地図上の点を線で結んで「〇〇ライン」とか「××トライアングル」と名付け、点を関連付けるのが、歴史ファンの間で流行っているらしい。
画像に線を引く方法方もやっと分かったことだし、さっそく私もマネをしてみた。
結んでみたのは、寛永寺・神田明神・山王日枝神社。この3か所は一直線上に並び、しかもその直線は、神田橋護持院の上を通過する。
予想はしていたが、期待以上に綺麗な直線になった。ちょっと感動。
江戸の街づくりには、風水の発想が取り入れられているという。
江戸開府の頃江戸の鬼門に配されたのが寛永寺、裏鬼門に配されたのが増上寺(目黒不動という説もある。実際増上寺は江戸城の南西とは言い難い)なのだそうだ。
また、神田明神・山王日枝神社がそれぞれ江戸城の鬼門・裏鬼門にあたることも知られている。
ということは、いわゆる裏鬼門の方角とはかなりズレている増上寺を除外した寛永寺・神田明神・山王日枝神社を結ぶ線が、当時から江戸城の鬼門・裏鬼門の方角とみなされていたと考えていいだろう。
だとすれば、その同じ直線上にある神田橋護持院はピンポイントで江戸城の鬼門の方角にあるということになる。
艮(うしとら)の方角から鬼が入り込み、その強力な邪気で寛永寺と神田明神が破られたとしても、江戸城に最も近い鬼門封じ・護持院が最後の砦として城を護る・・・というシナリオだろうか。
神田橋に移転した知足院跡地を譲り受けた根生院の縁起(といってもwikipediaに記載されているもので、実際に寺所有の縁起を読んだわけではない)によると、隆光の知足院は、もとは「本郷湯島切り通し」にあったらしい。
湯島から神田橋へ。
今の東京で考えると、湯島と神田ではどっちもどっちな感じだが、元禄当時は、大名屋敷が立ち並ぶ江戸城の隣接地に寺を構えるなんてことは夢のような光栄だったに違いない。
鬼門ビジネス、なかなかオイシイ。でも、ちょっとあざとすぎる気も。
亮賢は、そこまではしなかった。隆光はそこまでした・・・ここが2人の大きな違いだと思う。
ところで、この江戸城の鬼門-裏鬼門ラインを引いてみて初めて、線上に湯島聖堂も乗ってくることに気付いた。
湯島聖堂と言えば、1690年(元禄3年)にやはり綱吉が作った孔子廟だ。寺社などのパワースポットは鬼門の方角に作るもの、というのが当時の常識だったのかもしれないが、それにしてもこれだけ鬼門封じが乱立すると、鬼門線上は「鬼門封じ銀座」とでも呼びたくなる賑わい。
綱吉は、何を恐れていたのだろう? あるいは、単に建築好きだったのか・・・
ただ、湯島聖堂の建設に関しては、はっきりと別の意図がある気がする。それについても、また別の機会に考えてみたい。