2014年02月14日

日々の積み重ね

日は一日、一日と過ぎ、それ自体は誰にも平等に、そして粛々と機械的に起こるものだが、積み重ねていくと膨大なものになる。

また今日も機械的に一日が訪れた。
しかし、積み重ねたものの総称が少し別のものに変化する。

10年の積み重ねを簡単に振り返ってみると…。

20歳〜23歳 日々虚無感に襲われながら、自分がエネルギーを発することができるものを模索し、将来の展望について苦悩した学生時代。一時的に写真や卒論に向けてパワーを発揮するものの安定感全くなし。どうすれば安定してエネルギーを供給できたのか、今でも分からない。

23歳〜27歳 仙台や埼玉に身を置き、都市生活を存分に経験する傍ら、どこか消えることの無いストレスとも戦い続けた新社会人時代。都市圏で生活ができたことは大きなプラスだった。ただ、仕事は常に何かに追われるような錯覚を覚える始末。しかし、ここで考え、戦ったからこそ、今に活きているとも思える。 一方、プライベートでは大体放浪したり飲み歩いたりだったので、それだけじゃないプラスアルファを見いだせなかった点が悔やまれる。

27歳〜29歳 新天地を得た地元返り咲き時代。ここでもまた苦悩しながらも、やってきたことは地元で生きていく上で非常に有用なものとなりそう。

29歳〜 新たな仕事に就いているが、これがどうすれば自分にとって、そして周りにとって有用なものとなるのか模索中。そして、仕事だのプライベートだのの狭い枠にとらわれず、広い視野で自分の生き方を見つめている最中。

てなわけで遂に30歳を迎えたわけです。本当に気づけばいつの間にか…という感じです。

何が大きく変わるわけでもない、しかしこれもまた大きな一歩である。少なくとも常に自分に胸を張って生きていたいなと思います。

2013年12月31日

福島県新地町のこと

見ての通り、ブログを更新するという習慣が全く無くなってしまったのだけど、年末とか節目になるとその年の書き残しておきたいことなどを書いておきたくなるのであります。
今回書くのは福島県新地町についてです。


2013年7月27日28日、俺は福島県に行った。目的は色々ある。まず、学生時代に5年住んだ福島には震災以後一度も行っていないので、どんな様子かこの目で見ること。友人に会うこと。そして、新地町に行くこと。

実は今回は新地町に行くことが目的のかなりのウェイトを占めている。
そもそも新地町とは、福島県浜通りに位置し、相馬市の北隣にある。

大学1年の頃のとある夏休み。割とハードにバイトしていた俺はバイト漬けの毎日に心が疲弊し、急に海が見たくなった。しかし、車は持っていないので電車での移動になる。そこで、地図を調べたところ、どうも常磐線の新地駅からは徒歩でも十分に海へ行けるようだった。

思い立って新地駅まで電車で移動。新地駅には駅員さんが一人だけいて、何とも平和な風景である。駅の周辺は家はさほど多くなく、田んぼが多い。そんな駅から海への道のりを歩きながら俺は既に新地が気に入ってしまった。なんて素っ気なくて平和で素朴な街なのだと。

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そして、海もまた穏やかで防潮堤、住宅街、港の全てが織りなす雰囲気がものすごく気に入ってしまった。何か
特別なものがあるわけじゃない。ただただ、全てがマッチする空気に酔いしれた。防潮堤の上を裸足で散歩したりしながら、すっかり満足して帰った。

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それから3年後、4年後にも俺は新地町を訪れた。福島県の中でも特にお気に入りの場所だった。2007年に一人で訪れた時には、「この風景を何十年後にも見たい。何十年後になっても同じ風景が残っていてほしい」と本気で願った。


そんな場所が、である。震災の津波によって街が流され、新地駅の駅舎や線路までもが流されたとの話を聞いた。
いてもたってもいられなかった。とにかくこの目でその様子を確認したい。震災から2年以上経ってようやく新地に行く目途が付いた。

レンタカーを借りて、カーナビの目的地に新地駅を設定する。目的地が近づく。辺りはほとんど建物がない。

カーナビ「目的地に到着しました」

冗談だろ…カーナビが新地駅と言っているところにはただの砂の山しか無いぞ…

現実を受け入れる以外になかった。新地は変わり果てた。好きだった駅舎や駅から海まで歩いた街はもうない。

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(新地駅前)
 
