校長ブログ懐古・・改革の軌跡・・

平成19年度からの校長日記を再掲してまいります。

23.6.4(土)橋下劇場

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「橋下旋風吹き荒れる」というと失礼だからこういう表現は使わない方が良い。私なども知事とは比べものにならないが時々「木村旋風」などと言われることがある。不快である。人は自分では何も出来ないクセに周辺に風を巻き起こして物事を改革したり進めていく人を様々に表現する。

しかし大体どの言葉も「誉め言葉」とは思えない。そこには「やっかみ」「嫉妬」「半身の評論家風気取り」の感じで「自分はちと違う」と脇において相手を見ている人間がそこにいるのだ。

出来ない奴は「黙って、静かに」とでもいうと又「独裁」だとか「言論封鎖」「言論弾圧」とかすぐ言う。戦後、民主主義の名の下にこのような「口先だけの人間」を増長させ、のさばらせてきたから日本はこのような国になったと言えば又直ぐ猛烈な反論が出て来る。

しかし日本は本当に自由な国になった。何でも自由だ。しかし私は自由と言う言葉は使いたくない。だらしない、締りのなくなっったということだ。自国の国旗を軽蔑し国歌を無視するようなことが最も大切な教育現場で放置されて来てもそれは「内心の自由」と許されてきた。

最近では小学生でも「個人の自由でしょ」と簡単にいう時代である。実は自由と言うことはものすごい責任と他への配慮が必要ということが分かっていないのである。卒業式で据わったままの教員はそのような行為が生徒や保護者にどのような印象を与えるかなどの考えはないのだ。あくまで「個人の自由でしょ」なのである。

橋下さんは「公務員には自由などない」と明言した古今東西初めての首長ではないか。「国旗国歌が嫌いだったら辞職せよ」とはっきり堂々と述べた最初の知事ではないか。極めて論理が通っており明快である。

知事は教育委員会が問題だから現場がこうなってしまった。ここ10年今だに大阪では起立しない教員が居るではないか。そういった奴は首にしろと言っているのである。「教育委員会にはマネージメントがない」とはっきり述べられた。

本当に橋下知事はすごいことをやってしまった。今朝の全国紙は管総理の退陣問題など吹っ飛ばして全国紙に一面トップ記事の扱いである。完全に橋下知事は「全国区」になった。私は将来「橋下総理誕生」の機運が大きく出てくると想像している。

今の中央政界の出鱈目さを矯正するにはこのような人物を中央に送り込むしかないのではないか。その場合は間違いなく現在の「議会制民主主義」では駄目だ。内閣の総理大臣は「国民投票」で選出する「大統領的総理」でなければ改革は進まない。

若し知事が議会人であったら絶対にこうはいかない。絶対に「守旧派」からつぶされていただろう。知事の唯一の基盤は「府民の圧倒的な支持」である。常にこれを意識して府政を進めている。そこには既存組織の利害得失などは眼中にないのだ。

橋下さんはそのことを知っており、何時も口癖のように「最後は府民が選挙で決着を付ける」と発言されている。新聞を良く読む人は気づいていると思うが最近盛んに「総理は国民の直接投票」で選ぶべきと叫んでおられる。

恐らく大阪市長選の出馬、将来の国政進出、あらゆる将来の可能性を意識無意識別にして頭に何かが去来しているのではないか。この男の政治的勘とセンスは素晴らしい。日本の戦後65年で現在の政治システムは完全に行き詰った現実がある。

我々は、毎日中央政府の「ふざけた政争ごっこ」を見せられている。自民党から民主党に政権交代したが大きく民主党は期待を裏切りそれは幻滅にちかいものになった。今や中央政界はまるで「脳死状態人間の集まり」みたいに機能不全に陥っている。

遂に「卒業式における教職員の国旗国歌斉唱時の起立」が最も身近な法律である「条令」となった。御堂筋を喫煙しながら歩くと1000円の罰金と同じような条例になったのである。知事は秋の府議会では「罰則条例」も上程すると言われている。ひょっとしたら本当にやるかも知れない。

橋下知事は第一期で府知事を辞めて市長選に出るかもしれないとマスコミには出ているが、いずれにしても「教育問題が今後の日本の最重要課題」と捉えている「センスと勘」はすごい。新聞記事も「教育で主導権」を握ろうとしていると良い点を突いていた。

その教育問題の底流に流れる腐臭を放っているへどろみたいな問題がこの国旗国歌問題だ。そこを「ぱちん」と掴みとっている感覚がすごいのである。知事が戦後60年教育現場で続いてきた「子どもを戦場にやるな」とのスローガンの影にある「腐臭を放つ教員」の実態をそれほどご存知とは思えないが、それでも短期間でここまでやる実行力の源は政治的勘である。

知事は元々「くそ教育委員会」と言い放ったように元々教育現場を信頼はしていない。それは今でもだ。こう言うタイプは一度受けたイメージは簡単には変えない。「しつこい」のである。私も同様にしつこい。しつこくなかったら政治や改革など出来るはずがない。

そこに教育公務員として甘えた公立学校の教員が現場で好きなように振る舞い校長の存在を意識せず、又それに対して適切な「マネージメント」の取れない教員委員会を知事は批判してきたのである。そして府議会の多数を握った。そして進軍マーチの「ファンファーレ」を国旗国歌問題としたのである。

知事の使ったマネージメントと言う言葉が大切だ。もともと学校現場には「マネージメント」という概念はない。どちらかというとマネージメントに敵対する概念で運営されてきた。「全員が民主的に一票を行使して学校の意思を決める」と言うものである。

この概念は間違いなく「赤信号皆で渡れば怖くない」現象を生み出す。校長などは「鍋蓋のつまみ」で居ても居なくても学校は回っていたのである。「校長の職務命令」などの言葉は「ついぞ最近出てきた言葉」でこういう言葉を使うことさえはばかられるのが教育現場の実態であった。

教育委員会は「行政系」と「指導系」の二つの機軸があるが最近では行政系が圧倒的にその存在意義と政治的パワーを有している。指導系、即ち教員系は現場の実態を知ってはいるが「そこは身内意識」もあって教育現場をかばいたい性向は少なからずある。

行政系のトップは「回転椅子」に座っている様なものでキャリアパスの椅子の一つだから「騒ぎなし、平穏無事」を願うことになる。それに指令は指導系を通じ成されるから指導系職員の顔も考えてやらねばならない。

社会の人は教育委員会と一まとめにして言うが実態は行政系のキャリア、行政系のテクノクラート、指導系と3部門があるのである。知事の目には「言うことを聞かない府教委」と写っているのだろうが、そう簡単に知事の意向に従うような甘い構造ではない。

そこに教職員団体と人権団体、それに政令都市の教育委員会、衛星都市の教育委員会が絡んでくるから私に言わせれば一種「伏魔殿」みたいなもので知事が一声「ゴー!」と号令を出しても「イエス、サー」とはいかないのが今の教育システムである。

だから今回の大阪府の条例化の動きが「全国に波及」していくかとなれば絶対にそうはならないであろう。まず他の都道府県知事は「2番煎じ」を嫌がると言う人間的な理由がそこにある。

又教育委員会と教職員団体のパワーバランスが大きく効いてくる。それに最大の問題は「バッチ組」と言われる議員先生である。「まあ、そこまでしなくともいいんじゃないか」と大体鷹揚に構えて「寛大な幅の広いところ」を示すのが大好きなのが議員の先生である。

今回は橋下と言う類稀なる勘と資質を有するリーダーが率いる「大阪維新の会」という政党があったからこそ出来た条例化である。これが他府県に広がるはずもない。ただ今回の一連の報道で未だに学校現場には未だにこのような「しょうもない騒動」があるということと「一向に直らない原理主義者みたない教員」が幅を利かせている現実を再認識させたことだけは間違いなさそうである。そういう意味で橋下知事の成功であった。

しかし驚いたのは夕刊である。各紙詳細報じているが何と深夜の議会で他会派欠席で府議会定数を109から一挙に88まで落としたのである。さすがにこれには驚いた。過去例がない「大量の議員の首切り」であった。「議会改革」に手を入れ始めたのである。

こういうことが出来るのがこの男の力なのである。府会の議員の首を取って怒る府民はいない。むしろ「拍手喝采」だと思う。大阪市議会議員、堺市議会議員、恐れおののいて震えているかも知れない。橋下徹、遂に大阪市をとりに行ったのである。中央政界の政治ドラマも面白いが大阪の橋下劇場も目が離せなくなってきた。


23.6.3(金)本校の歴史その13「卒業アルバム」

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  • 旧制浪速中学校の記念帖(卒業アルバム)に添付されている学年史

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  • 旧制浪速中学校第一期生の記念帖

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今の卒業アルバム
大きくて重くて仕方が無い

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  • クラス単位の集合写真


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卒業時の個人写真


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  • 写真の上にある薄い紙で個人の名前が書かれている


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  • 教職員集合写真



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  • 昭和3年の第一号を造った山崎写真館


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昭和5年の第3号から今日まで長い関係の片山写真館製作のアルバム

