◆物語にならなかった覚慶の大逃亡劇
兄に弟、そして母親まで、肉親を一度に殺されたことを知った一乗院覚慶(義昭)が、その瞬間にどんな言葉を発したのか。
本能寺で死を覚悟した信長の「是非に及ばず」という短い一言(実際に本人の言葉かどうかは別として)が多くの人の胸を打ったのと同様に、もしその一言が残っていれば、義昭に降りかかった理不尽な運命に対して、もっと多くの人の共感が得られたかもしれない。
しかし、残念ながらこの時の覚慶の言葉、のみならずその後義昭となってからも、彼自身の言葉は記録に残されていない。
代わりに義昭の人物像を伝えるものとして注目されるのが、彼が全国の有力武将に自分を供奉して上洛せよと促した書状の数々。おかげで、自分は動かずに書状一つで人を動かそうとする無力なクセに尊大な男というイメージを持たれた義昭殿。が、彼の兄・義輝将軍も、書状一つで大名同士の境界争いなどの仲裁をしていた(しかも従わなくても幕府に制裁力はなし)わけで、室町幕府の場合は将軍直属軍が超弱小なのだから仕方がない。他力本願は末期室町幕府のお家芸であって、義昭の個性なわけではないのだが・・・
さて、肉親を一度に失い、当然次は自分が命を狙われることが予想できたにも拘わらず、一乗院から逃げることままならず、そのまま幽閉の身となった覚慶。恐らく、覚慶が京の事件を知った時には、既に一乗院は松永勢に包囲されていたのではないだろうか。
『言継卿記』などの史料には将軍義輝暗殺の現場に松永久秀はいなかったかのように書かれており、現場にいたのは息子の久通のみと見るのが一般的な解釈であるらしい。もしそうだとすれば、当日、久秀は初めから覚慶の身柄を拘束するために、興福寺に向かっていたのかもしれない。
この時期久秀は信貴山城にいたという見方もあるようなのだが、この二年前の永禄六年には多聞山城で茶会を開いているし、多聞山城と信貴山城を行き来していたのではないかと思う。多聞山城にいたのなら、興福寺は目と鼻の先だ。
しかし、覚慶幽閉中の状況や、その後のかなりスリリングであったはずの脱出劇について記した記録は、物語も含めて何もない。
軍記物に分類される『足利季世記』さえも、覚慶の一乗院脱出の詳しい描写はなく、単に脱出した事実が記されているだけだ。頼朝に追われた義経が、山伏に扮して安宅の関を通る『勧進帳』の物語は非常に良くできているのに対して、主役が義昭となると、軍記物の食いつきも良くない。
この時代の興福寺関係の記録と言えば当然『多聞院日記』の名が挙がるのだが、『多聞院日記』にも、どういうわけか覚慶が興福寺にいた時代の大半にあたる天文十九年(1550年)八月から永禄八年(1565年)七月末までの記録が殆ど欠落しており、この件に関しては全く役に立たないのだ。(永禄八年七月から記録は再開されているものの、文面から恐らく覚慶が一乗院を脱出した後に日付を遡って再開されたものと思われる。)
唯一、七月二十八日夜のこととして、
「一乗院、御離寺了、御落所翌日ニモシレス、甲賀ノ和多カ城へ被入了(一乗院覚慶が寺を離れ、逃亡先は翌日になっても分からない。甲賀の和田惟政の城に入ったようだ)」
とあるのみ。
これに続けて、
「去五月十九日将軍御生害、三十歳」
と永禄の変について触れているが、これだけの大事件でありながら首謀者の名さえ記さなかったのは、当時英俊の生家の十市氏が松永方に与していたためだろうか。
◆脱出の蔭に調略あり?
