進化論はダーウィンより古い。

 進化論と言えば通常、ダーウィンの事をさすが、進化論そのものはダーウィン以前から存在する。 ラマルクが知られている。正確にはダーウィンは「自然淘汰説=最適者生存」の提唱者だった。

 自然法思想と漸進主義

 法や制度の進化という考え方はサヴィニーなんかの歴史法学に見られる。これはダーウィニズム以前のもので、いわゆるソーシャル ダーウィニズムとは異なるが、歴史を通じて優れた制度は残るとし、民族の持つ固有の慣習の持つ意義を正当化している。これは、普遍的な公理から出発する自然法思想と対立する。慣習から得らる効用は空気みたいなもので通常は意識されない。自然法思想に依拠したフランス革命の共和国原理の公理主義的発想と好対照をなす。トライ&エラーを繰り返しながら法や制度は生成変化してきたもので、設計するものではないという発想は歴史法学を継承したハイエクの基本哲学でもある。
  
 優生思想ありきのリベラル

 現代のリベラル派が進化論を科学の御旗のもとに客観、眞理を僭称するのはなぜだろうかと考えたことが有る。不思議な事に、「進化論的」な法思想は保守主義と親和し、むしろリベラル派の進化論には懐疑的、場合によっては宗教右派とともに否定することが多い。しかし実際はむしろダーウィニズムの問題であろう。ダーウィニズムは現代の優生思想の大元にあってこれを裏付けるものなのだ。現代の優生思想は生まれの良さを強調するというよりも、「生殖の自己決定権」と結びついているところに大きな問題がある。つまり人間中心主義の根幹に位置する問題である。当ブログでも優生思想はなんどかテーマにさせてもらいました。

 トルコの方針は欧米流の優生思想を教育から排除する狙いなのは明らか。

 一部リベラルが騒いでいるが、高校の生物から進化論というよりも、ダーウィンを排除したところでどうということはないだろう。」哲学で扱うなら良い」では不服のようだが、ダーウィニズムそのものは政治哲学と化した問題なのだし全く問題ない。当てつけがましいと思ったのか、それか何を勘違いしているのだろうか。それよりも客観的というのは眞理と言う名の制度であるから、科学の教科書から外したほうが良いのは自明だ。