2015年06月12日
町山智浩vs菊地成孔の活字プロレスに思うこと
先頃、公開された映画『セッション』(音大ジャズ科の鬼教授から地獄の指導を与えられるドラマー志望の若者が奮闘する話)を巡って、大絶賛する町山智浩さん(映画評論家)と、否定的見解を述べた菊地成孔さん(ジャズ音楽家〜その他いろいろ)のネット上での意見の対立したという件、私個人的には、お二方のファンであるので興味深く拝見しました 。
お二方が論じた内容について、私ごときが今さら口を出すつもりはありませんが、ざっくり感想を言うと、映画『アメリカン・スナイパー』に関しては町山さんに賛同しましたが、『セッション』に関しては全面的に菊地さんに賛同してます。
(蛇足として私個人の『セッション』への感想ですが、"やられたら、やり返す"の不毛な復讐映画にしか見えず、そのモチーフに音楽(ジャズ)を選んでいるところが生理的に嫌いです。肯定派の人たちが言うところの、負の感情の昇華や浄化を感じることはできませんでした)
この論争、、というか謂わば「プロレス」の勝ち負けを語ること自体に意味はなく野暮なだけですが、お二方の語り口にそれぞれ独自の芸風およびプロ的サービス精神を感じると同時に、「好きなものは誰に何と言われようが好き」「嫌いなものは誰に何と言われようが嫌い」と言い切る正直さが、お二方の魅力でもあると再確認した次第です。
町山さんは映画を観ることの楽しさや奥深さを啓蒙し続けている人であり、菊地さんはジャズだけには収まらない音楽の持つパワーや豊かさを啓蒙し続けてる人であり、お二方とも(少々、小難しい言い方すると)大衆の文化的なリテラシーを高める活動をそれぞれの立場で実践している人たちに違いありません。
菊地さんがラジオ番組とかやってくれてるお陰で、私なんかでも40代に入っても懐メロ好きオヤジにならずに済んでる部分は大きいですし、町山さんの映画紹介&解説のお陰で映画を単に面白いか?つまらないか?という見方をするだけでなく、歴史や社会背景に重ねて観る奥深さを見つけられるようにもなりました。
お二方の影響力に関しては具体的(定量的)な比較は出来ませんが、例えば、ある映画作品についてGoogleで検索しようと思ってタイトルを入力すると "(映画タイトル) 町山" という感じに勝手に予測キーワードが出てくることが割りと頻繁にあります。これは実際にそういう検索をする人たちが多く「町山さんはこの映画をどのように観ているのだろう?」という関心を持たれている目安と言えるのでしょう。
一方、音楽作品のアルバム名〜楽曲名をGoogle検索するときに"(音楽作品) 菊地成孔" とは出て来たりすることは今のところ見たことはないので、町山さんの方が世間的な影響力は相対的に大きいと言えるのかもしれません。
(これ、菊地さんをディスってるんじゃなくて、先のプロレスの中で菊地さんが町山さんより”マイノリティ”であると言ったことへのフォローです、念のため)
話は変わって、 町山さんと菊地さんの 映画『セッション』を巡る 「プロレス」が勃発するより少し前のことですが、 爆笑問題の太田光さんが ラジオ番組「爆笑問題の日曜サンデー」で 、以下のような発言をしていたことがありました(注:久米宏さんをゲストに迎えて、表現や創作したものが大衆に受け入れられるためには低俗化も必要か?、という話題の中で出た発言)。
「『あまちゃん』の音楽で有名になった大友良英さんは、元々は非常に前衛的な大衆的にわかりにくい音楽をやっている人で、本当はそっちがやりたいことなのに(それでは食えないので)、アルバイト的に『あまちゃん』のようなわかりやすい作品も作っている」
この発言を聞いた時に私が真っ先に思ったのは「それは違うはずだ!、大友さんが音楽作品をそういう風に作り分けする(あこぎな)音楽家には思えない」「太田さんは音楽が聴けてないから、こういう発想をしてしまうのだろうか?」ということでした。
「音楽が聴けてない」なんて、我ながら随分と上から目線な言い方をしてると思いますが、そもそも言ってる私自身がどれぐらい音楽が聴けているか?ということも非常に怪しいです。これは必ずしも、絶対音感があれば偉いとか、音楽理論を知ってれば偉いとかいう意味ではないのですが、「難しく聞こえる」「聴いて楽しめない」音楽を、レベルが高いとか高尚であるというのならば、あまりに雑だろ(笑)、と。
「音を楽しむ」と書いて音楽であるという論法に従えば、いかに目の前で鳴っている「音」を「楽しめるか?」ということが「音楽が聴けている」ことの尺度であると言えるかもしれません。
仮にそうだとしたら、様々な種類(ジャンル)の音楽...果ては普通は音楽と呼ばれない「虫の鳴き声」や「電車の音」までを聴いて楽しんだりできる人の方が「音を楽しめている」と言えるかもしれません。これは屁理屈で言ってるのではなくて、実際にそういう音の聴き方〜楽しみ方をする人たちが、ある程度の割合でいますし、私自身も少々はそういう感覚を持っているということなのですが。
それからしばらく経った後、たまたま買った大音楽家=伊福部昭先生トリビュートのムック本「伊福部昭」(河出書房新社)で大友良英さん自身が先のラジオ番組での「太田発言」に偶然に答えるかのように以下のインタビュー発言をしていたのを読んで溜飲が下がる思いがしました。
「たまに、ノイズやフリージャズみたいなのが本業で、あまちゃんや劇伴は生活のためにやってるんでしょ....みたいな言われ方するけど、まったく違います。どっちにも本気で向かってます。上も下もない。『あまちゃん』をやってるときは、俺にとって『あまちゃん』が全てでしたから」
その後、更にまたしばらく経った後、太田さんはどこかで大友さんの音楽に対する姿勢〜考え方を聞きつけたのか、同ラジオ番組内で先の自分の発言について「どうやら、そういうことではないらしい」と言っていたのを聞いて、太田さんは正直な人なんだな、と思いました。
それで思い出したのが、今年の春頃だったか、町山智浩さんと爆笑問題さんの共著「自由にものが言える時代、言えない時代」が書店に平積みになっていたのを見かけた時のことです(本は読んでないので内容には言及しません)。
その本の表紙に並んでいた町山さんと太田さんを見た瞬間、「この二人、音楽が聴けてないよな、頭が良くて弁が立つ人たちだけど」という言葉というか声というか、幻聴のようなものが電波的に脳内に響いたことを覚えてます。
今こうやって文字で書いてみて、我ながらなんて傲慢な物言いをするんだろう、とは思いますが、それは私の中の無意識(右脳)の声だったのでしょう。同時に、私の理性(左脳)は「でも、この人たちのバカがつくぐらい正直なところって、いいよな」とフォローを入れて来ました。ウソを吐かない、正直であるというのは大事なことですね。
嫌いな人の言ってることにも耳を傾けてみる、わからない映画や音楽をわかろうとする努力もしてみる、こういうことは生きてる限り必要だと思いますし、昨日まで嫌いだった人のことを、ちょっとだけ理解できたり、ちょっとだけでも好きになれるのなら、ほんの少しずつですが人生が豊かになるような気がします。
一つ、ぶっちゃけて言わせてもらえば、この数年のワタクシは菊地成孔さんの大ファンですが、10年ぐらい前は大っ嫌いでしたからね(笑)。
お二方が論じた内容について、私ごときが今さら口を出すつもりはありませんが、ざっくり感想を言うと、映画『アメリカン・スナイパー』に関しては町山さんに賛同しましたが、『セッション』に関しては全面的に菊地さんに賛同してます。
(蛇足として私個人の『セッション』への感想ですが、"やられたら、やり返す"の不毛な復讐映画にしか見えず、そのモチーフに音楽(ジャズ)を選んでいるところが生理的に嫌いです。肯定派の人たちが言うところの、負の感情の昇華や浄化を感じることはできませんでした)
この論争、、というか謂わば「プロレス」の勝ち負けを語ること自体に意味はなく野暮なだけですが、お二方の語り口にそれぞれ独自の芸風およびプロ的サービス精神を感じると同時に、「好きなものは誰に何と言われようが好き」「嫌いなものは誰に何と言われようが嫌い」と言い切る正直さが、お二方の魅力でもあると再確認した次第です。
町山さんは映画を観ることの楽しさや奥深さを啓蒙し続けている人であり、菊地さんはジャズだけには収まらない音楽の持つパワーや豊かさを啓蒙し続けてる人であり、お二方とも(少々、小難しい言い方すると)大衆の文化的なリテラシーを高める活動をそれぞれの立場で実践している人たちに違いありません。
菊地さんがラジオ番組とかやってくれてるお陰で、私なんかでも40代に入っても懐メロ好きオヤジにならずに済んでる部分は大きいですし、町山さんの映画紹介&解説のお陰で映画を単に面白いか?つまらないか?という見方をするだけでなく、歴史や社会背景に重ねて観る奥深さを見つけられるようにもなりました。
お二方の影響力に関しては具体的(定量的)な比較は出来ませんが、例えば、ある映画作品についてGoogleで検索しようと思ってタイトルを入力すると "(映画タイトル) 町山" という感じに勝手に予測キーワードが出てくることが割りと頻繁にあります。これは実際にそういう検索をする人たちが多く「町山さんはこの映画をどのように観ているのだろう?」という関心を持たれている目安と言えるのでしょう。一方、音楽作品のアルバム名〜楽曲名をGoogle検索するときに"(音楽作品) 菊地成孔" とは出て来たりすることは今のところ見たことはないので、町山さんの方が世間的な影響力は相対的に大きいと言えるのかもしれません。
(これ、菊地さんをディスってるんじゃなくて、先のプロレスの中で菊地さんが町山さんより”マイノリティ”であると言ったことへのフォローです、念のため)
話は変わって、 町山さんと菊地さんの 映画『セッション』を巡る 「プロレス」が勃発するより少し前のことですが、 爆笑問題の太田光さんが ラジオ番組「爆笑問題の日曜サンデー」で 、以下のような発言をしていたことがありました(注:久米宏さんをゲストに迎えて、表現や創作したものが大衆に受け入れられるためには低俗化も必要か?、という話題の中で出た発言)。
「『あまちゃん』の音楽で有名になった大友良英さんは、元々は非常に前衛的な大衆的にわかりにくい音楽をやっている人で、本当はそっちがやりたいことなのに(それでは食えないので)、アルバイト的に『あまちゃん』のようなわかりやすい作品も作っている」
この発言を聞いた時に私が真っ先に思ったのは「それは違うはずだ!、大友さんが音楽作品をそういう風に作り分けする(あこぎな)音楽家には思えない」「太田さんは音楽が聴けてないから、こういう発想をしてしまうのだろうか?」ということでした。
「音楽が聴けてない」なんて、我ながら随分と上から目線な言い方をしてると思いますが、そもそも言ってる私自身がどれぐらい音楽が聴けているか?ということも非常に怪しいです。これは必ずしも、絶対音感があれば偉いとか、音楽理論を知ってれば偉いとかいう意味ではないのですが、「難しく聞こえる」「聴いて楽しめない」音楽を、レベルが高いとか高尚であるというのならば、あまりに雑だろ(笑)、と。
「音を楽しむ」と書いて音楽であるという論法に従えば、いかに目の前で鳴っている「音」を「楽しめるか?」ということが「音楽が聴けている」ことの尺度であると言えるかもしれません。
仮にそうだとしたら、様々な種類(ジャンル)の音楽...果ては普通は音楽と呼ばれない「虫の鳴き声」や「電車の音」までを聴いて楽しんだりできる人の方が「音を楽しめている」と言えるかもしれません。これは屁理屈で言ってるのではなくて、実際にそういう音の聴き方〜楽しみ方をする人たちが、ある程度の割合でいますし、私自身も少々はそういう感覚を持っているということなのですが。
それからしばらく経った後、たまたま買った大音楽家=伊福部昭先生トリビュートのムック本「伊福部昭」(河出書房新社)で大友良英さん自身が先のラジオ番組での「太田発言」に偶然に答えるかのように以下のインタビュー発言をしていたのを読んで溜飲が下がる思いがしました。「たまに、ノイズやフリージャズみたいなのが本業で、あまちゃんや劇伴は生活のためにやってるんでしょ....みたいな言われ方するけど、まったく違います。どっちにも本気で向かってます。上も下もない。『あまちゃん』をやってるときは、俺にとって『あまちゃん』が全てでしたから」
その後、更にまたしばらく経った後、太田さんはどこかで大友さんの音楽に対する姿勢〜考え方を聞きつけたのか、同ラジオ番組内で先の自分の発言について「どうやら、そういうことではないらしい」と言っていたのを聞いて、太田さんは正直な人なんだな、と思いました。
それで思い出したのが、今年の春頃だったか、町山智浩さんと爆笑問題さんの共著「自由にものが言える時代、言えない時代」が書店に平積みになっていたのを見かけた時のことです(本は読んでないので内容には言及しません)。その本の表紙に並んでいた町山さんと太田さんを見た瞬間、「この二人、音楽が聴けてないよな、頭が良くて弁が立つ人たちだけど」という言葉というか声というか、幻聴のようなものが電波的に脳内に響いたことを覚えてます。
今こうやって文字で書いてみて、我ながらなんて傲慢な物言いをするんだろう、とは思いますが、それは私の中の無意識(右脳)の声だったのでしょう。同時に、私の理性(左脳)は「でも、この人たちのバカがつくぐらい正直なところって、いいよな」とフォローを入れて来ました。ウソを吐かない、正直であるというのは大事なことですね。
嫌いな人の言ってることにも耳を傾けてみる、わからない映画や音楽をわかろうとする努力もしてみる、こういうことは生きてる限り必要だと思いますし、昨日まで嫌いだった人のことを、ちょっとだけ理解できたり、ちょっとだけでも好きになれるのなら、ほんの少しずつですが人生が豊かになるような気がします。
一つ、ぶっちゃけて言わせてもらえば、この数年のワタクシは菊地成孔さんの大ファンですが、10年ぐらい前は大っ嫌いでしたからね(笑)。
2014年07月20日
添加物まみれの食生活におけるサバイバル
マスメディアによって刷り込まれてきた常識や定説はどこまで本当かわからない...とかいう話を始めたら「また陰謀論系の話かよ」と拒否反応されるかもしれませんが、そうではなくて今回は実際に自分自身の体で確認した食生活と健康の話です。
私がまだ子供だった70〜80年代には「米のご飯を食べると太る、ダイエットのためにはご飯よりパンが良い」という、冷静に考えればウソでしかない「定説」が流布していました。一口にご飯と言っても玄米、白米、自炊なのか、売られてるパックのものか?という違いがありますし、パンにだって工場生産の菓子パンから自宅でホームベーカリーで焼いたものまで広い幅があります。今なら誰の目にも背後に利害関係が絡んだプロパガンダであったことは明らかですが、この手の「誘導手段」は今日も手を変え品を変えマスメディア上に溢れています(洗脳ともいう)。今さら声高に批判するまでもなくマスメディアというのはそういうものなのでしょう。
私自身、現在は不惑...まぁ、こんなボカした表現は止めてはっきり言うと40歳代に差し掛かり、嫌でも健康面と食生活を見直す必要に迫られるようになりました。最良の健康法というものは人それぞれで異なるもので、一概に何をすれば良いとか、何を食べれば良いというものではありませんが、一つだけハッキリと言えるのは次々にマスメディアが宣伝してくるダイエット方法とかサプリメントとか、殆ど全てが「いらないもの」ではないのか?ということです。
それで、私なりの試行錯誤で辿り着いた結論は非常にシンプルなもので、箇条書きにすると以下になります。
(1) 日本人には古来からの和食中心の食生活がベスト
(2) 食品添加物や化学調味料はできる限り摂らない
(3) 食べ過ぎない、正しく行う断食は体に良い
(4) 最低限の体力を維持するための運動・筋トレは行う
原理・原則はシンプルですが、これをキッチリと実行するだけでも結構大変なことです。特に食品添加物と化学調味料を摂らないようにするのが大変で、市販の加工食品のほぼ全てに入っているので(程度の差はあるが)、必然的に自分の手で出汁を作って調理したり、市販の食品や調味料を買う場合に「少しでもましな方」の品を選ぶために調査や学習をするようになりました。インスタント食品やファストフードを食べないのは当たり前として、必然的に外食は少なくなり売られている弁当も買わなくなり、できる範囲で地産地消の食材を選び、自分で弁当を作るようになっています。缶コーヒーやペットボトルのお茶も一部のものしか買わなくなりました。
こういう話を友人・知人にすると「どうしてまたそんな面倒くさいことを..」と、非常にウザい顔をされる反応が殆どなのですが、実際に健康面や体力面での衰えを実感し始めている中年世代や、加齢による容貌劣化を気にする女性なんかは割りと聞いてくれる傾向があります。
それで、実際の効果ですが、食生活を徹底的に改めたらフィジカル面もメンタル面も健康状態が改善して非常に調子が良くなりました。花粉症は完治といって良いぐらいに症状が出なくなってますし、時々起こっていた偏頭痛もなくなりました。特に大きいのは食品添加物や化学調味料の摂取を減らしたことによる味覚を始めとする身体感覚の正常化で、この感覚を取り戻すと肉体が必要としている食べるべき量が本能的かつ直感的にわかるようになり、必要な分量を食べると脳がストップを出すようになります。満腹 中枢の正常化というやつです。また、食品添加物や化学調味料などの「異物」は舌に乗った瞬間は美味に感じても、後から口の中にイヤな感じや違和感(としか表現しようがない)が残るようになりました。
まぁ、屁理屈を言えば、伝統的な和食でなくても体に悪くない食事や食べ物の組み合わせはあるのかもしれませんが、先人が100〜200年以上かけて編み出してきた食生活の知恵に匹敵するものを一個人が数年で作り上げられるのか?と考えてみれば、どれだけ効率が悪い〜実際には無理であることがわかるというものです。
私自身、このような取り組みは健康志向とかアンチエイジングとかいうよりも、ある種のサバイバル手段と思っているわけですが、この一年ぐらいは全く風邪もひいていませんし、体型や体力状態は20代後半の頃に戻った感じです。まぁ、、20代レベルというのは言い過ぎかもしれませんが、30代の健康状態が悪くてグダグダだった頃に比べればかなり良くなっていることには違いありません。
というわけで、私自身が自分に合った健康法を見つけるのに参考になった本、自分の経験と体感をもって「これは本当である(らしい)」という確認できた本を紹介してみます。
南雲吉則 『20歳若く見えるために私が実践している100の習慣』
今や健康&アンチエイジングの分野での著書多数、フォトジェニックなルックスで、ある種のカリスマにもなってる感のある南雲さんですが、著書が多すぎてどれを買ったらよいのかわからない中、たまたま買ったこの一冊が私自身の健康管理と食生活を見直す大きなキッカケとなりました。文章も「できること」から、「自分に合う方法」から始めてみましょうという感じで、押し付けがましさが無くて読みやすいです。
初めて読んだ当時、軽く衝撃を受けたのは一日一食でも人間は十分に生きられるということでした(無論ジャンクやインスタントでない、きちんとした食事が前提)。この辺の言説については反論もあるようで「Yes!!,高須クリニック」の高須先生がメディア上で異議申し立てをしてた記憶(うろ覚え)がありますが、どうなのでしょう?、格闘技の最強論争と同じでどちらが最後まで生き残ったかで決着を着けるしかない世界かもしれませんが。
安部司 『食品の裏側』 『食品の裏側2』
著書の安部さん自身がかつて、食品添加物を使って安く食品を作って売ってきた専門家だったという経歴があり、その反省も含めて食品添加物や化学調味料による恩恵とリスクを解説している書。一方的に食品添加物を糾弾しているのではなく、冷静にメリットとデメリット(リスク)を提示して消費者自身がどれを選ぶか選択できるようにすべきという姿勢が貫かれています。こういう例えは適切でないかもしれませんが、空き巣狙いの玄人の泥棒が手口を知り尽くした観点から説明する防犯対策を聞いているような説得力があり、食品添加物に関する情報を知るための教科書〜入門書にふさわしいでしょう。
言うまでもなく食品添加物がもたらすメリット(恩恵)とは、速く、安く、それなりの味のものが食べられることです。しかし、食品全体に添加物&化学調味料が盛り込まれた、食生活そのものがインスタント化した状態に慣らされていることのリスクに気付くキッカケもないままの人たちが圧倒的に多いというのが現実です。この点から考えてみると、多数決決定というものは必ず正しいとは限らないということが言えると思います。
藤田紘一郎 『脳はバカ、腸はかしこい』
寄生虫博士〜カイチュウ博士の異名でも知られる藤田さんは、自らの体内にカイチュウを飼ってその「効能」を証明した話が有名ですが、他にも腸内細菌が人間の生命活動において非常に重要であることを長年にわたって提唱してきている人でもあります。腸内細菌を増やすことによる具体的な健康への効果は、免疫力の向上、アレルギー症状の軽減、脳内物質セロトニン分泌量の増大による鬱などのメンタルヘルス系症状の良化等々、多岐に及ぶそうです。
腸内細菌を増やすためには、野菜や海藻などの繊維質を多く食べる、(細菌によって作られた)発酵食品を食べる、行きすぎた清潔(潔癖症的な滅菌&抗菌)を避ける、そして食品添加物を摂らないようにすることなのだそうです。特に保存料系の添加物はせっかく育った腸内細菌を死滅させてしまうとのことで、ここにも食品添加物の弊害が指摘されています。真実・事実というのは必然的に一つにつながるということの証明でもあります。
船瀬俊介 『3日食べなきゃ、7割治る』
正しく行う断食は体に良いという説を啓蒙する書。最初に断っておきますが、この本に書いてあることが100%事実であるか確認できていません(賛否両論いろいろあるようです)。しかし20〜30%までは私自身が自分の体で実践&証明できてます。具体的な効能は、体内に蓄積した老廃物や、食品添加物などの異物の排出(解毒)、人体が本来持っている治癒力を最大限に高める作用があるとのこと。
断食にもいろいろな方法があり、朝食を抜く程度の半日断食、1日断食、2〜3日断食、さらに本格的な断食療法になると1週間〜数週間にまで及ぶものがあり、どの方法が適切かはその人の健康状態などで異なります。自分自身の経験から言えるのは、ある程度まで慣れてしまうと、食事量制限しながら1日3食を食べるよりも断食する方がずっと楽であるということです。
個人的な見解ですが、断食をする以前に必要なのは基本的な食生活をしっかりすることで、断食の効果としてよく聞くデトックス(解毒)作用で排出される「毒」の殆ど多くは食品添加物なので、日頃から食品添加物を出来るだけ摂らないようにすることです。プチ断食を日常的に実践すると体感できることですが、食品添加物が体内に入って来るとき、出て行くときに一時的に体調が悪くなったりします(具体的には偏頭痛や二日酔い並みの倦怠感、血液中を添加物=異物が流れることが原因らしい)。食品添加物を摂らない食生活を徹底すればするほど、断食した時の体調不良は出なくなります。断食に限らず、食生活や生活習慣を改めるとこのように一時的な体調不良(持病症状の悪化)が現れることは専門用語で「好転反応」と呼ばれているようです。
まぁ、書けば書くほど長くなる話なので今回はこれぐらいにしておきます。
一部には「食品添加物」=「直ちに健康被害にはつながらない毒物」が混入された食品に現代人が慣らされてきていることを、ある種の陰謀説としてみている人たちもいるようですが...どうなんでしょうかね?
