◆3人の秀勝

秀吉には、秀勝という名の子が3人いたと言われる。3人の幼名と生没年は次のとおり。

石松丸 1570-1576 秀吉の実子(母親は南殿)
於次丸 1568-1586 信長の四男で1579年秀吉の養子になる
小吉   1569-1592 秀吉の姉の子(秀次の実弟)で秀吉の養子

ちなみに大河ドラマではEXILEのAKIRAが演じるというお江の2度目の夫は、3人目の秀勝だ。
最初の二人の秀勝は、殆どドラマなどに登場することはなく、どういう人物だったかを知る手掛かりになるようなエピソードも、全く知られていない。

もっとも、最初の秀勝とされる石松丸は、個人的には秀吉の実子ではなく、「秀勝」でもない気がしている
というのは、石松丸が秀吉の子であるという唯一の証拠とされているのが、竹生島奉加帳に秀吉の側室南殿と並んで名前があり、「お血の人」と書かれているということだが、これが秀吉の息子だという意味かどうかは分からないし、何よりも、秀吉自身も、また周囲の人々も、この石松丸の存在について何一つ語っていないからだ。

また、石松丸=「秀勝」と解釈される根拠は、長浜の妙法寺に「羽柴秀勝像」と伝わる法要用の少年の肖像画があった(現在は火災で焼失)ことだが、これも、「伝わっている」というだけで、箱書きがあったわけではない。
名前に関しては、長浜時代既に秀吉の養子になっていた2番目の秀勝(信長の四男)と混同された可能性も十分にある。
なにより、石松丸が死んだ時、彼はわずか6歳だった。特殊事情でもない限り、さすがに元服はしていないはずで、「秀勝」と名乗ったとは考えにくい。

◆秀勝2号が秀吉に大事にされたのは織田家中に秀吉の敵がいなくなるまで

2人目の秀勝が秀吉の養子に入ったのは、11歳の時。まだまだ子供とは言え、もう十分に自我に目覚める年頃だ。
多分、秀吉にとっても、本人の意識としても、秀勝は実質的にはずっと「信長の息子」であって、それは信長の死後も変わらなかったのではないかと思う。
秀勝の実の兄である信雄や信孝も、それぞれ北畠家・神戸家に養子に出ていたが、どちらも信長が降伏させた家に乗っ取り同然に入った形の養子で、親子関係を期待するようなものではない。
秀吉の場合は信長の寵臣でもあるし、北畠家や神戸家のケースとは違っているものの、秀勝の実の父かつ秀吉にとっては主君である信長が死んでしまえば、途端に成り立たなくなるような性質の、「親が子に仕える親子関係」だったのではないだろうか。

ただ、秀吉は、信長の死後も秀勝を大切にしている。・・・少なくとも、北ノ庄攻めで柴田勝家を死に追いやり、信雄が突如秀吉に対して反旗をひるがえした小牧長久手の戦いが収まるまでは。
しかし、山崎の合戦や、賤ケ岳の戦い、小牧長久手の戦いにも参戦した秀勝は、その後「病弱」という理由で公式の場には顔を出さなくなり、1586年、若干18歳にして世を去る
丁度秀吉が関白の座についた直後のことだ。また、それまで秀勝しか養子のなかった秀吉が、妻の甥である秀秋(のちの小早川秀秋)を養子に迎えた直後でもある。
なんというか・・・実にタイミングが良すぎるようにも思えるのだが・・・

