綾羅人民遊園地は「革命の首都平壌にもう一つの大記念碑的建造物」


北朝鮮、綾羅人民遊園地「イルカ館」=スタイル抜群のシンクロ美女が共演
時事通信社/JIJIPRESS 
2013/10/18 に公開
北朝鮮では、スポーツ振興や娯楽施設の拡大に力を入れている。昨年オープンした綾羅人­民遊園地には欧州から輸入した絶叫マシンのほか、イルカ館やプールを備え、最近3次元­(3D)映画館なども設置された。
 9月に訪れたに平壌で、同遊園地イルカ館のショーを観覧した。イルカのアクロバティッ­クな演技だけでなく、人魚や流氷の天使と呼ばれるクリオネのようなコスチュームを着け­泳ぐ、美女がひときわ目を引く。今回は、その様子を紹介したい。


 水槽は何処のメーカーなんでしょうかね??
 
1
http://dprk360.com/360/rungna_dolphinarium/

 ↓この技がなぁ...


 子供がイルカを回転さして話題にしてた。

綾羅イルカ館(ルンライルカかん)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌市内にあるイルカ水族館ドルフィナリウム英語版)。イルカショー施設は北朝鮮初で2012年に竣工した。綾羅島の綾羅人民遊園地内にある。

建設

2011年7月、綾羅イルカ館の建設が決定[1]。同年11月16日、朝鮮中央通信は、平壌市にイルカ館、スケート場、公衆浴場が建設中であると報じた[2]。 このドルフィナリウムは、その建設工事中の映像がインターネットにも公表された[3]

2012年、北朝鮮の指導者金正恩は、「綾羅人民遊園地英語版」は、「朝鮮労働党より平壌市民への贈り物となる」と語った[4]。 また、金正恩は竣工前や開園前に施設の視察も行っている[5][6]。 西側の報道では、綾羅人民遊園地は「国家の威信を高めるためのプロジェクト」の一環で「イルカ館」もそうだ、と見る向きがある[7]

こうして、この建物は2012年7月25日に竣工した[8]

著述業の北岡 裕によれば、日本の地方議員の協力もあり、日本から多くの水族館に関する資料が送られたり、また、イルカショーの導入を推奨されたとしている[9]

建物

イルカの水族館は北朝鮮では初めてである[8]

建物には朝鮮語で「릉라곱등어관」と書かれるが、「곱등어」は北朝鮮では「イルカ」の意である。日本では「綾羅イルカ館」[10]がメディアでしばし使われる。

建築関係者や場内案内者の話によれば、建物の敷地面積は5,900平方メートル余りで[2]、ほぼ3,000立方メートルの体積を持つ公演水槽、二階建ての1,492席[8]の地上観覧ホールと、16の補助水槽[6]、海水を貯える海水予備タンク、自動水循環ろ過システムがあるという[2]

海水は、海に面した南浦から平壌へパイプラインで運ぶ[9]。この「南浦 - 平壌海水パイプライン」はその長さは50キロメートル[11]とも、100キロメートル[12]とも言われ、イルカ館のほかに中央動物園水族館や、浄水システムなどに使われる[13]




「屋島」活性化


YouTubeには、松本明子の放送禁止発言がいっぱいUP





日プラ、NHKの取材で「新屋島水族館」の経営継続を表明

 
 臭いw
 
■新屋島水族館、経営継続の意向 01月17日 12時08分 NHK
http://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035039521.html?t=1453025679423

閉館の方針が示されていた高松市の「新屋島水族館」について、運営するアクリルパネルメーカー「日プラ」の敷山哲洋社長は、水族館をリニューアルした上で経営を継続したいとする考えを明らかにしました。
 
高松市の屋島山上にある水族館「新屋島水族館」は、開館から50年近く経過して老朽化が進んでおり、水族館を運営する「日プラ」は敷地が国立公園内にあり建て替えが難しいことなどからおととし秋に閉館の方針を打ち出していました。

これについて日プラの敷山社長は16日、NHKの取材に応じ、「屋島の水族館を残したいという思いは人一倍ある。国立公園の中でのリニューアルという難しい話を行政にバックアップしてもらえれば前を向いて進んでいける」と述べ、行政などと調整したうえで水族館の経営を継続していきたいとする考えを明らかにしました。

