籠池一家の歴史 10億円の借金や糞尿嫌がらせ等で変化
2017.03.30 11:00

「事実は小説より奇なり、でございます。私が申し上げていることが正しゅうございます」──。虚偽の証言をすれば偽証罪にも問われる証人喚問で、3月23日、学校法人「森友学園」理事長の籠池泰典氏(64才)はそう見得を切った。

 そもそもは国有地が破格の値段で学園に売却されたことに端を発し、安倍晋三首相(62才)や妻の昭恵さん(54才)を巻き込んでの騒動に発展したこの問題。当初は関西のイチ教育者に過ぎない籠池氏だったが、カメラの前に姿を現すごとに強烈なキャラクターが鮮明になり、最近ではテレビをつければ籠池氏の顔ばかり。ついには国会にまで出てきて首相や大阪府知事を相手取ってがっぷり四つだ。

「朝日や、やっぱり。やっぱり朝日や! もう朝日嫌い! 朝日嫌いってみんな叫んで!」

 3月9日の会見でそう絶叫した籠池氏の妻・諄子氏(57才)に、長男・佳茂氏(36才)は「共産党と朝日新聞が組んで事態が勃発した」とぶち上げた。籠池氏から次期理事長を託されたのは長女・町浪(ちなみ)氏(32才)だ。今、世間の目は籠池ファミリーに釘付けになっている。

 理屈っぽい夫と激情家の妻とそれを盲目的に追従する子供たち。その家族の“根っこ”には愛国主義への異様な執着がある。この家族はどこから来て、そしてどこへ向かうのか──。

 籠池氏のふるさとは香川県高松市。瀬戸内海を臨む港町で、海運業を営む裕福な家庭に生まれた。

「生家の目の前の道は近所では『籠池通り』と呼ばれ、その先はもう波止場。籠池と書かれた船が並んでいました。近隣住民からは“籠池のお坊っちゃま”と呼ばれていました。ご家族からは“村上水軍の末裔”だと聞いたことがあります」(実家近くに古くから住む住人)

 籠池氏の亡父は先の大戦で小型船による特攻を行う『震洋』の特攻隊に属し、国のために命を捨てようとした経験があった。それゆえに、幼い日の籠池氏は父親から「国の発展、増強のために寄与せよ」と繰り返された。籠池氏のイデオロギーの素地は、この頃に醸成されたのだろう。

 だが、籠池氏が小学3年生の時に家業が行き詰まり、夜逃げ同然で兵庫県尼崎市に転居した。籠池氏は、そのとき祖母から言われた「武士は食わねど高楊枝」という言葉が強烈に記憶に残っているという。

 1976年に関西大学を卒業すると、「公務員として国のために働きたい」と奈良県庁の役人になる。3年後には、学生時代から交際していた諄子氏と結婚した。

「大阪・心斎橋にある百貨店『大丸』の紳士服売り場で籠池氏がアルバイトをしていたとき、諄子さんが1階の宝石売り場で働いていたのが知り合ったきっかけだったそうです」(夫妻の知人)

 森友学園の創設者だった諄子氏の父・寛氏もまた陸軍士官学校を出ていた。1950年に珠算教室を開いていた寛氏が日本初の学校法人幼稚園『塚本幼稚園』を開園したのは、地域住民から強い要望があったからだ。寛氏は家財を売って資金を捻出し、子供たちには「お腹いっぱい食べさせることが何より」と貫いた。その精神は、娘である諄子氏にも伝わった。

「諄子さんは『食育』にこだわりがあって、自身の子供たちに牛乳を毎日1パック飲ませたり、ほうれん草を一把丸ごと食べさせ、巨大なめざし3尾が食卓にのぼることもあったそうです」(前出・夫妻の知人)