「ウルトラセブン」に登場したメトロン星人はタバコに人間を狂暴化させる薬物を仕込んで、地球の人間社会に混乱と不信を引き起こそうとしましたが、ある種の食品添加物や化学調味料が人をキレやすくしたり、メンタルヘルス症状を悪化させるという説もあるので陰謀説は言い過ぎだとしても、現実に起こっていることは「メトロン星人の陰謀」と同じようなものかもしれませんよね。
私がまだ子供だった70〜80年代には「米のご飯を食べると太る、ダイエットのためにはご飯よりパンが良い」という、冷静に考えればウソでしかない「定説」が流布していました。一口にご飯と言っても玄米、白米、自炊なのか、売られてるパックのものか?という違いがありますし、パンにだって工場生産の菓子パンから自宅でホームベーカリーで焼いたものまで広い幅があります。今なら誰の目にも背後に利害関係が絡んだプロパガンダであったことは明らかですが、この手の「誘導手段」は今日も手を変え品を変えマスメディア上に溢れています(洗脳ともいう)。今さら声高に批判するまでもなくマスメディアというのはそういうものなのでしょう。私自身、現在は不惑...まぁ、こんなボカした表現は止めてはっきり言うと40歳代に差し掛かり、嫌でも健康面と食生活を見直す必要に迫られるようになりました。最良の健康法というものは人それぞれで異なるもので、一概に何をすれば良いとか、何を食べれば良いというものではありませんが、一つだけハッキリと言えるのは次々にマスメディアが宣伝してくるダイエット方法とかサプリメントとか、殆ど全てが「いらないもの」ではないのか?ということです。
それで、私なりの試行錯誤で辿り着いた結論は非常にシンプルなもので、箇条書きにすると以下になります。
(1) 日本人には古来からの和食中心の食生活がベスト
(2) 食品添加物や化学調味料はできる限り摂らない
(3) 食べ過ぎない、正しく行う断食は体に良い
(4) 最低限の体力を維持するための運動・筋トレは行う
原理・原則はシンプルですが、これをキッチリと実行するだけでも結構大変なことです。特に食品添加物と化学調味料を摂らないようにするのが大変で、市販の加工食品のほぼ全てに入っているので(程度の差はあるが)、必然的に自分の手で出汁を作って調理したり、市販の食品や調味料を買う場合に「少しでもましな方」の品を選ぶために調査や学習をするようになりました。インスタント食品やファストフードを食べないのは当たり前として、必然的に外食は少なくなり売られている弁当も買わなくなり、できる範囲で地産地消の食材を選び、自分で弁当を作るようになっています。缶コーヒーやペットボトルのお茶も一部のものしか買わなくなりました。
こういう話を友人・知人にすると「どうしてまたそんな面倒くさいことを..」と、非常にウザい顔をされる反応が殆どなのですが、実際に健康面や体力面での衰えを実感し始めている中年世代や、加齢による容貌劣化を気にする女性なんかは割りと聞いてくれる傾向があります。
それで、実際の効果ですが、食生活を徹底的に改めたらフィジカル面もメンタル面も健康状態が改善して非常に調子が良くなりました。花粉症は完治といって良いぐらいに症状が出なくなってますし、時々起こっていた偏頭痛もなくなりました。特に大きいのは食品添加物や化学調味料の摂取を減らしたことによる味覚を始めとする身体感覚の正常化で、この感覚を取り戻すと肉体が必要としている食べるべき量が本能的かつ直感的にわかるようになり、必要な分量を食べると脳がストップを出すようになります。満腹 中枢の正常化というやつです。また、食品添加物や化学調味料などの「異物」は舌に乗った瞬間は美味に感じても、後から口の中にイヤな感じや違和感(としか表現しようがない)が残るようになりました。
まぁ、屁理屈を言えば、伝統的な和食でなくても体に悪くない食事や食べ物の組み合わせはあるのかもしれませんが、先人が100〜200年以上かけて編み出してきた食生活の知恵に匹敵するものを一個人が数年で作り上げられるのか?と考えてみれば、どれだけ効率が悪い〜実際には無理であることがわかるというものです。
私自身、このような取り組みは健康志向とかアンチエイジングとかいうよりも、ある種のサバイバル手段と思っているわけですが、この一年ぐらいは全く風邪もひいていませんし、体型や体力状態は20代後半の頃に戻った感じです。まぁ、、20代レベルというのは言い過ぎかもしれませんが、30代の健康状態が悪くてグダグダだった頃に比べればかなり良くなっていることには違いありません。
というわけで、私自身が自分に合った健康法を見つけるのに参考になった本、自分の経験と体感をもって「これは本当である(らしい)」という確認できた本を紹介してみます。
南雲吉則 『20歳若く見えるために私が実践している100の習慣』
今や健康&アンチエイジングの分野での著書多数、フォトジェニックなルックスで、ある種のカリスマにもなってる感のある南雲さんですが、著書が多すぎてどれを買ったらよいのかわからない中、たまたま買ったこの一冊が私自身の健康管理と食生活を見直す大きなキッカケとなりました。文章も「できること」から、「自分に合う方法」から始めてみましょうという感じで、押し付けがましさが無くて読みやすいです。初めて読んだ当時、軽く衝撃を受けたのは一日一食でも人間は十分に生きられるということでした(無論ジャンクやインスタントでない、きちんとした食事が前提)。この辺の言説については反論もあるようで「Yes!!,高須クリニック」の高須先生がメディア上で異議申し立てをしてた記憶(うろ覚え)がありますが、どうなのでしょう?、格闘技の最強論争と同じでどちらが最後まで生き残ったかで決着を着けるしかない世界かもしれませんが。
安部司 『食品の裏側』 『食品の裏側2』
著書の安部さん自身がかつて、食品添加物を使って安く食品を作って売ってきた専門家だったという経歴があり、その反省も含めて食品添加物や化学調味料による恩恵とリスクを解説している書。一方的に食品添加物を糾弾しているのではなく、冷静にメリットとデメリット(リスク)を提示して消費者自身がどれを選ぶか選択できるようにすべきという姿勢が貫かれています。こういう例えは適切でないかもしれませんが、空き巣狙いの玄人の泥棒が手口を知り尽くした観点から説明する防犯対策を聞いているような説得力があり、食品添加物に関する情報を知るための教科書〜入門書にふさわしいでしょう。言うまでもなく食品添加物がもたらすメリット(恩恵)とは、速く、安く、それなりの味のものが食べられることです。しかし、食品全体に添加物&化学調味料が盛り込まれた、食生活そのものがインスタント化した状態に慣らされていることのリスクに気付くキッカケもないままの人たちが圧倒的に多いというのが現実です。この点から考えてみると、多数決決定というものは必ず正しいとは限らないということが言えると思います。
藤田紘一郎 『脳はバカ、腸はかしこい』
寄生虫博士〜カイチュウ博士の異名でも知られる藤田さんは、自らの体内にカイチュウを飼ってその「効能」を証明した話が有名ですが、他にも腸内細菌が人間の生命活動において非常に重要であることを長年にわたって提唱してきている人でもあります。腸内細菌を増やすことによる具体的な健康への効果は、免疫力の向上、アレルギー症状の軽減、脳内物質セロトニン分泌量の増大による鬱などのメンタルヘルス系症状の良化等々、多岐に及ぶそうです。腸内細菌を増やすためには、野菜や海藻などの繊維質を多く食べる、(細菌によって作られた)発酵食品を食べる、行きすぎた清潔(潔癖症的な滅菌&抗菌)を避ける、そして食品添加物を摂らないようにすることなのだそうです。特に保存料系の添加物はせっかく育った腸内細菌を死滅させてしまうとのことで、ここにも食品添加物の弊害が指摘されています。真実・事実というのは必然的に一つにつながるということの証明でもあります。
船瀬俊介 『3日食べなきゃ、7割治る』
正しく行う断食は体に良いという説を啓蒙する書。最初に断っておきますが、この本に書いてあることが100%事実であるか確認できていません(賛否両論いろいろあるようです)。しかし20〜30%までは私自身が自分の体で実践&証明できてます。具体的な効能は、体内に蓄積した老廃物や、食品添加物などの異物の排出(解毒)、人体が本来持っている治癒力を最大限に高める作用があるとのこと。断食にもいろいろな方法があり、朝食を抜く程度の半日断食、1日断食、2〜3日断食、さらに本格的な断食療法になると1週間〜数週間にまで及ぶものがあり、どの方法が適切かはその人の健康状態などで異なります。自分自身の経験から言えるのは、ある程度まで慣れてしまうと、食事量制限しながら1日3食を食べるよりも断食する方がずっと楽であるということです。
個人的な見解ですが、断食をする以前に必要なのは基本的な食生活をしっかりすることで、断食の効果としてよく聞くデトックス(解毒)作用で排出される「毒」の殆ど多くは食品添加物なので、日頃から食品添加物を出来るだけ摂らないようにすることです。プチ断食を日常的に実践すると体感できることですが、食品添加物が体内に入って来るとき、出て行くときに一時的に体調が悪くなったりします(具体的には偏頭痛や二日酔い並みの倦怠感、血液中を添加物=異物が流れることが原因らしい)。食品添加物を摂らない食生活を徹底すればするほど、断食した時の体調不良は出なくなります。断食に限らず、食生活や生活習慣を改めるとこのように一時的な体調不良(持病症状の悪化)が現れることは専門用語で「好転反応」と呼ばれているようです。
まぁ、書けば書くほど長くなる話なので今回はこれぐらいにしておきます。
一部には「食品添加物」=「直ちに健康被害にはつながらない毒物」が混入された食品に現代人が慣らされてきていることを、ある種の陰謀説としてみている人たちもいるようですが...どうなんでしょうかね?
「ウルトラセブン」に登場したメトロン星人はタバコに人間を狂暴化させる薬物を仕込んで、地球の人間社会に混乱と不信を引き起こそうとしましたが、ある種の食品添加物や化学調味料が人をキレやすくしたり、メンタルヘルス症状を悪化させるという説もあるので陰謀説は言い過ぎだとしても、現実に起こっていることは「メトロン星人の陰謀」と同じようなものかもしれませんよね。
2014年05月15日
ネット再デビュー宣言・・(なんじゃそりゃ!?)
ほとんど誰にも読まれてないだろう当ブログですが、さすがに半年近くも放置してると誰に対してというワケでもなく、ちょっと申し訳なく思ったりもします。何も書くネタが浮かばなかったから放置していたのかといえば、そうでもなくて、むしろテキストはいっぱい書いていたのですが、全てボツ。とても他人様に読んで頂ける内容ではない...ほとんど誰にも読まれないブログとは言え、書き手(発信者)としての矜持&美学(のようなもの)はあったりするのですよ。
ボツにしたテキストにどんなことを書き殴っていたのかというと、メディアが報じる情報や世論誘導に対する不信感、映画やTV番組にプロパガンダ的なものを感じるとか(それはそれで事実だが客観的にわかるように書こうとする程にドつぼにハマる)...まぁ傍から見れば「陰謀論系の話にかぶれちゃったイタい人」みたいな感じで、少ない友達がさらに少なくなる方向に行くのもよろしくないと思いまして。
ちなみに個人的には世間一般から「陰謀論」と呼ばれる言説の全否定はしてません(あまりに稚拙なのは除きますが)。何割かは真実を含んでたり、あるいは情報源は明確でなくとも無意識(暗黙知)的に真実を言い当てている説も中にはあるだろうというスタンスですが、「表のメディア」の情報と同様に少し距離を置いた方が良いだろう...というのが現在の心境。
そんなこんなで、もういい加減ネットからも距離を置こうか...ブログとかSNSとか全部やめてしまおうか、とか実際に考えたりしていたのですが、よくよく思い起こせば今年はちょうど私自身の「ネットデビュー15周年」だったのでした。
最近のお若い方から「ネットデビューだなんて大袈裟なw」とか思われてしまうのかもしれませんが、20年〜15年はインターネット自体が全く新しいメディアで、現在とはだいぶ様相が異なっていたように思います。
今から思えば随分と牧歌的なネットの時代でしたが、恥ずかしながら私自身の話をさせて頂くと、自作の音楽やCG画を晒すホームページを作ったり、コアな映画マニアが集うサイトの掲示板に恐る恐る意見や情報を書き込んだりと、「それなりの意志」を持って一歩踏み出すという、文字通りの「デビュー」だったわけです。
いつしかそういう「活動」へのモチベーションも下がり...(話し出すと一つ一つに物凄く長い話があるのだが)、昨年ぐらいには「もう何だかどうでもいいや!」と思っていたのですが、今年になってそのモチベーションが急に上がってきました。具体的に「鳴らしたい音」や「描きたい画」のイメージがあるということ。
それは若い頃は私にもあった「誰かオレを認めてくれ!」という承認欲求めいたものではなくて、ウンコみたいなもので出てくるものを出さないとおかしくなるみたいな感じです。
この一年半ぐらい、食生活の改善や健康管理に本気(かなりマジ)で取り組んできた結果、健康状態が良くなった(現在40代だが個人的体感では20代後半の感じ)影響が大きいのでしょう。
というわけで、不惑にして再び原点に戻り「素人の趣味活動」を細々と再開しようとしているわけなのです。素人が趣味で作った音楽や画なんて殆ど誰も見向きもしないだろうことは百も承知ですが、自分ちの畑でとれた野菜を自分で食べる時給自足的な、その野菜をご近所にお裾分け(または無人販売とか)する地産地消的な、そんな感じで続けて行ければいいんじゃないかと思う、今日この頃です。他人様の作ったものに、ああだこうだと批評めいたことを言ったり書いたりしてるより、自分の手で何か作って「なんじゃそれ?」とか「わけがわからない」とか突っ込み受けている方が、自分の性分に合ってるような気がしてます。
そんな中にも「良いと思う」と言ってくれる人が、たった一人〜二人でもいてくれたことが、意外と心の支えになっていたりするものでしてね。
あ、ちなみに上記「素人の趣味活動」は、これとは別のブログ(数年以上放置)で細々とやることにして(リンクぐらいは貼るかも)、このブログは今後もダラダラ雑文を書くことに徹します。
2014年01月21日
2013年 冬の見世物を追う(番外編)〜デリシャスウィートスのコケットショウ
昨年の暮れの話になりますが、12/30に新宿JAMで行われたデリシャスウィートスのコケットショウ「デリシャ・カニバル とびだせ!人間 第28回目」を観に行きました。この数年は夏季の見世物小屋で小雪太夫(通称ヘビ女)の前座の演芸も勤めてきたデリシャでしたが、昨年(2013年)は見世物小屋への出演は無く、初夏に催されたショウには所用が重なって行けずで、気がついたら年末になってしまっていて、久しぶりに行ったコケットショウでした(昨年は渚ようこさんと共演のリサイタルも見逃しちゃった..デリシャのみんな、ゴメンよ〜)。
ところで「デリシャスウィートスとは何者か?」と問われても私自身、うまく説明する言葉を用意できてないのですが、オリジナルのコケットな衣装を見にまとい、生演奏をバックに歌って踊って寸劇する、一見アングラ風なパフォーマンス集団...と言えば何かイメージしてもらえるでしょうか。主宰のチャーマァさんは一見、天然チックなように見えながらも実は類い稀な反骨精神を内に秘めた人でもあります。
この日のゲスト=対バンは朴保バンドでした。朴保(パク・ポー)さんは韓国系日本人で、政治や既得権に対するアンチ・メッセージ色の強い歌を歌う人ではありましたが、その歌詞によくよく耳を傾けてみれば歌われている言葉は特定のナショナリズムやイデオロギーには属さない、ごくごく普通の庶民感覚から湧き出す人情味溢れるものでした。サウンドもイイ感じにカッコよくて良かったです。
デリシャはこれまでも渚ようこ、友川かずき、早川義夫、頭脳警察、田渕純、ペーソス..(敬称略、思い出した順)などなどエッジの立っている表現者や、他者の入り込む余地がない宇宙にいるアーティストと対バン〜ジョイントしてきてますが、それにも負けない存在感...というか勝ち負け的な言い方は適切ではなく、デリシャの立っている土俵そのものが全く独自で異次元なものなので対バン〜ジョイント時にステージに漂うカオスな空気、これもデリシャ・カーニバルの持ち味です。
それに加えて佐藤梟(ふくろう)さんの喋りがまぁ〜〜、面白いこと。個人的に彼女の喋りの面白さはAMラジオでの伊集院光さんに匹敵するレベルと思ってますが、歌に踊りにお喋りと縦横無人の芸を見せ付ける彼女の更なる必殺技は風船の丸飲み!、入方勇さん(見世物小屋、入方興行)の亡き後、この風船丸呑み芸が見られるのは(私の知る限りにおいて)デリシャ・カーニバルだけ!!となっております。ステージのラストはコケットショウ恒例のデリシャ・メンバーが白いパンツを脱いで客席に配る「白パン・ゲリラ」(注:あくまで脱ぎ用&配布用のものなので、匂いとかある種の有機物が付いてるわけではない)。何と!今回は佐藤梟さんから白パンを頂いてしまいました。なんというご利益感!!、2014年は良い年になりますぞ。
実は私、以前にも一度、梟さんから「白パン」を受け取ったがあり、その時に出待ちしてサインを頂いたものを今も大事に持っています。誤解のないように申し上げておきますが、私にとってこの白パンの持つ意味はブルセラ的な価値ではなく、プロレスラーがリング入りするときに脱ぎ捨てたTシャツとか覆面とかの装着品に相当する価値なのです。巷で云うところの、行くとご利益があるパワースポットとか、どこの神社のお札やお守りにご利益があるとかないとか...そういう類いの話は迷信と言えば迷信ですし、真実と言えば真実でもあります。要はその人にとってのメンタルなモチベーションを上げるトリガーになるのかどうか?という話なので、そういう場所なり、物なり、人(アイドル)なりを探すことは生きて行く上で大事なことに思えると....梟さんに頂いた「白パン」をぼんやり眺めながら考えている新年の日々。
そういう意味で私にとって、デリシャスウィートスのショウはお祭りであると同時にパワースポットのような場所でもあるのです。あなたにとっても、そうなのかどうか分かりませんけど。
2013年12月08日
2013年 秋の見世物小屋を追う(新宿花園神社 酉の市)