今私が創立時の状況を知ることが出来るのは当時の「卒業アルバム」からである。私は今回本校の歴史を整理していく作業の中で「卒業アルバムの重要性」を今更ながら認識した。正直今までは自分の母校の卒業アルバムを大切にしてきたとは言えないから大いに反省している。

最も卒業アルバムは定期刊行物ではないから手元において常時みるようなものではない。しかし加齢と共にアルバムの重要性は増してくるように感じている。漢方薬みたいなもので後でじわじわ効いてくる薬のようなものだ。

それにしても本校の昔のアルバムは大変良く出来ている。今でも燦然と輝いている。特に素晴らしいのは「教育課程」と「学年史」が添付されていることだ。これを何十年後に見ることで卒業生は「昔を生々しく」思い出すことが出来る。

アルバムを単に「写真集」に終わらせていないことが立派だと思う。今や殆どの学校では卒業アルバムは写真集で終わっている。卒業生にとって入学から卒業までの主だった「学校行事」や自分が習った「教育課程」があればどれほど役に立つであろうか。

学校行事や教育課程が添付されているということは「学校が大きく関与」しているからである。アルバムを最終的に纏めて製本化するのは「写真館」さんであるが材料は学校が提供しなければ立派なアルバムが出来る筈もない。

それにしても「生徒の品格」を感じるのは一人ひとりの卒業時の「顔写真」である。「楕円形」にくりぬいているから、ムードもある。真四角な写真ではない。是非楕円形に戻したいと思っている。確かに昔のアルバムの写真はどれもこれもこのような品格があった写真だった。

私は今のアルバムを取り出して比較してみた。しかし正直言って重たいだけで、昔に比べて必ずしも立派とは言えないと思った。昔はB5番で大きさが適当である。これに対して現在のものはA4サイズより大きい。規格外である。

おまけに箱入と来ているから通常の書棚や本棚に納まらないのが辛い。今や「国際標準はA4版」になっているからこれだけは変えなければならない。又紙の厚さも厚すぎる。だから重たい。

私は保健室にある体重計で秘書さんに測ってもらったのだが何と1.95キロもある。昔のものは0.65キロだった。今の高校1年生みたいに生徒数が16クラス670名と増えてくるとますます厚くなってくる。

この厚さでは体が熱くなるだけだ。車でも何でも「軽量化の時代」に本校のアルバムは時代に逆行している。それは余りにも多い生徒のピースサインの写真の多さだ。絶対に賢くは見えない。何か「写真週刊誌」か「アイドルのグラビア」みたいに感じる。

「ピースサイン」で笑っているばかりの写真を本紙からは少し減らして、それらは「DVD」に入れたらどうだ。DVDだったら今よりも多くの「動画やピース静止像」が入れられるのではないか。

この「DVD添付」については1昨年から私が言い始め昨年度から始めた。良い方向にはなってきているから後一歩の改善である。私は過日アルバム製作委員にお願いした。来年卒業する生徒から「根本的に見直すように」と。まずサイズはA4にし用紙ももう少し「薄手」のものにして「軽くしなさい」と指示したのである。

校長以下の写真はもっと小さくて良い。今みたいに管理職の写真をそれぞれ大きく載せる必要はない。管理職の集合写真で良いのではないか。そしてやはり「教職員の集合写真は必要」と感じる。これがないような写真は卒業アルバムではなかろう。

「クラス単位の集合写真も必須」である。担任を中心に生徒が揃って写るのが卒業アルバムである。重要な点は学年進行で担任が変わって行くから学年単位で欲しいと思う。少なくとも入学時の1年生の時と卒業時の3年生の時は必要である。

「伊勢修養学舎」に行った時にはクラス単位で写真を撮っておりこれを使えばよいではないか。加えて、陸上競技大会が何時あったとか、生駒山に登ったとか、「山之辺の道」を歩いたとか簡単な年表は絶対である。

それらが添付されていないのは「教員の怠慢」であると言われても仕方がなかろう。アルバムは業者さんが作るのではない。生徒が作るものでもない。校長が入学を許可し教育し3年後に卒業を認めたものに「記念に渡す記念品」がアルバムである。だから「卒業アルバムは校長即ち学校が作成」するものである。

だから保護者から「アルバム作成代」を学校が頂いているのである。そうでありながら今の教職員の役割は「撮影の日程調整」と「教職員の顔と名前のチェック」だけになっていないか。要は写真屋さんに「丸投げ」になっているのである。これではいけない。

私は高校教頭とアルバム担当教員に「原点に帰れ」と言った。中学校にも校長指示を伝えるように言った。中身のある10年、20年、30年後に役に立つアルバムを作って欲しいとお願いしたのである。珍しく先生方もお顔には「同意」の様子が見て取れた。これは嬉しかった。

教員の仕事は確かに忙しい。だから放っておくと外部に「丸投げ」の状態についついなるものだ。しかし「手作り」の感覚は「生きたもの」になり生徒にも喜ばれる筈だ。大体「3年間手塩にかけて育て送り出す教え子への記念品」だからそれくらいは手を入れても罰は当たるまいにと思う。

生徒の個人写真も卒業前の「りりしい写真」一枚あれば良いと言う考えもある。「Vサインやピースサイン」の写真も多く写っている生徒とたまたま写っていない生徒との差も出てこよう。昔はこのような写真は一枚もない。60歳を超えてこのような写真を見て嬉しくなるだろうか。

私はこの素晴らしい卒業アルバムを作って頂いた写真館についてアルバムの末尾を参照した。第1号昭和3年発行の一期生アルバムの作成は「山崎写真館さん」とあった。ところが昭和4年第2号のアルバムでは製作会社の名前が無かったのである。

そして昭和5年卒業生のための第3号からは「片山写真館さん」とあった。この会社が現在まで続く本校専属の写真館さんなのである。今となってはどうでも良いことであるが第2号の時点で写真館が変わった何らかの理由があったと想像することが出来る。

現在の片山写真館のご当代の尊祖父は旧依羅村の有力者で本校誘致に大きな貢献が会ったお方とは聞いていた。その伝統を引き継ぎ「良い仕事」をしてくれている片山写真館さんとタイアップして「原点に立ち戻って」良いアルバムを作って行きたいのである。


23.6.2(木)本校の歴史その12「開校記念日」

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私は今大変忙しい。それは通常の執務以外に90年前の本校の設立時代のことを勉強しているからである。あっちの資料を読んだり写真を探したり大変だ。どうも図書室を移動させた時にばらばらになっている可能性もある。

教務部長が何処からか貴重な資料を持ってきてくれたのが大変助かっているが、このような大切なものが何故印刷場のロッカーに有ったのだろうか。今は私が個人で管理している。紛失しては大変だからである。

前にも書いたが来年度には「90年史」の編纂に入りたいと思っている。そのためにはまず自分自身が「本校の歴史」を知らなければならない。いい加減な周年誌を作る積りはない。

 

「校舎を全面的に建て直す」のであるからこの「建設の状況」も記録に残さねばならない。50年、60年後の人々がこの周年史を見れば「全てが分かる」ような90年史を作りたいと思っている。

私は今「周年誌編纂のメンバー」を誰にするか静かに考えているところだ。頭が切れてセンスの良い人材を投入したい。この作業には高い評価を与えたいと思う。それくらい「価値ある仕事」であるからだ。

私の時代に「100年史」は恐らく無理かも知れないから「90年史」を充実したものにしておけば100年史の校長さんは助かる筈である。このように10年ピッチで学校は、まとまっていくから10年先のことを考えて今の校長は仕事をしておけば良い。それが今、働いている校長の責任である。

それに平成19年から始まった「浪速改革」は余りにも大きい。「多聞尚学館」「ふくろうスタジアムの完成」「浪速武道館」と教育トライアングルを完成させた。実はこのようなハードだけではなくて「教育の中身」も大きく変えた。

「神道教育関係」も大きく変えた。自前のテキストを完成させ、「学院神社拝詞」と「浪速生活の綱領」を作成した。神社神道の学校で今までこのようなものがなかったことさえ私には信じられなかった。

何よりこの4年間で教職員が大きく入れ替わった。世代交代が大きく進み校内は若い先生方が走り回って活気に溢れている。部活動も従来の学校にはないように大きな資源を投入した。中学校も高校も生徒が増え今や府内の私立でも大きな学校に成長した。

入試広報室を作って人材を投入した。広報宣伝には大きな資源を投入した。要は形を作ったのである。校長ブログを発信し「学校を公開」した。そして「説明責任」を果たして来たのである。

しかし今ようやく「一息」した時に私は逆に「先行きが無性に心配」になってくるのである。「今のままで良いのか」「次に進むべき道は何か」等々考えが巡ってくるのである。それが私の「本校の歴史を勉強する」動機に繋がっている。

新校舎の後は「何を目標にしたら良いのか」という疑問だ。平成26年から又少子化の階段は急激に勾配をきつくする。今の学校幹部は恐らく残っていまい。新たなトップ集団で学校を引っ張っていくことになるが、果たして「それは誰か?」など考えたら悩ましいのだ。

「歴史を尋ねる」とは原点に回帰し「今を反省する」ことである。時とともに人間は気づかずに「本家本元から大きく逸脱」していくものである。「初心忘れるべからず」とはこういうことだし、「温故知新」とは原点を忘れるなと言う戒めであろう。

