透佳の壺
2013年07月10日
2011年10月25日
はじめに
普段着の着物をみなさまにお奨めしていく中で、着物を着たいと思っている人は意外に着物に携わる職業の人との接点が少ないということに気づきました。
そんな中で、透佳とご縁のある方々からお話を聞いて、伝えていきたいという想いが芽生えてきました。
いろいろな職業の方からのお話をお聞きすることで、経(タテ)の糸と緯(ヨコ)の糸が交わるように、着物を着る人と着物に関わる人、また着物とは関係のない方との想いが行き交うような場を目指してご紹介していきたいと思います。
雨上がりの夏の日。
緑の濃い山々にはところどころに霧が残り、まるでちぎり絵のような景色です。
そんな中、透佳がお世話になっている和裁技能士の一人、杉山さんに透佳のスミがお話を伺いました。杉山さんはこの道三十余年の一級和裁技能士です。
スミ
改めて取材という形でお話を伺うとなると、なんだか照れますね(笑)
杉山
そうね(笑)
『タミーちゃんのドレスから始まった』
スミ
では始めたいと思います。初めて針を持ったのはいつごろですか?
杉山
そうねぇ・・・小学校の4年生だったかしら。もっと前。3年生くらいかな。
スミ
そのときは、何を作ろうとしていたんですか?
杉山
タミーちゃんのドレス。 あの頃はお人形遊びくらいしかなかったのね。高学年になると家庭科の授業が始まって、クラブも手芸部に入ったのよ。どういうわけかみんなよりも出来上がるのが早かったのよ。もともと工作とか作ることが好きだったから、弟のプラモデルなんかも作ったりしてね。おじいちゃんとお正月のしめなわ飾りを作ったりするのも好きだったわね。
スミ
和裁士になろうと思ったのはいつごろなんですか?
杉山
高校3年生のとき。
求人があったのね。3年間の修行で一人前になるって聞いたから。みんなが大学に行っている間に手に職がつくと思って・・・。でもね、実際に和裁所に入ってみると、住み込みで5年だというからびっくりしたわよ~(笑)最初から5年とわかっていたら、行かなかったかもしれないわね。
スミ
縫い物でも和裁・洋裁とあるのに どうして和裁を選んだのでしょうね?
杉山
そんなに深くは考えていなかったけど、やっぱり手を動かすこととお裁縫が好きだったのね。それと、人と違うことができる、着物が縫えるなんてすごい!と思って。そのくらいの気持ちだったのね。
『最初の1週間で嫌になっちゃった』
スミ
5年間の修行はどうでした?
杉山
辛かったわよ。まだ18歳だったし・・。知らない人の家(和裁所の先生宅離れ)に住み込みで、先輩4人と私の5人だけなのよ。お掃除も賄いも当番制だし、仕事は運針ばかりで、もう最初の1週間で嫌になっちゃった。家に帰りたいと思ったのが顔に出ていたのかしらね。先生が見抜いたように「あら上手に縫えたわね」と褒めてくれるの。そうすると嬉しくなって頑張っちゃう。すると今度は違うお題が出るの。それでまた褒められて、また頑張る。その繰り返しでなんとか続けてこられたんでしょうね。先生の指導が良かったのね・・
《修行の内容》
1年生・・・運針。仕立物をデパートに届ける仕事。浴衣や長襦袢を習い始める。
2年生・・・浴衣や長襦袢の完成まで。
3年生・・・袷せ着物の素縫い。袷せ袖のみ。
4年生・・・下級生が縫ったものをまとめて着物の形に全部縫い上げる。
5年生・・・羽織やコート、子供の着物も縫えるようになり、裁ちから一通り自分で縫えるようになる。
スミ
5年生で初めて裁ちをするんだ?!
杉山
そうよ。卒業間近になって初めて、裁ちばさみを握らせてもらうの。修行中といっても、お客様の着物を縫っているわけだから失敗は許されないのね。裁ちが全てを決めるといっても過言ではないのよ。私は今でもこの裁ちに一番神経を使うし、一番緊張する時でもあるわね。
スミ
初めて着物を縫ったのはいつごろ?
杉山
3年生のときに、自分の振袖を縫ったのよ。昼間はお客様の着物を縫っているから、仕事以外の空き時間に縫ったのよ。当時はデパートも忙しかったから残業も多かったし、暮れも忙しかったわね。あの頃が着物の最盛期の最後と言ってもいいかもしれないわね。朝から晩まで1日中縫っていたのよ。その空いた時間にしか自分の物を縫う時間はなかったから、それは大変だったわよ~。
スミ
和裁を教えるところはたくさんあったのかな?
杉山
そうね。当時は和裁所も多かったし、弟子をとっているところもたくさんあったわね。先生同士のお仲間も多かったし、男の先生もいたのよ。今はもう看板も見なくなってしまったし、かなり減ったんじゃないかしら。
スミ
卒業後はどうされたんですか?
