・2017年1月17日火曜日 プロトコルX がZero Toleranceモードに・・・(爆wwwww





⇒2017年1月17日火曜日 韓国タイヤ大手のネクセンタイヤ、豊田通商と合弁
http://tokumei10.blogspot.jp/2017/01/blog-post_17.html#more



 石油・ゴム。ご(む)めんしん方面がw

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左からネクセンタイヤコーポレーションのカン ホ チャン社長、ネクセンタイヤジャパンの工藤大輔副社長と西村 竜社長、豊田通商の貸谷伊知郎常務。左からネクセンタイヤコーポレーションのカン ホ チャン社長、ネクセンタイヤジャパンの工藤大輔副社長と西村 竜社長、豊田通商の貸谷伊知郎常務。

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ネクセンタイヤの「N FERA RU1」は、ポルシェに「カイエン」の純正装着タイヤとして採用されている。
 
韓国タイヤ「ネクセン」の正規販売がスタート 2017.01.16
http://www.webcg.net/articles/-/35800

2017年1月17日
Nexen Tireが豊田通商と合弁で株式会社ネクセンタイヤジャパンを設立
AsiaNet 67155(0081)

【ソウル(韓国)2017年1月17日PR Newswire=共同通信JBN】
*Nexen Tireが世界的ネットワーク拡大を加速

Nexen Tireはこのほど、豊田通商との合弁会社である株式会社ネクセンタイヤジャパン(Nexen Tire Japan Inc.)の設立式を行った。

東京で行われた設立式には、Nexen Tireのトラビス・カン最高経営責任者(CEO)と豊田通商の貸谷伊知郎自動車本部長など関係者が出席した。シナジーを目的とした両社間の協力に関する議論は2015年6月に始まり、この議論が合弁で株式会社ネクセンタイヤジャパンを設立する株主間の契約署名へと発展した。

トヨタグループの貿易担当部門である豊田通商は、主として自動車および自動車部品の輸出を担当しており、さらに金属、ケミカル、エレクトロニクスを含む事業にも積極的に携わっている。1948年設立の豊田通商は日本の貿易商社トップ5に入り、6つの営業部門と150のオフィス、世界に900の子会社を保有し、2015年度の収益は670億円(約5億9100万米ドル)。

株式会社ネクセンタイヤジャパンの株式は51%をNexen Tireが、残り49%を豊田通商が所有し、株式会社ネクセンタイヤジャパンは今月からNexen Tire製品を販売する。株式会社ネクセンタイヤジャパンは組織内の現地マネジメントとともに、市場でのRE事業の強化と、多様なマーケティング活動を進める日本の自動車メーカーへのOEサプライを強化するため事業活動をカスタム化する。

Nexen Tireは豊田通商のブランド認知と流通ネットワークを利用して事業拡大を目指し、Nexen Tireのブランド認知度上昇と日本市場での販売増を目指す。

Nexen Tireはポルシェ、フォルクスワーゲン、ルノー、FCA(フィアット・クライスラー・オートモービル)などの世界的自動車メーカーにOEを提供しており、多様なマーケティングのため積極的に様々な活動を行ってきた。同社はFacebook、YouTube、ブログなどのソーシャルメディアを通じて顧客と密接にやりとりし、数々の興味を引く有用な情報を提供している。Nexen Tireはまた、米国のドリフティング・シリーズのFormula Driftや英国プレミアリーグのマンチェスター・シティ・フットボール・クラブとの公式パートナー契約、チェコ・プレミア・アイスホッケー・リーグBK MladaBleslavのスポンサーなど多彩なマーケティング活動を通じ世界的な認知を確立している。

