◆安国寺恵瓊は秀吉の中国大返しの立役者?

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安国寺恵瓊の毀誉褒貶(1)へ

安国寺恵瓊が1573年の段階で、すでに羽柴秀吉や足利義昭と顔見知りだったことは、前回書いたとおりだ。
つまり、天正十年(1582年)六月の、あの秀吉の中国大返しの起点となった備中高松で、羽柴対毛利の和睦交渉にあたった秀吉と安国寺恵瓊は、旧知の関係だった(関係の深さはともかくとして)・・・ということになる。
しかも、前回紹介した書状の中で、恵瓊が秀吉を「さりとてはの者」=「なかなかの人物」と評価していることも、注目に値する。

ここで、本能寺の変当時の状況を振り返ってみよう。
本能寺の変の翌日六月三日の夜、秀吉は信長の死を知る。その後、六日未明には備中の陣を払って京へ向かっているのだから、最終交渉に入ってから備中高松城主清水宗治他の切腹を見届けるまで、たったの2日しかない。
一体どうやってこれほど早回しに事を押し進めることができたのか。中国大返しのカラクリは、秀吉最大の謎の一つだ。が、「なぜ秀吉は備中高松から京へこれほどのスピードで駆け戻ることができたのか」には注目されているものの、「なぜ絶妙のタイミングで毛利軍との和睦をまとめることができたのか」については、あくまでも幸運と秀吉の交渉術の勝利のように語られている。
しかし、上に書いたとおり恵瓊は秀吉と初対面ではなく、しかも秀吉を評価していたことを考慮すれば、実は恵瓊がこの和睦をスピーディに進めるために積極的に協力していた・・・ということも、可能性としては考えられる。

この和睦交渉のプロセスについては、「陰徳記」に詳しい。勿論「陰徳記」は同時代に書かれた史料ではないため、信頼度は低いことを前提に、参考にしてみたい。

六月四日早朝、秀吉から「恵瓊をすぐにこちらに寄こしてほしい」との使いが毛利の陣にあった。「陰徳記」ではここで初めて和睦の交渉が始まったように書いているが、実際には和睦の交渉は既に始まっていたらしい。(「安国寺恵瓊」(河合正治著)による)
が、交渉はすんなりとはまとまらなかった。原因は、秀吉が清水宗治の切腹を要求したのに対し、毛利方がこれに難色を示したことによる。恵瓊から毛利方の感触を聞いた秀吉は、どうにかして恵瓊に便宜を図らせようと、賂を送った上、交渉が成功したら信長から褒美が出る、などと甘言で恵瓊を抱き込んだ。この言葉に喜んだ恵瓊は、独断で清水宗治に会い、宗治の切腹をめぐって交渉が難航していることを伝えて、暗に切腹を促した・・・「陰徳記」によれば、こういう顛末になっている。

関ヶ原合戦の際に毛利家が責任を恵瓊に押しつけた例を見ても、この「恵瓊が独断で」という部分は信用するわけにはいかないかもしれない。毛利軍は保身のために清水宗治の首を差し出したが、それは毛利家の意思ではなく安国寺恵瓊が独断で宗治を説得したもの・・・と言えば、毛利家の対面は繕えるのだから。
ただ、実際に恵瓊が秀吉の意に沿って和睦を迅速にまとめるために重要な役割を果たしたことは、恐らく事実に近いと考えてよいのではないだろうか。
秀吉の中国大返しのカラクリの一つに恵瓊という協力者の存在があったと考えると、そのスピードが何故実現できたかが説明しやすいからだ。
さらに言えば、秀吉が陣を払った直後、毛利方にも続々と本能寺の変の知らせが届いたにもかかわらず、毛利方が敢えて秀吉を追撃しなかったことに関しても、恵瓊が追撃を主張する人々を説得して抑え込んだ可能性もある。

◆恵瓊は秀吉から信長の死を知らされていたのか?


しかし、恵瓊としても、秀吉に「とにかく事は急を要する」と言われただけで、簡単は動くわけにいかない。
勿論彼は、何故急ぐのか、その理由を尋ねたに違いない。
恵瓊の問いに、秀吉はどう答えただろうか。
ひょっとするとこの時、秀吉は信長の死を恵瓊に打ち明けたかもしれない。その上で、自分を速やかに京に戻らせ光秀を討たせることが、毛利家にとっても最善の策だと説得したの可能性も・・・通常考えられないが、そんな仰天の展開も、全くなかったとは言い切れない。
「陰徳記」によれば、和睦後に届いた本能寺の変を知らせる密書は、東福寺に縁のある僧や、雑賀衆の雑賀孫一からのものだったらしい。明智光秀からの同盟の連絡は含まれていなかった。
当然だ。いち早く毛利家に知らせ、義昭を奉じて早々に上洛されようものなら、光秀の手柄が毛利にさらわれかねない。
雑賀孫一も、信長の死亡当時は雑賀集の中で求心力を持つ存在ではなかった。
毛利軍が秀吉を追撃するとしても、すぐに手を結べる相手もなく、数では圧倒的に優っている羽柴軍に勝てたかどうか・・・決して勝算は高くなかったのではないだろうか。
だから、秀吉が恵瓊に全てを打ち明けたとしても、毛利家の利益を考えた上で恵瓊が毛利家に真実を伝えないことを選択した可能性も考えられないわけではないと思う。
恵瓊は秀吉に自分と毛利家の前途を賭けた・・・史実の真っ只中にそんな小説よりも奇なる物語があったとしたら、こんな面白い話はない。