 結婚後すぐに長男に恵まれたが、26才の時に静脈血栓を患い長期入院。医師からは「もう子供は産まないほうがいい」という厳しい宣告を受けた。入院中の諄子氏は自らの運命を呪い、友人の紹介で知った保守系の新宗教『生長の家』に傾倒。その後、病気が治ったのも、「宗教の教えのおかげだった」と彼女は述懐している。

◆夫妻を襲った突然の不幸

 1983年、寛氏の誘いを受けた泰典氏は塚本幼稚園の副園長に就任し、幼児教育に身を投じることになった。

「籠池さんは真面目で実直な人柄で物腰も柔らかく、いつも笑顔で子供と触れ合っていました。寛さんから『まずは掃除が基本や』と叩きこまれた籠池さんは毎日、園内のトイレ掃除や雑巾がけに明け暮れてましたよ」(当時の幼稚園関係者)

 一方、公務員時代に比べて給料は激減。当時、すでに夫妻には2人の子供がおり、諄子氏のお腹には3人目の命が宿っていたが、身重の妻がアルバイトを始めないといけないほど生活は困窮したという。

 それでも、「高楊枝」で邁進していた夫妻に突如、悲劇が訪れる。1995年、検査のため入院していた寛氏がそのまま帰らぬ人になると、寛氏が生前に進めた事業拡大による多額の負債が発覚したのだ。

「借金を巡って親族とも軋轢が起き、総額は10億円にものぼったといいます。また、同時期に系列の保育園で労働運動が起き、運営を労働組合が握りました。多額の使途不明金を不審に思った従業員によるものでしたが、家業を脅かされた夫妻の胸中には“乗っ取られた”という怒りがこみ上げた。親族や労組が“倒すべき敵”と映っていた夫婦は、その頃から何事にも攻撃的になっていたように感じます」(別の夫妻の知人)

 預金通帳の残高はわずか3万円。諄子氏は自殺を考え、籠池氏の頭には閉園の2文字もよぎった。それでも何とか必死の思いで経営を立て直した籠池ファミリーだったが、次から次へと障害が立ちはだかる。

 2004年、運動会で園児たちに『愛国行進曲』を歌わせたことが報じられ、批判が殺到。左翼団体がデモを行い、自宅前に糞尿がまかれたこともあったという。

 そうして一家が苦境に立たされるたび、「愛国主義」はより強固にエスカレートしていく。2015年の雑誌のインタビューで当時を振り返り、《どん底の時期も必要》と、籠池氏は次のように語っていた。

《自分の信念が試されますから。平穏な時に「国家社会のために」とお題目のように唱えるのではなくて、本当にギリギリのところでも抱き続けることができるのかと。中途半端な思いしかなかったら、いま頃は挫折していたかもしれませんね》

“行進曲騒動”をきっかけに、籠池氏は「教育勅語」を教育の柱に据えることを決意する。体力づくりや体験学習に力を入れ、4才児には伊勢神宮を参拝させた。自己表現力を身につけるため、鼓笛隊や日本太鼓をカリキュラムに入れた。以来、塚本幼稚園では毎朝9時30分に園児が国歌斉唱をした後、教育勅語に書かれた十二の徳目を朗誦するようになった。

 そんな籠池氏の前に現れたのが、愛国者を自認する保守系の安倍首相だった。

「第二次安倍政権が誕生した時、籠池さんは『安倍先生には日本をよくするためがんばってもらいたい』と本当に喜んでいた。彼にとって安倍首相は『愛国主義』という“一家の闘い”を権威づけてくれる強力な装置だったのです」(学園関係者)

※女性セブン2017年4月13日号
https://www.news-postseven.com/archives/20170330_505920.html?PAGE=1#container
https://www.news-postseven.com/archives/20170330_505920.html?PAGE=2
https://www.news-postseven.com/archives/20170330_505920.html?PAGE=3


籠池海運
 加藤汽船、関西汽船に聞いた方が早いかなぁ。

籠池 泰典(かごいけ やすのり、1953年2月7日 - )は、社会福祉法人肇國舎代表[4]高等森友学園保育園園長。学校法人森友学園の元理事長[1]学校法人籠池学園の理事長。