▽Nexen Tireについて
Nexen Tireは1942年に創立された世界的なタイヤメーカーで、韓国の慶尚南道梁山とソウルに本社がある。世界で最も急速に成長しているタイヤ製造業者の1つであるNexen Tireは、世界の141カ国にある491のディーラーと連携し(2015年7月現在)、3つの製造工場-韓国に2カ所(梁山と昌寧)、中国に1カ所(青島)-を保有している。第4の製造工場はチェコのジャテツで、2018年に操業を開始する。Nexen Tireは、先端技術と優れた設計により、乗用車やスポーツタイプ多目的車(SUV)、小型トラック向けのタイヤを生産している。同社は、先端技術を駆使したUHP(ウルトラ・ハイ・パフォーマンス)タイヤの生産にも力を入れている。同社はまた、2014年に世界のタイヤメーカーの中で初めて4つの世界トップデザイン賞すべてを獲得するグランドスラムを達成し、さらに2015年にはGerman Design AwardのSpecial Mention賞、2016年には日本のグッドデザイン賞を受けるなど、毎年ブランドに対する世界的な好評を維持している。詳しい情報はhttp://www.nexentire.com を参照。

Photo – http://photos.prnasia.com/prnh/20170117/8521700302

ソース:Nexen Tire
http://prw.kyodonews.jp/opn/release/201701177975/





住友ゴム!



 不正・汚職の無い処は存在しない韓国の裏金標準事情w




イセキとポルシェと住友と玉木雄一郎
 繋げとくw






 といった訳も有って、香川の田舎にはポルシェオーナーが多かったw


 で、住友財閥と言えば愛媛県の別子銅山。吉野川水系銅山川(中央構造線)から瀬戸内海側への分水地は、<ヽ`∀´>沸いてるw

 因みに富郷ダムからの分水先には大王製紙w

 富郷ダムの貯水池上流が住友林業の発祥地。

平成22年度北九州市立大学公開講座 (同窓会員による講演)
基本テーマ 「北九州市立大学をバネに活躍する人々」

「母校ESS魂の国際交渉力」  
   住友林業(株) 代表取締役会長 矢野 龍(S38・外国語学部米英学科卒)