また敷山社長は、水族館をことし3月いっぱいをメドにいったん閉館したうえでリニューアル工事に入り、できるだけ早い時期に再開したい考えも示しました。

新しい水族館については「展示方法を新しくして、どこにもないような水族館を作りたい」と述べ、世界シェアが7割に上り、ギネス世界記録にも認定されたアクリルパネルの技術を駆使した新しいタイプの水族館を作りたいとしています。

日プラは今後県や高松市などと水族館存続に向けて協議を進めることにしています。

 2015年中の閉館発表✕複数回→2016年3月末まで→3月以降は白紙→経営継続!new
 
会社概要
■設立年月日 1969年9月
■資本金 8,000万円
■代表取締役 敷山 哲洋
■主要株主 敷山 哲洋
          住友化学株式会社
■事業内容
水槽用大型アクリルパネル「アクアウォール」の設計・製造・施工、水槽内防水ライニング工事「スミライニング」、映像スクリーン「ブルーオーシャン」の製造・販売、水族館施設等の企画・設計・コンサルタント業務

■事業所
本社・本社工場
香川県木田郡三木町井上3800-1
TEL: 087-864-4111/FAX: 087-864-4611

志度工場
香川県さぬき市鴨庄4532-28
FAX: 087-895-1316

沖縄工場
沖縄県うるま市州崎12-61
TEL: 098-921-2661/FAX: 098-921-2662

神戸工場
兵庫県神戸市中央区港島南町4丁目5-7
TEL: 078-381-9681/FAX: 078-303-3301

■関連企業
U.S. NIPPURA INC.
1710 Abbey Pl. Suite#100-C Charlotte, NC 28209, USA
TEL: +1-704-561-9191/FAX: +1-704-561-9196
http://www.blueoceanproscreens.com/

新屋島水族館
香川県高松市屋島東町1785番地1
TEL: 087-841-2678/FAX: 087-843-9659
http://www.new-yashima-aq.com/top/top.html


沿革
1969年 日プラ化工株式会社を香川県高松市に設立 (資本金 100万円)
1970年 屋島山上水族館に世界初のアクリル製回遊水槽を納入
1974年 海洋設備株式会社を設立
1976年 本社を香川県木田郡牟礼町に移転
1981年 2社を統合し、日プラ海洋設備株式会社となる (資本金 1,000万円)
1982年 海外市場への参入
1989年 志度工場操業開始
1991年 資本金を4,000万円に増資
1993年 北米事務所開設 (シアトル)
1995年 資本金を8,000万円に増資
1996年 ソウル事務所開設
       事業の拡大と業態の変化に伴い、日プラ株式会社に社名変更
1998年 現地法人 U.S. NIPPURA INC.を設立 (ノースカロライナ州)
1999年 U.S. NIPPURA INC. に業務移管の為、北米事務所閉鎖
2001年 本社及び本社工場を現住所に新築移転
2002年 本社に業務移管の為、ソウル事務所閉鎖
2003年 本社 ブルーオーシャン ショールーム増築
沖縄美ら海水族館においてW22.5m x H8.2m x 60cm、重さ135tの1枚パネルを完成。ギネス認定を受ける
2004年 沖縄工場操業開始
2005年 沖縄工場増設
2006年 屋島水族館を買取り、リニューアル運営開始
2007年 神戸工場用地取得
2008年 ドバイにおいてW33m x H8.3m x 75cm、重さ250tの1枚パネルを完成。ギネス更新認定を受ける
2009年 神戸市中央区港島南町4丁目5-7において神戸工場操業開始
2014年 中国においてW40m x H8.3m x 65cm、重さ260tの世界最大1枚パネルを完成。ギネス更新認定を受ける

http://www.nippura.com/ 

敷山 哲洋(しきやま てつひろ)
生年月日 1933年5月7日(82歳)
出身地 兵庫県加東郡
兵庫県立西脇工業高等学校卒業
http://oodoori.com/591

1933年 兵庫県生まれ
地元の工業高校を卒業し
高松市の高周波発信機メーカーに就職
1969年 日プラ化工を設立
水族館の水槽用アクリルパネル生産をスタート
1994年 米国モントレーベイ水族館の水槽が完成し本格的に海外進出を果たす
http://www.bk-web.jp/2013/1201/person.php