来歴


 1953年2月、籠池氏は瀬戸内海を望む高松市の港町で生まれた。本人によると代々、海運会社を営んでいたが、籠池氏が小学生の時に事業が行き詰まり、大阪や兵庫を転々とすることになった。

 「海は近かったから。小さい時から、糸たらしたらカニが釣れるって感じでやってましたから。船の音も好きだし、船員さんのいなせな声も大好きだし。はっぴ着て、やくざの人が。ずっとあれもかっこええやないの、と思ってた」

 「海運陸運業、大きかったんですよ。(高松市を離れたのは)小学校の5年の終わりか、6年のはじめかな。引っ越したゆうより、倒産した。戦争中に船がたくさん沈んだから。戦争がなかったらまた違っていたかもしれん」

 「1年間ほどは、父母とも別れてた。父の兄の家に預かってもらって、それから親に大阪にひっぱってもらった」

△昭恵氏は「神風の発生装置」 籠池容疑者、逮捕前に語る 岡戸佑樹、伊藤喜之2017年7月31日18時27分
http://www.asahi.com/articles/ASK776R2BK77UTIL04D.html

そこで本誌は彼のルーツを追うべく、出生地の香川県高松市へ向かった。駅からもほど近い海岸沿いに建つ大きなビル。そこにかつて籠池氏の実家があったという。当時の彼を知る近所の住人はこう語る。
 
「籠池さんのご実家は、大きな海運会社を経営していました。海運業と陸運業を同時に営んでいて、ものすごく繁盛していました。従業員もたくさんいて、とてもにぎやかでした。みんな、籠池さんの会社の船が出発する突堤周辺のことを “カゴイケ”と地名のように呼んでいました。それくらい、地元の名士でした」
 
いわゆる“良家のお坊ちゃん”だったという籠池氏。また一家はお金だけでなく、名声も得ていたようだ。
 
籠池さんのおじい様は市会議員をされていて、親戚にも弁護士さんがいるようなエリート家系だったと聞いています。家にはお手伝いさんもいてね。ご両親はいつも高級そうな服を着ていましたし、とても紳士的で立派なご一家でした」(前出・近所の住人)
 
だが、そんな籠池氏の人生に転機が訪れたのは小学校3年生のときだった。
 
「実家の海運業が行き詰まり、倒産してしまったんです。みんな『なんで?』と口をそろえるほど突然で、一家は逃げるように兵庫県尼崎市へと引っ越して行きました。裕福な家庭から一転して零落した。小3の少年にとっては、大きな心の傷になったのではないでしょうか」(別の近所の住人)

△女性自身 池泰典 お坊ちゃんから零落…「小3で実家倒産」の原点過去 投稿日: 2017年03月29日 12:00 JST
https://jisin.jp/serial/社会スポーツ/social/28299

 ↓ココですw

 写真左下側、大的場(浜ノ町)のヨットハーバー付近じゃなかろうか。

 海運・陸運は、地図の「県営高松桟橋のりば」付近から東の方なんだけどね。
※再開発前のJR高松駅は北東方向に延び、東西を結ぶ道路は分断。セウォル号沈没で、比較話題にされる国鉄の宇高連絡船『紫雲丸』沈没事故(゚∀゚)



MSI624-C4B-8
整理番号 MSI624 コース番号 C4B 写真番号 8
撮影年月日 1962/08/21(昭37) 撮影地域 高松
撮影高度(m) 1900 撮影縮尺 10000 カメラ名称 RC8 焦点距離(mm) 151.880
撮影計画機関 国土地理院