どうも改めてこんにちは。過分のご紹介ありがとうございます。
47年ぶりに我が愛する母校に帰ってきました。当時は木造二階建てで、冬はほんとに隙間風で暖房もなくて震えて勉強していたのを思い出します。このように立派に校舎も作っていただいて北九州市の皆様に本当に心から感謝いたします。
 持ち時間90分と言うことですけれど、約7、80分位で後は質疑、ご質問あればお答えさせていただきたいと思います。  
 私は昭和15年4月21日生まれです。たぶん今日のお集まりの方の中で私が一番年上だとおもいます。
 1963年、昭和38年外国語学部、米英科卒業でございます。
 私の愛する嫁さんは二つ下の昭和40年の同じ学部同じ学科の卒業生でございます。
 私の今日のお話の構成は、ありふれて恐縮ですけれど、まず、私の生い立ちについて、それから二番目に学生生活について、三番目に企業人としての住友林業での経験について、最後には親愛なる、わが後輩の学生諸君、および北九州の市民の皆様にお伝えしたいことがございますので、その4つに絞ってお話したいと思います。
 この年になりますと結構講演を頼まれまして、先日は東大の経済学部の生徒に向けても講演を行いました。今日は一つ、できるだけ楽しく話したいと思いますのでよろしくお願いいたします。
 私は、1940年、昭和15年満州で生まれました。今年がちょうど70歳古希と言うことで、たぶん今日学生の皆さんのおじいさんくらいになるのではないかと思います。
 私はまだまだ気持ちは30代のつもりですけれど、やはり先ほどESSの学生の皆さんに会ったら、やはり若さは残念ながら全然違うなと思いました。
 さて、話は戻りますが、第二次大戦で引き上げたとき、この中で引揚者の方おられたら手をあげてください。私は戦後、5歳で日本へ引き上げてきました。当時は本当に貧乏で、姉、妹、私の3人を、32歳のお袋が日本へ連れて帰りました。親父は36歳ですでに戦死したと聞いています。ただ、当時は日本国民全員が食べる苦労したというような状況でしたので、特にお袋だけが苦労したという訳ではないと思いますが、ほんとに血のにじむ思いがしました。
 お袋は大正3年生まれの93歳です。ごうの寅といいます。強いですね。毎晩晩酌しております。週に三回三越の老人麻雀大会に出ております。6年連続全国の麻雀チャンピオンになっておりまして。ご存知のように、よく企業が悪いことする経営者が国会に呼ばれますよね。
  そういうニュースがあると必ず電話がかかってきまして「龍ちゃんわるいことしてないね」と古希の私に向かって「悪いことしてないね。したら先祖に申し訳ないと」言われます。今も時々会いますと、ちゃんと嫁さんがボーナスのたびにきちんと仕送りをしていますけれど、嫁さんがいないときに、ちょっといらっしゃいと影でそっと1万円くれます。悪いことしたらいかんよと。実は初めて嫁さんに言うのですが、嫁さんには内緒にせと言うことで。
 ほんとに気丈なお袋で、僕のほうが先に死ぬのではないかと思っていますが、毎日お袋には感謝しています。
 日本に引き上げてきてからは、東京は震災で焼かれておりましたので、母方の田舎に帰りました。山口県美祢郡大字山中字山中、すごいですね大字山中字山中ほんとに山の中でした。帰ったときは家がなかったので、川沿の水車小屋で過ごしました。ビュービューと吹く水車小屋で4人で、姉と妹と私とお袋でせんべい布団で寝た記憶があります。
 父が早く亡くなっているので、男というのはオスと言う本能でしょうか、やはり中学生くらいになりますと、自分の家はお袋、姉さん、妹と、女性ばかりだということで、やはり自分が家族を守らないといけないなという意識は本能的にあったと思います。 ちゃんと枕元に木刀を置いて寝ていました。いざと言うときに家族を守るのだと。そういう気概がありました。
 自分たちがここまで生きてこられたのも、やはり先祖それから親父が戦死して我々をみまもってくれているなと日々感謝しております。
 小学校、中学校、高校と山口県で貧しいながら、大自然を相手にしながら毎日日暮れまで遊んだという記憶があります。自慢することではありませんが、まったく勉強しませんでした。
次に我が北九大の生活ちょっとお話しますけれど、今申し上げたとおり、頭はあんまり悪くないと思うのですが勉強しませんでしたので、しかし浪人はいやだと、ぎりぎりと本大学に拾っていただきました。これも何かの縁で北九州大学に拾っていただいて心から感謝しております。
 高校時代までラクビー、野球と、運動はなんでもしましたので、大学に入って少しは勉強をしないといけないなと言う自覚をするようになりました。それで自分の能力を省みないで、よし英語が話せるようになろうと一大決心をしまして、当時の英語研究会に入部しました。当時の英語研究会では、ほとんどの同級生一年生は大体の日常英語がしゃべれました。ただ私は恥ずかしいことに「How are you?」「thank you」「I’m fine」「And you?」それもいえなかったですね。ましてはいわゆる「th」「θ」「f」「V」そういう基本的な発音もできませんでした。
 冷や汗の連続でしたけれど、私なりの図太さと開き直りで、言語というのは意思が通じればいいのだという気持ちでやりました。したがって一年生のときから、門司港などに入ってくる外国船に関わる通訳をしました。 
 当時を反省しますと、たぶん相手は私の通訳の10%もわかっていなかったなと思います。そういう中で、2年生になりますと、英語討論会「English rebating contest」と言うのがあるのですけれどそれにも参戦いたしました。優秀な九大とか西南大学の優秀なチームと5人対5人で、テーマを決めてディベートするのです。
 一生懸命やりましたが、当時はうまく発音ができなくて、西南大学の人から、「おたくのチームのミスター矢野の英語はわからない。」と、討論会に出すならきちんと討論できるくらいの英語能力の人を北九大は選ぶべきだといわれました。ひどいこといいますよね、つまりそういう状況でした。
 3年生になるとESSの中で私は「イングリッシュ・スピーキングコース」を設立しまして、そのヘッドになり、北九大主催で近くの高校生の弁論大会などを実施しておりました。当時は川上先生と言う有名な先生、ハーバードなんかでほんとのネイティブに近いスピーキングが出来る先生がいらっしゃいましたが、私が弁論大会の司会をしたところ、審査員発表のときに先生から、「今年の司会は最悪の英語の能力で申し訳なかった」と言われたものです。
 また、もう一つ僕が失敗したのが、土曜の主催を日曜に変更した回がありまして、それを通知するのが私の役目だったのですが、超優秀な小倉高校だけに連絡していなかったのです。それで間違った日にその生徒と先生といらっしゃっていて、たまたま僕が学校にいるときだったので連絡をしていないことがわかって、そのときの女子学生たちには泣かれるし、説明はつかないし、ひたすらお詫びしました。
 それ以降、小倉高校は絶対に北九大を受験させないという風になったのではないかと、したがって今日、一般の皆さんで、もしお子様が小倉高校ご出身で、北九大に入れなかった方がおられるなら、全て私の不手際によるものでございまして、この場をお借りしてお詫びいたしますので、ぜひ来年からは小倉高校の関係者の方は我が校、本校にも受験していただくと学長に成り代わり心からお願いいたします。
 そういうことで「as be all seen Tellez’s」古いことわざ、「Practice makes perfect」と言う言葉があります。要するに「習うより慣れろ」と、言うことで私の英語力も年々スキルアップしてまいりました。今日は一つ愛する学生後輩の学生諸君にアドバイスを3ついたしますけれど、1つめは、語学の目的は意思が通じることですので、勿論パーフェクトな発音で、正しい英語しゃべったほうがいいのですが、「失敗を恐れずになんでも挑戦する」というのがアドバイスでございます。
 私の学生時代のビックイベントとしましては、当時海外との姉妹大学がなかったのですが、私は姉妹大学委員会の委員としてワシントン州タコマの「UPS=University of Puget Sound」と本大学との姉妹大学を締結いたしました。
 また、この北九州市の合併、合併がたしか1963年か1964年でしたかね、私は二年生三年生のときにその北九州合併委員の学生側の一人でした。そして門司とか小倉とかありとあらゆるところをまわりまして、アンケートを実施しました。賛成するか賛成しないか、もちろん一日アンケートやりますとバイトにもなりました。バイトが本家だったのかアンケートが本家だったのか今となったらわかりません。当時北九大でも設備委員会の中で私も最終的なアンケートの集計、その他の活動に参画しました。北九州市へと合併となり、しかもこのように立派な校舎も作っていただいて、当時の私の力が発揮されたのではないかと自負しております。
 そして、皆さんにお伝えすべきは、先ほど山崎先生からもご紹介していただきましたけれど、今日、同伴してまいりました2歳年下の後輩に運命的な出会いで、学生時代に婚約し卒業を待って結婚しました。
 今日は大人の方がいらっしゃるから多少のろけさせて頂きますが、自慢話ではありませんが当時の嫁さんは大変優秀だったようで、1年生から生徒会の書記長をやっていました。
 新入生は入学当初に「イングリッシュ・スピーキングコース」の見学にきていたものですが、嫁さんは1回だけ出ただけで2回目からは来ませんでした。結婚してから聞いたのですが「あなたの英語はあれは英語で無かった」こんなスピーキングコースのヘットに習ったらエラいことになるので入らなかったと言っていました。
 しかし人間の縁は不思議なもので、私は大学3年のときに住友林業に就職が決まったものですから、家庭教師をいろいろ頼まれていまして、それを、嫁さんに引き継いでもらうこととなり、それからなんとなく付き合いが始まりました。皆さんご存知のとおり当時は非常にピュアな、純粋な男女関係でございましたので、手を繋いだだけで結婚しないといけない、と言うような高邁な倫理観がありまして。我々がキャンパスで手を握って歩いていますと、当時の学長に呼び止められ、「キャンパスを二人で手を繋いで歩くなら、君たちは婚約しろと」と言われ、学長命令で学生時代に婚約しました。
 四年生卒業するまで、後から申し上げますが、私は住友林業に入社する初めから海外駐在員と決まっておりましたから、卒業を待って結婚したのです。
 これからは学生の皆さんに非常に大切な2つめのアドバイスをいたします。
 結婚式は山口県の大きな神社でやりました。皆さんご存知のとおり、祝詞という宣言をするのです。誓って「夫、矢野龍」と言った後に、妻が自分の名前を言わないといけないのです。ただ、そのとき私は緊張していたせいで、両方とも私が宣誓してしまったのです。すると、なんと半世紀経った今でも、嫁さんと喧嘩をすると、私はあのとき誓約していないから結婚は無効だ、ということを言われてしまいます。したがって学生諸君へのアドバイス2は、「誓約するときは沈着冷静にちゃんと誓約する」ということであります。
 アドバイス3に繋がる話ですが、当時の家庭教師をいくつか受け持っていましたが、大学教授から、小倉高校の優秀な三人に英語の文法を教えることを頼まれました。ただ、大変優秀な学生たちだったものですから、時々、「先生、その文法違うよ」と、正しい文法はこうなのだと、小倉高校の生徒が逆に大学生の僕に教えてくれるのです。僕も馬鹿だから「おお、そうなの、ありがとう」とお礼。今となっては三人とも東大や順天堂大に進学し、今は医者や弁護士をやっていて、ご縁が続いています。
 時々連絡がありまして、先生に教えてあげて、かえって勉強になったというひどい言われようです。感謝しますといわれて、今でも非常に複雑な不思議な気持ちで時々落ち込んでいます。
そこでアドバイスNO.3は「家庭教師を選ぶときは、その先生の善し悪しでなく自分で勉強する以外ない」と。いうことであります。

