社会影響を与えた香川県観光交流局はスルー中w


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■かどや製油 高畑淳子出演のCM自粛…花王に続き長男逮捕影響 デイリースポーツ
http://www.daily.co.jp/gossip/2016/08/31/0009441290.shtml
 
 強姦(ごうかん)致傷罪で逮捕された俳優の高畑裕太容疑者(22)の母で女優の高畑淳子(61)の仕事にも、事件の影響は徐々に広がってきた。
 
 淳子がCMに出演している「かどや製油」が、CM放送の自粛を決定したことがわかった。30日、デイリースポーツの取材に対して同社は「現在(休止の)作業途中で、一部流れているものもあるが、当面は自粛する」とした。栄養サプリ「ごまセサミン」のCMに出演していた。
 
 淳子は事件が発覚した23日現在、同社のほか花王(ウルトラアタックNeo)、KINCHO、日本生命のCMに出演していた。花王はすでに放送を休止。日本生命は「引き続き対応を検討していく」としている。KINCHOは7月で放送が終了しているが、ネット上のCM映像は現在も公開されている。

 ドラマでは、NHK大河ドラマ「真田丸」での“母子共演”が消滅した。裕太容疑者が真田信幸の息子・信政役で10月16日放送回から出演予定ですでに1回収録を終えていた。淳子は信幸の母・薫を演じており、祖母と孫の役で共演するはずだったが、幻に。代役で撮り直されることとなった。
 
 淳子は年内は予定通りに活動し、その後は当面、休業する意向という。9月24日には主演舞台「雪まろげ」が東京・シアター1010で開幕。26日の会見では「この状態でお芝居をやるのは自信がないですが、今年いっぱい、地方の方にも舞台をお見せするのが私の贖罪(しょくざい)だと思っています」と、東京公演、12月4日までの全国ツアーを務め切ることを宣言していた。


かどや製油


 純白ごま油!
 
 かどや製油は小豆島そうめんのゴマが発祥と聞いたことがあるが、ソースが確認できなかった(;´▽`A``

■【PRIME PERSON】ごま一筋。生まれ育った小豆島が培った「信頼」 かどや製油 代表取締役社長 小澤物産 相談役 小澤 二郎さん
http://bn.bk-web.jp/2009/03/person.php

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150年以上の歴史と業界No.1の売り上げを誇る会社がある。「信頼」が勝ち取ったのれんだ。
ごま油の売り上げ日本一のかどや製油(株)は、創業以来ごま一筋でやってきた。その歴史は、1858(安政5)年、そうめん作りに使うごま油の製造から始まった。戦前の統制経済や戦後の競争激化による統合再編を免れ、発祥地の小豆島でごま製品を作り続け、いま世界市場でも信頼されて成長を続けるまれな企業だ。
栄養価が高く酸化しにくいごまは、昔から不老長寿の妙薬とも言われてきた。6代目社長 小澤二郎さんは、企業の不老長寿の妙薬、「信頼」を語った。

※(2007年度 ごま油売上高・シェアー)
かどや製油146億2700万円・シェアー54%。富士経済調査による。


食用油のニッチ

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不況で食用油業界の市場も厳しい。サラダオイルやナタネ油の需要は落ちた。
「3倍近く原料が高騰して、2回も価格を上げてスーパーからおしかりも受けましたが、ごま油の売り上げはあまり落ちません。しょうゆやソースと同じように調味料として使われるので景気の影響が少ないのでしょう」

原料を輸入に頼る食用油業界は、激しい競争で日清オイリオグループ(株)と(株)J-オイルミルズの大手2強に集約されてきた。食用油の中で、ごま油の占める割合はわずか2.6%。大手の主力商品はなたね油や大豆油のサラダオイルだ。
「市場が小さいからやってこられました。私どもはごま油しかありませんから命懸けです。大手とは力の入れ方が全く違います」

※(J-オイルミルズ)
ホーネンコーポレーション、味の素製油、吉原製油が経営統合した会社。

※(日清オイリオグループ)
日清製油、リノール油脂、ニッコー製油が経営統合した会社。


ごま一筋151年

かどやは加登屋という屋号だった。151年前、高橋家が創業した加登屋は、戦前の統制経済時代、香川県に同業者がなかったので統合を免れた。戦後は食糧不足で作れば売れた。しかし大手企業が食用油を製造し始めて、小規模の経営は成り立たなくなった。
1957年、高橋家や銀行からの要請で、戦前から加登屋のごま油を扱っていた小澤物産(株)が資本参加して、当時の社長だった父(故・小澤直平)が4代目として経営に当たりました」
1961年、全国展開するため、土庄町から塩田跡地を譲り受けて新工場を設立、1976年「かどや製油」に社名を変えた。