↓マルナカサンポート店の北

p1


 因みに、西側の港は漁港。

p2

 後に埋め立てられて、朝鮮総連本部ビル落札したマルナカの子会社「大洋水産」@ウナギロンダリング!お隣り高松市中央卸売市場を広報するとして、高松市が高松市中央卸売市場非公認レポーター「市場少女ミラクルいちは」を創り、♡いちはでぇぇぇぇすぅ♪♡、などとええ年したオッサンが気持ち悪い事やってる。自治労辺りじゃないのん?マルチ商法

 メモです。


 気が向いたら、図書館か何処かで調べるかも。
 ご近所の日教組や労組系の方が早い筈なんだぁ調べてほしいなぁ(ボソ



追記。

・2017年8月1日火曜日 瀬戸内海の小島を渡す籠池運輸(籠池海運)
http://tokumei10.blogspot.jp/2017/08/blog-post_86.html#more



>あの理事長、高松市出身で、実家は北浜で (瀬戸内海の小島を渡す、こじんまりした) 海運業を営んでいたらしい。大学入学後、何かの事情で廃業し、土地や建物を売却して京阪神に居を移したという話。(同じ卸先に納入してる豆腐屋さんによると)



p1


町名の由来は城下町の北端に位置し、海浜であることによる。1930年(昭和5年)に下横町しもよこまち北浜材木町きたはまざいもくまちを統合して新設された。ただし、当地には江戸時代の一時期に北浜町が存在したことがある[6]

松平氏入封後に魚屋町の地先を埋め立てて成立した下横町の由来は、御用屋敷がある上横町(現・本町)の下(北)にある町という意。中堀を隔てて高松城内郭に接し、玉藻橋によって繋がっていた。1874年(明治7年)には田中庄八が松平家から金比羅丸を買い入れ、神戸・大阪への定期便を就航させる。このターミナル建設に伴い、1880年(明治13年)に当町地先を埋め立てて7000坪を造成し、ここに汽船問屋を設け、長さ75間(約136m)の波止場(田中の波止場)を築いた。

北浜材木町の由来は城下町の北端に位置し、材木置き場があったことによる。松平氏入封後の高松城拡張によって魚屋町の地先が埋め立てられて北浜と称し、魚屋町に隣接した東西の通りには材木置き場が造成された。享保年間には北浜の範囲が鶴屋町の北側へも広がり、さらに寛政年間には人家が並ぶようになり、文化年間には船の出入りが可能になる波止場や番所、高灯篭が設置され、単に北浜町と称された。ただし、慶応年間には撞木町と称されたこともあったようである。対岸の東浜町(現・城東町とは渡し船が往来していた。一方で北浜は漁師町であり、北濱恵美須神社の御神体は当町の漁師が海底から拾い上げた冠形の石で、これを祀ることにより大漁を祈願したという[6]

1890年(明治23年)2月15日にはそれまで城下町各町の集合体であった高松の区域を以って市制を施行して高松市が成立し、下横町及び北浜材木町はその一部となった。1897年(明治30年)には高松港の築港拡張工事で浚渫した土砂を用いて、下横町と内郭の間にある中堀が徐々に埋め立てられる。中堀にかかっていた玉藻橋は後に取り払われて渡し船となり、玉藻町が成立した1906年(明治39年)頃に廃止となった[7]

1930年(昭和5年)には下横町と北浜材木町を統合して北浜町が新設される。1945年昭和20年)7月4日未明にはアメリカ軍による無差別絨毯爆撃高松空襲」を受け、町内の多くが被災した。空襲で壊滅的な被害を受けた高松市中心部では大部分で土地区画整理事業戦災復興土地区画整理事業)が施行され、北浜町でも南部が第一工区二次として区画整理の対象となり、町内の多くの街路が拡張・改良された。この区画整理事業の完工となる換地処分公告は1964年(昭和39年)1月25日である。1958年(昭和33年)に北浜町の一部を本町へ、魚屋町及び玉藻町の各一部を北浜町へ編入し、その後1964年(昭和39年)には北浜町の一部を本町及び鶴屋町へ、魚屋町の一部を北浜町へ編入した。1969年(昭和44年)2月10日には住居表示の実施に伴い、北浜町の一部を玉藻町及び本町へ編入した[6]

