ちょっとだけ休むつもりが、気がつけばもう4月。
またぼちぼちブログも再開したいと思う。
ただ、足利義昭については、春からちょっと真面目に勉強する予定なので、本当にぼちぼちになってしまうかも・・・

秀吉と海賊大名 - 海から見た戦国終焉 (中公新書)
リハビリに、『秀吉と海賊大名』(藤田達生著 中公新書)を読んでみた。著者の藤田教授(三重大学教授)は足利義昭の研究者としても知られており、個人的に必読の書ということで。
◆「海賊」とは何か
本書の中で、「海賊」とは、海関の管理を行ったり、水軍として海戦に参加する海の武士団と定義付けられている。
「賊」という文字からイメージする非合法な存在だけに限らず、合法的な存在も含めた括り方。どちらかと言えば「海賊」というよりは「海族」と表記するほうがふさわしい気もする。
ただ、冷静に考えて見れば、「合法的な存在か非合法か」という括り方自体、中央集権化された社会の物差しであって、統一的なルール自体が存在しない(あるいは存在はしても守られない)戦乱の時代においては、合法か非合法かの色分けを試みること自体がナンセンスではある。
『秀吉と海賊』という本書のタイトルから真っ先に思い浮かぶのは、秀吉が天正16年(1588年)に出したいわゆる「海賊禁止令」だが、この「海賊禁止令」によって初めて国家レベルでの非合法な存在という意味での「海賊」が定義づけられたと考えるのが妥当なのかもしれない。
(藤田教授は「海賊禁止令」について、「海賊」そのものの存在を否定したものではなく賊船行為を禁止したものであるから、正しくは「賊船禁止令」であると書いているが、「海賊」=非合法の水軍と捉えれば、これはまさに「海賊禁止令」と呼ぶべきものではないだろうか)
◆伊予河野氏に着目・・・が、その実態は霧の中
藤田教授は、これまでの海賊史研究を、個別海賊論に終始し「木を見て森を見ず」であったとし、中国・四国沿海地域というスケールからの海賊権力論を展開するにあたり、伊予の河野氏に着目する。
河野氏は秀吉の四国征伐により滅亡したものの、鎌倉以来続く豪族であり、室町時代には伊予守護の地位にあった名家だ。
戦国期の瀬戸内海の雄と言えば村上氏の名が挙がることが多いが、村上氏を海賊大名と位置付けるのは過大評価であり、村上氏はあくまでも河野氏の臣下にすぎない、と藤田教授は言う。
河野氏にスポットを当てることで、戦国期瀬戸内海情勢の新たな側面が見えてくるのかと期待しながら読んだのだが・・・残念ながらその点に関して収穫はなかった。
たしかに、藤田教授の指摘する通り、瀬戸内海情勢を語るのに、海は海、陸は陸と切り放して考えるのではなく、瀬戸内地域の海陸を一体として見て行くことでより全体像が見えてくる(だから村上氏ではなくその主君で陸海の有力者だった河野氏にスポットをあてる)という視点は新しく、説得力がある。
ただ、いかんせん河野氏は織豊期に滅亡した一族であるだけに史料の絶対量が少なすぎるのか、本書ではその問題提起のみに終わっている感が否めない。どうも、何度読み直しても河野氏の顔が全く見えて来ないのだ。
◆末期の室町幕府の権威を健在と見るかどうかが、河野氏の位置づけを左右する?