今年も早いもので新宿花園神社の11月の酉の市も終わり、冬の気配が近づいてきました。この数年に渡って定点観測的に行ってきている見世物小屋の見物メモですが、状況を振り返ってみましょう(何だかちょっとテンション低い)。「いつまでも見られるものじゃない」「もうすぐ絶滅する」と言われて久しい見世物小屋の興行ですが、2013年時点で興行を行っているのは大寅興行さん1社のみ。大寅さんは春夏秋冬を通して各地の祭りでオバケ屋敷などの仮設興行を生業とし、秋の花園神社の酉の市では見世物小屋を出していて、その舞台裏に密着取材したドキュメンタリー映画『ニッポンの、みせものやさん』が昨年に公開されました(私からの感想文は拙ブログのこの辺を参照)。
見世物小屋の興行の状況を文献で探ると、1990年代初め...根本敬さんの著書(特殊ルポルタージュと言うべきか)の『人生解毒波止場』には花園神社の見世物小屋の木戸口で見聞きした話として、後継者がいないので存亡の危機に瀕していること、4件あった興行社が3件になったこと、ヘビ女=お峰太夫が最後の看板スタアであったこと等が伺えます。
2005年頃に出た秋山真志さんの著書で、後継者の少ない業界の方々を取材したルポルタージュ『職業外伝』においては、大寅興行の大野裕子さんが「お峰太夫が引退したら見世物は終わり」という、変わり行く時代の中での覚悟(当時の心境)を感じさせる言葉を語りつつも、当時お峰さんの直弟子として小雪太夫がデビューしたことや、入方勇さんという奇特かつ蛮勇な人物が大寅興行に入ってきていた様子が語られてました。
そして2000年代の半ば頃の数年間...上記の文脈で言うところの「見世物小屋の後継者」であった入方勇さんの入方興行が、同じく後継者=「お峰太夫の直弟子」である小雪太夫をフィーチャーし、ゴキブリコンビナートやデリシャスウィートスを始めとするいろんな「怪しい人たち」とのコラボレーションもしながら各地で興行を行い、一部の好事家筋でマニアックな人気を博すようになります。
春の府中くらやみ祭り、初夏の札幌まつり(中島公園)、夏の靖国神社、初秋の川越まつり、福岡の放生会(ほうじょうや)、晩秋の新宿花園神社、冬の浦和の十二日市...後継者のいない見世物小屋稼業に後継者が現れた...東京近郊で行われる興行にはできる限り、自らの足を運んで見物に行くのが私のライフワークになっていた時期がありました。2010年、実質的に後継者として活動していた入方勇さんが亡くなってしまいます(当時の私の心境を綴ったブログ記事はこちらを参照)。つい最近になってようやく入方さんが亡くなった当時の詳細事情を、「見世物学会」という団体が出している学会誌の『見世物5号』において、生前の入方さんとも親交のあった飴細工職人の坂入尚文さん(前述の『職業外伝』でも紹介されている)が寄稿した追悼文で知ることができました。自殺でこの世を去ったらしいことはネット上の噂で聞いてはいましたが、この追悼文を読んで初めてその溜飲が下がる思いがしました。
...と言いますのも、「見世物学会」という団体のWEBサイトも存在するのですが、実際にお祭りの見世物小屋の舞台で体を張ってきた入方さんが亡くなったことに関して、何の追悼コメントも発表してこなかったことに違和感のようなものを感じていたからです。例えるならプロレスラー三沢光晴さんのリング上での事故死に何のコメントも出さないプロレス研究会のようなもの...当時の素直な心境としては、そのように思えたのです。まぁ、それはともかく単なる一ファンとして、こうして入方勇さんのことを書き記すのは見世物〜仮設興行の歴史の中では短い期間ではあったとしても、自らの体を張ってお祭りの見世物小屋の舞台に立って「芸」を見せてくれた=怪しい異世界への幻想を抱かせてくれた彼のことを、実際に観た人には忘れてほしくない、観てない人には知っておいてほしいという想いがあるからです(ちなみに上記の見世物小屋のドキュメンタリー映画に入方勇さんは登場しません)。
(入方興行が見世物小屋の内部撮影に制限をかけてなかった頃の動画はYouTubeなどの動画サイトで今も閲覧できます)
例によって前置きが長くなりましたが、今年の新宿花園神社の酉の市(一の酉〜三の酉までの3回、それぞれ前夜祭と本祭の2日ずつ)の見世物小屋は、夏の靖国神社に引き続き大寅興行フィーチャリング・ゴキブリコンビナートの形で行われていました。プロレスを知らない人にはわかりにくい例えですが、老舗のプロレス団体(全日本プロレス、もしくは新日本プロレス)を観に行ったら興行をやっていたのは老舗の団体ではなく、新興のインディー・プロレス団体だった...それもデスマッチ系のハードコア団体だったような感覚です。
お峰さんや小雪さんに会えないのが寂しかったり、ヘビちゃんたち(シマヘビ、ニシキヘビの花子ちゃん)がいなくて金運のご利益が薄い感じではありましたが、アマゾネス・ピョン子ちゃんとゴキコンの皆さんは頑張ってました...「頑張ってました」と安い言葉でまとめるのは非常に語弊がありまして...もう、何でそんなに頑張ってるんだか意味わかんない!!と言った方がよいでしょうか。
これは決してバカにしたり貶したりしているのではなくて(褒めてもいませんが)、今のようにネットやスマホで何でも検索して理解しちゃったような気分になる人が多い時代に、わざわざ混雑する祭りに出かけていって「意味わかんない」けど「何だか凄い」ものを観てザワザワと胸騒ぎのようなものを感じたり、幻想を膨らませることは、とても大事なことに思えます。
私が観に行った時の演目は以下の感じでした。
・へび女
・巨大な寄生虫を体に飼う男
・特別ゲスト 串を刺した中国人
・逃げ遅れた病気老人
・メコン川流域の首狩族
・ジャングルウーマン アマゾネスピョン子、口中火炎の使い分け〜大火炎噴射
詳細は夏の靖国神社での見世物小屋を見物したメモ(これ)を参照して頂ければと。
人それぞれにいろいろな事情があるように、見世物興行にもいろいろな事情があるのでしょう。毎年、秋の花園神社でお峰さんのお元気な姿を確認するのが年中行事になっている身としては、彼女のお元気な姿を見ることができなかったのが心残りではあります。現在、逃亡説とか休業説とかいろんな噂が(ごく一部で)飛び交っている小雪さんですが「人間として」幸せに暮らしているのならば、それはそれで良いのかなぁ....とも思います。
見世物小屋、果たして来年も観ることができるのでしょうか.....
2013年10月16日
2013年 秋の妄言、人間のクズと沈み行くアメリカ
知り合い筋というか、身内の筋というか...(個人のプライバシーに関わるので)...その辺はボカすとして、知ってる人で自己破産レベルの借金を作ってしまい家族〜親戚〜知り合い〜会社の同僚まで、なりふり構わず金を借りまくってる野郎がいました。
どうやってそんな大きな借金に膨らんだのか詳細は知りませんが、大筋のところはギャンブルでの借金が膨らんで行き、終いには金利が膨らみ続けて「借金を返すための借金」をする状況になってしまい、ヤミ金にまで手を出していた...というか、もうヤミ金しか金を貸してくれるところがなくなっていたのです。
絵に描いたようなサラ金&ヤミ金への「借金を返すための借金」をし続ける自転車操業。カネを借りるためには親兄弟〜親戚にも平気でウソを吐くようにもなっていました。「平気でウソを吐く」という言い方が妥当かわからないし、「追い詰められてバカなことをした」というのが実情かもしれませんが、傍からみれば同じことです。
具体的にどんなウソを吐いてカネを借りようとしたのかという詳細(長い話で読む人が呆れるだけ)は割愛しますが、「誰にでもよくある仕方ないこと」なレベルから「そんなバカな話があるか!」レベルまでピンキリの、その場しのぎ用のウソのオンパレード。挙句には「XXのギャンブルでこうすれば儲かる」みたいなアホらしい話まで出してくる始末。
結局は他人に尻拭いさせる形でサラ金&ヤミ金への借金を家族/親戚/知人に肩代わりしてもらい、今現在は真面目に仕事して慎ましく暮らしているらしいですが、ギャンブルは完全に止めたわけではないらしい。まぁ、娯楽程度の小額のギャンブルまでを責めるつもりはありませんが、そのギャンブルに使っているカネは誰のカネなのだ?、と問い詰めてやりたい。
現在も家族/親戚/知人への借金が残っているので、考えようによっては「他人様のカネでバクチをやってる」という状態なのです。一つだけハッキリ言わせて頂きますが、たった1円だろうが他人様のカネをバクチに注ぎ込む行為は本当のダメ人間=「人間のクズ」のすることです。
さて、どうして冒頭からそんなどうしようもない残念な人物の話を書いたのかというと、このところ表側のメディアでのニュースや陰謀論スジからも聞こえてくるアメリカという国の状況...財政破綻&債務デフォルト寸前で立ち行かなくなってる沈み行く大国アメリカ(USA)に重なって見えてしまうからです。
予め断っておきますが、これは本格的な政治の話や国際情勢の分析ではありません。そんなことするだけの知性も情報も持ち合わせてませんし、そういうブログでもありません。単なる印象論レベルでの「意外なところにそっくりさん発見!」ぐらいのネタに過ぎないのでご承知おきを。
「借金まみれの自転車操業」状態の国家・政府が「借金を返すための借金」をするために、なりふり構わずウソ..とまで言わないが、周囲の国々にあれやこれやといろんなネタを持ちかけたり、自分に都合の良い筋立て(ルール)を押し付けたりしては、他の国からカネを自分のところに流し込もうとする魂胆、バクチまがいの金融で損したら他人のスネをかじって食い尽くそうとしてる(ようにしか見えない)部分が似てるな、という例え話。
そのように考えると、やたらとシリアに軍事介入(つまり戦争)を仕掛けようとしたり、日本に対しては米軍基地にオスプレイを押し付けたり、やたらとTOBで企業の乗っ取りまがいの株買い付をしたり、TPP(結局は自国アメリカに有利なルールであるという)加入を強要したり、挙句は郵便局をアヒル保険の窓口にしたりと..極東の果ての一人の借金まみれのダメ人間と、デフォルト寸前(と言われる)の巨大国家の大きな違いに思えるが、やってることは目くそ鼻くそレベルの違い、まぁ同じようなものです(私にはそう見えている)。
米国政府のやってることと米国企業のやってることをごちゃ混ぜに語るな!と言われるかもしれませんが、現に米国では巨大金融企業や軍産複合体企業が米国政府を動かしているという事実があることが近年は周知の事実となっています。
俗説で「アメリカの現在は数年後の日本の姿」という見方がありますが、あれが日本の近未来の姿なのか?..1%の富裕層が99%の下層民衆を支配するあの国の状況に日本も取り込まれてしまうのか?..と思うと背筋に寒気が走ります。そのあまりに冗談じゃ済まされない状況に、ナイーブ(言葉本来の世間知らずの意味)な私なんか、ブログに「この映画が面白かった」話とか「素人読書感想文」のようなライトな話題が書けなくなっちゃいますよ。
ここで日本の現政権による「アベノミクス」と言われる景気回復策に対する批判はしませんが(するだけの知性も情報も持ち合わせてない)、メディアのニュースを見聞きしていて「何だかおかしいな?」と思う点はいくつかあります。
例えば「為替相場での円安」策を考えてみた場合、日本国内でも円安によって業績の上がる業種、業績の悪化する業種があるわけで、それらのトータルなバランスを考えて慎重に成り行きを見守らなければならないはずのことが、「円安で日本企業の業績アップ、それで景気回復」というメディアが声をそろえて報道してるところに違和感を覚えます。あそこまで行くと大本営発表〜プロパガンダですね。
私のような考えの浅い人間でもはっきりと認識できるのは、あの小泉政権以後、日本の政権がアメリカの言うことに従う場合はマスメディアから大々的に追い風のように後押しされ、その逆の場合は逆風のように大々的に叩かれるということ...これまで都市伝説的に言われてきている「日本のメディアは戦後からずっとアメリカの支配下にある」という話は本当だったのだと考えざるを得ません(これは国営放送含めて同じ)。
グローバル化という、体の良い言葉の裏にはグローバル資本による日本企業(資本)の乗っ取りという側面もあるわけですが、思い返せば「ドメスティック化=ダサい」「グローバル化=カッコいい」という洗脳と言ってもよいぐらいの、イメージ戦略=プロパガンダが行われてきている事実もあります。具体的に言うと「坂本龍馬ブーム」がその一つに思えます。
数年前、坂本龍馬が英雄的に描かれたドラマとして『龍馬伝』、『JIN -仁-』がありました。私自身はそれらのドラマをそれ程は観てはいませんが、一つ確かな事実は坂本龍馬を現代人も共感できる普遍的な感覚を持つ好感の持てる人物に描いたことであり、同時に推測できるのは「鎖国=ドメスティック化=悪」、「開国=グローバル化=善」というイメージを植えつけた(旧来からのイメージの更なる上書きをした)ということです。単純に善悪という問題ではないのですけど。
娯楽作品そのもの〜ドラマを楽しむ視聴者に罪はありませんが、状況的に政治プロパガンダに利用されているという面も見つめなければいけないとも思います。まぁ、これを言い出したらTVドラマから映画までを、いちいち疑いながら観るという話になりますが。
どっちにしてもこの先、数年かけて日本の景気が劇的に良くなるということはない、と個人的に考えます。マイナスの状態がゼロになれば良い方で、大きなマイナスから小さなマイナスになったとしてもメディアは微分積分の如く部分的に都合の良い「数字」を取り出して「良くなってる」「回復してる」というのでしょう...つまり現状と同じ。
悲観的??..いいえ、現実を正面から見てるつもりですよ。
たとえTPPで今より安い外国の食物が入ってきたとしてもオレは日本の米を、日本の農産物を選んで買う!、という野坂昭如イズム。
話ついでに言わせてもらえば、外資系保険会社の保険商品にも絶っ対に加入しないからな!覚えとけ!!(ちょいと鼻息荒く)。
【補足】
まぁ、久々にブログ記事を書いたかと思えば、やや上から目線のエラそうな内容になってしまいました。「現状への愚痴ばっかりで、前向きな考えや建設的な意見を何も出してないじゃないか」と思われても仕方ないですが、「まずは現実を正しく知る努力をすべき」というのが本意です。
どうやってそんな大きな借金に膨らんだのか詳細は知りませんが、大筋のところはギャンブルでの借金が膨らんで行き、終いには金利が膨らみ続けて「借金を返すための借金」をする状況になってしまい、ヤミ金にまで手を出していた...というか、もうヤミ金しか金を貸してくれるところがなくなっていたのです。
絵に描いたようなサラ金&ヤミ金への「借金を返すための借金」をし続ける自転車操業。カネを借りるためには親兄弟〜親戚にも平気でウソを吐くようにもなっていました。「平気でウソを吐く」という言い方が妥当かわからないし、「追い詰められてバカなことをした」というのが実情かもしれませんが、傍からみれば同じことです。
具体的にどんなウソを吐いてカネを借りようとしたのかという詳細(長い話で読む人が呆れるだけ)は割愛しますが、「誰にでもよくある仕方ないこと」なレベルから「そんなバカな話があるか!」レベルまでピンキリの、その場しのぎ用のウソのオンパレード。挙句には「XXのギャンブルでこうすれば儲かる」みたいなアホらしい話まで出してくる始末。
結局は他人に尻拭いさせる形でサラ金&ヤミ金への借金を家族/親戚/知人に肩代わりしてもらい、今現在は真面目に仕事して慎ましく暮らしているらしいですが、ギャンブルは完全に止めたわけではないらしい。まぁ、娯楽程度の小額のギャンブルまでを責めるつもりはありませんが、そのギャンブルに使っているカネは誰のカネなのだ?、と問い詰めてやりたい。
現在も家族/親戚/知人への借金が残っているので、考えようによっては「他人様のカネでバクチをやってる」という状態なのです。一つだけハッキリ言わせて頂きますが、たった1円だろうが他人様のカネをバクチに注ぎ込む行為は本当のダメ人間=「人間のクズ」のすることです。
さて、どうして冒頭からそんなどうしようもない残念な人物の話を書いたのかというと、このところ表側のメディアでのニュースや陰謀論スジからも聞こえてくるアメリカという国の状況...財政破綻&債務デフォルト寸前で立ち行かなくなってる沈み行く大国アメリカ(USA)に重なって見えてしまうからです。
予め断っておきますが、これは本格的な政治の話や国際情勢の分析ではありません。そんなことするだけの知性も情報も持ち合わせてませんし、そういうブログでもありません。単なる印象論レベルでの「意外なところにそっくりさん発見!」ぐらいのネタに過ぎないのでご承知おきを。
「借金まみれの自転車操業」状態の国家・政府が「借金を返すための借金」をするために、なりふり構わずウソ..とまで言わないが、周囲の国々にあれやこれやといろんなネタを持ちかけたり、自分に都合の良い筋立て(ルール)を押し付けたりしては、他の国からカネを自分のところに流し込もうとする魂胆、バクチまがいの金融で損したら他人のスネをかじって食い尽くそうとしてる(ようにしか見えない)部分が似てるな、という例え話。
そのように考えると、やたらとシリアに軍事介入(つまり戦争)を仕掛けようとしたり、日本に対しては米軍基地にオスプレイを押し付けたり、やたらとTOBで企業の乗っ取りまがいの株買い付をしたり、TPP(結局は自国アメリカに有利なルールであるという)加入を強要したり、挙句は郵便局をアヒル保険の窓口にしたりと..極東の果ての一人の借金まみれのダメ人間と、デフォルト寸前(と言われる)の巨大国家の大きな違いに思えるが、やってることは目くそ鼻くそレベルの違い、まぁ同じようなものです(私にはそう見えている)。
米国政府のやってることと米国企業のやってることをごちゃ混ぜに語るな!と言われるかもしれませんが、現に米国では巨大金融企業や軍産複合体企業が米国政府を動かしているという事実があることが近年は周知の事実となっています。
俗説で「アメリカの現在は数年後の日本の姿」という見方がありますが、あれが日本の近未来の姿なのか?..1%の富裕層が99%の下層民衆を支配するあの国の状況に日本も取り込まれてしまうのか?..と思うと背筋に寒気が走ります。そのあまりに冗談じゃ済まされない状況に、ナイーブ(言葉本来の世間知らずの意味)な私なんか、ブログに「この映画が面白かった」話とか「素人読書感想文」のようなライトな話題が書けなくなっちゃいますよ。
