・・・という話がある。
困ったものだ・・・・・・・・・じゃ、なくて。
勿論確証のないゴシップにすぎない。念のため。

元禄の江戸城周辺には、一時期の英国王室も真ッ青のエキサイティングなロイヤルファミリー・スキャンダルがごろごろしている。
その筆頭が、牧野成貞の献妻疑惑だ。
将軍綱吉の側用人を務めていた牧野成貞は、なんと出世のため妻を綱吉に献上していたらしい。しかも、妻だけでは足りず、次女までも・・・この話は、あまりに面白いので、ドラマや小説のエピソードにも使われている。が、さすがに一家団欒の場で流すには刺激が強すぎるせいか、NHK大河などでは観たことがない。

この話に負けず劣らず面白いのが、やはり側用人の柳沢吉保の側室染子の話。
染子は当初綱吉の側室で、或る時柳沢吉保に下げ渡されたものの、綱吉は吉保に染子を譲ったのちも、吉保公認で染子に会っていたらしいという拝領(共有?)妻疑惑。
こちらは、「共有」の部分はともかく「拝領」のエピソードだけは、大河ドラマでも取り上げられていた気がする。

そしてトドメが、護持院隆光と将軍生母の桂昌院がデキていたという話。これも、少なくとも私自身はドラマ等で観たことはない。もしやるとすれば・・・少々絵的にコワイものが出来上がってしまいそうな気がするのだが・・・

しかしさすがにこれだけ食いつきの良さそうな話が出揃うと、どれも眉ツバに思えてくる。
綱吉と桂昌院の場合、「生類憐みの令」のイメージが強いせいか、あ~いう不可解な法を大真面目に作ってしまう人たちならもう何でもアリでしょ・・・的な感覚麻痺状態に陥ってしまって、こんなゴシップさえもつい鵜呑みにしてしまいそうになるのだが、果たしてどの程度本当だったのか。

牧野成貞・柳沢吉保・護持院隆光と言えば、綱吉周辺の人物の中で最も綱吉のえこ贔屓(こと綱吉の話になると、「異例の抜擢」も「えこひいき」と表現したくなってしまう。何故だろう?)を受け、権力の中枢に躍り出た人々。

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上の地図は3人の屋敷の場所。江戸城大手門の側を上にした状態だが、3人がいかに24時間体制で将軍に寄り添っていたかが分かる。
真ん中の赤い三つ葉葵の左上部分の辺りに桂昌院の住まい・三の丸があるはずだ。綱吉のいる本丸は葵の中心のあたりだろうか?(当然のことだが地図には城内の建物の配置は描かれていない)
三の丸から、桂昌院は毎日護持院を眺めることができたに違いない。
いや、眺めていたかどうかは別として。
牧野成貞や柳沢吉保は、綱吉が舘林藩主だった頃からの家臣。また、「徳川実紀」によれば隆光も綱吉が将軍職に就く前から桂昌院のお気に入りだったらしいから、おそらく舘林藩主時代からの付き合いなのだろう。
こういう、綱吉が引きつれてきた新興勢力が城内を闊歩し、将軍は彼らばかりをかわいがるのだから、旧来要職を占めていた名家の面々にとっては、それはそれは面白くないことだったに違いない。
彼らに関するスキャンダルも、周囲の人々の嫉妬心が生み出した妄想である可能性も高そうだ。

冷静に考えれば、隆光と桂昌院がデキてたなんて話は、もし本当であればお互いかなりのツワモノだと思う。
1627年生まれの桂昌院に対し、隆光は1649年生まれだから、2人の年齢差は、22歳。
ちなみに綱吉は1646年生まれだから、桂昌院から見れば、隆光はわが息子よりも「年下の男のコ♪」・・・ということになる。
今の世の中には、そのくらいの年の差カップルもいないわけじゃないが・・・これが、元禄の女帝・桂昌院サマと、怪僧の名をほしいままにする隆光サマのお話だけに、この年の差が事の禍々しさに拍車をかけている感じだ。
特に隆光に対しては、「そこまでして・・・」と思ってしまう。
いやいや、本当だとしたらの話だが。

下が桂昌院と隆光。こんな感じ。

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少女時代はお玉という名だったらしい桂昌院は、家光の側室お万の方の侍女として大奥に入り、やがて自身も家光の側室となって、男子を産む。
この時、お玉は19歳。彼女の産んだ家光の四男・徳松が、のちの五代将軍綱吉だ。
ちなみに同じ家光の側室で、家光の長男・四代将軍家綱を産んだお楽の方は早くに死んだため、家光の子を授かった側室の中でも、将軍生母として江戸城に返り咲き、女帝さながらの力を得たのは、お玉こと桂昌院ただ一人。
彼女の生家は京の八百屋だったという話もあり、だとすれば一介の庶民から江戸城に君臨する女帝に昇りつめるという驚異の出世を遂げたことになる。「玉の輿」の語源は、彼女の名から来ているという話もあるくらいで、彼女の人生は日本のシンデレラ・ストーリーの代表格に数えられる。
そういう意味で、桂昌院という人の人生は目も眩むほどの輝かしい幸運に恵まれたものだったわけだが、幸運に助けられた人生を送ってきただけに、神仏にすがる気持ちも人一倍強かったのかもしれない。

そんなバックグラウンドを持つ桂昌院が、祈祷僧という、天竺だか唐土だかから来たムズカシイ技術を操って神仏と交信し、願いを叶えてくれる頼もしい男性によろめく(?)というのは、図式としては分かりやすい。
余談だが、祈祷僧って今で言えばIT系技術者みたいな職業なのかもしれない。謎の言語を駆使して目に見えない世界と交信し、願いを叶えてくれる人、というあたりが。
IT技術者は妙に女性にモテるという話があるが、江戸時代の祈祷僧もモテたのだろうか。

まあいずれにしろ、この2人の関係についてはどれだけ考えても真相は分からないと思うので、半信半疑のままにしておこうと思う。

ところで、上の地図でも見たとおり、三の丸から神田橋までは、とても近い。
桂昌院と隆光は、至近距離に住んでいたのだ。
桂昌院は生涯に三十数度も護国寺に詣でたと言うが、護持院にはあまり出かけていないようだ。それは、出かけるまでもなく、会いたい時にはいつでも隆光の方から訪ねて来ることができたからかもしれないし、この程度の距離ならお忍びでも出かけられたからかもしれない。

もっとも、神田橋に護持院(当初は知足院)が移転したのは、1688年(元禄元年)のこと。この時、桂昌院はすでに60を超えている。すっかり長寿が当たり前になった現代でさえ60過ぎたら老人のカテゴリーに入れられるのだから、当時なら正真正銘の御老体である。
(勿論周囲の者たちは恐ろしくてそんなこと口が裂けても言えなかったと思うが・・・)
さすがにこの頃になるまで、二十歳以上も年下の隆光と・・・なんて元気が残っていたかどうかはあやしいところだ。
桂昌院と云々・・・という話が出るなら、護国寺亮賢(1611-1687)のほうが年齢的にも、情況的にもあり得る気がする。にもかかわらず、どちらかと言えば年齢的に不自然な隆光のほうがやり玉に上がるというところを見ても、やはりこの話、「隆光憎し」に端を発したガセネタなのかもしれない。

ところで、綱吉は何故、神田橋門外という場所に、隆光の寺を与えたのだろうか。
勿論、隆光をいつでも呼び寄せられるところに置いておきたかったという気持ちもあったのだろうが、ちょっと面白いことが分かったので、次回の記事にしてみたいと思う。