ごま油を調味料に

ごま油は主に天ぷら屋などの業務用で、用途が限られ消費が伸び悩んでいた。直平さんは自動車関連機械を扱っていた小澤物産の仕事で、アメリカに行く機会も多かった。「向こうのスーパーで、小瓶に入ったピーナツやオリーブのオイルを売っているのを見て思いついたんです」
缶入りだったごま油を瓶詰めにして売り出した。「頭がおかしいんじゃないか。家庭でごま油なんか使わないのに・・・・・・」。同業者に笑われた。

直平さんは食道楽が高じて、本社ビルの中で天ぷら屋と中華料理屋を始めた。しかし、それだけでは終わらなかった。店の料理をヒントに、ごま油を使った料理のデモンストレーションを全国のスーパーで展開した。「料理学校の先生にもお願いして、中華料理はもちろん和食でも・・・・・・冷奴の風味が変わります。ごま油を使う料理をテレビでやり始めたんです」
大手メーカーが後を追ってきた。大手がPRすればするほど、かどや製油のごま油が売れた。


攻めの経営・・・輸出と異業種コラボ

1976年、直平さんの後、遠縁の故・小澤 享さんが5代目社長を継いだ。長い任期の間に経営は守りに入り、組織も硬直化した。
2003年、社外役員だった小澤 二郎さんが6代目社長になった。攻めの経営に転じた。2004年、日本証券業協会への店頭登録からジャスダックに上場移行。株主に純利益の4割を配当すると公表した。自由な議論の奨励と実績による評価で、社員に物心両面のやりがいを持たせた。
「アメリカとカナダへの輸出を強化しました。中国系や韓国系の消費者向けが主です。日系の人たちより数倍もごま油の使用量が多いんです」

色も香りも軽いものが好まれるようになって、純白ごま油が伸びてきた。健康意識が高まって、ねりごまやすりごまなどの食品や、サプリメント商品の需要が増えた。ポテトチップス、納豆、ケーキ、焼酎、酢(特許申請)など、異業種とのコラボレーションでごま油の可能性はますます広がっている。
今期の売り上げ見込みは240億円(2007年度192億円)だが、東南アジアを含めた輸出は22億円(同17億円)まで伸びるという。

※(純白ごま油)
ごま油は、ごまを焙煎することで、特有の色と香りがでるが、純白ごま油は生のまま搾って、精製する。

※(ごまのサプリメント)
ごまには抗酸化作用があり、成人病の予防や老化防止などの効果が科学的に解明されつつある。


原料の確保と安全性と

原料の確保が大変だ。大豆や小麦の値段が高騰して、ごまも輸出国だった中国が輸入国に変わった。「まさに資源戦争です。トンあたり700ドルぐらいだったのが一時は4倍近くにはね上がりました」。国内生産は増え始めたが100トン程度(2006年度)だ。生産量が少ないし価格も高い。輸入量は17 万トンほど(2007年度)。かどや製油の使用量はそのうち6万トン強を占める。

残留農薬の検査を徹底している。「生産地からサンプルを取り寄せて検査します。入荷したらまた検査して貯蔵します。製造時点で3回目の検査をしますが、さらに国の検査機関でも確認をしてもらいます」。手間も経費も掛かるが、食の「安心・安全」は企業の命だ。


「信頼」は生まれ育った地域から

小豆島に工場があると流通経費も時間も余計に掛かる。得意先からの要望や、リスクヘッジのために、2工場体制の計画もある。でも、かどや製油の存立基盤は小豆島だ。
「7割強は地元の人たちで、工場長をはじめ親子2代の社員が何人もいます。その人たちの手が、優しく丁寧にごま製品を作ってくれるんです」
生まれ育った小豆島に根付いて151年。積み重ねた信頼は宝だ。「株主さんに、私どもの商品と一緒に、そうめんや佃煮、醤油を差し上げると、のれんの重みを知っていただけます」。地域との深いかかわりで生まれる信頼が、世界と明日の市場に広がっていく・・・・・・。小澤さんは揺るがない。


ごまパワー(ごまの本・・・かどや製油発行より抜粋)

クレオパトラのお肌も、ごまでつやつや

ごまの発祥地に近いアフリカ東部のプント国からごま油を取り寄せ、香料や化粧液のひとつとして使っていたそうです。


中国では、「食べる丸薬」

宋の時代の医薬学書「経史証類大観本草(けいししょうるいたいかんほんぞう)」に、「ねりごまと、はちみつを混ぜて丸薬にした精神丸(せいしんがん)を、100日連続して服用すると、いっさいの病気がなおる」と記されています。


