨時閣議で新元号を定める政令決定と何事もなく順調に進んできたために、この遅れは気になりました。政令決定の後に天皇陛下の署名、捺印、官報掲載、交付と重要な手続きがあるので、このための遅れなら問題はないはずです。

 「令和」と知って「法令」「政令」という生活を新たに規制しかねない言葉が思い浮かびました。妻も「号令」「命令」とのかかわりが気になったようです。孫娘は「律令国家の律令にもつながる」と歴史の授業で学んだ知識を思い出していました。大宝律令の成立により整然とした官制の下で多くの官僚に支えられ、租・調・庸・雑徭などを課し、良・賤の身分の区別を定めたものです。

 新元号の令和は「初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」との「万葉集」の「梅花の歌」三十二首序文からの引用で、出典が日本の古典(国書)というのは、「大化の改新」(645年)以降の元号の歴史では初めてのことでした。安倍首相の記者会見での熱のこもった説明を聞いて、わが家でのどちらかというとネガティブなイメージも薄らいできました。

≪30年前の天皇崩御・改元≫
 私の人生では2度目の改元でした。でも中東総局長として駐在先のカイロからモロッコに飛び、南の西サハラ独立問題の現状を追っていた1988年9月末には、BBC放送で昭和天皇が危篤で、皇族や首相も皇居に集まっているとの緊急ニュースをキャッチしました。当時の昭和天皇のご体調に伴う臨戦態勢で、状況がよくつかめない外国特派員にも心理的に重圧がかかっており、つねにラジオが手放せませんでした。

 日本で大学受験準備中の長男に電話して、さして切迫した状況ではないと知り、現地での取材を続けました。11月に入ると再び病状が悪化し、本社から天皇崩御のXデーに備えて準備しておくよう指示がありました。そこでオイルショックの際に天皇に謁見したことがあるエジプトの元首相にインタビューしました。Xデー対策であると同時に最終段階に入っていた当時のムバラク大統領との単独会見実現の思惑もからんでいました。

 年末になんとかムバラク会見にこぎつけ、東京からの応援組も総動員で年内の掲載にこぎつけました。1989年1月6日深夜、東京から再び天皇の容態急変の電話、ついで日本大使館からも「今度は危ない」との電話がありました。実家のある三浦の妻の妹から崩御の一報が飛び込んだのは、BBC放送とほぼ同時でした。昭和が終わり新しい時代にはいるということは想像を絶する大事件のはずなのに、日常のあわただしさに振り回され、以外と動揺はなく静かに事態を受け止めました。

 夜中のうちにエジプト政権の内部事情に詳しく、元首相とムバラク会見に影ながら動いてくれた日本レストラン経営の日本人にファックスで天皇崩御を知らせると、お礼の電話があり、新しい時代が「平成」となったことを知らせてくれました。夜が明けて息子に電話すると表面的には大きな変化はなく、通常通り商店も開いているとのことでした。あれから30年、2つの改元は東京とカイロの時間差ばかりでなく、心理的な温度差も思い起こさせてくれました。