さてここから住友林業での経験についてお話します。私は昭和38年4月に住友林業に入社しました。宣伝になって申し訳ないのですが、あまり当社のことをご存知ない方もいると思いますのでお伝えいたします。住友林業㈱は住友グループのひとつです。 住友家と言うのは、元々京都で書物と薬問屋やっていまして、400年前に創業者政友、住友政友が創業開始しております。三井、三菱と財閥ありますけれど我がグループが一番古いということでございます。住友グループというのはどちらかというとあまりPRする会社じゃありませんのでご存知ないかと思いますが、関係会社、子会社、海外の会社など全部入れますと、実質的には売り上げ、従業員、収益などの規模としては世界最大の集団です。
 話は戻りますが、住友家は江戸幕府から頼まれ元禄四年、1961年愛媛県の別子銅山に銅山開発で投資します。
 その経営には森林が大きく関わっておりまして、森林からの生産を坑木とか燃料とかに使うため管理を行ったことから、住友林業は1691年が創業となっています。
 住友グループは400年前ですけれど、わが社は319年の歴史で、日本有数の長寿命企業であります。したがって当時から意識したのではないと思いますが1961年から住友林業は営々として森林を守り、自然環境に貢献してきているという、世界でも非常に高く評価されている企業でございます。
 現在、住友林業は国土の900分の1を所有しています。大手山林所有者会社の一つです。
 さて、住友グループには、私が非常に誇りにしている「住友精神」というものがございます。これは非常に高邁な志であり経営理念の根幹となっております。
 住友精神とは、わかりやすく申し上げますと、住友が事業を行う場合はその事業は天下国家社会国民のためになる事業であるべきというものです。
 すなわち事業で一番大切なのは、利益ばかり追求するのではなく、我々が展開している事業がまず国民のためになっているかどうかだと。当然ですよね。人間の営みの中で事業をやっていれば、まず行っていることが社会の役に立たないかんと。
 毎年4月に住友家の法事が京都でありますが、全社長、社長・会長経験者は夫婦で参列し、「住友精神」を再び皆で確認しています。

