ジャーナリストの取材ノート(鎌倉)

鎌倉市在住のジャーナリスト高木規矩郎による公式ブログ。世界遺産登録挫折に続く鎌倉の歴史まちづくりの真実を探る。

文献に見る鎌倉時代

イコモス勧告の内実1

(4月28日)ゴールデンウィーク真っ最中の5月3日にも発表されるイコモス勧告は、実質的に「武家の古都・鎌倉」と「富士山」の世界遺産登録の可否を決めるものです。勧告では①記載②情報照会③記載延期④不記載の4段階からなる評価結果が公表されます。文化庁の記者会見では評価結果についての最新の動向や記載に向けての水面下での動きなども明らかにされました。文化庁の見解を通して鎌倉についての評価の内実を報告します。

 4段階の評価結果は、昨年9月に行われた専門家による現地調査を踏まえてイコモスがまとめたものです。実際には6月にプノンペン(カンボジア)で行われる世界遺産委員会での結論に備えて、イコモスが評価結果を提示する形になっています。イコモスでの審議はすでに終わっており、英語とフランス語への翻訳の整合性などを最終的にチェックして、ユネスコ世界遺産センターを通じて3日に日本側に通告されることになっています。

 第1段階の「記載」は世界遺産に登録するにふさわしいという評価です。過去5年の傾向では、「記載」の評価が出るとほぼ確実に委員会では登録が決まっています。パレスチナ問題で政治的にもめているイスラエルの物件で、「記載」勧告が出たものの委員会ではそのままいかなかった例はありますが、あくまでも例外的なケースです。

 第2段階の「情報照会」は、追加的な情報を出せばいいということで、技術的には翌年から再審議を求めることができます。第3段階の「記載延期」は、よりしっかりした調査とかなり本質的な改訂が必要だという評価です。たとえば構成資産やコンセプトの大幅な見直しなどを求められることもあり、イコモスの現地調査や審査の再開を要請されます。そこで早くても2年後の世界遺産委員会でしか審議ができないことになります。

 第4段階の「不記載」は記載に相応しくないということで、2度と同じものを推薦してはならないということでもあります。たとえば姫路城のように単体で出したものは、次は同じものは「不記載」となります。シリアル・ノミネーション(連続性のある資産)の場合は、どこまで変えたら記載になるのかというルールが明確ではなく、基本的には不記載になると、イコモス勧告が出た時点で推薦を取り下げるケースが多いということです。

 3日には文化庁は鎌倉が4段階のうちどれに該当するのかを見極めて、速報の第1報で公表する予定です。ただ平泉の場合は、評価結果だけを明らかにする予定だったのですが、勧告の内容が複雑で、「記載」とされていたにもかかわらず、実際は柳之御所遺跡だけを外せといわれました。住民が結果を聞いてすごく喜んだあとで、柳之御所が外されたというのはまずいだろうという判断もあり、関係者に連絡する時間を1時間ほどとったそうです。

 鎌倉では平泉の柳之御所のような要注意の資産はあるのでしょうか。そもそも鎌倉幕府跡すら明確にされていません。ただ切通のような遺跡を「記載」に含むことについて、イコモス側に抵抗があるという声も聞かれるだけに、除外資産が増えるか、「記載」ではなく「情報照会」ないしは「記載延期」となる可能性も否定できません。

古代中国音楽と平安文学

(3月17日)「源氏物語」や「うつほ物語」など平安文学に中国音楽がどのような影響を与えてきたのかを検証する物語研究会のシンポジウムが東京の日本大学文理学部で行われました。中国人考古学者である王維坤さん(中国・西北大学教授)が「中国出土の古代楽器と音楽文化」について基調講演されました。音楽を通じて武家文化にもつながる日本と古代中国とのつながりは、歴史に対する新たな視点を与えてくれました。

