中東情勢、朝鮮半島情勢、カンボジアのヤクザ後藤忠政金融制裁、ほか暴力団情勢を見てると、香川県がぎゅうぎゅう~と締め付けられていると思うのは気のせいでなかったりするw

 韓国大統領府からソウル警察庁経由で流出したチョンユンフェ氏の国政介入文書(チョンユンフェ文書)を報じた世界日報(統一教会)が、また香ばしい報道してると教えて貰った。

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 年明け早々から浦項市に非難電話が殺到、慰安婦像撤去反対!(水曜デモ)集団の日本ヘイトへという流れみたい。

 ググる先生に聞くと、12月29日の東亜日報の報道が一番古い。


東亜日報日本語読み;とうあにっぽう、朝鮮語読み;トンアイルボ)は、大韓民国の日刊新聞(朝刊)である。日本統治時代1920年4月1日[1]に創刊。本社をソウル特別市鍾路区に置く。発行部数は2,068,647部(韓国ABC協会への申告部数、2003年10月-12月)。朝鮮日報中央日報とともに韓国の三大紙と称され、中央日報と発行部数第2位の座を競っている。
大韓民国成立後は、政論を売り物にした高級志向の政府批判紙として再発足し、韓国の朝日新聞と評された。朝日新聞とは現在も特約紙の関係にあり、東京支社を東京都中央区築地朝日新聞東京本社ビル内に置く。

 日本人街は主に香川県からの漁村から移住。
 香川県内のパヨクかなぁと考える節もw
 



香川県のキムチランド

 余談からw





高松中央高等学校(私立)→四国学院大学
 高松市民は、このラインでピーンと来るんだよねw
 因みに、田舎なので公立高校受験の滑り止め高校。四国学院大学への進学は家族・親戚総出で行かせない。

高松中央高等学校 (たかまつちゅうおうこうとうがっこう)は、香川県高松市松島町一丁目にある私立高等学校。1899年、高松和洋技芸女学校として設立されて以来、市内の私立高校では最も古い歴史を持つ。なお三木町にはサッカー場と野球場を備えた運動施設を持っている。

設置者である学校法人高松中央高等学校の理事長は平井理枝




 ついでに、隣接したお隣りに香川県立高松商業高等学校。ボランティア精神旺盛で胸にタトゥーがあった島根県女子大生バラバラ殺人事件の被害者、平岡都さんの出身校(ボソ

 もう一つ、中央高校に隣接したお隣りに↓この施設。写真左側にチラリと写るのが中央高校。



 現在、閉館。移設中。
 でもって、ご近所には高松刑務所。キリが無いwww


 さて本題w

さぬき市志度町と、浦項市の九龍浦
九龍浦近代文化歴史通り

 シーフード利権。漁業ヤクザ問題。日韓併合、移住政策。

 市町村合併する前の志度町役場(現・さぬき市市役所)には公開資料が有ったと聞いてるが、さぬき市に成ってからは個人情報保護法(カンケーネーダロw)を盾に隠しちゃってる。
 だから韓国側情報で。








※✕宇田村 〇小田村

朝鮮の豊富な漁業資源で莫大な富
植民地における日本人の漁業活動と九龍浦

日本人漁民が朝鮮半島に定着し漁業をするようになったのは、1908年に締結された「日韓漁業協定」による。この協定は、日本人漁民が、地元の朝鮮人の漁場を奪い、朝鮮の現地に定住して漁業を行うことを可能とした。(趙重義・権善煕著、中嶋一訳『韓国内の日本人村 浦項九龍浦で暮らした』アルコ, 2009, p.56)

日本人漁民が朝鮮半島に定住するため建設された移住漁村には、「補助移住漁村」と「自由移住漁村」の2種がある。

「補助移住漁村」とは、「日本政府、各府県、水産組合、『東洋拓殖会社』の補助によって建設された移住漁村」のことである。これは、朝鮮半島に日本人を入植させる国家政策の一環をなしており、移住は計画的に行われ、奨励され、日本政府から多くの援助があった。(布野修司・韓三建・朴重信・趙聖民著『韓国近代都市景観の形成 日本人移住漁村と鉄道町』京都大学学術出版会, 2010, pp.227, 228, 231)