前にも書いたが今私は創立日をどうするか悩んでいる。31日の理事会で議論したが継続審議となった。ところが大正時代の本校には創立記念日と言う概念はなかった。「開校記念日」であった。

教務部はそれを知らずに学校行事に創立記念日と平気で書いている。昔は開校記念日に授業をしていたことも知らないだろう。最初の授業が成された日が51日だったのである。

それは大正12年4月30日に初代校長事務取扱の大島鎮治先生は、沢之町の使われなくなった旧工場を借りて仮校舎とし、入学式を行った。そして最初の授業が翌日の5月1日であったのである。

1年後その後を引き継いだ初代校長の大里猪熊先生は早速大正13年5月1日にこの日を「開校記念日」として式典をされている。如何に関係者の浪速中学校設立へのご苦労があったか容易に想像できるだけに最初の授業の日はさぞ感激であったろう。だから1年後に51日を「開校記念日」としたのである。

歴史的経緯は以下の通りであった。参考資料として私は「記念帖」(卒業アルバム)を調査した。その結果51日は創立記念日ではなくて開校記念日だったのである。記載事項を転記すると:

 大正12年4月30日 東成郡墨江村假校舎ニ入學式ヲ行フ

        5月 1日 授業開始

 大正13年 5月 1日 「初代大里猪熊校長開校1周年記念式ヲ行フ」

 大正14年 5月 1日 記念日 野田博士の講演ヲ聰ク

 大正15年 5月 7日 嘉納治五郎氏ノ講話ヲ聰く

 昭和 2年 5月 1日 第四回開校記念日(式ナシ)

 昭和 3年 5月 1日 開校記念日 濱谷氏ノ講演アリ

 昭和 4年 5月 6日 開校記念式、御親閲教練豫行ノ為メ城東練兵場ニ赴く

 昭和 5年 5月 1日 第七回開校記念式舉行

 昭和 6年 5月 1日 第八回開校記念式大島先生(創立當時ノ校長)懐舊訓話

「原点を回顧」するとはこういうことだ。その作業の過程で様々な思いが去来するし「気づかされる」のである。来年度から本校の公式文書においては51日を開校記念日と書くこととすることが先の理事会・評議員会で決定されたのである。

23.6.1(水)クールビズ

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朝7時過ぎに真向かいの本校専属の制服店の社長さんが部屋に入ってきて「夏服の支給が全て無事に終わり」ほぼ今年の業務が終わったと挨拶に見えられた。制服会社にとっては合格発表日から5月1杯までが1年で最も忙しい時になる。
・ 今年は高校1年生が670人の大人数であったし、東日本大震災の影響もあって「間に合わせる」のに相当な努力をして頂いたと思う。一時期は間に合わないなどの話もあって例年以上に神経を使われたのだ。社長さんのお顔に安堵感があった。私はお礼を申し上げた。


遂に「衣替えの季節」なった。この季節はとにかくこの歌である。
 「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山」
  女帝、持統天皇のお歌である。これは本当に素晴らしい。季節の変わり目をこれほどさわやかに歌ったものは他に知らない。

私は新古今よりも万葉集の表現来るらしの方が好きである。来週の日曜日に無性に大和三山と樫原神宮、それに西国33番観音巡礼7番札所の「岡寺」も参ってみたいと「ふと」思った。

雨の6月スタートとなった。残念だが「We cannot control the weather」だ。仕方がない。6月1日は本校でも正式な「衣替え」の日であった。実際は10日ほど前から夏服OKとしていたが、肌寒い日が続き生徒はジャケットを着ていた。

今日も終日雨で寒い感じだ。「一斉参拝」では写真にあるように男子の役員生徒は夏服で女生徒は普通のスタイルであった。女性は一般的に言って「寒さに弱い」と思っているがこれは高校生時代からそうなのだと私は悟った。

雨のため全ての生徒はそれぞれの教室から学院神社の方に「遥拝」する形である。即ち私を入れて3人だけの小雨の中の「代表参拝」であった。その後私は生徒にじっくりと伝えたいことがあったから執務室に戻って「校内放送」で話した。やはり顔が見えないと中々難しいものだが、逆に静かにじっくりと伝えたい時にはそれなりに効果があると思っている。


世の中では環境庁主導で今までの「クールビズ」から「スーパークールビズ」と言って更に基準を緩和したことを殊更マスコミも取り上げているが、本校では従来の基準のままとした。

早速夕刊ではスーパークールビズ初日として記事にしていたが、ポロシャツやアロハシャツの写真があったが全く取って付けたような浮いた感じで私なら絶対にしない格好である。「かりゆしウエア」などは沖縄だから決まるのであって都会で似合う筈がない。

前述した持統天皇のお歌ではないが夏は「白妙の」白いものが最も良い。清潔感に溢れ見ても涼しい。赤や黄色や斑模様は暑苦しい。私はあくまで「白」だ。白が男にも女にも一番良い。

浪速は「学び舎」であり12歳から17、18歳までの生徒が居る場所である。そういうところに「ジーンズ」をはいて来て貰っては困る。襟のないTシャツも困る。靴については「蒸す」だろうから履き替えてスリッパは一応可としているがだらしなくなってはいけない。生徒は全員靴履きである。

自治体の中には「半ズボン」もOKを出しているところも有ると今朝のテレビで報道していたが「トンでもない話」である。生徒には長ズボンで教員が半ズボンはないだろう。

昨日事務室の職員にちょっときつく指導した。ちょっと目に付くスタイルだったからである。この人は前から時々そうであった。細い綿パンで股上の浅いパンツは基準が難しいが、ここは神聖であるべき職場である。神聖とは自分にとって大切と言う意味だ。

ここで働き、生活の糧を得ている場所である。スーパー玉出やホームセンターのコーナンに買い物に行くスタイルとは峻別して欲しい。生徒や大学関係者、保護者、業者さん始め多くの方が出入りする最初の受付場所が事務室である。

偏見ではないが本校においては男性よりも女性の方が「だらしない服装」をする比率が高いというのが私の感想だ。それも20歳台よりは年長者や小さい子どもさんがおられる方見かける。忙しいのだろうが困ったものだと思っている。

それに見ていると仕事がきっちりした人は大体服装もしっかりしている。思い込みではない。服装にだらしない人間は勤務もルーズであると私は思っている。「一事が万事」とはこういうことを言う。


冷房温度を28度C設定と言われているが我々の経験ではこれでは高い。狭い教室に40人の育ち盛りの若者が発散する熱量を計算すればとても28度ではやってはいけないと思う。下手をすれば「熱中症」になりかねない。

従って本校では26度設定とする代わりにその分、他の分野で「節電」を図ることにした。昨日の理事会・評議員会で高校教頭が取り組みについて説明した。不要時には照明を切るとかは当たり前だし個人パソコンも管理をしっかりとする。

しかし目玉は9月に導入を検討している「浪速スクールサマータイム」だ。これは1限目の授業を8時始まりとし45分の5こま授業で12時45分には終える画期的な案だ。生徒は早く帰宅させ教職員も早く帰れば良い。

かなりエアコンの省エネにはなる。細かい問題はあるが今から詰めて行けば良い。試験的に1週間程度するのも一案だ。午後が自由になると喜ぶ生徒も居るのではないか。受験生も喜ぶかも知れない。場合によっては学年で区分しても良い。

勿論不足する授業数は夏休みの補完で対応可能である。ドンドン新しいことをやってみたら良い。駄目だったら止めれば良いだけの話である。それをやる前から問題点ばかり言う人間は時にいるが笑ってしまう。私はこういうタイプを忌み嫌う。改革など出来ない輩である。


昨日から多聞学習合宿に行っている中学2年生の特進コース2クラスの激励に行ってきた。「頑張ってたなー」。嬉しくなった。多聞に行くと私は機嫌が良くなる。それは生徒が学習に真剣に取り組んでいるのが良く分かるからである。

学校でも分かるではないかと言われそうだが多聞と学校の教室とでは教師も生徒も雰囲気が大きく異なる。表現方法は難しいが学校の教室の授業は「三度三度の家庭の食事の味」であるが多聞の特別講義は「レストランの味」とでも言っておこうか。

中学のウィークデイ合宿は大きな効果がある。生徒の顔を見ていたら良く分かる。来週は関大コースの1年、2年合同の合宿だ。これは私が考え出したことではないがこれは素晴らしいアイデアである。1年生の大きな刺激になるだろう。

英語のI先生と数学のM先生、とにかくこの二人は「熱い」し「リズム」が良い。このリズムを私は重要視している。これが一番だ。リズムのある授業は生徒も真剣に集中している。それは「真正面に生徒に向かっている迫力」があるからだろう。

生徒の評判も良いのは生徒がこれらの「先生に何かを感じている」からである。無味乾燥で迫力も抑揚もリズムも全く感じられない授業から生徒は何を感じるのであろうか。


午後3時突然秘書さんが私の誕生日だといって突然ケーキを持ってきてくれました。「ダイエット」しているのだが「今日くらいは良いでしょう」と差し出された。私は自分の誕生日など勿論誰にも言いませんが彼女は知っていたのです。そうです、今日は私の55回目の誕生日なのです。年は少しさばを読んでいますが。