※いろいろ多くは語るけど、経歴については詳しく語らない。 



日本経済新聞夕刊 2014/9/16~

水族館に夢詰め込む
 日プラ社長 敷山哲洋さん

米国での受注、世界に名乗り
 巨大水槽で展示に躍動感

巨大なジンベイザメなどが悠々と泳ぐ沖縄県本部町の「沖縄美ら海水族館」。この水族館の水槽用大型アクリルパネルを手掛けたのが香川県三木町の日プラだ。水槽用大型アクリルパネルで世界の約7割のシェアを占める。社長の敷山哲洋さん(81)はアクリルを自在に加工する技術で、水槽の巨大化やチューブ化の道を開き、水生生物本来の躍動的な展示を可能にした。


今春、中国広東省の珠海市に「チャイムロング横琴海洋王国」(Zhuhai Chime-Long Ocean Kingdom) という水族館が開業しました。水槽正面は横39.6メートル、高さ8.3メートル。世界最大のアクリルパネル水槽としてギネス記録に認定されました。
2002年の美ら海水族館(横22.5メートル、高さ8.2メートル)で最初のギネス記録をつくってから、ドバイ(アラブ首長国連邦)の水族館に続き、日プラとして3度目のギネス更新です。チャイムロングでは水族館の総海水量など計5つのギネス認定をいただきました。
来年開業に向けて建設中の別の水族館はチャイムロングよりさらに巨大で、水槽が客に覆いかぶさるように湾曲した形状になります。世界中が驚く水槽になると思います。
今でこそ、グローバルニッチトップ企業と呼ばれますが、ここに至るまでの道は平たんではありませんでした。
当社の転機の一つとなったのは1994年、米モントレーベイ水族館の受注です。大手化学メーカー系列の合成樹脂加工会社でアクリル製品をつくっていた私は、69年に独立して日プラを設立しました。しかし、自分が以前いた会社に知名度などで負け、国内の水族館では契約を取ることができませんでした。
思い切って活路を海外に求めました。モントレーベイ水族館増築の話を聞きつけ、入札に参加。テストピースを送ったところ、水族館館長から呼び出され「検査の結果、あなたの会社の製品が一番優れていた。だが価格が他より1割高い」と言われました。
「このままではまた落とされる」と思った私は「それなら、うちも1割下げます」。もう必死でした。ところが「品質がいいのに、なぜ安くするなどと言うのか。あなたの付けた値で採用する」と。
この水族館長はジュリー・パッカードさん。米国を代表するコンピューター会社、ヒューレット・パッカードの設立者、デビッド・パッカード氏の娘さんです。
ジュリーさんは完成式典の日、集まった世界中の水族館関係者の前で、誰よりも先に私を紹介してくれました。日本の名もないアクリルメーカーが世界に知られるきっかけになった記念すべき日です。
同時にそれは「日プラは品質を追求し、価格競争はしない」という、今日まで生き続ける我が社の「原点」を胸に刻んだ瞬間でもありました。

1枚のアクリル、視界クリアに
 「美ら海」成功、ゴルフ断ち宣言

瀬戸内海の多島美を望む高松市の景勝地、屋島の山頂に新屋島水族館がある。

瀬戸内海に半島のように突き出した屋島の山に水族館を造る計画が1960年代に持ち上がりました。
当時の水族館の水槽はガラス製でした。今日のような大型水槽では、ガラス製では水圧に耐えられません。割れないように厚みを増すと今度はガラスそのものの自重で壊れます。このため、かつてのガラス水槽はサイズを小さく区切って、それを金属の支柱などで支えていました。そうした水槽は、その外観が似ていたことから「汽車窓型」と呼ばれています。
屋島の水族館でも、設計業者はそうした柱のある水槽を設計して施主に提案しました。直径10メートルの円柱型の水槽です。ところが図面を見た施主は専門家ではないので「柱が目障りだ。外してくれ」と言って聞き入れなかったそうです。大型の水槽に支柱を付けないと、割れて大事故につながりかねません。困り果ててほかの素材を探し、アクリルを手掛ける私に話が持ち込まれました。
ガラスより軽いアクリル板なら、支柱を設けなくても水槽にすることが可能です。とはいえ当時は、アクリル水槽は飲食店の展示のいけす用など小型のものはありましたが、水族館用の大型サイズはありませんでした。
このため、実際の10分の1の模型に、水の10倍以上の比重を持つ水銀を入れ、強度実験を何度も繰り返しました。こうして世界初の回遊型大型アクリル水槽が完成しました。69年に開業した屋島山上水族館(現新屋島水族館)は我が社の記念碑的な施設です。
その約30年後、沖縄美ら海水族館建設の時は、すでにアクリルの水槽の時代になっていました。しかし、幅22メートルを超える、これまでにない巨大な水槽ではやはりアクリルを支える鉄骨が縦に4本必要だとされ、当初はそう設計されていました。
ただ関係者の中に「できれば正面には柱という障害物がない、1枚の巨大パネルで魚が泳ぐ姿を見てもらいたい」という思いを持つ方がいました。尋ねられたので「私の会社ならできる」と答えました。私にとっても賭ける価値のある大きな挑戦でした。
美ら海水族館開業の翌日、関係者で慰労のゴルフをした時、私は「ゴルフは生涯、今回で最後にする」と宣言しました。周囲は驚いていましたが、私は「この水族館は間違いなく話題になり、忙しくなる。ゴルフをしている時間はなくなる」という確信がありました。
美ら海水族館は多くの観光客が訪れる沖縄の名所の一つとなりました。私の確信も現実になり、あの日から、今日まで一度もゴルフクラブを握っていません。
 

