◆秀吉が毛利氏に提示した当初の和睦条件

本能寺の変後、急遽毛利勢と和睦をまとめて畿内に取って返し、主君信長の仇を討った秀吉だが、この時点で毛利方との和睦条件が完全にまとまっていたわけではない。
中国大返しにあたっての停戦交渉の段階では、
・五カ国および備中高松城を秀吉に差し出すこと
・毛利氏が人質を差し出すこと
・秀吉と毛利氏の間で起請文を交わすこと
という3つの条件が提示されていたものの、具体的に内容を詰める段階には至っていなかった。
ちなみに「五カ国」については諸説あるが、その後の経緯から推察すると備中・備後・出雲・伯耆および美作ということらしい(「戦国の交渉人」渡邊大門著による)。

両者が和睦交渉の具体的な詰めの段階に入ったのは、本能寺の変翌年の天正十一年(1583年)以降と見られる。
この間、秀吉は本能寺の変の戦後処理や、政敵柴田勝家との最終対決など、天下人への道の足場固めに奔走していた。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が自害したのが天正十一年四月二十三日、安国寺恵瓊が和睦の使者として和泉国堺に滞在中の秀吉を訪ねたのが同年七月十四日のことだ。
つまり、秀吉が信長の後継者としての立場をゆるぎないものとした後に、毛利氏との本格的な交渉が再開されたと見てよいのではないかと思う。
ということは、この約1年の間なら、毛利方にはまだ和睦を反故にして秀吉の敵対勢力側に付くという選択肢もありえたわけだ。
しかし、毛利輝元らは中央の情勢を見極めつつ、表面上はあくまでも秀吉との友好関係を保って、和睦交渉をできるだけ有利に進めようと考えていた形跡がある。分かりやすく言えば、日和見姿勢を貫いたということだ。
毛利方が秀吉に抗う姿勢を見せなかった背景には、毛利方に秀吉と毛利家との実力の差を訴え、一貫して秀吉に抗うことの無謀さを説き続けた安国寺恵瓊の存在も大きい。恵瓊がそう主張し続けたのは、現に秀吉の群を抜いた戦術や政治力を見て、冷静に判断した結果なのかもしれないし、天正元年(1573年)初めて堺で秀吉に対面した後、毛利家中に「藤吉郎(秀吉)さりとてハの者なり」と書き送った時から、彼は秀吉に通じていた・・・という見方もできるかもしれない。
しかし、果たしてそれだけだろうか。毛利家中の大半を占めていたという、秀吉への内通者たちの功績も大きかったのではないだろうか。

◆最終的な和睦の内容とその後の毛利家の発展

さて、肝心の和睦の内容だが、最終的には、次のように決着した。

①人質問題
人質交渉に関しては、吉川元春の三男・経言(のちの吉川広家)と、毛利元就の九男で小早川隆景の養子になった元総(のちの小早川秀包)が、天正十一年に大阪に送られた。此の時、秀吉に盛大な歓待を受けている。なお、二人のうち、経言はその年のうちに返され、元総のほうはその後秀吉から偏諱を授かって秀包と名乗り、知行地を与えられるなど厚遇を受けた

②領地割譲問題
当初提示された五カ国のうち備後と出雲は除かれ、結果として備中のうち高梁川から東側・伯耆のうち三郡・美作が割譲された。この結果、毛利領は安芸、周防、長門、備中半国、備後、伯耆半国、出雲、隠岐、石見となる。