河野氏臣下とされている村上氏が、実態として河野氏の影響下にあったのかどうかについても、本書の記述だけでは、すんなり納得していいのかどうか、悩ましい。
というのは、本書で村上氏が河野氏に臣従していた事実を示す例として挙げられているのは、足利義昭が本願寺戦争(天正四年(1576年)の木津川口の戦い)での村上氏の軍功を賞する感状を、村上氏に直接ではなくその主家である河野氏に対して送ったという一件だ。
藤田教授は、室町幕府は天正元年(1573年)の信長による義昭の京都追放後も幕府は存続しており、特に西国に置いて一定の影響力を保持していたと見る立場をとっているため、義昭の感状を「過去のものとなった室町幕府のヒエラルキーに基づいたものであり形骸化したもの」とは捉えていない。
しかし、その点については異論も多いと思うし、第一、足利将軍が陪臣に直接感状を送るといったことは、当時の慣行に照らしてありえたのだろうか。たとえ、河野氏と村上氏の主従関係が形骸化したものに過ぎなかったとしても、義昭が感状を送るとすれば、室町幕府の幕臣である河野氏宛てに送られたのではないだろうか。
従って、この例のみで河野-村上両氏の主従関係が健在であったことの証とするのは十分ではないように思える。
また、本書の別の個所で、秀吉が瀬戸内海制覇にあたって、河野氏ではなく、直接村上武吉・元吉に書状を送り調略を試みていた事実にも触れられている。この事実を単体で見る限り、秀吉は、瀬戸内海西部における河野氏の影響力を果たして評価に足るものと見ていたのかどうか、疑問に思える。
勿論、河野氏滅亡とともに史料が散逸しただけで、実は秀吉の調略の手は河野氏にものびていたかもしれない。ただ、その証拠はどこにも残っていないのである。
◆三好氏を語らずに秀吉の瀬戸内制覇を語れるのか
全く素人考えだが、個人的には戦国期の瀬戸内情勢を語る上でキーになるのは、やはり三好氏ではないかと思っている。
本書では、戦国期の瀬戸内海の勢力は東西に二分されており、東側は管領細川氏とその一門(後に宇喜多氏・三好氏・長宗我部氏)、西側は大内氏・河野氏の領域だったとしているが、西側地域の話題が中心で、東側の勢力についてはあまり紙面が割かれておらず、当然三好氏についても多くは触れられていない。
しかし、信長や秀吉が、毛利氏との対立関係の中で、瀬戸内海地域を押さえる上で要としていたのは、三好氏だったはずだ。
三好氏が瀬戸内海の海賊と結びついていたことは、三好長慶が弟の冬康を淡路島を拠点とする海賊・安宅氏に養子として送り込んでいたことでも推察できる。阿波の豪族・三好氏は長年泉州堺を本州の拠点としていたが、堺港に貿易船を出入りさせるには、当然瀬戸内海航路を押さえる必要がある(後日追記:そう言えば、堺への貿易船の出入りは基本的に土佐沖を通る外海航路だった・・・瀬戸内海航路は全く利用しなかったのだろうか?)。航路の確保に便宜を図ってくれない武士団が、堺の貿易商人たちに支持されたとは思えない。
信長や秀吉が自らの子息や甥を三好氏に養子として送り込もうとしたのは、彼らが阿波や和泉に確固たる地盤を有していたのみならず、海の上でも一定の影響力を有していたためではないだろうか。
目新しくもない切り口かもしれないが、戦国期の瀬戸内海に関しては、河野氏や村上水軍よりも、個人的にそこが一番知りたい。
◆敗者の側から歴史を眺めることの難しさ
しかし、河野氏にしろ、三好氏にしろ、いずれも戦国期に滅亡した一族であり、手掛かりとなる記録は非常に少ない。河野氏・三好氏に限らず、四国を含む瀬戸内地域そのものが、戦国史においては敗者の集合体であり、瀬戸内海地域からの視点で戦国史を眺めることは困難を極めるのが現実だ。