社員の悲しみや苦労を受け止める

小澤二郎さんは毎月1回必ず東京の本社から小豆島に来る。「社員の顔色を見に来ます。曇った顔をしている社員の話を聞いて『頑張ってくれよ、お前が頼りだ』・・・・・・。励ましで、社員も私も会社も元気になります」
親会社の小澤物産はガソリンスタンドを経営していた時期があった。当事同社の社長だった小澤さんは、自分で車を運転して、12月31日の夜スタンドを回った。「大みそかの遅くまで悪いな、と声をかけるんです。除夜の鐘を聞きながらそれを何十年とやって来ました。社員の悲しみや苦労を、少しでも受けとめるのが経営者の務めです。それでも悪口を言われることがあるでしょう。まだまだ努力が足りないということです」


小澤二郎 おざわ じろう
1937年 9月 兵庫県芦屋市生まれ
1963年 3月 慶応義塾大学経済学部卒業
1963年 4月 三菱電機(株)入社
1968年11月 小澤物産(株)入社
1976年12月 同社 専務取締役営業本部長就任
1980年 6月 かどや製油(株)取締役就任
1992年 7月 小澤物産(株)代表取締役社長就任
2003年 6月 同社 取締役会長就任
      かどや製油(株)代表取締役社長就任
2005年10月 小澤物産(株) 相談役就任
現在に至る
 
 
かどや製油
所在地
東京都品川区五反田8-2-8
TEL:03-3492-5545/FAX:03-3492-5985
http://www.kadoya.com
小豆島工場
小豆郡土庄町甲6188
TEL:0879-62-1133/FAX:0879-62-1135
創 業 1858年
設 立 1957年5月2日
代表者名 代表取締役社長 小澤二郎
資本金 21億6000万円
売 上 192億4800万円(2008年3月期)
従業員数 270人(2008年3月31日現在)
事業内容 純正ごま油、純白ごま油、ラー油、食用ごま製品、脱脂ごま

会社沿革
1858(安政5)年 小豆島で加登屋製油所を創業、ごま油の製造販売を始める。
1957年 5月 事業拡大のため小澤物産(株)と共同出資で、資本金500万円の株式会社を設立、代表取締役社長に小澤直平が就任。本社を東京都品川区西大崎1丁目357番地に設置。
1961年10月 小豆島土庄港に工場用地3万9600m2を取得し、新工場を竣工。
1976年 4月 商号を「かどや製油株式会社」に変更。
1991年 8月 本社を品川区西五反田8丁目2番8号に移転。
1993年11月 日本証券業協会に株式を店頭登録。
1996年 1月 ベトナムゲアン省におけるごま栽培事業に関する覚書及び同国ボカリメックス社とのごま搾油業務提携に関する覚書を締結。
1997年 2月 ベトナム北部・中部の15省の人民委員会とごま栽培事業に関する覚書に調印。
2000年 8月 ISO9002認証取得(2003年8月ISO9001に移行)。
2004年12月 日本証券業協会への店頭登録を取り消し、ジャスダック証券取引所に株式を上場。
2006年 3月 神戸に事業所用土地1万8166m2の土地を取得。
2006年10月 神戸事業所物流倉庫として稼動。 
会社情報
経営理念
我々は健全な企業活動を通じて社会に貢献することを使命とし、我が社をとりまく人々の幸福(しあわせ)を実現する。

会社概要
社名
小澤物産株式会社
代表者
代表取締役社長  小澤 一彦
創立
昭和11年8月10日
設立
昭和23年4月28日
本社所在地
〒141-8525
 東京都品川区西五反田7-24-5
 
TEL 03-3492-5555(大代表)
FAX 03-3492-5570
資本金
5,000万円
従業員
90名
会社沿革

昭和11年(1936年)の創業、食用油の卸売業として、創業者・故小澤直平が東京都品川区に店を開いたのがはじまりです。昭和23年(1948年)、小澤商店に組織変更し、戦後のエネルギー産業の発展と共に躍進を続け、昭和45年(1970年)、小澤物産㈱に社名を改称いたしました。
特に戦後は、三菱石油株式会社(現JXエネルギー)の特約店として石油製品を扱い、日本の高度成長期、第一次・第二次オイルショック、バブル経済の崩壊などの大きな変事に際しても多くのお客様・お取引先に支えられ創業80年の歴史を刻んでまいりました。その間、ごま油のかどや製油㈱、石油製品の㈱ENEOSフロンティア等が分離独立をしました。
弊社は創業時の熱意と培ってきた経験を土壌として、さらなる経営改革を推進し、お客様に信頼され、満足していただける企業活動に取り組んでいます。

http://www.ozawabussan.co.jp/company

国外追放

秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とした。しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行される。キリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせた。その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島肥後国などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らした。

天正18年(1590年)の小田原征伐にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍している。金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれる。また利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われる。慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中国射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれる。

慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月8日(1615年2月4日)に息を引き取った。享年64。

葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で盛大に行われた。右近の死後家族は日本への帰国を許され、現在、石川県羽咋郡志賀町代田福井県福井市大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/高山右近







 かどや製油小豆島工場



 あまり書くと、なんかギャンギャン言われそうw

 ごまセサミンどうぞっ!




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