農家の奥さん支援「面白い男」
 知事の電話、香川離れぬ決意

1933年、兵庫県に生まれた。

地元工業高校で有機化学と無機化学を学び、卒業から数年後、番川の会社杜に就職、お盆などの表面を合成樹脂加工していました。
社内事情で会社を一時離れ、無職だった時期がありました。その間にしていたのは、農家の奥さんたちに竹細工など手内職のあっせん当時、農村の暮らしは楽ではなく、何か支援できれば、と思っていました。無収入でしたが、農家の人がお米や野菜を分けてくれたので、何とか食べていくことができました。
 
それが当時の香川県知事、金子正則さんの目に止まり「なぜ、そんなことをしているのだ」と聞かれたので、本来は知事であるあなたがすべきことを代わりにやっている」。暮らしぶりを問われ「農家の人がたまにマツタケもくれるので、食べ物は会社勤めの時よりずっと豊かです」。
知事に対して若造が偉そうな物言いだったと思いますが、金子さんは「面白い男だ」と、周囲に呼びかけ、8万円を集めてくれました。

私のために集めた金は生活費に充てろということか、事業化資金にしろということだったのでしようか。ですが、私は農家の人たちを慰労するため、貸し切りバスで観光旅行に出かけ、使い果たしてしまいました。後に金子さんから「そういうことのために集めてやった金じゃない!」と大目玉を食らいましたが。

元の会社に呼び戻された後、その社での私のアクリル加工技術が大手化学メーカーに認められ、合成樹脂の新会社の幹部としてスカウトされました。東京の本社で入社面談をしている、まきにその時に1本の電話がかかってきました。金子知事でした。面談していることをどこで知ったのか「君に香川県を出ていってほしくない」。その電話で私は新会社に入るのをやめ「急用ができました。香川に帰ります」と席を立ちました。

当時、金子知事は、著名な彫刻家など、拠点を県外に移そうとしていた人たちの県内引き留めに積極的でした。私のどこを買ってくれたのか分かりませんが、私もそうした1人になっていたようです。
 
幸い、面談した大手化学会社は私に配慮してくれ、香川に新会社の本拠を置いたので、幹部として事業に関わることができました。アクリル加工の調度品などを量産していましたが、自分は1つの製品をじっくり仕上げるほうが向いているのでないか、と悩んだうえで独立して日プラの前身となる会社を設立しました。

会社立ち上げからしばらくは、決して楽な経営ではありませんでしたが、周囲の人たちに恵まれたと感謝しています。そもそも金子知事の電話でのあの一言がなければ、香川生まれではない私が、この地に骨を埋める覚悟はできていなかったかもしれません。
 

「なぜ、どうして」が技術の源
  海の中と錯覚 空間創り出す

モナコ海洋博物館では、乱獲されるサメを保護するため、浴槽のような水槽に入ったサメに触れることができる「タッチングプール」の製作に関わった。

巨大アクリル水槽は、1枚にみえても、実は横3.5メートル、縦8.5メートル、厚さ4センチ程度のアクリル原板を何枚も張り合わせています。厚さ60センチのアクリル板を横からみると、4センチの板が接着剤で何枚も重ね合わせているのがはっきり分かります。ところが正面からみると、張り合わせた部分も透けて、高い透明度で水槽を見ることができます。そのカギは透明度を損なわず、さらにそこから剥離が起きないような強度と粘着度のある接着剤。接着剤はアクリルからできていて、いわばアクリルでアクリル同士をくっつけているわけです。独自開発の接着剤は、日プラの強みの一つでもあります。
アクリルパネル事業での自分の着想の原点は、いつも「なぜ、どうして」と考える好奇心だと思っています。
例えば、ある時、うどん店で床に讃岐うどんの切れ端を落としてしまい、拾おうとしたら靴底の溝に挟まり、取れなくなりました。張り付いた讃岐うどんに感じた「なぜ」が、アクリル板を接着する際に、溶液の流れをせき止める技術に結びついています。
電車に乗ると、レールのつなぎ目でゴトンゴトンという音がするのに新幹線ではしません。レールの熱収縮・膨張をどうやって吸収しているかという「なぜ」も、アクリルパネル設置の際の膨張対策でヒントにさせてもらっています。