ここで日本の現政権による「アベノミクス」と言われる景気回復策に対する批判はしませんが(するだけの知性も情報も持ち合わせてない)、メディアのニュースを見聞きしていて「何だかおかしいな?」と思う点はいくつかあります。
例えば「為替相場での円安」策を考えてみた場合、日本国内でも円安によって業績の上がる業種、業績の悪化する業種があるわけで、それらのトータルなバランスを考えて慎重に成り行きを見守らなければならないはずのことが、「円安で日本企業の業績アップ、それで景気回復」というメディアが声をそろえて報道してるところに違和感を覚えます。あそこまで行くと大本営発表〜プロパガンダですね。
私のような考えの浅い人間でもはっきりと認識できるのは、あの小泉政権以後、日本の政権がアメリカの言うことに従う場合はマスメディアから大々的に追い風のように後押しされ、その逆の場合は逆風のように大々的に叩かれるということ...これまで都市伝説的に言われてきている「日本のメディアは戦後からずっとアメリカの支配下にある」という話は本当だったのだと考えざるを得ません(これは国営放送含めて同じ)。
グローバル化という、体の良い言葉の裏にはグローバル資本による日本企業(資本)の乗っ取りという側面もあるわけですが、思い返せば「ドメスティック化=ダサい」「グローバル化=カッコいい」という洗脳と言ってもよいぐらいの、イメージ戦略=プロパガンダが行われてきている事実もあります。具体的に言うと「坂本龍馬ブーム」がその一つに思えます。
数年前、坂本龍馬が英雄的に描かれたドラマとして『龍馬伝』、『JIN -仁-』がありました。私自身はそれらのドラマをそれ程は観てはいませんが、一つ確かな事実は坂本龍馬を現代人も共感できる普遍的な感覚を持つ好感の持てる人物に描いたことであり、同時に推測できるのは「鎖国=ドメスティック化=悪」、「開国=グローバル化=善」というイメージを植えつけた(旧来からのイメージの更なる上書きをした)ということです。単純に善悪という問題ではないのですけど。
娯楽作品そのもの〜ドラマを楽しむ視聴者に罪はありませんが、状況的に政治プロパガンダに利用されているという面も見つめなければいけないとも思います。まぁ、これを言い出したらTVドラマから映画までを、いちいち疑いながら観るという話になりますが。
どっちにしてもこの先、数年かけて日本の景気が劇的に良くなるということはない、と個人的に考えます。マイナスの状態がゼロになれば良い方で、大きなマイナスから小さなマイナスになったとしてもメディアは微分積分の如く部分的に都合の良い「数字」を取り出して「良くなってる」「回復してる」というのでしょう...つまり現状と同じ。
悲観的??..いいえ、現実を正面から見てるつもりですよ。
たとえTPPで今より安い外国の食物が入ってきたとしてもオレは日本の米を、日本の農産物を選んで買う!、という野坂昭如イズム。
話ついでに言わせてもらえば、外資系保険会社の保険商品にも絶っ対に加入しないからな!覚えとけ!!(ちょいと鼻息荒く)。
【補足】
まぁ、久々にブログ記事を書いたかと思えば、やや上から目線のエラそうな内容になってしまいました。「現状への愚痴ばっかりで、前向きな考えや建設的な意見を何も出してないじゃないか」と思われても仕方ないですが、「まずは現実を正しく知る努力をすべき」というのが本意です。
2013年07月31日
2013年 夏の見世物小屋を追う(靖国神社みたままつり)
7月13日〜16日は靖国神社みたままつり、ということで見世物小屋が例年通りに出ているのか確かめるべく行って参りました(写真は鳥肌実さんが奉納した掛けぼんぼり)。この数年の(入方勇さん亡き後の)、みたままつりでの見世物小屋は小雪太夫(通称ヘビ女)の悪食芸をメインに、デリシャスウィートスが前座を務める形で行われてきてましたが、今年はデリシャさん筋の情報では見世物小屋への出演情報はなく「見世物小屋の興行自体が行われるのか?」と心配していたところ、ゴキブリコンビナートが出るらしいとの情報がありました。
そのスジの噂で聞くところによると、ゴキブリコンビナート主宰のDr.エクアドル氏は故・入方勇さん(入方興行として見世物小屋をやっていた)とのつながりで見世物小屋の舞台に立つようになったそうで、入方さん亡き後は「もう見世物小屋の舞台に立つことはないだろう」と語ったとも伝えらてれます。どのような心境の変化かあったのか?、見世物小屋というある種の文化の灯火を絶やしてはならないという考えがあったのか?...一人の見物客で野次馬の私には知る由もありませんが、とにもかくにもいろんな人間模様の裏事情も込みで今年も靖国神社に見世物小屋は出現したのでありました。
話ついでですが..小雪太夫の「中の人」が元ゴキブリコンビナートの某女優さんだったとかいう類の噂話はここでは割愛します。むしろ、あえて「別人です!」とでも言っておきましょう。武藤敬司とグレート・ムタは別人ですし、氣志團の翔やんとDJ.OZMAも別人。ま、そういうことです。
人混みをかきわけて進み、見えてきました、見世物小屋。「へび女」「人間クレーン」「ジャングルウーマン」... |
怪しげなお兄さんが呼び込み口上を担当。入り口に見える文字は「中国から来た不思議な赤ちゃん」「台湾の山岳少数民族」「逃げ遅れた病人●人」「ジャングルウーマン アマゾネスピョン子」「縄文人」「へび女」「巨大な寄生虫をxxxxxxxx」などなど。 |
「台湾の山岳少数民族」....ということで、ドライアイスを食べたり、扇風機の回る羽根を舌で止めたりの荒業を展開。芸を披露した後にご褒美のエサとして?ニワトリが投げ与えられるのですが... |
少数民族を蹴散らして(実際に蹴りを入れてました)、ニワトリを奪ってアマゾネス・ピョン子ちゃん登場。余裕の笑顔です。 |
ロウソクの火を大きく燃やして... |
炎を口で消す!! |
熱いロウを口の中のたらし込み.... |
大火炎噴射!!! |
こんな病気の人が出てきて.... |
こんな荒業を!! |
ヘビと一緒に育ってきたので、自分をヘビだと思ってるという女の人が....。 |
悪食の実演...虫を食べたり。 |
こんな人が出てきて、奇形の赤ん坊のホルマリン漬け(と言っておりました)を出してきたり。 |
こんな人が出てきて、口から何か出したり... |
トリは頬に金属棒を串刺しにした縄文人....、縄文人です、エクアドル氏とは別人です。 |
頬に差した金属棒にヒモを引っ掛けて台車を引っ張るという荒業。これを4日間も続けてたのかと思うと、すごい!!...というか、人生って何だろう?、人間って何のために生きるだろう?と考えさせられたり...なんだかもう、理解できません(笑)。 |
ちょっと今、文章を書こうというテンションが落ちてるので写真をいっぱい貼ってごまかそうとしてることがバレバレだとは思いますが、何はともあれ今年も靖国神社に見世物小屋は出ました。小雪さんは出てませんでしたが(何か事情があったのでしょう..)、結果的にピョン子ちゃんのがキャラが立つ興行にもなっていて、彼女がデビューした年の川越祭りから追っかけてきている一ファンとしては、見世物芸人としての成長が嬉しい限りです。
しかし正直な話、靖国神社での見世物小屋は来年も見られるのかわかりません。ヘビを食べるのに「動物虐待だ!!」とクレームつける人がいたりするような話も聞きますし。
プロレスや時代劇と同じで、見世物小屋も今はとにかく続けることが大事なんだと思います。
2013年06月16日
勝新太郎 十七回忌を巡るあれこれ(その2)、元マネージャーのアンディさん
例えば内田裕也さんという人について、いろんな人がいろんな事を言います。それは裕也さんが長きに渡って多彩な活動をしてきた有名人なので必然的について回ることではありますが、それでもやはり多くの人は数年前のスキャンダルに眉をひそめ、そのときの「ロケンロールに免じて勘弁して下さい」発言に「何だ?ありゃ!」「意味わかんねぇぞ!」とか言う(一応、私の周りでのささやかな世論調査した結果に基づく)。しかし私個人的には、裕也さんが世間(マスコミ)からスキャンダルで叩かれてるのを見ると、青臭い人たちが反社会的なイメージでカッコいいとか言ってるのとは別の意味で、誰が何と言おうと弁護して庇いたくなってしまいます。それは裕也さんという人が映画の分野において俳優として、製作者として素晴らしい仕事もしてきた実績があるからに他なりません。
恐縮ながら裕也さんの話を引き合いに出させてもらったのは、晩年(1990年代)の勝新太郎さんについても同じような状況があったからで、例えば私が「勝新太郎という人は日本映画において素晴らしい仕事をしてきた人だ」と言っても、やれ「麻薬所持はけしからん」とか「もうパンツは穿かない」とか「玉緒さんが可愛そう」とか...勝新映画の話そのものをさせてもらえない。今でもある世代以上の理解のないオッサンやオバハンに勝新太郎の話をすると、この始末(苦笑)。
勝さんが亡くなって今年で十七回忌を迎えるわけですが、もうそろそろ作った映画作品そのもので語られてほしいと思っているところ、最近ファンになったという若い人と話す機会がありました。その若者はメディアが報じた事件やスキャンダルの先入観なしに、レンタルビデオ屋で「座頭市」シリーズを直感で選んで観て感動したとのことでした。そういう若者がいることを嬉しく思うと同時に、新たに気を取り直して語り継いで行きたいと思う次第です。
拙ブログにて何度か、生前の勝新太郎さんと懇意にしていた一部の方々と面識が出来たという話を書いてきてますが、その中で最も勝さんと長い時間を共有したであろう人が、勝プロ設立の中期ごろから最晩年まで勝さんの付き人・マネージャーを務め続けたアンディさんです。眞田正典さん(勝プロ常務/プロデューサー)が広く勝新ファンに知られているのに比べると、アンディさんはコアな勝新マニアにもあまり知られてはおらず、(2013年現在)ネットで検索してもある程度以上細かく書かれた記事はAV監督の村西とおるさんの書いた過去の日記(注:2013年6月時点では削除されたようだ)と、私のこのブログぐらいしか出てこないというぐらい情報は少ないです(私がプライベートなところに書いた日記を、心ない人が勝手に変なとこにコピペしたのもある)。
彼の名が勝新マニアにも殆ど知られてないのは、マネージャーとして勝新太郎を立てることが何よりも第一という、裏方にのみ徹してきたからとも言えますが、最近では2011年に出た勝新評伝『偶然完全 勝新太郎伝』(田崎健太 著)でメジャーな出版物での文章としては初めて紹介されたのではないかと思います。
しかし『偶然完全〜』でのアンディさんを紹介する文章パートは実際の人物を知ってる視点で読むと中途半端(悪く言えば雑)に感じる部分があり、あの本を読んだ人には「歴代の勝新太郎マネージャーの1人」ぐらいの印象しか与えてないのではないでしょうか。
そんなわけで、僭越ながら私が改めてアンディさんの人となりについて補完すべくお伝えしようという次第です。
アンディさんは生まれも育ちも東京の日本人です(こうしてブログ等に書くことの了解は得てますが、現在は芸能界から距離を置いていらっしゃるので実名は伏せます)。なぜアンディなのかというと、得意な英語を生かした観光関係の仕事で外国の人たちとやりとりする際、「あ」で始まる彼の名をうまく発音できない外国人が多くて、いつしか「ANDY」と呼ばれるようになったそうです。そんな彼が若かりし日、いろいろ思うところがあって会社を辞めようと思ってた際、上司から「送別会をやるから何か希望はあるか?」と聞かれたので、どうせ最後だから我がまま言ってやろうと思い「京都の高級クラブ”ベラミ”でやってくれ」と言ったら、渋い顔しながらも「ベラミ」で送別会をやってくれることになったそうです。
そして、その送別会の日のクラブ「ベラミ」において、たまたま来ていた勝新太郎との運命的な出会いがありました。トイレ行くのに席を離れた時に偶然に勝さんに会ったので、すれ違いざまに「大ファンです!」と告げ、握手をしてもらった際「あとで一緒に飲もう」と言われ、周囲の知人から「そんなの社交辞令だろ」と言われながらも真に受けて、勝さんの所に言ったら快く酒席に迎え入れてくれたのが事の始まりです。
勝さんの最初の言葉「お前、いい眼をしてるな。目は化粧できないし、(目が語る)心は演技やメーキャップでも隠せないんだよ」という殺し文句を言われる(いろんな評伝を読むと、勝さんはこの言葉を氣の合いそうな初対面の人間には時々言ってきてるようだ)。
それで観光会社を辞めようと思ってることや、英語や外国語が得意で海外との折衝/交渉の業務経験のあることを伝えると勝さんに「じゃぁ、俺のところにこないか?」「お前が座頭市を外国に売ってみろよ」と口説かれます。
例によって、周囲からは「酔った席での社交辞令だろ」と冷笑されながらも、真に受けたアンディさんは東京に帰ってから連絡のある約束の日に電話の前でじっと待っていたそうです。夜になっても連絡が来ないので、やっぱり冗談か社交辞令だったのか...と思って諦めかけた頃(夜の11時を過ぎていた)、電話が鳴ったそうです。勝さんの事務所の人から今すぐに来てほしいとの連絡がありました。
高まる鼓動を抑えながら、勝さんの待っているクラブ(確か、ラテンクォーターだったか..)に行くと、勝さんは何人かの関係者に向かって「こいつがアンディです。よろしくお願いします」と、まるでアンディさんが既に身内の人間であるかのように関係者&スタッフの方々に丁寧に紹介してくれたそうです。
居合わせた関係者の中には勅使河原宏さん(勝さんが自ら監督作品を作るようになるキッカケと影響を与えた芸術家/映画監督)もいたそうなので、勝さんの映画で言えば『燃え尽きた地図』の公開後〜1970年以後...勝プロ創立初期〜中期の頃になるでしょうか。アンディさんが30歳の頃の話。
京都での運命的な出会いから以後20余年に渡って、最晩年まで勝新太郎の付き人&マネージャを務めることになります。事実は小説より..もとい映画よりも奇なり。
冒頭に評伝『偶然完全 勝新太郎伝』におけるアンディさんを紹介する文章について、実際の人物を知っている観点で読むと中途半端に感じる部分があると述べましたが、1つ具体例を挙げると、勝さんの夜の豪遊でのお金の使い方の話が出てくる下りがあります。その時の勝さんとアンディさんの表面的なやりとりの事実関係を箇条書きにすると以下になりますが..(1)勝さんは高級クラブで呑む時はいつもホステスやボーイやスタッフ全員に1万円のチップを上げていた(それとは別に店の支払いはツケ払い)
(2)チップのお金を用意して配るのはアンディさんの役目だった
(3)ある時、アンディさんが1万円のチップを5千円で配ってしまったことがあった
(4)そしたら勝さんから(人のいないところで)大声で叱られた
(5)勝さん曰く「俺はスター気取りの見栄でチップを出してるんじゃない、世間のことや人間のことを学ばせてもらってる授業料として差し上げているんだよ」
私が思うに、アンディさんから聞いたこの話を他人に伝える時の大事なポイントが2つあります。1つ目は勝新太郎が常人には想像できない次元&視点でものを考る人であったこと、2つ目はアンディさんがこの出来事を通して勝新太郎という男に改めて惚れ直したこと...なのですが『偶然完全〜』の文章からは後者が全く伝わってこないのです。
恐らく『偶然完全〜』の著者もアンディさんから、私が聞いてるのと同じ「温度」でいろいろなエピソードを聞いているはずと思うのですが、その辺のニュアンスが抜け落ちてしまっている上に、他の部分でのフォローもないので、読者には「男として惚れ込んで最後まで仕えた人」ではなく、「勝プロで雇われた歴代の付き人/マネージャーの1人」ぐらいの印象にしか伝わらないでしょう。
この評伝はクリエイターとしての勝新太郎の「作品論」ではなく、人物の素顔の魅力を伝える「人物論」に位置づけられると思うのですが、「人物の魅力」を伝える材料としては最高の部類であろう、執筆対象の人物に惚れ込んで晩年まで仕えた人物を取材してるのにその辺が表現されてない部分を中途半端〜非常にもったいないように感じてしまうわけですよ。
(話ついでに言わせてもらうと、この著者は概ねの勝新ファンが共通認識として持っている勝新太郎作品の魅力・面白さがあまりわかってないようにも思いますが、著者と勝さんしか知らない事柄=一般ファンにとっての新事実を伝える部分には感謝してます...まぁ、この日記は書評ではありませんので)
素顔の勝さんと親しく懇意にしていた人たち(具体的にはアンディさん、ピッピさん、田賀のマスター&ママ)からいろいろ聞いてきた話から察すると、勝さんに可愛がられた人はみんな「自分が一番可愛がられてる」「自分が勝新太郎の一番弟子」だと思っちゃう部分があるようで、これは巷でよく言われるように勝さんが「人たらし」だったというだけでなく、実際に一人一人の友人/知人に対して真正面から誠実に向き合う人だったようなのです。
勝さんのことをオヤジと呼んで身の回りの世話をしていたアンディさんもその例に漏れず、いろいろと人間として男としての薫陶を受ける日々を過ごしていたわけですが、それ故に他の関係者から嫉妬されることも幾度となくあったらしいです。ある時、勝さんがアンディさんにこう語ったそうです。
勝さん:「アンディ、男と女の間の嫉妬、男同士の嫉妬、女同士の嫉妬
いろんな嫉妬があるけれど、どれが一番コワいかわかるかい?」
アンディさん:「えーーと....男女の間の嫉妬でしょうかね」
勝さん:「..ちがうよ。男が男にする嫉妬が一番タチ悪くてコワいんだよ」
男からも女からも惚れられる勝新太郎だからこそ言える、含蓄のある言葉です。
とにかく私からは、アンディさんという人は勝プロが倒産した時や麻薬所持疑惑などのスキャンダルで世間から叩かれてた時も、ずっと傍で仕えて支え続けてきた人であるということを、あえて強く伝えておきたいのです。
1997年、出会って以来から男として惚れ込んできた勝さんが亡くなった時には「後を追ってこの世から去ろうか..」とまで考えてしまうほど落胆&絶望して思い詰めてしまったそうです。そんな時に生前の勝さんが「アンディ、自殺なんかするんじゃないよ」と言った言葉を思い出して我に返ったのだと..