23.5.30(月)卒業生教員

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卒業生を教師として迎えることは果たして「良いことか」か、はたまた「うーん、良く考えなさいよ」となるのか、「ビミョー」である。私としては「OBだろうと何だろうと良いものは良い」のであって「卒業生だからどうだ」などは考えてはいない。

しかし正直言って多くの意見があるのも事実だ。本校で言えば今日までの4年間で「良い思いも、辛い経験」もOB教員から受けてきた。思い出すのも嫌な思い出もある。腹が立って「石を投げたい」くらいな奴もいる。

どうも卒業生教員には二つのタイプがいると考える。一つ目は「本当に立派な教師」である。決して彼らは「自分が卒業生だとは自らは言わない」タイプである。お世話になって育てて貰った学校に勤務できるだけで「幸せ」であると感じている。

自分の出来る範囲で「陰日なたなく」仕事をする。そして職場には圧倒的に浪速高校卒でないが、偏差値も自分の出た大学よりも高い教員が多いと言うことも彼らは知っている。それだけに人一倍「謙虚」である。それに見ていると「一芸に秀でている」。

私はこういうタイプであれば文句なしに採用する積りだ。ところがトンでもない「鼻つまみ者」が時に発生する。一言で言えば「自分の学校と勘違い」している輩である。私は良く言うのだが単に3年間ここで学んだだけの話だと。

ところがこういうタイプは「私はここの卒業生だ」とすぐに言う。そしてその気持ちが嵩じてきて「精神的な公私混同」をする教員である。こういう連中はあらゆる面で「学校を利用」しようとする。

口では「母校のため」というが実際はそうではなくて母校を利用しようとするのである。金に汚く、何とかせしめようとしたりする。又目の前の生徒は「自分の後輩」になるものだから身内感覚で学びの途中にある対象として見えなくなったりする。

酷いのになったら「生徒を自分のものと錯覚」したりする馬鹿も出たりする。大体管理職に対して「変な目」をする。「私のほうがこの学校のことは良く知っていますよ」といわんばかりにだ。そういえば全く礼儀も知らない卒業生講師もいたな。

そう言う時には「お前、何か勘違いしていないか」と私は教える。「君は単に私に雇用されている従業員であってこの学校は君の学校でもなんでもない。その他大勢の一人だ」と。そういう場合でも大体言っていることが分からないから「キョトン」としている。

特にそういう教員上がりが同窓会の役員になったりするともうこれは「悲劇」である。完全に同窓会を私物化する。一度こういう事件があった。それでなくとも少ない同窓会の資金を使って「魚釣り大会」とか「伊勢神宮旅行」とかに多額の金を流用していたことがあった。

高校3年生が卒業すると同窓会入会金として一人当たり相当大きな金額で人数分が同窓会会計に振り込むのだがそれを平気で使っていた。会員を集める目的と言うが参加するのは何時も同じ顔ぶれでそれも60歳を超えた「ええおっさん集団」である。

これらの年代は金も持っており「自分の金で旅行に行け」と私は名誉会長の立場で同窓会総会で一発かました。これは多くの会員も疑問に思っていたらしくその場で取り止めになった。万事がこのように「私物化する」のである。

私は過去の出納簿と預金通帳を持ってくるように事務局に言ったら出てきた通帳は更新され残高のみ記載されたものだった。これでは過去どのように支出されたかさっぱり分からないではないか。要は卒業生の入会金で60歳を超えたおっさん連中が好きなようにしていただけの話だ。


今本校には数えてみたら4人の卒業生教員がいる。3人は私が着任した前からこの学校の専任教諭であった。内二人の結婚式にも出席した。4人ともまあまあで教師としてのレベルで言えば比較的高いところにあると思う。

概して厳しい私が評価するのだから間違いないし、この事は皆が認めているのではないか。まず「人間の人柄が良い」。まず全ての出発点はここではないか。とにかく「人間性」が最も大切なファクターだと年を取るに連れて思うようになってきたが、間違いはなかろう。「何といっても最後はお人柄」だ。

一人ひとりについて言及してみる。年長の46歳の教員、この教員は永い間某クラブのナンバー2として「下働き」をしてきた。いい加減な長さではない20年近くであったろう。スターみたいな監督の下でよく頑張ったと思う。ところがだ。驚くことに彼は次の監督には指名されなかった。

その辺の理由については容易に想像できる。プロでもあるまいし、あくまでクラブは教育の一環だ。「それはないだろう」と私は思った。結果としてその監督とそのクラブのOBを中心として彼は排除された。この流れに乗った「ユダ」みたいな同僚教員がその教科に居たりした。

私は徹底的にその辺の事情を調査したが、まあ理由は書くまい。そして外部からこれまた卒業生を持ってきて現役の教師を差し置いて監督に据えたのである。この間当時の校長は「傍観者」であった。この校長も卒業生であった。結果的に自分の部下たる現役の教員を差し置いて外部の人間を持ってきたのである。

クラブの監督人事に口を出すようなOB会は「分を超えている」と私は厳しく指弾した。「今後一切クラブの監督人事に口を出すな」と申し渡した。このようにOBは人事にまで口を出してくるものである。こうなったらもう学校はお仕舞いである。恐らく陰で私のこともあれこれ言っていたのだと想像に難くない。

私はこの教師を「浪速ふくろうスタジアム」の建設担当にして仕事ぶりを観察した。見事な仕事ぶりであった。スタジアムが完成した後、私は彼を監督にした。「脇の甘い」アホなところはあるが人柄が良い。「育ち」が良いんだと思う。

ただし5年だ。5年で結果が出ないときは「無能監督として首」だ。彼にはその旨伝えている。その時にはそれこそOB以外の人物を監督に据える積りである。彼も分かっているだろう。彼は私に感謝してる筈だ。監督になって「男が立った」と思っている筈である。未練たらしい男ではないからスパッと止めるだろう。私は今後とも全面的に支援してやる積りである。特待生度まで作ったのは彼の為だ。良い選手を探して来いと何時も言っている。
 
次の二人の卒業生教師については「人間的に賢い」。だからアホなグループとは交わらず自分の仕事を精一杯頑張るのが役目とそれこそ陰日なたなく頑張ってくれている。二人とも将来有望だがまだまだ勉強が不足している。人間としての修行が足りない。

年の食ったほうは昨年本当に某事件で痛い目にあった。いいようもない事件があったからである。勿論彼の責任ではなかったが、直接のクラブ担当者として結果的には本人の瑕疵もないわけではない。企業だったら全責任を負わされて「一貫の終わり」だったろうが私はこの教員を護った。良い勉強になったと思う。欠点はすぐ「顔に直ぐ出る」がこれは直さないといけない。

若い方は「パーフェクト」に見えるが少し気にかかっている。最近学校に来るのが遅いので厳しく指導した。この教員は日本でも大変有名で「その道の達人教師」であり、海外出張なども多いし対外試合で学校を留守にすることが多い。

それだけに学校に居る時は少しでも早く来て、自分が不在の時に他の教師から助けて貰っていることへのお返しでも考えるべきではないかと私は言ったのである。若造教員の癖して「重役出勤」だったのである。この教員の結婚式にも出席しており、夫人もよく存じ上げている。最近第二子が誕生した。自覚して頑張らねばならない。

最後の最も若い教員は昔は酷かった。私は苦労した。この教員の結婚式にも出席し夫人もよく存じ上げている。「組織人としての訓練」が出来ていなかったからだろうと今になって分かるのだが、着任した時には前の卒業生校長から見せられた「解雇リスト」に名前が載っていたのである。

卒業生校長が卒業生教員を首にしようとしたのだ。 しかし私は「理事長人事」の声を張り上げて救済した。理由は簡単、「並外れたコンピューター技術」を有していたからである。又彼を評価する教員も多くいたからである。この点が救いであった。この教員の欠点は一言で言えば「気配り、心配りがない」ことである。

徹底的に私は鍛えに鍛えた。最近少し改善されてきたと思うがまだまだだ。仕事が出来るし何よりIT技術に関してはダントツのナンバーワンであるだけに私は将来を期待している。それだけに「何でも仕事を与え」、厳しく指導しているのである。

今は33歳で教師をさせているが20年後ひょっとしたら事務室に回し「事務長」をさせたいとの考えもあったがその考えも今は消え失せている。さぞかし立派な事務長になるのではないかと思ったが今の状態では駄目だ。

私は教員が学校の事務を司るのも一案だと考えているのである。その場合第一号は彼だと思ったからである。前の3人はスポーツマンだから礼儀などわきまえているがこちらは若干「おたく」に近いから人間関係の基本が出来ていなかったのである。
 

以上4人について厳しいことを書いたが私はこの4人が「可愛い」のである。若し「浪速丸が沈没」する時があれば、最後の最後まで船長キャプテンの私の傍で頑張ってくれるのはこの4人だと信じているからである。だって彼らの「母艦」だからである。