杉山
国家検定二級と和裁の教員免許をとって、卒業して実家に戻ったのよ。(=独立)
何年か経たないと一級を受けられないので、結婚してから国家検定一級と職業訓練指導員の資格を取ったの。
スミ
独立してからは、どんなところの仕事をしていたんですか?
杉山
修行していた和裁所の紹介で呉服屋から仕事を頂いていたのよ。でもね、独り立ちした頃から軒並み呉服屋が潰れ始めたのね・・・
私が仕事を頂いていた呉服屋もこれまでに何軒も店を閉めちゃったわね。
『和裁の仕事に関わって三十余年』
スミ
独り立ちした頃と現在とでは仕事に違いはありますか?
杉山
全然違うわよ。独り立ちした当時は、デパートの呉服部や呉服屋から仕事を頂いていたの。今は染物屋、しみ抜き屋、それから悉皆屋(しっかいや)からの注文が多いわね。呉服屋からの仕事はほとんどなくなってしまったかしら。その代わり、個人のお客様から直接注文頂くことがとっても増えてきたの。個人から受けると、またその方が他の方を紹介してくれる。今まで呉服屋を通して縫ってもらっていたお客様は「こんなに安くていいの?!」とびっくりしながら喜んでくれるの。
スミ
そうか。今まではお客さんの顔を見ることがなかったんですよね。
杉山
そう。それまでは、お客様の顔を見ることがなかったの。でも今は私が縫った着物をどんな方が着るのかがわかる。それがとってもうれしいの。お客様の感想も直接聞けるしね。呉服屋が店をたたんで、着物の仕立てやお直しを頼めなくて困っている方もいるみたいなのね。お客様も呉服屋に行くのは勇気が要るんですって。その点、私のところなら気軽に頼めるのがいいらしいのよ。
スミ
そうすると、個人のお客様の方がやりがいを感じるのかな?
杉山
そうね。今の方がやりがいを感じるわね。
ああ、こういう人が着られるんだと思うと一層丁寧に縫わなくちゃと思うし、着る人がわかると寸法もその人に合わせて調整できるしね。着る人に会えたり、喜ばれたり。ダイレクトにわかるのがうれしい。
スミ
ということは、呉服屋で買ってきた新しい反物を縫う仕事よりも、誰かが手を通した着物を直す仕事のほうが多いってことになるんですね?
杉山
そういえばそうね。新しい反物から縫う仕事よりも、仕立て直しのほうが多いわね。
『和裁をする人が育つのか心配』
スミ
これから和裁を職業にしたいと考える人について思うことはありますか?
杉山
素晴らしい仕事だからがんばって!とは正直なところ薦められないかな。なぜかというと、まず仕事の依頼が多くない。だから和裁の仕事だけで生活していくのは、相当大変だと思うの。パートで稼ぐくらいのつもりならいいかもしれないわね。今は呉服屋が海外に仕立てを出す時代だから、なおさら仕事が少ないし。縫う技術を身に付けてほしいとは思うけど、これを仕事にすることを薦められないのはとても悲しいことね。これから和裁をやる人が育つのかとても心配。
スミ
和裁という職業を残すためには、着物を着る人がいて、そして着物を縫うことを日本の和裁士に頼むことですよね。
杉山
そうなのね。これまで「着物なんていらないよ」と言っていた人の娘さんたちが今、着物を見直してきているの。そこからまた始まっていけばいいなって思う。
スミ
和裁士の立場から古着屋についてはどう思いますか?
杉山
私自身、古着屋を利用することもあるけど、躾糸(しつけいと)のついた着物がダーーッと並んでいるのを見ると、とっても悲しくなる。(一度も手を通されずに売られているということ)
その当時に流行った、同じような色の着物が着られることなく売られている。着物が売れた時代だろうけど、現実には着物を着る人はいない。なんか悲しいよね。
スミ
着物が日常着だった世代の娘さんたちは、嫁入り道具として着物をたくさん持たされたけど、その多くの人は自分で着ることができない世代なんですね。でも箪笥には着物がいっぱい詰まっている。で、そのまた娘さんたちは着物を着るどころか、足袋の履き方すら知らない。自分で着られない物を持っていても無駄・邪魔。だから着物なんていらないと思うのは自然な流れですよね。着物を取り巻く環境は、落ちるところまで落ち切ったということか・・
杉山
そうかもしれないわね・・・
今度はその娘さんたちの中から「着物好きだよ。いいよね。」という人が増えてきたように思うの。それで家の箪笥に着物が入っているのを見つけて「ここに着物があるじゃない!」と お直しに持ってくるようになってきたんでしょうね。着物が見直されてきたのよ。だから今、チャンスなんだと思うの。
スミ
落ちるとこまで落ちきった底から這い上がり始めているってこと?
