江戸ではすこぶる評判の悪い護持院隆光だが、京や大和の一部の寺社では逆に英雄的な扱いを受けているように見える。冬の日本上空と同じく、西高東低。その落差はとても同一人物とは思えないほど。
「忠臣蔵」の中ではとことん悪人の吉良上野介が、領地の三河では名君と評価されているのを知り意外に思ったものだが、隆光もそのケースに似ている。

隆光に対する評価のギャップの原因にはいくつかの要素が考えられるが、彼の評価が西で高い最大の理由は、彼が応仁の乱以降の長い戦乱で焼き尽くされた京・大和の寺社再建に手を貸したことだろう。再建のための資金をもたらし、失った堂宇を取り戻してくれた隆光が、感謝されないわけがない。
もっとも、彼の功績は綱吉や桂昌院から金を引き出すための仲介をした部分にあって、逆にそのことが江戸で非難を浴びる一因になったわけだが・・・

江戸では悪僧、京・大和ではヒーロー。
どちらも、彼の本当の顔だったのだろうか?
それとも、寺社の再建のための仲介をしたのは、それによって彼自身の懐にも仲介料が入ったからだろうか? あるいは、功成り財も成したことだし、後は郷里にありったけの寺社を建てて自分の名を後世に残したい・・・という成功者ならではの発想から出た行動だったのか?

一人の人間にもいろんな側面があるし、単純に人を善人と悪人の二色に色分けすることはできないが、隆光という人物の断片を追っていると、かなりの野心家という人物像は浮かび上がってくるものの、だからといって怪僧と言われるほど邪気を立ち昇らせていた人物とも思えない。

・・・と、思った矢先。
「徳川実紀」で、こんな記事を見つけた。

元禄2年(1689年)7月の記事に、
「四日御側大久保佐渡守忠高職うばゝれ。邸宅収公せられ閉門せしめらる。去年知足院構造の惣督せしに。盛旨をそむき腐材を用いし處ありしによてなり。されど御祈願所のことなればとて。一等を減じ。かくは命ぜらるゝとなり。これによて小普請奉行堀内甚右衛門氏成。山角權兵衛正勝は三宅島に遠島せられ。其子等は西尾隠岐守忠成。中川佐渡守久恒に分ちあづけられ。大工棟梁溝口筑波も遠流に處せられ。其子は追放たる。」
とある。

知足院の建設に腐った材木が使われていたとして、普請を受け持った側集(そばしゅう。江戸幕府の場合、側用人とは別物の職らしい)の大久保忠高は屋敷を没収された上に閉門、小普請奉行は遠島、大工も流罪と、関係者は重い処罰を受けたらしい。

大久保忠高は、この時石高1万石の大名で、家綱や綱吉の時代に登用された人物だ。
ところがこの一件で彼は側衆を罷免される。
事件当時70歳。まあ年齢も年齢だし、そろそろ身を引いてもらいたいという幕府側の裏事情もあったのかもしれないが、だとしたら巻き添えをくった小普請奉行や大工にとってはあまりに災難だ。

それにしても、将軍が幕臣に直々に命じた建築で、さすがに腐った材木など意図的に使うことはないだろう。実際にそういうものが混じっていたとしたら、それは悪意ではなくミスの可能性が高そうだ。
しかも、発見するとすれば寺の関係者だろうから、普通なら穏便に話がつけられそうである。
しかしそうはせず事態を公けにして幕府の正式な処分を仰いだのは、隆光が敢えて事を荒立てたからだろう。
それだけ隆光と大久保忠高の関係が良くなかったということかもしれないし、隆光を軽く扱うと恐ろしい目に遭うことを世間に知らしめるためだったのかもしれない。
さらに、もし悪意ある言いがかりだったとしたら・・・それこそ「怪僧」隆光の本領炸裂。
勿論、周囲からの嫌がらせがあまりにひどいので、仕方なく実力行使に出た可能性もないわけではないが・・・

なんにせよ、この記録を読んで、なんとなく隆光のイメージがグレーがかってきてしまった。
資材が腐っていると言いたてたのは悪意の言いがかりで、柳沢吉保あたりと、
「隆光、おぬしもワルよのう」
「ふぉっふぉっふぉっ(←笑い声)、柳沢様こそ」
なんて笑い合う場面を想像するとちょっとワクワク・・・
隆光サマには悪いが、やっぱり彼はヒールであったほうが魅力的な気がする。

隆光に関しては、彼自身の日記「隆光僧正日記」(続群書類従完成会発行の「史料纂集古記録編」に収録されている)も出版されている。
この日記は、1692年(元禄5年)に始まり、隆光が大和へ戻った1709年(宝永6年)に終わっているようなので、残念ながら問題の建築トラブルも、隆光の晩年についても記されていないが、近いうちに読んでみたいと思っている。
隆光の知られざる一面を垣間見ることができるかもしれない。