 戦後、色々な会社が出来ましたが、自分の儲けだけ考えて事業を行っていた企業は全部つぶれているでしょう、100年続いていませんよ。なぜ住友グループが300年、400年続いているのかというのは、結局人間の常識的な営みの中でやっていることだからですね。常に社会に役に立っているかどうかという判断基準を持ち、我々住友グループの社員は徹底しております。したがって私はたまたま一社の経営のトップになりましたけれど、その責務を遂行するに当たりだと思っています。この「住友精神」を誇りにしてきてよかったなという気持ちで毎日仕事をしております。
 次のアドバイスですけれど、わたしは事業も文化も芸術も宗教も、全て人のためになって生かされていくのだと思います。やはりせっかく神様が一つの命を授けてくれましたので、それを大切にして全て行動することが社会の為になるということが大本質であり絶対的な座標軸だと思います。
 そういうことで、話は住友林業の歴史に戻りますが、1880年頃になると、銅山開発による大量の亜硫酸ガスなどのせいで、世界でも南米からヨーロッパなど多くの山々は禿山になりました。ただし、住友の場合は、そうした状況を憂い、伊庭貞剛という人物の呼びかけで、100年かけて何百万本という年間植えるという「大造林計画」を実行し、元の豊かな森林を復活させました。今となっては、世界的に見ても素晴らしい功績と評価されています。
 さて、住友林業は現在、総合住生活関連事業をグローバルに展開しております。「住友林業グループは再生可能で人と地球に優しい自然素材である「木」を活かし、「住生活」に関するあらゆるサービスを通じて、豊かな社会の実現に貢献します。」という経営理念を掲げ、行動指針として、住友精神、人間尊重、環境共生、お客様最優先を掲げています。