海水浴場方向に車を走らせるが、砂の山や瓦礫がかなり多い。俺が裸足で歩いたあの防潮堤は無残にも崩れていた。
もうあの新地の街並みは戻らない。もし街を作り直しても、以前とは全く違うものになるだろう。「何十年後も…」なんて思っていたことはわずか4年で崩れ去った。

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泣けてきた。自分が思い入れのある場所が無くなるというのはこんなに切ないものなのか。
しばし周辺を散策した後、俺は相馬方面に車を走らせた。


新地に行って改めて感じたのは、地域や街というものは不変ではないということ。当たり前のようだけど、ややもするとずっと同じだろうと我々は思いがちだ。
地域、そして今ここにある場所というものは不変ではない。だから「今」の姿が大事なのだ。このことを今一度噛みしめておきたい。

新地町の風景よ。永遠なれ。

2013年06月15日

キャッチボール

2012年6月、父親が亡くなった。
1年前のことである。

不思議なのだが、父が亡くなったということを自分の中でまだきちんと消化できていないような気がするということである。

「死」ということに対する心の準備がむしろ前々からできていたことからの結果なのか、十分に受け止められずにいるからなのか、それはよく分からない。
ただ、父が亡くなったということに対して感情が追い付いていない感じがするのだ。

一番感情的になったのは2011年2月に、父のがんは末期がんで、しかも数か所転移が見られるという病状を電話で聞いた時だろうか。
俺は出張先である静岡県三島のビジネスホテルで泣いた。ほとんど言葉にはしなかったが電話で姉から状況を聞きながら泣いた。ちょっと飲みに出かけるつもりだったのに、そんな気分になるわけもなく泣いた。

不思議と感情は月日と共に状況に慣れるもので、次第に感情は穏やかになった。最初のうちに感情を処理していたのかもしれない。

ガンが発覚してからというもの、「その時」を少しでも先延ばしする手段を考えながら、一方で少しでも悔いなく「その時」を迎えるための準備をしてきた。

先延ばしする手段についてはなかなか限界もあり、仕方ないかなという部分もある。ただ、悔いなく迎えるという点ではまだ色々できたような気もしている。
父がどの様に思いながら「その時」を迎えたのか、それほどはっきりした言葉は無い。

ただ唯一、亡くなる前日か2日前くらいに病床で「子どもたち(すなわち俺や俺の兄、姉)が3人も揃っている。うちも盤石だな」という言葉を聞いた。
父なりには少なくとも最低限の満足感を得て迎えたのかもしれない。

「その時」を迎える直前、家族親類が声をかける中で、父は黙って目を閉じたままだったがうっすらと右目から涙がにじんたような気がした。危篤状態でも声だけは本人に聞こえているらしいが、それが最後の返答だったのだろう。


昔、父と一緒にやるキャッチボールが好きだった。
日頃、一緒に遊ぶようなことは多くはなかったのだけど、なぜかキャッチボールだけはたまにやっていて、友達とやるのとはまた違った、不思議とワクワクする感覚だったのを覚えている。

俺が進学のために家を出て以降は全くやらなくなった。久しぶりにもう一度やりたいと思っていた矢先にガンが発覚してしまった。
それでもほんの少しならやれないことは無かったかもしれないが、結局やらず終いだった。