勝さんがアンディさんに「自殺なんかするんじゃないよ」と言ったのは、その時点で既に10年以上も前のことで、何気なく話している時に全く脈絡なく発した言葉に聞こえたため、ずっと気にも留めてなかったそうなのですが、そのとき急に思い出したのだそうです。曰く「オヤジ(勝さん)はオレの性質を見抜いてて、いつかこんな状態になるのをわかった上で、あの時に先読みして伝えたのかもしれないな..」。
さすがに勝新太郎という人が予知能力で未来を見通していた..とまでは言いませんが、勝さんは人並み外れて人間に対する洞察力や直観力を持っていた部分があって、考えていることを言い当てられたり、ウソや隠し事を見抜かれたりすることがしばしばあったそうです。この点に関して勝さんは(合氣道や古武術で言うところの)「氣を感じる」/「氣を配る」ことができたのではないか?という私的な見解があるのですが..いささかオカルト方面に誤解されそうな話に脱線するので、割愛します。
話が逸れますが、アンディさんの手相は手のひらを一直線に知能線と感情線がつながる「ますかけ線」と云われる相なのでした(写真参照)。徳川家康の手相もこのタイプだった話が有名で、天下取りの相だとか言う話もありますが、実際に会ってみると、アンディさんはとても強い「氣」を出している感じの人です。アンディさんが勝さんの話をするときに発している「氣」は、とにかく「俺は誰よりもオヤジ(勝さん)が大好きなんだ!」「男として惚れ込んでいるんだよ!」という、テレパシーなどの超能力がなくても感じられるものです。
そんなアンディさんですが、勝さんが逝去した後の十数年は中国の上海で事業をして暮らしてきたのですが、数年前に日本に帰ってきてお仕事をされています。そして長年に渡り、側近を務めてきた勝新太郎という希有な人物のことを後世に語り継いで行きたいという熱い気持ちを持ち続けていて「付き人/マネージャから見た勝新太郎伝」を世に出すべく原稿を執筆中なのだそうです。
「勝新太郎の語り部」の役を引き受けるのも、男として惚れ込み、オヤジ(=育ての親)と慕ってきた勝さんへの恩返し..「僭越だけど、そんな氣がしてる」..と、遠くを見つめて語る彼は、勝新太郎という不世出の人物が墓場まで持って行った秘密の一端を一番近くで垣間見た人間の一人なのであります。
さすがに聞かせて頂いたお話の全てを一度には書き切れませんし全ては書けませんが、今後も伝えられる範囲でテーマを決めて伝えていこうと思います。実際に間近に傍にいた人から聞く、尾ヒレが付かない勝新伝説は他のファンの皆さんと共有すべき財産だと思いますので。
2013年06月09日
勝新太郎 十七回忌を巡るあれこれ(その1)〜ピッピさん、横山剣さん
去る5月、浅草にクレイジーケンバンド(以下CKB)の横山剣さんが舞台演劇に初挑戦する(させられる?)という「横山剣 大座長公演」の初日公演を観てきました(第一部は舞台劇〜第二部はCKBのライブ演奏の2部構成)。聞くところによると、剣さんはこの舞台劇に初挑戦する企画の依頼を勢いで引き受けてしまったらしく(雑!)、一体どうなってしまうのだろう?という期待と不安が入り混じった気持ちで初日の公演を観ましたが、第一部の演劇パートでは剣さん並びにCKBの各メンバーのキャラがうまい具合に生きる感じで、舞台経験の豊富なプロの役者さんたちのサポートもあり、ちゃんと楽しめるものになってました。ま、基本は出オチなんですが(笑)。
そして、第二部のCKBライブ演奏パートでは水を得た魚の如くの本領発揮で、いつもながらの手抜きなしのサービス&パフォーマンス。ライブ前半での演奏曲「男の滑走路」にて唄の歌詞を部分的に忘れる小さなハプニングもあったりいして(普通に時々あるが)、いつもと違う慣れないことをやったので流石の剣さんもちょっとテンパってしまったんだろうか?と思ったのですが、後になって「いや!それはたぶん違う!!」と思い直しました(詳細理由は後に述べる)。
締めのラスト曲は勝新太郎さんに捧げる旨の言葉を添えての「マイ・ウェイ」を熱唱。「マイ・ウェイ」は言わずもがなのフランク・シナトラの名曲でいろいろな歌手にカヴァーされてきてますが、勝新太郎さんがディナー・ショウでの締めの曲として歌っていたことでも知られる曲です。この公演のラスト曲で剣さんが歌ったのは勝新太郎のカヴァー曲としての「マイ・ウェイ」であり、ライブ前半での「男の滑走路」とも精神的に地続きなのです。
「男の滑走路」の歌詞に次のような一節があります
♪マイ・ウェイ〜シナトラのように〜私は私の道を行こう
♪その先に何が待ち受けていようと、全て蹴飛ばし生きてゆくぜ
CKBのライブ公演に通ってるファンの間では知られた話ですが、剣さんは「男の滑走路」をライブで歌うときにレコーディングしたオリジナル歌詞の「シナトラ」を「カツシン」に変えて、「♪マイ・ウェイ〜カツシンのように〜」と歌うことがあります。きっとこの日の剣さんは「〜カツシンのように〜」歌おうとしたのだが..いざ、歌おうとしたときに何か熱くこみ上げるものがあって言葉が出なかったのだろう..と勝手に妄想してます。
これが一CKBファンであり勝新マニアである私の勝手な思い込みで、事実とは違ってたとしてもそういう見方をすることでより面白く味わい深さが感じられる〜これはある意味で勝新語録でいうところの「偶然完全」なのである....などなどと屁理屈をこねてしまいましたが、まぁいいじゃないですか。最近の剣さんの言い方での「雑!」ってことで。
ちなみに、「横山剣 大座長公演」の会場となった浅草公会堂は入り口の足元に昭和のスターたちの手形が飾られていることで有名な場所ですが、その中には勝新太郎さんのものもありました(写真を参照)。「S55.11」=昭和55年(1980年)ごろですから、勝さんが勝プロでTVドラマ『警視−K』を撮ってたころのものでしょう。『警視−K』と言えば、ドラマの出演者で勝さんと親密な関係にあったピッピさんこと水口晴幸さんは、剣さんのクールスRC時代の先輩の一人でもあり、「ジェームス・ブラウンのショウと、勝新太郎のディナー・ショウは絶対に生で見ておけ!」と剣さんに命じたとも伝えられております。
歌謡ステージ上での勝新イズム=アンリミテッドな人情&サービス精神はピッピさんを経由して、たしかに横山剣さんに受け継がれているのだと、改めて確認できたのが嬉しい再発見でもありました。
その剣さんの先輩でもある水口晴幸さん=ピッピさん(ex.クールス/クールスRC)は現在も現役のロケンローラーとして精力的にライブ公演などをこなされてます。私も東京近郊でライブがある時は行ける限り足を運んで観に行ってますが、昨年10月の還暦記念のバースデー・ライブの時には、自ら率いる4つのバンド〜ユニットで約4時間もステージで歌い続けるという(勢いで予定時間を大きくオーバーしちゃったらしい)、還暦を迎えたとは思えないパワフルさ。毎度ライブでは手抜きなし、パワフルでエッジの立ったパフォーマンスをするピッピさんですが、それは彼本来の持ってる性分であるだけでなく、オヤジと呼んで慕ってきた勝新太郎さんから受け継いだアンリミテッドなサービス精神に根ざしたものでもあるのでしょう。
以前に拙ブログにも少し書きましたが、そのピッピさんに数年前に偶然に(一勝新ファンとして)お会いできた機会があり、いろいろなお話を聞かせて頂いたことがあります。初対面の時は、そりゃぁビビりましたよ(笑)。私にとってピッピさんは、クールスのレコードのジャケやドラマ/映画(『警視−K』『暴力教室』とか『新幹線大爆破』..)の中の人でしたから。勝さんのマネージャーだったアンディさんから「こいつがピッピね」と紹介されたとき、「ハイ!ぞ、ぞ、存じ上げておりまス」と...多分ドモってたんじゃないかと思います。
実は私、ピッピさんに対して初対面時に「しくじり」をやってしまいました。ちょうどその少し前にピッピさんが過去に袂を別った方々..ジェームスさんやヒデミツさんたちがやっている現在のCOOLSを観に行ったことをボソっと話してしまったら、少し間をおいて言われた言葉が、
「....あ、あれね。ウソのクールス。」
この言葉を聞いて一瞬凍りついたのですが、ピッピさんは上下左右なく人と向き合う勝さんに直々に可愛がられてきた人だけあって、ファンには優しく初対面の私にも威圧的な態度など一切見せることなくいろいろ気さくに話して下さいました。
クールスについての補足ですが、原宿発祥のオリジナルのクールスは舘ひろしさん(ボス)、岩城洸一さん、ピッピさんを中心にバイクチームとして結成され、その後ロックバンドとしての活動を経て舘さんが解散を宣言した後に、一部のオリジナル・メンバーが在籍する形でクールス・ロカビリー・クラブ(クールスRC)が結成され、その流れで現在のCOOLS(2013年現在も活動中)もあるわけですが、今でもファンおよび関係者の中には「舘さんのクールスだけがクールスである!」と強くこだわっている方々がいることは理解しておく必要があります。この辺の経緯は遠藤夏樹氏によるクールス時代のピッピさんをモデルにして書かれた小説『原宿ブルースカイヘブン』(最近、文庫も出た)に詳しいですが、どちらが正しいとかの問題ではないデリケートな部分ですし、ファンや部外者が一概に”不仲”と決め付けるべきものではないでしょう。
余談ですが、クールスRC時代のピッピさんの後輩=横山剣さん率いるクレイジーケンバンドの初期の名曲「暴動」の歌詞、〜♪あの人の顔を立てれば♪この人の顔が立たない♪〜の下りを聴くたびに、尊敬する先輩たち=ピッピさんやジェームスさんの間で板ばさみになっては悩んでいたであろう若き日の剣さんを想像してしまいます。
話を戻しますが、ピッピさんは現在もオヤジと呼んで慕ってきた勝さんのことをとても大切に思っていて、今でも月に一度はお墓参りをしているそうです。いろいろ貴重な話を聞かせて頂いた中で、勝さんへの愛を感じたこの言葉が最も印象に残ってます。「オレね、オヤジ(勝さん)が『座頭市』のラストシーンとかで見せる後ろ姿、あの背中がたまんない。今でも『座頭市』の映画とか観てると”オヤジ!”って叫んで後ろから抱きつきたくなっちゃう」
聞くところによると、ピッピさんは勝さんに出会ったばかりの若かった頃、酔った勢いで本当に勝さんに後ろから「オヤジ!!!」と叫んで抱きついてしまったらしくて、それ以来、勝さんのことをオヤジと呼ぶようになったんだとか(このエピソードは評伝『偶然完全 勝新太郎伝』にも書かれている)。
山下達郎さんプロデュースのソロアルバムのジャケット写真をキッカケに勝さんに見出され、勝さん演じる賀津刑事の部下役として出演していた勝プロ製作のTVドラマ『警視−K』の放送打ち切りが決まったとき、勝さんはピッピさんに寂しげに語ったそうです。
「お前と毎晩飲みに行けなくなるのが、さみしいよ...」
ピッピさんは昨年11月、ソロ・アルバムとしては第4作『Dear Cool Japan』を発表しました。1980年代のソロ・デビューから、レコーディングされたアルバムとしては約30年ぶりのソロ・アルバムとなるわけですが、その「声」や「歌」に込められたある種の情念〜その佇まいを、あえて勝さんが演じた「座頭市」シリーズのフィルモグラフィに重ねるなら、私にはシリーズ最終作の『座頭市』(1989年作品、1979年に終了したTVドラマ版から20年後に公開された)に重なってみえて仕方がありません。
ピッピさんも長年オヤジと呼んで慕ってきた勝さんが逝去した年齢に近づきつつあるわけですが生涯現役。
今後の活動にも注目して行きたい、It's only Rock'n Roll Do it!
(いろいろと書ききれないので次回に続きます、たぶん)
2013年03月16日
3・11から2年目の心象風景と『ブラック・レイン』
そういえば最近、SMAPって見なくなったなぁ...と思っていたのですが、よく考えてみたら(たぶん)彼らの人気やメディア露出が低下しているわけではなくて、自分がTVをあまり見なくなっているからだと気づきました。昨年末(2012年)においては世間的には恒例のレコード大賞とか紅白歌合戦とか、どこかの遠い国のニュースよりも興味が無いものになってしまっていて、単に自分がオッサンになってきてるのが原因でアイドルや流行に興味・関心が無くなっているというだけでなく、TVメディアの情報への依存度が低くなっているのも事実です。「何をキッカケに」ということでもありませんが、それでもやっぱり一昨年の3/11の東日本大震災の時期を境目にTVを見なくなったというのはあるでしょう。
何も今さら「ひな壇にタレントが並ぶTV番組がくだらない」とか「TVもマスコミもウソばっかりだ!」とか「俺は覚醒した!B層とは違うぞ!!」などと声高に叫ぶつもりはありません。私の場合、どちらかというと元々がヒネクレ者なので「マスメディアの情報が正しいとは限らない」というのは昔から思ってきていることではありますが、だからと言って極端な部類の(明らかにインチキ臭い)陰謀論にハマるほど、もう子供でもありませんしね...
こうなってくるとメディアに流れるニュース情報やドラマ/映画(特に製作費が巨額なもの)の殆ど全てがある種の情報&感情操作や世論誘導=プロパガンダにしか見えなくなってしまう....というのはちょっと言い過ぎかもしれませんが、「プロパガンダ的な臭い」を感じてしまうことが多くて、何と言うかまぁ...非常に気持ち悪い。安心してアイドルが頑張る姿も応援も出来ません。安心して見られるのは昔の映画や再放送のドラマ(80年代以前)だけ、という状態に。「それってやっぱりオッサン化してるだけ」だって?...言いたい人には言わせておけばよろしい。
しかし、そのように気づいたところで真実には容易に近づけないという状況は何も変わらず、TV(だけでなくラジオや新聞も)を見れば見るほど「正しい情報であるかわからない」ということを強く意識させられるようになるという皮肉な面があり、そういう見方をしてると疲れる...みんなそういう風に「疲れる」のがイヤだから(無意識的に)複数メディアから流れる情報=多数決的な情報・論調に乗っかってしまうのですね。
そういえば先日、某国が地下核実験で人工地震を起こしたという話が「正式」な「表側」のニュースとして報道されてました。「東日本大震災は人工地震だった」「破綻寸前の某金融大国の黒幕が仕掛けた戦争である」「TPPも黒幕が経済的な支配/略奪を行うための策略である」という説を現在も熱心に伝えようとしている人たちがいます...それらの説を全て支持すると大きな声では言えませんけど、個人的に仮説として否定はしません。
まぁ人工地震の真偽はさておいて、TPPは黒幕のいる陰謀なんだろうな(TVマスコミが報じない農業&関税以外の項目があるという)...雑な言い方すると悪い意味での日本の更なるアメリカ化...1%の富裕層が99%の低所得層を支配するあの国の状態に日本を取り込もうってことなんでしょう。
話は変わって、この間、久々に映画『ブラック・レイン』(リドリー・スコット監督 1989年作品)を観ました(DVDもBru-Rayも持ってるが映画館の上映を観に行った)。『ブラック・レイン』は松田優作さんの初ハリウッド進出作品であると同時に劇場公開映画としては遺作となった作品で、20年も前の映画ですが全く古臭さは感じませんでした。それはこの映画が普遍的なテーマを描いている傑作であることの証明とも言えるでしょう。
知らない世代の人に『ブラック・レイン』のストーリーをざっくり説明すると、アメリカのハミ出し刑事(マイケル・ダグラス)が日本から来た極悪ヤクザ(松田優作)を追い詰める話で、日本の任侠道の世界の中での伝統を重んじる勢力と新興勢力との抗争、アメリカのハミ出し刑事と日本の堅物刑事(高倉健)とのでこぼこコンビの友情を軸に、にせドル札製造の犯罪を追跡するクライム・アクション大作です。
私はガキの頃から松田優作さんのファンだったので、20年前〜10年前は優作さん演じる悪役=サトーに肩入れして観ていたのですが、今現在の年齢&心境で観ると優作さんよりも、高倉健さん演じる松本刑事、更には若山富三郎さん(以下、先生)演じる大親分=菅井組長に感情移入してることに気づきました。以下に映画での若山先生=菅井大親分の名セリフを引用してみます。アメリカのハミ出し刑事(M・ダグラス)が日本でのサトー(松田優作)の追跡に一度失敗し、強制送還されそうになりながらも、単独行動でサトーを追跡する手がかりを得るため菅井大親分(若山先生)の懐に単独で飛び込んだきた時に語りかける言葉(セリフは英語、日本語訳はDVD字幕を参考にした)。
サトーはアメリカ人と同じさ
信じるものは、ただ1つ
カネだ
10歳の時、B29(米軍の爆撃機)がやってきた
おれは家族と一緒に3日間、防空壕に避難して暮らし、
出てきたら街は(爆撃で破壊され)消えていた
燃える炎は雨を呼び降らせた
黒い雨(ブラックレイン)だ
お前ら(アメリカ人)が「黒い雨」を降らせ、
お前らの価値観を押し付けたせいで
我々(日本人)は自分を見失い
サトーのような奴らが大勢生まれた
だから、その仕返し(にせドル札製造)をしてるのだ
おれは仁義と名誉を重んじる男だ
時間があったら、それがどういうものかを
お前に説明してやるんだがね
菅井親分の中で第二次世界大戦はまだ終わってないのです。おそらく彼の目から見た大戦後〜現代の日本は、戦勝国であるアメリカ合衆国に支配された植民地であり、戦後に生まれ育った日本人はアメリカ文化に「洗脳」された状態であるため、その状態に気づけないで大国の都合のいいように利用され続けている...あなたは大親分の菅井さんを「なんてアナクロ(時代錯誤)な人なんだ!」と笑えるだろうか?私には笑えない。それは我々が生きている日本社会の現実の姿ではないのか?とさえ思う。日本は独立した民主主義国家のふりをさせられているだけではないのか?...いや、これは妄言(笑)。
仮に「植民地」というのは言い過ぎだとしても、文化や経済の「グローバル化」という体裁のいい言葉の背後には、力が強い側からの「乗っ取り」という側面が実際にあるからで、米軍基地問題にしても経済的協定においても力が強い側に有利になるように圧力がかけられたり、根回しが行われているようにしか思えない部分があります。
「にせドル札製造」は明らかに違法な犯罪行為であるし、褒められたものではありませんが、複雑怪奇なしくみの金融商品を開発したり、バクチみたいな投機によって暴利をむさぼる人たちと一体何が違うのか。価値の実体が伴わないカネ(貨幣)を作り出して利益を得るという点においては同じではないのか?
今ここでアメリカの政治(&金融)批判をしようというのではありません(私は勉強不足なので、そっちのスジの詳しい人たちにお任せしたい)。もはやアメリカという国に対して憧れる部分は全くありませんが、庶民レベルの人情感覚は我々日本人と大きくは変わらないはずで、仲良くしたいだけなのですよ。これは中国や韓国に対しても同じ、マスコミに煽られて敵意を燃やしたりしてる場合でないぞ、と。まぁ、近頃はそんなことばかり考えていたりして、「つっかえているもの」を吐き出さないと映画ネタや見世物追っかけネタも書けません...自分で言うのもアレですがバカ正直な性分なので。
・どうやったら誇りを持って生きて行けるのか?
・どうやったら歴史を正しく知ることができるのか?
・祖先はどんな暮らしをしてきたのか?
・祖先はどんなものを食べてきたのか?
・祖先はどんな考え方をしていたのか?