四国における物資の集散地として機能した高松港に面する町内は、昭和初期に建築された倉庫が多く存在したが、瀬戸大橋の開通によってその役目を終えていた。すると、その倉庫街独特のレトロな雰囲気が見直され高松港ウォーターフロントとして開発計画が持ち上がり、2000年(平成12年)に若者向けの商業施設「北浜alley」が開業した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/北浜町_(高松市)

 城東町はソープランド(旧・赤線)w 
 ヤクザ屋さんに聞いた方が詳しそう。


>三菱銀行北畠支店猟銃強盗人質事件の梅川(幼少時を大川郡引田町で暮らす)と、ライフスペースのシャクティパットおじさん(我が母校の定時制を出てたはず?)以来の、讃岐ゆかりの戦後“三大お騒がせ人物”やな。

三菱銀行人質事件(みつびしぎんこうひとじちじけん)は、1979年昭和54年)1月26日三菱銀行北畠支店(現三菱東京UFJ銀行北畠支店)に猟銃を持った男が押し入り、客と行員30人以上を人質にした銀行強盗および人質猟奇殺人事件である。
1979年昭和54年)1月26日梅川昭美(単独犯・男)が大阪府大阪市住吉区万代二丁目の三菱銀行北畠支店に銀行強盗目的で侵入。客と行員30人以上を人質として立てこもり、梅川は警察官2名、行員2名(うち1名は支店長)の計4名を射殺、女性行員を裸にしてバリケード代わりに並ばせるなどした。

有限会社ライフスペースは、元は日本自己啓発セミナー会社。新宗教的団体。[要出典]

自己啓発セミナー等を主要な事業内容としていたが、次第に変質していき、主宰者がインドサイババに指名された「シャクティパット・グル」であると自称(サイババはこの件を否定した)するようになったり、「シャクティパット」と称する相手の部をで軽く叩く(叩き続ける)行為で病気を治せるといった主張をするようになる。

成田ミイラ化遺体事件では、主宰者に殺人罪での有罪判決が出ている。これは、脳内出血で入院していた男性を連れ出し、適切な治療を受けさせねば死亡する可能性が高いことを知りながらも、適切な治療を受けさせず死亡させたという趣旨の判決である。ただし控訴審は確定的殺意を当初から持ち合わせていたとは考えにくいとして未必の故意を認定し主宰者に対し減刑する判決を言い渡した。

この事件は2013(平成25年)における司法試験予備試験の刑法の判例問題に取り上げられている。

その後、主催者は上記のミイラ事件での殺人罪による実刑(懲役7年)を受け、2009年に刑期満了となったが、その関係者が別の関係団体「シャクティー・パット・グル・ファウンディション」(SPGF)を設立、現在は「SPGF RESEARCH(リサーチ)出版」と称して活動を続けているという[1]


高橋 弘二(たかはし こうじ、1938年昭和13年)7月23日 - )は、日本自己啓発セミナー主宰者、税理士。有限会社ライフスペース元代表。通称高橋グルシャクティパット・グル
    • 1938年(昭和13年) 香川県生まれ。[要出典]
    • 1958年(昭和33年) 同県内の高校を卒業後、自動車会社勤務を経て税理士資格を取得。[要出典]
    • 1965年(昭和40年) 高橋弘二税理士事務所を開業。[要出典]
    • 1981年(昭和56年)頃 自己啓発セミナー「BALセミナー」を始める。
    • 1983年(昭和58年) 有限会社ライフスペースを設立して代表取締役に就任。
    • 1987年(昭和62年) 「CAMB」と呼ぶ瞑想法を中心とした「CAMBセミナー」を開催し、最盛期には1万人近い参加者を集めていたとされる。セミナーの開催と平行して複数の自己啓発書を著している。

 四国遍路はオウム超えるよなぁw



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