杉山
そうじゃないかしら。昔ながらのものを見直す人が増えてきているしね。。
スミ
古着屋やオークションを利用する人でも、ちょっと直してもらうだけで着易くなるということを知ってほしい。自分の寸法で着ると着易いことがわかるようになってくると思うんですよね。
『自分の寸法で着ると着易い』
杉山
古着屋で買った着物や、おばあちゃん・お母さんの着物を着ていた人が、少し直すだけで着易くなったと実際に喜ばれているのね。体に合わない着物を着ていたけど、自分の寸法に誂えた着物っていいなと気づいてもらえたらいいわね。
スミ
でも、ここで自分の寸法が着やすいかどうかを知ってもらうには、着物を自分で着られるかどうかがネックということになってきますね。
杉山
そうね。浴衣くらいは自分で着られるといいわね。
スミ
自分で着ることができるから、自分の寸法の着易さもわかるんですよね。
杉山
着物が好きな人は、着付けも覚えたくなるのね。昔は着物を着るとなると美容院で髪をセットして、着付けをしてもらってお金がすごくかかったけど、今の人はお金をかけないおしゃれが上手。
スミ
きちんと着ないと外に出かけられないというのも問題。きちんと着られなくても 自分流でいいんですよね。「着付けをしてもらう」ではなく「自分で着てみよう」となったらいいですよね。
スミ
今の呉服屋に望むことなどありますか?
杉山
そうねえ・・。和裁士が「いい仕事をしよう」と思える良い関係を築けたらいいわね。
スミ
呉服屋によっては、縫う人なんていくらでもいると言う店もあるみたいだけど、今の時代、経験豊富な和裁士は少ないと思うんです。あまりにも仕事に見合わない、安い仕立て代では和裁士のモチベーションも下がると思うんです。和裁士がこの仕事でしっかり生活していくためにも、妥当な料金にしてほしいですね。
杉山
良心的な呉服屋もあるのよ。そういう店が潰れていってしまうのは、とっても残念ね。
スミ
古着屋にも行くと聞きましたが、どんなところに目が行きますか?
杉山
そうねえ。やっぱり仕事柄、縫い目を見るわね。きれいに縫ってあるのを見ると、改めて自分もしっかり縫おうと思う。いつか誰かに見られても恥ずかしくないようにね。
『日本の民族衣装を仕立てることができるってすごい』
スミ
同業の和裁士に思うことなどありますか?
杉山
先輩方の時代は、呉服屋と仕立屋は親しくなってはいけない。仕立屋同士も仲良くしないほうが良い、と言われたらしいの。親しくなると、お互いの賃金の話になって、それぞれいただいている金額の違いがわかってしまうのを防ぐためだったみたい。腕の良い人と、普通の人では差が出ていたでしょうからね。昔の女性は、みんな裁縫が出来たから、それぞれの家庭で着物を仕立てていたでしょう。
その次の時代は、近所の器用なおばあちゃんに頼んで仕立ててもらっていた。そして今は、職業として和裁を習った人に依頼するようになった。和裁士としての資格ができてからは仕立代も見直されてきたのではないかしら?今では呉服屋、仕立屋同士でコミュニケーションがとれて、お互いの立場を理解することが出来てきていると思うのね。呼び方も変わってきたわね。
スミ
どうなんふうに呼ばれていたんですか?
杉山
「お針子(縫い子)」→「仕立屋」→「和裁士」・「和裁技能士」
こんなふうに呼ばれるようになったのは、先輩方が苦労して頑張ってくれたお陰だと思うの。だから、大変だとは思うけど、自分の仕事に誇りをもって続けていってほしいな。私もこれまでいろいろあったけど、こうして振り返ると、続けてこられて良かったと改めて思うの。
これからこの仕事に就こうと考えている人に薦められないと言ってしまったけど、日本の民族衣装を仕立てることができるってすごいことだと思うのよ。だから、頑張ってほしい。そして私もこれからも頑張りたいと思うし、和裁を習いたいという人には、教えることもしているの。
スミ
そうですね。後継を育てることも大切なことですよね。着物を縫う人がいなくなってしまうと私も困る(苦笑)
スミ
最後に、和裁士として誇りに思うことはありますか?
杉山
そうね・・・この仕事を続けてこられたことが一番。呉服屋がどんどんつぶれていく中、それでもこの仕事を続けてこられて、個人のお客様が増えてきて、喜ばれる仕事ができるようになってきたこと。そういうことかしらね。
(了)
取材後記
いつもなら杉山さんとは、反物を預けた後は気楽な世間話ばかりでした。始めは照れくささもありましたが、お話を聞いているうちにいつの間にかお互い真剣になっていました。呉服屋と和裁士との関係や和裁という職業について改めて考えたりしました。そしてこれから杉山さんのような頼れる和裁士さんは残るのだろうか?そんな不安が私の心に今も影を落としています。
注:ここでは「和裁士」と表記していますが、正確には杉山さん持っている資格は「一級和裁技能士」という国家資格です。