なんだかマジ話しちゃったなぁ...だって住んでる国や社会が明らかにおかしくなって行ってる様子や、マスメディアの報道の偏りを肌身で体感してるのに「アイドルが可愛い!」とか「今度のライダー、面白くない」とか能天気なことばかり書いていられないじゃん...イイ年したオッサンがさぁ。
2012年12月17日
2012年 秋の見世物小屋を追う+ドキュメント映画『ニッポンの、みせものやさん』
新宿は花園神社にて、先の11/7〜11/8は一の酉、11/19〜11/20は二の酉ということで前夜祭〜本祭に見世物小屋が出てたということで、例によって拙ブログ定例の見世物小屋見物メモでございます(写真は飴細工職人の坂入さん)。入方勇さん率いる入方興行が廃業(詳細は拙ブログのこの辺を参照)してしまった今、日本で見世物小屋を行うのは大寅興行の一社だけとなりました。そんな先細りのイメージとは裏腹に、連日にわたって大入りのお客で賑わっておりました。
毎年観に来るリピーターのお客だけでなく、今年は大寅興行を取材したドキュメンタリー映画『ニッポンの、みせものやさん』の公開告知もあってか、新たにお客も呼び込んでいるようです。ずっと何年も前から花園神社の見世物小屋の出口のところで大寅興行の裕子姐さんと並んで立ってる「謎のお兄ちゃん」がいるなぁ・・と思ってたのですが、あの人が実は今回のドキュメンタリー映画の監督さんだったことを初めて知りました。
普段はアクセスのが少ない拙ブログも、見世物小屋が出てる期間はアクセス数が増えるのですが、今回は最大で一日500件を越える伸び(新記録)。かつて在りし日の入方勇さんがTVに出た直後の検索によるアクセス数が200件台だったので、一時的かとは思いますが今年は見世物小屋見物への関心が高まってることが伺えます。
私も何年か前に初めて入方勇さんの見世物小屋に出会ったときなんかは「今どき、見世物小屋があったのか!!」という驚きの気持ちで一杯でしたが、いつしかリピーター化して季節の風物詩的に捉えるようになりました。お正月に初詣に行って新年が来たことを実感するように、11月の酉の市の見世物小屋を見ないと年末が近づくのを感じられない体になってしまってるようです。拙ブログにおいて、この数年は定点観測的に見世物小屋の見物メモを記してきていて、最近はほぼ毎回同じようなことばかり書いてる気がするのですが、今後も故・入方勇さんの話を出して偲ぶことにしようと思います。本当に滅亡寸前である見世物小屋に若い太夫(芸人)さんを呼び込み、実質的に見世物小屋の人気を復活(維持)させる役目を果たした入方さんの功績は大きいと思うからです。
ネット上の動画サイトには、入方さんが自ら主宰する入方興行の小屋での動画撮影を許可していた時代の動画が多数アップロードされてますので、ご興味のある方は探してご覧になるのも一興と思います。
さて、能書きは置いといて見物記の本題に入りましょうか。
ハイ、今年も出ておりました。花園神社の見世物小屋。「日本で最後の見世物小屋」とは言われてますが、結構な盛況ぶりでした。今年は一の酉、二の酉とも平日だったので20時台を過ぎた時間帯しか行けず、早めの時間帯に行われる演芸(ワンちゃんの曲芸など)が観られなかったのですが、お峰さん、小雪さん、ピョン子ちゃんのそれぞれの持ち芸が堪能できました(時間帯や芸人さんのコンディション等で演目は変わったりします)。
連日大入りの盛況ぶり故に、入り口で少々待たされることにもなるわけですが、呼び込みのお姐さんの口上の巧さ&面白さで少しも退屈はしません。立て板に水の如くの見事な呼び込み啖呵なわけですが、そこには長年のライブ興行で鍛え抜いてきた決めのセリフあり、時事ネタ&芸能ネタの盛り込みあり、お客さんとのアドリブの掛け合いあり、と芸能&営業の原点をみる思いです。
花園神社の見世物小屋は小屋の内部の(取材許可のない)撮影は禁止ですが、私は時々こっそりと録音してます(あくまで個人で楽しむ目的)。かつて小沢昭一さんが日本各地の放浪芸&伝統芸の音声や映像をフィールドワーク的に取材し記録に残したように、いつか見世物小屋がなくなってしまったときに(あくまで個人な)貴重なお宝になるだろうとの思いがありましてね。
話は逸れますが、先日に小沢昭一さんが逝去されました。実は私、TBSラジオのお昼の「小沢昭一の小沢昭一的こころ」は毎日録音して聞いてるリスナーでして、何年か前に「小沢さんも永遠に行き続けるわけじゃないんだよなぁ..」と思って以後、録音した音声データも消去せずにハードディスクに保存してましたが、もう新しいネタが聴けないのかと思うと寂しい限りです。謹んで小沢昭一さんのご冥福をお祈り致します。
見世物小屋に話を戻しましょう。なんだかんだ言いまして、今年は一の酉〜二の酉の興行のあった全4日通ってしまいました。私が行った時間帯の演目は以下でした。
●お峰さん:大火炎噴射
何十本も束ねたロウソクに火をつけて、流れ落ちる熱い溶けたロウを口の中へタラリ、タラリと流し込む。そして口に中に溜まったロウを一気に吹き出して火をつけ大火炎を噴射!..いつもより多く噴いております!!、の名人芸の領域(写真は昨年の週刊誌に載った記事)。映画『ニッポンの、みせものやさん』においては、お峰さんの素顔やインタビューを出すのは一切なし(取材禁止された)とのことでしたが、それでよいと思います。お峰さん&小雪さんの師弟は舞台上では言葉を話さないキャラで通してきてますので、覆面レスラーの素顔を見せるようなことはしないのが正解なのです。
あと何年見られるかわからないお峰太夫の芸...だなんて言うと行く末さびしい気持ちにもなってしまいますが、見られる限りは見ておきたい、今年も見られてよかったと思うのであります。
●小雪さん:悪食の実演(ヘビ)/口中鎖の使い分け
うっとりとヘビをみつめ、ペロペロペロ〜っと舐め回した後、ガブりっと食いついて食べてしまいます...字で書くとたったこれだけなのですが、年を追う毎に「間」や「タメ」は堂に入ったものになり、どの角度から眺めてもフォトジェニックな芸になっている部分に小雪さんの芸の「進化」が伺えます(写真は7月のみたままつりの時のもの)。映画『ニッポンの、みせものやさん』では、何年か前の小雪さんの悪食芸が映像に記録されてますが、それと比べても格段に色気や妖気のようなものが増していることが実感できました。
そして、鎖を鼻から口へと通してのあんなことや、こんなこと...挙句は水の入ったバケツを持ち上げるという荒業。かつて、お峰太夫はヘビを鼻から口に通す芸を見せていたという話を聞いたことがありますが、形をかえて小雪太夫が継承しているのですね。
●ピョン子ちゃん:悪食の実演(ニワトリ)/口中火炎の使い分け
口の中にロウソクの火を入れ、だんだんとロウソクの本数を増やして生き、最後に大きな炎を口で消す..という十八番の芸を披露してた日もありましたが、今年は新しい芸=生きたニワトリ〜生のニワトリを食いちぎるというエグい芸を披露してました。世代的にはなんだか、オジー・オズボーンがハトやコウモリの首を食いちぎって食べたというエピソードも思い出したり。何年か前に入方興行の見世物小屋でデビューしたアマゾネス・ピョン子ちゃんは、今やすっかり大寅さんの見世物小屋での人気者になり、ムードメーカー的なポジションを確立してきてますね。
その他、箱からいろんな物を取り出すマジックに(お峰さんも飛び出すよ!)、恒例の大蛇ショー(脱皮した抜け殻を金運のお守りに配るサービスあり)と本当にまぁ、大寅のお姐さんたちはヘヴィーなローテーションで頑張ってました。最終日は舞台上でMC(説明口上&進行)を勤める、よし子姐さんの声がガラガラになってしまってて、一緒に行った友人とノド飴を差し入れしたりして(気持ちだけでも)サポートさせて頂きました。
●映画『ニッポンの、みせものやさん』
花園神社での今年の見世物興行が終わった後、新宿K’sシネマにて大寅興行を取材したドキュメンタリー映画『ニッポンの、みせものやさん』が公開されたので、初日に観てきました。監督の奥谷洋一郎さんという人は、大寅興行のオバケ屋敷のバイトで働いたのを縁に、いつの日か無くなってしまうであろう見世物小屋を記録に残す決心をして、この10年ほど大寅興行に同行して取材&撮影をしてきたという奇特な(エラい)人です。冒頭に書いた通り、いつも大寅さんの見世物小屋の木戸銭を払う出口のところに裕子姐さんと一緒に立っていた人で、勝手に「謎のお兄さん」と呼んでましたが今回初めて謎が解けました(笑)。
ドキュメンタリーだからといって何でもかんでも踏み込んで撮影しているわけではありません。大寅興行の方々には彼らの仕事における誇りと美学があり、「裏側なんてお客さんに見せるもんじゃない」「見世物屋が見世物にはなりたくない」という彼らに対し、どのように向き合うか?、世間に対してどう伝えるか?...奥谷監督はきっと悩みに悩み考え抜いたのだと思います。
結果として、見世物小屋の裏側を見せる部分よりも、大寅興行の人たちだけでない仮設興行を生業とする人々のつながり〜古くから続いてきた興行師の世界という部分にフォーカスを当て、日本の社会における見世物小屋〜仮設興行の立ち位地というものに真正面から向き合う作品となったように思い、個人的にその点は好評価してます。
仮設興行の世界というのはいわば(昔の侠客的な)渡世人の世界であり、親のまたその親の代の昔からのつながり、興行を行う土地土地の親分衆と杯を交わして義理と人情と掟(悪く言えば古いしきたりとしがらみ)の世界に生きる人たち...大寅興行の見世物小屋のお姐さんたちは現代に生きる数少ない昔からの渡世人〜興行師の末裔なのでもあります。
お祭りという場は、現代に生きる渡世人的な稼業の人たちに出会える時間&空間であるということなのですね。
来年も彼女たちに会えますように。
2012年09月26日
2012年 新カツシン研究・序説
以前、このブログにて勝新太郎さんと生前懇意にされていた一部の関係者の方々と面識ができたという旨の話を書かせてもらったことがありますが現在も少しながらご縁はあり、先の7/29には渋谷で行われたピッピさんこと水口晴幸さん(ex.クールス、クールスRC)のライブを観に行ってきました。行ったその場で、勝さんの付き人・マネージャを長年に渡り務めてきたアンディ松本さんとお会いすることができ、先に勝さんの命日である6/21に墓参りをしたことを伝えると大変に喜んで下さってました。
ピッピさんには直接お会いしてのお話はできなかったのですが(さすがに楽屋に押しかけるほどの顔じゃないので)、ピッピさんは客席フロアーにいた私を見つけて、私にだけわかるようにメッセージを送って下さいました。どういう風にメッセージを送ってきたか...「それは秘密だ(勝さんの声色で)」ということにさせて下さい。
「おお、今日はよく来てくれた。いつもオヤジ(勝新太郎)のことを大事に思ってくれていて、ありがとうな!」...というピッピさんの心の声が、確かに私には聞こたのです。
それにしてもステージに立つピッピさんはいつも通りパワフルで全くエッジが衰えてません。この秋に還暦を迎えるようには全く見えません。流石!生涯現役!!、横山剣さんのセンパイ!!!、シビれるぜ。
さて、すこしばかりアンディ松本さんの話をさせて頂きます。眞田正典さん(元・勝プロ常務/プロデュ−サー)が勝新ファンには広く知られているのに比べると、アンディさんに関してはコアな勝新マニアの間でも知っている人は多くはなく、昨年に田崎健太さんが出した勝新評伝『偶然完全 勝新太郎伝』でメジャーな出版物としては初めて紹介されたのではないかと思います。
しかし、『偶然完全』に書かれているアンディさんの人物描写はなんだか、私が直接お会いしてお話を聞かせて頂いてるアンディさん自身とは大きく印象が異なります。
以前にAV監督の村西とおるさんがアンディさんのことをWEB日記に書かれていたものがあり、現在もサーバ上に存在してるようなのでリンクを貼ります。長い文章ですが中盤ぐらいに「私の知っているアンディさん」の話が出てきます。
『偶然完全』を読んだ人ならば、同じエピソードも書かれてるのに気づくと思いますが、ニュアンスが全く異っているのがわかるでしょう(長い文章の中盤ぐらいに勝さんとアンディさんの話が書かれてます)。
【村西とおるさんの日記 リンク】
アンディさんは勝さんが逝去した後はしばらく中国の上海で事業をして暮らしこられ、昨年から日本に戻られたのだそうです。そして何らかの形で”オヤジ”と慕ってきた勝新太郎という人物のまだまだ知られてない面を語り伝えていきたいという熱い考えを持ち続けていて、いつか本に出せるように原稿を書き続けているとのことでした。
アンディさんが言う勝さんの「まだまだ知られてない面」とは、勝新太郎=奥村利夫という人の非常に哲学的な部分であるといいます。ある時、アンディさんが日々、生で聞いていた「勝新語録」に感じる哲学的な面を追及していったら、中村天風(日本に初めてインド哲学/ヨガを紹介し独自の実践的哲学を説いた人物)に辿りついたと仰ってたことがありました。中村天風と勝新太郎の語っている言葉に共通する部分を多くみつけたとのことです。
また、勝新太郎が座頭市の殺陣で悩んでいた際、植芝盛平(言わずと知れた合気道の開祖)からある種の「極意的な教え」を授かったという話もあり(自伝『俺、勝新太郎』にサラっと書かれてる)、勝新と植芝翁が接した時間(期間)は長くないと思われますが、天才肌の勝新ですから「一を聞いて十を知る」如くに伝授/体得したであろう「氣」「心」というべきものが座頭市シリーズでの所作〜殺陣(アクション)に反映されている...という私的な直観があります。
勝新太郎という人の演技(存在〜所作〜佇まい・・諸々)に心を揺さぶられるのはなぜか?と1ファン/1マニアとして考えた場合、あの肉体を通じて我々に見せているのはある種の「心のあり方」「心の持ち方」「心の動かし方」かもしれず、まず「心」ありきで肉体が後を追うように動いているのではないか?、それが例え映画というフィクションであっても、ある種の「氣」の動きと連動した肉体の動きを見せているのかもしれない...という捉え方。
中村天風や植芝盛平という人たちについて調べ始めると、神秘めいた伝説的な話がいろいろ出てくるので、追えば追うほど深みにハマり真相が見えなくなる面もあるのですが(植芝翁は大本教の出口王仁三郎ともつながりがある)、1つの可能性として考えられるのは勝新太郎という人は洋の東西問わず、近代以前から人間が持っている「普遍的な感覚」を持ち合わせていた、そういう「ある種の極意的な情報」に無意識的につながる感覚を天才的に持ち合わせた人物だったのではないか?...
その線で追求して行くと、植芝盛平と中村天風という2人の巨人に同時に師事した「心身統一合氣道」の藤平光一という人物にたどり着きます。藤平氏は合氣道のフィジカルな技術を植芝盛平に学び、その背後(深層)にあるべきメンタルな部分=「心」の動かし方〜「氣」の出し方を中村天風に学んだという稀有な人物で、あの王貞治さんのスランプ時に直接指導し、一本足打法を生み出すキッカケを与えた人物としても知られています。
藤平氏の説く「心身統一」の根幹にあるのは「人間は天地自然と一体」であるという思想で、こういう話になると神秘思想やオカルトめいた話として受け取られがちなのですが、それは今風の言い方をすれば、人間は肉体というハードウェアだけで動いているのではなく、「心」というソフトウェアで動いているのであって、まず「心」ありきで、「心が体を動かす」という考え方と言えるでしょうか。それも決して、俗にいう精神論や根性論に収まらない実践手段として説くところが、藤平氏の思想の奥深く興味深いところです。個人的な見解としては(想像&妄想も入ってますが)、この話のベクトルの向かう先は佐山サトル師(=初代タイガーマスク)の提唱する「掣圏真陰流」の根幹にある思想や、佐山師の催眠術の師匠でもあるドクター苫米地が著書や雑誌(「KAMINOGE」など)で言っている「格闘技や音楽における抽象的な情報空間をコントロールする技術」の話に、地続きに(あるいは電波的に)つながっているように思えたりもして、「まだ知られざる勝新太郎」というテーマを読み解く鍵にも思えたりするわけですが...
現時点で経験/体験を伴わない言葉で語るのは難しいし誤解も生じるので、この辺はもっと考察&洞察が必要...
勝新太郎という人物に関して世間に流布している情報は大まかに分けると2種類あり、1つは最近では吉田豪さんあたりが面白可笑しく紹介する「大スターの破天荒&豪快伝説」的なもので、もう1つは春日太一さんの著書などにより注目されつつある「クリエイターとしての勝新」を真面目に再検証するものに分けられるでしょう(勝新語録に哲学者ニーチェの言葉を重ねた市山隆一氏の『私論・勝新太郎』も重要)。その「破天荒な大スター」と「前衛的なクリエイター」というそれぞれの面は勝新太郎=奥村利夫という人物が世間に対して見せてきた姿であり、その「間」を補完する情報をすくい上げる役割を果たしてきたのが、根本敬さん&湯浅学さんの名盤解放同盟での勝新レポートであったというのが、私の個人的な見解です。その「間」の部分にはまだまだ知られてない未知の言語化できない「ある種の情報」が膨大に隠されている気がします。
それは「隠されている」という言い方よりも、「目の前にあった」のに「気づけなかった」というのが適切かもしれません。今、改めて勝新太郎が作り上げた作品や残した言葉から、今まで気づかれず埋もれていた部分に光を当て、言語化してみたり、感じてみたりするという作業は大きな意義があり、普遍的であるが故に終わりのない、今後の勝新研究の私的なテーマになってきています。
勝新太郎という人物は、世間一般の尺度で物理的/経済的/唯物的な観点からみれば、映画制作の事業には頓挫し、経営的に破綻した人なのかもしれません。真似のしようのない破天荒/天衣無縫な生き方をした部分だけが大きく取り沙汰されがちではありますが、その宇宙観/世界観/人生観/人間観〜「心の持ち方」「心のあり方」には学ぶべきことも多くあるはずで、受け取る人によっては混迷するこの世界で明日も生きる希望をもつキッカケにもなり得るはず、というカツシンが...
...もとい確信があるのです。
あ、つまんないダジャレ言っちまった。
2012年08月05日
2012年 夏の見世物小屋を追う(靖国神社みたままつり)
7月13日〜16日は靖国神社みたままつりでした。例によって当ブログ恒例の見世物小屋の追っかけメモです。普段は大してアクセス数のない当ブログですが、見世物小屋の興行が行われる時期になるとアクセス数が増えていることに最近気づきました。見世物小屋&小雪太夫を追いかけ続け、いつしか「意地」を通り越した「使命」のようなものを胸に抱きつつメモし続けてきてましたが、冷静に当ブログの見世物レポ(「風俗・都市伝説のカテゴリ)を読み返してみると、この数年間の見世物小屋を定点観測的にレポートした記録(アーカイブ)のような役目を果たしている面があるようです。だからと言って特に思いを新たにすることもないですが、読んで頂けるのはありがたいことです。
毎年、見世物小屋の小雪太夫の新しいファンもそれなりに増えていると思いますし、偶然に興味を持って当ブログに辿りついた方もいるかもしれないので、この数年の背景と流れを少し説明致します。
2012年の時点、(私の知っている範囲で)見世物小屋が出るのは6月は札幌の中島公演、7月は靖国神社、9月は福岡の箱崎宮、11月は新宿の花園神社ですが、数年前まで(2009〜2010年頃)は5月の府中の大国魂神社、10月の川越の蓮馨寺、12月の浦和・調神社でもやっていました。
上記の各地のお祭りでオバケ屋敷(大寅興行)の隣で見世物小屋を行ってきたのは入方勇さん率いる入方興行でしたが、入方勇さんが2010年の秋に亡くなってしまい(拙ブログのこの辺を参照)、現在残っているのは大寅興行の1社のみとなっているようです。大寅興行としての古参の芸人さんが出る見世物小屋が立つのは11月の新宿・花園神社で、一部の好事家筋のファンの間ではもうそこでしか見られないのかと心配されましたが、入方興行が活動してた頃から見世物小屋で時々、小雪太夫の前座を務めてきたデリシャスウィートスのサポートで6月、7月、9月の(おそらく大寅興行名義で)興行を行われてきてます。デリシャ主宰のチャーマァさん、あんた本当に男だ!!(女だけど)。
そういう背景があるので、靖国神社みたままつりには今年も「例年通り、当たり前のように」見世物小屋が出てはいたのですが様々な紆余曲折があり、入方勇さんという人が頑張って続けてたから今があるということを知って頂きたく、長い前置きをした次第です。
能書きは置いて本題に入りましょうか(※ 写真は2009年のみたままつりでの入方興行の見世物小屋の1コマ )
ハイ!今年も出てました、みたままつりの見世物小屋。小屋の外での呼び込みは活弁映画監督としても知られる山田広野さんが務めてました。まずは小屋の外での呼び込み口上をゆっくり聞きましょう。小屋の中の芸人さんが手を振ってくれたりするのに応えながら、小屋の中に入る前の「間」を楽しむのもよいでしょう。今年の見世物興行はデリシャスウィートスと小雪太夫の2部構成。披露される演目は夕方から深夜までエンドレスに回り、時間帯や芸人さんのコンディションなどによりその時々で変わりますが、早めの時間帯(16時〜17時)に行くとデリシャの各メンバーの唄に踊りに小マジックが多めに観られますよ。
小屋の内部は昨年に続き、写真(静止画)の撮影はOK、動画の撮影はNGという現実的にファンの要望に応じる配慮がされた感じでした(注:花園神社の見世物小屋は取材等の許可のない撮影は禁止です)。
デリシャの皆さんは小雪太夫の前座として見世物小屋の舞台に立ってきた以外にも、グループ独自でのコケットショウをやったり、で寄席の舞台(浅草・東洋館)にも立って場数をこなして鍛えられているせいか、以前にも増して各メンバーのキャラが立って、デリシャでしかあり得ない存在感に磨きがかかってます。デリシャ・パートは歌に踊りに小マジックに曲芸(風船丸呑みもあり)、そして司会進行を務める佐藤梟さんの話術とお客いじり。彼女の喋りやお客いじりは本当に毎度ながら見事なものです。また、お客が少ない時には梟姐さんの話芸&お客いじりが炸裂するのも見所です。
「そこのお2人はカップルなの?」「あら、そうじゃないの、お友達?」「な〜んだ、付き合っちゃえばいいのに!!」とイジられた男女のお客さんの中には、本当に付き合いだしてカップルになっちゃったりする人たちもいるのかもしれません。そういうことがあってもいい...というか、お祭りとはそういうもんなんでしょう
