前回記事にした『秀吉と海賊大名』の中に、過去に書いた記事で触れた疑問に関する答えになるかもしれない話が書かれていたので、繰り返しにはなるが書いておきたい。
◆秀吉の中国大返しの謎
天正十年(1582年)六月二日、すでに実質的な天下人とみなされていた織田信長は、明智光秀の謀反により、あっけなく横死する。
その時備中高松で毛利勢と対峙していた羽柴秀吉は、いち早くこの情報をキャッチし、またたく間に毛利氏との和睦をとりまとめたかと思うと、猛スピードで畿内まで取って返して、信長の弔い合戦を果たした。本能寺の変勃発からこの山崎の合戦まで、わずか11日。
俗に言う「中国大返し」。秀吉の目覚ましい出世物語の中でも、一番のハイライトと言える快挙だ。
ここで信長弔い合戦の音頭を取ったことにより、秀吉は織田家中での発言力を強め、戦後処理を自らに有利に進めて、天下人への道を切り開いた。
それにしても、まるでおとぎ話のような鮮やかさ。通信技術や交通手段の発達した現代でさえ、これほど素早い対応がとれるかどうか。情報収集能力・判断力・決断力・統率力・実行力・・・あらゆる面で、秀吉という人は同時代人の中で群を抜いた異能の人物だったと認めざるをえない。
あまりの鮮やかさ故に、中国大返しに関しては、疑念の声が後を絶たず、本能寺の変秀吉黒幕説の根拠の一つにも挙げられるほどだ。
個人的には、中国大返しの一連のプロセスの中でも特に、信長の死を知った秀吉が、あっという間に毛利方との和睦をまとめあげた点にはひっかかる。
情報網の構築・短時間での長距離移動に関しては、秀吉は別の場面でも同様の異能ぶりを発揮しているので、恐らく常々ノウハウを蓄えていたのだろうが、交渉だけは相手のあることでもあり、思うに任せない局面もありうるはずだ。
ところが、秀吉は非常にスムーズに交渉を進め、あっという間に高松城主清水宗治を切腹させて、自らに不利な展開を見ることなく毛利方との戦闘状態を終結させている。
あまりに話がうまく進み過ぎていないだろうか。
ちなみに、本能寺の変から山崎の合戦までのタイムスケジュールは以下の通り。
6月1日深夜(あるいは2日未明) 本能寺の変により信長横死
6月3日夜 秀吉本能寺の変を知る
6月4日 高松城主清水宗治ら切腹
6月6日 秀吉陣を払い退却
6月7日 秀吉姫路城に帰城
6月8日 秀吉姫路城を出発
6月13日 摂津・山城国境の山崎で明智軍と決戦。敗走途中で明智光秀死す。
秀吉が変報を受けてから、清水宗治らの切腹まで、わずか1日足らず。
和睦締結までのリードタイムのあまりの短さから、以前『安国寺恵瓊の毀誉褒貶(2)』の中で、秀吉は毛利方の外交僧・安国寺恵瓊に信長の死を打ち明け、恵瓊に積極的に和睦に協力させたのではないか・・・と推測してみた。もっとも、この記事の内容は秀吉と恵瓊がかねてからの顔見知りだったことのみを根拠とする憶測に過ぎないのだが。
◆秀吉は安国寺恵瓊に信長の死を打ち明けていたと記す毛利家重臣の日記
ただ、この憶測、当たらずしも遠からずだったのかもしれない。
この件に関して、『秀吉と海賊大名』に興味深いことが書かれている。
毛利家家臣玉木吉保の日記『身自鏡』(みのかがみ)の中に、次のような記述があるという。
本能寺の変直後(恐らく6月3日深夜か4日未明のことと思われる)、秀吉は毛利方の外交僧・安国寺恵瓊を呼び出し、或る物を恵瓊の前に投げ出して見せた。
なんと、それは、毛利家重臣が名を連ねた(秀吉もしくは信長に同心する旨の)連判状だった。しかも、連判状に名のない毛利氏重臣は、わずか5人しかいない。つまり、当時毛利方の主立った武将の殆どが、すでに秀吉に内通していたというのだ。
その上で、秀吉は、信長の死を打ち明け、恵瓊に同心を仰いだという。
『秀吉と海賊大名』には、この日記の信頼性について、「すべて事実だと断定することは難しく、あくまでも参考史料とするべき」と書かれている。玉木吉保という人は医者でもあり、それなりの教養人として知られているが、この日記は吉保が江戸時代に入ってまとめたものでリアルタイムの記録ではないし、その点で信頼度は落ちるのかもしれない。
しかし、仮にこの日記に書かれていることが正しいとすれば、やはり、恵瓊は事が火急を要することを認識して動いていたことになる。
