いろいろと所用が立て込んでいたので間が空いてしまったが、ひさびさに永禄八年に戻って来た。今回はちょっと(私の)リハビリっぽい内容で。

五月に将軍が殺されたというのに、その後、誰も将軍殺しの逆賊を討つ気配がない。
それどころか、張本人の一人である三好長逸は堂々と禁裏に参内しているし、生き残った奉公衆や奉行衆なども、さっそく三好・松永にしっぽを振ってご機嫌伺いに伺候している(言継卿記)。恐らく、のちに興福寺から覚慶(義昭)を脱出させた一色藤長なども、一旦は三好・松永派を装って三好邸や松永邸を訪れたのだろう。
それにしても、なんとも異常な事態である。
いくら、それまでも政権を牛耳っていた三好-松永一派が相手であるにしろ、将軍殺しともなれば、誰かしら打倒三好-松永に立ち上る者がいそうなものだ。
少なくとも管領家あたりには弔い合戦を呼び掛ける責任がありそうなものなのに・・・
と、思っていたところ、こんな書状が残っていたことが分かった。

天正八年(1565年)六月二十四日に管領家・畠山金吾家の家老(安見宗房)が直江政綱(兼続の義父)ら上杉謙信の家老に書き送った書状だ。
「(前略)三好仕様無念之儀候、善悪被申合、御弔矢被仕度覚悟候
於様躰者、従大御門跡様可被入仰候間
此度其御屋形様於御上洛者、天下御再興可為御名誉候
南方之儀者、此方屋形并同名新次郎被相催候(後略)」
要は、謙信に「此方屋形」(畠山高政のことか)(注)と共に弔い合戦をしないかと打診したものである。
もっとも、一緒に立ち上がる・・・というよりは、文面のニュアンスでは「そちらでどうぞお願いします。挙兵していただければ協力はします」という、消極的な姿勢がビンビン伝わってくる。
書状の別の個所には、「そちらの御屋形様(謙信)が上杉家家督を継いだ御礼に上洛されれば、きっと三好を御成敗されるだろうと巷で噂になっておりますよ」という、おだて文句まで加えられていて、これには、さすがの謙信も苦笑したに違いない。

結果から見ても、この後畠山氏が弔い合戦の旗をかかげて挙兵したという史実はない。当時畠山氏は三好方との戦いで河内を失うなど弱体化しており、また畠山家内の内紛に悩まされていたこともあって、到底単独で挙兵するような力はなかったのだろう。
この書状の使者が、「大御門跡様」、すなわち義輝・義昭の母方の叔父である大覚寺義俊である点からも、畠山氏が主体的に行動を起こそうとしたというよりは、恐らく大覚寺義俊のほうから「管領家が立ちあがってもらわねば・・・」と話を持ちかけられ、義俊の顔を立てて一応ポーズをとっただけだったのではないだろうか。
なお、上の書状の中で「御弔矢(弔い合戦)」とワンセットで語られている「天下御再興」は、この謙信への働きかけに大覚寺門跡が一枚かんでいることを考慮すれば、当然覚慶を将軍に擁立することを意味していると考えて間違いなさそうだ。

この書状からも、五月十九日の将軍暗殺から七月二十八日の覚慶(義昭)の興福寺脱出までの2か月余りの間、大覚寺門跡がアテになりそうな家を駆け回って、弔い合戦に向かわせようとしていた様子と、それに対してどうも積極的に話に乗る者が現れなかった当時の生々しい状況が見えてくる。

さてさて、いい加減そろそろ、松永勢によって興福寺一乗院に幽閉されている覚慶を、脱出させてやらなければならない。

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(注)『歴代古案』では「此方屋形」を六角承禎としているが、畠山高政と解釈するのが有力説であるらしい。