大村由己の「天正記」には、秀勝は賤ケ岳の戦いまでしか登場せず、次に「秀勝」の名が登場するのは彼の死後、3人目の秀勝に入れ替わってからだ。この間に起きた秀勝の死については全く触れておらず、予備知識なく「天正記」を読むと、まるで秀勝は生き続けているかのように見える。
「天正記」は、現存するのは当初十二巻書かれたうちの八巻のみのため、秀勝の死に係る記述があったかどうかは断言できないが、後に「天正記」等を下敷きに書かれた「甫庵太閤記」にもその記述はない(二人が別の人物であることについての注釈はある)から、当初から記載はなかったと考えるのが自然だ。
しかし、現実には秀勝は死に、気が付けば秀吉の甥が「秀勝」と名乗り、丹波亀山城主だった秀勝2号の所領も、「丹波少将」という尊称も、そのまま引き継いでいた・・・という、背筋の寒くなるようなすり替えが行われていた。
同一人物に見えるのが実は別の人物・・・普通なら説明くらいあっても良さそうなものだが、「天正記」はそのことについて一言も触れようとしない。賤ケ岳の戦いの記述の中で、中川清秀の死を大いに嘆く秀吉の心情が描かれているが、秀勝の死に秀吉はどんな反応を示したのか?
何かある・・・筆者も直感的にそう感じたからこそ、秀吉の逆鱗に触れることを恐れて、秀勝の死には敢えて触れなかったのではないだろうか。

◆2人の養子に同じ名前を名乗らせた理由

そもそも、2人の養子に「秀勝」という同じ名前を名乗らせたのは、秀吉が「秀勝」という名前に固執していたから・・・という説があるが、本当にそうだろうか?
この説が説得力を持つには、最初の秀勝が秀吉の実子で、実子を失った悲しみからその名前にこだわり続けた・・・という話が事実であることが前提になる。しかし、先に見たように、長浜時代、秀吉に実子がいたことも極めて不確かな証拠しかなく、しかも「秀勝」と名乗ったとは考えにくいとなれば、この前提自体がかなり危ういものでしかない。
だとすれば、2人目・3人目の秀勝に何故同じ名前を名乗らせたのか・・・やはり、大村由己が直感的に嗅ぎ取ったであろうように、信長の実子だった秀勝が消えてしまったことに対するカムフラージュの意味があったのでは・・・と思えてくる。

秀勝の死後、秀吉は彼を信長の菩提寺として建立した大徳寺総見院に葬った。彼の死に際しても、秀吉はあくまでも信長の息子として扱ったわけだ。
秀勝に与えられた戒名は、「瑞林院殿賢岩才公大禅定門」。戒名には、その人の生前の人柄などを表す文字が使われるのが一般的だが、そういう意識で眺めると、「賢」「岩」という文字が含まれているのが気になる。
彼には頑ななところがあったのだろうか。秀吉の時代が訪れようとしている時に、織田信長の息子という意識を捨てららず、織田家をないがしろにする秀吉に対して批判の目を向けていたとしたら、それも彼が若くして命を落とすことになった一因だったのかもしれない。
いつの世でも、権力の周辺では人知れず抹殺される人間がいる。秀勝がその一人だったとしても、不思議はない。
秀吉が、明るく情に脆い性格の人物であったことは、彼が親しい者たちに送った多くの手紙にも表れているが、事自分の利権に関わる場面では、手段を選ばず邪魔者を抹殺してきた秀吉の恐ろしい横顔が垣間見えるような・・・秀勝の死が暗殺によるものかどうかはともかく、彼が秀吉の野望に翻弄され、その犠牲になった一人に数えられることは、間違いないだろう。

京都府亀山市の聖隣寺には、亀山城主時代、羽柴秀勝が実父・信長のために建てた供養塔が、現在も残っているらしい。
ひょっとすると、秀勝にとってこの供養塔建立は、秀吉に対するささやかなレジスタンスだったのかもしれない・・・そう思うと、胸が痛む。

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このたびの震災の被害に遭われた方々には、心よりお見舞い申し上げます。
被災地の方の御苦労には比ぶべくもありませんが、東京でもまだまだ余震がおさまらず、不安な日々が続いています。
こんな時に不謹慎なのかもしれませんが、身を縮めて暮らしていても不安が募るだけなので、できるだけ平常の生活を心がけたいと思い、ブログを再開しました。