相手方にも協力者がいなければ、1日で城主・清水宗治の切腹も含めた和睦の完結まで進めるのは至難の業だ。双方持ち帰り検討などという時間的猶予は一切ない。事実関係から判断すれば、恵瓊や毛利方の主要な家臣たちは信長の死により秀吉にとって停戦が緊急の課題であることを認識した上で、秀吉に積極的に協力していたと考えるのが自然に思える。
この連判状が実在したとして、それが果たしていつ頃作成されたものなのかは定かではないが、本能寺の変勃発の直前・天正十年五月には、信長が六月に援軍を従えて秀吉に合流し、対毛利の最終決戦が行われることが決まっていたことを考慮すれば、その前後に秀吉に内通を申し出る者が続出した可能性は高い。
なお、『戦国の交渉人』(渡邊大門著 洋泉社)では、清水宗治切腹は宗治本人が申し出たものとして恵瓊の関与を否定している。
戦国の交渉人 (歴史新書y)
著者:渡邊 大門
販売元:洋泉社
(2011-08)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る
が、もしそうだとすると、本能寺の変との関連で見れば絶妙のタイミングに、清水宗治が自主的に切腹したということになり、あまりに話が出来過ぎている。最終的には清水宗治が申し出たのだとしても、その意思を固める段階で、恵瓊もしくは他の毛利家家臣から何らかの圧力があったのではないかと思う。
◆本能寺の変に義昭が関わっていたとすれば・・・まるで違った様相になる備中高松城水攻めの景
ちなみに、『秀吉と海賊大名』の著者・藤田教授は、本能寺の変は突発的な犯行ではなく計画的なものであり、当時備後の鞆にいた足利義昭が変に関わっていたという立場(足利義昭黒幕説)をとっている。
仮にそうだとして、上の『身自鏡』に書かれているように毛利家中の大半が秀吉に調略を受けていたのだとすれば・・・これは実に面白い話になってくる。
まず、義昭は毛利氏を頼って備後まで動座したわけだし、現に天正十年当時毛利家は信長に敵対していたわけだから、義昭-光秀の間で信長打ちの計画があったとすれば、恐らく毛利方にもこの計画は打ち明けられていたと見てよいのではないだろうか。
その場合、毛利家重臣は殆ど秀吉に内通しているのだから、計画を知っていたとすれば、秀吉にも情報が漏れていた可能性が高い。
「いつ、どこで」という具体的な計画までピンポイントで把握してはいなかったとしても、信長の側近である光秀が噛んでいれば、恐らくかなり高い確率でそれが成功するであろうことは、皆確信していたにちがいない。
しかし、そうなってくると、天正十年五月当時の、備中高松の景色は一変する。
水没した高松城を挟んで半月以上も対峙していた羽柴勢と毛利勢・・・表向き羽柴勢は信長・光秀の援軍待ちで、毛利勢はそれを迎え撃つ構えだったわけだが、両陣営が秘かに待っていたのは、信長誅殺成功の知らせだったということになりはしないだろうか。
すでに、毛利勢は秀吉に調略されていたのだから、信長の死後いともあっさりと停戦に至ったところを見ると、既に着地点まで決まっていて、後はXデー待ちの状況だった・・・ということも、ありえる。
義昭黒幕説をとった場合、(恐らく計画を聞いているはずの)毛利勢が信長の死を知っていて何故秀吉に退却を許したのか?という矛盾が生じることが問題になるが、それも、予め裏で秀吉に通じる者が大半だったとしたら、話は変わってくる。要は、毛利家は既に義昭-光秀ではなく、秀吉を選んだと考えれば、矛盾は解消するのではないだろうか。
さて、これまでに以下の前提を置いて、話を進めてきた。
1.本能寺の変は明智光秀の単独犯行ではなく、バックに義昭がいる(足利義昭黒幕説)
2.義昭の信長誅殺計画は、事前に毛利家にも伝えられている。
3.毛利家家臣の大半は、秀吉に内通している。
4.秀吉は、3の内通者を通じて信長誅殺計画の存在を知っている。
次回は、これらの前提(特に1)が成立するのかどうか、ポスト本能寺の毛利氏と秀吉の関係から検証してみたい。
(続く)
にほんブログ村
これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。