 研究発表では中国からの渡来楽器である「七絃琴」と中国の影響を強く受けた「夢」が、平安時代の物語文学でどのように描かれているのか、文献の検証結果が取り上げられました。光源氏は血なまぐさい仇討ちではなく、東宮を守ろうという父の遺志を貫こうと琴曲中の最高の傑作とされる「広陵散」を弾いたという見解も紹介され、中国音楽は文学の中に深く溶け込んでいるとのことでした。

 学会などではすでに通説になっているようですが、琴は「君子に相応しい楽器」とされ、日本でも天皇や親王が中心になってたしなんでいたとの報告に興味を感じました。平安時代の一条天皇の頃には、七絃琴は既に幻の楽器となっていました。中世では、「源氏物語」の影響を受けた「擬古物語」が生まれます。平安時代の王朝貴族を主人公にしたもので、七絃琴が再び登場します。
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中国音楽について語る王さん(右)(高木治恵撮影 2013.03.16)
 
 基調講演の王維坤さんは、中国で発見された遣唐使時代の日本人留学生井真成の墓碑の研究で日本でも知られる考古学者です。講演では隋唐墓から出土した伎楽俑と楽器をパワーポイントで紹介して、日中間の文化交流の歴史を語りました。唐代の陶器を代表する唐三彩の手法で素焼きにされた騎馬俑が横笛、篳篥(ひちりき)、琵琶などさまざまな楽器を馬上で奏でる光景を生き生きと蘇らせてくれました。

 「保存できるものは発掘する意味がある。保存できないものは発掘すべきではない」と中国独特の考古学の基本姿勢にも触れておられました。2009年には鎌倉に王維坤さんをお呼びして、講演していただいたこともあります。世界遺産登録は文化財保護にも極めて有利になると持論を展開しました。中国イコモスの重鎮でもあり、東京の講演の後で鎌倉の登録の行方を気にされておられました。

DSC01837古琴を演奏する陳さん(いずれも高木治恵撮影 2013.03.16)
 中国の古代音楽をテーマにするなら実際に演奏に触れるべきではないのかと思い、まったく関係がないのにおせっかいを焼いて、古典楽器奏者である友人の陳麗華さんに会場で唐の詩人王維の詩に因んで作曲された古琴の曲「陽関三畳」を演奏していただきました。「朝からこの渭城に降っている雨が、 黄塵を しっとりうるおしている」という送別の詩の玲玲たる調べ。シンポジウムも盛り上がったというのが、独りよがりの思いでなければと思いました。

吾妻鏡と世界遺産(伊藤一美先生の文献講読4)

(9月7日)鎌倉の世界遺産登録の中で吾妻鏡は、どのように位置づけられているのでしょうか。中世文献学の権威である伊藤一美さんに来年6月の迫った登録の可否をめぐるユネスコでの最終審議を控え、改めて吾妻鏡の存在の意味をお聞きしました。

(吾妻鏡なしには鎌倉は骨抜き)
 世界遺産の中で吾妻鏡をとったら鎌倉は骨抜きになってしまいます。なぜなら今ある鎌倉の姿の原型というのは、頼朝が造ったというわけではなく、当時の鎌倉人たちが北条氏や御家人たち、住人たちが自然災害や天災地変そして偶然性などに遭遇しながら、源氏の理念とかいろいろあると思いますが、そういうものを踏まえながら最初の基礎を作ったわけです。その思いを知らないで、どのように現代の鎌倉の町を発展させることができるのかということになります。

 温故知新にこだわるわけではありませんが、たとえば今の小町の通り、今小路の道など鎌倉人が作ったものです。それを私たちが享受しているだけのことです。一方で理念があって、今は鎌倉という都市を築いています。たとえばローマにしても遺跡が残っているし、同時にギリシャには神話があります。鎌倉というところは鎌倉の主人公たちの記録をオーバーラップさせることができるということが非常に大きな意味を持ちます。

