• 学校における体罰の禁止」の歴史は結構古い。明治12年の教育令にも記載されており現在は有名な「学校教育法第11条」には「校長および教員は教育上必要があると認めた時は監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に対して懲戒を加えることができる。ただし体罰を加えることは出来ない。」と明確に規定されている。

  • 体罰とは一般的に児童生徒の身体を殴打することや長時間にわたり肉体的な苦痛を与えるような行為とされており、昨今では「子どもの人権」という概念も前面に出てきて「理由の如何を問わず体罰は厳禁」とされ逆に「教師側の処分」につながっている。

  • 教育問題で新聞紙上を飾るのは今でも「教員の破廉恥行為と体罰」である。どこそこの学校の野球部で監督がびんたを張り、監督を首になったとか、保護者が損害賠償請求に走ったとか、学校管理職が教員の体罰を隠蔽しようとしたとか」枚挙に暇がない。

  • 私は日本の学校において『体罰が増えているか、増えつつある』という懸念が頭の中から消えない。それは間違いなく「今日的生徒の実像」が教師をそのようにさせているという見方も出来ないかという問題提起でもある。

  • 文献によれば70年代の後半から我が国では体罰が増え、「厳しい校則で生徒を統制しようとする学校の姿勢が教師の体罰を容認」したのが始まりとしている。80年代には教師の半数が「体罰を容認」し、数多くの教師が「言っても分からない生徒たち」を殴り、一方では「暴力教師」「やくざ教師」という言葉さえ出た時代であった。

  • この文化は「管理教育」と呼ばれ、その反動から「個性尊重とか生徒の個人の自由の尊厳」とかが出始め、80年代後半から90年代の中頃までが体罰のピークで一挙に「体罰はいけないこと、処分の対象」となってきて、学校においての体罰は減少してきたと思う。

  • ところがここに来て「問題行動を取る、ふてくされる、反抗的態度を取る、何回も繰り返す、他の生徒にいじめや暴力を振るう、為口を聞く、」ような生徒が目に付き始め、我慢が出来なくなった教員が「つい手を出す」場面が多くなったと感じるのは私だけであろうか。

  • 従って今でも「口で言っても分からない生徒に手を出すのは構わない」という「教員の深層心理」は奥深いところで生き続けて、維持されてきており、それが抑えきれなくなって「体罰が思わず出る」ということかと言えば、必ずしもそうではない面もある。結局人間によるのだろうか。

  • 先ほど宮崎県の「東国原知事は体罰条例があっても良い」という発言が物議をかもしたが教育に一家言を持つ人でも「体罰は必要」と言う人は結構いるのである。年配者に多いと感じる。

  • 保護者の中にも「先生、言うことを聞かない時にはガーンと一発ぶん殴ってください」という人は多くはいないが、居ないわけではない。しかしこれには注意が必要で「総論賛成、各論反対」である。

  • よその子は殴っても良いがうちの子は困る」という代物で自分のこととなると話は別で真に受けてやろうものなら「訴訟」に発展するケースもある。そうでなくとも今の時代「直ぐ訴えてやる!」というテレビではないが訴訟行為が簡単に行える時代なのである。スーパーに買い物に行くくらい簡単に訴訟にうって出る。

  • 体罰事件で必ず引き合いに出される事件が「砂浜生き埋め事件」である。1990年7月12日、恐喝事件を起こしたと警察から通報された中学生2名を生徒指導の教師7名で海岸に連れ出し、砂浜にクビだけ出して生徒を生き埋めにした事件だ。「恐喝しただろう」「やってません」「しただろう、やっている。」と20分間にわたって詰問し、10メートル離れたところで見守っていたが押し寄せる波に恐怖を感じ「やりましたと白状させた事件」だ。

  • 平成8年福岡地裁は「砂埋めの生徒の屈辱感など精神的苦痛は相当なものであった。・・・・教諭らは生徒指導で体罰が必要だと考えているふしもあり、深刻な反省を求める。」と手厳しい判決であった。

  • 上記の事件に遡ること1週間前の1990年7月6日、女子高生が走って校門に入ろうとしてレール式鉄製扉に頭を挟まれて死亡した事件である。これも社会を震撼させた悲惨な事件であった。最近でも駒大苫小牧高校での野球部長による鉄拳制裁事件、岡山山陽高校での野球部員全裸ランニング事件など数えられないくらい発生している。

  • いずれも「訴訟事件」に発展しており「教師側が勝訴」となるケースはない。体罰は犯罪である。前述したように学校教育法第11条において明確に禁止されており、「行政上、刑事上、民事上の個人責任」を負う可能性がある。

  • 公立の教員は地方公務員法で「職務義務違反での懲戒処分」刑事上は「傷害罪」「暴行罪」「逮捕及び監禁罪」が適用され、民事は「治療費や慰謝料などの損害賠償責任」を負うことになる。公務員の場合国家賠償法で国の責任を問われることもあるのである。

  • 分かりやすく言えば「体罰をして良いことは一つもない」と心得るべきである。体罰をした教師も受けた生徒も大きな傷を受ける。特に児童生徒への精神的苦痛や残る心の傷はその後の学校生活に大きな影響を与える。

  • 又地域や保護者、中学校などに「あの学校は体罰学校やで」などとのうわさが出たら「お終い」であるし、社会は「学校は隠蔽体質」として見ており、体罰を積極的に「隠蔽」するような行為は「自殺的行為」と考えなければならない。隠蔽だけは絶対にしてはならない。今や我々隠蔽で一挙に組織が消滅した例を幾度となく見てきた。

  • 未だに古い感覚の教師の中には「体罰で教師が処分でもされたら、生徒はかさにかかって言うことを聞かなくなる」とか言う主張をする向きもあるが、私はこれらの意見に全く同感の余地はない。体罰はしてはならないし、起きたことを隠すことではないのである。

  • 学校管理者がやるべきことは「事実を可及的速やかに調査し、当該教員の処分を行い、体罰を受けた生徒への謝罪である。」これが最も大切なことである。今日では「公益通報者保護法」に基づき告発告訴し易い環境が整備されたり、最近では「弁護士会」が子ども専門の相談窓口を設置していたりするので、「怪我でもさせれば勝ち目は無い」と心得なければならない。

  • 本校においては体罰は就業規則と内容により厳正に処分し、隠蔽をする気は全くない。勿論積極的に処分を受けた教員の名前を公表などはしない。しかし事実は事実として教職員には公開し指導するのは学校長の責務である。「このことが教職員を守ることだと認識」しなければならない。体罰の隠蔽はその学校の風土となり結局は教員が「辛く悲しい思い」をすることになるのである。体罰教師を守るような方向には動かない。