nippla

水族館にアクリルパネルを買ってもらうために、ある時期から、水処理やコンクリートの防水など周辺技術力も高めていきました。発注者の希望に沿う水槽を造るために、展示する魚の生態なども研究してきました。
また、技術者には潜水士の資格も取らせています。水槽内側のアクリル板のキズを水を抜かずに補修できるようにするためです。そうした技術や経験の蓄積で、アクリル板の納入だけでなく水族館建設に企画段階から関わらせてもらえるようになりました。
アクリルは水槽の大型化に道を付けましたが、巨大化を進めることだけが目的ではありません。旭山動物園(北海道旭川市)では、チューブ状の通路の周りをペンギンが泳ぎ回る形状を提案させてもらいました。ペンギン本来の生き生きとした動きを見てもらうにはどうしたらいいかを一番に考えなくてはいけないと思っています。
魚にとってストレスのない生活環境であり、見る側の人間にとっても快適な水族館。
それをアクリル加工技術でどこまで表現できるかが自分たちの役割だと思っています。


――――――――
現在大型の水槽パネルを製作しているのは アメリカのレイノルズ社、四国高松の日プラ社と 菱晃-三菱レイヨン-シンシ の3グループ
敷山哲洋

1933年兵庫県生まれ。

地元の工業高校を卒業し、高松市の高周波発信機メーカーに就職。
69年に同僚とともに現在の会社の前身である日プラ化工を設立する。
69年から水族館の水槽用アクリル板生産をスタート。
94年にアメリカの水族館の水槽を受注し海外進出を果たす。

日プラ

主要株主:敷山哲洋、住友化学、桑田硝子


ーーー

シンシ

1952年11月伸始工業株式会社として設立
アクリルなどの合成樹脂の加工販売
業界ではアクリル加工の草分けと評された
長年に亘って「三菱レイヨン(菱晃)」と連携して国内をはじめ世界中の水族館向けアクリルパネルを製作

 http://www.knak.jp/japan/nippla.htm







 韓国からやってきたハッピーチャージャー@携帯用充電器の詐欺事件w
 当初は数百万~数千万の高額投資、摘発は意図的に連鎖販売取引形態に落とし込んで代表が逮捕、本体は逃走。
 建設業界話題だと、指名停止、排除諸々。


 といった事で、いろんな癒着問題がスタート地点♡




香川県庁
解体しましょう。


香川県庁舎
Kagawa Prefectural Government Office
Kagawa Prefectural Office Main Building.JPG
情報
用途香川県行政の中枢施設
設計者丹下健三
施工大林組間組
構造形式鉄骨構造
敷地面積19,800m²
延床面積41,464m²(容積率209%)
階数地上22階、地下2階
高さ113m
竣工2000年
所在地760-8570
香川県高松市番町四丁目1番10号[1]

東館

東館

現在の本館ができるまでは、これが本館と東館であった[1]

丹下の初期の傑作と評される。ファサード(正面からの姿)は、日本の伝統であるを、当時の建築技術の限界での細さで表現した。1950年代の代表建築の一つとされ[17]公共建築百選にも選ばれている。

設計は、当時の金子正則知事が香川県丸亀市出身の洋画家・猪熊弦一郎から紹介されて丹下健三に会い、彼の温厚な人柄と柔軟な思考力、鋭敏な美意識と創造にかける強烈な意欲に共鳴して、「民主主義時代に相応しい庁舎を設計してほしい」と依頼したことから始まる。 金子知事の要望に応えて丹下が設計した案は、彼が旧制高校時代から尊敬し続けてきた建築家ル・コルビュジエによる近代建築の5原則に基づくものであった。その原則とは、(1)ピロティ、(2)屋上庭園、(3)自由な平面、(4)水平連続窓、(5)自由なファサードなどであり、丹下はその原則の総てを織り込んで設計案を作成した[18]