 先ほど申しあげましたように、住友グループの事業は、国家・社会・国民のためになる事業を行うと、いうのが経営理念です。
 一つここで申し上げたいのは、300年前に当時の住友の人達は、今日、21世紀の最大のテーマである事業テーマである環境問題と言うのは意識していなかったと思います。
 けれど、結果的に、営々として森林を守り、自然環境に貢献してきました。なぜ私は森林がこれから大切かと言うと、木は、地球上で唯一再生可能な資源なのです。
 人類は20世紀まで1億年、2億年かかった石油とか鉱山を採掘し、傷つけて採り尽くしてしまったのです。そして今日の環境問題を起こしているのです。
 しかし、森林は植えて、育てて、伐採して、また植える、というサイクルを繰り返すことができます。我々はこれを「保続林業」(サステナブル・フォレストリー)と呼んでいます。
 現在、国を挙げて、木造住宅の振興、荒廃した日本の山林復興のための国産材の活用を推進しています。わが社は今、私は国に対して「森林と林業の改革」というものを訴えています。木はCO2を吸収固定するという役割を担っているので、今後の環境問題に対しても大きな役割を担っています。
 “木造住宅を作るということは、都会に森を作る”いわれるのも、そうした所以です。

 今年はCOP10が名古屋で開催されましたが、そのテーマである「生物多様性の保全」についても、森林は大きな役目を果たしており、私は経団連の中の「自然保護協議会」の副会長としても、森林の重要性について訴えています。