なお、天正十二年七月に、秀吉から毛利輝元・小早川隆景に対して中国を任せるという朱印状が発給されていることから、この時点までに和睦交渉は一応の決着を見たと捉えることができる。
一見した限りでは、高松城攻めの際にまとまった和睦条件と比較して大幅な譲歩が見られる。勿論、この条件が固まるまでには、安国寺恵瓊が日和見姿勢の小早川隆景や吉川元春を叱咤する場面あり、早々に和睦に応じなければ挙兵して攻め込むとの秀吉からの恫喝もあり、また城の明け渡しが難航するなどの紆余曲折もあって、決してすんなりと好条件を引き出せたわけではないようだ。ただ、それらの点を差し引いても、毛利氏が秀吉に、結果としてかなりの厚遇を受けたことは否定できない。
秀吉は中国大返しの際、毛利勢が敢えて追撃をしなかった(小早川隆景が反対したためという)ことに対して非常に恩義を感じていたと言われる。その恩に報いるための厚遇、或いは、この後に控えていた四国・九州討伐に毛利家の協力が欠かせなかったためとも捉えることができようが、それだけではなく、前回仮説を立てたように、秀吉と毛利氏が共に信長暗殺計画を知りながら黙認していたという共謀関係にあったと考えてもおかしくないように見える。

上に触れたように、毛利氏はこの後の秀吉の四国征伐・九州征伐にも積極的に協力し、四国征伐では伊予(最終的に毛利氏から小早川隆景に与えられる)、九州征伐では、小早川隆景が筑前・筑後・肥前の併せて37万石を秀吉に与えられ、小早川秀包も筑後三郡を与えられた。
つまり、一旦は中国地方での版図を減らしたものの、毛利家はその後の秀吉の西日本統一の過程で四国・九州進出を果たしたわけで、結果としては逆に勢力を拡大しているのだ。北条氏滅亡の後は、豊臣家・徳川家に次ぐ大大名となった。
しかも、四国・九州征伐以降も、秀吉の死後の関ヶ原合戦に至るまで、豊臣家に非常に協力的で、従順な姿勢を貫いてもいる。
これが元就以来の毛利家一流の処世術なのだろうか? それとも・・・
どうも、怪しい。ただ、秀吉と毛利家のその後の関係からのみでは、前回立てた仮説が正しいのかどうか、短絡的に結論は出せない気がする。

◆とても黒幕には見えない無邪気な義昭の行動

しかし、仮説の大前提となる義昭黒幕説をとるとすれば、どうしても引っかかるのが、当の義昭自身の秀吉に対する態度だ。
義昭が明智光秀に信長討伐を命じていたのだとすれば、当然その後の義昭上洛までのシナリオも描かれていたはずである。単に信長が死んだだけでは、義昭の目的が果たされたとは言い難い。
つまり、義昭の計画は光秀の死によって道半ばにして頓挫してしまっているわけで、この計画を頓挫させた張本人こそ、秀吉なのだ。
ところが、フロイスの『イエズス会日本年報』には、こんなことが書かれている。
公方様(義昭)は、彼を追放したる信長の死したるを見て、おのれの追放を想起し、おのれをして、天下の君とならしめんことを羽柴に請いたり。」
本能寺の変の黒幕であるならば秀吉に命を狙われる可能性もあるはずの義昭が、秀吉に対して何ら警戒心を抱かず、むしろ秀吉にも上洛支援を催促しているというのは解せない。
同書は「羽柴はなんらの返答をなさず。使者も耳を(削がれずに)もちて家に帰りたることを少なからざる慈悲と認めたり。」と続けているが、要はフロイスから見て、義昭が当然持つべきと思われる警戒感さえ、彼は持ち合わせていなかったということだ。義昭の秀吉に対する態度は、周囲が驚くほど無邪気で、信長殺害を指示した後ろめたさなど、微塵も感じられない。
その上、秀吉に急速に接近し、義昭の上洛に手を貸さなかった毛利家に対しても、義昭は「もしや秀吉と共謀して自分を排除しようとしているのでは・・・」といった疑念を抱くことなく、最終的に天正十六年に秀吉に請われて上洛するまで、毛利領内(備後の鞆)に留まっている。
義昭黒幕説の検証は大きなテーマであり、安易に肯定も否定もしがたいが、本能寺の変後の義昭の行動を見る限り、とても変を蔭で指示した人物の行動類型にははまりにくいように見える。
それとも、義昭という人が単に天 然なだけなのか・・・(その可能性も十分にあったりして)
今回はかなり中途半端に終わってしまったが、今後義昭の半生を追っていく中で、このテーマは引き続き考えてみたいと思う。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村