ただ、脱出後に覚慶が上杉謙信に送った書状の副(そえ)状の中で、大覚寺義俊(覚慶の叔父)が脱出の事情を少しほのめかしている。
これによれば、覚慶脱出劇には朝倉義景の貢献が大きく、交渉(「直談」)や調略を以て、脱出の手配をしたのだという。
「直談」「調略」と言われると、何となく、久秀も合意の上での脱出劇だったようにも思えるのだが、実際のところどうだったのかは藪の中だ。
一方、『細川家記』には、脱出に同行したのは細川藤孝であると書かれているらしい。
細川藤孝はその後義昭擁立の功労者と見做されているし、この記述は信頼できるのかもしれないが、仮に事実だとしても、和田惟政配下の甲賀者の手引きがなければ、夜間の山中強行軍はなしえなかったのではないだろうか。何しろ、命を狙われている未来の将軍を逃がすという逃亡劇。少なくとも、道中の警護には土地勘のある者をかなりの人数配備する必要があったに違いない。
もっとも、和田惟政は将軍義輝の奉公衆だったようなので、和田惟政が協力者として登場する経緯には、細川藤孝との人間関係が絡んでいた可能性はある。
興福寺から、目指す甲賀の和田屋敷(現在の甲賀市甲賀町和田)までは、直線距離でも45キロ程度はある。曲がりくねった山道だから、実際の距離は1.5倍以上ありそうだ。
覚慶一行がどんなルートを取ったのかは知られていないが、覚慶逃走ルートを推定した論文(財団法人滋賀県文化財保護協会 紀要21号「織豊期の甲賀」)があり、この推定では柳生を通っている。
しかし、当時柳生は松永方に属していたし、もし柳生を通ったのだとすれば、それこそ大覚寺義俊の「調略」という言葉がリアリティーを増してくる、或いは柳生を通らずに、安全に甲賀へ抜けるルートがあった可能性もあるが・・・
5歳で出家の道に入った覚慶が馬に乗れたはずもないし、一行は徒歩で走りに走ったのだろうか。当時は三好政権の時代、それに逆らう逃避行は、まさに命からがらの旅だったに違いない。
辛くも甲賀まで無事に辿りつき、和田惟政の屋敷に入った覚慶は、ここに四カ月近くとどまった。覚慶が逗留した屋敷の跡地は現在も残されており、今も「公方屋敷」と呼ばれている。当時覚慶は「公方様」=将軍ではなかったにもかかわらず、一乗院脱出直後から既に「公方様」と呼ばれていたらしいことが、この事実からもうかがえる。
◆覚慶逃亡と同時期に重なった松永長頼の死
余談だが、覚慶の一乗院脱出直後の八月二日、松永久秀の片腕だった弟の長頼が、丹波の黒井城攻めの最中に死亡している。この件は覚慶の脱出が比較的たやすく実現したことと直接の関係はなさそうだが、少なくとも脱走後の覚慶に対する捜索の手を緩める結果にはなったかもしれない。
ここで立て続けに覚慶を逃し、丹波を失ったことは、三好政権にとって後々ボディーブローのように効いてくる大失態となった。それがいずれも松永家の失態だったことは、この後三好三人衆と松永久秀の関係が悪化していくことと無関係ではなさそうだ。
ところで、(4)で覚慶の話相手として登場させた千手丸という架空の童子を、覚慶脱出に際して同行させるべきかどうか、迷った。
覚慶の弟の周嵩の場合、永禄の変当日に路上で殺された際、まだ少年と呼べる年齢(史料によって年齢はまちまち)の小姓を同行させていたことが分かっている。(この小姓が刺客の平田和泉を殺して主人の仇を討ったらしい。) この例を見ても、緊急事態に際しても若い小姓が付き添っていたようなので、千手丸も覚慶と共に一乗院を脱出し、覚慶改め義秋(還俗後義昭が最初に名乗った名)の小姓になった・・・ということにしておこうと思う。
(どうも千手丸君はあまり評判がよくないので、どうしても義昭にしゃべらせたい時にしか登場しないかもしれないが・・・)
もっとも、千手丸が随行するからといって、二人の男色関係に話が発展する予定はない。むしろ、個人的には一乗院時代も覚慶には女性関係があったのではないかという疑いすら持っているのだが・・・その件に関しては次回で。
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