江戸は元禄の頃、今は寺なんてどこにも見当たらない神田のオフィス街に、護持院という巨刹があったらしい・・・数年前、初めて護持院の存在を知り、何故かその寺に興味をそそられた。
護持院は建立されてからわずか30年足らずのうちに火災で全焼し、以後再建されなかったという。
この世にほんの30年しか存在しなかった護持院の大伽藍。その場所を記した地図を探してみたい・・・ぼんやりとそんなことを思いつつ、行動には至らなかったのだが、最近になって漸く、念願の地図(復刻版だが)を手に入れることができた。
上の画像は地図の一部。
この地図は元禄6年(1693年)製だから、元禄元年(1688年)に神田橋門外に建立され、享保2年(1717年)に焼けた護持院は、必ずこの地図の中に描きこまれているはずだ。
ところが・・・
「カンダバシ」と書かれた橋のたもとに描かれているのは、「知豆院」。
護持院は元禄8年(1695年)に改名するまで知足院という寺だったのだが、「知足院」を「知豆院」と書き間違えたものだろうか?
・・・ともあれ、ここが護持院であることは、ほぼ間違いない。
というのは、上の地図と一緒に購入した延享3年(1746年)製の地図には、同じ場所に「原」とだけ記載されていて、享保年間に護持院が焼けた後、跡地は空き地のまま残されたという事実に符合するからだ。
ちなみに、神田橋を挟んで堀の対岸には、綱吉の側用人として権勢をふるった柳沢出羽守吉保の屋敷があるのが分かる
地図発見記念に、護持院についてまとめておきたくなったので、以下、護持院のこと。
時は元禄、将軍綱吉の時代。
一人の怪僧が、将軍とその母・桂昌院(3代将軍家光の側室)を惑わし、富と名声をほしいままにしたという。
後の世に「日本のラスプーチン」とも言われた悪名高いその僧の名は、護持院隆光。くだんの護持院の主である。
日本史上に名だたる愚法「生類憐みの令」(1687年から徐々に制定・施行される)も、彼の発案によるものとの説がある。
また、息子・綱吉になんとか世継ぎをと願う桂昌院の焦りに乗じて、寺社への寄進を煽りに煽り(隆光自身は紹介料として寺社側からマージンを得ていたのかもしれない)、幕府の財政を傾けたのも隆光だとか。
・・・その辺りの真偽はともかく、綱吉と桂昌院の二人にとって、この僧がとびきりのお気に入りであったことは間違いないようだ。
(どうもこの母子には、気に入った人間を偏愛し、気に入らない人間はとことん排除する傾向があるように見える。。。)
通称「徳川実紀」と呼ばれる歴代将軍治世の記録(幕末になって編纂されたもの。将軍の行動記録が内容の大半を占めている)に隆光の名が初めて登場するのは、1683年(貞享3年)のこと。
隆光が知足院住職となった挨拶に江戸城を訪れたという記事なのだが、私の手元にある吉川弘文館版では、隆光という人物の注釈(編纂された時に付けられたものか?)として、この僧は綱吉が将軍になる前から桂昌院御用達だったこと、よく効くと評判の祈祷僧であることが記されている。
桂昌院と隆光の最初の出会いは果たしていつのことだったのか、詳しいことは分からない。ただ、一説には、桂昌院お気に入りのもう一人の僧・護国寺亮賢の紹介とも言われる。
この時以降、将軍が城内で催す能や猿楽などの宴の席にも、隆光は頻繁に顔を出すようになる。
この隆光という男、偏愛がエスカレートしやすい綱吉母子の心を、実にうまく手繰り寄せていったようだ。
綱吉は、隆光をもっと傍近くに置きたいと考えたのか、やがて江戸城神田橋門のすぐ前に、隆光の寺を建ててやる。この寺が、護持院である。
護持院建設予定地辺りの武家屋敷は、おかげで屋敷替えの憂き目に遭わされたらしい。
