こんにちは、こんばんは。 毎年暑くなってくると、体重が増えるのですが、今年はトレーニングと食事の調整に今んとこ成功しているため、体が絞れてきた兄やんです。 「兄やんよ、これを読みなさい」てな本があればぜひご一報下さいませ。 ・_・_・_・_・_・_・_・_・_・_・_・_・_・_・_・_・ ■本能寺の変四二七年目の真実/明智憲三郎 ・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・


本書では、以下の「七つの謎」を解き明かすことで、本能寺の変の真実を明らかにしようとしています。 『光秀の謀反の動機』 『なぜ信長はあれほどに無警戒で本能寺にいたか』 『なぜ光秀は本能寺の変をやすやすと成功させ得たか』 『信長と同様、家康の安土城訪問とその後の上洛がなぜあれほど無警戒だったのか』 『光秀の政権維持策』 『本能寺の変の後、急遽堺から三河に戻った家康の取った行動』 『秀吉の「中国大返し」がなぜあれほど成功したか』

今回は、七つ目の『秀吉の「中国大返し」がなぜあれほど成功したか』をピックアップしてみたいと思います。 前回、秀吉が胡散臭いことを指摘したので、どういうことかを紹介します。真実よりもロマンを求める秀吉を盲信する信者は、おそらくメルマガを解除していると思うので、今回は遠慮なく書きたいと思います。 兄やんは、秀吉が天下を取って善政を敷くために、心を痛めながらも光秀を踏み台にするよう、光秀に関する情報を操作して流布したのなら、秀吉を嫌いにまではならなかったでしょう。 実際、そういうストーリーのドラマや小説もあるわけですが、歴史の真実としてはそうではないということを、盲信している秀吉信者だけでなく、一般の人にも認識してもらいたいと兄やんは個人的に思っています。

さて、本題に入ります。 兄やんは、この謎については結構調べていたので、真実のかなり近い場所まで到達していたようです。

>秀吉が迅速に大返しできた第一の要因は、毛利氏との間に瞬時に和睦が成立し、追い討ちをかけられることなく陣を退けたことです。

兄やんも、これを怪しく思っていたので、調べてみた結果、秀吉と安国寺恵瓊との関係に行き着きました。本能寺の変の後、秀吉が恵瓊を家臣に迎え入れたことから、秀吉と恵瓊との間には、浅からぬ関係があったと睨んでいました。 その関係が、秀吉軍が撤退した後、毛利軍が追い討ちをかけなかった大きな要因だ、と考えていました。 本書によると、確かにこれも要因のひとつではありますが、明智憲三郎氏の歴史捜査は、もっと深いところまで追究されていました。

>それを可能にした最大の理由は、事前に毛利氏との間で和睦の申し合わせができていたからです。『惟任退治記』には「既に毛利からは高松城明け渡しや五ヵ国割譲などの申し入れが再三あった」と正直に書かれています。 >そして天正十年(一五八二)の本能寺の変の際、両者の和睦を毛利側で主導したのが恵瓊だったのです。毛利方が和睦条件の中で難色を示していたのが高松城主・清水宗治の切腹でした。毛利方に味方した人物を死に追い込むことを毛利氏は嫌ったのです。 >恵瓊は六月四日、水攻めで孤立していた高松城に乗り込み、清水宗治を説得して切腹させました。実はこれは恵瓊が毛利氏の承諾を得ずに一存で行ったことでした >これが迅速な大返しを可能にした第一の要因、毛利との緊急和睦の背景です。いわば事前に毛利との間で基本合意ができていたということです。恵瓊によって秀吉にコントロールされた毛利氏は、信長の死を知っても追い討ちさえかけられなかったのです。 >そもそも恵瓊は毛利氏の家臣ではありませんでした。毛利氏に滅ぼされた安芸武田氏の武田信重の遺児でした。幼児であった恵瓊は安国寺に預けられて仏門に入ったのです。「三つ子の魂百まで」といいますが、恵瓊はいずれ毛利の足許をすくおうと虎視眈々、機会を待っていたのかもしれません。