俺は父に全く何も返せていない。
返さないまま父は遠くに行った。

俺はボールを受け取ったままなのに、だ。

父から受け取ったままのこのボールは俺が受け継いで、また別の誰かに俺が投げなければいけない。

それでやっと父とのキャッチボールは完結する。

そんなことを想いながら一周忌を迎えます。

2013年02月14日

1年に1度の更新

ブログをまったく更新しなくなった私です。

ブログのことは頭の片隅にはあるのですが、どうも日々過ごす中で更新の筆を取るに至らず…

更新しない1年の間にまたしても色々ありました。

父親の死、等々…
これについてはまた日を別にして書きたいと思います。


自分が生きる道とは。
時代背景もあり、自分自身の選択もあり、周囲の人々のこともあり。
この雑多な環境の中で自分が貫く意志とは。

まだ29歳。ただ年月が流れるのではなく、確実に何かを残す。確実に何かを得る。
それを追い求めて。


1年ぶりで総括的なことを書こうとしても中身の無い記事になってしまうw

2012年02月14日

1年前の今頃のこと

1年ちょっと前にはまだ埼玉に住んでいたことすら信じられない。
色々あり過ぎて数年も経ってしまったかのように感じる。

1年前の今頃は仙台に引っ越したばかりだった。
1年前は1年前で色々悩んでいたし、迷っていた。ただ、直近で起こす行動だけは分かっていた。

それから起こる様々なことについてなどまだ知る由もなかった。

そして、今は今で色々と難しい。むしろ1年前よりも今の方が難しい。色々と答えが見えにくい。
28歳になってなおさらこうだ。

この浮遊とも沈着とも判断つかない感覚の中で見えてくるものは何か。
まだはっきりとは分からない。

2012年01月19日

2012年からのこと

大晦日に書いたとおり、2011年は色々ありました。

じゃあ2012年はどうなの?という単純な話になる。

答えは、2012年と2013年の2年間が超ムチャクチャ重要になる、ということだけ言えるかと思います。


去年は秋田に帰還した年でした。
それはかなり大きいことではあるけど、はっきり言えば前々から考えていたことをただ実行しただけの話で、そんなのは決断でも何でもありません。
ただ規定路線に沿っただけです。言わば起承転結の起があるだけです。

(俺個人の話に限らず、日本という国だってそうでしょう。2011年に震災という事実があってこれからどうするかが求められるんですから)

この後自分が何から何を感じて、考え、どう動いていくのか、そのことの方がよっぽど問題なのです。

具体的な話は避けるけど、新年早々岐路に立たされている感があります。

今やっていることに少なからず大きなチャンス(夢)があるかもしれない。でもそれは長く続けられるようなことじゃないと最初から分かりきっている。
ならば早々に、最近転がり込んだ別のチャンス(長く続けられるかも)へ転向するのもありかもしれない。

しかしまあ正直、別のチャンスと称しているものについては大したチャンスではありません。
焦って飛び込むとろくなことにならない可能性もあります。

今やっていることは、期間は限られるけど今しかできない(環境的な条件と、自分自身の問題から)と分かっているから今やりたいのです。
早いうちに長く続けられることの選択をするのが必ずしも良いこととは思いません。

とは言いながらも結論は簡単に出ません。とにかくどう動いていくのかが重要であって、それを決定する、実行するタイミングがこの2年間にあると思っています。

2012年もおそらく波乱含みです。既に近い将来起こるべきことの期限が早々に迫りつつある予感もしています。

焦る必要は無いけど、ゆっくりしている時間も無い

2011年12月31日

2011年のこと

2011年の主な流れ

2010年12月29日 埼玉にいたが、埼玉在住わずか7ヶ月で仙台への異動、引越しが決定する
2011年2月6日 仙台へ引越し
2月7日 父親の末期ガンが発覚する
3月11日 東日本大震災
4月15日 会社を辞め、秋田へ帰還
6月10日 父親の脊髄付近の腫瘍摘出、金属による背骨の補強手術成功
6月22日 祖母逝去、面接
7月1日 現在の仕事を開始
今に至る

こうして見ると前半にこれでもかというくらい、出来事が圧縮されていた。
震災はかなり強烈だったけど、それも今年起きたことのほんの一つに過ぎない印象。
しかもそれぞれの出来事のタイミングや内容が、それぞれ関連づけられて何か強い運命に基づいて動いていたような気がする。

その中で何よりも一番大きかったのは9年ぶりに秋田へ帰還したことでしょうね。
ずっと帰還のタイミングを計って悶々としていましたが、このタイミングしかない、というくらいの状況で帰還することになりました。

やはり外から何を言っていても、秋田のことは秋田に住まないと分かりません。それは帰還してから改めて感じました。
外に住んでいる人間は、外に住んでいるからこそ見える部分はあるだろうけど、それはほんの少しに過ぎない。むしろ住んでないために分からない部分の方が圧倒的に多いのです。

まずは秋田に住まないことには始まらない。その新たな一歩を踏み出した1年でした。


このブログについて

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