(世界遺産の心)
 マチュピチュなど南米の遺跡は、今までは遺跡の立派さとか、遺跡の不思議さが世界遺産のスケールにあっていたたように思います。現実には新しい学問の中で、実は理念が少しずつ積み重なってきていることが証明されました。まさに名実ともに世界遺産の心と体が生まれてきます。私にとって鎌倉は吾妻鏡がその心にあたる部分でであって、今ある町のお寺や道路を体にたとえることができます。

 そういう風に考えると吾妻鏡は鎌倉にとって、いかに大事な心のよりどころか、ましてや歴史学の大変重要な史料と考えると、吾妻鏡はやはり軽くは扱ってほしくないですね。吾妻鏡を軽んじたら何もできません。体だけで言葉は悪いがうどの大木です。心も理念も入っていない。そこに世界遺産にせよ何にせよ、一つの理念をもてるかどうかが世界遺産につながるものだといえます。

(誇りを持てるよりどころ)
 平泉は最初なぜ難しかったのでしょうか。平泉の中に息づいているであろう宗教とか浄土といった思想は確かにあるのですが、町の人たちは「そんなはずはない」というでしょう。鎌倉もそうです。吾妻鏡をよりどころとしている人は確かに少ないかもしれません。だが地元の人がこの道は吾妻鏡にちゃんと出てくるとさり気なくいってくれます。住民が誇りをもてるよりどころとなれば、吾妻鏡はもっと幸せになれるでしょう。

現代社会と吾妻鏡(伊藤一美先生の文献講読3)

(9月3日)現代社会で吾妻鏡にどのように接したらいいのでしょうか。長年市民とともに講読会を続けてこられた伊藤一美さんの実践活動は、生きた歴史のあり方を示唆してくれます。

(教員として歴史を継承)
 大学院終了後、小学校、中学校で教えていましたが、辞めて角川書店で辞書、教科書づくりにかかわりました。歴史と縁が切れません。歴史学を勉強できる仕事をするにはやはり教員が一番いいと思って、小学校に戻りました。免許は中学校だけで、最初は無免許でやっていた。今では考えられない。免許は取ればいいと言われました。そして鎌倉女子大付属に通い始めました。

(吾妻鏡の講読)
 湘南に来る前に埼玉県で、地方史研究会の一分科会として「吾妻鏡研究会」を作りました。それから40年を越えます。吾妻鏡は30数年かけて、一回全部読み終えました。同時に鎌倉と逗子と藤沢で「吾妻鏡研究会」を作って講義をしています。鎌倉では昔は浄光明寺住職だった故・大三輪龍彦さんが教えておられ、活動としてはもっとも盛んでした。引き継いで私が吾妻鏡演習をやってきました。

 大三輪先生の講義を受講された方が中心になって会になりました。吾妻鏡に類する話を聞きたいというので、できたのが「鎌倉吾妻鏡研究会」です。90歳なかばの高齢者もおられました。いつも私が一番若かったと思います。平均は60代後半から70代にかけてで、主婦がほとんどでした。会ができてからもっとも新しい藤沢では、「地名の会」の人たちがまとまって出てこられました。
DSC_0288赤橋(今の太鼓橋)より八幡宮の境内をのぞむ(高木治恵撮影)
(吾妻鏡を歩く)
 知っている地名がでてくれば、会の方々と実際に出かけていって見学しました。吾妻鏡には逗子のこともかなり出てきます。吾妻鏡から現地を歩いたらどんな印象になるのかということで、見学を取り入れてきました。実際に現地に立つことで鎌倉時代への思いを持てるはずです。吾妻鏡の楽しみはこうした手法も当然考えられます。

 吾妻鏡のコースとして歩くとしたら鶴岡八幡宮の赤橋(造営当時の太鼓橋は朱塗りの板橋で赤橋と呼ばれていた)から鉄(くろがね)ノ井、さらに扇ヶ谷に出て、寿福寺につながるルートが基本的には鎌倉時代と変わっていません。吾妻鏡でこのルートを鮮明に追うことができます。なぜなら和田義盛が滅びた建保合戦(和田合戦)のルートがよく書かれているからです。畠山重忠の屋敷跡もありました。