 住友林業もCOP10の会場ではブースを出展し、日本の森林会社として、生物多様性の保全についてどのように貢献できるかなど訴求しました。
 21世紀は環境共生の時代です。ただ、具体的にはまだまだ様々な課題があります。たとえば、東京には代々木公園や皇居など緑が多く見られますが、割合でいうと、先進国のビックシティの中では東京の緑化率が一番低いのです。
 本当はもっともっと森林率を高めて、CO2の吸収固定をし、排出とのバランスが取れるようにしなければならないと思っています。今後人類がこの地球上で永続的に生きていくためには環境共生が非常に重要なのです。
 我社は現在、総合住生活関連事業を展開する企業として、木に関して、植林事業など、“川上”から、木を生かす住宅事業など“川下”まで、海外でも手広く事業を展開しています。もちろん木材製品の輸入、製造なども行っており、木のプロ集団として世界規模で事業を展開しているのが我社です。
 話が前後しますが、住友林業での簡単な経歴をご説明します。私が入社した頃は、ちょうど当社でも世界貿易が本格的に始まった頃で、海外駐在員枠と言う特別枠で採用されました。当時の住友は旧帝大、東大や京大、九大、大阪大学、北大など、旧帝大しか学卒を採用しておらず、その他の大学からは数名が海外駐在員枠で採用されたという状況でした。筆記試験その他ありまして一人採用。すなわち私が採用になったのです。試験を受けたときには、まさか受かるとは思っていませんでしたが、試験後、大学の厚生課に「直ちに帰って来い。君は内定している」という知らせがありまして、これも縁ですね。そういうことで、海外駐在員枠で私だけが採用されました。入社して人事課長がなぜ君をとったか知っているかと言われました。実は、“駐在員枠”とは聞こえのいい言葉ですが、違うのです。実際にやっているのは山林調査をし、搬出、船積み、選木など、体力勝負の仕事ばかりやりました。当時は一年に二回位しか休んでいません。あの大きな北米大陸を相手にロッキー山脈、キャスケード、カナダ、アラスカ、というところで山林を買い付ける立場ですね。でそういうことで、人事課長いわく、君が一番現場作業にちょうど合ったのだと、それから君は一番明るかったから採用したと。筆記試験なんかどうでもいいのだ、ということを聞かされ、またこれショックですね。
 その後は、基本的に駐在員ということで、海外事業にずっと携わっていました。そして、1988年に取締役になった際も海外事業担当でした。
 住友林業はどんどん仕事を任せてくれるので、もうがんがんやりました。この会社は結構だな、何百億使わせてくれるなと。たまたま高度成長とか、その都度、その都度、いい時期に私はいい手を打てたのだと思います。

 話が色々と長くなりましたが、講演の最後に、学生、親愛なる我が愛する後輩にちょっといろいろ申し上げたいと思います。皆さんには、やはり夢を持っていただきたいと思っています。私にも夢があります。  私は110歳まで生きるつもりですけれど、特に新入社員には、住友林業は国内の最大の林業会社でなくて世界一の会社になろうと言っています。30年以内に世界一の森林会社になります。
 今日ここで宣言します。それはもう着々と手を打っています。
 なぜ世界一になりたいか、それは何度も申し上げますように、住友林業は、地球上で唯一再生可能な資源森林を扱っている会社だからということです。また、木はCO2を吸収固定して地球環境に役に立っていますから、要するに人類、地球のために役に立っている事業なのです。そのために、日本で一番ではダメですね、やはり戦いは世界です。
 今、新入社員が入ってくると、22歳くらいですが、30年後と言うのは50歳くらいになっています。つまり、僕はこの人達に遺言として、君らが役員になる頃は世界一の森林会社にすると約束してくれ。それまでは生きているよ、と言うことにしております。
 また、日本は今最大の危機に直面しております。私は日本国民全員がその危機を共有し、この難局を僕は全国民一人ひとりが力を合わせて克服する必要があるという使命感も持っています。
日本は残念ですが、人口はピークアウトして、完全に縮小均衡の中に入っています。だからといって私は怯んでいる暇は無いと思っています。やはり日本人は勤勉、まじめ、正義感、等々優秀な特質をもっています。この持ち合わせる特質をちゃんと生かして、我々英語でpro-active「プロ・アクティブ」、つまり前向きに世界に羽ばたこうという時が来たと私は確信しております。
 我々は企業人、経済人です。当然グローイング・マーケットを視野に事業展開します。グローイング・マーケットとは何か、具体的には、BRICsつまり、ブラジル・ロシア・インド・チャイナ、などです。ネクストイレブン11これは次のインドネシアとかベトナムとかメキシコとかいろんな国11カ国です。このグローイング・マーケットに我々はビジネスオポチュニティを見つけてどんどん進出していっているわけです。  
 これからも果敢に挑戦していきます。しかし、そこは住友林業の原理原則をもって、その国に進出したら、我々の事業はまず、その地域社会に役に立つこと、というのが大前提です。
したがってその国のために住友林業は一役でも二役でもかうという覚悟で、徹底して若い駐在員をどんどん送っています。北九大の卒業生で当社に入社した30歳くらいの社員がいますが、これは今ベトナムの支店長です。苦労していますが、これからも若い人をどんどん現地に送り込みます。
 今は経済を自由貿易にするという議論がなされていますが、私もどんどん進めるべきだと思っています。補助金や関税をもらって、ぬくぬくしていたらつまらない。