勝者が踏み固めた土壌から生み出された軍記物にしか手掛かりが求められないようなケースも多い。そうした中から、真実を歪めずに敗者の声を拾い上げることは、果たしてどこまで可能なのか。非常に根気が必要な作業でもあるし、報われる可能性も極めて低い。
だが、敗者の歴史を埋没させたままにしていては、歴史の真実には決して辿り着けないのもまた事実だ。
本書はその困難に挑んだ一冊であり、埋もれた伊予の戦国史に眼を向けさせてくれた点で、評価されるべき書ではないかと思う。

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秀吉と海賊大名 - 海から見た戦国終焉 (中公新書)
リハビリに、『秀吉と海賊大名』(藤田達生著 中公新書)を読んでみた。著者の藤田教授(三重大学教授)は足利義昭の研究者としても知られており、個人的に必読の書ということで。
◆「海賊」とは何か
本書の中で、「海賊」とは、海関の管理を行ったり、水軍として海戦に参加する海の武士団と定義付けられている。
「賊」という文字からイメージする非合法な存在だけに限らず、合法的な存在も含めた括り方。どちらかと言えば「海賊」というよりは「海族」と表記するほうがふさわしい気もする。
ただ、冷静に考えて見れば、「合法的な存在か非合法か」という括り方自体、中央集権化された社会の物差しであって、統一的なルール自体が存在しない(あるいは存在はしても守られない)戦乱の時代においては、合法か非合法かの色分けを試みること自体がナンセンスではある。
『秀吉と海賊』という本書のタイトルから真っ先に思い浮かぶのは、秀吉が天正16年(1588年)に出したいわゆる「海賊禁止令」だが、この「海賊禁止令」によって初めて国家レベルでの非合法な存在という意味での「海賊」が定義づけられたと考えるのが妥当なのかもしれない。
(藤田教授は「海賊禁止令」について、「海賊」そのものの存在を否定したものではなく賊船行為を禁止したものであるから、正しくは「賊船禁止令」であると書いているが、「海賊」=非合法の水軍と捉えれば、これはまさに「海賊禁止令」と呼ぶべきものではないだろうか)
◆伊予河野氏に着目・・・が、その実態は霧の中
藤田教授は、これまでの海賊史研究を、個別海賊論に終始し「木を見て森を見ず」であったとし、中国・四国沿海地域というスケールからの海賊権力論を展開するにあたり、伊予の河野氏に着目する。
河野氏は秀吉の四国征伐により滅亡したものの、鎌倉以来続く豪族であり、室町時代には伊予守護の地位にあった名家だ。
戦国期の瀬戸内海の雄と言えば村上氏の名が挙がることが多いが、村上氏を海賊大名と位置付けるのは過大評価であり、村上氏はあくまでも河野氏の臣下にすぎない、と藤田教授は言う。
河野氏にスポットを当てることで、戦国期瀬戸内海情勢の新たな側面が見えてくるのかと期待しながら読んだのだが・・・残念ながらその点に関して収穫はなかった。
たしかに、藤田教授の指摘する通り、瀬戸内海情勢を語るのに、海は海、陸は陸と切り放して考えるのではなく、瀬戸内地域の海陸を一体として見て行くことでより全体像が見えてくる(だから村上氏ではなくその主君で陸海の有力者だった河野氏にスポットをあてる)という視点は新しく、説得力がある。
ただ、いかんせん河野氏は織豊期に滅亡した一族であるだけに史料の絶対量が少なすぎるのか、本書ではその問題提起のみに終わっている感が否めない。どうも、何度読み直しても河野氏の顔が全く見えて来ないのだ。
◆末期の室町幕府の権威を健在と見るかどうかが、河野氏の位置づけを左右する?