(吾妻鏡で追う世界遺産候補地)
 世界遺産候補地になった24か所の史跡は、何らかの形で吾妻鏡で跡付けることができます。地名やお堂の名前などで出てきます。もしくはお堂や舘跡などはないけれども、大体このあたりだろうと推測できるところもあります。二十五坊の谷戸の奥にもしかしたら屋敷跡かなというものがあります。吾妻鏡の地名人名索引をわたしたちで作ったことがありますが、それを見ていただくとお寺の地名がインデックスで調べられます。

吾妻鏡と私(伊藤一美先生の文献講読2)

(9月2日)伊藤一美先生は吾妻鏡にどのように出会ったのでしょうか。またどこに魅力を持ったのでしょうか。現在は「吾妻鏡ブーム」といってもよいほど、多数の書籍が発刊されています。中央公論新社の「マンガ日本の古典」で漫画家竹宮恵子さんが刊行した「吾妻鏡」もその一例です。鎌倉では講読サークルの活動も続いています。故郷の歴史に市民の思い入れも深いようです。

吾妻鏡アラカルト
出版された「吾妻鏡」の一部
(初めての出会い)
 実際に吾妻鏡を読み始めたのは、18歳のときでした。都立練馬高校3年生の時の指導教官が森安彦先生でした。先生の家系は世田谷の代官屋敷の筆頭名主の森家で、近世の史料をたくさん持っておられました。森先生に「吾妻鏡というものがあるよ」と勧められたのです。学習院大学に入って実際に読み始めました。西洋史をやるにしても、東洋史をやるにしても、吾妻鏡は必ず読まなくてはいけない一冊でした。皇太子の教官になられた安田元久先生が恩師でした。

 そのころ中世鎌倉の権威だった故・大三輪龍彦先生を知りました。お酒も強く、そういう付き合いの中で初めて吾妻鏡を読む機会を持ちました。初めて読んだとき「なんだ。これは漢文だ」という印象でした。最初は東洋史をやるつもりでいたので、中学から高校にかけてすでに五言絶句(中国の唐代に完成した近体詩の一つ)などは読んでいました。漢字ばかりですが、日本語だという感じでした。

(歴史を学ぶ基本)
 「国破れて山河あり」の漢詩を読んだときに日本語だと感ずるのと同じような受け止め方だったのです。「じゃあ、これなら」ととりかかったところ、指導教官から「君は読み方が甘い」といわれました。「なぜならおれだって何度読んでも解釈が一定しない。君ははじめからこういう意味だといってかかっているが、どういう意味で使われているのか探りながら読むのが歴史学の原点だよ」といわれて、返す言葉がなかったのを覚えています。

 必須ということで一番最初に読まされたのは、歴史に関しては「日本外史」でした。演習では肥前藩の松浦静山の「甲子夜話」で、当時の為政者たちがどのように歴史や庶民の生活を見ていたのかよくわかりました。徳川家がも政権維持の根拠となる明文というか正義があるからこそ、国を収めることができるのです。力ではありません。そこには一つのアイデンティティがあり、それを庶民におよぼしていくということが、政権運営の論理です。それがないと必ず転覆させられるというようなことも書かれていました。

 中国人が考える歴史、日本人が考える歴史を読み比べることも可能だともいわれました。10世紀から12世紀にかけての「日本荘園制について」を卒論のテーマとして取り組みました。特に東大寺領の荘園を主体にして調べました。人々がどのようなしがらみで生産にかかわったのかなどにも視線を向けました。

吾妻鏡とは何か(伊藤一美先生の文献講読1)

(8月30日)鎌倉世界遺産登録の史料面での最大のバックボーンである「吾妻鏡」とは何なのでしょうか。中世史家で文献学者の伊藤一美さんにお聞きしました。最初にお会いした当時は藤沢の小学校校長でした。鎌倉では「吾妻鏡」を市民とともに読んでおられ、教育現場から生涯学習へと毎日の生活に大きな影響を与えているようです。伊藤さんのお話を軸に現代に生きる吾妻鏡をまとめました。