昨年10月に常勤講師から専任教諭に採用した若い卒業生教員は今年2月突然学校を去った。自主的に退職したのか、そうでないのか、一時期、生徒が「怪訝な面持ち」で私の部屋まで聞きに来たりして大変だったが今は完全に落ち着いた。しかし「こいつ」には参った。これ以上は書けない。こんな奴は初めてだった。

私は今から3年前に退職して行った一人の卒業生教師を今でも思い出す。立派な先生であった。「絶対に管理職に」と思っていた人材であったが体調を理由に舞台を去っていった。私は着任前、彼のことを知り、天王寺辺りに呼び出して飯を食いながら学校の様子を詳しく聞いた。

最初の管理職人事で彼の考え、判断がどれほど役に立ったか、今でも感謝に耐えない。前のS副校長先生の人事を固めた時に「名人事」と大変喜んでくれたのを思い出す。今居れば私の右腕としてどれだけ本校は助かったことだろうか。

想像するに、退職の理由は体調もあったりお家の事情もあったのだろうが、卒業生校長、並びに他の卒業生教員との軋轢で疲れ果てたのだと聞いた。良く耳に入ってきたものだった。驚くことに社会科の教師でありながら海外英語研修を担当させられていた。

これも信じられない話である。英語の教員は30人近くも居たが、このプログラムに誰も関与せず社会科の教員に海外英語研修を振るなど、経緯や理由はあったのだろうが当時の英語科には「骨のある教員」は居なかったのである。

しんどいことはイヤだ。英語科は「知りません」と訳の分からない理屈で仕事を放棄したのである。もしその時に私が居れば首謀者は解雇しただろう。英語科の教員の「面汚しだし恥」だ。英語教師など辞めてしまえと言いたい。

本日は23年度の「教育実習生」の着任日であった。今年は11名のOBOGが久しぶりに学校に戻ってきた。OGと書いたように初めて女性の実習生の登場である。平成17年に共学に移行して遂に女性卒業生が教員を目指して学校に戻ってきたのである。私は「時を感じ歴史の回転」を思わざるを得ない。


23.5.26(木)本校の歴史その10:「府内の旧制中学校」

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  • 浪速名物とまで言われたドイツ語科目でこれを狙って生徒が入ってきたと言う。
    写真は昭和2年の上宮中学との合同研修会

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ドイツ国領事をお迎えしての研修会

歴史その8、その9において旧制中学と旧制中等学校の違いとその歴史的経緯について様々な視点で記してきた。旧制浪速中学校は「旧制中学校」であることを確認した。旧制中学は中等学校と違いその教育の中身は「普通科の学校」で実業教育を主体とするものではなかった。

  

 

旧制中学はまず明治の一時期「尋常中学校」と称されその後明治19年中学校令でもって「中学校」となった。従って沿革に尋常中学校から始まっている学校は歴史のある学校である。大阪府立で言えば現在の府立北野高校に見ることが出来る。

北野は「大阪府第一尋常中学校」を始まりとしその後「北野中学校」そして戦後「北野高校」と変遷した。旧制中学校は含めて第二次世界大戦終結後の占領統治下における民主化政策によって定められた1948年の「学校教育法」の下で新制の高等学校へと転換されたのである。

現在の新制浪速高等学校の誕生である。この時に多くの公立学校は共学化された。「高等女学校との合併」である。しかし私学の大半は「男子校」のまま残った。本校も戦後60年間男子校として存在し共学になったのは実に平成17年のことであった。

話を旧制中学に戻そう。明治19年の中学校令は明確に「授業内容を規定」しており1931年までは旧制中学1年から3年までは国語、漢文、外国語(英語、ドイツ語、フランス語)で全時間の半数を占め、他に歴史、地理、数学、博物(動植鉱物)修身、図画、唱歌、体操があり4年から5年で物理、化学、法則、経済が加わり、図画唱歌の代わりに数学の比重が高かった。

特に本校では「ドイツ語教育」が有名であったと記録にある。「浪中名物」とまで言われたそうである。第一次世界大戦前で日独協定時代のこともあり、日独親善のためドイツ語教育で覇を競っていたのであろうか。

昭和2年頃から19年ごろまであったと言う。上宮中学にも有り浪中、上宮中の合同研修会が上宮中学であった時の写真が残っている。日本とドイツナチスの国旗を掲げドイツ総領事も出席している。

本校にも総領事が来られドイツの男女学制が大勢来て講堂で交歓会を催したとある。わずか13歳や14歳でドイツ語の勉強だから立派ではないか。今では大学の教養でしか習わないドイツ語を旧制中学の生徒は学んでいたのである。

しかし私が注目するのは上宮中学と合同研修会である。色々と資料を探ってみると当時の旧制中学はお互い学校をオープンにして勉強会を行っているところが素晴らしいと思う。その証明は浪速中学校第一期生の卒業記念帖にある「学年史」からも分かる。

毎年10月には「府下中学校聯合競技会」があり、必ず参加していた。その他実に多く外部の声に耳を傾ける機会を有している。「立派な人の話を聞け」という教育の根本がそこにあると私は考えるのである。

例えば第一期生は5年間の間に実に多くの講演者を学校に招聘してお話をしてもらっている。「嘉納治五郎」先生もあったし「西野田職工学校長豫田氏ノ南洋観察談ヲ聰ク」というのもあった。神社界からも多くの神職の方が講演というか授業をされているのである。

何と素晴らしい教育内容であろうかと私は思う。旧制中学はその後明治32年に中学校令の改正でもって「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以ッテ目的トス」として「エリートの登竜門」としての役割を真正面に出していたのである。

従って旧制中学校の後身となった高等学校は現在の地域の中核校、伝統校として難関・進学校であるとされている場合が多い。しかし入試改革や新たな学校群、総合選抜とかの新しい方法は旧制中学と言えどもそのレベルを簡単に低下せしめた。

一方実業学校の中には戦後進学実績を伸ばし旧制中学に負けない新たな校風を確立し社会の支持を得ている学校もある。府内でもそのような私立高校は多く見られるのである。しかし「出自」は重要なアイテムである。自分ではどうしようもないアイテムであり長い年月を経て今に存在する伝統校というのはそこに関係する人間をして「誇り」を持たせる。

私は今浪速高校浪速中学校の生徒、その保護者、教職員全てに本校の歴史を正しく認識し誇りを持って欲しいと思う。それが21世紀に生きていく力になろうと思う。先人の苦労を思い、働ける場所を作り残してくれた偉大なる諸先輩に感謝しなければならない。

ここで記録のために大阪府内の旧制中学校の歴史の変遷を記述しておきたい。「学制と言うのは国策そのもの」であり当初から「公立主体」であったが明治32年(1899年)「私立学校令」が制定され公立私立の区分がなされてきた。

しかし特に浪速中学校はこのブログに書いてきたように大阪府との密接な関係を有し支援を受けて誕生した学校である。現下の本校の実力を考えた時に本校の創立に関与された先達の人々は如何に思われるであろうか。

それだけに私は私立の旧制中学校が6校、公立の旧制中学校が20校あるがそれらの学校郡の中で本校のポジションを正しく捉え教職員は誇りを持って「学校改革を推進」し生徒の為に不断の努力を期待したいのである。

特に橋下知事の誕生以来大阪府は公立、私立授業料無償化の中で生き残りをかけた市場競争の真っ只中にある。このことが良いか悪いかの議論ではない。明治以来の伝統を有する学校だけにこの勝負に負けて衰退させる訳には行かないのである。現在の教職員が頑張って呉れれば絶対に負ける訳が無い。私は確信している。

  

 

私立の旧制中学校

・ 桃山中学校  桃山学院高等学校
・ 上宮中学校  上宮高等学校
・ 浪速中学校  浪速高等学校
・ 大阪偕行社中学校  第二山水中学校  香里高等学校  同志社香里高等学校
・ 高槻中学校  高槻高等学校
・ 日本大学大阪中学校  大阪高等学校

公立の旧制中学校

・ 大阪府第一尋常中学校  大阪府立堂島中学校  大阪府立北野中学校  大阪府立北野高等学校
・ 大阪府第二尋常中学校  大阪府立堺中学校  大阪府立三国丘高等学校
・ 大阪府第三尋常中学校  大阪府立八尾中学校  大阪府立八尾高等学校
・ 大阪府第四尋常中学校  大阪府立茨木中学校  大阪府立三島野高等学校  大阪府立茨木高等学校
・ 大阪府第五尋常中学校  大阪府立天王寺中学校  大阪府立天王寺高等学校
・ 大阪府第六尋常中学校  大阪府立岸和田中学校  大阪府立岸和田高等学校
・ 大阪府立第七中学     大阪府立市岡中学校  大阪府立市岡高等学校
・ 大阪府立第八中学     大阪府立富田林中学校  大阪府立富田林高等学校
・ 大阪府立第九中学     大阪府立四條畷中学校  大阪府立四条畷高等学校  大阪府立四條畷高等学校
・ 大阪府立第十中学     大阪府立今宮中学校  大阪府立今宮高等学校
・ 大阪府立第十一中学    大阪府立高津中学校  大阪府立高津高等学校
・ 大阪府立第十二中学    大阪府立生野中学校  大阪府立生野高等学校
・ 大阪府立第十三中学    大阪府立豊中中学校  大阪府立豊中高等学校
・ 大阪府立第十四中学    大阪府立鳳中学校   大阪府立鳳高等学校
・ 大阪府立第十五中学    大阪府立住吉中学校  大阪府立住吉高等学校
・ 大阪府立第十六中学    大阪府立池田中学校  大阪府立池田高等学校
・ 大阪府立第十七中学    大阪府立布施中学校  大阪府立布施高等学校
・ 大阪市立中学校      大阪市立高等学校
・ 大阪市立汎愛中学校  大阪市立汎愛高等学校  大阪市立東高等学校に一時合併  大阪市立汎愛高等学校として再独立