秀吉と恵瓊は仲が良いことで有名ですが、秀吉は恵瓊のこういう部分に付け込んでいたことが判明し、他にも同じようなことがあるんやろな~、と兄やんの秀吉への疑惑の目はいっそう厳しくなりました。 秀吉は、光秀に謀反を起こさせるための布石(四国政策の変更の要因)を打ち、事前に光秀に謀反を打ち明けられていた、細川藤孝の家臣を篭絡するなど、着々と準備を進めていました。 兄やんも、藤孝が裏切ったことに関してなぜなのか?そして、その後秀吉に厚遇されていることから、秀吉、藤孝への怒りを持っていました。 藤孝が光秀を裏切ったのも、前々回紹介したように、光秀はもともと藤孝の家臣だったということと、秀吉に篭絡された家臣・松井康之の存在を著者は指摘しています。

>…藤孝にとってみれば、かつては自分の中間に過ぎなかった光秀が起こす謀反の片棒を担ぎたくなかった、というのが本音だったのではないでしょうか。 >足利幕府随一の名門として権勢を振るってきた細川氏、足利義輝・義昭の側近中の側近として弱体化した幕府を背負ってきた藤孝です。そこには並々ならぬプライドがあったはずです。それが信長の配下となって以降は、かつては自分の中間として仕えていた光秀に立場を逆転され、組下大名となって臣従する形となっていた藤孝の心中は穏やかならざるものがあったはずです。 >そこへ秀吉の画策があったのです。 >秀吉は光秀が行動を起こすのを待っていました。そのため情報網を張って光秀の動向を知ろうとしていました。そこで秀吉は光秀と親しい細川藤孝を抱き込もうとしたのです。… >しかし、藤孝に直接働きかけることはさすがに難しかったのでしょう。秀吉は周到な手を打ちました。それは藤孝の重臣を手なずけることでした。 >…こうして秀吉に手なずけられたのが、細川藤孝の家老・松井康之でした。 >…事変の前年の天正九年(一五八一)七月からの秀吉の鳥取城攻めにも康之が加わっています。鳥取城は十月に陥落し、このときの活躍で康之は秀吉から武功を認められ褒美をもらっています。おそらくこの時点で明確なつながりが秀吉と康之の間にできたと思われます。 >松井康之をはじめとする細川家中の者も、かねてから光秀の出世を複雑な思いで見ていたことでしょう。昔は藤孝に仕えていて、しかも自分たちより身分の低かった光秀が天下を取ってその風下に立つことを快く思わなかったはずです。細川家の総意が光秀ではなく、秀吉へ命運を賭けさせたのではないでしょうか。 >細川家中に秀吉への内通者がいた事実は、秀吉が松井康之に与えた破格の恩賞を見ると納得できます。 >秀吉は、藤孝に加増した丹波十一万石のうちの三分の一はわざわざ康之へ給付するように命じているのです。藤孝の家臣に過ぎない康之に直接恩賞を与えるというのは尋常なことではありません。秀吉の康之への並々ならぬ思いがあったのは確かです。 >以後も秀吉は康之に目をかけ、天正十三年(一五八五)に康之とその母に知行を与え、天正十四年に豊臣姓と菊桐の紋を与えています。そして文禄二年(一五九三)には石見半国十八万石を与えて秀吉の直参とする旨の申渡しまでしているのです。 >この異常とも思われる破格の恩賞は、やはり秀吉に「天下をくれたこと」への見返りだったと考えれば頷けます。

三好康長を使って四国政策の変更を画策し、秀吉自ら光秀謀反の要因を作り出し、毛利家に不満を持ちながら使える安国寺恵瓊を通して、毛利家を手玉に取り、光秀の盟友であった、細川藤孝の家臣を篭絡し、情報提供をさせた。 そして、それらの条件を元に、光秀に加担してもおかしくなかった諸将たちにデマを流布させて、秀吉側の味方、ないし光秀に加担させないようにする、という戦略を秀吉はあらかじめ計画していたのです。 ひとつが動き出せば、全てを動かせるように、既に勝負はついていた備中高松城を落とさず、毛利側からの講和も先延ばしして、いつでも動ける準備をとっていた、というのが、大返しを成功させたというのが真実なのです。

本能寺の変四二七年目の真実/明智憲三郎 ※次回は、別の本について書く予定です。  お楽しみに^^v ・_・_・_・_・_・_・_・_・_・_・_・_・_・_・_・_・ ※メールを送る際の注意 メルマガの感想やその他ご意見をいただいた場合、当メルマガ内にて紹介 する場合がありますが、予めご了承ください。 基本的に名前を伏せて紹介しますが、名前を逆に出して欲しい場合は、 その旨をメールの冒頭でお知らせ下さい。 また、本メルマガの無断転載は禁止です。 ・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ ̄・ 発行者:兄やんこと木村尚樹