そして、満を持しての小雪太夫の登場です。今年も沢山の彼女に会いたかったファン、彼女の芸を心待ちにしてたファンが集まりつつも、新たなファンも年を追う毎に獲得しているようです。言葉を話さない小雪さんの代わりに舞台上で説明口上を行うのは亡き入方勇さんに代わり、今年は沢田王子さんが担当されてました(井口昇監督の映画の常連俳優・石川ゆうやさんとしても知られる)。チェーンを鼻から口に通しての「あんなこと」や「こんなこと」、生のヘビで「あんなこと」や「こんなこと」に「そんなこと」までしちゃいます....はい、平たく言うと食いちぎって生き血を飲んで食べちゃいますが、今回も何度か足を運んでヘビが生きたままの状態から実演する回に当たりました。ご利益あるかもです。
ファンにとってはすっかり十八番となった小雪さんの芸ではありますが、芸を披露する時の見せ方や醸し出す雰囲気は、今や彼女にしか出せない領域に達しつつあるようにも思います。そして、どの角度から見てもとってもフォトジェニックなのです。
一通り見終わって、お代は¥700ポッキリ。今年も例年通りに、当たり前のように、出ていたように見えた見世物小屋ですがいつまで見られるかは本当にわからないものであることを忘れちゃいけません。今年も観られてよかった、これで私は無事に夏を迎えられるのであります。このデリシャスウィートスと小雪太夫の見世物小屋は9月、福岡県は筥崎宮の放生会(ほうじょうや)でも興行するようですので(情報源はデリシャのホームページ)。九州地区の好事家・見世物ファンの皆さんには見られるうちに見ておいて頂きたいと思うのであります。
【今年の見世物小屋の興行のあった/あるだろう情報】
●6月 北海道札幌市 中島公園 札幌祭り
●7月 東京都千代田区 靖国神社 みたままつり
●9月 福岡県福岡市 筥崎宮 放生会
●11月 東京都新宿 花園神社 一の酉、二の酉
※ 5月の府中市くらやみ祭り(大国魂神社)、10月の川越祭り(蓮馨寺)、12月の浦和の十二日市(調神社)では大寅興行さんのオバケ屋敷が出てます。
2012年07月07日
変身ヒーローは何と闘ってきたのか? 『仮面ライダーオーズ』と経済人類学
「ヒーロー仕掛け人=シンイチロー」と言ったら、多くの特撮マニアの人は東映の白倉伸一郎氏(『真・仮面ライダー』『仮面ライダーアギト』他、代表作/ヒット作は多数)の名を思い出すでしょうか。白倉氏は変身ヒーロー番組の製作者として以前に出した著書『ヒーローと正義』(子どもの未来社 2004年)の中で、そもそも「正義」というものが一元的に描けるものでないという前提で、現実社会で起きた「正義観」をゆさぶる事件(オウム事件、酒鬼薔薇事件、9.11テロなど)が社会に与えた影響を例に上げて、共同幻想(=ファンタジー)でしかない「正義」とは何か?という命題を現実社会に呼応するかたちで考える必然性に迫られていることを述べていました。
(著書から抜粋引用)
わたしたちが「これが正義だ」と漠然と考えているようなものは、<正義>なんて高尚なものでもなんでもなく、ただの感情論や感覚論にひとしい。
(中略)
巷間「正義の不在」なんていうけれど、昨日今日いきなり不在になったわけではなく、はるか昔から正義は不在だったのだ。
(中略)
正義だの道徳だのをめぐる言説は、そうして、つねに<だれかよその人>の問題であり続け、性悪説であり続け、わたしたち大衆を管理したい側にとっての都合のいい裏づけであり続けてきた。
それでも、子供向けの「ヒーロー番組」において、ストーリーに何らかのメッセージを込めて製作することは今に始まったことでなく昔からも行われてきてはいて、子供のころに観た作品を大人になってから見直して、忘れていた「メッセージ」を思い起こしたり、気づけなかった部分を再発見したりできることが「大人のマニア」の特権でもあります。
さらに、一ファンとしてそういう目線に立って「今どきのヒーロー番組」を観ることは、「人間とは何か?」「正義とは何か?」という命題を、製作者側の人たちと一緒に考える作業とも言える........まぁ、実際はただ好きで観てるだけなのですが、これぐらい理論武装しておかないと「イイ年して特撮ヒーロー番組観てるなんて、キモい人」と言われちゃうからなぁ(笑)。
そして、もう一人の「ヒーロー仕掛け人=シンイチロー」と言ったら、拙ブログでこのところ注目し続けてる経済人類学者の栗本慎一郎氏です。昭和のライダーをリアルタイムで見てたファン(今はオッサン)で、80年代のニュー・アカデミズムのブームを知ってる人なら、栗本氏が昭和の第1次ライダーブームに関わってたという話を聞いたことがあるかもしれません(私はたしか、中学の頃に糸井重里氏との対談か何かを読んだ)。(1)ライダースナックのオマケの「ライダーカード」を発案したのは栗本氏だった(注:恐らく単なるトレカでない、番組連動のメディアミックス戦略としての発案と推測される)
(2)初期のライダー1号=本郷猛が変身するまでの長いプロセス(バイクで疾走してベルトに受けた風圧のエネルギーで変身)から、「ヘンシン!」の掛け声一つで短くするように変えるアイデアを出したのは栗本氏だった
上記の真偽および詳細事情は深追いしません(藤岡弘、さんの大ケガによる一時降板〜佐々木剛さんへの主役交代の事情もあり各関係者がいろんなことを言う..)。それっきり仮面ライダーと栗本氏の間には一定以上の距離が空いたままだと思ってましたが、平成の時代になってライダーの側から栗本氏(経済人類学)に歩み寄ったかのようにみえた作品がありました。それが『仮面ライダーオーズ』でした。
私の現時点での解釈は、『仮面ライダーオーズ』は「経済人類学」における「貨幣」の問題に向き合おうとした作品だった、栗本氏の「パンツをはいたサル理論」でいうところの「貨幣という名のパンツ」と闘うヒーローだったと考えてますが、そういうことを論じてる人は誰一人として見当たらないので「ならば、オレがやらねば!」と思った次第です。
昭和の時代から始まった「仮面ライダー」シリーズが平成の時代になって復活し、新たなファンを獲得して再びブームを起こしているのは言わずとも知れたことですが、ここまで続いたなら一つの「サーガ」といってよいでしょう。
長きに渡るサーガにおいて、仮面ライダーが闘ってきた敵は何者か?と冷静に振り返ると、表向きは子供番組ですがその根幹&背景には作られた時代の国際情勢や歴史認識(幻想含む)が反映されていることが伺えます。
1971年(昭和46年)の第1作『仮面ライダー』でライダー1号が闘ったのは、ショッカーという人類支配を企む秘密結社でした。劇中においてはナチスドイツとの関わりが示唆されたり、肉体的に優れた人間を拉致して改造&洗脳して(怪人化)、行われる作戦や計画には優秀な肉体と頭脳を持った人間による支配という「選民思想」が垣間見えることは、多くのファン&マニアには知られたことです。時代背景的には第二次世界大戦の終戦(1945年)からまだ26年後で、日本国内(の表向き)は平和を取り戻し上向きの経済成長をしていた時代だったので、「ナチス(のような組織)の残党が今も人類支配を企んでいる」という陰謀論が、現実とフィクションの境界を曖昧にする「装置」として有効に機能していたと考えるべきでしょうか。
基本的に昭和ライダーのシリーズはこの路線のマイナーチェンジ(バージョンアップともいう)に見えますが、特筆すべきは『仮面ライダーX』です。Xライダーが戦う組織の「GOD機関」はTVシリーズの第1話において、「GOD機関とは、世界の対立する大国同士が密かに手を握り、改造人間を使って日本全滅を狙う恐怖の秘密組織である」とナレーションで説明されます。
時代背景から考えると「対立する大国」とは冷戦状態にあったアメリカとソビエト連邦で、「改造人間」を諜報機関に養成されたスパイ/工作員に置き換えると現実世界の話と重なり、表向きは対立している2大国を裏で束ねる黒幕がいるという部分で「影の世界政府」的な陰謀論に接近してゆきます。昭和の時代の最終シリーズ『仮面ライダーBLACK RX』(1989〜1990年)は、東西冷戦時代の末期で、アメリカではレーガン大統領がSDI構想(俗に言うスターウォーズ計画)で「核の抑止力」に変わる軍事戦略を打ち出そうとした時代に重なります。
なんでも、このスターウォーズ計画(俗称)に関してレーガン大統領は「宇宙からの侵略者」に対する地球防衛も視野に入れていたという説もあり(ここでは真偽自体でなく、世間にそういう話が流布したことに着目)、『仮面ライダーBLACK』〜『仮面ライダーBLACK RX』において闘う敵がショッカー的結社(ゴルゴム)から、異次元宇宙からの侵略者(クライシス帝国)にシフトしている点は、「米ソ冷戦時代の終焉」〜「次の時代の未知なる敵」に重なる重要なポイントに思えます。
ここまでの昭和ライダーの振り返りで、各シリーズのストーリーが必然的にその時代の「陰謀論のトレンド」(裏の歴史に対する共同幻想)に結びつくことが伺えます。それはフィクションやファンタジーの世界において「陰謀論」は、現実とフィクションの境界を透明化する「装置」として機能するということで、それ故に仮面ライダーシリーズに限らず陰謀論的な要素が盛り込まれたTVドラマやハリウッド映画なども時々、ごく一部の穿った見方をする人たちからは「陰謀的プロパガンダだ!」と揶揄されたりもすることにもなるという...
ま、一部には本当にプロパガンダ的な仕込みが行われてるような気もするので、コワい話ではありますが。
平成の時代になって2000年に『仮面ライダークウガ』を皮切りに新しいシリーズがスタートします。以後、ライダーが闘う敵は古代から蘇った邪悪な民族/種族だったり、人類が進化した超人的存在の集団だったり、闘うこと自体の目的がわからない謎のゲームだったり、悪の秘密結社が表向きは立派な企業/財団を装っていたりと、冷戦終結後の「多種多様な正義」の乱立した世情を反映してか、だいぶ複雑になってきています。平成のシリーズを昭和のシリーズと比較した場合、ストーリー上において顕著に増えているモチーフとして挙げられるのが「仮面ライダー同士(同族同士)の戦い」です。これは過去の石森章太郎作品(キカイダーなど)でも描かれたテーマであり、「多種多様な正義の乱立」というテーマの反映ではありますが、「ヒト同士がなぜ争い、戦うのか?」というテーマのより根源的な方向への模索を感じさせる部分でしょう。
そんな中で『仮面ライダーオーズ』が闘う「グリード」(greed = 貪欲さ、強欲さの意味)という存在は言葉の意味通り(さらにドラマの中でも説明されていた通り)、人間の隠された欲望が擬人化/実体化された存在のように思えますが、私個人的には「あれは一体、何だったんだろう?」という思いが未だにあります。
『仮面ライダーオーズ』のおおまかなストーリーを振り返ってみます。
古代の錬金術師によって創造された人工生命体「グリード」5体が現代に復活。「グリード」は錬金術師が作った「メダル(コアメダルとセルメダル)」の集合体が意思をもったような存在で、抑圧された強い願望/欲望を持った人間を見つけては、その欲望を実体化させて怪物(ヤミー)を出現させ、怪物が欲望を叶えるごとにポイント加算方式で「セルメダル」が生み出され、それをグリードが懐に入れるという寸法。5体のグリードはそれぞれ異なる生物の特徴を持ち、各グリードの目的は「メダル」をより多く集めて自分自身の存在を増大させることのようである。また、グリード同士で敵対したり、派閥を組んで共謀して他のグリードを陥れたりもする。
一方、仮面ライダーオーズは火野映司という一見無欲な風来坊の青年(信条は「明日の小銭とパンツがあればいい」)が、完全復活できなかった「はぐれグリード」から与えられたコアメダル(オーメダル)のパワーで変身した存在である。グリード&ヤミーに対して人間の武器&武力はほぼ無効で、オーズだけが対抗できる存在であることが、第1話において描かれる。
物語の後半で明らかになるが、火野映司は裕福な政治家一族の出自で、世界中を旅しながら貧しい人々を助けるボランティア活動をしたり、(おそらく多額の)資金を寄付をする活動をしていたが、紛争地帯でテロ事件に巻き込まれた際、自分の手で誰も助けられずに自分だけが親の政治力で救出されるという苦い経験に遭っている。これは彼が「お金」を巡る醜い争いや裏取引があること、政治的な力(陰謀含む)の前に「個人の力」が無力であることを知り尽くしていることを示唆している。オーズとグリード、コアメダルとセルメダルの存在は一般の人々には知られておらず鴻上ファウンデーションという財団の鴻上会長(美術品を集めたり、私兵団を組織したり、貴族か?)と、研究機関の上層の人間(ドクター真木)だけがその存在理由を知っている。鴻上会長はお菓子作りが大好きな(パティシエ並みの技術を持つ)快楽主義者のようで、オーズとグリードの戦いの見物と、戦いから生み出されるセルメダルが増えるのを楽しんでいるようである。
一方、ストイックな研究者であるドクター真木は「メダルの持つ力」を使った陰謀を企んでいることが物語が進むにつれてわかってくる。ドクター真木の陰謀とは全てのメダルを自らの元に集め、その強大な力で現在の人間世界を終わらせることであり、彼自身は世界の終焉そのものに究極の美(あるいは快楽)を感じているらしい。物語の前半はグリードたちに狙われた人間をオーズが助けるという、庶民レベルの欲望/願望を取り巻く悲喜こもごもの人間模様が描かれるが、物語の後半からはドクター真木のグリードさえも道具に利用して世界を終焉させる陰謀との戦いになって行く。
大方の人が『仮面ライダーオーズ』のテーマを「欲望の怪物化」という解釈だけで納得してしまうであろう理由は、一般的なヒーロー番組の歴史を振り返ると「擬人化された欲望/煩悩」が人々を襲ってくるストーリーが割と多くあること(川内康範先生による「コンドールマン」とか)、『オーズ』と同じ時期に連続した時間帯で放送されていた『ハートキャッチ・プリキュア』も、少年少女の抑圧された願望が怪物化させられる話だったので、同じようなテーマと思ってしまうのは無理もないでしょう
(あくまで作品を楽しむ上での解釈なので、何が正しいとか間違ってるとかいう話ではありませんが)。
ここで、栗本慎一郎氏の経済人類学の話です(注:現在の私の理解力による説明)。ヒトがサルからの特殊な進化の過程において独自に獲得・発展させてきたもの「宗教、文化、都市、市場、貨幣、etc」を便宜上「パンツ」と呼ぶ。ヒトの行動はこれらの「パンツ」を過剰に溜め込み(生産)、あるタイミングで蕩尽(消費、破壊)する原理に基づいている。
ヒトは「過剰の蕩尽」に快感を感じる生き物であり、ヒトの生物的進化も快感を求める方向へと進んできた。その行き着く果ては巨大な蕩尽(場合によっては大戦争や、文明の終焉)でしかない。人類全体で「パンツ」を脱いで次の段階へ進む方法を考えなければならない段階に差し掛かっている...決して安易な救済思想に頼ったり、カリスマ(メシア)的ヒーローの出現を願ったりするようでは解決しない...
ということを栗本氏は1980年代ごろから一貫して著書の中で語ってきているわけですが、その中で「経済人類学における貨幣論」について私の理解力で以下にまとめてみました。
【貨幣に関する前提】
(1)今日の市場経済社会での交換に使われる「お金」だけが「貨幣」なのではない
(2)貨幣は元々は一種の宗教的威力を持つ「財」として登場した。経済的な売り買い以外に、穢れを祓い清めたり社会的立場の承認を得たり、精神的・物質的な負債を払いのけたりするなどの様々な種類の「貨幣」があった
(3)「貨幣」と「支払い」の概念は人間の深層の心理/行動原理に密着したものであり、非・市場経済社会(俗にいう未開社会)においても変わらないものである
(4)1つの社会内部での物々交換が、外部社会との交換に発展する過程で「貨幣」が発生したと考えられがちであるが、それは歴史事実として正しくない(マルクス経済学の誤りの指摘)
【貨幣に関する考察/仮説】
経済人類学の考察によると、経済活動の基盤はヒトの生命活動と密着しているものであり、「貨幣」はただの金属片や紙の印刷物ではなく、単なる「交換の媒介物」を越えた機能が原初からあったということです。
さらに莫大な額の貨幣は人間社会においてはあたかも生き物のように振る舞い、「自らが生き延びるためにはひたすら自己増殖する」性質をもつといいます。そして、自己増殖して莫大な額になった「貨幣」の行き着く果ては巨大な「蕩尽(破壊)」であると。
近代以降の「貨幣」の歴史的な流れをざっくりというと、第1次世界大戦〜第2次世界大戦〜冷戦終結までの間、各国の軍拡によって「貨幣」は増殖し続け、ある種の「力」をもつようになり、その後の冷戦終結で過剰な(人類史上において例のない莫大な額の)貨幣が行き場を失ったという考察がされてます。
その結果、過剰な「貨幣(=資金)」の一部が日本の証券市場にも「外資」として流れ込み、日本の経済に甚大な影響(証券会社の倒産を引き起こすなど)を与えたということです。経済のグローバル・スタンダード化という言葉が言われだしたのも冷戦終結の頃(1998年)で、それを栗本氏は「グローバル資本による乗っ取り」であると言います。
「貨幣」の証券市場の他の行き先は、石油会社だったり、冷戦にとって変わった民族紛争だったり、国家経済の中での格差の維持&拡大であるとのことで、「貨幣」は自らの生命を維持するためには意図的に戦争を作り出し、それによって人口増加を一定の範囲内に押さえ、さらに貨幣が生きていくことができると表現されています。私の現在の読解力による経済人類学における「貨幣」の問題の引用説明は以上ですが、「貨幣が自己増殖しようとする」という表現は、いきなり聞いても理解し難いものかもしれません。その辺が気になる方は栗本氏の著書(『パンツをはいたサル』、『パンツを脱いだサル』あたり)を参照頂ければと思います。
また、「貨幣が生き物のように振舞う」とは言っても、実際には「貨幣」にヒトが連動して何らかの活動をしているはずで、一体どこの誰が何をしているのか?ということを追求すると「金融を裏で牛耳る勢力の存在」といった類いの陰謀論系の話に辿り付くことになります。この辺の話はガセネタも非常に多いので注意が必要ですが、個人的に最近読んだ落合莞爾氏の著書『金融ワンワールド』が興味深かったことを付け加えておきます。
再び、オーズの話に戻ります。
さて、この拙文をここまで読んでくれる奇特な人がどれだけいるかわかりませんが、以上から『仮面ライダーオーズ』における「グリード」の振る舞いは、経済人類学がいうところの「貨幣」の比喩そのものに見えてこないでしょうか?
その観点で観るならば、5体のグリード(とコアメダル)はそれぞれ独立した国家の「通貨」であり(円、ドル、ユーロ、元など)、グリード同士の争いは国家間の経済競争および基軸通貨の座をめぐる経済戦争と解釈することが可能です。また「セルメダル」は通貨と通貨の間の仲介する抽象的なもの(株式、証券とか)とみることもできます。
そして、仮面ライダーオーズに対しては怪物化した欲望を暴走させた人々を救う「穢れを祓い清める貨幣」の象徴&化身としての解釈が当てはまり、助けられた人々からオーズに対しても「欲望の怪物」が生み出した「セルメダル」が「お祓い料」として支払われていることが明確に描かれています。
さらにドクター真木による陰謀=「増殖したメダルを全て1つに集める」ことは、莫大(過剰)な額の「貨幣」による、史上空前の規模の巨大な破壊(蕩尽)を意識的に行うための企みである読むことで、オーズの物語の鍵となる部分が「パンツをはいたサル理論」で説明できることになり、「経済人類学」における「貨幣」の問題を意識した作品だった、栗本氏の「パンツをはいたサル理論」でいうところの「貨幣という名のパンツ」と闘うヒーローだったという思いつきの解釈が確信へと近づきます。
そもそも、オーズに変身する火野映司の信条にしても「明日の小銭とパンツがあればいい」なんだし(笑)。
『仮面ライダーオーズ』の製作者サイドが意識的に栗本慎一郎氏の経済人類学における「貨幣という名のパンツの問題」をストーリーの背景に設定したかどうかは、一ライダーファンとしては知るよしもありませんが、仮にそのような考えなしで「時代の必然」としてそこに行き着いたのだとしたら、脚本家の小林靖子さんという人は本当に天才なのではないかということになります。
まぁ、とにかくあのいろんな種類の「メダル」は玩具メーカーが子供の興味を惹いて、親にゼニを払わせて儲けるために考え出したネタ....ではありますが(笑)、それだけじゃない可能性が非常に高いってことですよ。
2012年05月23日
ヒト(パンツをはいたサル)の惑星
先ごろ、経済人類学者=栗本慎一郎氏の新刊『ゆがめられた地球文明の歴史』が出ました。これはどういう本かというと、従来の歴史上の常識や定説のウソや誤りを指摘し、最新の研究でわかってきた真実を説明するという本です。栗本氏が言うには、一般に学校などで教科書どおりに教えられる歴史には非常にウソが多いということで、しかも「ウソの歴史」を教える背景には様々な政治的な意図が働いているとのこと。
歴史学ほど政治や人びとの大衆的気分に影響される学問はない。そこで「世界史の世界」を支配しているものは、ヨーロッパのゲルマン民族とアジアの漢民族(中国人)の自己中心的で勝手な俗説の寄せ集めなのである。
先端の学会でははっきり批判されきったのに、いまだに教科書から消えないどころか、中心部にどっかと座ってる俗説が山のようにある。
立派な歴史学者という連中はほんとうの歴史のことなど考えていないのだ。
考えていることは学説や業績による地位や名誉やあるいは政治的立場などである。
ということで、クリシン・ファンとしては「歴史に興味がある人は読んでみてください」と誰かれかまわず薦めたくなるところではありますが、本書のまえがきで以下のように釘をさされてしまいます。
本書は最初から真実を求める人のためにだけ、この地上で人類に本当に起きたことの流れを示しておく本である。
「政治的真実」を求める人、それにだまされやすい人にはまったく向いていないものである
そう、心して読まなければならないのです。
というわけで早速、新著『ゆがめられた地球文明の歴史』の内容について説明したいところですが、発売されたばかりで私自身の読み込みが足りず理解も十分に追いついてませんし、内容も要約して手軽にまとめられるものではありません......ちょっと、ここは苦し紛れに映画『猿の惑星』(第1作目)の話をしてみようと思う..