23.5.25(水)本校の歴史その9「旧制中学の中途退学と授業料

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  • 大正15年の生徒写真帖の表紙

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大正15年当時の教職員写真総勢31名

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  • 浪速中学2年生大石クラス



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  • 浪速中学4年生のクラス

本校の歴史その8「大正時代と旧制中学」について本校が出来た時代背景について記した。本校は大正ロマン溢れる時代の大正12年に産声をこの住吉山之内の地に上げた。開校に間に合わなくて沢の町の借り物の仮校舎で204名の入学生で入学式が執り行われた。

校長先生も間に合わなくて校長事務取扱の大島鎮治先生が大阪府から赴任された。入学者は「高野線にある私立中学」ということで、恥ずかしがり中には校章を隠してまで登校する生徒もいたと記録にあった。

周辺は焼場と墓場と我孫子南京と我孫子大根畑ばかりであり、入学生はまだ「依羅池」を埋め立てた土地に大和川から砂を運んでグランドを整備したという。写真が残っている。本館は旧梅田高等女学校の古い建物を移設し、殆どの校舎が「戴きもの」で学校は出発した。

開校して1年が経ち、ようやく「大里猪熊先生」と言う素晴らしい本流の校長を迎えて学校は着々と形を作って行った。1期生、2期生、3期生などが書き残した文章を読んでみると生徒は「個性溢れる素晴らしい先生ばかりであった」とある。

本校は間違いなく旧制中学であり旧制中等学校ではない。「本流の中学校」であった。歴史その8の末尾に記したが当時は旧制中学4年終了後は旧制高等学校、大学予科、大学専門部、高等師範学校、旧制専門学校、陸軍士官学校、海軍兵学校に進学することが可能であった。

1期生のうちその進路を取ったものは6名いた。浪速中学校を卒業したものは148名であったから入学総数からすれば50名不足している。これは「中途退学者の数」である。比率は24%と1/4にも上るが実はこの数値は当時としてはまだ低い方だと今回私は知ることになった。

明治から大正にかけて「立身出世主義」「成功熱」から中学進学熱は高まるばかりで国策ともあいまって中学校、中等学校は雨後の筍の如く誕生したが、それでも一般には「中学に行くのは高嶺の花」であった。

昔の映画などで田舎の勉強の出来る子どもが尋常小学校の先生から「この子は良く出来るから中学に行かせたらどうですか」などと家庭訪問などで母親に言ったりする場面が出てくるが当時中学に進学するなどは稀有なことだったのである。

農村からの進学者は「地主の子弟」で村で一人か二人がせいぜいで農村の次男三男は尋常小学校6年卒か高等小学校2年卒で町工場へ出稼ぎに出ていた時代である。したがって結局は金銭的に中学校を最後まで完遂できる比率は低かったと文部省の記録にはある。

大正の時代において当時の代表的インテリ層の代表である小学校の教員の月収が1929年の段階で46円だったのに東京市立中学の入学年次の学費は直接経費だけで146円19戦だったと記録にある。

したがって折角入学しても中途退学を余儀なくされた割合は入学者の1/3にも達した。この状況を結果的に文部省は放置したと考える他はない。それはそのように考えざるを得ない文章が残っているからである。

当時の文部省の考え方は「エリート養成の中学校であり、一定の方針もなくただ漫然と入学した者の退学は父兄にその責任がある。出鱈目な入学に目覚め・・・」と退学者の多きをむしろ歓迎しているのである。

これは「中学校が一種の淘汰機関」となっていることを示す。私はこの考えに大変な興味が沸いた。中等学校が整備されていったものの中学校を無事に卒業して学歴の階段を更に登っていくことは決して容易なことではなかったのである。

私の発想はこうだ。旧制中学が今の新制高等学校と考えるなら「高校進学率が97%程度」と高校全入時代の今、もっと高校卒業認定を厳しくするという考え方はどうであろうか。高等学校を「淘汰機関」と捉えるのである。そうすればもう少しましな大学生が出来るだろう。

従って旧制浪速中学校の第一期生が50名もの中途退学者があったとしても全くそれは不自然なことではないのである。ここに記録があるのだが明治33年(1911)全国の中学生78000人に対して退学者数は11000人、14,2%となっている。これは同年の卒業者7747人の1.4倍であり、中でも熊本県立中学校の明治38年(1905)から明治41年(1908)のデータによれば中学校を5年間で無事に卒業した生徒は入学者の22%から34%に過ぎないとあった。

ところで本校の40年史には大変貴重なデータが残っている。「大正15年当時の学校経費」である。それによれば歳入歳出額が56197円で、歳入の内訳は大阪国学院からの補助が10000円(17.8%)、授業料44000円(78.3%)、検定料600円(1.1%)大阪府補助金1500円(2.7%)、繰越金97円とあった。

授業料収入は生徒800人分で一人平均55円とあり、検定料は入学者数300名とおいて一人2円の計算であった。これらを観ても収入の80%程度が授業料であり、当時の授業料55円レベルが府立中学に対して高いのかどのような位置関係にあるのか別途調べてみたいと思う。

ちなみに歳出の部では教職員俸給が43260円であり歳出全体の77%となる。今日の学校経営での重要な判断数値となる「帰属収入に対する人件費比率」という見方でみると帰属収入は府の補助金を入れて55500円となり人件費比率は78%となる。

この数値をどのように見るかであるが平成21年度の全国平均が65.6%、大阪府の平均が71.5%、であるから当時の教職員の給与は少なくとも安くはなかったと言える。大正15年の教職員の数が正確ではないかもしれないが卒業写真から数えてみると31名であった。

これから人件費を割ってみると教職員一人当たり月額116円となり相当高い数値であったとも思える。大正15年当時の旧制浪速中学校の授業料が年間55円,教職員の月給が116円と言っても現在価値では一体幾らぐらいになるのであろうか。日本のお金の価値について日本銀行が記録している「企業物価指数」から推定してみると面白いかも知れない。

しかしそれにしても大阪府からの補助金の1500円は少ないと感じる。現在における補助金比率は30%程度でありこれを見ても今日の私立学校の恵まれた環境が分かると言うものである。昔の学校経営者のことを考えれば橋下改革で補助金が減少する、学校が潰れると騒ぎ嘆くだけでは解決にはなるまいと私は感じたのである。私立の旧制中学を創立した先人の苦労を忘れてはならないとつくづくと思う。


23.5.24(火)本校の歴史その8「大正時代と旧制中学

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  • A組の卒業生

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  • 昭和3年第一期生の卒業アルバム

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  • 第一回卒業式の行われた講堂

本校が創立されたのは大正12年である。この大正と言うのは一体どのような時代であったのだろうか。「大正時代について記せ」とは大学入試問題に出てきそうな格好のテーマである。明治と昭和に挟まれたわずか15年の時代であったが、その12年に浪速中学校は創立された。

明治45年が大正元年となるが細かく言えば明治45年(1912)7月30日明治天皇が崩御され、元号が大正と改められた。明治45年は大正元年である。そして大正15年即ち1926年12月25日に大正天皇が崩御されたので元号は昭和に変わった。この15年間の期間を大正時代と言う。

大正時代といえば「大正デモクラシー」を解答に書かないと点は取れない。大正年間には二度も護憲運動が起き、明治以来の藩閥支配体制が揺らぎ「政党勢力」が進出した時代である。尾崎行雄や犬養毅らが指導層として活躍し大正デモクラシーと称されるようになった。

大正7年には「米寄こせ」の米騒動が起き、平民宰相原敬が登場した時代である。とにかく大正3年の第一次世界大戦に日英同盟の義理のために参戦したが結果的に戦勝国の一員になってしまった。これは大正を語る場合のキーワードである。誰もが「大国」を意識したのではないか。

大正時代とはスタートから「良い時代」だったと言える。しかし大正時代を語る場合は大正12年9月1日の「関東大震災」も書かねば解答は減点となろう。本校はこの関東大震災の発生した年に創立された。

我々は今東日本大震災と福島原発で当に「国難」とも言うべき状況下にあるが今から90年前にも酷似した状況下にあったのである。この未曾有の大災害を逆手にとって今日の大東京の基盤を築いたのもこの時代であった。日本は再度立ち上がらねばならないがこのことは別のブログで。

 

 

さて芸術文化でも大正時代は芥川龍之介、有島武郎や白樺派の人道主義(ヒューマニズム)が台頭した。大正14年にはラジオ放送が始まり、「大正の三大洋食と言われたカレーライス、とんかつ、コロッケ」が出たのもこの時代であった。