(鎌倉幕府の公式文書) 
 吾妻鏡になじみのない人だと、自分の妻の鏡なのかなと思う人もいるでしょう。基本的には東の国の鏡です。当然東国ということになります。吾妻鏡を資料としてみるのか、それとも歴史的な文学とみるのか議論の分かれるところですが、歴史学、国文学のそれぞれから資料にされてきました。吾妻鏡そのものは、すごい深い内容をたくさん持っているといえます。

 どういうところで私たちは吾妻鏡の存在をを知るのでしょうか。基本的には中学校の歴史、もしくは高校の歴史だろうと思います。鎌倉幕府以前には六国史(日本書紀・続日本紀・日本後記・続日本後記・日本文徳天皇実録・日本三代実録)の史料として国家が歴史をまとめていく伝統がありましたが、平安時代に途切れます。吾妻鏡はその伝統にたって、鎌倉幕府が公式に編纂した書物です。

(北条氏にウェイト)
 それまで東国でこのような文献がまとめられたことがあるのでしょうか。東国の戦乱の中でいえば、将門記などを見ても一つの東国の物語です。それに匹敵するぐらいの意味を持っています。吾妻鏡はまさに東の国の鏡なので、何をもって広めようとしたのか。当然ながら鎌倉幕府が編纂するというところに大きな意味合いがありました。金沢北条氏、金沢実時一門の人たちが編纂にかかわったのではないかといわれています。

 金沢北条氏というのは北条氏一門の中でも、得宗といって執権になるものと近い関係にありました。吾妻鏡は出身である北条氏に対してウエイトが置かれていました。同時に北条氏の主君である源氏一門、さらにそれをつなぐ3代将軍と2代にわたる藤原将軍、摂家将軍の流れの中で、北条氏が自分たちの東国の歴史をいかにまとめていくかという狙いと願いがあったと思われます。

(徳川家康の愛読書)
 実は鎌倉時代後期には鎌倉治記ともいわれていました。南北朝期、室町期になって初めて吾妻鏡といわれるようになりました。私は歴史学上では吾妻鏡を使っています。だが江戸時代には「東鏡」で「鏡」も「鑑」でした。歴史の流れを考えながら、「鑑(かんが)みる」ということだったのでしょう。徳川家康は武家政権の先輩である初代征夷大将軍の源頼朝が、どんな政治をやろうとしたのであろうかという観点で吾妻鏡を愛読いたようです。

プロフィール

高木規矩郎

昭和16年、神奈川県三浦三崎生まれ。読売新聞海外特派員としてレバノン、イタリア、エジプト、編集委員としてニューヨークに駐在。4年間の長期連載企画「20世紀どんな時代だったのか」の企画編集に携わる。のち日本イコモスに参加、早稲田大学客員教授として危機遺産の調査研究に参加。鎌倉ペンクラブ、鎌倉世界遺産登録推進協議会に参加、サイバー大学の客員教授として「現代社会と世界遺産」の講義を行う。

【著書】
「日本赤軍を追え」(現代評論社)
「パレスチナの蜂起」(読売新聞社)
「世紀末の中東を読む」(講談社)
「砂漠の聖戦」(編書)(講談社)
「パンナム機爆破指令」(翻訳)(読売新聞社)
「ニューヨーク事件簿」(現代書館)
「20世紀どんな時代だったのか」全8巻(編集企画)(読売新聞社)
「20世紀」全12巻(編集企画)(中央公論新社)
「湘南20世紀物語」(有隣堂)
「死にざまの昭和史」(中央公論新社)

《写真撮影と景観からの視点》
写真は妻の高木治恵が担当します。特派員時代からアシスタントとしてインタビュー写真などを撮ってきました。現在は「鎌倉景観研究会」で活動しています。

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