元禄8年(1695年)に知足院から護持院と寺の名を改められたのは、将軍祈願所だからということで、それにふさわしい格を付けてもらったということのようだ。
同時に隆光自身も僧格の頂点である大僧正に任ぜられ、新義真言宗の僧の「色衣免許」(僧が着ることを許される衣の色は、その位によって異なるため、色衣免許とは僧位の任免を指すのだろう)を出す権限を、綱吉から与えられている。
つまり、この瞬間隆光は、宗門の頂点に立ったというわけだ。
初めて「徳川実紀」にその名が現れてから12年。めまぐるしい出世である。
この時隆光は、まだ46歳だった。
江戸の一等地に豪奢な寺を与えられ、その上大僧正の地位まで得た隆光。
当時、彼に対する嫉妬ややっかみは相当なものだったに違いない。
しかも、もともとかなりダイナミックな浪費癖のある綱吉母子が、隆光が将軍の周辺に現れた前後からさらに湯水のように寺社に寄進を始めたり、現実離れもはなはだしい「生類憐みの令」を言い出したりし始めたのだから、それらが「全て隆光のせい」になってしまうのは、もはや事実かどうか以前に、必然的な流れだったのかもしれない。
綱吉母子の節度を知らない偏愛を無防備に受け入れてしまった時から、隆光は既にそういう運命のエスカレーターに乗ってしまっていた気がする。
かくして、宝永6年(1709年)に将軍綱吉が死んで家宣の時代になった途端に、隆光は失脚し、江戸を追われる。
もといた成田山知足院に戻ることさえ許されなかった隆光は、晩年を郷里の大和で過ごしたのだろうか。
1949年生まれの彼は綱吉(1646年生まれ)と同世代だが、綱吉よりもはるかに長く生き、1924年、吉宗の時代に死んでいる。
もし、綱吉がうんと年下だったなら、隆光の運命もまた違っていただろう。綱吉と同世代で、しかも綱吉が案外早く死んでしまったことこそ、隆光にとって最大の不幸だったのでは・・・と思う。
隆光が江戸を追われた後、護持院もまた衰亡の運命を辿った。
1717年(享保6年)、火災により全焼した護持院は、その後再建を許されず、音羽の護国寺に合併される。(同じ真言宗の護国寺は桂昌院が亮賢に与えた寺で、護持院とも縁が深かったためと思われる)
さらに、明治維新の際の廃仏毀釈では、護国寺は残り、護持院のみが廃寺となった。
ただ、神田橋の旧護持院跡は、防災上の用途で、長く空き地のまま残された。
その空き地は、「護持院原(ごじいんがはら)」と呼ばれていたらしい。
「江戸名所図絵」にも、江戸の中心部とは思えないほど広々とした護持院原の絵が載せられている。
隆光の夢の跡・護持院が消え失せた後、幕末までその跡地が放置され、「護持院原」という名前だけが残ったという事実も、感傷を誘う話だ。
まるで権力の移ろいのめまぐるしさを象徴するような、都会の真ん中の空白地帯・・・護持院の存在は、それ自体元禄バブルに咲いたあだ花そのものであって、次の時代には生き残れない運命だったのかもしれない。
現在でも神田橋交差点など通称「神田橋」と呼ばれる地域はあるが、外堀に架かる神田橋は、頭上を高速道路に覆われた殺風景なコンクリートの橋でしかない。(現在の神田橋は、元禄当時よりも少し東側にあるようだ)
護持院があったのは、現在の地名で言えば千代田区神田錦町付近だろうか。
今その辺りに護持院原の面影はなく、ビルで埋め尽くされた街並みがどこまでも続く、広漠としたオフィス街だ。
元禄をしのぶ史跡スポットは、残念ながらどこにも残されていない。

写真上:神田橋。首都高神田橋インターチェンジの入り口にある。
写真下:神田橋側から見た神田錦町界隈。(道路は本郷通り)