言ってみれば「一種独特の雰囲気を醸し出した時代が大正時代」であった。良く人は「明治時代と比較して大正時代を言及」する。私の父は大正8年の生まれで母は大正12年浪速中学校が出来た年の誕生であった。今でも覚えているが明治生まれの祖父とは全く父は異なっていたのを覚えている。どのように違っていたかはこのブログのテーマではないので別途の機会に。

以上のような時代背景の中で浪速中学校、今正しく表現すれば「旧制浪速中学校」は誕生したのである。私はこの機会と思って「旧制中学校」のことを相当勉強した。しかしそれは案外大変な作業であった。それは幕末明治維新以来の日本の教育制度と歴史を頭に入れなければならないからである。

教育は当に「国家百年の体系」というが、今日の我国の教育制度と教育の成果を考えた時に私は明治新政府の果たした役割の大きさを思わざるを得ない。当に今日の日本の繁栄に繋がる教育制度の改革こそ「坂の上の雲」そのものであったと考えるのである。

まず「旧制中学校と旧制中等学校との違い」を理解しなければならない。旧制中学校とは戦後「学校教育法」が施工される前の日本で男子に対して中等教育(普通教育)を行っていた学校の一つである。通常、誇りを持って「旧制中学」と称されることが多い。明治時代には「尋常中学校」と呼称した時期もある。本校は誕生以来「浪速中学校」であり、旧制中学である。

これに対して旧制中等教育学校とは旧制中学校のみならず、高等女学校、実業学校(農業学校、工業学校、商業学校)をも包含する概念である。約して旧制中等学校と称されることもある。即ち旧制中学と旧制中等学校は根本的に異なるのである。

旧制中学は明治19年の「中学校令」に基づき各都道府県に少なくとも一校以上の規定で設立され前述したように「第二次世界大戦後の学制改革」まで続いた。入学資格は「尋常小学校」を卒業していることであり、修行年限は5年間であった。

中学校令は明確に授業内容を規定しており1931年までは中学1年から3年までは国語、漢文、外国語(英語、ドイツ語、フランス語)で全時間の半数を占め、他に歴史、地理、数学、博物(動植鉱物)修身、図画、唱歌、体操があり4年から5年で物理、化学、法則、経済が加わり、図画唱歌の代わりに数学の比重が高かった。

何と素晴らしい教育内容であろうかと私は思う。旧制中学はその後明治32年に中学校令の改正でもって「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以ッテ目的トス」として「エリートの登竜門」としての役割を真正面に出したのである。

 

 

その背景としては男子は農業・工業などの産業従事や兵役といった事態に対しての即戦力なる者が多く求められて必ずしも「旧制中学へ進学」と言ったエリートコースを制限せざるを得なかったのである。これは極めて興味ある施策であった。

確かに明治時代の旧制中学進学者は華族、士族、地主、そして新しく誕生したブルジョア階層に限られていた。ところが良い時代である大正時代になると中学進学熱が一般市民の間にも広がってきたのである。

特に前述した第一次世界大戦の戦勝国になった後、都市住民の子弟の中学校、高等女学校、実業学校への「進学熱」は急速に高まり「学校不足」の状態になり旧制中学、旧制中等学校はドンドンと誕生したのである。

文部省発行の「学制100年史」によれば明治19年(1886)中学校令の発布された年には全国で中学校が56校、生徒数が1万人しか存在しなかったが明治33年(1900)には194校7万8千人になり、明治43年(1910)には302校、11万人と明治の後半25年で学校数は6倍、生徒数は10倍に急増したのである。

この背景には教育機関の整備拡充や学歴の価値が次第に社会に浸透していたことを示す。言ってみれば士族や官吏だけでなく富裕な商人や農林漁業従事者の子弟まで「成功熱」や「立身出世主義」が拡大していたことを示す。

この流れは大正時代になっても更に拡大を続け企業も官公庁も組織の中堅を担う人材としての「中学校卒」を求めた。高まる高等教育機関への進学熱に対して政府も遂に大正2年に教育調査会、大正6年に臨時教育調査会などを設け遂に「大正8年に中学校の量的拡大策」を打ち出すなどした。このような時代の大正12年に旧制浪速中学校は誕生したのである。

大正12年入学した204名の浪速中学校の生徒は元号をまたがり、昭和3年5年間の修了を終えて一回目の卒業式を迎えた。しかしその数は148名であった。その他第4学年終了後「上級学校ニ進学セシモノ6名」とあった。6名の進学先は高知高等学校、龍谷大学、中央大学、関西大学、大谷大学、浪速高等学校(大阪大学付属)であったと記録にある。

23.5.22(日)本校の歴史その7:「理事長体制」

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  • 昭和38年当時の理事体制
    前列中央が寶來理事長

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寶來正信理事長

  • 大阪府との密接な関係はすでにブログ「本校の歴史その5大阪府との関係」において私は詳述した。相当大きな関与と支援があって本校は順調に歴史を刻み始めた。しかしどうも設置者たる大阪国学院の存在感が薄いようにこのブログを読まれた方は感じる筈である。確かにそのように感じられても不思議ではない。

  • しかし実際は影に隠れて大阪国学院の神職の方々は「血の滲む様な努力」をされていたのである。ただ学校と言うのは今でもそうだがこの時代も「校務を運営する校長以下教職員が主役の組織」であって、設立の母体組織は表立って出てこないのである。

  • 又「神社界の気風」みたいなものを理解しなければならないだろう。特に「神職の気風」については私がこの学校に着任して以来感じているのだが、神社の宮司様は「目立とうとしない」「争いは好まない」「一歩後ろに控える」、しかし一方では「義理人情には人一倍敏感で果たす」ような気風が強い。

  • 神社神道の世界は日本の精神、歴史的バックボーンであり、あえて「神のみこと持ち」として目立つことは避けてきたと思えてならないのである。それが浪速中学校の運営にも少なからず影響したと考えるのは私だけであろうか。

  • 基本的に浪速中学校は大阪府神社界の有している学校であるが、校務運営は完全に校長以下に「丸投げ」して来たと言っては幾分憚りがあるが必ずしも間違ってはいない。そこが「オーナー系私学」と完全に違っている点であり校長の力量で土台が揺るぎかねない危険性はある。

  • 大正12年の創立以来、昭和20年頃まで実に二十数年、歴代の大阪国学院院長は大阪府の「社寺行政主管の内務、総務、学務各部長」が兼任してきた経緯があった。副院長は社寺主管課長が就任した。加えて「総裁」という職位まで設けて大阪府知事がその任に当たってきたことは既に書いた。

  • 即ちトップと実質的な学校運営は社寺主管課長が担ってきたのである。教育課程も教材選択も、教員配置も確かに神社界の神職の人々に任せていたら一向に学校の設立は進まなかっただろう。学校の建設には「技術」が要るのである。

  • しかしそれも遂に敗戦によって大きく変わった。年表では昭和20年とあるから間違いなく終戦後神社制度の変革に伴って新たな枠組みが作られたのである。即ち組織変更を行い、院長、副院長制度を廃して「理事長制度」となった。

  • 余談ではあるが「理事報酬は支給しない」として大阪国学院浪速中学校は創立以来スタートした。これは有名な話である。従って今日まで本校の理事者の報酬はない。世の中にこのような私立学校はあるだろうか。

     

     

  • 当に神職らしい物事の考え方であると私は感服した。しかし一方これでは責任ある理事職として業務の責任はどなるとの思いもあって私は就任と同時にこの制度を改めようとしたが結果的に受け入れられず現在に至っている。強いご辞退である。

  • ただ私自身は神社界とは無縁の者であり、外部招聘の理事長であるから無報酬ではない。無報酬なら来る訳がない。当然の事であり、「適切な報酬に見合う仕事を遂行し必ず結果を出す」ということが民間人の私の責務と考え今日まで来ている。

  • ただ理事・評議員の各位には報酬はないが年に5回程度はある理事会・評議員会の出席においては「費用弁償」として「日当」を出すことだけは認めて頂いた。そしてご退任の時にも些少で恥ずかしいのだが「記念品」を贈呈することとした。それも私の代からでありそれまでは一切そのようなものはなかったのである。

  • とにかく大阪府からの直接的運営から離れて本校は昭和20年敗戦と同時に、言ってみれば「大阪府から独立」したとも言える。国学院評議員会において理事を選出しその互選によって理事長が決定されたのである。

  • 初代理事長は「寶來正宣」先生と言って後のブログで詳述する名実ともに創立時代から戦前戦後を眺めて来られた「大理事長」であった。実に昭和21年から昭和46年現役でお亡くなりになるまで理事長職を25年間も務められた。尚この寶來理事長のお孫さんが私の前任の理事長であった寶來正彦氏である。

  • 設立当時の国学院役員は以下の通りであった。(敬称略)

      院長:平賀周(大阪府内務部長)、副院長:児玉政介(大阪府地方課長)
      理事:武田充忠、松尾幾太郎、浅香千速、渡辺醇、長谷川熊次郎、奥野勝二

  • 昭和38年当時、即ち「浪速高校40年史」には以下の国学院体制であった。
      理事長:寶來正信、理事:校長平石芳太郎、園 克己、別所貫一、
      それに下のお名前が分からないのだが山畑、薮野、露野、宮脇とあった。