河野氏臣下とされている村上氏が、実態として河野氏の影響下にあったのかどうかについても、本書の記述だけでは、すんなり納得していいのかどうか、悩ましい。
というのは、本書で村上氏が河野氏に臣従していた事実を示す例として挙げられているのは、足利義昭が本願寺戦争(天正四年(1576年)の木津川口の戦い)での村上氏の軍功を賞する感状を、村上氏に直接ではなくその主家である河野氏に対して送ったという一件だ。
藤田教授は、室町幕府は天正元年(1573年)の信長による義昭の京都追放後も幕府は存続しており、特に西国に置いて一定の影響力を保持していたと見る立場をとっているため、義昭の感状を「過去のものとなった室町幕府のヒエラルキーに基づいたものであり形骸化したもの」とは捉えていない。
しかし、その点については異論も多いと思うし、第一、足利将軍が陪臣に直接感状を送るといったことは、当時の慣行に照らしてありえたのだろうか。たとえ、河野氏と村上氏の主従関係が形骸化したものに過ぎなかったとしても、義昭が感状を送るとすれば、室町幕府の幕臣である河野氏宛てに送られたのではないだろうか。
従って、この例のみで河野-村上両氏の主従関係が健在であったことの証とするのは十分ではないように思える。
また、本書の別の個所で、秀吉が瀬戸内海制覇にあたって、河野氏ではなく、直接村上武吉・元吉に書状を送り調略を試みていた事実にも触れられている。この事実を単体で見る限り、秀吉は、瀬戸内海西部における河野氏の影響力を果たして評価に足るものと見ていたのかどうか、疑問に思える。
勿論、河野氏滅亡とともに史料が散逸しただけで、実は秀吉の調略の手は河野氏にものびていたかもしれない。ただ、その証拠はどこにも残っていないのである。
◆三好氏を語らずに秀吉の瀬戸内制覇を語れるのか
全く素人考えだが、個人的には戦国期の瀬戸内情勢を語る上でキーになるのは、やはり三好氏ではないかと思っている。
本書では、戦国期の瀬戸内海の勢力は東西に二分されており、東側は管領細川氏とその一門(後に宇喜多氏・三好氏・長宗我部氏)、西側は大内氏・河野氏の領域だったとしているが、西側地域の話題が中心で、東側の勢力についてはあまり紙面が割かれておらず、当然三好氏についても多くは触れられていない。
しかし、信長や秀吉が、毛利氏との対立関係の中で、瀬戸内海地域を押さえる上で要としていたのは、三好氏だったはずだ。
三好氏が瀬戸内海の海賊と結びついていたことは、三好長慶が弟の冬康を淡路島を拠点とする海賊・安宅氏に養子として送り込んでいたことでも推察できる。阿波の豪族・三好氏は長年泉州堺を本州の拠点としていたが、堺港に貿易船を出入りさせるには、当然瀬戸内海航路を押さえる必要がある(後日追記:そう言えば、堺への貿易船の出入りは基本的に土佐沖を通る外海航路だった・・・瀬戸内海航路は全く利用しなかったのだろうか?)。航路の確保に便宜を図ってくれない武士団が、堺の貿易商人たちに支持されたとは思えない。
信長や秀吉が自らの子息や甥を三好氏に養子として送り込もうとしたのは、彼らが阿波や和泉に確固たる地盤を有していたのみならず、海の上でも一定の影響力を有していたためではないだろうか。
目新しくもない切り口かもしれないが、戦国期の瀬戸内海に関しては、河野氏や村上水軍よりも、個人的にそこが一番知りたい。
◆敗者の側から歴史を眺めることの難しさ
しかし、河野氏にしろ、三好氏にしろ、いずれも戦国期に滅亡した一族であり、手掛かりとなる記録は非常に少ない。河野氏・三好氏に限らず、四国を含む瀬戸内地域そのものが、戦国史においては敗者の集合体であり、瀬戸内海地域からの視点で戦国史を眺めることは困難を極めるのが現実だ。
勝者が踏み固めた土壌から生み出された軍記物にしか手掛かりが求められないようなケースも多い。そうした中から、真実を歪めずに敗者の声を拾い上げることは、果たしてどこまで可能なのか。非常に根気が必要な作業でもあるし、報われる可能性も極めて低い。
だが、敗者の歴史を埋没させたままにしていては、歴史の真実には決して辿り着けないのもまた事実だ。
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