..なんて言ったものなら、「そんな有名な映画の話なら、もう知ってるよ」という声が聞こえてきそうです。では、どういう話か?と尋ねたなら「ヒトとサルとの立場が入れ替わることで描かれる寓話/風刺的なSF作品」というのが一般的でしょう。もちろん、そういう理屈抜きにチャールトン・ヘストンの肉体美&アクションや、サルの特殊メイクやキャラクター造形だけでも魅力的な作品ではありますが。
さらにもう少し映画に詳しい人なら、風刺的SF作品であると同時に、映画制作当時のアメリカでの人種間問題をはじめとした政治/社会の批評を寓話的に描いた作品と言うでしょうか(この辺に関する『猿の惑星』シリーズ全体を通しての解説は町山智浩氏の「<映画の見方>がわかる本」に詳しい)。
要するに一般的(常識的)な見方としては、「ヒトとサルとの立場(視点)を入れ替える」ことで「人間とは何か?」という問題提起をしている作品に違いないのですが、それは人間側の主人公=テイラー(チャールトン・ヘストン)の視点である「ヒト対サル」の図式でストーリーを追った場合の話です。
では、サル側の主人公的な存在=コーネリアス&ジーラの視点で観直すとが浮かび上がってくる別のテーマは何か?というと、それはサルの世界での「権力を握った者による歴史の書き換え」「政治権力による歴史事実の隠蔽、偽史の捏造」ということになります。
『猿の惑星』(第1作目)をコーネリアス&ジーラの視点からおさらいしてみます。サル側の主人公格であるコーネリアス博士とジーラ博士のチンパンジーのカップルは非常なインテリで、コーネリアスは考古学者の立場から、ジーラは医学者の立場から、彼らの世界では言葉も文明も持たない「ヒトという生き物」を研究している。
彼らのサルの世界には「禁断の地」という立ち入り制限区域があり、どうやらそこには「人類創生」ならぬ「猿類創生」の秘密が隠されているらしい。コーネリアス博士はかつて「禁断の地」の遺跡を調査した結果から、「サル以前にヒトの文明があった説」「サルがヒトから進化した仮説」を唱えているが、サルの世界の学会からの猛反発に遭い異端思想者の扱いを受けている(厳しい弾圧や脅迫を受けたらしいことがセリフから伺える)。
コーネリアス博士の唱える仮説を真っ向から「邪説/トンデモ説」として否定しているのが、オランウータンで権力職に就くザイアス議長。ザイアスが人間収容所から脱走したテイラー(ヘストン)を裁判にかけた際、部下に説明させる「猿の神話」...神が自らの姿に似せてサルを創造し魂と心を与えたという説を「科学的な事実」と称し、神話から逸脱した説を全否定する論旨はキリスト教原理主義そのもの。
実はザイアス議長は、「禁断の地」に隠された「真実の歴史」を知っているのだが、その秘密に触れる者を自らの政治的立場を脅かす反抗勢力として、裏で弾圧の指示をしている。この企みは、テイラーと一緒に「猿の惑星」に不時着した人間の一人を捕らえ、口封じ目的で脳手術(ロボトミー)した描写で明らかになってくる。さらにザイアス議長は、自らの政治的立場にとって都合の悪い「真実」を話すテイラーを処刑しようとするだけでなく、テイラーの弁護人として起用したコーネリアス&ジーラも「異端思想者」として処刑するよう追い込む....どこまでも政治的で腹黒いサルである。
こうして、処刑される運命となったコーネリアス&ジーラはテイラーを牢獄から救出し「真実の歴史」を自らの目で確かめるために「禁断の地」への旅に出ることになる。
「禁断の地」にやってきたテイラーとコーネリアス&ジーラを、ザイアス議長が部下を従えて追い詰める。ここでも断固としてコーネリアスの研究仮説を否定しようとするが、テイラーに脅迫され問い詰められてついに白状する、「たしかに私は大昔に書かれた本を読んで、ヒトの文明があったことを知っていた」と。続けてザイアスはヒトの本質的な部分(攻撃性と残忍さ)に対する洞察と、ヒトの文明の病んでいる部分への考察を語る。政治的で腹黒く見えた上辺に反し、その根底にある「サルの世界の平和維持」への願いが見えてくるこの映画終盤の場面で、ザイアス議長が憎めないキャラクターに思えてくる。
しかし、更なる「真実の追究」に旅立とうとするテイラーに「知らない方がお前のためだ」と忠告し、テイラーが去った後に人類文明の存在した証拠である遺跡を爆破する(やっぱり腹黒いぞ)。
そして最後にテイラーが見つけたものは....(ネタばれになるから書きません)。
再び、栗本氏の『ゆがめられた地球文明の歴史』の話に戻ると、映画『猿の惑星』(第1作目)でのコーネリアス&ジーラの視点から見た「政治権力による歴史事実の隠蔽、偽史の捏造」に匹敵することが、実際に人間の世界で行われている、ということになります。栗本氏の近著『パンツを脱いだサル』においては、人類の起源(サルからどうやってヒトに種が分かれたのか)に関する考察(仮説含む)があり、進化論でいうところのミッシング・リンク(サルからヒトへの進化の中間状態の化石が見つからない謎)に関する言及がされています。
それによると、人類の進化(サルからヒトへの分化)はアフリカ北部のダナキル島で起こったといいます(注:栗本氏はヒトの進化説として水生類人猿説を支持している、もっとも彼の考えではその行き着いた先を「進化」というべきかは疑問なのだそうだが..)
そして、アフリカ北部のアファール三角地帯(アファール盆地)の付近で「ミッシング・リンク化石」が発見される可能性が高いということですが、内戦による混乱状態が続いていて発掘ができない状態が続いているとのことです。アファール三角地帯こそ人類にとって、『猿の惑星』でいうところの「禁断の地」なのかもしれません。
北アフリカ〜中東の地域は長年に渡って内戦状態が続いていて、その裏には様々な国際的な陰謀が渦巻いているというのが巷の陰謀論者の定説ですが(陰謀論も一枚岩でないが)、「人類創生の歴史的真実」を隠蔽する思惑も働いているのではないか、「真実の歴史の証拠」の破壊工作も行われているのではないか?・・・とさえ勘ぐってしまいます(これは私個人の妄言で、栗本氏が言ってるわけではない)。
人が自分自身(および所属する世間)を客観的に見ることも、自分自身が何ものであるか知ることも、簡単ではありません。
それを行う手段として必要なのが、他人の意見を聞くことだったり、歴史を学ぶことだったりすると思いますが、その前提となる「事実を正しく知る」ことができないのだとしたら、これは言うまでもなく由々しき事態に違いありません(..進むべき方向を誤りかねない)。
そんな「由々しき事態」がずっと長い間にわたって続いているということは、もはや世の中全体がずっと「どうかしちゃってる」状態だということなんでしょう。私個人的に、経済人類学者=栗本慎一郎という人は「どうかしちゃってる世間」に対して、決して絶望せずに語り掛け(絶望してるかもしれないが)、時に闘いを挑んでいる人なのだと思ってます。
しかし、困っちゃうのはこのような穿った見方も度を越すと、近年の「にわか歴史ブーム」とか、娯楽時代劇までもが「歴史真実を隠蔽するためのプロパガンダ」にしか見えなくなってしまうことです。近年の時代劇衰退の原因には諸説言われていますが、あえて妄言を言わせてもらえばプロパガンダ的効果を発揮する作品にしか製作資金が回らなくなっているようにも見えるわけですよ。
たとえば、坂本龍馬が妙に持ち上げられる...大河ドラマの主役になったり、現代人が過去にタイムスリップする某ドラマで「現代人に通じる感覚の持ち主」である面が強調されるのを見ると、私みたいなヒネクレ者は「何か臭うなぁ..」と勘繰ってしまうわけですよ(これもある意味、ビョーキだな...)。
そういう意味で、最近の時代劇では何のイデオロギー臭さもプロパガンダ臭さも感じさせず、娯楽(アクション&お色気)に徹した『逃亡者おりん2』が素晴らしかったよなぁ(笑)。
2012年04月14日
アカデミズムとトンデモの境界線? 今改めて経済人類学者=栗本慎一郎氏のこと
数年前の話になりますが、クリストファー・ノーラン監督によるバットマン映画の2作目『ダークナイト』を観たとき、宿敵として現れたジョーカー(演:ヒース・レジャー)の徹底的な悪党ぶり・・・凶悪な事件を起こしては快楽に耽るような表情を見せ、挙句には強盗して奪った札束の山に火を放つ場面などに、名状し難い複雑な感情の沸き上がってくるのを感じたのは恐らく私だけではないでしょう。そこには単純に「悪」とか「狂気」とか言う言葉では表現しきれない、「人間の本質」的な部分に迫るものがあり、単に「フィクション」や「他人事」として片付けられないものがあるように思えました。そこら辺に関しては、映画評論スジでは(今やすっかりメジャーになった)町山智浩氏によるキリスト教の文化/思想をベースにした読み解きが的確で素晴らしかったのですが、個人的にさらに踏み込んだ評論(または感想)を訊いてみたいと思ったのは「パンツをはいたサル(過剰と蕩尽)」理論の栗本慎一郎氏でした。
栗本氏の「パンサル理論」に基づくなら更に宗教の起源にまで考えが及び、故ヒース・レジャーが『ブロークバック・マウンテン』で演じたゲイのカウボーイにまでつながる人類の本質的部分への「過剰と蕩尽」による考察が可能...なはず。
「経済人類学者=栗本慎一郎」...
私と同世代(現在アラフォー)以上の人の中には「ああ、”ニューアカ・ブーム”って、あったよねぇ」とか「『朝まで生テレビ』に出てたよね」という人もいるでしょうが、若い人たちには「誰それ?」「ニューアカって何?」と言われてしまうでしょうか。
1980年代に「ニュー・アカデミズム(ネオ・アカデミズム)」という、いろんな学者が「現代思想」や「現代社会」を論じ、彼らの著書が割りと一般の人々にも読まれるようになった一種のブームがあったと記憶してます。「ブーム」と言ったら当事者の学者先生の方々には不本意かもしれませんが、当時ガキだった私にまで何らかの形で届いたり(実は糸井重里氏やYMO経由だったりする)、その潮流(ブーム)に乗り遅れたくない人のため(?)の「入門書」的な書籍も各種出たりしてたので、一過性のブームが発生したことには違いありません。
そんなブームの中で個人的に「この人の言ってることは信用できる気がする」「なんかグっとくる」と思えたのが栗本氏でした。彼が著書の中で述べている「経済人類学」の観点からの「人類という存在」への考察(仮説含む)部分に、「平易な言葉で深いことを語っている」「なんとなく自分が心の奥底で漠然と思っていることの遥か彼方」を見据えている、という気がしたのかもしれません。当時のメディアを通じて見た栗本氏の印象を無理やり今風に例えると....某脳科学者・●木●一郎氏では名前の響きがちょっと似てるが何か(毒?)が足りない感じ...荒俣宏氏のような該博な知識を持っていて、かつ菊地成孔氏の軽妙な語り口で語るような感じとでも言いましょうか。
80年代〜90年代初頭は現在のようなインターネットがなかったので、自分以外の他のファン(読者)に著書がどのように読まれていたか不明ですが、「人類の起源〜現在まで」の歴史への考察に対しては「洞察に富んだユニークな見解〜鋭い指摘」という読まれ方がされていたように思います。一方で「人類の現在〜未来」への言及(提言)に対しては当時としては(たぶん現在も)理解されにくい部分がいくつかあり、一部からは「トンデモ学者」のレッテルを貼られていたようにも思います。
正直に言うと、私個人的にも「トンデモ」と揶揄されてたような部分をどう受け止めてよいかわからずに戸惑った部分もあったりして、90年代初めに衆議院議員に立候補して当選した頃からファン(読者)として次第に距離ができていって、1999年に脳梗塞で倒れたというニュースを聞くまでの活動/動向はあまりよく知りませんでした。
最近、ふとしたキッカケで栗本慎一郎氏の著作群を改めて読むようになりました。書店では入手難になってる著書も多いですが、古書のネット通販(Amaz●n等)で現在も何とか入手できたりする点は便利な時代になったものです。今ここで問いかけたいのは彼の「思想」が現在(2010年代以降)も有効であるか?ということで、ニューアカ・ブーム当時に若者(ガキ)だったオッサンの自己言及(自分語り)に利用されたり、酒の席でのネタ話に消費されるだけのものではないと考えるからです。さらには社会の中で起こる出来事や文化を理解したり、生き方を模索する手段になり得るか?...何かがあるはずだ思うからです。
以下に「パンツをはいたサル」理論の要旨を現在の私の読解力で列挙してみました(拙いブログの一記事で説明し切れるものでないことは承知の上です)。参考にした著書は『パンツをはいたサル(新版)』、『パンツを捨てるサル』、『人類新世紀終局の選択』、『パンツを脱いだサル』。
【A:前提】
・ヒトがサルからの特殊な進化過程で独自に獲得したもの(言語,都市,文明,宗教,貨幣,etc)を便宜上「パンツ」と呼ぶ
・ヒトは(生産)過剰になった「パンツ」の蕩尽(消費/破壊)に快感を感じる生き物である
・生命の進化は生命が快感を感じる方向に進む
・ヒトという生命にはヒト以外の異質なものが含まれてモザイク状に構成されている
・ヒトの性質は本来、攻撃的で残虐なものである
・ヒトには部分から全体を認識する「暗黙知(内知)」の能力がある
【B:一般的に理解されやすい考察/仮説】
・戦争、祭りなどは過剰になった「パンツ」の蕩尽の原則に従った行動/現象である
・戦争などにおける残虐行為は「人間性」を失うというより「人間本来の姿」に戻るというのが正しい
・経済活動における「交換」は1つの共同体内部から広がって他の共同体との交換に発展したものではない
・宗教における原罪の意識はヒトとしての進化の過程での種族間殺戮の記憶であると考えられる
・ヒトの肉体外部から入ったウイルスが脳の機能/処理構造に変化を起こす可能性
・脳(および脳内物質の処理)の変化がヒトの身体感覚(快感)や思考/思想へ影響を与える可能性
・地球の生態系に対してヒトそのものが過剰になっていて、何らかの蕩尽が行われる可能性
・ヒト自身が自らの手で進化の方向を決める局面を迎える可能性
【C:一般的に理解されにくい考察/仮説】
・太陽の黒点活動、地磁気の変化などがヒトの思考や行動へ影響を与えてきた可能性
・ヒトが次の段階へ進化する時代がそれほど遠くない未来である可能性
・進化の果てに物質的肉体を持たなくなった生命が存在する可能性
・物質的肉体を持たない生命体が既に存在して、人類にコンタクトしている可能性(チャネリング)
・ヒト全体の進化/科学の発達を妨げ独占しようとする勢力が存在する(巷の陰謀論との部分的な見解の一致)
・ビートルズは大衆操作の陰謀に利用されていた
上記の【A】【B】ぐらいまでは割りと理解されやすく、実際に起こった出来事や事件への明快な説明で納得した読者が多かったと思われますが、上記の【C】ぐらいから「何だかついていけない」「実はトンデモ系だったか!」と思った人が結構いたように思います(実際、知り合いに1人にいた)。いわゆる「陰謀論」や「オカルト」「スピリチュアル」と呼ばれるものにまで言及している部分が、一部の人々からは「トンデモ」で「胡散臭い」と思われてるのでしょう。しかし「経済人類学」が生命〜人類のあらゆる営みを包括的に捉える学問である以上、無視するわけにはいかない...更にそれらの一部には真実も含まれているという論旨。部分的に言っていることは「他の胡散臭い連中」と同じであっても、一部の陰謀論者のように何でもかんでも陰謀と決めてかかったり、スピリチュアルなお告げをありがたがる態度は一切なく、そのように思考停止することを問題視していて、思考停止した状態での進化も救済もないと説く。
私個人の受け止め方ですが、たしかに人間が現在のような肉体を持たない状態に進化する時代が数100年以内にやってくる仮説とか、先にそうなってる「先輩」が時々メッセージを送ってきている可能性とかに対しては、実感沸かないのでなんともいえませんが「それはそれでいいんじゃないか」と思ってます。
例えるなら、日常レベルでの現実&事実を正しく見つめて誠実な言動をする人がいて、その人が神様や天国を信じていると言った場合、その人の日常〜現実レベルでの言動1つ1つに対して「でも、オレは神様や天国を信じてないから、アンタの言うことは信じられない」とまでは言わない...いささか乱暴な例えですが。
「トンデモ」部分についていけないという人は、「ちょっと変わった独自の宗教観」を持ってるけど、現実&事実を鋭く見据えているオジサン...ぐらいに見てあげればいいんじゃないかと思います(こんな言い方したら本人は不本意だろう)。
また、つい最近になって近著『パンツを脱いだサル』を読んで知ったことですが(彼の言葉を信じれば)、栗本氏が国会議員になって政治の世界に身を置いた理由には、ずっと以前から意識・認識しながらも、あえて触れず言及しなかった「ある種の闇の力」を探るフィールドワークを行う目的があったと言います。ここで言っている「闇の力」とは....陰謀論スジの話でよく聞く「金融市場を牛耳るユダヤ人(注)の中の権力派グループ」とのこと(またしても「イタい」とか「トンデモだ」とかいう揶揄が聞こえてきそうだ)。この手の話は常に「裏読みすることで辻褄が見えてくる最もらしい仮説」と「東スポ記事レベルのガセねた」が常に混在している上に、さらに陰謀論者が言うには「真偽の判別をつかなくさせるためのプロパガンダ」が行われている説があるとか...聞けば聞くほど頭の痛くなる深入りしたくない部類の話題です。(注:ユダヤ人の一部の黒幕資本家と一般庶民を明確に分けて言及している)
栗本氏自身は「陰謀論者と一部の見解が一致」してるというだけで一緒にされるのは不本意だろうとは思いますが、陰謀論系の話(噂やデマから真実を見つけ出す考察)の入門書として『パンツを脱いだサル』は、そこらの陰謀本より有効だと思います。
「政治陰謀としてのビートルズ」を語る部分においては、実際に1960年代当時の学生運動を弱体化させるための陽動作戦として機能していることを現場にいて観た(まさにフィールドワーク)ことが語られています...幕末の「ええじゃないか」みたいな感じでしょうかね。私個人的には「ビートルズ陰謀説」は事実だと思ってますが、困っちゃうのはビートルズの楽曲って実際、音楽的にもイイ曲が多いことです。
そして、1999年には通信傍受法(盗聴システム・エシュロン設置)へ反対し、国会での採決を棄権して除名された後に脳梗塞で倒れる...(この病気の件もごく一部では陰謀によるものではないか?という噂を聞いたことがある)...栗本氏自身は状況的に陰謀の可能性もあったことを薄っすらと示唆するのみで断言してはいません(証拠がないのだろう)。ちなみに人工的に脳梗塞(血栓症)を起こすことは医療技術的に可能なのだそうです。
「通信傍受システム・エシュロン」に関しては池上彰氏によるニュース解説番組でも米軍・三沢基地に設置されているのが紹介されていたので、「表側(常識)」の事実として知っている人も多いと思います。エシュロンで何ができるのかというと、ありとあらゆる通信情報を傍受=盗聴できてしまうということで、どのように使われているか一般人には知る由もありません。
盗聴が悪用される例といえば、先ごろC・イーストウッド監督の映画『J・エドガー』でも描かれていたFBI初代長官ジョン・エドガー・フーヴァーが政治家/権力者の弱みを握って逆らえないようにコントロールしていた有名な話がありますが、そういうことが国家間レベルでも行われる可能性があるということでしょうか...あくまで妄想ですけど。
あくまで私個人の考えとして述べますが、経済人類学者=栗本慎一郎氏の「パンツをはいたサル(過剰と蕩尽)」理論は2012年、「現在も有効」どころか、昨年3月11日の東日本大震災以後の混乱した社会状況をみるにつけ「今こそ必要」なのではないかと思います。
ガキからオッサンになって人生の経験値が上がったことで、当時は理屈で理解したつもりになっていたことが身に沁みてわかるようになった部分もありますし、「常識や定説に誤りがある可能性」や「デマや陰謀論にも真実が含まれる可能性」を考える態度は間違ってないのだと。
脳梗塞から奇跡的な回復をした栗本さんは現在、有明教育芸術短期大学の学長を務められていて、ラジオ日本で番組をやってるということを最近知ったばかりなのですが、このブログ記事を書いてる最中に新刊『ゆがめられた地球文明の歴史』が出ることを知りました。
いやぁ、シンクロニシティってあるもんなんですね(笑)。