◆僧形で甲冑も着る

さて、中国大返しに協力した報酬だったのかどうかは不明だが、秀吉の覇権確立と前後して、恵瓊は豊臣家に仕えることになる。
もっとも、最終的に6万石の知行を与えられたものの、彼は還俗はしなかった。あくまでも僧として、最後は東福寺の住持にまで昇りつめている。(1591年、秀吉の愛児・鶴松の葬儀が東福寺で行われたのも、恵瓊の縁によるものだろうか)
一方で、恵瓊は朝鮮の役でも自ら渡海して戦っているし、関ヶ原の前哨戦でも敵の首級を上げるなど、完全に武人としても活躍している。
当時、武田信玄など出家してなお現役の武将であり続ける例も多かったが、恵瓊のように幼少のうちから僧として育った人が、還俗せずに武将もこなすというケースは、かなり特殊な例と言えるのではないだろうか。

私は、恵瓊が売僧と呼ばれるようになったのは、基本的には前回書いたように毛利家や吉川家の思惑によるところが大きいと思っている。例えば、「陰徳記」に、朝鮮で吉川広家と口論になったことを根に持った恵瓊が、帰国後石田三成と共謀して広家が恩賞をもらえないよう画策した・・・などとも書かれているのも、そうしたことの一環で、実際には広家の被害妄想である可能性も高い。
しかし、高僧でありつつも秀吉に仕える武将でもあるという二重生活が、「売僧」というイメージを増幅させたこともまた事実ではないだろうか。外交僧という立場以上に武人の世界に深く踏み込み、名を落とした一面があることも、否定はできない。

◆二度目の天下分け目の合戦に人生を賭けた?

関ヶ原合戦では、恵瓊は毛利秀元・吉川広家らと共に南宮山に陣を置いた。毛利軍団の一翼として参戦した形だ。
この時、既に61歳前後。東福寺の住持という押しも押されぬ立場もある。家督を残すべき子孫もいない。
・・・そう考えると、秀吉の死を機に出家の道に徹するという選択肢もあったのでは・・・と思えてくる。
しかし、どういうわけか恵瓊は再び戦いに挑んだ。
やはり彼は、時代を動すことの魔力に、とりつかれていたのかもしれない。
本能寺の変の際には、秀吉に協力していち早く明智光秀を討たせることで豊臣の天下に導き、同時に秀吉と毛利家の関係改善にも貢献した、もう一度あの時のように世の中を動かしてみたい・・・そんな思いが、彼を突き動かしていたのかも・・・

しかし、恵瓊が仲介して西軍の中心勢力になったはずの毛利軍は、吉川広家の徳川方への内応が原因で動くことができず、その上毛利の一翼・小早川秀秋の裏切りも重なって、逆に西軍の大敗を決定づける裏切り者の大集団と化してしまった。
毛利家を西軍に引き入れたことが、完全に裏目に出たわけだ。

恵瓊は人生最後の賭けに敗れた。そして、その代償はあまりに大きかった。
西軍敗走の後、毛利家では最初から東軍勝利に貢献したという立場をとって、恵瓊を見捨てた。恵瓊は近江佐和山で大坂城へ戻る毛利秀元と別れた後、少人数の家臣とともに鞍馬や建仁寺などを転々とし、9月22日、ついに六条辺りに隠れていたところを捕まって家康の前に引き出された。恵瓊の捜索には、吉川広家も協力したという。

戦争犯罪に関しては、いつの時代でも裁く側と裁かれる側の間には勝者であるか敗者であるかの差しかなく、同じ敗者でも立場が上の者ほど罪を免れるもの・・・という事実を、再確認させられる話だ。
しかし、もし毛利・吉川・小早川軍が恵瓊の描いたシナリオ通りに動いていれば、恵瓊は勝者の側にいたかもしれない。恵瓊の提案には十分現実味があり、毛利家にとって千載一遇の躍進のチャンスになりえた。ただ、毛利家サイドで、誰も本気を出さなかっただけのことだ。
小早川隆景亡き後の毛利家にはもはや恵瓊と気脈の通じた人物もおらず、その毛利家を動かせると考えたところに、恵瓊の最大の誤算があったということだろうか。

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画像は「葵徳川三代」の安国寺恵瓊(財津一郎)。

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