一方、「自由移住漁村」は「日本人が任意に朝鮮半島各地に移住して住み着いて形成された漁村」のことである(同, p.232)。九龍浦は、「自由移住漁村」の一つとして建設された(同, p.265)。

日本人が移住してくる以前、九龍浦は、志羅里という、朝鮮人の家が2戸しかない、人がほとんど住まない村であった。最初に九龍浦に移住した日本人は、香川県小田出身の橋本善吉という人物である。当時、瀬戸内海沿岸では漁業従事者があまりにも多く、魚が乱獲されて、瀬戸内海で漁業資源が不足していた。橋本氏は、日本海/東海の朝鮮沿岸にある豊富な漁業資源に目をつけ、1909年に九龍浦に移住した。移住後は、鮮魚運搬業で成功し、大型漁獲用網や巾着網による漁業、イワシ加工工場も経営して、莫大な富を得た。(趙重義・権善煕著, pp.64, 65)

もう一人九龍浦に関連がある人物は、岡山県児島郡山田村出身の十河彌三郎氏である。彼が橋本氏と異なる点は、十河が「日韓漁業協定」が締結される以前の1902年から韓国へと移住していたことである。最初は九龍浦の南にある牟浦里に住み、その後1908年に九龍浦へと移住した。そして、慶尚北道や浦項の植民地権力機関や金融、経済人たちとの人脈を築いて、九龍浦と浦項の中心とを道路でつなぎ、港湾整備をするなど、九龍浦のインフラ整備に貢献した。そして、彼は九龍浦の中でリーダー的存在となった。(同, pp.66, 67)

http://econgeog.misc.hit-u.ac.jp/excursion/10tsushimaulleung/0830/0830_right.html 

 香川県大川郡小田村→大川郡志度町大字小田→さぬき市小田





 香川県は韓国産魚類による食中毒が多い。JR志度駅ではJR職員がチカン行為、オレンジタウン駅では赤信号でGO!してあわや正面衝突、ブツブツブツ...






 ひとまずここまでで、四国学院大学。





 ハンソ大学へ留学した山田悟視さんが亡くなった直後に企画した演劇なんだよなぁ。

 パヨク大学が黙っている訳ないなと思うんだw




オマケ2こ

李 明博(イ・ミョンバク、이명박1941年12月19日 - )は、日本大阪府大阪市平野区出身の韓国政治家。第17代大統領ソウル特別市長を歴任。本貫慶州李氏韓国語版一松(イルソン、일송)。生誕時および1945年までの日本での通名は月山 明博(つきやま あきひろ)[2]

現代建設社長、国会議員(ハンナラ党)などの要職を歴任した。

2002年ソウル特別市市長に就任し、都市改造政策等を行った。

2007年12月19日施行の大統領選挙に出馬し、対立候補を大差で破り当選した。

2008年2月25日、第17代大韓民国大統領に就任し、5年間の政権を正式に発足させた。

2013年2月24日に第17代大韓民国大統領を任期満了で退任。

1941年慶尚北道浦項出身の李忠雨(イ・チュンウ、이충우)を父親、蔡太元(チェ・テウォン、채태원)を母親とし、四男三女の三男(第五子)として大阪府中河内郡加美村(その後の大阪市東住吉区、現在の大阪市平野区加美南3丁目)の「島田牧場」の社宅に生まれる[3]。李忠雨は1929年から島田牧場で働いていたが、終戦直後の1945年10月に一家は密航船に乗って[4]、父親の故郷である浦項へ引き揚げた。
(中略)
1963年、高麗大学校商学部学生会長になった翌年に同大学校総学生会長代行となる。その当時学生による民主化運動はピークに達し日韓会談に対する抗議活動も非常に活発であった。1964年6月、朴正煕政権下の日韓基本条約締結に向けての日韓会談に対して、約1万2千人参加の反対闘争を主導し第6次日韓会談を中止させる(6・3事態)これにより国家内乱扇動の容疑で逮捕され、最高裁で懲役3年・執行猶予5年(西大門刑務所서대문형무소)に3ヶ月服役)の判決を受けた。このような経緯で彼は「民主化の一世代」とも言われるようになった。
(以下略)



 共生の手


 断る!(キリッ

 朝鮮半島平和統一、云々というモニュメント。



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