  • 昭和48年当時、即ち「50年史」における理事体制は以下のようであった。
      理事長:園 克己、理事;校長浅田光男、高松忠清、長谷川義高、寺井種茂、
           加藤知衛、田島 瞳、菅尾竜雄

  • 昭和58年当時即ち「60年史」における理事体制
      理事長:足立信治、理事:寺井種茂、校長一ノ瀬博、加藤知衛、田島瞳、江端市松
           岡市正、津江孝夫、玉田義美、丸岡隆二

  • 平成5年当時即ち「70年史」における理事体制
      理事長:玉田義美、理事:岡一正、一ノ瀬博(校長)、加藤知衛、江端市松、友田譲
           若宮房又、若宮春典、寺井種伯

     

  • 平成15年当時即ち「80年史」における理事体制  
      理事長:寶來正彦、理事:寺井種伯、南坊城充興、大戸道彦、加藤知衛、森山一正
           平岡公仲、畦地道俊、津江明宏、岡市正規、村上晃美

  • 平成23年現在 恐らく90年史は私の手で
      理事長:木村智彦、理事:寺井種伯、南坊城充興、森山一正、岡市正規、藤江正謹、
           小西靖弘

  • 戦後の話が続いたので話を原点に戻そう。学校が出来たのが大正12年で卒業生を初めて出したのが昭和3年であった。経営的にも苦労があったのだろうと思うが昭和6年5月になって「浪速中学校後援会」が組織されている。後援会組織があると言うのは当時としては珍しいのではないか。その背景を探ってみた。

     

  • 初代会長は石切神社宮司の木積一雄氏、副会長が今宮戎神社宮司の津江正規氏、会計幹事が福島天満宮宮司の寶來正信氏(後の実質的初代理事長)と記録に残っているがこの組織は40年史の文章によれば「校運の発展とともに解消」したとある。

  • この後援会について前述した寶來正信理事長が40年史に「回想」として一文を寄せられている。「創立後の苦難時代」として当時の状況を次のように回想されている。少し長くなるが転記したい。

     本校設立者財団法人大阪国学院は当時の社会情勢を憂えて民族精神を基調とする国民教育の必要性を痛感し、一面甚だしい入学難時代であったのでその緩和と言う社会奉仕の一端にもと浪速中学校の設立を企画したのである。

      そこで資金は広く世の篤志家に仰ぐ方針で敷地は各所を物色の末、依羅村から寄付される依羅池(1町2反12歩)を埋め立て、差し当たりの工事費は財団の基金を一次流用して賄うこととし、設立認可を得るとともに仮校舎で発足、授業を開始するというように頓頓と運んだのであった。

      然しその後は予定の資金は計画通りに集まらない。工事は進めねばならぬ。結局資金面に行き詰って抜き差しならぬ破目に追い込まれた。背に腹は変えられず無理な金策が続けられ最後は神社の基本金までも借り入れたのであるが、その整理は永く理事者の頭痛の種となって残った。

      かくて昭和6年頃の本校は大きな負債を荷おうた上に在校生は少なく最も悲況の時代で一本の煙草、一杯の酒を節約して神職大会に建議案を出し後援会を造ったのも子の年であった。

  • 以上のようは経済的困窮から大阪府神社界は浪速中学校後援会が出来たものであり、我々今の浪速に生きるものとしてはこのような時代の中で如何に多くの人々が本校存続のために辛酸をなめて努力されてきたのか忘れてはならない。


23.5.21(土)新校舎への夢が膨らむ

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現在の北館窓から入る

日差しが優しい

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                                巨大な鉄骨

新校舎は「高層ビル」形式とする。虎の子の運動場をこれ以上狭くはしたくないからだ。理由のもう一つは今の校舎の有る場所に「近接して新校舎を建てる」ことになるからあちこちに分散する郡有校舎(?)は考えられないからである。

集中し「巨大な校舎を二棟」まず作ることから始まる。残念だが「中廊下方式」とせざるを得まい。理想的には「片側廊下方式」が「採光」や「風通し」から良いのは分かっているが「背に腹は変えられない」のである。採光や風通しは「設計によって工夫」が可能である。

それにしても今私の執務室がある「北館」はもう40年以上の建物だが天井が高くて窓が大きくて光が一杯に差し込んでくる。この光景を見ただけで何か「心も体も生徒は健康」になりそうな校舎であり、新校舎も何とか「光と風に富んだ校舎」としたい。

そうだ、キーワードは「光と風」だ。近い内に設計者との面談があろうがその時にこのブログを読んでいないような設計者は「失格」だ。施主の思いを大切にするような新進気鋭の感度の良い設計者を期待している。

本校はお金持ちの学校ではないから「安藤忠雄先生」みたいな立派な有名な建築家にはお願いできるほど余裕はない。だけどまだ世に出てはいないが才能に満ち溢れた若き建築家は要る筈である。私は担当に洗心亭に古事記の世界を描いて貰った画家先生みたいな人を探して来てと言っているのである。

新校舎建設チーム員が大阪市立西高校を見学に行ってくれ、その報告を聞いた。大いに示唆を得た。こころから西高校には感謝申し上げたい。ところでこのチーム長のY教諭は大変立派な教師なのだが時々「足らない面」があるのでその都度私は指導している。本校の将来の幹部候補の一人であるからだ。

候補はそれ以外にも一杯いるので単なる候補なのだが、私は特にそのような候補者には厳しい指導を加えている。今回も「視察報告」と出張報告書にあったが、この視察報告と言うのは頂けない。その昔私が企業時代にも同じようなことで上司から指導を受けたことがあってその分余計に敏感になっている。

「視察」とは上司とか大学教授と社会的にも高い地位にある人に「観て貰って考えて貰う」ことを言うのであって「高層校舎を見せて貰って勉強する側の人間」が使う言葉ではない。ここは「見学」でなければならない。「見学報告書」である。

このように教員と言うのは基本的に「書いたりするレポートの類は苦手で表現方法も下手」である。こういうと社会の人々は「エー、学校の先生が報告書や表現方法が苦手ですって」となろうが実態はそうである。

本校では厳しくレポート提出を義務つけているから、かならかなり教員も訓練されてきたが未だに学校によっては報告書やレポートの類など書く機会の少ない教員はおおいのではないか。

しかしこの市立西高校の教室レイアウトは大変参考になった。私の胸に「ストーン」と落ちるような感じがした。私はチーム員に指示した。「後2ないし3校高層校舎の学校を見せて頂いて勉強するように」と。

課題はエレベーターの数となろうがこの西高校では生徒には使わせていないと言うが本校では使わせたい。だからエレベーターの数と階段のレイアウトが勝負となってくる。エレベーターの数が3台とすれば内1台は大型のエレベーターで30人は乗れる人・物兼用エレベーターだ。後の2台は教職員と来客用それに生徒も可能とする。

採光は一般教室は必ず何処か一壁面は外部に面していることが絶対条件である。いろいろと考えていくと本当に嬉しくなってくる。夢が膨らんでくるのだ。早く立派な、人々が「あっと」驚くような校舎を作りたい。

ポイントは特別教室の配置だ。LL教室、家庭科調理実習、被服実習室、音楽ホール、美術,書道の実習室、それに理科実習室が入る。本当に必要なら社会科教室も要るだろう。それが「普通の学校」なのだから。

西高校も屋上に25メートル、6レーンのプールを設置していた。これも我々は入れなければならない。7階建て屋上の「天空プール」である。生徒は喜ぶのではないか。西高校は市内に有るから「外部から水着姿を見られる」と言って神経質になっていると聞いたが本校周辺には高層ビルマンションはないから問題はない。

予てから問題提起していた家庭科の「被服実習」について「指導計画」が出てきた。本日2名の家庭科教員と高校教頭、高校教務部長で最終的に決定した。そのために「ミシンを25台購入」することとした。

共学になって5年、ボツボツ家庭科教育など「形を完成」させなければ駄目だ。昔は「洋裁実習」などと言って「針の縫い方」など教えて貰い、私は今でも自分でボタンなど付けられるが今の男子生徒に至ってはさっぱりである。

又武道館の広間「洗心亭」において「お茶の実習」をしてくれると言う。私は茶道のスタイルで正座させ「お抹茶」でも飲ませたらどうかと言ったのだが当面は「おいしいお茶の入れ方を学ぶ」と「日本茶の種類を教える」という。まあそれで結構だろう。

私はどうも英国数社理の基本5科目も当然だがそれ以上に芸術や家庭科、保健体育などの授業を重要視している。この辺に感性のない人間では駄目と思っているからである。文武両道の文とはこう言う面での感性ではないか。ただ体育科には教員体制が揃っているが芸術のうち音楽と書道、家庭科にはまだ正職員の先生がいないのは私の責任である。

クラブの部室工事が佳境に入ってきた。思った以上に巨大な建築物である。想像を超えた鉄骨の枠組みである。一階の「カフェテリアと学びの広場」がポイントである。素晴しいものにしたい。出来あがったらいよいよ新校舎建設の準備作業に入る。益々ムードは盛り上がってくるだろう。

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