 なぜフリートレードかと言うと国際競争力高めるのです。
 日本は人口がピークアウトして縮小均衡なのです。これを逆にチャンスと捉え、国際競争力を高めることで、5年10年以内に日本は農産物の輸出国になっています。いずれ林業も輸出国になっていると信じています。
 アジアの中でいるのです。だから国にも、余計な保護政策をせず、国民、農家、林業家の人達に役に立つことをちゃんと政策として反映してくれといっているのです。
 今後の日本が国際社会で戦っていくという意味で、いま北九大の大学生の役割は非常に重要だと思っています。
 だから僕は親愛なる我が後輩に、まず高慢な志を持ってほしい。そしてチャンスなのだから果敢にチャレンジしてほしい。

 やはり自信と誇りを持ってチャレンジしていただきたいと思っています。
 最後に市民の皆さん我々これから生きていく上で一緒ですけれど私の好きな言葉言います。
 「Where there's a will, there's a way.」これものすごい中学英語ですよね。 「志あれば必ず道は開けていく」私は信じています。本当にそうです。
 それから私が1963年昭和38年卒業ですけれど、大学の二年のときにケネディが大統領就任し、残念なことに、63年11月に暗殺されます。
 もうひとつ、「Ask not what your country can do for you. Ask what you can do for your country.」これも簡単な英語です。「ask not」否定しています。「 what your country can do for You。Ask」これは肯定です「 what you can do for your country.」「あなたの国があなたのために何をしてくれるのかを問わないでください。あなたがた国民がアメリカのために何をできるかを問いたまえ」、大変すばらしい言葉ですね。このcountry をcompany にかえられます。あなたの会社があなたのために何をしているかそんなこと聞きなさんなと、「ask not」と言うのは、あなた方が住友林業のこのグリーンのバッチを持ったら、この会社をどうするのだと、たまたま住友林業の職場に立って、自分の人生を悔いの無い人生にチャレンジするのがあなた方だよと言うことを言っているのです。 
 それと今日は先輩方60歳以上の方おおいのですが、私はずっとこう思ってきました。「人生は自己との戦いである」。不思議なもので、今日はきついな、やめておこうかなと怠けたら、怠けただけの結果しか出ないです。血のにじむ思いを出したら必ず結果がついてきます。と言うことで、よく僕は新入社員には「人生は自己との戦いである」ということを言っています。親愛なる後輩へ言います。北九大出身者で今のところ住友林業に入っているのは私を含めて16人しかいません。少ないです。もっともっと住友林業に入って頂きたい。やる気の無いひとは最初全部落とされます
が、成績は問いません。ただ、私は紹介はしますが、人事部の4回の面接をクリアしていただかないといけない。ですから、まず今日お集まりの学生さんや私の話を聞いて下さった方のご親族のなかに、一人くらい住友林業に入れてやろうかと、思われる方は直接私に行ってください。喜んで受験していただきますが、全てお子さまの努力次第です。気力・やる気だけです。皆さんからのご紹介をお待ちしております。
 以上半分お役に立ったかどうかわかりませんけれど、これも縁です。話を聞いていただきありがとうございました。

http://kitakyu-dousoukai.com/koukaikouza/5.html




 ヨーコ物語(竹林はるか遠く)はタブーみたいw




日本基督教団!





 桃太郎の石像は近年設置したものですw


鬼畜米英wwww

 うどん県はさぬきうどん献金の追及はやらないのけ?
 癒着 絆の輪(゜▽゜*)ニパッ♪


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