竣工式のあいさつの中で丹下は、県庁舎が県民に開かれた空間であることを強調した[19]

1階部分の壁画「和敬清寂」は猪熊弦一郎によるものである。猪熊は、日本のあるべき民主主義は茶の精神であり、茶の精神は和敬清寂にあり、とこの壁画で表している。

警察本部庁舎

西側に正面が向く。玄関前の左右は駐車場になっている。本館や東館と異なり、訪れる県民は少なくひっそりとしている。 


 太陽の沈む西側正面、ひっそり、等の辛気臭さは意図的にそうしてる。カルト思想。


kk
香川県庁舎旧本館 取材ノート
あの頃の香川県庁舎を語る
2009年5月26日 発行
著者 香川県庁舎50周年記念プロジェクトチーム
http://www.pref.kagawa.jp/maibun/kiyou/kagawakenchoshanote_pp.1-27.pdf
(神谷宏治は丹下健三のスタッフ)

金子 正則(かねこ まさのり、1907年3月29日 - 1996年10月21日)は、日本の政治家判事。6期24年の間、香川県知事を務めた。

生涯[編集]

1907年香川県丸亀市出身。香川県立丸亀中学校を経て1929年東京帝国大学法学部法律学科を卒業、司法官試補となる。1931年大阪地方裁判所および大阪区裁判所の判事に就き(兼任、以下同)、翌1932年旭川地方裁判所および旭川区裁判所の判事に転任。その後、1935年札幌地方裁判所および札幌区裁判所、1936年長野地方裁判所および長野区裁判所、1937年東京地方裁判所および東京区裁判所の判事を歴任している。

戦後、1946年に東京控訴院部長となって翌日付で退職し、郷里の丸亀市で弁護士を開業した。翌1947年に香川県副知事に就任。1950年に香川県知事選挙に出馬し、当選。6期24年にわたって知事を務めた。在任中は吉野川から香川用水を引き、香川医科大学の開設を推進するなどした。1962年の3選時は全国の知事選で初の無投票で当選している。1963年全国知事会の副会長に就任。5選目の1966年8月の知事選挙と県議会選挙で公職選挙法違反で県議や高松市議が複数逮捕され、同年12月に社会党などから不信任決議案を提出・否決されている。7選を目指した1974年の選挙で野党各党の推す前川忠夫に敗れ、引退。

1976年に金子法律事務所を開業し、翌1977年勲一等瑞宝章を受章。1980年香川県名誉県民となる。1996年10月21日心不全のため89歳で逝去。

交友関係など

イサム・ノグチ猪熊弦一郎らの芸術家と交遊があり、1958年香川県庁舎(現・東館)建設にあたっては猪熊の助言で丹下健三に設計を任せ、壁画を猪熊が制作している。また、知事在任中に香川県文化会館香川県立丸亀高等学校武道館を設計した大江宏や、芦原義信浅田孝らの建築家とも交流があった。

県知事在職中、県の特産品として讃岐うどんのPRに率先して取り組んだことも知られている[1]



【カハノフ大使 四国を初訪問】

2月22日(日)~24日(火)、ルツ・カハノフ大使は就任後初めて香川県と高知県を訪れました。

香川県では、浜田 恵造 知事、大野 敬太郎 衆院議員を表敬訪問しました。
また、希少糖に関する研究が長年続けられている、香川大学の希少糖研究センター、そして弘法大師の誕生地として知られる総本山善通寺を見学しました。

次の訪問先の高知県では、尾﨑 正直 知事、高知商工会議所の青木 章泰 会頭にお会いしました。

この度の訪問を終えて大使は、滞在中に、香川を愛した世界的彫刻家の故イサム・ノグチ氏の作品を集めた「イサムノグチ庭園美術館」を訪問し大変感動したこと、エルサレムのイスラエル博物館には、ノグチ氏のデザインした彫刻庭園「ビリー・ローズ・アート・ガーデン」があることに触れ、「懐かしい気持ちがした」とお話しました。

また、四国は農業が大変盛んで、産業に占める農業の割合が大きいことを受けて、同じく農業立国であるイスラエルの点滴灌漑技術や温室栽培法を紹介し、将来、何らかの形で協力していければとお伝えしました。



 (((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル


猪熊弦一郎



 ま、要するに、憎き米帝!9条マンセー!安倍政治を許さない(親北朝鮮)@パヨク枠内に位置してる訳ですわ。




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